2022年10月ディボーション

10月1日(土)

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

ヨハネの手紙一2:15~17

 

信仰を持って歳を取ると、良いことが多いような気がします。その大きな部分が今日の聖句です。「世も世にあるものも、愛してはいけません」とありますが、若い時はこれは難しい言葉と響いたと思います。若い人は都会に憧れ、流行を追います。ファッションも含めて欲しいものだらけでしょう。でも、教会に守られることはあります。教会の価値観が聖書にあるので、この世と対立しているからです。青年会は、世俗の遊びをしませんから、真面目な青年には安全地帯になっているのです。それでも、この世に生きていれば、あらゆる誘惑が毎日身近に迫ります。これは、青年だけではありません。誰でも、神様を第一にするかどうかという試みはあるものです。幸い、私は牧師に召されたので、世の誘惑からは守られました。神様を第一にするために、全てを捨てようと決心したからです。牧師のように献身者になる人は世を愛する誘惑がないかと言えば、あります。この世で伝道・牧会しているのですから当たり前ですが、肉の欲、目の欲、生活のおごり、は気をつけていても、世から出ているので人間的な頑張りでは勝てないでしょう。そうなると、信徒の皆様には勝ち目がないかと言えば、そうでもありません。今日の聖句の最後に「神の御心を行う人は」とあります。つまり、信仰によって生きる決心ができているクリスチャンは、何かしら努力をしているのです。主の御心を知るには、どうすれば良いのだろう。御心を知るだけでなく、行う人になるにはどうすれ良いのだろう。このように真剣に考えて、良いと思うことを何でも試しているのです。もちろん、聖霊によらなければ主の御心を行うことはできないのですが、その聖霊が働くことのために自分がしなければならないことを知ることはできるのです。もちろん、誰でもクリスチャンならできることです。ただ、「主を第一にする」ということを真剣に取り組む人と、聞いても右から左に抜けていく人では、大きな差が生まれてしまいます。それは、言葉を変えれば、世にある、肉の欲、目の欲、生活のおごり、そのままに生きる人と、この世を捨て去り、神の国に生きると決心している人の差と言うことができます。キリストを愛して生きていると自負が持てるようになれば、心配することはなくなるのですが、自力で頑張って生きなければとこの世の方を見ている人は、いつどうなるかわかりません。この差は信仰の差ということができるのです。主を信頼しなさい。主を信じているという通りに生きるのです。主の尊さゆえにこの世のことはどうでもよくなるでしょう。この世から自由になって、主の祝福を楽しみましょう。

 

10月2日(日)

心配は人をうなだれさせる。

親切な言葉は人を喜ばせる。

箴言12:25

 

人は生きていれば心配もするものです。杞憂に終わることが多いのですが、仕事や人間関係で心配するようなことが起こることは気をつけていても起こるものです。それ以上にあるのは、家族です。家族のことはどんな些細なことでも心配の種になるのです。できれば、心配しない人生が望ましいのですが、善い人ほど心配性である場合が多いのです。あれこれと気遣いしすぎるのかもしれません。心配していること自体を隠したいと思うのですが、どうしても気持ちが心配の方に傾くので、その人の様子が変わります。心配が深いほど、人をうなだれさせるわけです。ですから、私たちは人を心配させないようにしなければなりません。自分自身もよく祈って心配しないように主への信仰を強く持つ必要があります。そればかりでなく、心配は人をうなだれさせるのですから、すぐに気がつくわけです。もし、心配している人を見つけたら、効果的なのが「親切な言葉」をかけることです。これは、真心からの言葉でなければなりません。クリスチャンこそ、この役にふさわしい人はいません。言葉が上手である必要もありません。クリスチャンのうちにある愛が発動すれば、人の心に届く言葉が出てきます。それを聖書は親切な言葉と呼んでいます。この愛の言葉は、「人を喜ばせる」力があります。人間の不思議は、人をうなだれさせることもできるし、逆に人を喜ばせることもできることです。私たちは、心して「親切な言葉は人を喜ばせる」と覚え、できるだけ毎日「親切な言葉」を語る人になることです。それは、想像以上に人を助ける良いことなのです。早速、今日から人を心配させるような言葉は慎み、人には親切な言葉をかけて喜ばせよう、と決めてみましょう。あなたの印象が変わるはずです。皆んながあなたの言葉を聞きたいと思うようになります。

 

10月3日(月)

一つのことをつかむのはよいが

ほかのことからも手を放してはいけない。

神を畏れ敬えば

どちらをも成し遂げることができる。

コヘレト7:18

 

私たちは、「二兎を追うものは一兎をも得ず」と聞いてきました。その通りの場面を何度も見てきました。しかし、コヘレトは違っています。一つだけつかんでいればいいというわけではない、と言うのです。「ほかのことかも手を放してはいけない」と言います。これを読んでも、何となく一つに集中した方が無難ではないかと消極的に考える癖がついています。ところが、下句は驚くべき信仰の捉え方が書いてありました。「神を畏れ敬えば」という条件付きなのです。その結果は、「どちらをも成し遂げることができる」と言うものです。信仰を守ために仕事を諦めると言う人がいますが、それは性急に結論を急ぐことはありません。なにしろ、信仰を守ためと言っているのですか、「神を畏れ敬えば」というところをよく考えてみることが必要です。それだけでなく、実践することに意味があります。そして、両方共うまくいくことを体験すればいいのです。私たちは、簡単に信仰を投げ出すことがあります。確かに、礼拝を守るかどうか、試されることがありますが、それは大抵、自分にとって大事な仕事です。あるいは、個人的な用を優先することもあります。しかし、その時には、神様との距離が開いているのです。人間の常識では仕方ないとなるでしょうが、今日の聖句が知恵の書に書いてあるのです。ですから、「どちらも成し遂げることができる」のです。実は、私が牧師として一番教えたいことは、「神を畏れ敬えば」と言う真理です。これは、クリスチャン全員が身につけたいことです。そうすれば、人生は人間の常識を遥かに超えて好転し、幸福になるからです。これだけのことなのですが、差が出てしまうところでもあるので気をつけましょ。今日、この御言葉が与えられたので、大きく成功するチャンスが到来しているということです。楽しみですね。

 

10月4日(火)

あなたたちは一人で千人を追い払える。あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである。だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。

ヨシュア23、10、11

 

チャレンジという言葉はある日、自分に回ってきます。その時に、怖気付くか、見事に挑戦して成功するかは、自分しだいなのです。さて、クリスチャンの場合は、ちょっと特別です。それは、神様が味方するからです。普段、平和な時には、神様への信頼を口にすることは簡単です。しかし、新しいことに挑戦しなければならないような特別な時には、信仰が試されます。あなたは、それでも主を信じるか?と聞かれているようです。ヨシュアの時代には、カナンに侵入して先住民であるカナン人を追い出さなければなりません。まさに命懸けの戦争です。戦う以前でしたら、主を信じますと信頼を口にできましたが、敵を前にして、死ぬかもしれないという緊迫した場面では、今までのような主への信頼を表すことができるでしょうか。その時の御言葉が今日の聖句です。なんと、神の民は一人で千人を追い払えるというのです。昔の剣豪よ呼ばれた剣術に長けた者でも、相手が二人三人となると不利になるそうです。ですから、一人で千人を相手にできるはずがありません。漫画でも一人対千人など想定外です。ですから、神様が信じる者を守るというのはとんでもない常識を遥かに超えた圧倒的な力で守ることを意味しています。何しろ、神様があなたのために敵と戦うのですから。そのようにあなたは守られているのです。ただ、主を信頼する信仰を持っていれば、という条件付きです。すごい信仰が必要なのではと心配することはありません。秘訣は、最後に書かれていました。「あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」ということです。ここが全てなのです。「あなたの神、主を愛する」このことだけはあなたにしかできません。そして、すでにあなたは主を愛しています。ですから、あなたの挑戦は必勝なのです。主に勇気をいただいて、約束されている勝利をつかみに行きましょう。

