2019年4月ディボーション

4月1日(月)

わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください。

詩編80:19

 

信仰者がなぜ苦しまなければならないのか、と不思議に思うことはありません。「鍛錬として忍耐しないさい」(ヘブライ12:7)と書いてあります。その続きはこうです、「神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」。つまり、あなたが大変な思いをしているのなら、それは天の父が鍛えておられるということです。では、どうして神は神の子を鍛練されるのでしょう。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」(同10節)。しかし、クリスチャンになって平安と恵みの生活を送るはずではなかったのでしょうか。実際には、試練にさいなまれて自分を責めたり、自分を嫌悪したり、しまいには人生を振り返って後悔ばかりしているのは、おかしいのではないでしょうか。さて、考えてみましょう。クリスチャンになる時に、あなたはどんな修行を積んだでしょう。罪人であることを認めて悔い改めて、それから義人となるために、何をしてきたでしょう。徳を積み、善行を重ね、聖なる者となったのでしょうか。残念なことに、誰も自分の功績で義とはなっていないのです。クリスチャンになった後には、「聖化」と呼ばれることがあることは聞いているでしょう。あなたの場合はいかがでしたか。ヘブライ書の続きには鍛錬の目的が書かれています。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(11節)。この実を結ぶことが聖化です。そして、聖なる者となるのは、神の神聖にあずかることなのです。これを避けていては、いつまでたっても昔のままの自分を超えることができません。ですから、苦難の中で、これは霊の父の鍛錬だと信仰で認めることです。そして、祈り、聖書を読み、今日の祈りのように信仰を告白しましょう。あなたを義とする聖霊があなたの上に降ってきますように。

 

4月2日(火)

わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

詩編81:14、15

 

聖書を読むと、「頑な心」という言葉が出てきます。イスラエルのことを言っているのですが、彼らが心を頑なにして神の言うことを聞かなかったから、「彼らを突き放し、思いのままに歩かせた」のです。これが聖書に書かれているのは、クリスチャンたちも例外ではなく、同じような危険があるので、教訓として書かれているのです。私たちが陥りやすいのは、自己憐憫です。悪魔がよく使う攻撃手段です。神様がすでに救ってくださったのに、否定的になって結果として、神様を責めるということになります。出エジプトした時、彼らは奴隷だったので解放されて喜んだのですが、すぐに「我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」(出エジプト14:12)と嘆いてみせます。それから、バビロン捕囚に遭うまでいつまでも続きました。だから、これは罪人の習性なのかと思えてきます。しかし、神の民の理想像であるモーセは、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト14:13、14)と戒めました。このモーセの信仰が必要です。何か問題が起こった時に、真っ先にすることは、「恐れてはならない。落ち着いて」と自分に言い聞かせることです。そして、「今日、わたしは主の救いを見ます」と信仰告白するのです。「主が戦われるので、わたしは静かにしています」と祈りましょう。悪魔はそうはさせじと、あの手この手で攻めてくるかもしれません。敵は、一旦恐れさせることができれば、あとは簡単だと思っていますから、初めが肝心なのです。自分が戦うのであれば、それは恐ろしいでしょうが、私たちの場合は、主が私たちのために戦われるのです。私たちは、邪魔せずに静かにしていればいいのです。それなのに、心を頑なにすると、自分勝手に振る舞います。それを無理やりやめさせることを主はなさいません。その結果がどうなるか、自由にやらせるのです。ですから、ひどい目に遭うことになるのですが、自業自得なのです。この原理を理解しておけば、間違った対応をしなくなりますので、主が自分のために戦ってくださったことを見ることになります。クリスチャンは恵まれているのです。

 

4月3日(水)

神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

詩編82:8

 

この世界には、神々と呼ばれるものが存在するが、誰も助けず、正義を実現しない。最もそれは人間の作り出したものなのだから、何もできないのは当然なのだが、それが不思議なことに人々を集め信仰の対象となっている。この地上の人間は絶えず助けを求め、繁栄を願い、正しい裁きを偶像に願う。しかし、応えることは何一つできない。木や石や金属に何ができると言うのだろう。いい加減そんなバカなことを悟ってもいいはずなのに、きっと死ぬまで続くのだろう。一方には、唯一真の神が生きておられる。神にはできないことがない。やがて多くの人間が真の神を見分けて、救われることが願いだ。神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

 

4月4日(木)

神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください。

詩編83:2

 

詩編83篇は、まるで現代のイスラエルの状況を詠っているようです。周りが皆敵という状況が変わっていないのです。つまり、八方塞がりで、神の助けなしには勝ち目がありません。それなのに、神は一向に何もしてくださらないと詩人は感じているのです。そして、切羽詰まって神を動かす祈りをしました。それが今日の聖句なのです。詩編詩人の考えでは次のようになります。敵はイスラエルの民だけでなく神をも打ち負かそうとしています。イスラエルの敵は神の敵なのです。だから神が敵を打ち破ってくださらなければならないはずです。このように、神が圧倒的な力でイスラエルの民を救ってくださることを祈念しているのです。さて、私たちの場合はどうでしょうか、いつもは平和な毎日を過ごしていますが、困難や試練がやって来ることも事実なのです。それらは、深い神の御心にかなったことであるなら、信仰が試されていることになるし、悪魔が攻撃を仕掛けているのなら、信仰で戦わなければなりません。いずれにしろ、イエス・キリスト抜きには解決しません。私たちの考えは頑なで、視野が狭いのです。それで、信仰に成長して行くには柔軟な心が求められるので、頭の硬さを砕いてでも、自分の考えで可能性や世界を狭めるのではなく、神の御心に服従する信仰を身につけさせたいのです。イスラエルの場会は、周りの国々やいろいろな民族が一緒になって苦しめてくるので、神への信仰が否が応でも強められ、神中心に団結していったのです。同じように、私たちは簡単に神から離れて行くような者なので、苦難や試練が必要になる傾向が見受けられます。つまり、この世の人と同じようになって行くのです。それは、努力してなるのではなく、逆に自由にしているとそうなるのです。それで、本心に立ち戻って、神のもとに帰るようにするには、神に頼るしかないと思わせるほどに、苦難を与えることになるのです。詩編詩人は、「黙っていないでください」と言っていますが、神が何もしてくれないので困っているのです。そのようなときになって、必死に神に近づいている姿を見ることができます。こうして、また神の元へ帰ってきたのです。私たちも自分勝手になると、神から離れます。何か深い問題があれば逃避するのではなく、また自分の力のみで解決しようとするのでもなく、神に立ち返って、信仰のみで解決するのです。その意味がまだわからない人は、実地体験で理解することになるでしょう。ただ、言えることは、神はあなたを見捨てておかれることはしない、ということです。何しろ、あなたは神の秘蔵の人だからです。神を信頼しなさい。

 

4月5日(金)

いかに幸いなことしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

詩編84:6、7、8

 

