2023年12月ディボーション

12月1日(金)

主をたたえよ

日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神

主、死から解き放つ神。

 

あなたの神様は、日々、あなたを担う方です。イメージで言えば、あなたは幼子で、逞しい天の父の背に背負われていて、完全に守られているのです。大変だな~と思うようなことも、振り返ってみれば、ちゃんと乗り越えてきました。本当だったら、挫折して、大ごとになってしまったような時だって、無事に乗り越えてくることが出来たのです。なんとなく過ぎてしまったかもしれませんが、実は、神様に担われていた結果だったのです。ありがたいことですよね。それが、毎日続くのです。困れば、救われる神様なのです。わたしたちが真面目に頑張って生きていれば、全てがうまくいくかといえば、必ずしもそうではありません。敵がいるからです。サタンはあなたがイエス・キリストを信じて救われ、祝福されていることを知っています。ですから、妬み、憎んでいます。あなたがイエス様を信じて幸せであることを許せないのです。ですから、何しら攻撃してきたのです。でも、それは救ってくださる神があなたの人生に深く関わってくださっていることをよく理解していなかったから、神様の愛するあなたを苦しめたかったのです。しかし、あなたを担うと言われる神様は、多少の試練が信仰を強めることを知っていますから、あなたを訓練する機会とされました。おかげで、あなたは信仰が鍛えられ、悪魔に易々とやられるようなことはなくなります。そして、あなたが悪魔に知らない間に酷い目に遭わないように、いろいろな方法であなたを守っていてくださいます。ですから、神様に感謝しましょう。死から解き放つ神とは、十字架で罪を贖い、復活されて死を打ち破り、信じる者を救ってくださった、主イエス・キリストのことです。

 

12月2日(土)

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

ローマ6:22、23

 

20年前に娘さんを亡くした50代のお母さんが、たい焼き屋で死生学の本を読んでいました。その方は、大学で講座も受講しているそうです。娘さんが亡くなった悲しみは今もあるようですが、それすらも喜びに変えていました。いろいろな人が自分の人生を生きなければなりません。しかも、罪人として生きるのですから大変に決まっています。それなのに、罪を知らずにいるのです。私たちは、幸いなことに、イエス様に出会いました。そして、神様のお恵みで罪を知り、罪からの救いを体験したのです。信じることの大切さは、クリスチャンが学ぶ課題です。なぜなら、私たちはただイエス様を信じて救われているからです。それだけでなく、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)と、イエス様から教えられたのです。ですから、なんとかして信仰によって生きようとしているのです。かつて、罪の奴隷であった者が、イエス様を信じる信仰によって、罪から解放されたのです。それは、御子の十字架の死という代価を払ったからできたことで、神様にイエス様の命の代償で買い取られて神の奴隷になったということなのです。そのことを明確に理解して、信じているなら、その人は聖なる生活の実を結んでいると聖書は証言します。そのようになるので、その先に永遠の命があるということです。「罪の支払う報酬は死です」。だから、一人残らず死んでいます。しかし、例外が出てきます。それは、クリスチャンです。彼らには、神様からの贈り物があって、それがイエス様による永遠の命であるということです。私たちの救いは、このように単純な説明で救われるように、神様が全てをイエス様を通して成し遂げてくださるのです。そうなると、その賜物を受け取るのは、やはり信仰ということになるのです。

 

12月3日(日)

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

マルコ10:43~45

 

この御言葉は、10代最後の頃に読んで覚えました。その結果、牧師になったようにも思います。キリスト教は、イエス様のようになることを目指す宗教ですから、私はイエス様に憧れ、弟子たちは愚かだな!などと軽口を叩いていたのに、悲しいかな全く同じような愚かな振る舞いをしていたと思います。それでも、主に愛されていたので、赦されていましたし、結構楽しく生きていました。「キリストに倣いて」という本は当時の青年たちにも読まれていました。ですから、今よりは時代のせいもあって敬虔に生きることが良いことだと思っていました。さらに、イエス様は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と聖書に書かれているので、十字架の意味がさらにわかっていったのです。そうなると、「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり」なさい、と言われているのだから、教会では皆に仕える者になろうとします。偉くなりたいと思ってはいけないと考えたからです。ところが、気をつけなければサタンは教会にまで入ってくるのですから、サタンに誘惑されて偉い者になろうとする人が出てくるのです。ですから、教会役員推薦委員会などで来年の委員を選ぼうとすれば、必ず一悶着があります。難しいものです。キリストに倣う者になろうと志を持っていたのに、気がつけば教会の中でも偉くなりたいと願う者になってしまうのが人間の弱さです。その人は、聖書でイエス様は「仕えるために」来られたと書かれているのですが、それは、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という意味だと書いてあるわけです。この何に価値を置くかというところで、気づけばキリストと真逆になってしまっているのが悲しいことなのです。私たちは、このイエス様がなさってくださったことを愛と捉えています。イエス様が私を愛してくださった、と理解しているのです。ですから、私もイエス様を愛そうと決めたのです。その意味も分かりますよね。やり方が書いてあるからです。「皆に仕える者になり」「すべての人の僕になりなさい」とちゃんと聖書に書いてあるのです。

 

 12月4日(月)

平安のうちに私は身を横たえ。すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

詩篇4:8

 

面白い話を聞きました。夜、良い睡眠が取れていないと訴える方が、今流行りの健康を測定してくれるスマートウォッチをつけて寝ている時の状況を知ろうとしたのですが、結果は「良い睡眠が取れています」でした。ご本人は「えっ!そんなはずはない」という反応だっと思いますが、時計はちゃんと計測し、「良い睡眠が取れている」と報告するのです。そうすると、薬のプラシーボ効果のように、よく眠れるようになったと言うのです。プラシーボ効果とは、有効成分が含まれていない薬剤(偽薬、プラセボともいわれる)によって、症状の改善や副作用の出現が見られることです。興味深いお話です。よく眠れないと訴える人は実に多いのです。それが、自分の思い込みによって影響されているなら、こんな残念なことはありません。聖書は、「平安のうちに」と語ります。私たちは、信仰によって不安を減らすことができます。信仰を持って、真面目に生きていれば、平安がいつでもあるのです。それでも、仕事でストレスがかかっている時や人間関係で悩みがある時など、決して平安ではいられない時があるものです。ところが、私たちはそうした問題を神様、イエス様に祈っています。不安なら時間をかけて不安がなくなるまで祈ることもあるでしょう。そして、結局、イエス様を信じることで義とされると聖書は教えていますから、義は神様の目に正しいと言う意味なので、それは、罪人が罪をイエス様の十字架の贖いで赦される時に、義と認められるのです。ですから、神様に平安でない時ほど近づき、熱心に祈ります。すると不思議と平安になるのです。そんな良い方法を知っているのですから、「平安のうちに私は身を横たえ。すぐ、眠りにつきます」と聖書に書かれたとおりにやってみるのです。自分がどう感じているかではありません。聖書に書かれたことを信じているので、その信仰が御言葉を成就させるのです。