 

10月5日(水)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:16~18

 

牧師は、時々、聖書に何か書いてくださいと言われることがあります。黙示録の最後に、「これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる」と書いてあるのだから、聖書に何も書きたくないと言ってみても、結局、下手な字で聖句を書いて署名するのですが、それだけで聖書の価値が下がったのではないかと心配になるのです。さて、では、どんな聖句を書いているかといえば、今日の聖句を書いています。なぜなら、クリスチャンに一番励ましとなり、大いに恵まれ、霊的に成長が期待できるからです。もちろん、ここに書かれた通りにすればです。今のように昭和が懐かしいと言われるような厳しい時代には、皆が自信を持てずに落ち込みやすいのです。ですから、特に、「いつも喜んでいなさい」という命令は、下手なサプリメントよりよっぽど効き目があります。クリスチャンでも意識的に実行している人は少ないのではないかと気になります。有名な聖句ですから、知っているのに、実行しない。これはとても損です。なぜなら、聖書に書かれているのですから、明らかに神様の御言葉なのです。ですから、力があります。人生を幸福にする不思議な言葉なのです。いつも喜んでいようとしても、できない時もあります。そんな時に助けになるのが、「絶えず祈りなさい」です。絶えず祈り続けるのは無理があっても、困った時や、落ち込みそうだと気がついた時に、助けが必要な時にも、大きな事は時間をかけて祈っても、突発的に起こった出来事には、すぐに短くていいので祈ると助けがきます。日本では、119番や110番は緊急事態の時にと覚えていますが、アメリカは911です。何が起こってもすぐに911にかければ、大きな消防車がすぐに駆けつけてきます。それがどんなに心強いことか。私たちも緊急電話のように、いつでも天に祈れるということを覚えていましょう。最後に、人生の成功法則を教えると、「どんなことにも感謝しなさい」と覚えてください。悪いことでも、感謝すれば、良いことに変わることを経験すべきです。神様はあなたのために万事を益とするのです。それを実現させる方法が、「どんなことにも感謝しなさい」と言われた通りに身につくまで何度も努力して、実行するのです。奇跡は身近にあることを知るようになります。お金も時間もかからずに人生成功の秘訣を聖句から三つ教えました。あとは、あなたの番です。身につくまで頑張ってください。

 

10月6日(木)

あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人

わたしはこのような人の友となります。

詩篇119:63

 

私もこのような人の友となりたいです。ただ、伝道を志すと、無条件に誰でも救いの対象と考えてなんとか救われるようにと頑張ることになります。しかし、多くの場合、全くキリスト教に理解を示さない人がほとんどなのです。不思議なのは、キリスト教が全く理解できていないのに、その人は理解していると思っていることです。聖書を読んだこともない人が、クリスチャンを神はいないのにいると信じている困った人だと思っているのです。ですから、そのような人に伝道しても仕方がないかといえば、そうでもないのです。パウロのように、キリスト教徒を公然と迫害した人が救われて良い働きをすることだってあるからです。一方で、クリスチャンになった人もいろいろです。その人の個性が信仰に反映されるので、こうでなければならないとは言い難いのです。しかし、クリスチャンの中で、「神を畏れる人、神の命令を守る人」がいます。この人は、神を知っていて、神を畏れ、忠実であろうと全身全霊をかけようとする人です。パウロが、「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:6)と書いたように、信仰に熱心であれば、パウロのようになれる人もいるでしょう。しかし、詩篇記者が言いたいことは、そうではなくて、神の愛を知る信仰のゆえに、神を畏れ敬いながらも深く愛している人の姿なのです。このようなクリスチャンは決して少なくありません。「このような人の友となります」とは、自分も同じだから、ということを強調しているのです。今日の聖句は、私たちに信仰の姿を教えています。少し、瞑想してみましょう。

 

10月7日(金)

人は見識のゆえに賞賛される。

心がいじけている者は侮られる。

箴言12:8

 

人間が素直に人を認めて感動にも似た賞賛をする場合は、それは人の「知性」に対してです。新共同訳では、「見識」となっていますが、人の知性を知るには見識によることが多いのです。例えば、テレビのクイズ番組が多いのは、人々が知性に憧れているからで、自分にも知性があることを示して満足したいからなのでしょう。さて、今日の箴言は対(つい)になる言葉として、「心がいじけている」という厳しい言葉を選んでいます。これは、ちょっと厄介です。いじけた心はすぐには治らないからです。この人は、箴言によく出てくる愚か者ではありません。しかし、生きていく上ではもっとよくありません。箴言の文章を最後まで読めば、「侮られる」と書かれている通りだからです。人間は、どのような人でも尊厳を認められているのでなんとか生きていけますが、侮られると自信を失い、ヤケになったり、自己憐憫に陥ったり、正常な判断ができなくなったりします。そして、自己肯定感を失うことになります。心は良いものですが、それがいじけるというのは、機能不全を起こしているということです。ですから、心の持つ力が無くなってしまいます。それだから、自分で自分のいじけている心を治そうとしないのです。大人になって心がいじけている人は、よほどの挫折経験やいじめのようなひどい経験をしなければこうなりません。それよりも、子供時代とか思春期にひどい仕打ちを受けたりしていることが影響していたりします。では、このような人はどうしたらいいのでしょう。信仰を持てばいいのです。ただし、信仰を持っていても心がいじけることはあります。PTSDのような辛い経験や自尊心を深く傷つけられたりしたことがもとで精神的に後遺症を残すような場合です。神様に癒しを求めることは効果がありますが、信じる心そのものに障害を受けているのですから、否定的なことを信じることが強くなってしまう傾向があります。そこで、聖霊に力付くで助けていただくことが必要ですが、それと同時に、今日の聖句の上の句「人は見識のゆえに称賛される」という方法があります。「知性」を働かせるのです。過去のトラウマに縛られ続けることをやめる必要がありますが、簡単ではありません。肯定的に話す人と話してみるのも良いし、好きなことを勉強することも良いです。聖書を学ぶことも効果があります。祈ることも良い効果が期待できます。好奇心を働かせて、興味あることを何でも体験してみることは楽しいし、経験として残るので良いです。自分がずっと気になっていることをやり遂げることも良いです。例えば、英語をもっとできるようにする、とか、スキーを上手になりたいから教室に参加する、とか、漢字検定や歴史検定など、挑戦してみたいことをやるのも良いです。仕事なら、人よりも努力して誰よりも詳しくなる、とかうまくできるようになるとか、技能を磨いたり、資格を取ったりというのも皆良いことです。さて、「見識」と呼ばれるには、これだけでは足りません。その人が人格者だと言われるぐらい人として立派になることも大切なのです。その点、クリスチャンは信仰があるので、きっと人格者と認められるようになります。誰でも、普通に聖書に書かれたことを学んで実践していけば、そうなるのです。ただ、いじけた心では、何をしてもうまくいかないので、初めに徹底的な悔い改めと、主イエス・キリストを信じることが確かめられなければなりません。なぜなら、いじけた心には、神への不信感があるからです。自分がひどい目にあっても助けてくれなかったと思っているし、自分ばかりがひどい目に遭うとも思っています。神に嫌われているからだという結論になっているのです。ですから、見識が無いのです。正しい判断ができないということです。ひどい目に遭ったのは自分のせいだという考え方にならないで、神のせいだと責任転嫁が起こっています。うまくいかないのも神がそうしているからだ、と考えているのですが、これが「心がいじけている」という意味です。このような状態だと、誰からも侮られるので怒りが湧いてくるでしょうが、いじけている限り抜け出すことができないのです。この怒りを、エネルギーにして、見識に結びつける努力をすることが抜け出す方法です。自分の能力を否定しないで、肯定することです。本来、神様を信じている人は、正しい見方ができるようになり、正義を尊ぶのでどんな状況でも正しいことを行い、謙遜で人を深く愛することができます。神に近づこうとするので、神に近い人になれます。行動原理が全て聖書から出ているので、人々から見識ある人と認められるようになり、愛の行為は賞賛されるようになります。まずは、いじけることをやめようと強く思うことで、本当に止めることです。

