2024年2月ディボーション

2月1日(木)

世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内に

おられるキリスト、栄光の希望です。

コロサイ1:26、27

 

旧約聖書には、メシア預言と言われる箇所があります。ですから、キリストの初臨の時にユダヤ人たちはイエスがメシアであると見分けることが可能だったのです。それなのに、彼らはイエスを十字架に掛けて殺しました。福音は、キリストを信じる者たちへのユダヤ人の迫害から世界へ広がって行きました。それまで、ユダヤ人こどが救われる唯一の民だと思っていたのでしょうが、彼らが救われない汚れた民とさげすんでいた異邦人へ福音が広がり、イエスを信じる異邦人が救われていったのです。これは、偶然ではなく、神のご計画でした。そして、罪人が誰でも悔い改めて、イエス・キリストを信じるだけで救われる奇跡が起きたのです。その力は、全てイエス・キリストによるのです。秘められたご計画は、まさにイエス・キリストを信じて救われた者の内に主イエスがおられるという神秘の中にあります。新しい命が聖霊をもう一度吹き込むことで現れ、新しい人として生きることができるようになったのです。しかも、「キリストに結ばれて完全な者になるように」と聖書に書かれている通り、この内におられるキリストによって、完全な者となるように期待されているのです。これは、放っておけばなんとかなるというものではありません。信仰のことを真剣に考え、聖書を学び、どうすえれば良いのか、考え、祈り、求めることが欠かせません。難しく考えずに、聖書を繰り返し読んでみることです。そして、確信を持って信じるのです。それができるのも、キリストがあなたの内にいてくださるからです。ただの罪人が、キリストによって完全な者となって、天国へ入るのですから、「栄光の希望」なのです。

 

2月2日(金)

すべて、疲れた人、重荷を追っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

マタイ11:28

 

この聖句がどれだけ多くの人を助けてきたか計り知れません。ある教会の外にある掲示板には、この聖句が書いてあります。信仰の無い人たちが、通りがかりにこの聖句を見つけて、教会にふらっと入り、救われたという話は多くあります。誰にとっても大切な聖句なのです。現代人は特に多くの人間の間にいて、ストレスで疲れ果てています。都会ほど、重荷を負って、潰されそうになっている人が多いのです。テレビでも、疲れた人の回復にという製薬会社のCMが目につきます。良い人間関係が身近にある環境では、相談することのできる人が何人もいるので安全です。しかし、都会ほど、競争社会で自分の心の中を見せることができないのです。溜まったストレスの解消法は、食べ物、温泉、旅行と決まっています。でも、全部一時しのぎなのです。そんな時に、目に飛び込んでくる今日の聖句は、文字通りに人を助ける力があります。クリスチャンだって例外ではありません。あなたは、「疲れた人、重荷を負っている人」ではありませんか? そうであるなら、キリストのもとへと急いで行くことです。キリストがあなたを休ませてくださいます。それがどんなものであるのかは、あなた自身で確かめてください。きっと、驚くほど嬉しい経験です。

 

2月3日(土)

高く、あがめられて、永遠にいまし

その名を聖と唱えられ方がこう言われる。

わたしは、高く、聖なる所に住み

打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり

へりくだる霊の人に命を得させる。

わたしは、とこしえに責めるものではない。

永遠に怒りを燃やすものでもない。

霊がわたしの前で弱り果てることがないように

わたしの造った命ある者が。

イザヤ57:15、16

 

私たちの信じる神は、あなたの思っている以上に聖なるお方です。私たちは罪の世界で神を考えているので、その真実がわかりません。それでも、信仰は役に立ちます。信仰は、神の御心を私たちの上に実現させます。それは、私たちの思っているようなことではありません。私たちは罪の影響で高慢だからです。自分中心に物事を考え、いかに自分に有利になるか、得するかが重要な価値判断となってしまっています。ですから、滅びの道を突き進んでしまいます。そのために、主はあなたがたを打ちます。打って、砕かれるまでやるのです。そして、クリスチャンはようやくへりくだった者となります。それは、良いことで、そうなって初めて、神が共にあることができるのです。確かに、神は罪を憎み、怒りを露わにするのですが、いつまでもそうしているわけではないのです。それは、人間を愛し、救うことを決意しているからです。そうは言っても、罪人をそのまま救うことは簡単ではありません。神は全能ですが、それゆえに公義を全宇宙に対して守る裁判官のような働きをします。そこで、御子イエスを人にして、この世で罪を犯さない者となって律法を人間が守れることを証明しました。その上で、私たちの罪の罰を一身に引き受けて、身代わりに死んでくださったのです。これは、神が示した愛です。私たちに神自らが犠牲となって愛を示したのです。その愛を理解して、今度はその神の愛に愛を持って応える者が新しく生まれます。それが、あなたです。あなたはまだ罪の問題を抱えているでしょう。しかし、神はいつまでも怒っていません。そして、とこしえに責める者でもないのです。もし、責め続けるなら、私たちは弱いので決して耐えることができません。イエスの犠牲が無駄になってしまいます。ですから、神はあなたに好意的に振る舞っておられます。そのことを覚えて感謝しましょう。そして、神に砕かれるような経験をしても、恐れてはなりません。あなたが新しく生まれることが、その砕かれた姿だからです。主の御手に全てをゆだねましょう。

 

 2月4日(日)

私の兄弟たち、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ヤコブ1:2~4

 