 

12月5日(火)

主がイスラエルについてモーセに命じられたおきてと定めをあなたがたが守り行うなら、あなたは栄える。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。

Ⅰ歴代史22:13

 

私たちは、新約聖書を読んでパウロが「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:27、28)と語るように、律法の行いでは義とされないことが分かりました。しかし、今日の聖書箇所では、「守り行うなら、あなたは栄える」と書いてあるのです。ですから、守りたいと思うのですが、パウロがローマ書で説明している通りに、律法を守ろうとすれば、逆に罪が出てくるので、守れなくなるのです。罪は肉にあるので、肉も人間にとっては罪の問題と同じなのです。では、律法など無視して好きなように生きていけばいいのでしょうか。聖書は、神様の霊感を受けて書かれたものですから、間違うことはありません。そうなると、何かこの矛盾を解決方法があるはずです。「それは、肉にではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(ローマ8:4)とありますから、肉ではなく、聖霊に従って生きる私たちの内に、律法の要求が満たされる」のです。それは、内住する聖霊に従って(服従して)いるなら、律法を守ろうとしなくても、自然と律法に調和して、自然の振る舞いが律法を守り行うことになるのです。それは、救いの奥義です。本当は、誰の目にも明らかなことなのですが、教会ですら、聖霊の理解が教科書的で、実際の宗教的体験に結びついていないことが懸念されるのです。頭だけで理屈を言っていても意味がないのは、律法が守れなくて、ファリサイ派の人のようになりやすいからです。ファリサイ派の人々へのイエス様の対応を見ればよく分かります。肉ではなく聖霊でなければ、うまくはいかないのです。実際に、聖霊によって律法の要求が満たされることになれば、「あなたは栄える」と書かれた通りになるのです。

 

12月6日(水)

わが子よ、主の諭しを拒むな。

主の懲らしめを避けるな。

かわいい息子を懲らしめる父のように

主は愛する者を懲らしめられる。

箴言3:11、12

 

この世で知恵があれば、どれほど楽に生きられるだろうか。現代のように世界が大きく変化していく時代には、新知識もどんどん増えて、昔とは大違いです。昔は取扱説明書が電化製品などを買えば付いてきました。今は、ほとんど見かけることがなくなりました。必要ならば、インターネットで勝手に検索しなさいという時代なのです。それだけではなく、個人情報を守るという割には、何でもかんでも個人情報を入力させられ、その度にパスワードを入力しなさいとなるのです。宅急便の不在連絡もスマホからインターネットで手続きするようになっていて、またしてもパスワードを決めなければなりません。そのうち、パスワードを忘れて自分の家に入れない、という間抜けな時代になって行きそうです。さて、「主の懲らしめを避けるな」と箴言は教えます。「懲らしめ」と聞いただけで、嫌な響きです。せっかく、クリスチャンになれたのに、なぜ、懲らしめられなければならないのか、と疑問に思う方もおられるでしょう。しかし、「かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる」と書かれていて、ドキッとします。そもそも、主は私たちのことを「愛する者」と覚えていてくださるのです。それだけでも、感激ですが、「かわいい息子を懲らしめる父のように」と言われれば、それがどんなに愛情に裏打ちされたものであるかが分かります。そして、私たちに期待していてくださるので、懲らしめるし、私たちに見込みがあるので懲らしめるのです。犬ですら、訓練士に訓練を受けた犬と、放って置かれた犬では、大違いです。信仰者の道も、主の愛の鞭が必要ならば、懲らしめられることに良い意味があるのです。ただ懲らしめられるなら、心の固い者になるでしょうが、主の愛情故に懲らしめられるなら、その人はどれほど立派なキリスト者になることでしょう。

 

12月7日(木)

主を仰ぎ見る人は光と輝き

辱めに顔を伏せることはない。

この貧しい人が呼び求める声を主は聞き

苦難から常に救ってくださった。

主の使いはその周りに陣を敷き

主を畏れる人を守り助けてくださった。

詩篇34:6~8

 

世界猫歩き?というテレビ番組を観ました。カナダのビクトリアというとても美しい所で、世界のガーデニングのお手本のような街で、住宅街をリスやウサギに鹿までが普通に歩いているような絵本のような所です。そこに猫が散歩しているのですが、それぞれの猫

の個性が面白くて、ついつい観てしまいました。我が家の掃き出し窓から見ていると、猫がよく通り抜けて行きます。よほど、気を抜いているのかのんびりやって来て、ふと視線を感じたのか、こちらを見てギョッとして飛び上がり、慌てて退場していったりしますから面白いです。神様は私たちをどのように見ているのでしょうか。猫のようにマイペースで個性豊かに生きている私たちを可愛いと思って見ておられるのでしょうか。詩篇を読むと、私たちが苦難に遭っても、主が常に救ってくださることが書いてあります。特に、クリスチャンは、「主を仰ぎ見る人」です。信仰を持って祈り、主に従順である人なのです。いつでも、主により頼み、絶対的な信頼を寄せています。人が何と言おうと、顔を伏せないで、困った時ほど主を仰ぎ見る者なのです。主は、必要なら御使の軍団を救援に送ってくださいます。天の軍隊に勝てる者はこの世にはいません。首相よりも鉄壁の守りで守られているのです。ですから、恐れる事なく信仰の道を進めます。ガーデンを守っている猫は、自分の仕事がありました。私たちにも、何かしら存在意義があるのです。日々の普通の生活の中に、神様に喜んでいただける存在でありたいですね。