 

10月8日(土)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

クリスチャンになって、まず教えられることの一つが「思い煩うな」ということです。そう言われても勝手に思い煩ってしまうのでどうしていいかわからない、という人は少なくありません。人間の中のおかしな法則に「○○しない」と思うと、逆に「○○してしまう」というものがあります。ですから、「思い煩うな」と言われて、そうしようと思うと逆に「思い煩ってしまう」という結果になるのです。この法則と戦うことは苦しいことです。どうも、人間は頑張って力が入ってくると、簡単なことでもうまくいかなくなるようです。スポーツ選手が力が入り過ぎて、失敗するのに似ています。そこで、聖書をよく見てみると、今日の聖句が正しい理解を教えていました。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とあるではありませんか。自分で頑張って思い煩わないようにしようとするのではなく、思い煩うようなことがあれば、すぐに「何もかも神にお任せする」と決めて実行するのです。もし、試してうまくいかないという人は、「何もかも」が抜けているかもしれません。全て明け渡すのです。つまり、考えることも神にお任せするということです。コツを掴めば、あとは楽なものです。真面目な人ほど、手こずるかもしれませんが、今日の聖句の肝心なところは、実は、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる」という箇所です。神は、あなたのことを心にかけていてくださるので、何の心配もいらない、ということです。せっかく信仰を与えられているのですから、信じてください。

 

10月9日(日)

しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたがたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。

ルカ6:27~29

 

クリスチャンになると、まず聖書を読んでその教えから学んだことを実践しようとするものです。ところが、イエス様の教えは人間的な考えでは理解できないものなのです。そうであれば、他の人に自分同様にイエス様の教えは厳しすぎるし、守れないと同調して欲しくなります。そして、無視することになります。それから、成長の日々が続き、長い時間をかけて同じような聖書の標準の一つ一つを身につけて行きます。そして、ある日、守れるはずがないと無視してしまった聖句に、また目を向けさせられるのです。その時には、平和をかき乱すような事態に陥っていることでしょう。まさに、敵の意味を知るのです。そして、それに対して自分がどうすれば良いのかが問われます。実は、イエス様のお言葉は、さらに36節まで続いています。興味のある方は聖書を開いてお読みください。この後、イエス様は「罪人でも・・・」と語ります。それを読むと、自分が罪人と変わらないことに気がつくようになっているのです。クリスチャンだと自負して生きてきたのに、何もわかっていなかったのではないかと驚くのです。なぜ、キリストの教えの通りにしなかったのか、言い訳ばかりで無視してしまったのか、クリスチャンだと自負していた自分が情けなくなります。この文章の最後に「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(36節)とあります。そうか、クリスチャンは天の父と同じように「憐れみ深い者なのだ」と、悟れれば良いのです。今度は、無理と簡単に投げ出すことなく、主にすがって御言葉の通りにできるよう祈りましょう。ここが、クリスチャンと呼ばれるようになるか、クリスチャンらしいと呼ばれるかの試金石です。自分の思いを優先して生きるのか、主のお言葉に従う弟子として生きるのか、決めなければ前に進めない時があるのです。

 

 10月11日(火)

主よ、それなら

何に望みをかけたらよいのでしょう。

わたしはあなたを待ち望みます。

あなたに背いたすべての罪からわたしを救い

神を知らぬ者というそしりを

受けないようにしてください。

わたしは黙し、口を開きません。

あなたが計らってくださるでしょう。

詩編39:8~10

 

詩編39篇は、私たち人間がいかにはかないかを詩人はつづります。「ご覧ください、与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの」と言います。いかにも人生は短いものだとはかない感じが伝わります。しかし、それはあまりにも悲観的です。何が問題なのかは、12節で出てきます。「あなたに罪を責められ、懲らしめられて・・・」と。さて、この詩編39篇は、見事に起承転結になっています。自分の罪の結果、神の懲らしめがあって、死にそうになり人生ははかないものなのだと思います。では、どうすればいいのか、それは神に望みをかけることだ、「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い」責めを受けないで済むようにして欲しい、ということです。詩人は、ここで沈黙し、主の計らいを期待します。そして、祈りを主が聞いてくださり、涙を見てもなお沈黙することのないように。私が死んでしまう前に主の裁きの目をそらせて、立ち直る機会を与えてください、と結びます。これは、私たちクリスチャンにとっても、大いに参考になります。クリスチャンの成長段階で、主に罪の問題を厳しく裁かれる時があるからです。それは、自分がまだ人間的な欲で生きていたことを知る時でもあります。それならば、悔い改めればいいと思われますか。その通りなのですが、主は時間をかけて信仰によって救われる意味を悟らせようとしますから、それほど簡単なことではありません。自分は正しいという思い込みや、古い自分が頭をもたげているので、罪の問題を簡単には解決できないのです。そして、いかに自分が罪を過小評価していたかを思い知るのです。このような時に、口を開けば、自己正当化の悪い癖が出てくるのは目に見えているので、黙して語らず、となってしまいます。このシリアスな厳しい罪問題を徹底的な悔い改めと信仰による義によって取り去ることになるのです。そして、主の油注ぎさえ期待できるのです。

 

 10月12日(水)

それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」

ヤコブ4:5、6

 

