2018年3月ディボーション

3月1日(木)

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

ヘブライ12:11

 

本を減らしたいと思いながら、どの本も捨て難く捨てられないでいた。減らしたいと言いながら、つい新しい本を買ってしまうので逆に増えてしまう。これではいけないと、思いきって本棚を一つ捨ててみた。魔法のようにいらない本が消えてしまうことはやはりなかったので、床に溢れる本をうんざりしながら眺めていたが、他の本棚を移動し、そのためにソファーもベッドも移動し、結局模様替えすることになった。何事にも原因と結果があるものだ。本が重たいものであることは知っている。それを運んでいるだけで鍛錬になる。せっかく大きな本棚を移動してみると、置こうとしていた場所には大きすぎて、また本を出して大移動をしたのだが、究極の筋トレになった。クリスチャンも主に鍛錬されることになっている。霊的鍛錬なので、信仰者でなければ意味がない。ただ、辛いだけで終わってしまう。しかし、信仰者は神に祈り考える。はじめは何か思いがけないことが起こったと思うだろう。それが信仰以外では問題解決できないと悟るのは時間の問題が。主に向き合い、自分の信仰の足りなさや自分自身の問題を痛感することなる。ここで、肝心なことは主に従順になって、悔い改めることだ。この主が働かれて自分を義とすることが理解できずにいるうちは悲しい気持ちになるが、必ず時がすぎて、義の実を結ぶ時がくるのだ。(サクマ)

 

3月2日(金)

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

詩編46:2

 

クリスチャンが本当に神様を知る時は、たいていは苦難の時です。それまでは、今日のような聖句の意味がピンときません。しかし、自分が苦難の中におちいるとこれほど重要な聖句はないのです。まず、神様が苦難を避ける場所となってくださいます。苦しめる者から守ってくださるという意味では鉄壁の砦なのです。そして、ありがたいことに、苦難の中で孤独を感じていても、主は必ずそこにいて助けてくださいますから、あなたは一人ではありません。そして、決して一人で頑張れとは言われません。あなたは主の元へと避難するだけです。主が助けると言われたら、誰も邪魔することができません。たとえ悪魔でも、あなたをもう苦しめることができません。ましてや、人間があなたに何ができるでしょう。あなたは恐れることはありません。信仰の世界は人間の常識など通用しません。超自然の神の力があなたを助けるために動き出すのです。ですから、安心して主に全て任せることです。あなたが何もできなくても、大丈夫です。主が全部してくださいます。主の慈しみの中にとどまっていればいいのです。(さくま)

 

3月3日(土)

ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。

創世記29:20

 

愛の不思議があります。時間が短くなるのです。少なくともヤコブは経験しました。7年という年月は決して短いものではありません。どちらかというと長い年月と言えるでしょう。それが、「彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」というのです。これは、彼女と結婚するための七年間の労苦が、彼女を愛していたので大したことなかったという意味です。牧畜業は肉体労働ですから、大変厳しい仕事の一つなのです。それなのに、ヤコブは彼女と結婚できるのなら苦にならないと思い、事実そうだったのです。それは、七年分の年収をお嫁さんの親に支払ったことと同じです。すごいですね。愛はどんな困難も乗り越える力なのです。人生の動機が愛であれば、大きな困難も克服できるのですから、大抵のことはやり遂げることができるでしょう。(佐久間)

 

3月4日(日)

ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない」

創世記29:26、27

 

人生は自分の思い通りにはいかない。約束は簡単に破られる。それどころか、好きな人と結婚するために七年も頑張ってきた結果が、本人ではなく、その姉と結婚させられてしまった。当然、文句を言うと、ちゃんと理屈をつけて説得され二人の姉妹と結婚することになった。当然、姉の分の七年間のタダ働きがついてくる。これはどう考えても理不尽だ。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19:21)。知恵はこのように語るが、ヤコブは結局二十年間もラバンに仕えて働くことになったのだ。人生の二十年は実に長い時間だ。しかし、よく考えてみると、結局ヤコブはこの期間に、十二人の子供を得た。この子たちがイスラエルの十二部族となった。しかも、ヤコブは家族と多くの家畜という財産をも得て故郷に帰ることができた。まるで、子供と財産を得、その上忍耐心を身につけるために主が全てをゆるされたとしか考えることができない。私たちも同じような経験をすることがある。無駄に見える出来事や自分の願いとは異なった結果になってしまうことも、後になってみると正しい導きであったと気がつくことがある。だから、今、不満があっても、うまく行っていなくても、心配しなくていい。主がすでに良い道へと導いていてくださるから。何が起こっても、主を信じていれば、良い結果が待っている。(サクマ)