詩編84編は、巡礼者がエルサレム神殿に到着した喜びの歌です。私たち信仰者の人生は、まさに旅と表現されています。それは、天の家郷への旅路です。クリスチャンになった時に、すでに私たちの国籍は天にあるものとされました。ですから、わずかな人生の年月は、いかに天に帰るか、という一事にあります。そのため、この世に未練を残すような人は置き去りにされ、創世記のロトの妻のようになると青年の時によく言われたものです。私たちにとって、本当に重要なことは、神を慕い、神にお会いするという願いです。本当に、天において主を礼拝するのです。そのような人の信仰の歩みは、困難をも乗り越えてひたすら主の家を目指すものですから、祝福と恵みが約束されています。時に疲れ果て、弱ってきたら、すべてを放棄して主に向かいます。祈りは信仰者の呼吸です。絶えず祈りなさい。主は御顔を向けて、あなたを祝福されるでしょう。あなたは勇気が出てきて、大丈夫と自分に言い聞かせます。どんな人でも落ち込むような場面で、あなたは笑顔になり、主がどのようなことをされるか楽しくなってきます。その結果、全てが好転し始めるのです。あなたが通った所は、涙の谷と呼ばれる所でしたが、不思議なことにそこを喜びの泉に変えたのです。農夫が待ち望んだ、初めの雨も降り出します。これも神の祝福を表しています。このように、信仰者が何を目的に生きているのかで、違いが生まれます。人生の逆境の場面でも、主は勇気を与え、あらゆるものを祝福に変えてくださるのです。そのことを心に覚えて、巡礼者のように、天に帰る旅路を全うしたいものです。

 

4月6日(土)

主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。

詩編85:10

 

信仰は必ず報われます。あなたのことを主は良く理解してくださっています。あなたは、自分のことをどこまで理解しているでしょうか。ついつい自分を責めたりしていないでしょうか。クリスチャンは、主観だけで生きることをやめているはずです。そうしないとやはり、自分の失敗や過去のトラウマに繰り返し思い出しては、苦しみを繰り返してしまうからです。それは、イエス・キリストとの出会いによって、救われ、癒されているので、よく考えればおかしなことなのです。そうは言っても、悪魔はこのような攻撃を得意としていますから、主の祈りで、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」(マタイ6:13)と、毎日祈ることの大切さがわかります。私たちは、信仰の勇者であると勇ましいことは言えないし、パウロのようにすごい伝道者にもなれず、普通の弱い人にしか思えないかもしれませんが、それでも良いところがあるのです。それは、神様があなたを救ってくださった事実があるから確かです。神様は、あなたに良いところがあることを知っていますから、色々問題があっても見捨てません。あなたの一番の良いところは、イエス様を信じていることです。それに、神様を畏れていると言えばいいでしょうか、あなたは神様に対しては絶対的なのです。神様を慕い、愛しているのです。神様があなたを愛しておられることを信じているでしょうし、神様が必ず救ってくださると思っているでしょう。神様はあなたを祝福し、あなたの側近くに行かれようとするでしょう。聖なる臨在を知ってほしいのです。そのためには、信仰で生きて欲しいのです。そうでないければ、真理の御霊が聖書を解き明かしても信じないなら無駄になり、滅びるかもしれません。聖書の真理こそが、あなたの信じることです。そこに書かれた方法で聖霊の奇跡を体験することになります。それは主の栄光です。このように素晴らしい救いの計画はできているのですから、恵みにあずかる事にしましょう。

 

4月7日(日)

主よ、憐れんでください、絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです。

詩編86:3、4

 

人は素晴らしいから救われるのではなく、神に愛されて救われるのです。詩編によく「憐れんで」という言葉が出てきますが、それは、私たちが主に助けを求める時に、助けなければならない理由がないからです。ただ主に「憐れんでいただく」ことでしか私たちを助ける理由が無いのです。そうであるからこそ、助けが必要な時には、私たちは主を呼び続ける事になります。私たちの心が落ち込んでしまった時は、声も出ないので、魂が叫びます。幸い、私たちはイエス・キリストを知っていますから、悪魔の仕掛けた落とし穴に、まんまと落ちてしまったとしても、御名を呼び続けるなら、穴の上にイエスが現れ、手を伸ばして私たちの手を握り、一気に引き上げてくださるのです。主に助けられた喜びは、格別です。いつでも、どんな時にでも、イエスはあなたを守ります。あなたをキリストの無垢の愛が優しくおおいます。あなたの深い所で、魂は癒され、喜びが広がります。このような経験をすれば、私たちの魂は、主を慕うようになります。そこに、信仰が生まれるのです。主は、いつでもあなたのことを気遣って見ていてくださるのです。安心していて良いのです。どんなに困っても、なんとかなるのです。私たちの救い主は力ある主イエス・キリストだからです。

 

4月8日(月)

歌う者も踊る者も共に言う、「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。

詩編87:7

 

詩編87篇は、捕囚後のエルサレムへ帰還した後の時代に作られたものと思われます。やがて、帰還したイスラエル人だけでなく、近隣諸国の異邦人もユダヤ教に改宗する者が出てきたのです。この詩には、ラハブはエジプトのことですが、バビロンも出てきます。この当時の大国です。ペリシテは隣の国でイスラエルと戦い、悩ませた国です。ティルスは地中海沿岸の国を代表するフェニキヤの地名ですし、クシュは今日のエチオピアのことで、当時は南の辺境の地とみなされていました。これらは、当時の異邦人世界を表していたのです。つまり、異邦人がエルサレム神殿に住まわれる神を信じて、改宗していたことがわかります。たぶん、バビロンで世界を見てきたイスラエル人は、異邦人へも救いの道を広げていたのです。イエス・キリストの来られた時代には、もっと異邦人への狭い考え方をしていて、イスラエル人の選民意識が高かったのです。しかし、旧約聖書にこのように、エルサレムに来た異邦人が神に救われていた事実があって、今日のように世界中に異邦人がクリスチャンとして存在することの裏付けになっているのです。どこの国の人でも、イエス・キリストを信じて救われた者は、神から生まれた者なのです。

 

4月9日(火)

わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。

詩編88:3

 