ここだけ読めば、クリスチャンがどれほど恵まれた存在なのかがわかります。何しろ、神様に愛されているということがどれほど価値のあることか想像できないほどです。ところが、聖書は明確にあなたが神様に愛されていることを教えています。それも、あなたの内に送った聖霊をねたむほどに深く愛しておられる、というのです。ここで、賢い人は悟るはずですが、これほど神様に愛されているのに、その愛に応えて生きているだろうか、という疑問です。真の神様は愛そのものなのです。ですから、あなたが地上では経験したことのないほど神様はあなたを深く愛してくださっているのです。それを疑ってはいけないし、愛を受け取る必要もあるのです。ところが、神様の愛を実感していない人は、最後の御言葉を考慮しなければならない。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」という箇所です。ここでわかることは、自分が高慢でないかという反省と吟味です。高慢でないことを確かめられるのは、反対語の謙遜な者に自分がなっているかどうかを知ることによるのです。何しろ、私たちの模範であるキリストが謙遜であったことをいつも忘れてはいけません。そして、謙遜がどんなに難しいことであるかを知ることになります。ただ、恵みを神様から受けることができるのは、謙遜な者だけなのです。罪に打ち勝ち、誘惑に勝利し、キリストの道を辿ることができるのは、謙遜になることです。その人だけが、受ける恵みがあるということです。これは、皆さんがたどらなければならない天国への道です。当面、謙遜を意識して生活を送ってみましょう。良い変化が期待できるはずです。

 

10月13日(木)

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子の姿に似た者にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

ローマ8:28、29

 

あなたは神を愛する人だと思います。そうでなければこのディボーションを読んでいないでしょう。実は、神を愛さなければならないから愛しているわけではありません。自然と愛しているはずです。それが、証拠です。何の証拠かと問われれば、「神のご計画に従って召された人々」の証拠です。罪人は自然と救われるということはありません。全て、神様のご計画によっています。それも、クリスチャンは聖書から学び、知っています。「ご計画」とあるように聖書には神様の救済計画が記されています。解説というよりも、出来事として説明しているのです。ですから、それをよく知ることが肝心です。それから、「すべてのことを働かせて益としてくださる」という特権が付いています。ですから、クリスチャン・ライフは心配無用なのです。これも、肉的に理解してはいけません。霊的に理解するように努めましょう。何しろ、これほどの特権は、世俗で利益を得るためのものではありません。神様は肉を満足させようなどとは考えていないのです。それよりも、聖霊に従うように求めています。そして、神様の目的が、私たちを御子イエス・キリストに似た者にならせることです。そこで、クリスチャンになってからも色々なことが起こるわけです。試練や鍛錬すら、キリストに似た者になるために必要なのです。キリストに似た者になるのは、キリストの兄弟姉妹になるためです。それは、神の子になるという意味です。これが、神様の選びによって決まっているのです。信仰によって生きる意味がわかりますね。

 

10月14日(金)

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。

エフェソ4:26、27

 

怒ることは罪ではありません。ただ、怒りに任せて罪を犯すことはあります。人を傷つけたりすれば後で後悔します。感情的な人は怒りやすいので注意が必要です。自分で怒りに火がつかないように自制が必要です。クリスチャンになると、怒ることも危険であることがわかるので、できればすぐ怒るようなことはないようにしようと自制します。しかし、悪を見れば正義から怒りが湧くでしょうし、不当な仕打ちをされれば怒りが湧くでしょう。人間の価値を考えるような年齢になると、簡単に怒るような人間は尊敬されないし、器が小さいと思われて恥をかくから余計に怒ることのないようにしようと考えます。そのために、クリスチャンは赦すことを覚えます。右の頬を打たれれば、左の頬さえ向けるようになるのです。昔、聞いた「汝の敵を愛せよ」は、自分には無理とあきらめたのに、何十年も信仰生活を送ってくると、不思議と受け入れられるように変えられているのです。さて、では、怒っても罪を犯さないようにするには、どうすればいいのでしょう。一つは、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」という御言葉を守ることです。やり過ぎたと思えば、相手に謝ることも必要になるでしょう。つまり、罪を犯さないためには嫌なことをしなければならないのです。次の日もまだ怒っているというのは、健康にも悪いし、自分自身が苦しくなり、嫌な気持ちのまま過ごすことになります。相手がどんなに悪くても、だんだん怒った自分が惨めになってきます。そして、一番大事にしていたはずの人間関係を修復困難にしてしまうのです。意地を張って人間関係を絶ってしまうのは、大変愚かしいことなのです。意地を張るほどのプライドなど、実は守るほどの価値もないのです。ただ、怒りが爆発してしまうとやり過ぎてしまい、大抵は罪になります。怒りがコントロールできないのなら、罪になる危険が大なのです。これは、まずいし、下手をすれば一生怒ってしまったがために引き起こしたことが負い目になり、人生を暗くすることだってあるのです。何年経っても、その時の嫌なことをなん度も思い出して苦しむことになります。だから、怒ってはいけないのです。そこで、二つ目は、怒らないと決めることです。どうやって怒らないようにするかといえば、神様の助けを借りることが不可欠です。怒りやすい人は怒りの沸点が低いので簡単に他人のことでも怒ってしまうのです。ですから、コントロール不能なのです。そこで、怒りをコントロールするのではなく、怒らないと決めるのです。その動機は、「悪魔にすきを与えてはなりません」と書かれている通りです。悪魔と善悪の大争闘を繰り広げていることをクリスチャンは知りました。神の軍勢と悪魔の軍勢が戦争状態なのです。その間に人間がいます。私たちは神の軍勢に入れられているのです。だから、悪魔に対する権能も授けられています。それなのに、怒ってしまっては、悪魔にすきを作ることになり、負けてしまう危険が生じるのです。これは、愚かなことですから、怒ることを放棄するわけです。ここまでやっても、怒らせようと悪霊の攻撃があるかもしれません。そのような時には、自分に、「日が暮れるまで」と言い聞かせるのです。この効果は絶大です。すぐに頭にくる人は、この御言葉を読んで、神様に祈りましょう。寛容な器の大きな穏やかな人になれるように願ってみましょう。

 

10月15日(土)

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

エフェソ4:30

 

クリスチャンがなぜ天国へ入れるのかを考えると、すぐにキリストの十字架の贖いがあったから、と答えるでしょう。しかし、救われてクリスチャンになった後の生活を見ると、果たして本当に天国へ入れるのか不安になる人もいるでしょう。それどころか、真面目に頑張って、立派なクリスチャンになろうと努力する人もいると思います。徳を積み、聖なる者になり、見事、最後の裁きに耐えることができるようになろうと考えるのです。しかし、今日の聖句を読むと、少し違っています。「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」とあります。贖いの日は、最後の審判のことでしょう。その日に、一人一人の裁きがなされるのです。私たちも例外ではありません。しかし、私たちはキリストの十字架の贖いを信じたので、罪の赦しがあり、罪とが汚れから清められているのです。その証拠に聖霊が送られてきて内側に住んでいます。その聖霊は最後の審判の時に、あなたがキリストを信じた信仰のゆえに贖われている保証となるのです。ですから、とても重要です。その聖霊を悲しませるのは、クリスチャンがキリストの新しい掟に生きることをしないで、反対のことをすることです。それは、愛するのではなく、愛さないことです。罪を犯すと、隣人を愛せなくなって、罪の責任を隣人のせいにする、責任転嫁が起こるのです。このことが起こると聖霊は悲しみます。そのようなことが起こらないように、信仰で生きることが大切なのです。信仰を忘れると古い自分が出てきて、台無しになります。信仰は甘えを赦しません。危険だからです。今日は、自分が信仰で生きているかどうか、聖霊を悲しませていないかどうか、反省する時を持ちましょう。

