2021年10月ディボーション

10月1日(金)

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉を与えよう。

詩篇91:14、15

 

キリスト教の神様は、日本人の知っている神様とはずいぶん違っています。それは、愛する、という言葉が頻繁に出てくるからです。神様は私たちを愛しておられ、私たちも神様を愛しているのですが、そのように神様を愛してい人を神様は特別に扱われておられ、神様を愛しているのだから助け出そうとされるのです。さらに、神様のお名前を知っているということが重要です。それは、自分の神様が誰であるか知っているということです。それは、特定の神様を自分の神様として、礼拝し、崇拝しているということです。だから、その人を神様は高く上げてくださるというのです。それだけではなく、神様と私という関係ができているので、神様を呼べば、神様は答えてくださいます。肝心なことは、あなたが苦しみの時に神様はあなたと共にいて、苦しみから救い出してくださり、人間から受けた不名誉や傷つけられた事から回復し、逆に誉を与えてくださるのです。これほどの良い神様があなたの神様です。

 

10月2日(土)

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

ヤコブ1:13、14

 

私たちは、クリスチャンですから道徳的にもしっかりと気をつけ、悪いことを避けて、善意の人であろうと努力しています。しかし、それはクリスチャンだけのことではありません。世界は広いですから、立派な人はクリスチャン以外でもたくさんいます。求道者のご主人が精神的におかしくなった時に、その方はご主人に、座禅の修行をしたらどうかと勧めたそうです。つまり、彼女はご主人が鬱になった時に、教会ではなく禅宗の座禅修行の方が効果があると考えたのです。あなたはどう考えるでしょうか。ある牧師さんは、心の病は精神科の医者の所へ、離婚なら弁護士の所へ行け、と言っていました。これは、ちょっと問題がありますね。人間に問題が起こっている時というのは、何かしらの誘惑にあっている時です。つまり、その人の欲望が反応するように誰かが唆しているのです。それで、人間は逆らえずに誘惑に陥ってしまうわけです。その状態が、ある時には鬱状態を招くのです。現に、そのご主人は参禅しましたが、解決どころか悪化しただけでした。このように、人間を苦しめて喜ぶ者が唆して誘惑しているのです。その正体は、悪魔です。人間ではないので、気づけないのです。このような問題があるので、ファリサイ派の人たちは失敗するのですが、クリスチャンは自分たちは違うと思っていても、同じような誘惑に負けていることがあります。例えば、罪人の古い自分にだんだん死んでいけばいい。そのためにキリストの愛の教えを守ってより良いクリスチャンに変わって行くのだと、頑張るのです。これは、真面目だからこそ起こる現象です。何十年も色々な教会を周り、たくさんの信仰者を見てきましたが、どこでも真面目なクリスチャンが同じように考えて頑張っているのです。しかし、彼らがゴールすることはかなり難しいと思います。パウロ流に言えば、霊で始めたのに肉で仕上げると言うのか、というわけです。律法を守ろうとしたりすれば、罪が吹き出してきます。律法の役割は、その人の罪を炙り出すことだとパウロは考えていました。このようなことを言うと、それでは、何もしないで良いと言うことか、と怒る人がいます。いまだに自分が罪人であることを認めないのです。罪人がいくら良いことをしようとしても罪人なのです。罪はイエス・キリストにしか赦すことができません。そして、清めることも、新しい命に生かすこともできないのです。せっかく、洗礼を受けたのなら、キリスト一つになったと信じることです。それ以外に古い罪人に死ぬ方法がないからです。クリスチャンとして善行を積むことは良いことですが、それが自分を義とするわけではないのです。まずは、誘惑に陥る自分を認めれば、自力で自分を死なせたり、義人にしたりできないことがわかると思います。恵みによって救われたというのは、自力ではなく、キリストによってと言う意味です。そのキリストが働くことはその人の信仰によるのです。その信仰に関しては自己責任です。もっとも、その信仰すら、キリストが与えてくださったものなのです。信仰も使わなければ、意味がありません。自分を正しく認識して、謙遜になって信仰をあらわすことを考えてみましょう。

 

10月3日(日)

神よ、わたしの内に清い心を創造し

新しく確かな霊を授けてください。

御前からわたしを退けず

あなたの聖なる霊を取り上げないでください。

御救いの喜びを再びわたしたちに味わわせ

自由の霊によって支えてください。

詩篇51:12〜14

 

罪深い人間が、どうやって天国に入れるほどの聖徒に変えられるのか、聖書に書かれた説明の一つがここにあります。まず、詩篇51篇は、聖霊のバプテスマを受ける仕組みを聖霊を授けられる人に焦点を当てて見ています。ですから、まずは罪の徹底的な悔い改め、そして、罪は生まれつきのものであった事、その罪の汚れからの清め、そこにたどり着くために必要だった試練をむしろ喜ぶべき事だったととらえ、罪を裁くのではなく咎をぬぐってくれるように嘆願し、そして今日の聖句になります。興味深いのは、聖霊を授けていただく前に、清い心の創造を主に願います。 聖霊が天から降ってきても、その人の心が清く慣れければ聖霊が入れないのです。ですから、外側から聖霊が働くと、罪を認めて悔い改めることぐらいしかできません。私たちが必要としているのは、キリストのようになる事ですから、聖霊のお働きによらなければ無理なのです。そのために内に住んでいただく必要があるのです。今まで生きてきたからには、神の息である霊が存在していたことになりますが、それではだめなのです。新しい霊が必要です。その霊が来れば、人は罪人から聖徒へ変われますが、時間がかかります。何年も何十年もかかるかもしれません。ですから、その間に肉の問題も出てきます。それで、御前から私を退けないように願う必要があります。一番困るのが、聖霊を神様が取り上げることです。そうならないように祈りましょう。そして、洗礼を受けた時の喜びを再び味わわせていただくのです。今度は聖霊のバプテスマによって、味わわせていただきます。その聖霊は、自由の霊なのです。その意味するところは、罪の奴隷からの解放、呪いの奴隷からの解放、死の奴隷からの解放、悪魔の奴隷からの解放を含みます。人を自由にする霊なのです。その自由をどう使うかは決定的に運命を決定してしまいますから、注意が必要です。ただ、これが人を罪から救い、神の子にする方法なのです。

 

10月4日(月)

神の道は完全

主の仰せは火で練り清められている。

すべて御もとに身を寄せる人に

主は盾となってくださる。

詩篇18:31

 