祈る時、すべての祈りが御もとへ届いているのか疑問に思うことがあるのではないでしょうか。ちゃんと時間と場所を用意し、静まって、聖書をかたわらに置き、真剣に祈り出す。そのような祈りでなければ、届かないのではないかと気になる人は少なくありません。朝の忙しい時に、慌てて身支度を整えて、歯をみがきながら急に思い出すのです、「あっ!まだ朝の祈りをしていなかった」と。それで、歯磨きをしながら神様に謝りながら、祈るのです。そして、こんな祈りではダメだな、と祈りの無効を宣言してしまいます。また、1日が過ぎて行き、ようやく布団に入り、眠りにつく時になって、急に思い出すのです、「あっ!祈るのを忘れていた」と。それで、布団から出ることもできずに、また神様に謝るのです。そして、なにがしかを祈り、気がつくと眠ってしまうのです。これではいけないと、ちゃんと祈っていないと反省するのですが、このような状態から抜け出すのは、意外と難しいのです。今日の詩編記者は、切実な祈りをしています。切羽詰まり、苦しみの中でなんとか神様に救い出して欲しいと真剣に思っているのです。詩編を読んでみると、驚くほど苦しんで神様に助けを求める祈りとなっている詩が多いのです。なぜ、もっと元気になるような、明るい詩を多く入れなかったのだろうかと不思議に思えてきます。しかし、人間が神様に真剣に祈る時は、やはり困っている時や悩みが深い時、助けを乞う時になるのでしょう。確かに、キリスト教の歴史には祈りの達人が幾人も登場します。そして、祈りをテーマにした本が一番多く出版されてきたのです。ある長老さんから、困ったことが起こったのでどう祈ったらいいのか祈り方を教えて欲しい、とメールが来ました。この人は、今まで長い信仰生活で一体何を学んできたのでしょう。祈りをどのように考えてきたのでしょう。神様との関係がこの一事でわかってしまいます。バプテスマを受けたばかりの人なら、仕方ないかもしれませんが、何十年も教会に通っていて、それでこのような有様なのかと、考えてしまいました。このように、クリスチャンでありながら、祈りを知らないでいる人は多いのではないか、と思えてきました。少なくとも、聖書には、キリストが「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)とあるのですから、「自分はキリストの軛を負っているのだろうか、キリストから学んでいるだろうか」とまずは考える必要があります。悩みが深い時に、どう祈るか聖書に書いてないのならともかく、今日の詩編にしろ、実例付きで祈り方が書かれているのです。主は親切なので、隠しているようなことはないのです。それに、4歳の孫でも祈っています。主の御もとへ祈りが届くかどうかは、実はその人の信仰によるのです。主は、全能者ですから、心の中のつぶやきですら聞くことができるのです。主への単純な信頼、天のお父さんと呼べる心、イエス様と慕う気持ち、自分のすべてが主のおかげであるという感謝の思い、こうしたことが妨げなしに主の御もとに祈りを届けるのです。人間は、困った時に、詩編記者のように祈り始める人と自分の力でなんとかしようとする人に分かれます。どちらが良いか、わかりますよね。ここが間違わなければ、この地上で起こる問題はどんなに厳しく困難であっても、なんとかなるものです。クリスチャンは、このような基本的なことをきちんと学ばされます。主に無駄なことは何もありません。

 

4月10日(水)

いかに幸いなことでしょう、勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。

詩編89:16

 

 

私たちは、クリスチャンとして主に喜ばれる生き方をしたいと思います。実際には、理想通りにはいかないかもしれませんが、選択する自由があり、信仰に生きようと決めることができます。もちろん、その反対の選択もできますが、主を知った者にとって、それは決して心地良い道ではありません。いつか良くなると幻想を抱いていると、取り返しのつかない結果になるかもしれません。それでは、手遅れです。そうなる前に、主に祈ることです。主の御前に出れば、正常な心理が回復します。そして、人生は主によって勝利へと導かれることを体験すべきです。人の話ではなく、自分の体験にするのです。主のおかげで勝利できたと証しすることができません。色々なことがあって、苦しんだとしても、勝利の叫びをあげるほどの経験が主を信じる者には与えられるます。それは、主を第一にしていれば誰でも経験できます。主の祝福を求める人は多くいますが、それが主が御顔を向けてくださり、その光の中を歩くことを知っている人はそれほど多くはありません。信仰の前に、自分の力に頼るからです。また、自分に対する評価が低いのも問題です。もちろん、高慢になれと言っているのではありませんが、セルフイメージが低いと信仰に悪い影響が出てくるから気をつけなければなりません。一旦、否定的な思考を受け入れると、なかなか肯定的に切り替えることができません。そこで、主に助けていただくのです。聖書ではイスラエルの民を苦しめる外敵が出てきますが、私たちの場合も人間関係で悩まされることはしばしばあるでしょう。それでも、私たちが弱いことを知っておられるイエス様が助け主として、あるいは羊飼いとして、颯爽と現れるのです。ここが、クリスチャンの特権なのです。自分で何もかも頑張らなくていいのです。自分が変わろうとして変われない苦しみを味わってきたのですから、イエス様に甘えて、全部代わりにやっていただいてもいいのです。心が落ち着けば、肯定的に考えることは難しくありません。イエス様が笑顔を向けて、励ましてくださいます。祝福されていることを素直に喜び、克服できないと思っていた自分の壁を見事に越えていけるようになります。こんなに簡単なことだったのかと驚くほどです。イエス様の恵はあなたのものです。まずは、私はイエス様によって、恵まれていると認めてみましょう。勝利したいことがあれば、具体的に祈って、イエス様によって、私は勝利の叫びをあげます、と宣言しましょう。そして、感謝が溢れるまで賛美しましょう。主があなたを認めているので、あなたは自信を持って生きていけます。ハレルヤ。

 

4月11日(木)

生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

詩編90:12

 

一人の人の生涯は長いのか短いのか。今や人生100年時代を迎えました。そうなると昔の賢人たちの知恵はあまり役に立たなくなりました。人生50年と言われていた時代なら、死ぬまで働くということが切実な問題だったでしょうが、100歳まで生きる人が珍しくなくなり、定年の考え方が難しくなってきました。昔は、定年後にそれほど長い時間生きられるとは思っていなかったのです。こうなると、働ける限りは働く社会になっていきそうですが、実際にはAI時代が到来しているので、第4次産業革命などと言われている大きな変革期に遭遇しているのです。一体これからどうなるのかと不安に思っている人たちが増えているわけです。国力の指標に労働人口がありますが、先進諸国はすでに労働力を確保するために外国人を受け入れ、人口が増えてきました。しかし、日本は遅れてしまい、人口が減っています。これが日本の国力を下げることになり、これから今までのようにはいかなくなるかもしれません。日本は、世界で一番の高齢化のスピードが早い国で、人類が味わったことのない高齢者の国になっています。2025年には、団塊の世代が皆75歳以上になり、後期高齢者になります。その対策が急務なのですが、政府は出遅れている感が否めません。前例がないからです。しかし、後2、3年で方策を立てて、法整備をしないと間に合いません。このように、社会が激変してしまう時代には、変わらないことが良いことだと言っていられません。昭和生まれの人たちは、電話をポケットに入れて持ち歩くなど夢物語だったのですが、今やスマホは高性能小型コンピューターとなり、世界中にインターネットを使う人たちがいて、開発途上国の紛争地帯や貧しい国であっても、インターネットで女性たちがビジネスをする時代になったのです。大手のアパレルメーカーでも店舗をたたんで、インターネットビジネスに切り替え始めました。今、ある有名なヤフーのような会社もいつまで続くかわかりません。どこかの若者が全く新しい仕組みを考える可能性が高いのです。それで、今までの仕事の仕組みが変わってしまうことが予見できるのです。赤ちゃんの紙オムツが出始めの頃は、知識人も誰も彼も反対していました。昔ながらの布おむつでなければ、とあれほど言っていたのが嘘のように、現在では紙オムツは当たり前で、騒ぐ人もいなくなりました。このように、時代の移り変わりに順応することは大変ですが、止めることはできません。ですから、柔軟な心が必要ですし、好奇心が旺盛である方が楽しく生きていけるのです。宗教も真理は一つですが、人へのアプローチは時代と共に変化していくべきものです。何十年もいる教会に気がついてみると年寄りばかりが目につくようになり、青年や子供がいなくなった教会が全国にたくさんあります。そのような教会では現代の青年が理解できるような教会づくりは決して行われないのです。昔ながらでなければいけない、自分たちにとって居心地がいい場所でなければならないからです。それなら、自分たちと同じ高齢者に伝道すればまだいいのですが、新しい人が入れば、色々と面倒なので、同じメンバーでいる方が良いと思ってしまうので、教会は高齢化して、どんどん衰退化してしまいました。面白いのは、アメリカの教会を見てみると、メガチャーチのような新しい現代的な礼拝に変えて成功している教会では、圧倒的に青年が多いのです。青年が70%から80%以上いる教会は驚くほどのスピードで成長することがわかっています。自分の生きる時間が平均寿命から予測できるのなら、どう生きるか考えてみるべきです。難しく考えるのではなく、信仰によって老後が心配なくなったかどうかです。主への信頼は、主を知ることからです。主は喜んで知恵を授けてくださいます。時代がどう変わろうと、信仰はその人を助け、祝福された人生へと導きます。主は、寛容にあなたの人生を見ていてくださいます。