 

3月5日(月)

だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。

マタイ13:19

 

これは「種を蒔く人のたとえ」(マタイ13:3~9参照)のイエスによる解説の箇所です。クリスチャンになっても実を結ぶためには、心に御国の言葉を聞く必要があります。これは種のように人の内で成長し実を結ぶ不思議な働きをします。ですから、この世の賢い人のように聖書を本として読む人たちは悟ることが難しいので通り一遍の感想で終わることが多いのです。それはすぐに忘れ去られのです。もっと厄介なことは聖書は難しくてわからないと投げ出してしまうことです。それは基礎知識の不足によることがどうしてもあります。そうであるなら、牧師や聖書教師などから教えてもらえばいいし、聖書注解書や聖書辞典、聖書語句辞典そして聖書地図などでも補うことができます。しかし、私が牧師になった一年目に出会った人は、教会に通ったことのない御信者であり、当然牧師などから聖書を教えられたこともない人でしたが、御国の言葉を聞いて悟る人だったのです。彼女の使っていた聖書は大判で革表紙の文語訳聖書でした。彼女は、聖書の真の意味がわかったので、親族や知人にも勧め読むようにとプレゼントしていました。私はその人の話を聞いて驚き一生の教訓となりました。彼女は難しい文語訳聖書を使っていたので、口語訳の方が易しくていいのではと聞きましたが、文語訳聖書が良いとの答えでした。主はあちらこちに種を蒔かれているのですね。さて、「道端に蒔かれたもの」と、主に言われないように悟る者となりたいですね。(佐久間)

 

3月6日(火)

あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることできるが、このような今年、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。

申命記25:13~16

 

この聖句は、不正を戒めている。昔は、いまのようなスーパーでなく、個人商店のようなところが多かった。そこでは量り売りをしていた。その秤を不正に調整して儲ける主人が少なくなかった。それを取り締まる食品Gメンがいて、ニュースになったものだ。このような不正は古代から続いていたのだから人間の欲は変わらないものだ。ところで、人間の心にも秤がある。その秤を二種類持ってはならないと読み取ったらどうだろう。例えば、人によって態度や言葉遣いを変えるなら、その人は二つの秤を使い分けていることになる。これは、色々な場面で見ることができる。では、自分の気に入っている人と反対に敵のように思っている人ではどうだろうか、人間の自然な気持ちとしては態度を変えるだろう。それは仕方がないことだが、そこで、不正を働かないようにすることは戒めておかなければならない。そうすれば、神に対して後ろめたい気持ちにはならないですむ。正しく生きることは心を健全にするので、ストレスが少ない。(サクマ)

 

3月7日(水)

地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。

イザヤ45:22

 

人間は教えられなくても神を知っている。しかし、誰が本当の神であるかはうまく見分けることができない。神を感じるし、畏れる心もある。困る時には神にすがりたくなる。そこで、偶像を作ることになるのだが、それは人間が作ったものなので、人を救うことはできない。そのことがわかると、神そのものを否定して神などいないと言ってしまう。そのくせ、心は救いを求めて神を探すのだ。聖書を読めば明らかだが、真の神は唯一で、この世界を造られた。人間はイエス・キリストによって創造された。だから、空しく偶像を拝んだり、無神論だと叫ぶのではなく、救うことのできる神を見出すべきだ。日本は極東の果て、地の果ての国だから、今日の聖句は日本人に神が語られたので意味が深い。八百万の神を拝む国の人々に、主が自ら「わたしは神、ほかにはいない」と断言されたのだ。感謝なことに私たちは招かれている。ただ主を仰いで救いを得よう。(サクマ)

 

3月8日(木)

神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみを持って。深い御憐れみを持って、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。

詩編51:3

 

聖霊のバプテスマを受けるために、聖書のどこを読めばいいのか知りたい人は、まず詩編51篇を熟考しながら読むことを勧めます。それは、クリスチャンであっても、罪の悔い改めから始める必要があるからです。通り一遍の悔い改めではいけません。徹底的に清めるための悔い改めです。その時、聖霊は働いてくださり、自分の罪がどのようなものであるか示してくださるでしょう。それと同時に、自分の罪がキリストの十字架によらなければ決して赦されないことを悟ることでしょう。十字架で流された主の血潮だけがあなたの罪咎を洗い清めることができるのです。あなたが聖霊のバプテスマを望むなら、今日の聖句から祈って行きます。罪人とは神に背き、背を向けて逃げている人のことです。しかし、そのままでは救いが無いのです。そこで、神との正しい関係を回復するために、生まれ変わろうとしているのです。罪の赦しと清めが必要なのは、新しい神の命である聖霊を吹き入れていただくためです。そのことを理解して、一から始めて見ましょう。(佐久間)