クリスチャンは、成長することを知っています。個人的にも努力して良いクリスチャンであろうとするでしょう。しかし、霊的には自分で何をすれば良いのかわかっていません。それで、人間的に考えて愛の人にならなくては、とか、律法を守らなければならない、とか、色々苦労するのです。しかし、そうしたことは大して効果が無く、そのうちにあきらめて、仕方がないと思ってしまうのです。だからと言って、聖書を調べてみたり、学ぶこと自体が難しく、大変なので続きません。それでも、天国へ入れるようになんとか完全になりたいと思うことがあるのです。そのような時には、今日の聖句を思い出してください。よく考えてみれば、確かに試練と呼べるものがあった、と思い出すはずです。神様は、クリスチャンのあなたをちゃんと整え、成長させ、完全な者とするために、働いておられるのです。つまり、完全な者になることは、あなたにはできなくても神様にはできるのです。ですから、心配しないで、神様を信じていればいいのですが、さまざまな試練にあう時は、それをこの上もない喜びと思いなさい。この聖句に書かれた通りにして、完全な者になるということです。秘訣は、忍耐を完全に働かせることです。

 

 2月5日(月)

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:18

 

聖書の読み方があるのですが、例えば、今日の聖句を読む時にあなたはどうするでしょうか。そうか、すべての事について、感謝するのか、と思うでしょう。それから、どうするでしょうか。実際に感謝してみるのです。「すべての事」と書いてあるのですから、まとめて感謝しますでは、ダメです。ちょっと静まって、何を感謝するか考えてみるのです。カギは、「すべての事について」です。ですから、朝の祈りなら、「今日も目覚めさせてくださり感謝します。生きよと、生かしてくださったのですね。ありがたい、ありがたいと感謝します。そして、神様が住む家を与えてくださり、生活に必要なものを与えてくださり、食べ物着物を与えてくださっていると感謝します。晴れていれば、そのことを感謝しますし、曇っていても、雨や雪でも感謝します。つまり、文字通りにすべての事を感謝してみるのです。すると不思議なのですが、体の内から大きな喜びが湧き上がってきます。楽しく心から感謝できます。何でも心に浮かぶことを感謝してみるのです。これが習慣となるように毎朝起きたら、主への感謝を始めるようにしましょう。その結果は、あなたご自身で確かめてください。 

 

2月6日(火)

神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者では無く、信仰によって命を確保する者です。

ヘブライ10:36~39

 

ヘブライ書は「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」と証言しています。このように、皆様は信仰によって救われたのです。ですから、主の再臨までの間は、「互いに愛と善行に励むように心がけ」るように奨励されています。ただ、再臨までの間は、忍耐が必要であることが示されています。この世に流されず、影響を受けないように注意して、「正しい者は信仰によって生きる」とある通りに、日々、信仰によって生きるのです。主を信じる故に、ひるむような者に決してならないように注意されています。このことは、忘れないようにしましょう。何しろ、皆様は「信仰によって命を確保する者」だからです。

 

2月7日(水)

私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。

エズラ8:22

 

自分の人生に安全を図る事は当然です、しかし、それが人間に頼るか神に頼るかで大きく異なってきます。エズラは、イスラエルまでの道のりを考えると、敵が現れて攻撃されるだろうと不安が募ったのでしょう。しかも、王に庇護を頼めば、兵隊たちを動かしてくれたでしょう。ところが、エズラはそうできませんでした。それは、自分の信仰の表明が嘘になってしまうのではと思ったからです。自分の信じる神が自分を守れないはずはない、いかに手強い敵が襲ってきても、きっと神は、エズラの信仰告白の通りに幸いを下してくださるに違いない、と思ったのです。それでは、王様に助けを求めるべきではないと考えたのです。私たちにも、同じようなことが起こります。神様を信じている人には、神様がよくしてくださるし、困れば必ず助けてくださるのだと、誰かに話していると、困った時に人間の助けを求めてはいけないのではないかと躊躇してしまうかもしれません。聖書を読んでも分かる通り、神様に祈って助けを求めてから、自分のできることはちゃんとやろうと行動を起こすことは、普通です。時には、超自然の助けがあるかもしれませんが、本人が誰か人間を頼って問題を解決することもよくあることです。例えば、法律の専門家の助けが必要な場合、その人を神様が送ってくださる場合もあります。神様が送ってくださったのに、人間に頼ってはいけないと、その人に助けてもらわずに、神様に助けていただくのだ、と頑張る人もいます。とても愚かですよね。神様が送ってくださった人が神様の助けだったのですから。ただ、エズラは神様に頼ると決めたので、断食して祈っています。それだけ、信仰を注ぎ出して神様に守っていただけるように願ったのです。

 

2月8日(木)

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

箴言16:20

 

クリスチャンは毎日聖書を読むことが勧められています。祈りの時と共に聖書を読めるといいですね。聖書の不思議があって、同じ箇所でも読む時間や場所が変わると意味がわかったり、他の意味がわかることがあります。そして、多くのクリスチャンが、朝読んだ聖句が、そして、その聖句に教えられた教えや教訓が、その日に起こる出来事に関係があると言うのです。ですから、神様が御言葉で何かしら教えておられると言うのです。もちろん、聖書を読むことは占いではありませんから、妙なこだわりを持つようなことは避けなければなりません。御言葉が語りかけてくれば耳を傾け、わからなければ聖書をあちらこちら調べてみるとよいのです。聖書が聖書を教えているからです。そして、聖書の教えに心を留めるなら幸いを見つける、とは本当のことです。このようにクリスチャンと聖書は深い関わりを持っているのです。そして、その理由は、私たちが主に依り頼む者だからです。その報いは大きいのです。信仰生活は、このように聖書抜きでは考えられないし、主に依り頼む人は、御言葉で主の答えを聞く人でもあります。もちろん、義務で聖書を読んでも、ノルマをこなしているようなことになってしまいかねません。そこで、主は生きておられること、聖書は神の言葉が書かれていると信じることで、少し読むだけでも恵みがいただけるようになります。小さな発見が大きな喜びとなりますように。