 

10月16日(日)

無慈悲、憤り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

エフェソ4:31、32

 

クリスチャンになって、人生は確実に変わりました。神を畏れ敬うこと無しに生きることは空しいと今は思えます。面白いことに、日本人はクリスチャンにお定まりのイメージがあって、敬虔であるとか、真面目な人とか、決して怒らない人とか勝手なイメージで見ているのです。ところが、クリスチャンも人間であるし、生まれつきの性質もあって、皆が同じイメージでくくれるはずもありません。それなのに、ノン・クリスチャンと言い争いになれば、「それでもあなたはクリスチャンなの」の一言で勝負はつくことになります。おまけに、クリスチャンは自己嫌悪に陥り、散々な目に遭うわけです。しかし、そう簡単に、聖人のようにはなれませんから、私たちは嘆くことになるのです。今日の聖句も、その通りなのですが、事情によっては全てが台無しになるような事態に陥るのです。そして、聖句に「互いに親切にし」とあると、「それでは相手が親切にしてくれなかったらどうなるのですか」と言い返したくなります。パウロ先生が生きておられたら、どんな顔をされるでしょう。結局、信仰が足りない、と結論づけ、「まだまだだな~」と嘆息することになります。では、何かヒントがないかといえば、最後に書いてありました。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。つまり、「赦す」ということがキーワードなのです。赦さないから、「無慈悲、憤り、わめき、そしりなどすべて」が出てくるというのです。そして、これらは「一切の悪意と一緒に」と、まとめられているように、「悪意」なのだと聖書は断定しているのです。恐ろしいことです。なんとしても、このような悪意が出てこないようにしたいものです。そのための心構えとして、「憐れみの心で接し」とあります。これは効果が期待できます。それから、肝心の「赦す」ことですが、聖句では、最後に「赦し合いなさい」と命じています。つまり、自分だけが赦すのではダメなのです。互いに赦し合うことが求められています。でも、人間は弱いもので、頭にくると決して赦そうとしないのです。ですから、こちらから怖い顔をして「赦します」などと言えば、油に火を注ぐようなもので、ケンカがエスカレートするかもしれません。そもそも、頭に血が上っていては心から赦すというわけにはいかないのです。そこで、キリストに助けを求めます。それは、「神がキリストによって・・赦し」とあるように、私たちもキリストによって赦すと決めておくことです。先に赦すことができるのは、先に神に赦されている者の責任なのです。昔、「男はつらいよ」という言葉がありましたが、「クリスチャンはつらいよ!」と言いたくなる時もあるわけです。

 

10月17日(月)

主は憐れみ深く、正義を行なわれる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

詩篇116:7

 

「護られなかった者たちへ」という小説があります。それが映画化されました。東日本大震災の時の仙台が舞台のお話です。ちょうど、私もその時に仙台で被災したので、当時を思い出しました。津波の恐ろしさを知りました。何もかも破壊し家も車も奪い、そして家族を失った人たちが大勢いたのです。学校の体育館などに避難していた人たちも大変でしたが、その後の仮設住宅に暮らす人たちも大変でした。小説はフィクションですが、避難先で母を失った女の子と暗い青年、そしておばあさんの3人が出会い、やがて家族のように肩寄せ合って心を通わせるのです。しかし、それぞれの運命があって、おばあさんはお金がなく生活保護を申請しますが、結局辞退に追い込まれます。それは、餓死することを意味していて、その通りになります。ここには、キリスト教はまったく出てきません。だから、奇跡もありません。日本でも貧しい人たち増えています。それなのに国から生活保護を受けている国民は1%ぐらいしかいません。アメリカのような国でも5%ぐらいは受けているので、国連からもっと保護するように勧告を受けているそうです。日本も貧しい人がたくさんいることを最近耳にすることが多くなりました。高齢化社会が進行するにつれ、ますます護ってくれる人がいない人たちが増えているのです。なんとか、そうした恵まれない人たちが少なくなっていくような社会になることを願います。私たちは、幸い、今日の御言葉の意味を知っています。全ての日本人が「哀れな人を守ってくれる主」を知ることができますように。

 

10月18日(火)

あなたの定めは驚くべきものです。

わたしの魂はそれを守ります。

御言葉が開かれると光が射し出で

無知な者にも理解を与えます。

詩篇119:129、130

 

ここに、アルトゥール・ヴァイザーの同じ箇所の訳を紹介します。「あなたの証しはすばらしい。それゆえわたしの魂はこれを守ります。あなたの言葉の門は光かがやき、愚かな者たちに知恵を与えます」。次に、同じ箇所のケンブリッジ旧約聖書注解のNEB訳を紹介します。「あなたのさとしは驚くべきものです。それゆえ、わたしは喜んでそれを守ります。あなたのみ言葉が啓示され、すべてが明らかです。それは無学な者にさえ理解力を与えます」。同じ聖書箇所でも訳が違うと随分読者の感じ方が変わるものです。手元に他の訳の聖書があれば、比べてみるのも良いでしょう。このように、いくつかの訳が手元にあれば、それを比べるだけで十分な聖書研究となります。例えば、新共同訳で「定め」とは何か、と分からなければ、他の訳を探します。ヘブル語では「証し」を意味する語が使われています。ここで引用した訳では、「証し」、「さとし」があります。すると、神様が詩篇詩人に何か直接に啓示があったのです。それは、おそらくはその人にとっての驚嘆すべきことだったのでしょう。それほどのこととは、神様が自分に証されたということです。だからこそ、彼はただ守るとは言わないで、もっと深く「私の魂はそれを守ります」と言ったのです。そして、「神様の御言葉が開かれる」は「啓示」されるならということですから、霊的体験をしているのです。「無知な者」とは、「愚かな者」のことで、神様の御心を知らないで、自分勝手に生き、わきまえの無い生き方しかできない人間のことです。つまり、私たちは聖書を読んでもよく分からないと平気で言ってしまうのですが、それが愚か者のことなのです。そこで、そんな私たちが聖書を読んで突然、神様の証し(啓示)を受けると光が灯ったように、理解できるようになる、ということです。別の言い方をすれば、「聖霊の霊感を受けると突然、今までわからなかった聖書がわかるようになる」という意味です。ですから、わからなくても聖書を毎日読みなさいという言い方が良いのかどうか考えてしまいます。そうではなく、祈って主の憐れみにすがり、真理の御霊を送っていただいて、聖書の啓示を解き明かしてくださいと願って、その通りの経験をすることを期待して聖書を読むことが理にかなっていると思います。確かに知識が少なすぎて、すぐにはわからないこともあるでしょうが、方法としてはこの通りなのです。ですから、超自然的な霊感によって聖書の御言葉が生きて働き、悟りを得ると、自分の最も信頼できる魂で、「それを守ります」と言えるのです。そのような聖書理解ができるといいですね。