 

4月12日(金)

「彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」詩編91:14~16

 

詩編の中で好きなものが91篇です。最後まで読むと涙が出てきます。神様の思いが伝わってきます。この地上で一生懸命に生きていても、自慢できるようなものではないどころか、後悔したり、恥じ入るようなことがしばしばあって、他の人より誇れることもなく、平凡に生きているだけなのに、この貧しい者に、主はなぜここまで心をかけてくださり、良くしてくださるのか、不思議になります。「神のまことは大盾、小盾」。主は体を張ってあなたを守ります。傷つけば、御翼の下にかばってくださり、癒してくださる。あなたは神様の御目には特別なのです。もちろん、悪い心が出て来る時に放っておけば、その結果は悪く、罰を受けることもあるでしょう。それは、子を思う親心です。あなたが、一生を安心して暮らせる方法が91篇には書いてあります。それは、あなたが見つけるべきですから、ここには書きません。主は、あなたが身を寄せたので、苦難の襲う時に共にいてくださるお方なのです。だから、あなたは独りぽっちで淋しいと思う必要がありません。あなたの生涯は、満ち足りたものとなるはずです。主の救いの意味がよくわかるでしょう。主を賛美しましょう。

 

4月13日(土)

主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。

詩編92:6

 

クリスチャンになってからの人生は、明らかにそれ以前とは異なっています。それは、背後にいつでも神様の恵み深い計らいがあるからです。それどころか、目には見えませんが人生の道があって、その要所要所にあらかじめ良いことが準備されているのです。例えば、私が一番わかりやすい例として、車のことを言いますと、今まで車を買い替える必要が出てくるとそのお金が与えられてきたことです。その時期がピッタリなので、偶然とは言えず、神様がこの日を知っていてあらかじめ何年も前から備えていてくださったとしか思えないのです。確かに牧師の仕事で車は必要なので、それにちょうど良い車が与えられます。千葉から東京まで毎週通っても疲れない車が与えられ、娘たち家族も一緒に乗せていけます。娘の家からは娘の夫が運転してくれますから、歳をとっても疲れずに東京へ行けます。この娘は沖縄に嫁いで行ったので、このようになるとは思っていませんでしたが、東京まで運転するのが疲れるようになったら、突然引っ越してきたのです。嬉しいことです。私は、毎朝神様に感謝します。本当に感謝することばかりなのです。感謝の多い人は皆幸せになっています。何もかもうまくいくようになります。聖書にはっきりと、神様がしてくださることは驚くほど大きい、とあり、また、あなたへの御計らいはいかに深いことでしょう、と書いてあるのですから、疑わずに、主のよくしてくださることを何一つ忘れずに、その一つ一つに気がつくたびに感謝すると深い喜びが湧き上がってくるでしょう。それが、人生を良くする秘訣なのです。今日は、主が良くしてくださっていることを見つけて感謝しましょう。

 

4月14日(日)

主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。

詩編93:1

 

私たちは、主の大きさを正しくは理解していない。それで、すぐに神様を過小評価して、地球上の人間が多すぎて、私のような小さな者のことまで見ていることができないだろうと思ったりする。そのような言い方をする人に会うたびに、気の毒にと思う。そんな小さな神様では頼りないだろうに、と。しかし、自分の知っている神様は途方もないお方だ。人間などが理解できるような小さな神様ではない。超越しすぎていて、科学者が自然界を観察して、その精緻な構造と法則に驚嘆し続けているが、それを見て神様を思わない人はおかしい。美しい自然のデザインですら、黄金律によって創られている。神などいないという人でも、生きるための条件が不思議なことに変わらずに保たれている。誰が保っているのだろう。人間が空調を保とうとすれば、どれだけ費用がかかり、しかも有限だろうか。それよりも完璧なことが地球規模で行われている。私の家は、海に近いので、海が見たいと思えば見にいくことができる。どうしてか、人間は海に憧れ、静かな波音に癒される。寄せては引く波も見ているだけで心が落ち着く。ところが海が荒れると漁師も船を浜にあげ、鎮まるのを待つしかない。磯に打ちつける荒波は大きな音を響かせて波しぶきをあげる。その激しさに人々は古代から最大の力強さを感じてきたのだ。そして、詩人は、それ以上の力を神に見出した。そう、私たちの主の御力は、この地上の何ものにも勝る圧倒的な力なのだ。それが、あなたのために働く。あなたを救うために、広大な海の力よりもさらに優って大きな力が働くのだ。だから、あなたは何も思い煩う必要がない。神に不可能はないというのは本当だから。勇気を出そう。あなたの神は力強い。今日、問題を解決するために大水のとどろきよりも大きな神様の力が動き出す。高くいます主に栄光が永遠にありますように。

 

4月15日(月)

いかに幸いなことでしょう、主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。

詩編94:12、13

 

私たちは、いつでも平和で幸福な道を歩み続けたいと願っています。しかし、実際には信仰を持たない人の間に住み、時に理不尽な目に遭うこともあるのです。一生の間には、良いことも悪いことも起こります。その度に、私たちは信仰が試されます。棚から牡丹餅のようなうまい話はなかなかありませんが、それよりも100%確実な救いがあります。それは、私たちの神様です。私たちは、この世の中の声を聞いていると何が正しい事かわからなくなってきます。しかし、私たちがブレないでいつもまっすぐに歩めるのは、聖書を知っているからです。生きている限り、何遍でも読み返して、主の教えを楽しみに聞き続けるのです。自分の感情と聖書の書いてあることがぶつかり合うことだってあるでしょうが、後になれば、聖書の通りにしていればよかったと後悔するでしょう。でもすぐに、恐れて、慌てるのです。それが、どうやって人格者のようにどっしりと落ち着いていられるかと言えば、やはり、聖書から学ぶことなのです。歳をとって良かったと思うことはあまりないのですが、聖書だけは別です。年齢が進むごとに、聖書がわかってくるからです。律法は何かの規則のようなものではありません。律法は、神を心を尽くして愛すること、隣人を自分を愛するように愛することです。それだけです。律法主義者は、愛さないことをするので問題なのです。さて、信仰が強められるように祈りましょう。主に諭していただき、悟れるように祈りましょう。今日も良い日でありますように。

 

4月16日(火)

わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。

詩編95:6

 

 