 

 2月9日(金)

主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅び失せます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。

Ⅰサムエル2:9

 

「足」とは人生を生きることです。クリスチャンは、このように神様が生きて行く歩みを守ってくださるのです。一方、悪者がいるのですが、それをいたずらに恐れたり、心配したりする必要はありません。彼らは、闇の中に滅び失せます。ですから、決して悪いことを考えたり、悪いものを見たり聞いたりしないことです。感受性の強い人は特に、感化されやすいので、自分の品性をキリストに近づけることを妨げるようなものは遠ざけるべきです。見たり、聞いたりすることが自分を作って行くのですから、愛を学びましょう。音楽は、宗教曲も良いし、バッハのように完全な音楽を創作した人の曲は、魂に良いのです。さて、今日の聖句の最後の言葉は真実です。秀吉は戦はそんなに強くありませんでした。家康の方が戦上手でした。それなのに、まず天下を取ったのは秀吉でした。私たちは、戦をしているわけではありませんが、人生の戦いは避けることができません。そんな時に、力の強い者が必ず勝つのだと、思い込んでいる人がいます。だから、自分は勝てないと信じているのです。本当でしょうか。これでは、戦う前にもう負けを認めていることになります。これほど愚かなことはありません。何しろ、私たちにはイエス様がついているのです。イエス様は真の勝利者です。イエス様は、すべての人の罪の罰を一身に負ったのですから、驚嘆すべき勇気があります。そして、十字架で勝利したのですから、誰もかないません。死をも打ち破り、復活されました。ですから、私たちはイエス様を信じているので、内住のキリストを信じることができます。つまり、キリストと一つになって勝利するのです。弱くても大丈夫、主は弱さの中に働くのです。何か悩みがあるのなら、イエス様にすがるべきです。そのために、一生懸命に祈ることは有効です。そして、自分の力で戦うと負けるので、そうではなく、主の御力で勝利すると信じるのです。私たちは、十字架にかかる方が勇気があると知っています。ですから、主に倣って自分を十字架にかけるのです。主が生き、主が勝利してくださいます。その喜びは、あなたのものです。気負わずに、気楽に生きることができます。恥をかいてもいいのです。自分らしく生きるからこそ、人生は意味があり、楽しいものとなるのです。そして、そのようなあなたを好ましく思う人たちがいるのです。人生は、まだまだこれからです。

 

2月10日(土)

主を恐れる人は、誰か。

主はその人に選ぶべき道を教えられる。

その人のたましいは、しあわせの中に住み

その子孫は地を受け継ごう。

詩篇25:12、13

 

主を信じることは、主を恐れることです。日本的に言えば畏怖するということですが、聖なるお方に対する人間が持つ自然の感情のことです。それは、主を信じるとい意味を教えています。もし、主を信じているのなら、その人は主を畏れ敬い、絶えずその主を崇めるのです。ですから、心の中ですら悪を行わないように気をつけています。つまり、思いで罪を犯さないように、悪感情に負けないように戦うのです。清い人は、このような悪感情が出てきません。他人が側によるだけでストレスを感じる人もいます。何か悪意が無くても、近くの人がイライラしていたり、無神経にバッグやカートなどをぶつけてきても、すぐに頭に血が上るようなことは避けなければなりませんから、それらの人が周りの人に気を配る余裕もないのだろうと、それならば自分が避けてあげよう、その人が気持ちよく買い物をしたり、うまく用事を済ませることができるように、ちょっと思い遣ってあげようとすると、周りがよく見えてきて、笑顔さえ出てくる余裕が生まれます。すぐに怒るように選択することもできるのですから、周りを見回して、相手を気遣い愛を感じるように選択することだってできるのです。そのような人には、その人が幸福になる道を選ぶことができるように主が働かれます。神様を信じているのですから、魂はいつも、幸せの中に住むことができます。不思議ですが、自分がこのように信仰の幸せの中にいる人の子孫は、大いに恵まれるのです。自分の感情を暴走させてはいけません。信仰に反するからです。神様を畏れる人は、感情の暴走を事前に避けるようになります。それは、主を畏れているからなのです。それだけ、神様との距離が短いので、神様が道を教えても、はっきりわかるのです。

 

2月11日(日)

悪を持って悪に報いず、侮辱を持って侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。」

Ⅰペトロ3:9-11

 