 

10月19日(水)

イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこへ移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

マタイ16:20

 

この聖句は、14節から始まる「悪霊に取りつかれた子をいやす」と見出しのついた箇所の最後の節です。父親はイエスに「息子がてんかんでひどく苦しんでいます」と訴えます。弟子たちに頼んでも治すことができなかったのです。そこで、イエスは不信仰を叱責するのです。そして、「イエスがお叱りになると悪霊は出て行き、そのとき子供は癒された」のです。つまり、てんかんは悪霊の仕業であったということです。現代でも、同じようなことがあるはずですが、教会でそのような悪霊を追い出して病が治ったというようなことは聞きません。もし、イエスがおられたら、同じように不信仰を叱責されたでしょう。しかし、そのようなこともなく、皆が悪霊を追い出したり、難病を癒したりしていなければ、大して問題にもならず、この世の人たちと変わらずに病気は病院で癒してもらいなさいと、言うだけになってしまいます。確かに、主は医療を発展させ誰でも医者に診てもらえるようになってきましたから、病気は医療で治療すれば良いと言えるのかもしれません。しかし、イエスは悪霊を追い出し、子供の病気は癒されたのです。このようなことが現代でもあるとしたら、医療では治せない病気もあるということです。ですから、教会の役割はあるし、クリスチャンの役割もあるということです。ところが、十二使徒たちですら、「信仰が薄いからだ」とイエスに叱られています。私たちはどうでしょう。ちょっと上手くいかないとすぐに「まだまだ信仰が弱いから」と簡単に言ってしまうことはないでしょうか。私たちは、信仰をよく考えていないのかもしれません。なぜなら、イエスは、「からし種一粒ほどの信仰」と言っています。主は、最小の単位の信仰があれば山をも動かせると言われました。つまり、「あなたにちょっとでも信仰があれば、あなたにできないことは何もない」と言われたのです。だから、信仰が少ないからという言い訳はできません。信仰がわずかでもあれば、それで十分奇跡を起こせると言っているのですから、しかも制限なく何でもできるというのです。ですから、信仰がないから奇跡が起こせないのかというと、主イエス・キリストを信じて救われているます。これは信仰があるという証明です。ですから、信仰があるのなら使い方に問題があるということになります。今日から、信仰を意識して「できないことは何もない」と自分に言い聞かせましょう。信仰で生きると決めたはずですから、肝心の信仰を理解し、正しく信仰を使い、主の御心を実現させるのです。ワクワクするような信仰の世界が開かれるでしょう。決してあきらめずに、信仰をどうすれば正しく使えるか、挑戦してみましょう。ただ、富士山は動かさないでくださいね。みんなを驚かせることになりますから。

 

10月20日(木)

しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

ヨハネ3:21

 

私たちは自分のしてきたことが「神に導かれてなされた」とは考えていないかもしれません。しかし、ヨハネの福音書には、今日の聖句が書かれています。ここでは、光はイエス・キリストのことですから、「光の方に来る」ということは、イエスの方へ来るという意味になります。そうなると、クリスチャンは皆イエスの方へ来た人ということですから、「真理を行う者は光の方に来る」と書かれた初めの言葉、「真理を行う者」はあなたのことで、あなたは「真理を行う者」となります。さらに、「その行いが神に導かれてなされたということが明らかになるために」と続いていますので、あなたの行いが神に導かれてなされたことが明らかになるために、イエスの方へ来たのだ、ということになります。問題は、「その行い」ですが、まさか「スーパーで大根を買った」ことであるとは思えません。しかし、あなたがイエスの方へ来たことは明らかですから、あなたは「真理を行う者」なのです。洗礼を受けてクリスチャンになったのもそのような意味として理解できます。そうすると、クリスチャンになってから、あなたは普通の人とは大いに異なり、主の御心を行うことができます。それは、「神に導かれてなされ」るので可能なのです。しかもそのことが主によって明らかになるので、確信を持てるし、人々も納得するのです。このように、私たちはすでに光を憎む人たちや光の方へ来ない者とは違う道を歩んでいます。ちょうど、聖書の中の弟子たちの一人のようにイエスに従っているのです。イエスは、「わたしは・・真理である」(ヨハネ14:6)と言われましたから、「真理を行う」は「イエスを行う」と言い換えることができます。そうなると、直接的ですが、私たちは「イエスのように行う」とか、「イエスのように生きる」者となります。これこそがクリスチャンです。自分を通してイエス・キリストが現れ、愛が流れることを期待したいですね。

 

10月21日(金)

そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

マルコ1:39

 

これは、イエスが何をしていたかという記録です。イエスはガリラヤ伝道をしていて、会堂を巡って、宣教し、悪霊を追い出されたのです。なんとなく、私たちのイメージでは、イエスは病気の人たちを癒していたのではないかと思っているのですが、実際には、①行き、②宣教し、③悪霊を追い出していた、となります。もちろん、1:29~34を読むと、ちゃんと病気を癒していることが書かれています。では、39節は何なのだろう?と疑問が出ます。まさか、「病気を癒し」と書くのを忘れたわけではないでしょう。イエスの本来の働きが宣教にあったと考えられます。それは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)というイエスのお言葉にみられます。悪霊を追い出されたのは、宣教の妨げとなるからです。それにしても、当時のイスラエル人が信仰を持っていたのに、悪霊を追い出さなければ宣教もできない有様であったとは驚きです。本来は、このイスラエル人が福音を伝える宣教の担い手になるはずでした。しかし、彼らは悪霊を追う出さなければならない状況に陥っていたわけです。そうであるなら、キリスト教会も油断していてはならないはずです。それは、また個々人のクリスチャンが気をつけることでもあるのです。聖書をよく読むだけでも、悪霊の誘惑に惑わされずに済むでしょう。神様に祈ることで、交わりを持つならば、より安全になります。讃美歌は聞くだけでなく、自分でも声を出して歌うなら、主が近づき、悪霊は遠ざかるのです。愛を考え、イエスを瞑想し、キリストに倣う者になることを願うなら、悪霊は退散するしかありません。伝道は出て行くことから、というのも覚えておきたいですね。

 

10月22日(土)

そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよtい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。

黙示録3:18、19

 

「金」は、愛によって働く信仰のことです。「白い衣」は、信仰によって生きる者がイエス様からいただくキリストの義です。「目に塗る薬」は、聖霊を表します。これらは、終末に生きるクリスチャンが備えなければならないものですが、「わたしから買うがよい」とありますから、イエス様から買うわけです。実は、私たちは罪人であったので、罪を贖わなければなりませんでした。贖うとは買うことですから、イエス様は私たちをご自分の命の代価を払って買ってくださったのです。そこで、今度は、私たちの命を主に献げて、つまり献身してこれらを買うということです。この聖書箇所は、終末時代を象徴するラオディキヤ教会に宛てた手紙です。そこには、「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。・・・生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」、とあるので預言通りに、この時代の教会は生ぬるいと言われても仕方がないのでしょう。しかし、これは警告なので、気がついたら自分の信仰を見直す必要があります。今の日本では、キリスト教は認められているので迫害もありません。おそらく、迫害されたなら、途端にやめてしまう人も少なくないでしょう。つまり、生ぬるさに慣れると、信仰が鈍るのです。本物のキリスト教を目指さないなら、後悔することになります。そうならないように、信仰、キリストの義の衣、霊的な目を開くための聖霊を主イエス様から買うために、第一のものはキリストであって、イエス様に全き献身をすることが肝心なのです。生ぬるい信仰がよいと思っている人には、目障りに思われるか、邪魔者にしか見えないかもしれませんが、もうすぐに黙示録の預言の意味がわかるはずです。主に忠実であることを誇りとしましょう。