この世界に完全なものを求めてもなかなか見つかりません。しかし、信仰者は、いとも容易く見つけることができます。それは、「神の道は完全」と聖書に書かれているからです。人は人生を道に例えます。つまり、良い道、悪い道があり、人は選択できるのです。ただ、暗闇の中で見つけようとしてもそれは難しいのです。ところがヨハネの福音を開きてみると、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)とあって、この世界が暗闇であることを教えています。その暗闇に光が輝けば、良い道を見つけ、選ぶことができるのです。この光は主イエス・キリストのことです。私たちは、イエス様を信じているので、光は私たちを照らします。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と主が語られたので、私たちは正しい道を歩むことができます。主は「わたしは道であり」(同14:6)とご自身のことを指し示し、「わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができない」(6節)と天国へ入る方法を教えられたのです。あなたは、信仰を持って「神の道は完全」と唱えるのです。つまり、主イエス・キリストを信じて生きる人生は完全になるのです。聖書は、あなたに主が語りかける恵みの場なのです。その御言葉は聖であり、罪を取り除き、清める力があります。主がお語りになると、世界が震え、何かが起こります。あなたは、この大いなる主のお働きを見るでしょう。あなたは主の御もとに身を寄せる人です。それゆえに、主はあなたの盾になってくださるのです。悪魔も負かされ、人間の悪意や敵意もあなたに近づくことができません。だから、恐れずに、堂々と主のために生きることにしましょう。主の御力を見ることになるでしょう。喜んでキリストを讃美しましょう。 

 

10月5日(火)

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

ヨハネ4:14

 

多くの人は魂の心配をしていません。日々の目の前のことばかり気にしているのです。少しばかり良いことがあれば、有頂天になり、嫌なことがちょっとでもあれば、機嫌が悪くなり、自分が傷つくと落ち込み、些細なことでも心配になれば悩むのです。ですから、毎日がギャンブルのようになってしまい、「今日の運勢」とか占いを気にするのです。確かに、将来のことなど誰もわかりません。それでも生きていかなければなりません。こうして、魂は飢え渇いてしまうのです。人間は肉でもありますが、霊的な存在なのです。ですから、目には見えない生きた水が必要です。この水は霊的人間として生きていくために必要なのです。イエス様はご自分から、命の水を与えるお方であることを証ししました。驚くことに、イエス様からいただいた水は、人の内に泉となるのです。しかも、それは、永遠のいのちへの水なのです。さて、これは何のことでしょう。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)と語られ、「イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(同39節)と説明されています。つまり、主を信じて受ける聖霊のことを言っているのです。聖霊が人の渇きを癒すのですね。

 

10月6日(水)

主よ、帰ってきてください。

いつまで捨ておかれるのですか。

あなたの僕らを力づけてください。

朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ

生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。

詩篇90:13、14

 

人生の面白さは、良い時、悪い時があるということです。長く生きて振り返ると、そのことがよく分かります。霊的に非常に恵まれた時期は、実は大変なことが多いのですが、それ以上の喜びがあるので辛さが薄まります。私の場合は、30代で牧師になりましたが、それまで社会人として世の中で生きる人々の生活を知ることができました。そして、神学校に入り直して牧師になりましたが、想像もしていなかった聖霊のバプテスマを受けることになり、はからずも聖霊の福音を広めることになりました。それは、教団からの圧力を受けることなり、危険視されることになったのです。主はよく守ってくださり、この働きを続けさせてくださいました。そして、フィリッピンに留学することになり、そこで自分の所属している教団が聖霊降下のリバイバルによって誕生したことを知り、パイオニアたちが聖霊のバプテスマを受けて純粋に再臨運動を起こしたことを学びました。帰国して牧師に戻り、これまた不思議な導きでカリフォルニア神学大学院に入学し博士号を得ました。これも神様の導きです。すると、今度はアメリカの教会で牧会をすることになり、アメリカのキリスト教を学びました。日本にはない宗教の魅力がありました。神様はそうしたことを直接学ばせたかったのだろうと思います。それなのに日本で一番保守的で変化したくない東北に赴任することになったのです。楽しい日々でしたが、東日本大震災も経験し、この教会を最後に独立してスクエアー・ジャパン・チャーチを始めることになりました。元の教団ではやはり聖霊のバプテスマの理解が得られなかったので、外に出ることになったのです。実は、神様はかなり早くから教団を出ても良いことを示されていたのですが、信徒によって聖霊の真実を知ることが大切なことなので何とか理解して欲しかったのです。でも、やるべきことはやったので、終わることができました。今は、自由に聖書に書かれた救いの全てを語れるので天国のようです。ストレスが消えました。これからは、スクエアーを通して聖霊の真実とクリスチャンの恵まれた人生を教え、共に成長していきたいと思います。今日の聖句の通りになってきたので、つい振り返って書きました。

 

10月7日(木)

わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

Ⅰヨハネ5:2~5

 

あなたはイエスをメシアと信じました。聖書は、そのような人を「神から生まれた者です」(Ⅰヨハネ5:1)と言っています。そして、その続きには「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」と書いてあります。そもそも、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(同4:10)。この神の愛が全てです。私たちがクリスチャンになれたのも、信仰を持ち続けられるのも、何が起こっても主の恵みの中に置かれていることも全て、神があなたを変わることなく愛し続けているからです。つまり、イエスの十字架から愛が流れて迫ってくるのです。ですから、あなたも神を愛するようになります。それで、生き方が変わったのです。同じような経験をしたクリスチャン同士が愛し合うことは、十字架の愛に動機付けられていれば自然なことなのです。このように期待できるのは、イエスを神の子と信じた人です。この人は、世に打ち勝ちます。世に惑わされないのです。まさに、「神から生まれた人は、世に打ち勝つからです」。この勝利は、あなたの信仰によるのです。クリスチャンはこの世に振り回されるような者でではありません。そうではなくて、打ち勝つ者なのです。このことを忘れないでください。このことがはっきりしていないと、信仰も弱ってしまうのです。神に愛されていることを日毎に信じましょう。今日も良い日が始まります。

 

10月8日(金)

あなたの天を、あなたの指の業を

わたしは仰ぎます。

月も、星も、あなたが配置なさったもの。

そのあなたが御心に留めてくださるとは

人間は何ものなのでしょう。

人の子は何ものなのでしょう

あなたが顧みてくださるとは。

詩編8:4、5

 