礼拝の招詞でよく使われる箇所がこの95篇です。主を礼拝する行為は個々でありながら、神の民という共同体として献げるものでもあります。私たちが拝む神様は、創造主であって、私たちを造られた方です。私たちの信仰が最も聖なるものに触れる時が礼拝です。それは、形ではひざまずく姿であり、ひれ伏す姿となりますが私たちの心の礼拝する姿を表しています。それだけに、形だけの礼拝行為になりやすく、慣れから形骸化することも珍しくないのです。青年の時に所属していた教会は、大きな教会で執事をしていましたから、礼拝の時にてぬかりの無いように気を配りました。いつも会堂の中は250人以上の人が来ますから、通路にも補助席を出して混乱の無いように忙しく働きます。それで、自分の役目を果たした事で満足していたのです。しかし、それは礼拝の時間のことだったのです。私の心は忙しくてひざまずいたり、伏し拝んではいなかったと思います。プログラムが順調に進んで無事に終わることに気を取られていたのだと思います。その時は、それが良いことだと思っていたのですが、今振り返れば、決して主を礼拝していたことにはなっていなかったと思います。それでも、礼拝の場にいるだけで霊的に力を受けて一週間が元気に過ごせるのを感じていました。礼拝を休もうものなら、次の一週間が力なく辛いものとなりました。それで、礼拝は休んではいけないと思ったものです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ17:20)というのは本当なのです。それなのに、人間的に自分が良いと思うこと気持ちがいって、肝心の礼拝の意味がわからなかったのです。神様は何でもできますから、たとえ、ビデオで礼拝しても、霊的にひざまずき、ひれ伏して拝んでいるのなら、立派な礼拝として受け入れられているのです。本当に神様が偉大なのは、パウロのように暗くじめじめとした汚い地下牢に入れられて鎖に繋がれていても、賛美し、礼拝すれば、やはり受け入れてくださるのです。ましてや、一人、主の御前に座して、ひれ伏して、「主よお語りください、僕は聞きます」と祈れば、主はあなたに語り出すのです。その御声が何とか聞き取れる者となりたいものです。

 

4月17日(水)

新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。

詩編96:1、2

 

神様を賛美することは楽しいことです。誰でも、愛唱賛美歌があるものですが、これを賛美すると神様への思いが溢れて、深い感動や喜びがあり、時には涙も出てくるような特別な曲なのです。神様からの祝福を受けていることが認められるのは、意外にも小さなことの中に見つけることができます。朝、目覚めた時、食事の時、平和であると思えた時、家族が笑ったり、幸せそうに見える時、自分が何一つ不自由では無いと発見した時、今日も命が与えられたと思った時、気になっていた人が元気そうに連絡してくれた時、聖書のことを質問された時、誰かと一緒に祈れた時、天の父に愛されていることを悟った時、イエス様が困った時にはいつでも一緒にいてくださると知った時、空が美しいと思った時、チュウリップが咲いた時、キジが元気に現れた時、ウグイスが美しく鳴いた時、礼拝ができた時、東京まで車で無事に往復できた時、何かしら食べ物がある時、主の祈りが唱えられた時、そうなんです、神様への感謝はキリがないのです。その感謝が義務ではなく、本当にそう思えるので、感謝を賛美にすると、大きな感謝の思いが心地よく溢れてきます。ありがたいことです。主が私の生活を支えていてくださり、私の小さな祈りをことごとく聞いてかなえてくださることがわかると、賛美は自然と口をついて出てくるのです。遠方に住んでいる兄弟姉妹がそれぞれ、信仰の道を一生懸命に生きていることを知ると、思いが与えられ、祈りになります。聖徒たちがそれそれ、互いのことを思いやり、祈りあって、神の国を目指すのは、良いことです。それだけに、福音をまだ知らない人にこの愛のメッセージを伝えたいと願うのです。今日の信仰の歌が新しい賛美になり、また、明日になれば神様との間に何か良いことがあって、信仰で生きることを体験し、さらに賛美歌が新しい歌となり、祈りが新しい歌となるのです。主に向かって歌え、御名をたたえよ。ハレルヤ。

 

4月18日(木)

主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる。

詩編97:10

 

神様を信じる人は慕うように愛します。それが普通にできていれば人生はうまくいっているはずです。しかし、何かしら問題があるのなら、少し立ち止まって考えてみましょう。自分は誰かを見て羨ましく思ったり、あの人たちに比べて私は劣っていてダメだ、とか思っていませんか。そして、落ち込んだりしていれば大変です。そのような惨めな自分を認めている時には、神様は締め出されてしまいます。信仰など吹っ飛んでしまいました。不思議なことに、自分以外の人の心の中は知ることができないのに、外側から見て、勝手にあの人はいいなぁ、とか、自分よりも他の人を上に見るのはどうでしょう。羨ましいと思った人の本音を聞けば、がっかりするはずです。真実は、ちっとも羨ましくはないはずですよ。クリスチャンは、イエス様を見る人なのです。いつでもイエス様を見ていたいのです。イエス様の慈しみに生きることの素晴らしさを知ったからです。他の人を見て自分と比べても意味が無いことがわかったからです。どんな人もその人なりに苦労しているし悩みがあるのです。それが人間です。でも、クリスチャンは、イエス様に一方的に完全に救われたのです。その救いは、初めてありのままに無条件で愛されるという経験でした。主は、心変わりすることがありませんから、自分自身を完全に委ねても安全なのです。そこで、イエス様をお慕いしているので、いつも見ていたいのです。そのために、この世のことで以前のように人の目を気にする事もなくなり、人と比べて感情を刺激されることもなくなります。人間ですから、感情がなくなるわけでは無いので、神に逆らう者から不当な扱いや傷つけられることもあるかもしれませんが、主がそんな時には助け出してくださるので平気です。クリスチャンで良かったですね。

 

4月19日(金)

わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。

詩編88:3

 

韓国人の牧師で親しくしていた先生は、祈りがいつも感動的で素晴らしいのです。日本人では聞くことのない重々しい男性的な祈りです。それで、東京で行われた合同礼拝の最後のお祈りをこの先生にお願いしました。1000人ほどの会場で、一番重要な祈りを任された先生は、日本語の心配があって祈りを神に書いてきたのです。それは、無難な良い祈りでしたが、わたしが皆に聞かせたい祈りではありませんでした。それは、会場の人に聞いてもらう祈りで、今日の御言葉のようではなかったのです。新しくバプテスマを受けた人には、公の場で祈る機会を比較的早くに作ります。もちろん、その人は心配し、先輩の助けを借りて祈りを神に書き、落ち度のない祈りにします。それを読むのですが、祈りの何かがわかるのです。そして、決して忘れません。これは、その人の祈りに良い影響を与えます。さて、牧師は人前で祈る機会が多いので、だんだん慣れてきますが、それでも、大勢の人が集まるような特別の集会や礼拝での祈りは、時に良い祈りをしようと思ってしまい、人に対して聞かせようとする祈りになってしまうことがあります。それは、最悪で何を祈っているのかわからなくなり、同じことの繰り返しになってしまうような祈りで、二度とこのような祈りはしたくないと思います。誰がいてもいなくても、今日の詩編記者のように神様に対しての真心からの祈りが一番です。それから、誰か個人のために祈る時に、聖霊が働いて、預言的に祈ることがあります。自分でも知らないことを祈っているのです。祈りは、天に昇って行くものです。良い香りの献げ物となれば、それは良い祈りです。祈りと賛美を合わせても良いのです。良い言葉が使えないのなら、詩編などの聖書をそのまま祈りとして読むことも正しいことです。個性的な祈りをいくつも聞いたことがあります。ただ、長ければいいというような神様を疲れさせるような祈りは良くないとされていますから、自分の心を込めた祈りになるように、主に思いを集中して祈ってみましょう。祈りの中で癒され、愛に包まれることも可能です。心の重荷を下ろすことも祈りの中でできることです。主へのお願いだけではなく、感謝の祈りも忘れないようにしましょう。あなたの祈りが天の御座におられるお父様の耳に届きますように。