 

3月9日(金)

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

ヨハネ13:14、15

 

人間はあまりにも多くの性格があり、自分には理解できない考え方をする人たちが必ずいます。また、厄介なことに自分は正しいと思うので、自分がよく見えません。そして、もっと悲しいことに、自分の他人への評価や判断が上っ面で正しくないことがしばしばあるのです。自分が人間的に器が小さいと、自分より器の大きな人の考えや気持ちが理解できません。そのために、自分の器の中だけで相手を裁いてしまうことがあるのです。聖書にもあるように、裁いてはいけないのに、簡単に裁き、自己弁護してしまいます。ところが、主は赦すように教えたのです。相手が謝って気持ちが収まったので赦すという事ではありません。謝ることもなく、あなたを苦しめ続けていて反省もしていないのに、赦すのです。そんなのは無理と言いたくなります。では、どうして赦すのでしょうか。キリストは十字架であなたがまだ罪人であった時に、あなたの罪を贖いました。そのことをアガペーと言います。愛です。私たちが知らなかった愛です。主は、弟子たちの足を洗って、愛の真の意味を教えました。それは、相手の汚れた足を洗ってあげることが愛だということです。それは、主がその後で十字架にかかって死なれた時に、それが私たちの罪を贖うことであったと知ることになります。それが主が愛してくださるというアガペーの意味だったのです。そして、主が愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい、という言葉の意味が、互いに足を洗い合いないさい、という主のお言葉と重なって、愛の意味がわかるのです。自分が正しいと言い張る人は、それで隣人を傷つけていることがわからないのです。だから、間違っていると指摘してもますます自分の正しさを主張するでしょう。だから、その人の足の汚れを洗ってあげるしかないのです。あなただって足を洗ってもらう日がくるでしょう。こうやって互いに足を洗いあっていけることは幸いなことなのです。(佐久間)

 

3月10日(土)

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。

ヤコブ3:17

 

クリスチャンの姿を説明するときに、このみ言葉は自分を映す鏡になります。私が長い信仰生活を通してわかったことは、ヤコブが言うところの知恵が無ければ、口先でどんなに立派な事を言っても、クリスチャンとして正しい姿にはならないと言うことです。「知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(ヤコブ1:5)と聖書に書いてあるので、知恵が欲しいと思えば、真剣に祈り求めればいいわけです。その知恵はあなたに何をもたらすかといえば、今日の聖句が答えているように、あなたをイエス・キリストのように変えます。あなたのうちから出るものがあなたの人格を徳のある人に造り変えてしまうのです。これは、特別の人だけに約束されたものではありません。誰に対しても約束されているのですから、知恵を求めることです。この反対の知恵は、悪魔から出ていると書いてあるとおり、教会を混乱させる元です(ヤコブ3:14~16参照)。せっかくクリスチャンにしていただいたのですから、天からの知恵に満ちた人になって、素晴らしい人生を歩みたいですね。(佐久間)

 

3月11日(日)

わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

ヤコブ3:2

 

テレビの女子アナが「訃報」を「けいほう」と誤読してしまったことがニュースになっていました。才媛と言われたアナウンサーが間違えたことで騒がれてしまったのですが、このような読み間違えよりも、人を馬鹿にしたり、誹謗中傷したり、悪口を言ったり、無責任に噂を広めたり、言葉で過ちを犯すほうが大問題なのです。頭にきて、つい感情的になった時の言葉はたいてい人を傷つけています。自分は傷ついていないので、すぐに忘れますが、傷ついた人は忘れることはありません。そう考えると、感情をすぐに爆発させることも制御できるようになる必要があります。聖書に書いてあるのですから、過ちを犯すことは人間の特徴です。しかし、それだから仕方がないと無視していてもいいことではありません。なんとかしなければと思ったなら、今日のみ言葉をよく考えてみましょう。聖書を読んでいて「完全な人になりなさい」とあって、「完全」という言葉が気になってしまったことはないでしょうか。それが、ヤコブ書にどうすれば完全になれるかということが、書いてあったのです。答えは、「言葉で過ちを犯さない」ことです。ここに注意を向けてみるのです。これだけで、あなたは変われるはずです。聖霊は喜んであなたを助けてくださいます。(佐久間)