 

 12月8日(金)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

私たちは、悩みのない人生を望みますが、何が悩みになるかはわかっていません。確かに、神様に信頼を置いていますが、私ちには自由意志が保証されているので、自分で考えて自分が全て選択して人生を決めているのです。そのために、悩みが生じることは避けられないのです。それは、他の人が関わっています。自分を困らせる人がいるからです。良い人生を歩むには、自分の思い通りに生きることが一番簡単なのですが、罪人がそんなことをすれば、とんでもないことになる可能性があります。そこで、私たちは罪の問題を信仰によって解決しようと、試行錯誤を続けて来ました。クリスチャンとして正しい道を歩めるように主にお願いしたので、子供が親に躾けられるように、神様から試練も含め、キリストに似た者になるように整えられているのです。その過程で、面倒をかける人が現れたり、困らせたり苦しめるような人が立ちはだかったりするのです。時には敵に攻撃されていると言いたくなるようなことも起こります。これは、かなりピンチですから、逃れることばかり考えがちです。しかし、これほど神様にすがる条件を満たすことはありません。つまり、ピンチはチャンスだということです。そこで、本当に必要なことは聖書に書かれている通り、神様を知ることであり、神様のために生きることなのです。そのことに知識では納得していても、実際にはこの世のことばかり考え、自分のために生きているのです。それが、このような悩まされる事態に追い込まれると、助けて欲しいと願うことに集中させられます。その結果は、今日の聖句の通りになります。神様の方法で問題が解決されます。そして、あなたは神様の恵みを楽しみ、喜ぶことになるのです。

 

12月9日(土)

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。

Ⅰコリント6:7

 

クリスチャンでも未熟な人はいます。この世の人と同じように考えてしまうのです。それでも、感情的に考えてしまうので、良い結果にはなりません。自分の思い通りに生きようとしてしまうので、間違うのです。何度も、福音を聞いているのに理解していません。例えば、今日の聖句もこの世の人の目で見れば、おかしな話ですが、クリスチャン的には間違っていません。この聖句の中では、「互いに訴え合う」状況です。すると、このことが「すでにあなたがたの敗北です」と断定されています。しかし、「なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか」と続くと、何かおかしいと思うでしょう。そして、とどめのように「なぜ、むしろだまされていないのですか」と、たたみ込まれるので驚くことになります。あなたは、このおかしな主張を説明できますか。早い話が、この世の人間は、自分が正しいと言うのです。そして、あなたが悪いと訴えるわけです。あなたとしては、それは違う、反対だ。相手の方が悪いのに酷いと憤慨することになります。そして、相手にだまされたと怒るわけです。聖書は、これらの反応が良くないと言っているのです。「甘んじる」と言うのは、よほど度量の大きな人でなければ、できません。牧師や長老というような役職だからできるというわけではありません。その人の信仰の大きさかもしれませんが、本当に人を裁かれるのは神様お一人だと信じていることです。ですから、人間に不当に裁かれても、ひどく言われても、だまされても、その仕打ちに甘んじていることができます。信仰がなければ、できません。そして、誰でも、そうできるようにと試されます。もちろん、自分の器に応じての試練ですから、そう心配することはありません。罪人の特徴が、「自分は正しい」と自分で自分を義とすることなので、救われて新生している人は、そのような自己義人を放棄して、信仰によって義と認めていただこうとします。これが、基本なので、忘れないでください。

 

12月10日(日)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

Ⅰペトロ1:23

 

聖書の御言葉を「種」と表現することがあります。種とはよく言ったものです。確かに、御言葉は不思議な力があり、人の内で変化するのです。その力によって、新しく生まれると聖書は語っています。この世に幾多の言葉がありますが、多少なりとも影響力があります。しかし、聖書に比べると比較になりません。聖書を読むことが奨励されていますが、それは、人を神様の御心にかなった者へと変える力です。それは、種と表現するのが良いのは、種が畑に蒔かれると発芽して大きく成長し、やがて花が咲き、実を結ぶのです。ですから、聖書の御言葉を心に入れると、発芽する可能性があります。心の畑に種を蒔くには、ただ読めばいいということではありません。聖霊の助けを祈り求め、集中して、考えながら読む、暗誦するように心に記憶する。繰り返し読む。音読してみる。信仰を働かせる。聖書は、信仰に関係があります。信仰が成長すると、聖書の意味がわかるようになります。こうして、「種蒔き」を続けると、自分でもわかるほどの変化が期待できます。そうなると、聖霊の雨を降らせていただけるように、祈ることが大切です。「この御言葉の通りになりますように」と祈っていくので、意味を理解できるている聖句の内容のように自分が変えられることを求めるようになるわけです。それは、聖句を信じる信仰の働きに関係しているのです。ここでも、信仰による義なのですね。

 

 12月11日(月)

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ9:16

信仰者は進化します。それは、面白いことに「読んでも難しかった聖書がわかるようになった」という言葉でも現れてきます。つまり、生まれたままの人間には、神様のお考えがわからないのです。それどころか、自分の考えが絶対なので、どうしても自己中心の見方をしやすい欠点があります。そうすると、聖書がこうしなさいと命じても、自分はそんな事はしないと自然に思うので、拒否反応が起こり、結果聖書はわからないということになるのです。しかし、時間がかかったとしても、神様は働き、その人の欲望から出てくる思考や感情、あるいは損得感情が変わって行きます。イエス様の御言葉が素直に受け入れられるようになるのです。そのように、聖書から神様の考え方を学ぶと、それが身についてきます。そうすると、信仰によって生きる意味がわかってきますので、人生も良くなります。そして、究極的には、今日の聖句のところに行き着くのです。ここでは、「私」が消えています。私ではなく神様に変わっているのです。それは、ずいぶん気が楽な生き方につながります。力が抜けて、他人を受け入れやすくなります。神様の御心に適う願いがわかってきます。そして、今日の聖句を読んで、アーメンというでしょう。神様への感謝が湧いてきます。神様の憐れみの中に生かされていることが嬉しいのです。