秋になり、夜空を見上げると星が瞬き、静けさの中で広大な宇宙を見上げることができる。この星の美しさ、広大無偏の宇宙に見事に配置し、規則的な秩序を保っているのは不思議に思える。そして、詩編詩人はこの想像もできない無限の宇宙に接して、その支配者である神の存在を感じる。あなたは、このように、夜空を見上げて感動したことがあるだろう。クリスチャンは、それが創造主の御手の業と知っています。詩編詩人は、豊かな感受性で神の指の業と言います。この圧倒的なスケールで宇宙に星を並べて見せた創造主が、人間を特別に見ている。そもそも神に象って人を造られたのです。なぜでしょう。自分の小ささを知っている者は、この神の好意があまりに大きなものと感じるので、「人間は何ものなのでしょう」と言葉が出たのだ。わたしたちも、忙しくしている日中は考える暇もないかもしれないが、夜の帳が降りて、満天の星を見る時に、自分の姿がいかにちっぽけであるかと思わされる時がある。そして、この小さな自分を神様がなぜ顧みてくださるのか不思議に思ってひれ伏したくなる。この圧倒されるものこそが、神の愛なのだ。あなたの神は、これほどまでに偉大で人間の力では捉えることができないほど大きな存在なのだ。だから、あなたは人生を小さくつまらないものと考えてはならない。今の境遇がどうであろうと、信仰を現しなさい。この宇宙を造り、星を造られた神が、あなたへ好意を示されている。ならば、何を不安に思うのだ。私たちの問題がいかに困難であろうが、星を造ることに比べれば、たわいもないことなのだ。あなたはピンときていないかもしれないが、神様があなたを大事にし、愛すると言われているのは本当なのだ。だから、悲観を追い出せ。不安や恐れを閉め出せ。あなたの敵は、主が蹴散らして消してしまうだろう。だから、希望をいつも持って大胆に生きるべきだ。それは、主を愛する生き方である。神を愛している者の生き方をあなたは実行できる。信仰を持って奇跡を起こすのだ。宇宙を揺るがす主の愛は、あなたに向けられているのだ。

 

10月9日(土)

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

ローマ8:38、39

 

とても興味深いのは、私たちの信仰はキリストの愛に根ざしていることです。神様との関係が愛である宗教は珍しいのです。それも、初めに神様から私たちは愛されたのです。あなたがクリスチャンであれば、それは主イエス・キリストの愛に触れたことを意味しています。それだけでなく、キリストの愛にとりこにされているのです。この愛の価値の絶大さに、キリストから離れることができないのです。私たちは愛される権利があると思うのですが、この地上を生きてわかることは、なかなか愛してもらえないことです。好きになってもらえても愛してもらえるかどうかはわかりません。このように罪人の世界では、安心して無条件に愛してもらうことはまれです。でも、神様は裏切らないし、真実で信じることができます。その神様から先に無条件に愛されて、私たちは変わったのです。理不尽な仕打ちを受けても耐えることができるし、それでも愛し抜くことだってできるのです。私たちが知ったのは、キリストは私たちをすくために、そうしたということです。無罪なのに十字架に黙ってかかられたのは、それ以外に罪深い私たちを救うことができないからです。そのことの意味を正しく理解できたなら、その人はキリストの愛を受け止め、その愛に報いて生きようと決心するはずです。それは、もはやこの世の人間の出世欲や諸々の欲望を満たそうとするような生き方ではなく、そうした罪人の常識とはかけ離れた生き方なのです。それは、ただ主イエス・キリストにある神の愛から離れられない者とされたのです。だから、辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、あなたは必ず乗り越えていけるのです。

 

10月10日(日)

主は憐れみ深く、正義を行われる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

詩編116:5〜7

 

一人の人の一生の長さは同じではありません。ちょうど自動車教習所で運転免許証を取ろうとして練習している人のようです。最短で終了する人もいれば、かなり長時間かかって卒業する人もいます。クリスチャンの人生は、この教習所に似ています。ただ、生きている人間のことですから、実にさまざまです。ですから、決して人と比べてはいけません。イエス様と自分の二人三脚でゴールを目指しているのです。ただ、ありがたいことに、主は情け深いのです。ですから、模範的なクリスチャンでなくても、見捨てられることはありません。できれば神様に喜んでいただけるような者になりたいですが、がっかりさせることも少なくありません。もっと、問題なのは、神様の御心がわからないとか言い出すことです。聖書は読んでも御声が聞こえないとか言い出します。それでも、信仰生活を守り、頑張るので、しょっちゅう疲れ果ててしまうことになりますが、それだからと言って信仰に成長している気がしないのです。それよりも、負い目の方が大きくなっている気がするのです。いい時もあるのですが、長続きしません。信仰書を読み、良いと言われることはやってみます。しかし、信仰に疲れ果ててしまうのです。それが良くないと分かっていても、弱り果ててしまいます。不思議なことに、そんな時にイエス様が救ってくださいます。魂の安らぎが確かにあるのです。自分でダメだ、ダメだと思っていたのに、神様はその真面目さに報いてくださるのです。なんとありがたいことでしょう。主の恵みで救われるのですね。 

 

10月11日(月)

主よ、あなたは

御業を喜び祝わせてくださいます。

わたしは御手の業を喜び歌います。

主よ、御業はいかに大きく

御計らいはいかに深いことでしょう。

愚かな者はそれを知ることなく

無知な者はそれを悟ろうとしません。

詩編92:5、6、7

 

神様を信じてよかったと思うことは多くあります。それは、主の恵みが具体的で驚くほど日々の生活を支えていてくださるからです。ところが、実際にはもっと遥かに多くの恵みを受けているのですが、それに気づかずにいるのです。今日の聖句の最後に出てくる愚かな者になっていないか、反省する必要があります。このように書いたのも、実は今日一人の姉妹が神様が具体的に必要を満たしてくださった、という証しを聞かせてくださったのです。それが、郵便為替でちょうどの金額が与えられたというので、気がついたのです。私も同じようなことが何度かあったのですが、先週、郵便為替が送られてきて、家内は何のお金だろうと首を傾げているのです。実は、その前にも郵便為替が送られてきて、それはS社からのもので、キャンペーンのキャッシュバックでなぜ送られてきたのか分かっていました。それが、キリスト教書店のバーゲンセールで本を買った代金になったのですが、そのバーゲンで結局その後に更に二回買い物をしたのです。その代金相当のお金が郵便為替で送られてきたのです。神様は必要な時にお金を送ってきてくださるので、喜びになるのです。そのように恵みを受けていても、姉妹の証しを聞くまでピントきていなくて、まさに自分が愚か者だったと反省しました。神様のなさる恵みの御業はあなたにも必ず与えられています。それに気がついているかどうか、考えてみましょう。主の御計らいが見えてくると笑いが溢れてきます。きっと、体にもいいですね。主に感謝いたします。