 

3月12日(月)

主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と。

イザヤ50:7

 

わたしたちが弱そうで強いのは、「主なる神が助けてくださるから」と信じているからです。事実そうなのですが。相手が何を言おうが、何をしようが、それがわたしたちを害することはありません。わたしたちはひどいことをされたから、仕返しをするようなことはしないでしょう。人間的なことは何もしないと思います。ただ、祈ることだけはします。そして、主を信じるでしょう。それで、すぐに解決して終わることもあれば、まるで試されているように、何日も待たなければならないこともあるのです。それでも、最後は辱められることはないと知っています。信仰で解決するからです。主がみごとに助けてくださいます。このように困ったときには、信仰が試されていると覚悟を決めると良いのです。そうすれば、この世の人には理解できないような主の圧倒的な御力を見ることができるでしょう。あなたは、恵まれているのです。(佐久間)

 

3月13日(火)

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

イザヤ43:18、19

 

聖書は希望の書ですが、過去の出来事に縛られることなく、神様がこれからなさることに希望を持つことができることを教えています。心を暗くするような過去の嫌な思い出も、恥ずかしい過去の失敗も、辛いこと悲しいことなどいつまでも苦しめてきた過去の全てのことをもう思い出しても考えてもいけないと主は命じています。イエス・キリストを信じたことはあなたが思っているよりもはるかに素晴らしいことなのです。キリストの十字架はあなたの過去を全てきれいに清算することができるのです。そればかりかキリストの復活は、あなたに新しい人生を与えることの保証です。あなたに力がなくてもかまいません。あなたの偉大な神が「新しいことをする」と語られたのです。しかも、「もうそれが起ころうとしている」と告げられたのです。何かワクワクしてきます。あなたが荒野をさまよっていたと感じていたとしても、主は「荒野に道を、荒地に川を設ける」のです。だから、主がなたのためにどんな良いことをしてくださるのか、期待して待ちましょう。(佐久間)

 

3月14日(水)

恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉に過ぎない者がわたしに何をなし得ましょう。

詩編56:4、5

 

わたしたちが喜ぶべきことは、恐れをいだくような時にも依り頼める神様がいてくださることです。大抵の場合は、人間関係が問題になるでしょうが、それでも主は助け出すことができるし、神様でなければできないことがはっきりわかる方法で問題を解決してくださいます。それはクリスチャンが信仰で生きることを教えるためです。この世の常識に従えば、結果も人の常識程度でしかないのですが、神様に依り頼めば、驚くべき最高の結果になります。勿論、その前に恐れも消えてしまいますからありがたいですね。神様はあなたの益になることだけ許されるので、時には試練もありますが、それがそのまま大変な事だけで終わることはありません。精錬され、火をくぐった者は金よりも価値のある者と変わるのです。(さくま)

 

3月15日(木)

すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

出エジプト33:14

 

日本人は皆勤勉ですが、休むことはとても重要なことなのです。休みを上手に取ることは能率をあげることになると科学的にも証明されています。十戒にも七日毎に休むことが命じられています。ところで、頭のいい人たちは集中力があるとよく言われますが、集中すること自体が疲れるので、疲れたら上手に休むことを知っているということでもあるのです。アメリカの医学部の優秀な学生が疲れると漫画を読んでリフレッシュしていましたが、東大の法学部の学生で現役で司法試験に合格した人も、同じでした。有名な哲学の教授は講義が続いて疲れると映画館に行って、チャップリンやキートンの映画を観ていたそうです。こうした人たちは短時間でストレスを解消する簡単な方法を身につけていたのです。さて、誰もがこのように上手に休めるわけではありません。それがクリスチャンであってもそうです。ところが、今日の聖句を見てください。神様が「一緒に行って、あなたを休ませよう」と言われるのです。なんとありがたいことでしょう。これで、上手に休めなかった人も過酷な環境下で無理を続けざるを得なかった人も、安心して休むことができるのです。このことを理解していれば、大変になった時に、この聖句の通りに主に祈ればいいわけです。主のお約束の通りにしてください、と願うのです。(さくま)

 

3月16日(金)

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

Ⅰヨハネ4:13

 