 

12月12日(火)

神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。

ヨブ5:19

 

長い人生には、どうも苦しみの時がある。それでも、若いうちは元気な分、大変なことがあっても耐えていけるだろう。しかし、容赦無く若さは過ぎ去り、苦しみが大きくなっているように感じるものだ。もし、あなたが苦しみの数を数えていたら、六つの苦しみを経験したと気がつくはずだ。しかし、主を信じているのに、苦しみは避けられなかったことを知る。その理由も、今では想像がつく。つまり、私たちが天国へ入れるように、準備していたということだ。では、天国へ入るにはどうすればいいのだろう。まず、信仰が必要であるとひらめくださろう。しかし、その他で確実なものは何か考えると意外と難しい。つまり、人間の考えが及ぶようなことではないのだ。しかし、神様に選ばれた人たちは、確実にこの世で、訓練を受けたり、人としての素晴らしさを養うことに時間を費やしているはずだ。本人の自覚が無くても、それにはおかまいなしに試練や苦しみは、人を彫刻家のように削り、天国へ持っていくことのできない不要なところを削ぎ落としている。しかし、聖書は「七つ目のわざわいはあなたに触れない」という。だから、苦労の多い人生にも、終わりはあるということだ。それは、誰に対しても公平である。こうして見ると、天国へ入れるように、神様はやはり働いていることがわかる。

 

 12月13日(水)

こうしてあなたは苦労を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。

ヨブ11:16

 

『北の桜守』という吉永小百合主演の映画を観ました。樺太からの引揚者の物語でしたが、命からがら戻ってきた網走での生活など、考えさせられる良い作品でした。教会でも、樺太からの引揚者がいました。信仰を持って救われて本当に良かったと思います。ほんの少し昔の日本の話なのに、現代の若い人には理解できないだろうと思ってしまいます。ロシア軍に追われて、命からがら日本への引き揚げ船に乗船できたのも束の間、敵に見つかって、魚雷を撃ち込まれて、あっけなく沈没してしまいます。その時に、優秀な長男が母と弟のために救命浮き輪を泳いで取りに行ったのですが、船が爆発して姿が見えなくなり、死んでしまいます。母はそのことを一生忘れることができません。夫はシベリアに抑留されて死んでしまいますが、そのことを知らずにずっと待ち続けます。仮設住宅で食堂を始めて生きて行きます。樺太で幸せに暮らしていたのに、どん底の貧しさに耐えて家族を失った悲しみを引きずって生きて行く母の姿は、胸に迫るものがあります。このような人が、満州からの引揚者にもいました。クリスチャンになって、幸せになったことが救いです。人間の不思議ですが、今日の聖句のように、どんなにひどい苦労でも、流れる水のように過ぎて行くのです。そして、苦労を忘れることができます。特に、クリスチャンは今日の聖句の通りです。現代でも苦労はつきものですが、クリスチャンの場合は、もっと意味が深いように思います。神様を信じて救われた人がなぜ苦労するのか。おかしな気もしますが、イエス様も苦労の連続でした。しかし、何か定められた道のりを預言の成就として歩んで行かれたので、十字架に辿り着き、罪の贖いとなったのです。私たちの場合は、罪人から聖なる人へと変わる過程で必要なので苦労が降りかかってくるように思えます。それにしても、「あなたは苦労を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう」とは、現代人にも必要です。信仰を持って、苦労を乗り越え、辛い思い出ではなく、何事もなかったかの如くに、流れ去らせて欲しいですね。

 

12月14日(木)

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ピリピ4:6、7

 

人間は何でも思い煩うようにできているので、クリスチャンが聖書を読んで、そうだ思い煩うことのないようにしよう、と決心しても、すぐにつまらないことで思い煩います。クリスチャンは、知らないわけではありません。なぜなら、何度も聞いているからです。それでも、思い煩ってしまうのには理由があります。聖書をちゃんと覚えていないからです。聖書は、ただ「思い煩わないで」と言っているのではありません。「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって」とありますから、感謝をして祈っているか、感謝して願っているか、と気にしなければなりません。このようにして、あなたの願い事を神に知っていただくのです。ところが、思い煩っているので、感謝していません。それで、この聖句と合っていません。それでは、効果が期待できません。「神の平安」を得ることができれば、心はすっかり楽になります。自分がコントロール不能になっていたのが、神の平安によって、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。これは、練習して自分のものにしたいですね。今日の聖句を暗唱して、この原則を守れば、不安や恐れから思い煩うようになることが無くなります。せっかく聖書に書かれている神の約束を体験してみましょう。

 

12月15日(金)

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

コロサイ3:9、10

 

嘘はいけないことなのですが、人によっては、嘘をつくハードルが非常に低い人もいます。しかし、嘘は嘘なので、よっぽど気をつけなければなりません。特にクリスチャン同士では嘘は禁じられているので、戒めておかなければなりません。そもそも、過去の自分は古い人としてクリスチャンになる時に、その行いと一緒に脱ぎ捨てたと書いてあります。洋服を脱ぎ捨てるように、古い人も脱ぎ捨てられるのです。そうしないと、新しい人を着ることができません。このことをはっきりしておく必要があります。新しい人は、聖書と一致します。しかし、古い人は一致しません。それは、行いが罪に結びついているからです。それで、今、自分は古い人をちゃんと脱ぎ捨てたかどうか、点検しなければなりません。そうでないと、いつまで待っても聖化していかないからです。新しい人を着ていれば心配ありません。「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」と、あります。ですから、自分で頑張ってではなく、主によって新しくされるのです。ゴールは真の知識です。クリスチャンは聖書を読むので、聖書の知識が増してきます。しかし、自分勝手に読んでいると、時々勘違いしていたり、間違って理解していたりすることがあります。さらには、上べだけ読んでいたと気がつくこともあります。ですから、真の知識に辿り着きたいのです。それは、イエス・キリストを知ることなのですが、私たちの救いを完成させる力そのものなのです。

 

12月16日(土)

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

Ⅱコリント12:9

 