 

10月12日(火)

悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を讃美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。

詩編22:26

 

秋のせいか、はたまた、「悩む者は、食べて、満ち足り」という御言葉が成就しているためか、あるいは、ただ食いしん坊なだけか・・・? ダイエットしているのに体重が増えるとはどうなっているの? でも、ものは考えようで、食欲があるということは、裏返せば悩みが無いということですから、まあいいか。などと、くだらないことを言っているぐらい、ストレスを抱えているのです。それは、勉強についてです。勉強と言えば聞こえはいいですが、この歳になってもまだ学びたい症候群から抜け出せないでいるのです。しかし、年齢にはかなわいのか気力や根性とか掛け声だけで、てんで情けないことになっています。やっぱり聖書以外のことは何をやってもダメみたいです。自分でも不思議に思うぐらい、聖書以外に才能がないようです。そこで、いつものことですが反省して「本業」に専念しますと言って、まだ聖書を学び続けられることを感謝して、主を讃美します。他の人は分かりませんが、私の場合は、聖書以外の学びはしないように、道をそらさないように、神様が導いてくださっているようです。自分にとっては、聖書の学びは面白い、そうなんです本当に楽しいので申し訳ないぐらいなのです。さて、今日の御言葉の最後に、「あなたがたの心が、いつまでも生きるように」と神様は願っているのですね。だから、あなたが悩むことのないように、主を尋ね求める人は喜びにあふれるように、主はそのようにしてくださるのです。

 

10月13日(水)

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

エレミヤ31:3

 

私たちが元気で明るくいられるのは、神様が愛してくださるからです。それは、人間の愛とは違っています。神様なので永遠の愛で愛してくださるのです。つまり、普遍の愛、変わることのない愛です。心変わりをしないということですね。その愛は、神様があなたへ誠実を尽くし続けることで理解できるのです。私たちは、人間の愛が脆いものであることを知っています。些細なことで簡単に壊れることがあるのです。また、裏切ることもあるし、失望させられることだってあります。結婚のように一番愛を大切にする関係ですら、離婚に至ることが珍しくないのです。ですから、神様のように永遠の愛で愛されることは、人間に大きな力を与えることになります。それは、幸福に平和に生きることができるということです。神様は愛は、いつでも誠実を尽くし続けることなのです。ですから、イスラエルの民が何度も神様を裏切り続け、罪を犯し続けたことは、神様の誠実への背信行為となるのです。私たちは、神様を愛していると公言する者です。一時の感情で言っているのではありません。言葉だけで、誠実でないのなら、空しいことです。ですから、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、神様を愛するのです。神様は、このような人を探し求めています。あなたが、信仰の勝利者になって天国へ見事辿り着きたいのなら、主の誠実に応えて、主を愛し続けてください。それは、日々の生活で感情に左右されることなく、主への誠実を心がけることです。今日も、主に誠実に生きたいですね。

 

10月14日(木)

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

Ⅰペトロ3:9

 

世界を良くする力はクリスチャンを通して現われます。それは、彼らが聖書を読み、それを神様の命令と理解しているからです。しかも、聖書の御言葉は力があって約束は神様が実現されるのです。ですから、人間の常識では理解できないことも信仰者はその御言葉の通りにしようと努めるのです。今日の箇所は、その一つです。自分に悪意を向けてくる者をどうするのかという問題は、簡単ではありません。それはケースバイケースだからですが、基本は文字通りでは。悪をもって悪に報いるというのは自然な人間感情ですが、聖書はそうするのではなく祝福を祈るように命じます。悪をもって悪に報いるという方法では、クリスチャンも悪を実行しているので罪に定められてしまいます。一時の感情は満足するかもしれませんが、すぐその後で後悔することになります。罪責感で苦しむことになります。でも、超越してしまい、御言葉の通りに祝福したならどうでしょう。罪責感は起こりません。自分の行った悪に対する報復を恐れることもありません、それに悪を行ったことで自分が嫌な人間になったと神様との距離が離れてしまったというむなしさも生じません。悪を受け流して、祝福を祈れば、神様が関係してきます。正しいことをすれば、神様が復讐されるのです。このように、クリスチャンは、昔の古い私では務まりません。まるで、古い人が死んでしまったと思えるのは、怒らずに祝福しているからです。新しい聖霊の息吹で生きている人がそこに現れるわけです。こんな方法で、新しく生まれたと言える奇跡が実現するのです。楽に生きることができます。

 

10月15日(金)

人を恐れるとわなにかかる。

しかし主に信頼する者は守られる。

箴言29:25

 

人は正しく生きていると人を恐れることは無いのですが、何か負い目があると人を恐れてしまうことがあるのです。特に後ろめたい事があると、なんでも悪い方に考える傾向があります。ですから、正直に正しく生きる事が重要なのです。また、聖書には敵が描かれていることがよくあります。詩編にも敵に悩まされていて、主に救いを求める、という内容の詩がいくつもあります。そして、実際の生活でも心配性の人や不安症の人は、過敏に反応するので人間関係で失敗したり、人を恐れることがあります。では、どうすればいいのでしょう。聖書の答えは、「主を信頼する者は守られる」というものです。これなら、誰でもできます。しかも、すぐできますし難しくはありません。つまり、私たちは何かあった時に自分を守ってくれる方が必要なのです。ですから、主を信頼するのは、いつでも守っていただきたいからです。そして、それは確かな効果があります。そのことを知る人は、起こった悪い事に目を向けるのではなく、信頼している主に目を向けるのです。そこには、主が守ってくださるという喜びすら感じるのです。こちらの方がいいですよね。くれぐれも、人を恐れないように注意していましょう。実際は何もないのに、人を恐れるために、勝手に妄想して悪く考えてしまい、自分を苦しめる結果を招くからです。ここには、主を信頼する信仰は入る余地がありません。ですから、主を信頼する、と自分に言い聞かせておきましょう。主は、必ずその信頼に応えてくださいます。

 

10月16日(土)

主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。

詩編107:20

 