自分の周りに善人だけがいればいいのにと思うかもしれません。今日の聖句はそれほど厳しいものだからです。子供たちのヒーロー、正義の味方は悪を倒しているのに、と思うかもしれません。しかし、この聖句がクリスチャンの姿なのです。クリスチャンが特別なのは、祝福を与えることができるという点です。それは、「祝福を受け継ぐために召されたからです」と聖書が説明しています。この世の常識ではダメなのです。ある人からは非常識だと非難されそうです。しかし、私たちはイエス・キリストを知っています。主が私たちを救うために必要なことは、悪を打ち倒すことではなかったのです。悪に負けないで、愛で勝利したということです。私たちは、そのことを身をもって知っているのです。ですから、この世の罪人として生きるのではなく、キリストを信じて救われた人として生きると決めたのです。ですから、ここに書いた通りにできないと、伝道しても意味がないのです。なぜなら、伝道はここに書かれたことを実践することだからです。ひどいことをしても、ひどいことを言っても、やり返してこないで、祝福されたら、その人はどうなるでしょう。自分がみじめな者であることを知るでしょう。罪と言われても認めることはなくても、自分のしたひどいことを怒らずに、かえって祝福してくれる時に、この人の心は癒されるのです。悪を吐き出すほど、傷ついていた人がクリスチャンを通して癒しを受けるわけです。自分が日々、大切な家族に何を言っているか、反省してみましょう。そして、今日の聖句を何度も唱えて、自分がこのようにできるまであきらめないことです。伝道は、こうして魂に触れるので、奇跡が起こるのです。

 

2月12日(月)

主に従う人の救いは主のもとから来る

災いがふりかかるとき

砦となってくださる方のもとから。

主は彼を助け、逃れさせてくださる。

主に逆らう者から逃れさせてくださる。

主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

詩篇37:31

 

神様を信じる人は、この世で神様に守られています。この世には災いも悪人もいます。その上、悪魔までいるのですから、油断していてはいけません。ニュースを見れば、悪ニュースに心を痛めるでしょう。確かに、神様に逆らう者がいるのもこの世ですが、そのような神を恐れぬ者が自分の人生の前に立ちはだかり、だましてやろう、おとしいれてやろう、ひどい目に合わせてやる、と敵対すれば、主はあなたを砦となって守ってくださるのです。主はあなたを助け、逃れさせてくださる、と約束されています。あなたが、主を信じているので、あなたが困ればすぐに主を避けどころとするでしょう。そして、あなたの期待以上に主はあなたを救ってくださるのです。ですから、信仰の道を決して離れないようにし、聖書から神様の御教えを学び、いつでも明るく生きていきましょう。

 

2月13日(火)

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

エフェソ4:31、32

 

『選択理論』を書いたグラッサー博士でなくとも、人間がことごと自分で選択していることを理解することは難しくないだろう。それでも、良い人間として生きるか、悪い人間として生きるかも本人が選択していることを正しく理解している人はそう多くはない。育った環境が悪かったから、悪の道に入って行ったのは仕方ない、とさも自分が選択した結果では無いと思っている人が多いのだ。同じ環境で育っても、立派な大人に成長した人だっているのに、自分の選択の結果であることを認めない人は、自分が原因で不幸になって行くのだ。さて、それでは、私たちはどうだろう。悪い感情を悪意とともに、みな捨て去りなさい、と聖書が教えているのだから、捨て去ることができるという意味なのだ。つまり、選択を誤ってはいけないということだ。クリスチャンが奨励されている姿は、親切で心の優しい人であって、悪意を捨てることなく隠している人ではない。クリスチャンが正常に成長しているかどうかは、赦す事ができているかどうかで測られる。もちろん、簡単なことではないが選択することができる。そう考えると、エデンの園でエバは、ヘビの誘惑にノーと言う選択ができたのに、そうしなかったということだ。私たちは、人ごとのようにエバを笑うが、実は今も悪魔は誘惑し、私たちはクリスチャンとして正しい選択をしたいと思っていながら、本気で戦っていないのかもしれない。年齢を重ねても、赦せない人のままでは情けない。どこかで、決意し、捨て去るべきものをみな捨て去り、赦せる人として生きて行こう。そうでないと、とんでもない大きな後悔が待っているだろう。信仰は、喜びだ。だから、これは選択だと理解して、聖書の教えの通りに選択して行こう。そして、幸せなクリスチャンとなろう。

 

2月14日(水)

また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力を持って強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びを持って感謝をささげる事ができますように。

コロサイ1:10~12

 

神様を信じる生き方は、とても清々しいものです。判断の基準は聖書になり、人間やこの世の価値観には左右されません。聖書は学者でなければ理解できないと考えるのは、間違っています。誰でも、繰り返し読み、聖書全体を何度も読んで、考える必要があります。人間の教えは大体が偏りがあります。その点、聖書は神のお考えがいろいろな方法で示されているのです。さらに、聖霊のときあかしも信仰者への恵みとなっています。こうした信仰者の歩みには、神を知るという計画が潜んでいます。ですから、いつでも、神に聞き従い、従順に生きて行くことが期待されています。信仰は、神との関係を結ぶものでもありますから、聖霊に満たされたり、神からの力を受けて強くされることもあります。結局、クリスチャンは忍耐と寛容を身につけるように導かれ、それが試され、強化されるのです。「私は神を信じる」と何度も言ってみましょう。「神は私を愛し恵みへと導き、勝利者としてくださる」と唱えることも、霊的な祝福につながります。そして、主への感謝が自然と湧いてきます。主を喜ぶことができます。賛美はあなたの真心から出てきます。主への信頼と感謝は、いつでも奇跡を生みます。積極的に主への感謝を伝えましょう。

 

2月15日(木)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

ガラテヤ5:1

 