 

4月20日(土)

いかに幸いなことでしょう、勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。絶えず、御名によって喜び踊り、恵みの御業に預かって奮い立ちます。

詩編89:16、17

 

世界広しと言えども、神様が自分たちの王様であるという人は限られています。神様に勝てる相手はいませんから、クリスチャンは人生において百戦百勝です、と言いたいのですが、現実はそうも行きません。それは、神様に問題があるのではなく、私たちに問題があるからです。私たちの内には欲がありますから、誘惑に弱いのです。しかも、最悪なのは敵である悪魔は私たちをそそのかす者なのです。誘惑に負けると罪を犯すので、神様の祝福を受けられません。そうなると、人生が変わってしまいます。いつも勝利していた人が、突然負けだすのです。慌てて、御顔の光を求めますが、暗黒がすでに頭上を覆い始めています。あれほど、自信に満ち溢れていたのが嘘のように消え去り、自分を認めて愛し、支えていてくださった主がどこにもいないのです。そうなると大変です。すぐに悔い改めることが必要です。そして、すぐに主の憐れみにすがるのです。そもそも、欲は肉の中にあるので、パウロは肉を問題視して、肉に死ぬ必要を説きました。それは、霊的なことなのですが、イエス様の十字架こそが、肉を殺す唯一のものなのです。肉を放置しておけば、その結ぶ実は最悪です。決して天国へ行けそうもありません。私たちがクリスチャンになったのは、実に肉に死ぬためです。イエス様の十字架に一緒にかけていただき、一緒に死んでいただくことを実現するためです。洗礼を受けるのも、霊的に十字架で罪に死ぬためです。それは、同時に肉を死なせることでもあります。この奇跡があって、初めて人間は清めを経験できます。そして、神の息である聖霊を注いでいただき、新しい霊によって生きるのです。これらは、本来、彼らに勝利ある人生を送らせる恵みであったのです。これらがただ、信じる信仰で実現するのです。ところが、その簡単さが後に問題となります。つまり、信じた通りになっているので、もし、信じることをやめたらどうなるかという問題です。当然、聖書に書かれている通りに、その人の信じている通りになるのですから、肉が死んだことを信じていたのに、それを信じなくなれば、肉は息を吹き返し、罪も起き上がるのです。そうなれば、誘惑は効果があって、罪を引き起こすでしょう。そうなると、クリスチャンは信仰によって生きるという聖書の言葉通りにしなければ、勝利者にはなれないということになります。そこで、いかに神様に救われて正しい人になったら、信仰によって生きるか、この一事が重大な事となるのです。イスラエルは、この失敗によって、国敗れ、捕囚の憂き目にあったのです。この教訓を生かしたいと思います。主の恵みに満足する者となれますように。

 

4月21日(日)

生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

詩編90:12

 

自分の人生を振り返る日があるでしょう。でも、それは後悔かもしれません。あの時、あーしていれば良かった、こうしておけば良かった、と人生の大事な日を悔やむなら、それは残念なことです。しかし、所詮かなわない繰り言です。聖書の御言葉を読んで「もっと早くに聖書を読めば良かった」と、ため息をつくなら、あなたは誤解しているのです。今日でなければ悟ることができなかったのです。そうであれば、あなたの人生は色々な苦労をして、経験を積んで、人間的に頑張ってきたのです。それで、ようやく御言葉の真理に目が開いているのです。だから、過ぎ去った事を悔やむのはやめるべきです。むしろこれから人生が良くなります。その準備が終わったのです。料理の修行時代を終えて、いよいよこれから独り立ちする日が来た時の料理人の喜びのように、私たちも今日の御言葉を読んで、あ~この通りです、と思えるのなら、いよいよこれからクリスチャン人生の一番良い時を迎えることになります。過去の悔いが残る時には、生涯の日を正しく数えようなどとは思っていなかったのです。毎日、ただ無駄に過ごしても永遠に日は続くように感じていたのです。だから、その時にすべき事を怠けたのかもしれません。私のように60代になると残りの人生はあとどれぐらいなのか、とようやく見えてきます。もう十分働いてきたのだから、これからはのんびり過ごそうと考えるのか、いよいよこれからモーセのように自分の使命をやり遂げよう、と決意するのか、大事な分岐点なのです。気力があれば、昔からやりたかった事をやってもいいでしょうし、これが自分の使命だと見極めて、弱った力を振り絞って踏み出すのも良いでしょう。萩本欽一さんも、普通なら諦めてしまう年齢になってから大学に見事入学しました。ニュースになるぐらいすごい事ですね。そこまででなくとも、今はチャンスが広がっているのです。インターネットがあるし、PCやタブレットが使いやすくなりました。既成概念に囚われている人には難しいでしょうが、遊び心があれば、自分にとっての普通のことが結構すごい結果に結びつくのです。絵本作家の村上康成さんは、自分の子供時代に釣りが好きで川で遊んだ経験があり、編集者からそれを描いたらいいと、アドバイスをもらったそうです。それは、彼にとっては普通のことだったので、そんなものが良いと思っていなかったのです。ところがそれがとても素晴らしい作品になりました。人生は青い鳥の物語のように、本当に大切なことは自分のそばにあるものなのですね。知恵ある心が与えられるようにお祈りしましょう。

 

4月22日(月)

主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。

詩編91:11、12

 

あなたは考えたことがあるでしょうか。イエス様を信じて救われ、しかも、主が多くの恵みを与えてくださるだけではなく、御使に命じて、あなたを守るようにされている事をです。これは、具体的な事で、実際に守られているのです。私たちが試練にさらされている時であっても、守りがなくなるわけではありません。もし、私たちが天使を見ることができれば、危ないところを何度も助けられていたことに気がつくでしょう。ボディーガードという映画がありましたが、それ以上の鉄壁な守りです。だからと言って、無茶な事をしていいわけではありません。そうではなく、霊的な戦いの現場にいる事を理解してください。自ら用心することが大切ですが、恐れが信仰の大敵であるために、恐れてはいけないと知りつつも、何かの拍子に簡単に恐れてしまうことがあります。そればかりか信仰が萎えるようなサタンの攻撃があることも事実です。そのような時に、恐れが頭をもたげてくるのです。しかし、皆さんは想像してみてください。この聖句に書かれた通りに、天使があなたを守っている情景をです。その天使はとても強くて、あなたの守護天使になります。このように主はあなたを守っていてくださるのですから、元気を出して、楽しい充実した1日としましょう。

 

4月23日(火)

神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び命に溢れ、いきいきとし

詩編92:13~15

 