聖書を読むことは良いことです。しかし、その意味は広いのです。ただ良い教えを学ぶためではなく、時には癒しの力があらわれることすらあるのです。主の御言葉は生きて働きます。人を罪、咎、汚れから癒します。イエス様は清くなれと御言葉で、癒していました。聖書を読んで心に変化が起こる経験をした人もいるでしょう。この世の生活に疲れている人たちは多くいます。この世の王であると主張する悪魔は、こっそりと人間を支配し悪いことばかり考えさせようとしています。汚れはすぐに人の内に入ってきます。罪人は暗闇の中に置かれて、それが滅びの穴であることに気がついていません。このままでは本当に滅んでしまいます。しかし、自力ではどうすることもできないし、誰も人間は助けることができません。ですから、救い主が必要なのです。それなのに、主イエス・キリストを求めないのです。私たちも他人事ではありません。キリストが探し出して救ってくださたので天国への道を辿っています。しかし、この世の大勢の人たちは滅びの穴から出ることができません。彼らは何も知らないのです。福音を聞いていないのです。私たちは祈ることができます。彼らの救いのために祈るのです。罪の病で苦しみ、滅びの穴に既に落ちている人たちが主の憐れみで救われるように、「主の御言葉を送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出」してくださいと祈るのです。これなら、誰にでもできます。

 

2021年10月17日(日)

あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新しく生まれたのです。

Ⅰペトロ1:23

 

クリスチャンは聖書を読むことが大切であることを知っています。しかし、それほど熱心に読んでいないかもしれません。今日の聖句を読んでみると、聖書の御言葉は朽ちない種として表現されています。その種は「神の変わることのない生きた言葉」と言い換えられ、その生きた言葉によって新しく生まれたと説明されています。確かに、新生したと私たちは理解していますが、そこらへんがいつも曖昧なのです。つまり、新しく生まれたのなら、もっと聖なる者になってていいのではないか、とか義人として生きているという明確な変化があるのではないか、とすっきりしないのです。ただ、今日の箇所を読むと、やはり御言葉が朽ちない種の役割を果たして新生するということなので、聖書を読むことの重要さがわかります。新生したと言いながら、いつまでも古い自分と変わらないのは聖書を通して神の生きた言葉を自分の内に入れていないからではないか、と心配になるのです。イエス様の例え話でも、良い土地、つまり良い心、あるいは信仰、に御言葉の種を撒けば、実りが100倍、60倍、30倍になるというのですから、信じる心をもって聖書に向かい、聖霊の助けを求めて、神の生きた言葉を受け取ることが必要なのです。本を読むのではないので、本を読むのは苦手という人も心配はいりません。それよりも信仰が大切です。神様の御声を聞きたいとか、真理を知りたいとか、新生した自分が見たいとか、主への渇望があるとより良いのです。祈って聖書を開いてみましょう。自分が思っているよりも聖書が分かると思うはずです。わからないことがあっても気にすることはありません。もっと知りたいと願いを起こすことが肝心なのです。聖霊はその願いに応えてくださいます。教師が必要なら、聖霊が働いてくださいます。せっせと種蒔きをすれば、収穫を期待できます。農夫になったような気持ちで、種蒔きに励みましょう。

 

10月18日(月)

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

コロサイ1:13、14

 

クリスチャンは、この事実によって生きているのです。毎日の生活は、既に御子の支配下にあります。それがどれほどの恵みであるかは言葉にできないほどです。あなたは、日々の生活の変化の中で頑張っておられると思いますが、以前と大きく違っていることは、以前は闇の力の支配下にあったのです。肉が中心の生き方です。欲が満たされたかどうかで良し悪しを判断していました。しかし、今は聖霊が中心の生き方です。肉が無くなった訳ではありませんが、聖霊に従うと心が変わります。聖なることが心地よいとわかっています。しかし、肉が優勢になると罪が法則のように出てくるのです。クリスチャンにとっては、悲しいことで、心も落ち込むことになります。ですから、御子の支配下にあるなら、服従することが求められていることを覚えなければなりません。もはや自力で生きているわけではないので、主の助けを期待できます。そこで、いつでも主を信頼して良い結果になることを信じるのです。たとえ悪魔の誘惑があっても、罪の赦しを受けているのは大きな力になります。正しい方を選び、喜べるからです。罪の赦しがあるからこそ、私たちは主の支配下に置かれているのです。ですから、いかなることにも勝利できると言えるのです。人間の支配下では嫌ですが、悪魔の支配下はもっと最低です。罪人は、その状態から逃れられないのですが、御父は、わたしたちを闇の力から救い出し、イエス様の支配下に移されたので、もう心配することは何もないのです。ですから、良くなることを信じていてください。主は誰よりも私たちの幸福を実現できるお方なのです。そして、天国へ帰る準備をしてくださるのです。主に讃美をささげましょう。

 

10月19日(火)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほけたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。

Ⅰペトロ5:8、9

 

悪魔を信じていない人もあまり気にしていない人もいるでしょうが、悪魔は存在しています。しかも、聖書に書かれている通りに敵として存在しています。それだけでなく、獲物を探し回っているライオンのように危険です。今日の聖句を読めばその通りになっていると認めた方が安全です。それは、悪魔が誰かを食い尽くそうと探し回っているからです。ですから、夢夢油断してはいけません。信仰によって生きると自分に言い聞かせておくことです。中途半端に生きていれば、いずれ悪魔は発見します。出会い頭に出会うことだってあるのです。アフリカで頑丈な自動車の中からライオンを写真に撮影しようとしていた人の自動車のドアーをライオンが手で開けた映像を見ました。恐ろしいことですよね。油断してはいけないのです。危険と思われるところには行かない。いつも祈る人になり、キリストに固く立つ人でいることです。それは、決して難しくありません。キリストを愛し、隣人を愛することを意識していれば、それだけでも安全です。御言葉を読み、心に蓄えておけば、自然と御言葉に調和して生活できるようになります。正しいことを選び、悪に負けないことです。悪魔はキリストに負けました。ですから、私ではなくキリストと言える生き方を身につけるのです。聖書は、明確に「悪魔に抵抗しなさい」と銘じていますから、悪魔を必要以上に恐れてはいけません。ただ、侮ってもいけません。高慢にならずに、キリストのように謙遜である必要があります。何か嫌なことが起こっても、その背後には悪魔がいるかもしれませんから、いちいち動揺して、心を騒がせないことが肝心です。外にいる時も心の内に祈りましょう。主の勝利があなたのものとなりますように。