自由を得るために、人間は戦ってきました。それは、人が幸福になることをはばむ人間の支配からの自由です。今も自由がない国があります。韓国と北朝鮮のように、真逆の国が同じ時間に存在しているのです。北朝鮮の人たちが韓国のいわゆる韓流映画を中国経由で観てしまうと、特に若い世代の人たちは、韓国に憧れてしまうのです。なぜ韓国の人たちは自由で、北朝鮮の人には自由がないのか、と考えるわけです。こうした例は、人間の自由の問題です。しかし、政治や体制の問題ではなく、罪を犯さざるを得ないという罪の奴隷からの自由はいかがでしょう。私たちクリスチャンは、この罪からの自由を救いと呼んでいます。解放者はイエス・キリストです。その救いの喜びは、誰もとめることができません。キリストが得させてくださった自由は、罪を犯さなくてもよい自由です。ですから、罪を犯そうとすればできるのです。そうなると、サタンは誘惑してきます。自分の意志の力でなんとか抵抗しようとしても、人間の力には限界があります。そこで、罪を犯さないように頑張っていると言うと、偽善の影が見えてきます。ですから、キリストが与えてくださった自由は、自力で罪を犯さないようにするのではなく、信仰によって罪を犯さない自由なのです。ただ、人間には肉の問題があるので、さらに罪に勝利することを困難にしています。そこで、キリストが教えているのは、神を愛し、隣人を愛することです。愛は罪の反対の意味がありますから、この愛の力で、罪に打ち勝ちなさいと主に言われているわけです。

 

2月16日(金)

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父があなたがたにお与えになるためです。

ヨハネ15:16

 

クリスチャンは、神様のご計画でなりました。神様の招きにあなたが応えたのです。クリスチャンは、神様の救済計画の中でも重要な役割を果たすことになっています。それは、イエス・キリストが「あなたがたを選び、あなたがたを任命した」と書かれているからです。「あなたがたが行って実を結び」とは、伝道のことです。誰かに福音を伝え、その魂が救われることが予定されているわけです。その救われた人は、信仰を継承して一生クリスチャンとして生きることが期待されています。しかし、途中で信仰から離れてしまう人も出てくるでしょう。そうならないように、私たちは自ら模範となるように努力することが求めてられています。ただ、自分自身の能力で頑張るわけではありません。それでは、うまくいかないばかりか、罪を犯す結果になる可能性が高いのです。聖霊を求めて、聖霊に満たされる恵みを味わい、聖霊の導きを知る者となるのです。その中で、聖書の教えに従って成長して行きます。信仰の成長を期待するなら、伝道することです。また、霊の賜物の中の使徒、福音宣伝者、や教師、牧師、などと預言や癒しの賜物とは違って、職業の賜物があると言うことです。基本的には、才能が与えられ、その才能に近いものが聖霊の賜物として与えられることが多いのです。ですから、それがあなたの使命となることが想像できます。このように、神様の御心に直結するような働きが期待されていますから、そのために必要なものは父に求めて、与えられるのです。

 

2月17日(土)

主は、わたしの光、わたしの救い。

わたしは誰を恐れよう。

主はわたしの命の砦。

わたしは誰の前におののくことがあろう。

彼らがわたしに対して陣を敷いても

わたしの心は恐れない。

わたしに、向かって戦いを挑んで来ても

わたしには確信がある。

詩篇27:」1、3

 

クリスチャンはいざとなると強いのです。この世では、何が待ち構えているかわかりません。学校でも、職場でも、近所でも、人が大勢で暮らしている場所では、揉め事も怒るし、不当な扱いを受けたり、誹謗中傷を受けることすらあるのです。どうして、人間は、優しい言葉をなかなか語らないのでしょう。人は、愛情を糧として生きているのです。ですから、愛情をかけてもらえなかったら、生きるのが大変辛くなります。しかし、愛情はなかなかもらえないのです。無償の愛情となれば、家族でも、夫婦ですら、簡単にはもらえないことが多いのです。とても不思議です。ですから、人は親友が欲しくなります。無条件に自分を受け入れ、愛してくれる人が欲しいのです。しかし、それはなかなか手に入りません。一番の原因は自分にあります。愛を与えることよりも受けることを願うからです。そうならると、相手を試したり、自分の思い通りにしたくなるのです。自分の方だけを見ていて星井というわけです。そんなことを良しとする人はいません。神様もご自分が初めに愛したと言われます。ですから、見返りを期待しない無条件の愛を与えることに努めるのです。キリストはその模範となりました。そのキリストのようになることをクリスチャンは目標にしています。ですから、ギブアンドテイクの愛では、初めからうまくいかないことをしっかり理解しておくことです。子供ですら、成人したら大人として扱い、自分のものだと思っていてはいけないのです。こうしたことが分かるのは、今日の詩篇記者のように、神様を理解できてからです。この世で人間を恐れないで生きることが幸福の始まりですが、その裏付けが神様にあるのです。あなたが信じている神様は、あなたを守り、愛してくださいますから、この世で不安に思う必要がないのです。ですから、安心して愛を与える人になることができるのです。

 

2月18日(日)

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

この世の力は凄まじく、クリスチャンも影響を受けてしまいます。世の中の流れが早まり、伝統的な価値観は否定され、新しい価値観が次々に更新されていくのです。当然、高齢者は、ついていけずに、若者ですら脱落者が出てきます。人がこの世で生きていくことは、昔よりもずっと大変になってきました。人生のほとんどを同じ仕事を行い、生計を立ててきたのに、その仕事がロボットやAiに取って代わり、職を失う人が出てきています。再学習して、新しい職に就くための技術を習得すればいいと言うのですが、それがどれほど厳しいことか、時には残酷なことになります。しかし、時は戻せいないのです。このような世相に、クリスチャンは神からの問いかけを受けています。それが、今日の聖句です。ありがたいことに、答えも書いてあるので、クリスチャンにとっての善は、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」とわかります。この聖句は、時々、ディボーションに出てきます。それは、忘れるからです。さらに、「お前に告げられている」と書いてあるので、忘れてしまったでは済まないからです。そして、今だからこそ、善がなにか知っている人をこの世は求めているのです。価値の多様化の中で、どうしたらいいのかわからなくなれば、それだけで生活不安が起こってきます。しかし、クリスチャンは、何が善であるかを知っているので、この世の希望になれるのです。「主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている」と言われるのですから、これは何としも覚えて生活で実践しなければなりません。そのためにも、へりくだって始めなければなりません。主はそのような人と共に歩まれます。