イエス様の教えはいつでも面白いです。普通ではなく、この世の考えとは真逆です。ですから、古い人を脱いでと言われても、ピンとこない人は、今までのこの世でうまくやって行く考え方を捨ててしまいなさい、と言い換えればいいのです。この世の目に見えることばかりに振り回されると、自分がかわいそうになってくるかもしれません。しかし、新しい人を着ている人は、イエス様の教えのように物事を考え、見る人のことです。そすると、「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言われていることに、ハッと気がつくのです。主が嘘を言うことはありませんから、実際に恵みが与えられていて、しかも十分に与えられているのです。問題はそれに気がつけないほど、信仰によって生きていないと言うことです。この世の人と同じなら、クリスチャンになった意味がありません。ですから、素直に反省して、もう一度イエス様のお言葉を聞き直してみると。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われているのです。つまり、自分の弱さに悲しんでいるのに、実は、その弱さこそ主のお力を最大限に発揮していただける時なのです。この世の常識は自分が立派に功績を積んでイエス様に褒めていただけるような時にこそ、恵みをいただけると考えます。しかし、実際には真逆になっていて、主の御前には、弱さを見せていいのです。自分はダメだなあ~と嘆きたくなる時が、一番主の恵みを受けていると言うことです。何か、自分を何も誇れないで希望も持てないと嘆くのは、ナンセンスで、実は、その時こと、主を知る時であり、主の真実に触れられる一番良い時なのです。この世で活躍して、世間からも認められ、自信満々の人を羨む必要はありません。パウロもうらやむほど、弱くて、何もできない自分を自覚できれば、イエス様の恵みが降り注ぎ、まるで商店街の福引で一等賞を引き当て、鐘をカランカラン鳴らされ、「おめでとうございます」とみんなに言われ、周りの人々も立ち止まり、「うらやましい」「いいわね~」としきりと言われているあなたを想像してみてください。新しい人の目で見れば、そうなっているのです。今まで、古い人で自分を見ていたから、とても損をしました。これからは、新しい人の目で自分を見ることにしましょう。ずっと楽しいですよ。

 

12月17日(日)

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩篇138:8

 

今日の詩篇は、あなたが主に対してどのように思えばいいのかを教えています。この詩篇は、あなたが何も心配しなくても良いように、励ましているのです。あなたはこの詩篇の言葉を自分に語りかける必要があります。それは、いつかこの詩篇があなたの信仰告白となるからです。あなたは、真理を知るようになります。そして、主が実際にあなたに関わるすべてのことを成し遂げてくださることを知るのです。あなたは、確信します。「主の私への恵みはとこしえにある」と。あなたがどのような状況にあっても、主はあなたを救うことができます。あなたが人生の道を求めれば、迷うことなく歩みだします。暗ければキリストが光となります。あなたには奇跡だって起こります。主が働いてくださっていると知ることができるようになります。感謝の気持ちがいつでも心にあります。ですから、主を喜ぶことができます。あなたは、詩篇記者のように、「あなたの御手のわざを捨てないでください」と祈るでしょう。

 

12月18日(月)

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ローマ10:11

 

子供の頃にはヒーローがいました。鉄腕アトムも鉄人28号もエイトマンだって、子供たちのヒーローは失望させられることがありませんでした。しかし、彼らはどこに行ったのでしょう。今はもういません。大人になって、この世界を見回すとハリウッド映画にはヒーローがいるかもしれませんが、実際の世界にはいないのです。つまり、どんな時にも私の信頼を裏切らずに、助け導いてくれる心の中のヒーローです。それは、人間不信になったり、ニヒルになる人間を増やしています。ところが、クリスチャンになると、本物のヒーローがいることを知ったのです。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と聖書に書いてある通りです。イエス様こそ、私たちのヒーローです。確かに、私たちは信仰の道を歩んでいるので、大変な目に遭うこともあれば、逆境の中でもがくこともあります。しかし、八方塞がりになり、もうダメだと思っても、行き詰まらないのです。信仰のことがわかってくると、私をイエス・キリストのようにしようと神様の力が働いていることを知るのです。それは、決して甘やかしではないので、厳しいと思うこともありますが、その中でこそイエス様は信頼できるお方なんだと学びます。ですから、一番重要なことが主を信頼することなのだと悟るようになります。とにかく、「失望させられることがない」ことを味わってください。せっかく信仰をいただいたのですから、イエス様を信じ抜くことを決心しましょう。きっと、大きな恵みが待っています。

 

12月20日(水)

私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。

イザヤ49:5

 

今日の聖句はとても不思議に感じるが、神様を知る上で欠かせない聖句だ。私たちと神様の関係は特別なので、人間の常識では考えられない。そもそも、私たちはこの世界に生まれてから今に至るまで、神様に尊ばれるようなことをしてきたとは思わない。その逆なら自信があるので、パウロが罪人の頭と言えば、それじゃ自分はその上を行くはずだから、何て言えばいいのか悩んでしまう。今までの人生でどれほどの良い事を行なってきたかと問われれば、その場を逃げ出したくなるだろう。それなのに、今日の聖句はどうだろう、泣きたくなるほどのありがたさだ。キリスト教の大事な事は、自己評価の変更を受け入れることだ。私たちがイエス様を信じた時から、何かが変わった。イエス様が誰であるかわかったので、私たちは信仰を得たのだ。実に信じることで良い方へ変わってきた。今日の聖句も、あなたが文字通り信じるように促されている。 そしてこの通りだったと知って欲しいのだ。難しく考えないで、自分が主に尊ばれている存在であることをまず認めよう。そして、主が自分を用いてくださることを期待するのだ。そうすれば、神の国が動き出す。あなたを愛するという主は、あなたの力となったと知るだろう。

 

12月21日(木)

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

黙示録12:10、11

 