 

 

10月20日(水)

わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。

神にのみ、わたしは希望をおいている。

神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。

わたしは動揺しない。

詩編62:6、7

 

テレビでコメンテーターが日本の借金問題を深刻に捉えていて、選挙になると誰もが、お金をばら撒く政策ばかり言っている、と苦言を語っている。このようにいつからか悲観的な将来の話が当たり前になってしまった。景気が良くなれば、と誰もが呑気ながことを言っているが、そう言い続けて20年が経ってしまった。もし、神様が支えてくださらなければ、人間の生活などすぐに破綻するのに、そのことすら認識できないでいる。皆、今日のこと、明日のことだけが心配で、何年も先のことなど考えられないようだ。ただ、クリスチャンは知っている。神様が希望だということを。経済の専門家がいくら考えても、神様の御計画はわからない。そして、神様はどうとでもできる力の神なのだ。だから、テレビから悲観する希望のない声を聞いても、動揺しないですむのだ。聖書を読むと、私たちは力を得る。今日の聖句を読んでみよう。敵が来ようが、何か問題が押し寄せようが、人々が困った困ったと叫んでも、私たちは動揺しない。岩のように動くことのない神様が私たちを守り、支えている。だから、私たちが本当に困るはずはない。主は、あなたを祝福しているのだから、心がざわつく時には、黙ってただ神様に向かうことだ。神様だけがあなたを救い、希望を与えることができる。信仰は私たちを神様へと向かわせる。何があっても動揺しない。

 

10月21日(木)

子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたの内におられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。

Ⅰヨハネ4:4

 

悪魔のことをこの世の支配者と呼ぶことがあります。つまり、この世界が一向に良くならないのは悪魔が働いているからです。普通の人たちは、不幸の原因は自分にあると思っているかもしれませんが、意識して他人のせいにして自分を保っています。しかし、本当の敵は悪魔なのです。しかし、目に見えず、いるのかどうかもわからないから気がつくことがありません。悪魔が私たちの人生に悪い影響を及ぼしている限り希望がありません。そこで、神様は御子をこの世に人として遣わしたのです。それは、この悪魔に勝利して人間を救うためです。人間の常識では捉えきれないような大きな神様の愛が勝利の力です。私たちが罪人であった時に、愛され、罪赦され、悪魔の支配からも解放してくださった方が主イエス・キリストです。私たちは、幸いもこの福音を聞き、主の招きに応えて救われました。そして、この世の支配者である悪魔が既にキリストの十字架で敗北したのに、最後の裁きまでまだ生きているのです。それは、一人でも多くの魂が救われるための時間です。そこで、救われた私たちは、悪魔が生きているので攻撃されたり、そそのかされたりするために、罪の問題に悩まされます。しかし、それすらも神様の救済計画には織り込み済みで、聖霊を信じたクリスチャンの内に置いて、その人を創造の時の罪の無かったアダムの姿に戻すために働き、さらに、悪魔に打ち勝つために聖霊ご自身が働かれるのです。ですから、いたずらに恐れること無く信仰によって生きることが私たちの生き方なのです。今日も、感情にとらわれずに信仰で良い日を生きましょう。

 

10月22日(金)

わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

エレミヤ31:25

 

魂を見たことがありますか?きっと誰も見たことがないのでしょう。しかし、聖書に書かれているし、私たちも何かの拍子に「魂」と言っているのです。聖書には人間を言い表す時に、「あなたがたの霊も、魂も、体も」(Ⅰテサロニケ5:23)と書いてありますから、人間は目に見える体と目には見えない霊と魂があるのです。体が疲れることもありますが、実は魂が疲れたり、衰えたりすることがあるのです。これは、人間にとっては大変なことです。体の不調ならば、医者もいれば、薬もあります。でも、魂の医者も薬もありません。ですから、魂をいつも健康に保つ必要があります。「あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けている」(Ⅰペトロ1:9)とありますから、信仰によって魂に良いことが起こるのです。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(同前1:11)という勧告には耳を傾ける必要があります。そして、イエス様は「魂の牧者であり、監督者」(同前2:25)とありますから、あなたとイエス様は羊と羊飼いの関係なのです。このように、魂については色々聖書に書かれています。その中でも、今日の聖句は心に残ります。神様の愛はいつでも具体的なのです。神様は動的で、あなたのために働かれるお方です。あなたを助けたくてしょうがないのです。ですから、あなたの魂に元気がなくなると神様は心配されます。あなたに自由意志を保障していますから、勝手に助けるわけに行きません。だから、あなたは信仰を働かせて、主に助けを求めて率直に祈ればいいのです。そして、否定的なことは言わないことです。どんどん消極的になり、信仰は働かなくなります。まずは、信仰で主に肯定的に積極的に祈るといいでしょう。自分にとって大切な良い言葉を積極的に聴かせましょう。神様を信じていること、感謝していることなど、声に出して肯定的に言いましょう。魂が元気になってきたと実感できるようになるまで、讃美しましょう。こうなると、人生は急に良くなってくるので、肯定的な言葉が普通に出てきます。魂は健やかで元気です。好調をキープしたいですね。

 

 10月23日(土)

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

イザヤ10:42

私たちは、自分のことを愛しているでしょうか。もっと痩せていたら、いや、もっと太っていたら良かったのに、とか、頭が良かったら、運動がもっとできれば、声が良くて歌がうまかったら、と、もっと○○なら良かったと思ったり、言ったりしないでしょうか。そのあなたを見て、羨ましいと思う人だってきっといます。しかし、重い障害を負って生まれてくる人もいます。どうして、神様はこのようなことをするのだろうかと疑問に思う人もいるでしょう。ところが、聖書には今日の聖句が輝いているのです。ハッキリと神様の御声が聞こえてきます。誰に対しても、神様はこの御言葉を語りかけるのです。それは、神様が数えきれない人間を創造してきたのに、まだまだ誰とも同じでないただ一人のユニークな新しい人、それも最高傑作を創造しているからです。レーナ・マリアさんという福音歌手は日本でも有名です。彼女はサリドマイド児です。薬の副作用で重度の障害を負って生まれてきました。両腕が無くて、片足も障害があります。それなのに、人前に出てきて、美しい讃美を歌います。世界中の人が魅了され、彼女に励まされ、癒されるのです。神戸教会の修養会の講師を頼まれて行った時に、観光で寄った場所で出会ったご婦人がレーナ・マリアさんの大ファンだと教えてくれました。クリスチャンでは無い人でしたが、レーナ・マリアさんにキリストを垣間見ているのです。日本人は恥文化と言われるように、なんでも隠す傾向がありましたが、ようやくどんな人の人権も認めて大切にしなければならないことを学び始めています。パラリンピックで活躍した人たちがテレビにも出てきて障害者への認識が変わってきました。とても良いことですね。誰もが尊重される社会が良い社会です。ただ、私たちはありのままに自分を認められずに、自己評価を低くしてしまうことがあるのです。では、どうすれば良いのか考えると、イエス様が愛していると言っているじゃないですか。それで十分ですよね。イエス様に愛されているなら、自信を持って生きることができます。イエス様が愛しておられるのは、あなたが最高に素晴らしい人だからです。イエス様にはわかっているのです。あなたの価値が。ですから、イエス様が認めた通りに、私は最高だと認めたいですね。