 

2月19日(月)

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ9:16

 

信仰を持って生きると言う事は、人が考えるよりもよっぽど素晴らしい事なのです。というのも、私たちの人生はそうそう思い通りにはいきません。こうだったらいいな、とか、あの時もっと勉強を頑張っていればよかったのに、と過ぎたことへの後悔が起こります。それは、現状への不満があるからです。あるいは、ようやく成長して、社会の仕組みを理解したからかもしれません。さらには、強く願うことはかなう、といった自己啓発本の決まり文句に易々とだまされていたのかもしれません。なぜなら、売れた本の数だけ、願いを見事に叶えたという人が出てこないからです。もちろん、読者が真剣に努力をしなかったからということもあったのでしょう。しかし、聖書は、驚くべきことを教えています。それは、「事は人間の願いや努力によるのではない」といっているからです。何かを成し遂げようとすれば、願いや努力がいることは、誰でも想像がつきます。それなのに、そのようなことは関係ないと、言われれば誰でも驚きます。では、何によるのかといえば、それは、「あわれんでくださる神による」というのです。皆さんはどう思いますか。この通りであれば、誰にでもチャンスはあります。誰でも、幸福になれます。誰でも、自分に相応しい仕事にもつけるでしょう。お金の心配をしないで大学にも行けるでしょう。老後のことも心配しなくて良いのです。そして、救いは神の憐れみによるのですから、誰でもすぐに救われます。神が憐れみ深いので、私たちはいつでもどんなことにでも、希望を持ち続けることができるのです。

 

2月20日(火)

あなたがたは、神の力と御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペテロ5:6、7

 

神を信じるということは、「神の力と御手の下にへりくだる」ということです。人は自分でどうするか決めることができるので、「へりくだる」という選択をしなければなりません。今日の聖句は、迫害が教会に降りかかってきた時のものです。そのような時にもしっかりと信仰に立つようにと促している箇所です。クリスチャンが全員理解しておかなければならない命題に「神は謙遜な者にのみ恵みを与えられる」というものがあります。そうであれば、迫害のような厳しい状況であってすら、謙遜によって神の恩恵に預かることができる、とわかるのです。そうすると、神の力と御手の下にへりくだって、自分にふりかかる迫害でも、困難でも、運命を進んで受け入れなければならないのです。そこまで、神を信じているということです。たとえ、迫害下であっても全能の神は恵みを与えることができるからです。このように過酷な運命ですら信仰によって受け入れ生きる人には、やがて再臨の日を迎えた時に天の御国へと入れてくださるのです。これは、平和な時を過ごす人にも全く同じなのです。心配事は日々現れ、自分の力では処理できないようなことも避けられないので、無駄に思い煩うのではなく、その現実を直視し、神に全ての重荷をゆだねることが肝心なのです。そのような信仰者のへりくだった姿に、天の父は心動かされ、すぐに行動に出ます。人間にとっては、困難で難しく行き詰まってしまうような難問に対しても、神はどうすれば良いのか知っておられるのです。そして、神を信じるへりくだった者に、神は優しく対処してくださいます。決して見捨てる事はありません。ですから、心配に心が押しつぶされてしまう前に、天の父に叫びなさい。自分の考えにこだわっていてはいけません。神を信頼するのです。

 

2月21日(水)

人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか。

人の子は何者なのでこれを顧みられるのですか、

ただ少しく人を神よりも低く造って、

栄と誉れとをこうむらせ、

これにみ手のわざを納めさせ。

よろずの物をその足の下におかれました。

詩篇8:4~6

 

創世記によれば、神が人間を神のかたちに創造した、とあります。それは、どういう意味か、昔から多くの人に考えられてきました。ある者は、理性的存在として創造したという事だろうと考えました。また、他の人は、神が人格的存在であるので、人間も人格的存在として創造されたのだ、と考えます。さらに、神内部の父と子と聖霊との人格的関係に似せて、人間を「われとなんじ」という人間関係において創造したという説があります。皆さんは、「神のかたち」について考えたことがあるでしょうか。私たちは、きっと難しくは考えずに、この詩篇記者のように考えるのではないでしょうか。不思議に思うのは当然です。神は、「ご自身と私」の関係を「父とみ子」の関係に似せて造られたと考えるなら、それは愛の関係と言えます。「愛し愛され」の関係と言い換えることもできます。さらには、アダムとエバのように、隣人を自分を愛するように愛せよと、主は言われます。この世界が、そのような愛し合う世界となればどんなに素晴らしいことかと思います。神は、そのように創造されたのですが、人間が壊してしまいました。そして、今は、キリストの救済を待っています。

 

2月22日(木)

怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。

箴言16:32

 