植物を育てたことがあるでしょうか。私の目の前には胡蝶蘭があって、綺麗に花を咲かせています。家に来てから三年目ですが、ちゃんと咲いてくれました。頑張って綺麗な花を咲かせてくれると、毎朝つい話しかけてしまいます。ペットとは違いますが、黙って花を咲かせ、文句も言わずに人が見ていなくても綺麗に花を開くところが素晴らしいと思えるのです。神様はよくもこのような美しい花を創造されたものだと感嘆の声が出てしまいます。聖書には、植物の名前がたくさん出てきます。それで、聖書植物図鑑のような専門書も作られました。今日の詩編にも、なつめやしやレバノン杉が出てきます。ただし、比喩としてですが、神に従う者の姿を描写するのに使われました。神の庭に植えられた木として描かれているのです。とても詩的ですが、クリスチャンも自分がどのような者であるのか知るには必要な箇所なのです。この世では、弱々しく貧弱に見えたり、パッとしない人と見られていたとしても、霊的には神殿を建てるためにも使用した最高のレバノン杉のように凛として動じないで主の元に黙って立っている神の人なのです。誰かの空腹を満たしたり、必要を補ったり、喜ばせたり、もてなしたり、と人の命を支える働きを自然に行って報いを求めない人でもあります。そのようなクリスチャンは、年を重ね白髪になっても、まだ何かを成し遂げることができます。主を証しして命の水が湧き出し、腹から川のように流れ出しているのです。主を信じ、喜び、賛美し、この世の報いを求めず、天の父の報いを待っているのです。いつまでも、いきいきとしていることができるのです。

 

4月24日(水)

主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます。

詩編93:1、2

 

世界のニュースが不安を感じさせ、先行きの不透明感が人々の将来を暗くしている。それにしても新しいことがどんどん増えて、便利になる一方で、その流れについていけない人がたくさんいる。それなのに、そんなことには御構い無しに加速している。日本の流れというよりは、世界の流れに乗らなくては大変なことになると思っているのか、社会はせき立てられるように変化を早めている。年寄りは昔は良かったとため息をつき、ちょっと前までは携帯は持たないと頑張っていた人など、すっかり置き去りになってしまい、高齢者もスマホを使わなければと、NHKでも使い方の番組を作るし、幾つもの解説書が本屋に並ぶ。人間はどこへ急いでいるのか、と気の利いたことを言えたのは昭和のことで、令和になったら、どんなことになるのか想像もつかない。人口が減少しているのに、地価の高い東京に人は増えている。狭いところに押し込められ、自然が残る余地がほとんど消えてしまった。このような、大きな変化の時代にも、神だけは変わることがない。その神が自分を支える主であり、王であると言えることは、実はとても大きな恵みだ。変化についていけようが、ついていけまいが、心配することもない。そもそも私たちの住んでいる世界は、神の国なのだ。だから、主を王とする者には、安定した安心がある。私たちは、この人間の歴史が最後にはどうなるか知っている。だから、この地が揺らぎ、不安定になっても、キリストという岩の上に足を置き、決して揺らぐことがないのだ。これが、どれほど大きな恵みであるか、やがて知ることができるだろう。

 

4月25日(木)

「足がよろめく」とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、わたしの魂の楽しみとなりました。

詩編95:18、19

 

私たちは意外と自分のことを知らない。自分に必要なものが何か知らないので、大事な場面で、見当違いなことを考えてしまう。例えば、自分の思い通りにいかないとイライラしたり、腹を立てて怒り出すかもしれない、そのとばっちりを受けるのは大抵、自分のそばにいつもいる人だ。実は、この人こそ大切にしなければならないのに、甘えてひどいことをしても謝ることすらしないでいる。感情に負けているので、感情のままに行動しているからだ。理性ではいけいないこととわかっていても、感情の波に流されて、理不尽なことをしてしまう。こうなると、後で後悔が心を責めることになる。このような状態も、「足がよろめく」と表現できる。そんな時に必要なことは、叱られることではなく、批判でもなく、ましてや責めることでもなく、心が素直になれるように諭すことだ。そこに愛があれば、たやすく素直になれる。神の律法とはそのようなものだ。しかし、たいていは、自己正当化するので、悔い改めのチャンスを逃す。その理由は傲慢だからだ。自分がいつも正しいと思うと、必ず人を批判し始める。神の求めているのは愛なので、それを無視していると、人間関係がうまくいかなくなる。クリスチャンが知るべきは、自己の傲慢さだ。謙遜になれているかどうか、いつでも試されていることを忘れてはいけない。謙遜な人は思い煩わない。しかし、自分が正しいとする人たちは、結局思い煩いに心が占拠されやすい。そんな時、主は叱ることなく、慰めてくれる。それが、驚くほど心を癒すのだ。神は愛なり、と聖書に書かれているのは、本当のことだからだ。そして、人を幸せに作り変えるのも愛の力である。愛は忍耐強く謙遜なのだ。その愛の力に誰が逆らえよう。聖霊を受けるのは、自分のためではない、そうなら傲慢になるのを助けているようなものだ。そうではなく、人を愛するために聖霊が降るのをイエス様が生きて見せてくださった。そのような生き方ができることを願おうではないか。

 

4月26日(金)

新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。

詩編96:1

 

さて、あなたはこの聖句を読んで何と思われるでしょう。詩編には、度々このように「新しい歌」が出てきます。なぜ、古い歌ではいけないでしょう。多くの教会で、伝統的な賛美歌を礼拝などで使っています。ところが、時代はどんどん変わって行きます。それに言葉そのものが変わってしまうのですから困ります。文語調の賛美歌は意味がわからなくなってきました。やまと言葉も、神道と関連づけてふさわしくないと言われます。一番は、言葉の耐用年数です。時代が移り変わり、平成が令和になろうとしています。昭和の言葉、大正、明治の言葉、このように少し時代をさかのぼれば、言葉が変わっているのです。賛美歌もクラッシックのように名曲は時代を超える力がありますが、すでに消えてしまった賛美歌も数多くあります。例えば、小学校唱歌で、名曲は世代を超えて誰でも知っていますが、最近の小学校で習う歌はどうでしょう。大人は知らない人が多いでしょう。現代の賛美歌も次々に作られているのですが、多くの人は知らないでしょう。それでも、ヒルソング・チャーチの作る賛美歌は、YouTubeで再生回数が億を超えるものがいくつもあります。オーストラリアだけでなく、アメリカでもイギリスでも、キリスト教音楽の毎年のベストテン上位に必ず出てきます。何が違うのでしょうか。伝統的な賛美歌をつまらなそうに歌う会衆の姿を何度も見てきました。しかし、ヒルソングのような教会では、人々が賛美歌を歌い出すと、手を挙げ、目を閉じて神様と交わろうとしています。聖なる臨済の中に身を委ねているのです。このような形式的に歌う歌ではなく、主を今、礼拝する歌が新しい歌です。過去の救われたことを思い出して、すっかり忘れかけた救いの感動をもう一度なんとか思い出して、賛美歌を歌おうとするのですから、それは古い歌です。それに対して、今、神様の愛の御手に触れられ、賛美の上に主が住まわれることを実際に体験している賛美歌は、新しい歌です。神様がいるのかどうかわからないような礼拝は力がありません。その礼拝の大きな部分に新しい歌を主に向かって歌う、という大切なことがあります。伝統的な歌がダメだと言っているのではありません。それが「新しい歌」になっているかが重要なのです。現代人が普通に使っている言葉で、自分の気持ちや信仰が表現できる言葉が使われていることが大きいのです。英語の方が意味を多く伝えることができるので、日本語は不利に感じますが、実際には、北原白秋のような詩人が作った歌は長く愛され歌い継がれています。五七五の俳句のように短い言葉の世界を楽しめる日本人が素晴らしい賛美歌を作れないはずがありません。音楽の素養がなくても、主への愛の賛歌を自分でも作ってみたいと思いませんか。できたらぜひ聴かせてください。