黙示録は、私たちを励ましています。私たちはクリスチャンになった時から、善悪の大争闘に巻き込まれてきました。未熟すぎて、何もわからなかったのですが、聖書を通して神様のメッセージを受け取るようになりました。それは、新しい人として、つまり新しい考え方や価値観、物事の判断の基準、さらに信仰そのものを訓練されてきました。初めは、イエス様の教えにも戸惑っていたのですが、その言葉を考え続けてきたので、意味がわかるようになってきたのです。そして、悪魔が神様に私たちを訴えていることを知りました。私たちの落ち度を見逃さずに、神様に訴える者が悪魔なのです。ところが、悪魔軍と神の軍勢の戦いは、大きな局面を迎えます。あの神の民を訴える者を投げ落としたのです。聖徒たちは殉教者が出るほどの霊的な戦いを主への忠実を示すことで勝利したのです。時が満ちて、神の救いと力と国とキリストの権威が現れます。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った」とあります。悪魔に打ち勝ったのは、結局、イエス様の血潮と自分たちのあかしの言葉によったのです。終末の勝利の場面は、「彼らは死に至るまでいのちを惜しまなかった」とありますから、殉教者が多数出ることが予想されます。最後に激しい戦いがあると言うことですね。この厳しい状況に耐えられない聖徒たちは、先に眠りにつくことになるのです。殉教の賜物というのがあるということがわかっています。ですから、誰でもが殉教するのではありません。賜物をいただいている人だけです。ですから、私たちはいたずらに世の終わりを恐れる必要はありません。各自が自分の持ち場を守っていればいいのです。それは、私たちにとっては、たやすいことです。何しろ、そのための才能と霊の賜物をいただいているからです。罪の問題がいよいよ解決します。悪魔ももはや抵抗することができなくなります。イエス様を信じて忍耐してきた者たちは、大きな報いが待っています。今の平凡な日々と思っているかもしれませんが、そうではなく、毎日が意味があるのです。信仰を持って生きることに価値があります。祈る者がいることに意味があるのです。私たちは罪人であることを認めて、悔い改め、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けて救われました。ですから、弱そうに見えるのですが、その内に聖霊が宿っているのです。聖霊は神様ですから最強なのです。弱さの中に強さがあるというのは本当なのです。ですから、私たちがでしゃばってしまえば、台無しになります。もっと謙虚になり、いつでも謙遜な人として生きて行くべきなのです。それは、信仰がなければ生きていけない弱い者として生きているということです。そこに意味があります。

 

 12月22日(金)

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。

詩篇34:18、19

 

今日の聖句で、「たましいの砕かれた者」と出てきますが、これは何を意味していると思いますか。たしかに、詩の冒頭部で「心の打ち砕かれた者」とあるから、「たましい」も「心」も同じであると思えてきます。詩篇51:17には、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」とあります。つまり、私たちの理解では、「砕かれた、悔いた心」のことであると言えます。つまり、私たちがよく口にする「悔い改め」のことです。これは、本心から素直な心で悔い改めことです。その時、主は近くにおられるというのです。そして、その人を救われるのです。クリスチャンは、このことを忘れてはいけません。クリスチャンになってからも、何かと悩みは多いのですが、そのたびに神様に祈り、イエス様に縋ってきました。その結果は、いつでも救われるというものでした。このような経験はクリスチャンに不可欠です。神様の救いを直接経験することは誰にとっても益です。クリスチャンは日々、誠実に、主のために生きようとします。この世のことですから、嫌な人とも出会うことがあるかもしれませんが、本当に砕かれるとそれすら無くなります。何しろ、その人のそばには神様がいるのですから。本当の災いからも救われ、後から大きな恵みが追いかけてきます。主の救いを経験するというのは、このように真の悔い改めをいけにえのように献げることによって得るものなのです。

 

 12月23日(土)

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を保つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16:33

 

よく聞くことに、世の弱者を助けなければならない、という言葉です。実際にはどうでしょうか。自分と関係がないと無関心である人は多くいるでしょう。70代になっても、80代になっても年金が無いから働かなければならない、という人が少なからずいます。その人たちも、若い時には将来のことなど考えることはなかったのでしょう。また、時代が悪ければ、一生懸命に真面目に働いても安い給料で自分の家を持つことも、将来の蓄えを貯めることもできなかった人たちがいます。日本は、先進国の中では福祉の評価が低い国です。確かに、お上に世話になってはならない、と福祉の助けが必要な人が助けを受けていないで悲惨な生活を送っているという事例も珍しくありません。社会制度もどんどん変わり、歳をとってくるとそうした難しい制度を理解するのも大変です。お役所仕事では、弱者は切り捨てられてしまうのです。そうなると、どうやって踏ん張れるか疑問です。世をはかなんで死にたくなるでしょう。しかし、今日の聖句を読んでいると、クリスチャンはいいな、と素直に思えます。この世の中でどんなに惨めことになっても、イエス様を信じている人は平安を保てるのです。イエス様も、この世が安楽だとは言っていません。むしろ、患難があると言っています。生きるのは大変なのです。「しかし、勇敢でありなさい」と励ましておられます。お金も無く、夫婦のどちらかが病気で介護が必要になって、公的な助けを得るのにも、払いきれないほどの自費負担分のお金が必要となれば、行き詰まって、もうこれまでと死を選ぼうとするかもしれません。だから、イエス様が「勇敢でありなさい」と言われたのには意味があります。役所は規則に縛られますが、隣人たちは愛で助けようとするでしょう。そんな人が本当に誰の身近にもいるのです。知らない人でも助けてくれる人がいるのです。イエス様が「わたしはすでに世に勝ったのです」と言われたのには、訳があって、規則や法律で決まっているから、というのではなく、人を愛することが当たり前だと考え、弱者を守ろうとする親切な人がすでに何人もいるし、何よりもクリスチャンがいるので、この世の無情に打ち勝てるのです。イエス様はそのためにすでに世に勝ってくれたのです。

 

 12月24日(日)

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

ローマ3:27、28

 