生まれつき気の短い人は、ご苦労様と言いたくなるような大変な人生を歩むことになります。短気な人は、損すると言われていますが、その通りなのです。しかし、生まれつきなので治すことは至難の業なのです。昔は江戸っ子は気が短いと言われるほど、せっかちでモタモタする人を許せないのです。気が短い人ほど感受性が豊かなのだ、と言ってみても、所詮は気休めで、後悔することが多いのです。聖書に知恵を探ると、今日のような聖句が出てきます。つまりは、怒りを遅くする者が良いというわけです。怒りは勝手に出てくるのでどうしようもない、と言いたくなるでしょうが、短期を起こして失敗することは、必ず後悔につながるので、やはりなんとかしなければなりません。今日の聖句の下の句を見てみると、「自分の心を治める者」と出てきます。これはどのようなことでしょうか。何が起ころうが短気をおこなさないように自制できる人、ということです。これは、相当心を鍛えた人でなければできそうもありません。とりあえず、よしこれからは自制しよう、と思ってもそれだけでは無駄なのです。何か、真剣に考えて手立てを考えて講じなければ、自制などできるはずがありません。ただ、クリスチャンは神様にお祈りすることができます。信仰の祈りは聞かれます。その代わり、何かを犠牲にしなければならないかもしれません。自分のこだわりを捨て、自分の考えうあ価値観を絶対化しないことです。この世界には色々な人がいるのですから、いちいち気に入らないなどと行っていたらキリがないのです。生まれも育ちも違い、個性も能力も違い、その背景も大きく違っていれば、自分と同じであるはずがありません。そこで、目指すのが寛容です。これは、聖霊の実です。聖霊に服して実を結ぶ者としていただき、特に寛容を身につければ、自分の心を治めることができるようになります。神様の具体的な助けをいただきながら、私たちは驚くほど変わって行けるのです。

 

2月23日(金)

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

ローマ14:17~19

 

宗教の本質を見失うと、人を容易く裁くことになります。それは、危険なことなので注意が必要です。例えば、聖書では食べ物のことや「特定の日を重んじる人」がいます。ローマ書を読むと、宗教につきものの、ある日を重んじたり、菜食のように特定の食事でなければならないとすれば、当然、守らない人を裁くことになるのです。ただ、人間というのは、何かにこだわる人がいたり、逆に何にもこだわらない人がいるのです。それが人間の特性で、何かを特別視して、それを守ろうとするのです。それ自体を批判するのでなはく、何をするにも主のためにすることが肝心なことなのです。「神の国は、飲み食いではなく」と聖書に書いてあることを覚えておきましょう。「神の国は、・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。このことを知っている人は、人を裁くことがありません。このような人が神に喜ばれ、人に信頼されます。私たちが心がけるのは、何を食べたり飲んだりするかではなくて、クリスチャンとして平和や互いの向上に役立つことを追い求めるのです。

 

2月24日(土)

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、全ての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

Ⅱコリント1:3、4

 

クリスチャンは、イエスの新しい掟を実践することが望まれています。それは、「互いに愛し合う」ことです。クリスチャンは良い人たちなので、この掟を守ることは容易いのだと思っていましたが、色々な教会を見てきて、決して容易くはないことを実感させられました。クリスチャンは、他人を裁かないはずなのに、裁いてしまうのです。本人は大した自覚無しに捌いてしまうのです。こうしたことは避けなければなりません。そのために、今日の聖句を瞑想してみることが大切です。クリスチャンといえども、困難な人生を歩んできた人が多くいます。信仰を持って頑張って生きていても、辛い時がやってきます。そんな時に、兄弟姉妹が慰め合うなら、どんなに助けとなるでしょう。確かに、苦労して神からの慰めを経験している人は、今度は隣人が苦しみの中にいる時に、慰めることができます。慰めることを難しく考える必要はありません。なぜなら、隣人を自分のように愛すればいいからです。全ての良きことは、愛することから生まれるからです。私たちは主から愛されているので、隣人を愛することができるのです。

 

2月25日(日)

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

Ⅰコリント15:3~5

 

キリスト教で何が大切か考えてみましょう。パウロによれば、もっともパウロ自身も他の弟子から聞いたことでしたが、今日の聖句に示されたことでした。実は、本文はまだまだ続き、いかに多くの人たちがイエスの復活に接したか、ということが続きます。そして、パウロにもキリストが現れたことが書かれています。つまり、第一にキリストが私たちの罪のために死んだこと、第二に葬られたこと、第三に三日目に復活したこと、の三つです。特に、重要なのは復活したことです。確かに、私たちは罪の赦しのためにキリストが十字架で死んだと教わりました。そして、そのことを信じて罪の解放を得たのです。本当に、キリストはし慣れたので、葬られました。さらにはすぐに復活したのではなく、三日目に復活されたのです。これは、仮死状態ではなく、本当に死なれたことを証明しています。そして、キリスト教の教えでなかなか信じてもらえないことに、キリストの復活があります。現代人にとって、復活は絵空事に聞こえるのです。しかし、それだけに、復活したキリストに出会った人は実に多いのです。ですから、復活の証人の記述が長々と続きます。パウロが命懸けで福音を伝えていたのも、復活したイエスに出会ったからでした。私たちは、信仰が与えられているので、復活になんら疑問を感じません。それでも、信仰のない人に話す時には注意が必要なのです。そして、罪の報酬が死なので、罪の赦しの証拠が、死からの復活だったのです。さらには、たとえ再臨前に死を迎えても復活の保証がキリストによって保証されていることが心強いのです。キリストは、罪と死に勝利されたのです。だから、私たちには大きな希望があるのです。