 

 10月23日(日)

ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。

歴代誌下23:1

 

創世記22:2に「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と書かれています。共通する地名は「モリヤ」です。同じ場所なのです。さらに、22:14には、「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)と言っている」とあります。つまり、主はアブラハムの時代に、すでにイエス様の十字架の犠牲を計画していたことになります。それで、アブラハムの信仰を試すと言いながら、モリヤ山に向かわせ、そこで独り子イサクを犠牲として献げさせようとされたのです。モリヤ山はエルサレムです。ゴルゴタの丘でイエス様が犠牲となることが決まっていたのです。そのようなことを誰も考えることもでない昔に、後の人が誰でもがすぐにわかるアブラハムとイサクのモリヤ山での出来事に重ねてイエス様の十字架を見るようにされているのです。それも、「主の山に備えあり」との忘れえぬ言葉でキリストの到来を預言していたのです。アブラハムは、信仰の人だったので、イエス様の十字架の犠牲がイエス様を信じる者が罪を贖っていただけることを理解させようとの意図があったように思います。さらに、ソロモンが神殿を建てる時に、場所はエルサレムのモリヤ山とキリストの到来を予感させるものでした。この場所は、ダビデが準備しておいた所でした。一度は破壊されましたが、再建されても場所が変わることはありませんでした。聖書はイエス様のことを書いてあるとは本当のことなのです。私たちを救うための、主の十字架の贖いは確実に神様のご計画だったのです。ですから、神様の救済のご計画は最後まで完全に成就するので、私たちに求められているのはアブラハムのように信仰であることを自覚しましょう。

 

10月24日(月)

命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63

 

さて、私たちはクリスチャンになって、キリストを信じた故に永遠の命を得たと思っています。それは、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(47節)とキリストが証言しているからです。私たちは、自分が何者か知っています。今まで何をしてきたかもわかっています。ですから、神様の御前に何も誇れないのです。それでも、なんとか天国へ入りたいと願っています。そして、今日の聖句を読むと、やはり内住の聖霊のお働きによらなければ、何にもならないということです。つまり、永遠の命はどうなるかわからなくなります。そこで、自分で頑張ろうと考えるとろくな事になりません。「肉は何の役にも立たない」と聖書に書いてあるのに、自力で頑張ろうとする人は残念な結果を見る事になります。重要なことは、キリストが話した言葉は霊であり、命である、ということです。そこで、キリストの言葉を聞こうとするのですが、それは、聖書を読むことになると思います。高明な神学者のボンヘッファーは、神の言葉を聞くことの重要性を指摘しています。しかし、それは、聖書を読むことではなく、説教を聞くことだと考えていました。聖書を読むことは大切なことですが、神の言葉を聞くことは、礼拝で説教によって語られる言葉のことだというわけです。私たちも、神の言葉を聞くために、説教に耳を傾け、集中することに意義があるのです。

 

10月25日(火)

未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする。

箴言14:15

 

別訳では、「お人よしは彼が聞くすべての言葉を信じる。賢明な人は試す必要を悟る」とあります。さらに他の訳では「知識のない者はすべての言葉を当てにする、しかしさとき者は己のあゆみに気をつける」となっています。さて、自分を振り返って、自分はどちらに当てはまるかを考えてみましょう。例えば、マスメディアのニュースをそのまま信じるかどうか。多くの人は、自分の信じたいように信じていると指摘する専門家もいますが、私が思うのは心の不安の程度が影響していると考えます。アメリカの大統領選挙でも、自国の話ではないので不安度は低いのですが、自国優先主義のナショナリストが出てくるとこれは危険ではないかと考え、次になぜあの人を選ぶのかと不思議に思うのです。しかし、強権的で強いリーダーシップとカリスマ的な言動は圧倒的に支持する人を増やしています。これは、ナチス・ドイツが出てきた時やスターリン主義のソ連の時代の「全体主義」を連想させるのです。国民の間に閉塞感が蔓延してくる時、出てくる危険なサインです。この先の未来がどうなるのか不安に感じる時に強いリーダーが欲しくなるようです。その人が言っていることがたとえ確実なことでなくても、極端言い方をすれば根拠の無い約束であっても何事も信じこむ大勢の人々がいると、その先は恐ろしいことが待っているのです。今日の箴言は現代の世界にも当てはまるのです。日本も給料は上がらずに物価が上がり、円高が止まらず、年金が下がり、福祉や医療費の心配があって、国際情勢が不穏な感じになり、治安が悪くなているのではと感じるようになってきたと思っているのに、良くなる兆しが見えないと閉塞感が蔓延しているのです。このような時にこそ、「熟慮ある人は行く道を見分けようとする」と書かれた通りにできるといいですね。

 

10月26日(水)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23、24

 

クリスチャンになりたての頃、この御言葉を聞きました。それ以来、何回かこのメッセージを聞きました。昔のクリスチャンは、文字通りに行なっていたのだと思います。ですから、出会う人が実はイエス様であるかもしれないと言われるのです。知らないで親切にした人が実はキリストであったというような話も、聞いたことがあります。だから、あなたも知らない人でも親切にしなさい、という言葉が続きます。昔は、あまり考えることもなく、そのまま、「何をするにも、主に対してするように、心から行おう」と思っていたものです。ところで、現代の人たちは大変です。詐欺師が身近に迫っているからです。いかに弱い者から騙し取るかと考える人たちが増えているのです。罪が顕在化していることは、人間関係に悪影響を与えます。でも、私たちは考えます。主は、私たちは地の塩、世の光だと言われたではないか、と。今日の御言葉も、うわべだけでは意味がない事になってしまうだろう。信仰をもって主にお仕えしていると真心を尽くせば、それはきっとイエス様に届くに違いない、と。このように考えるクリスチャンが増えれば、世の中を良くするに違いない、と思えます。大それたことはできなくても、自分の出会いの中でこの御言葉が生かされる場面はきっと出てくるはずです。私たちの思いの中で、私は主キリストにお仕えしているのだと誇らしく思える時がきっと身近にあるはずです。

 

10月27日(木)

わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。

Ⅰテモテ6:17、18

 