どうも人の誇りにこだわる人がいます。そのような人は律法を守ることに固執したり、自分で何か義となるためにしなければならないと考えているようで、絶えず何かをしなければならないと追い立てられているようです。これは、聖書に反しているので気の毒なことに、いつまで行っても堂々巡りになります。それほど義にこだわるなら、「神は・・・イエスを信じる者を義となさる」(ローマ3:26)という意味を考えてみたらいいと思います。重要なのは、信仰の方なのです。人が義とされるのが信仰による、という信仰とはどのようなことなのか、ということを考える方がよっぽど聖書的なのです。信仰の軽視といえば厳しいですが、信仰と言っていることの広がりを理解していないのです。その人が山をも動かす信仰を理解していれば、決して行いによる義にこだわっていることに気がつかないはずがありません。不思議ではが、信仰と言えば、何もしないと同義であると思っているようです。そのような人は、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(同3:24)を信じることを試してみるべきです。これは、バプテスマ・クラスで必ず出てくる基本的な聖句です。この中にも「無償」でと書かれているのですが、私たちが何か義と認められるような良いことを行うから、義とされるのではなく、タダで、つまり何もしないで義と神様がしてくださるというのです。それは随分厚かましい調子の良い話では無いか、と憤慨される方もいるかもしれませんが、人間がどんなに努力して頑張ったところで、誰一人義とはなれないという現実があるのです。でしたら、神の恵みにすがるしか方法がないのです。問題は、信仰と書かれたために、タダで下さったものを実際に自分のものとするのは、信仰によるということになりました。信仰は行いであってはならないのです。神様のくださる恩寵を受ける取る見えない手なのです。だから、手応えがあるはずです。そのように信じることができるか、と私たちは挑戦されている訳です。信仰によって神様に義とされたなら、何かしなければと焦ることはおこらなくなります。

 

12月25日(月)

いつ、あなたは

わたしを訪れてくださるのでしょうか。

わたしは家にあって

無垢な心をもって行き来します。

卑しいことを目の前に置かず

背く者の行いを憎み

まつわりつくことを許さず

曲がった心を退け

悪を知ることはありません。

隠れて友をそしる者を滅ぼし

傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。

詩篇101:2~5

 

これは、イスラエルの王の姿勢です。日本のニュースで政治家が出てくると悪い話しばかりでがっかりすることが多いのです。これは、日本だけではなく、世界中で起こっている事実です。その理由は、真の統治者は清い心を持って治めることを常識にしていないからです。詩篇の記事を見れば、どうあるべきかよく分かります。もし、この基準で見れば、誰が政治家として残ることができるのだろう、と憂える人が多くいることでしょう。確かに、選挙で選ばれて公職に就くというのだから、選挙が重要になりますが、心の清い、正義の心を宿した人が選ばれる仕組みとは言えません。それは、権力と関係があります。絶大なる権力が自分のものになれば、それを利用しようとする輩が集まってくるでしょう。政治家に便宜をはかって欲しいと願う人は少なくないのです。利益が上がるなら、自分の持てる権力を行使しようとする誘惑があります。それに、秘書という不思議なものが存在し、都合の悪いことは全て秘書がやったことで、政治家とは関係ない、というためのトカゲのしっぽ切りの役を置いて、保身を図れるようにしているのです。今日詩篇の王様の高い志と現代の現実とは全くかけ離れています。もし、あなたが神の子であるということを信じているのなら、あなたも王の系統ですから、今日の詩篇はあなたが目指すべき姿になります。そう思ってもう一度読み返してみましょう。私が思うに、悪魔は「支配と権威」と聖書で呼ばれています。つまり、悪魔の働くところは、支配と権威に強く現れるのです。ですから、支配と権威のあるところには要注意なのです。さて、あなたがもし会社でも社会でも学校でも、教会やコミュニティーであっても、その責任者に選ばれることがあれば、今日の聖句を目の前に掲げて決して忘れないことです。特に、「隠れて友をそしる者を滅ぼし」とあるように、これが重い罪であることを覚えておきましょう。「傲慢な目、驕る心を持つものを許しません」とあるのは、ここを許すとあっという間に悪が広がります。そして、自分を苦しめることになります。聖書に書かれた通りにできる人は幸いです。また、このような指導者を持つことができれば、幸せになれます。

 

 12月26日(火)

今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。

出エジプト33:13

 

モーセから学ぶことは多くありますが、今日の箇所は皆様にとっても大切です。まず、クリスチャンは自分が主のお心にかなっているかどうかを気にすることです。そうでないと、勝手に生きてしまうので、知らずに主の御心から外れて生きて行くことだってできるのです。そこで、クリスチャンは聖書を学び、祈りを通して主のお心にかなう者となれるようにと願うのです。モーセは、さらに「あなたの道を教えてください」と願いました。それは、主を知るためでした。そして、面白いのは、主を知ることができるようになれば、主のお心にかなうようになれる、と考えていたのです。でも、堂々巡りのように見えますね。主のお心にかなうようになっている→主の道を教えてください→主を知ることができる→主のお心にかなうようになれる。これが、重要なのです。私たちは高慢なので、一度、宗教的な体験をすると、それで全てやり遂げた気になるのです。しかし、実際には、まだまだ未熟で習うべきことが残っているのです。それでは、どうすればいいのでしょう。それは、今日の聖句にある通りなのです。つまり、「主のお心にかなう」ことを目指して生きて行くということです。もちろん、簡単なことではありませんが、主の道を求め、主を知ることを体験し、主のお心にかなうようになるということを繰り返して、変わって行くのです。

 

 12月27日(水)

すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

ルカ13:23、24

 

いったい、どれほどの人が救われるのだろう?と、考えたことはありませんか。私たちたちの面白さは、こんな時でも、自分は救われると漠然と思っていることです。この世の終わり、再臨の時に、どれぐらいの人が救われるかが判明します。自分が天にあげられる側に入っているのか、それとも地上に絶望して残される側に入れられているのか、悩ましいところです。何か、救われる秘訣があるのではないか、と考える人は、今日の聖句をよく考える必要があります。なぜなら、これは救われる秘訣をイエス様が教えてくださった箇所だからです。救われる人は、狭い戸口から入るように努めた人だと言うのです。これは、聖書をの御言葉を研究し、その教えの通りに生きることです。「入ろうとしても入れない人が多い」と言うのは、聖書に書かれた通りに生きようとしても、できない人が多いということです。安楽な生き方には、その結果も伴うわけです。楽な生き方ではなく、困難であっても正しい生き方が結局、救いをもたらすのです。真面目なクリスチャンには有利ですね。さて、私たちは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と教わりましたから、忘れることなく実践したいですね。

 

12月28日(木)

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたの命を穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

詩篇103:3~5

 