 

2月26日(月)

いかに幸いなことか

主を神とする国

主が嗣業として選ばれた民は。

主は天から見渡し

人の子らをひとりひとりご覧になり

御座を置かれた所から

地に住む人に目を留められる。

人の心をすべて造られた主は

彼らの業をことごとく見分けられる。

詩編33:12~15

 

「主を神とする国」、これが日本のことであったならどんなに幸せなことでしょう。私は毎朝、日本をキリスト教の国にしてくださいと祈ります。首相はじめ、大臣や国会議員、あるいは知事や国の権力を持つ人たちが皆クリスチャンであるように祈ります。この詩篇は、もちろんイスラエルとその民のことですが、主は預言者を通してダビデに約束しています。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」と。しかし、イスラエルはバビロンニアに戦争で負け捕囚にあいました。時が過ぎて、イスラエルの民は母国へ帰ることができたのですが、それは一部に過ぎませんでした。肝心のダビデ王の子孫たちは、バビロンで消息を断ち、歴史上から消えてしまったのです。これは、主の約束と違って見えます。そこで、ダビデの血を継ぐ子孫たちは、アジアの方へ逃れて行ったのではないかと推測されています。そして、日本にたどり着いたのではないかと考える人たちがいます。日本の特殊性がイスラエルのそれと合致すると言う人たちもいて、ロマンに満ちています。真実は分かりませんが、日本が主を神とする国であればと願う気持ちは強まります。日本人の多くがクリスチャンとなり、主を唯一の神として崇めるようになることを願います。

 

2月27日(火)

お前たちのうちにいるであろうか

主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。

闇の中を歩くときも、光のないときも

主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。

イザヤ50:10

 

これは、イスラエルの民に語られたことですが、彼らは自分の力に頼り、自分の思い通りに進みました。私は、この御言葉を聞いて、ここにいいますと手を挙げるのはクリスチャンではないかと思いました。私たちは主を畏れ、イエス・キリストの御声に聞き従う者なのです。残念ながら、クリスチャンが皆、安楽な道を行くとは限りません。時には、辛い闇の中を歩くこともあるのです。そんな光のない時に、クリスチャンは主の御名に信頼し、その神を支えとするのです。そうやって、困難な時も乗り越えてきたのです。主は、どんな時も、その信仰にちゃんと答えてくださいました。これからも、ずっとそうやって私たちの神は共にいてくださいます。頼り甲斐のある神に栄光が永遠にありますように。

 

2月28日(水)

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。・・・愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

ローマ13:8、10

 

クリスチャンにキリストが与えた新しいは掟は、互いに愛し合うことでした。今日も変わらずに、クリスチャンの戒めです。ですから、人を愛することがクリスチャンの課題なのです。もし、その人が隣人を愛することができていれば、「律法を全うしている」と聖書は明確に書いています。クリスチャンはこのことをよく理解しているので、どんな人でも愛そうとします。その試みは素晴らしいのですが、心から愛することができるか、という葛藤に悩まされます。 あなたは、どんな人でも愛そうと決めているのですから奮闘するでしょが、自慢できる愛は出てこなくて、逆に愛でないものが自分から出てくることに驚かされるでしょう。そこで、あきらめては話になりません。だからといって、自力で頑張り通せと命じても、できないと悲しむことになるでしょう。では、どうすれば良いかといえば、聖霊に頼むのです。神が送ってこられた聖霊が、あなたの内に住んでおられることを思い出してください。この聖霊はアガペーの愛なのです。キリストと同じように愛することができます。また、十字架にかけられても、なお執り成しておられたキリストの赦しが、あなたの新しい命にもなっている聖霊によって実現できるのです。この聖霊から愛を教えていただくのです。嫌だと思う古い私に訣別を果たし、聖霊におまかせしていけるように、信仰を発揮するのです。これは、長い戦いになるでしょう。しかし、驚くような愛の奇跡をも味わうことができるでしょう。愛があなた自身をもお変えていくのです。

 

2月29日(木)

しかし、イエスは永遠に生きておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブライ7:24、25

 

私たちは、何の幸いか分かりませんが、クリスチャンになりました。これは、人の力では決してなれません。私たちが他の人よりも優れていたのはありません。正しいから救われたというわけでもないのです。重要なことは「イエス様」です。私たちは、イエス様に近づいたのです。しかし、本当はイエス様が探して見つけてくださり、救いへと導いてくださったのです。イエス様が永遠に生きているというのは、神様であるという意味です。「常に生きていて」というのは、私たちがしょっちゅう失敗ばかりしているので、祈って悔い改める時に、天で執り成してくださる大祭司が必要だからです。そして、人の罪を赦し、贖うことを通して、完全に救うことができるのです。イエス様は「門である」とおっしゃっていたように、人が救われる入り口なのです。人が神様を求めて近づこうと願うと、その方法がイエスを信じることだと悟らされるのです。キリストを通って父なる神に近づくという唯一の道があります。そして、これだけが人を完全に救う方法なのです。だから、私たちは人々にイエス様を知らせています。これは、驚くべきことで、イエス様だけが罪人を完全に救うことができると知らせているのです。事実、そのようにして罪人が救われているのです。それにしても、父なる神様に近づこうとする人がいることに驚きます。私が伝道が難しくないと思えるのは、興味のない人を無理やりに導くことはできませんが、救われる人は、自分から神様に近付こうとしていることも真実です。そのような人に出会えるといいですね。