 

4月27日(土)

主こそ王。全地よ、喜び踊れ。多くの島々よ、喜び祝え。

詩編97:1

 

なぜ、詩編記者はこのように喜んでいるのでしょう。それは、主が王だからです。神様は、いと高き天の御座におられるので、聖なるお方です。聖なるお方という意味は、私たちとは距離が驚くほど離れていることを表しています。その聖なる神様が主となり、あなたと主人と僕のような直接の関係になられたのです。その主が、なんと王であるというのです。最高の支配者であり、統治者であります。あなたと親しいお方が、全地を統べ治めるというのですから、これは驚きです。天国が神様の権威の中にあるのはわかりますが、なんと、この地上の王になられたというのです。それがどのような意味かわかりますか。これまでは、悪魔がこの世の王であると言い張り、この世を暗くし、ただ欲望のままに死への行進へと誘っているような世界にしていたのです。だから、救いが必要でしたが、主が天から裁くのではなく、地上の王になって、救いを実現してくださったのです。それで、罪と死と悪魔に勝利できるようにしてくださったのです。それも、私たちの功績ではなく、主の十字架の功績によって救ってくださるのです。それで、こんなに喜んでいるのです。主に栄光が永遠にありますように。

 

4月28日(日)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。琴に合わせてほめ歌え、琴に合わせ、楽の音に合わせて。ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。

詩編98:4〜6

 

古代イスラエルの礼拝は、楽器を使い、大声で歌い、歓声をあげ、ラッパや角笛を響かせていたのです。今日の礼拝は、それとは随分違っています。しかし、新しい礼拝スタイルは、楽器もギターやキーボードにサックスやフルートなど、多様な楽器が使われ、「王なる主の御前に喜びの叫びをあげ」ています。恥ずかしがり屋の日本人は、人前で大声で歌うのが恥ずかしいのでしょうか。伝統的な教会の礼拝では賛美歌も形式的なもので、喜びが歓声となるようなものではありません。もちろん、そのようなことをすれば、ひんしゅくを買い、たちまち叱られてしまうでしょう。しかし、面白くもなさそうに、うつむいて暗く小さな声で歌うのはいかがなものでしょう。賛美の意味が理解されていないと言いたくなります。教会で静かに歌っている人でも、カラオケが好きかもしれません。カラオケでは、マイク片手に絶叫していかもしれません。やはり、歌えないのではなく、「喜びの叫びをあげよ」と言われているのに、肝心の信仰による喜びがないのではないでしょうか。礼拝を詩編に書かれた通りにしてみよとすると、イエス様を憎んだファリサイ派の人のように怒り出すでしょう。礼拝はどのようなものだと思っているのでしょうか。伝統的な礼拝でも全く構わないのですが、問題は形骸化していないかどうかです。何しろ、礼拝しているのです。それは、言葉にすれば、今日の詩編のような「王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ」なのです。この次の礼拝では、主を喜んでみましょう。心からの礼拝を主に献げましょう。

 

4月29日(月)

主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。

詩編99:1

 

十戒の石版を納めた契約の箱の蓋は特別なもので、蓋の上にケルビムが羽を伸ばして向かい合って立っています。主にお仕えする特別な天使です。その最も聖なる天使の上に御座が置かれる、と詩編記者は記録しました。そのような王がどこにいるでしょうか。他には絶対存在しません。そうです、主こそ王なのです。それゆえに「諸国の民はおののけ、震えよ」と、呼びかけているのです。あなたが何か主に聞いていただきたいことがある時、あなたは祈るでしょう。しかし、どのように祈りますか。いつもと変わらない祈りでしょうか。もちろん、真剣さが違っているかもしれません。それだけでしょうか。時間をかけて祈るのでしょうか。熱心に祈れば長い時間祈るかもしれません。最も長く祈ればいいというものではないでしょう。ひれ伏して祈ることはありませんか。「その足台に向かってひれ伏せ」と詩編には書かれています。まさに主の足元にひれ伏して礼拝しているのです。自分の心を注ぎだし、聖なる主へ畏敬の念を持って、拝んでいるのです。そこで、集中して祈れない人は、声を出して祈ると良いのです。聖霊の執り成しを願い、罪を悔い改め、心の中でくすぶっている火を燃え上がらせていただくのです。主の強い右の御手を伸ばして触れていただくように願ってみましょう。信仰を覚醒していただくのです。私たちの主は、地を震えさせるほどのお方なのです。全ての被造物が目覚め、創造主を拝むのです。賛美はとどろきとなり、地は震えます。天使の賛美が天を覆い、地からは、聖徒の賛美が天に昇ります。主は栄光をお受けになり、その威厳が全地に満ちるのです。ハレルヤ。

 

4月30日(火)

主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。

詩編100:5

 

 

 

夕方のニュース番組をテレビで見ていると、神社の場面がよく出てきます。そこでは、拝殿で賽銭を投げ神妙に礼拝しているのですが、それを誰も文句を言わない。その拝んだ人たちも、そこの氏子でも信者でもないが、テレビで撮影する時に、当たり前のように礼拝しているのです。では、その神は誰かと説明する場合もあるのですが、菅原道真のように実在した人物を神格化しているのです。偉い人が死ねば神様になるということ自体馬鹿馬鹿しいことですが、日本では各地にそのような神社があるわけです。また、偶像が飾ってあって、その顔のおでこをさすれば、知恵が与えられ、といったまことしやかなことを掲げて、拝みにきた人たちがありがたがって、さすっていくのです。この人たちはどう思ってこのようなことを喜んでしているのか不思議になってきます。彼らは真の神を知らないのですから、仕方がありませんが、本来神様は、恵み深く、慈しみに富んでいるのです。主はいつでも真実で、誠実です。不可能がありません。どこにでもいることができ、過去、現在、未来にいることができます。その愛は深く、あなたが理解している以上に愛されています。主の愛を決して疑ってはいけません。あなたが元気で毎日笑顔で感謝の中にあるなら、主も喜んでくださいます。そして、あなたの子供や孫がいれば、それらの子孫も同じように祝福されるのです。偶像をさすることなく、聖書を読めば知恵と知識が与えられます。およそ偶像に願ってもかなえられないことでも、主はあなたの益となるなら願いをことごとくかなえてくださるのです。わざわざ遠い神社に行かなくても、主に祈ることができます。主は、私たちの気持ちも理解してくださいます。信仰を働かせなさい。奇跡をおこしなさい。義人の祈りは聞かれるからです。クリスチャンの神様を知らないので、むなしく神仏を拝んでいるからなのでしょうが、同じ人が自分は神様を信じないと言うのは、人格を持った神様を知らないからなのでしょう。それだけに、クリスチャンは神様と二人三脚で歩いている姿を見せる必要があるのです。