 

10月24日(日)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

 

この御言葉は真実です。そう言いたくなるほどクリスチャンはこの御言葉によって困難を乗り越えて行くのです。牧師は終生学ばなければなりません。もちろん、色々な牧師がいて、勉強は嫌いだと公言する人もいます。でも、人に教えたり、説教したり、悩み相談を行ったりするのが仕事ですから、学びは不可欠なのです。それで、神学校を卒業しても、さらに大学院で学ぶことになります。ところが、日本には教団の大学院がありません。そこで、アジア・オーストラリア・東ヨーロッパ・アフリカからの留学生を受け入れる国際大学院を作って毎年、日本からも一人牧師を送るのです。私の順番は3年後でした。留学前には一年間英語学校で留学準備が許されていました。ところが、12月になって教区長から来年留学できないかと電話がかかってきました。その時の留学予定者が辞退し、その次の方は、いきなりでは無理だと断り、それで、私に順番が回ってきたのです。神様は、私をその時に留学させようとお考えだったのです。それで、断れないようにクリスマス会の本番中に、しかも出番の直前に教区長に電話をかけさせたのです。先生、早く、出番です!と急かされて、「はい、行きます」と言ってしまい、家族にも相談せずに留学が決定したのです。もう、英語学校で準備することもできずに、一体どうなるのか考えれば不安になるだけでした。それでも、行くしかないので、留学しましたが、授業は何を言っているのか意味がわかり、試験も何とかなり、特に困ることもなく、ちゃんと卒業させてくれたのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と証言します。アメリカの教会で牧師となった時も、博士課程で学ぶ時も、普通ではありませんでした。本来は大変なことなのですが、ちゃんとできました。これらは、私の力ではなく、ただ神様が信じる者に約束した通りに「どんなことでもできる」ようにしてくださるのです。主を信じなさい。この御言葉を何度も唱えて、自分のものにするのです。できないなどと言う暇すら与えられません。信仰を持って前に進むだけです。たった一度の人生が豊かになり、主のお力によってどんなことでもできるのです。

 

10月25日(月)

 

自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。

箴言3:7、8

 

自分を知恵ある者と思うと、あれこれ余計なことばかり考えるようになり、本当の自分や自分の置かれた状況が見えていない、と言うようなことが起こりやすいのです。そして、自分ならうまくやれると根拠の無い自信が現れます。ところが想定外のことが起こり、ピンチに立たされます。その時に、既に自分の知恵を超えているので、安易な解決を図ろうとするかもしれません。それがたとえ悪であっても従ってしまうのです。このようなことを許すと、何度も同じようなことになります。精神的には悩みが増すので、不眠になったり、健康を害してしまうのです。ところが、主を恐れる人は違います。悪に手を染めません。自分の知恵には頼らないので、謙遜に人の意見を聞けます。自分のプライドを守ろうとするよりも、主を意識して正しいことをするべきだと考えます。ですから、悪い誘惑からも守られます。結局、主の御心を求めて正しいことを選んでいくと、精神的には健全で楽になります。クヨクヨと悩むことがないので、安眠でき、健康でいられます。主を畏れることは、難しく考えずに主を第一にすれば良いのです。うまくいく時には、自分の手柄にしないで主のおかげであると認めることです。悪魔は天上にいた時に、自分を知恵ある者と思ったので、堕落したのです。イエス様のへりくだったお姿に倣いたいですね。

 

10月26日(火)

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

ピリピ4:19

 

聖書の中に、こんなにハッキリ私たちの必要を満たしてくださると書いてあることに驚きます。私たちは罪人であったのにイエス様の十字架の犠牲で恵みのみで救われました。その後、罪のない人生を生きていくと決意したのに、それほどは上手く行かないで何度も神様を悲しませ、失望させてきたのですが、それでもこの御言葉は取り消されることなく、今も有効なのです。私たちの救いというのは、人間が思っているようなものではありません。人間は単純にクリスチャンになったら罪を犯さずに善行に努め、正しい人として生きることと思っていたのではないでしょうか。しかし、それはすぐに失敗してしまうのです。ですから、今度こ立派に生きてみせると頑張るのですが、自分が砕かれるような結果になってしまいます。そこで、聖化は神様の恵みでだんだんと起こるもので、そのためにはパウロの言うように罪を犯さないように肉ではなく聖霊を選ぶことが必要です。このように、人間が義となり聖化されるのは時間がかかるのです。その間も、神様の恵みは続きます。それで、時々、自分はダメだと落ち込むようなことがあっても、神様の愛は変わらないことを覚えておきましょう。今は、生きて行くのも大変だと言われる時代ですが、それでも、クリスチャンには今日の御言葉の約束があります。それは、圧倒的な約束です。ですから、何事も思い煩うことなく、主を信じて幸福に生きていけばいいのです。そうそう、物質だけではなく霊的にも、そして健康も神様の栄光の富の中に入っています。ですから、あなたの必要を全て満たしたしていただけます。

 

10月27日(水)

見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

創世記28:15

 