私たちが信じている主は、今日の聖句の通りにしてくださる憐れみ深い神様なのです。ですから、目先の事で一喜一憂するのはおかしな事で、もっと主を信頼して、何が起こっても大丈夫とどっしり構えていればいいのです。事実、あなたは多くの困難を乗り越えてきているのではないでしょうか。また、自分が恵まれていると感じることも少なくないはずです。では、将来はどうでしょうか。「あなたの一生を良いもので満たされる」と書いてある通りなのです。その良いものを信仰で受け取って、神様に感謝して生きて行くことが決まっています。ですから、過去に起こった悪いことにばかり心を向けるのは、よくありません。もちろん、本人が一番わかっているはずです。でも、勝手に過去に心が縛られてしまう、というのなら、あなたの主は無力だということになります。聖書に書かれているのに、それを実現できないのですから、無力だと言われても仕方がありません。そう思いますか。実は、聖書の主の御言葉は霊であり命である、と書かれている通りで、ただの文字ではありません。行いによる義ではなく、信仰による義と説かれているのは、文字を行おうとしても義とならないということであり、その書かれた文字を信じる信仰によって、神様が書かれた通り、信じた通りにしてくださるということを意味しています。ですから、自分の妄想に引きずられずに、御言葉を信じることに時間を使うのです。まずは、今日の聖句から信じてみましょう。

 

12月29日(金)

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

詩篇4:8

 

この世には、さまざまな悩みの原因が山積しています。都市に住んでいる方々は、ストレスが日常生活の当たり前になってしまっています。先日、家に帰って来ると、裏の空き地に美しいキジが遊びにきていました。平和な印です。それにしても、霜の降りるような寒さの中、どうやってキジたちは生きているのか不思議になります。天敵がいないとは言えません。深夜にキジのけたたましい鳴き声に、何か危険があったのだと、心配することがありますが、こうして姿を見せてくれると無事に乗り切れたのだと安心します。こんなことを考えていられるぐらいに平和なのです。今日の聖句を読むと、神様を信じていれば、安眠できますよ、と言われているように思えます。実際、若い時には、人並みに人生の山坂を経験し、すぐには眠りにつけない日もあったと思いますが、今は、この聖句の通りになっています。信仰の道を主を信頼して、ただイエス様と共に歩んできたら、ようやく平安な日々に至ったという感じです。自分勝手な生き方ではなかったと思いますが、主のお導きのままに従ってきたら、海外生活までして、いくつかの大きな試練も乗り越え、大変な思いをした分、今は大抵のことは驚かなくなったし、なんとかなるとどこかで思っているので、心配もないのです。本当は、お金のこととか健康のこととか、歳を取れば心配するのでしょうが、そうしたことも心配しないでいられるのは、不思議なことです。これが信仰の報いなのでしょうか。神様は確かにおられ、私たちが考えているよりもはるかに愛のお方で、ちゃんと私たちのことを考えていてくださり、日々の生活のことも、お財布の中身も全て知っておられます。将来のことも見通され、私たちに最善なことをお考えになり、私たちを幸せにしようと計画しておられます。そして、信じる訓練が進むと、今日の詩篇のように自然となって行くのです。金持ちになろうと欲張ることもなく、偉くなることも、有名になることもなく、また、貧しくなることもない、しかし、平安な生活が待っています。これが一番ありがたいと思いませんか。布団に入るとすぐに寝てしまう気楽さ、神様に感謝して寝ていればそうなります。

 

12月30日(土)

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。

ローマ8:29

 

皆さんがクリスチャンになったのは、偶然ではありません。皆さんは、まだ神様のご計画の全貌を知りません。それでも、今日まで脱落することもなく、信仰生活を守ってきました。ご自分で思っているよりも霊的に成長しているはずです。それは、神様のご意志によります。「神様は前もって知っておられた者たち」と、私たちのことを呼びます。つまり、人間的に考えてもわからないのですが、神様は超越した完全なお方として、あるご計画を立てて、その実行をはかり、人間には理解できない長い時間をかけて、全宇宙の他世界の者たちにも見せて、救済計画を実行しているのです。すでに、要のキリストの初臨は成就し、十字架の贖いという最も重要なキリストの働きも成就しました。そして、いよいよ終末を迎え、さらにご計画の最終段階に差し掛かっているのだろうと思います。その中で、私たちの関心は、「この私がどうなるのか」、ということでしょう。人間にはわかることとわからないことがありますが、今日の聖句を読むと、私たちは生きている間に、キリストの姿に似た者にしようとあらかじめ定められているのです。ですから、私たちはキリストの兄弟姉妹になるよう定められているということです。たまに教会で、「あなた方は神の子です」と言われても、不思議ではありません。何しろ救済計画は、皆さんをイエス・キリストに似た者にするというのです。キリストを知り、キリストをいつも仰いでいるとキリストに似て来るというわけです。これも、神様のご計画なので、心配することはありません。神様がこのご計画のために全てお働きになるからです。あなたは、人間の常識にとらわれずに、神様は何でもできると信じている必要があります

 

 12月31日(土)

わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。

箴言8:21

 

クリスチャンは、神様を愛する人たちです。ですから、経済のことで悩むことはありません。もし、悩みの中にある人は、それは試練です。逃れの道も備えられていますから、ひどいことにはなりません。そして、何より試練を乗り切れば、得難い祝福を得ることになります。今日の聖句を読むと、天の父は、あなたが愛しているので、財産を受け継がせようとされています。つまり、あなたの信仰は神様を愛することの中にあります。今まで以上に神様を天の親として愛してください。天国にお金を使うようなお店があるかどうは知りませんが、どうもお金は必要ではないかもしれません。そうすると、お金以外、それ以上の財産を受け継がせてくださることにななります。例えば、天国の永住権とか、天国の住まいとか、生活に必要な一切合財 でしょうか。欲張って何かを貰おうとすれば、それはおかしなことになりますから、自重すべきです。正しく理解するには、聖句の中に書かれている、「愛する」にあるはずです。つまり、全てが愛にあるのです。神様の愛を聖書の中では純金で象徴しています。ですから、神様の惜しみない愛を注がれることを意味しているのです。そして、あなたも神様を愛することを極めていけば、どんなに素晴らしい未来が待っているでしょうか。