クリスチャンがどのようなものであるのか考える時に、今日の聖句が一つの答えになっています。私たちは、決して悲観的に物事を考えません。私たちの神様がいつでも私たちのことをちゃんと考えていてくださることを知っているからです。たとえ、困った時でさえ、希望があります。「天のお父様」と祈れば、喜んで耳を傾けてくださるので、幼子のようになって素直な祈りができます。私たちに「すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」様なのです。ですから、私たちはこの神様に「望みを置くように」と勧められています。このように理解できたなら、私たちは「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように」なれるのです。あまりにも禁欲的な信仰を持つことはありません。欲望を満足させるようなことは、すでに放棄しました。それが罪につながることを知っているからです。私たちはキリストに倣うものなので、必要な人に分け与えることも喜びになりました。人生が豊かになったのです。穏やかに、日々の暮らしを楽しみ、主への感謝を忘れずに、互いに愛し合うことを目標にして生きていくことが幸福の秘訣であることを知りました。主イエス・キリストは生きておられ、私たち信じる者の内におられます。ですから、喜んでいるのです。今日もあなたにとって良い日でありますように。

 

10月28日(金)

あなたは救いの盾をわたしに授け

右の御手で支えてくださる。

あなたは、自ら降り

わたしを強い者としてくださる。

わたしの足は大きく踏み出し

くるぶしはよろめくことがない。

詩篇18:36、37

 

人生に決断を迫られることは誰にでもやってきます。確かにそのようなことは度々くるわけではありませんが、その時に一番重要なことは正しい決断です。滅多にこのような事態になることはありませんから、この決断が難しいと感じるものです。しかし、私たちは信仰があるので、まず神様に祈るでしょう。その祈りも、通りいっぺんの決まりきったような祈りではいけません。心をもだして祈るという言い方がありますが、悩み迷っている時には、主にその思いを告げることも大切です。そして、悩むと弱るものですが、主はあなたを助け励ますために、謙遜にも降ってこられあなたを強くしてくださいます。だから、正しい判断ができるようになるのです。また、人に陥れらるような事態に至ったり、敵が現れて自分を攻撃してきたり、信仰のために戦わなければいけなくなったり、と思いもしないことが生じることがあります。そのような時にも、今日の聖句を覚えておきましょう。悩んだり、迷ったり、困ったりして、倒れそうな時にも、主は強力な助け主なのです。具体的にあなたを助けてくださいます。ですから、恐れて不信仰にならないように注意が必要です。また、新しい人生を踏み出す時にも、今日の御言葉は意味があります。きっと、あなたはこの御言葉の意味を体験することができます。クリスチャンは信仰を持っていてよかったと思うことが度々あるものです。そして、主はあなたの救いと幸せのために今日もあなたの元へと降って来られるのです。

 

10月29日(土)

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

ローマ12;2

 

哲学者のヴィトゲン・シュタインは次のように考えました。「神の眼から見て正しいとみなされるような生き方は、たぶん今のような生き方ではないだろう。なぜなら、今の私は自分にとって心地よい生き方を送っているからだ。そういう心地よい生き方というのは結局のところ、エゴと自存心と多くの欲を満たすための生き方なのだろう。たぶん神は、そういう生き方とはまったく異なる、自分の欲から離れたもっと真剣な生き方を望んでいるのだろうと思われる」。あなたはどう思われますか。私たちは、平和でクリスチャンだからといって迫害されず、そこそこの幸せ、つまり何不自由なく暮らしたいと願っているのではないでしょうか。それにも慣れると、もっと豊かにとか贅沢な要求をするかもしれません。この世の人とあまり違わない生活を送って、それで満足しているかもしれないのです。さて、今日の聖句は何を言っているのでしょうか。この御言葉の通りにしようと思うなら、決心が必要です。生きる目的がこの世の人とクリスチャンでは大きく違います。まさに正反対なのです。「神の御心」とは何でしょう。ローマ署には、「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(8:29)と書かれています。ですから、皆さんは、この世でうまくやっていくためにクリスチャンに召されたわけではありません。何度も言われてきた通り、「御子の姿に似たものにしようと」されているのです。皆さんがご存知の御子は、人となられたので、聖書にそのお姿が描かれています。ですから、信仰者は聖霊の助けを得て、聖書からイエス様を学ぶのです。単なる知識ではなく、生ける神として知るのです。この世の人たちはどこへ行くか知りませんが、あなたは以前は知らなかったのに今は知っています。ですから、この世の魅力はやがて滅ぶものであると理解し、永遠の命と相容れないと確信する必要があります。信仰により、今日の御言葉の通りになりましょう。

 

10月30日(日)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。

ルカ11:9

 

これは、イエス様が私たちに教えてくださった単純な真理です。これさえ理解すれば、人生は大変豊かにうまくいくはずです。ところが実際には、この原則を無視してうまくいっていない人が多いのです。「求める」「探す」「門を叩く」、この三つで人生は開かれていくのです。もちろん、信仰が要求されます。しかし、私たちの信仰はどれほどのものかわかりません。足りているのか、足りていないのか、信仰ほどわからないものはありません。それなのに、クリスチャンなので信仰で生きなければと意気込みますが、手応えがわかりません。私たちは、現代人なので、聖書時代の人のようにはいかないと思っているのです。確かに、聖書時代にはなかった多くの便利で恵まれたものに囲まれています。病気になれば、すぐに医者に行くか、薬局で薬を買えばいいと思っているのです。しかし、病気になったなら、祈る人がいます。それでも心配なら牧師の所に来て祈ってくださいと願い、祈って癒されようとする人がいます。この人に迷いはありません。今日の聖句はイエス様のお言葉なので真理です。そうであれば、この通りにするべきです。しかも、信じてするのです。自分の信仰に自信がなければ、しつこくすればいいのです。熱意が信仰となります。「どうしても」という思いが、信仰に結びつけば、普段のあなたでは想像もつかないような信仰の力を発揮できます。ですから、困っている人も、聖霊を受けたいと切実に求めている人も、行き詰まっている人も、夢を叶えたいと思っている人も、自分にふさわしい伴侶を探している人も、仕事を探している人も、大学や会社の門を開きたい人も、まず人間の問題は、この三つの原則で解決できます。聖書に書かれた通りにして、奇跡を体験するべきです。聖書に書かれているからこそ、信仰で可能となるのです。これこそ、イエス様がくださった恵みそのものです。

 

10月31日(月)

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

フィリピ3:20、21

私たちは知っています。「本国は天にあります」ということを。しかも、今日の御言葉の通り、「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを」待っているのです。それなのに、この世のことで心を悩ませるのも人間です。聖書に書かれた通りにすればうまく行くのに、信じきれなくて反対のことをして困っているクリスチャンがいるのも事実です。この世に目が向き過ぎるのは注意が必要です。「思い悩むな」とイエス様がおっしゃったなら、「そうだ、思い悩むのはやめよう」と考えるのが正しいのですが、時間が経てばまた同じように思い悩むのでは意味がありません。どうしてそうなるかと言えばイエス様がさらに命じられたことをしないからです。それは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)とある通りに、「神の国と神の義」を求めていないということです。ある姉妹の方は毎日この御言葉を守って、神の国と神の義とを祈り求めているそうです。クリスチャンである限り、信仰は試されることがありますが、主への思いが正しければ心配する必要はありません。それは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの主を愛しなさい」とある通り、主を愛している自覚を持つことです。主を愛することがあなたの喜びとなるはずです。私たちは、やがて再臨を迎え、天に移されるでしょう。その時、私たちはどのような姿でと気になりますが、キリストが「ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」と聖書に書かれているので、そうなります。その日を楽しみに、主を愛して今日を生きましょう。