クリスチャンになってよかったことは沢山ありますが、主が共にいてくださることが大きいです。一人で途方に暮れなくても済みます。困難に遭遇しても決して一人ではないと言い聞かせ、主がともにいてくだされば怖いことなはないと自分を励ますことができます。主の御言葉は「あなたを守り」と約束していますから、恐れることもありません。神様の約束は絶対です。ですから、聖書から祝福の約束を探してみることは意味があります。また、どのようなや約束が書かれているか探してみるのも意義深いです。神様はあなたに約束したことがあって、それを「成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と言われました。ですから、あなたには主のなさる良いことがあります。それを主は成し遂げます。それが何であるか、わからないかもしれませんが、信仰に固く立っていれば、やがて知ることになります。再臨の時に天国へ連れていってくださる約束かもしれません。たとえ、再臨前に眠りについたとしても、その日、御使が現れ、あなたを起こして天に連れて行って下さるのです。この地上にあっても、主は羊飼いとなって、あなたを羊として養い導かれるのです。ゴールが定められているのなら、そのゴールに主と一緒にたどり着くことになるでしょう。いずれにしろ、あなたはこの世の人たちとは違った、最善の道を歩むことができるのです。あなたが理想通りには生きていなくても、たというまく人生が行っていないなくても、それでも主は、決してあなたを捨てないのです。ですから、明るく生きることにしましょう。

 

10月28日(木)

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。

マルコ11:25

 

クリスチャンになって、困難に感じる事の第一が「赦す」というチャレンジです。そこで、何度も頑張って赦すのですが、本当に赦したのかどうか自分でも定かではないのです。その証拠に、しばらくしてまた、恨みごとを思い出して苦い思いをするからです。立って祈る、というのはあまりしないかもしれません。立って、といえば神様に向かって近づくとか、歩き出すあるいは何か行動を起こすというイメージがあります。ですから、神様に近づこうとするなら、まず自分でできる重荷をおろしなさい。それは、ひどいことをされて恨むというのは自然なことだけれど、その時のダメージを何度も繰り返すことが恨むことなので益が何もないのです。赦すと、その束縛から解放されます。楽になるのです。心に重荷がなければ、どんな時も楽なのです。私たちはイエス様に罪を赦されましたが、それはイエス様が犠牲を負われてはじめて可能となりました。ですから、赦すというイメージは十字架にかけられるイエス様なのです。私たちは、赦すと言えば良いのです。その裏付けは、十字架の主です。私たちも、天の父に罪を赦していただけるのですから、どれほどのメリットがあるかしれません。イエス様の苦しみに比べたら、私たちの赦すための心の痛みは本当に小さなものとなるのです。今日、御言葉が与えられたのですから、赦してやりましょう。そして、スッキリして楽になりましょう。

 

10月29日(金)

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ヤコブ1:2-4

 

スタンフォード大学の新入生には、「成長型マインドセット」を学生に教えているそうです。成長型マインドセットとは、自分自身に挑戦することでしか潜在的な能力を発揮できないという考え方です。つまり、失敗したり、目標を達成できなかったとしても、それがそのままその人が無能で力不足であるということではなく、そこから、なぜ失敗したのか、どうすれば修復できるか、最善の道は何か、と成長へ向けて前進する必要があるのです(『スタンフォードの心理学講義 人生がうまくいくシンプルなルール』p13より)。クリスチャンの場合は、試練が実はその人の信仰の成長のために絶好のチャンスなのです。信仰に必要な要素として第一は信じること、第二は忍耐なのです。人生の失敗は誰にでも起こります。しかし、失敗自体は大したことはないのです。問題は、そこから逃げ出してしまうか、それとも反省してその失敗をどう修正し、回復するか考えて努力することです。人が自分をどう見ているか、ということが気になるところですが、それを捨てるのです。カッコよく、体裁よく、などとこだわっていると最後は逃げ出すしかありません。挫折したことになるのです。でも、失敗はいけないことではないのです。エジソンは失敗を沢山したので、もっと学んでもっと良くして、と反省はしても立ち止まらなかったのです。そこには忍耐が入ります。聖書の勧めは、「忍耐を完全に働かせなさい」です。私たちの目標は、成長して完全な者となることなのです。その秘訣が忍耐だということを覚えておきましょう。

 

10月30日(土)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

Ⅱコリント5:17、18

 

よく考えてみると、クリスチャンになって全ては新しくなりました。確かに人生の道を大きく変えたのです。それは以前より良くなったという意味です。このことは、聖書に書いてあるのですから、どの人にも当てはまることです。「キリストのうちにある」とは、人生を変えるほどにキリストを信じていることです。つまり、クリスチャンであることです。ですから、クリスチャンになって、全てが新しくなっているのですが、それに気がついていないか、古いものの延長線上に今もいると信じている人は多いのです。そのことは新しくなっているのに古いままだと思って生きているのですから問題が起こります。そこで、古い人を砕くことになります。それが試練です。痛い思いをしなければ気が付けないとは情けないのですが、それが現実です。しかし、聖書をよく読んで自分の認識を正しく修正することができれば、砕かれる必要は無くなります。すでに、キリストが十字架で死なれた時に、罪人の自分も一緒に死んだと理解できるからです。そのおかげで神様と和解できたのです。このことを救われたと言っています。ですから、私たちが伝道するときに神様は和解の務めを私たちに与えてくださったのです。これほど、厳粛なことはありません。皆様のことを聖徒と呼ぶ理由がここにあります。聖なる務めだからです。

 

10月31日(日)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊になり、本当に重要なことを見分けられるように。

フィリピ1:9、10

 

愛と見分けが関係あるとは普通は思わないでしょう。しかし、パウロは、関係が密接にあることを指摘しています。私たちは愛についてどれほどのことを考えているでしょう。もしかすると、聖書が求めているほどには愛を理解していないのかもしれません。まず、「知る力と見抜く力を身に着けて」とあります。これは、人の心を知り、見抜くと考えるとわかりやすいです。私たちはキリストによって無条件の愛を受けたのですが、人間は条件付きの愛は知っていますが、無条件にとはなかなかなれません。そこで、自分を愛してくれれば愛することができますが、自分に敵対する者を愛することはできないのです。ところが、キリストは「敵を愛しなさい」と命じます。そこで、苦しむことになりますが、納得できません。しかし、今日の身言葉の通りになればどうでしょう。相手の心を知るならば、その人の悩みや本心がわかってしまので、その人の隠れた事情が同情すべきものであると知ることができるのです。そして、本当に悪い人か実はそうではなく助けを求めている惨めな人なのか見抜く力があれば、この人のために何か愛の業が現れて、この人の助けになるかもしれません。表面的な愛に終始するならば、その愛は底の浅いものでしょう。しかし、聖書が求めている愛は、想像以上に深く豊かな愛なのです。ですから、人を見分ける力と愛は大きく関係していて、キリストの要求している愛に近づくためにも必要なことだったのです。