クリスチャンがどれほど完全な救いを受けたのか、それは驚くばかりです。しかし、それはこの世の常識に縛られている人間にはわかりにくいかもしれません。たとえば、キリストに結ばれている、と言われてもピンとこないのです。それは、抽象的にしか聞こえないので、何となくそんなものだろうと流してしまいがちです。そこで、実際に信仰生活でも人間的な理性で倫理的に正しいことをしていればいいとどこかで思っているのです。それは、聖書に書かれていることではないので、いつまでたっても信仰者として中途半端な感じがしてしまうのです。何が一番の問題かと言えば、今日の聖句に書いてあるのですが、わたしたちの救いは、キリストの罪の贖いと清め、そして聖霊の内住なのですが、その聖霊がよくわからないことです。しかし、聖書ははっきりと神が御自分の霊を分け与えてくださったと書いてあります。そのことが実現していれば、「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります」。この関係が自覚されていないと信仰生活も滞るし、神の内にとどまるということがわからないと言い出すのです。これは、何かの比喩ではなく、現実なのです。そうであれば、神との交わりと言っても具体的なことになるわけです。これほど、すごいことを主はご自分を信じる者に実現されたのです。(佐久間)

 

3月17日(土)

人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである。

マタイ12:34b

 

ある人が、私は「ハレルヤ」という言葉だ大好きだ、と言いました。ああ、この人の心なかには「ハレルヤ」があふれるているのだ、とわかりました。私たちの心の中が良いもので満ちた倉庫のようであれば、自然と良い言葉が口から出てくることになります。もし心の中が善意に溢れていれば、口だけでなく行動にまで善意が現れてくるのです。そこで、イエス様が私たちの主であれば、私たちの心は主に愛されているのですから愛があふれて来ます。聖霊が内住していれば、「アバ父よ」と天の父を慕う思いがあふれてきます。イエス様が私たちを助けてくだされば、ハレルヤと讃美があふれてくるのです。信仰は、心を天に向け、神様に近ずくように働きます。そうなれば、心に命の水があふれるのです。イエス様のように優しい言葉が口から出てくればどんなにいいでしょう。(さくま)

 

3月8日(日)

そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

ルカ11:9

 

青年の修養会を開いた時のことです。自分が講演する時間がきました。そこで、聖書を持とうとしたらないのです。慌てて、探すのですがどこにもありません。周りの人たちが気がついて、一緒に探してくれました。しかし、見つからないのです。そこで、最後に探していた人みんなで輪になって祈りました。そして、目を開けると目の前に聖書があったのです。不思議な経験ですが、鍵をなくして探しても見つからず、お祈りしたら見つかったという経験は、あなたもしているかもしれません。もっとも、今日の御言葉は探し物のための聖句であるということではありません。文脈で考えればわかりますが、最後にこう書いてあるのです。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。つまり、もっとも重要なことは聖霊を求めることだと教えているのです。(佐久間)

 

3月19日(月)

最後に申します。あなたがたは皆、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、憐れみ深く、謙遜でありなさい。悪を持って悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

Ⅰペテロ3:8、9

 

私はクリスチャンは、一番良い役割を与えられたと思います。それは、祝福係です。誰でも祝福するのが仕事です。今日出会う人を知らない人でもどんどん祝福してしまうのです。人を恨んだり呪ったりするよりはよほど良いと思いませんか。物事には必ず良い面と悪い面があるのです。その良い面を探して、いつでもその良い面だけを見るようにすると人生はだいぶ楽になります。悪い面を見ても良いことはないのなら、あえて良い面を探して認めることです。これは人を見ることだけではなく、物事全般に言えることなのです。昔、アフリカに靴を売りに行ったセールスマンが「誰も靴を履いていません」と本社に連絡を入れると、「それならたくさん売れる」と答えが返ってきた、という話があります。同じものを見たのに、否定的に見た人は「誰も靴を履いていないから売れない」と思いました。でも、肯定的に受け取った人は「誰も靴を履いていないからたくさん売れる」と思ったのです。どちらが、事業に成功したかわかりますよね。人生はこのように成功するための法則があるのです。今日のみ言葉の通りにすれば、あなたは驚くほの成功を収めることになります。何しろあなたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。(さくま)

 

3月20日(火)

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

イザヤ43:4

 

先日、孫に「ジージ、だ~いすき」と言われて、なんとも言えない幸せを感じました。私たちは、誰かに愛してもらい、好かれ、価値があることを認めて欲しいのです。ところが、その願いはなかなか叶えてもらえないものです。何か条件が出され、それを満たさなければただではもらえないのです。しかし、神様は無条件に、「わたしがあなたを見ると、あなたはとても高価な価値があり、尊い存在で、わたしはあなたを愛している」と語られるのです。そして、私たちは自分のことを信じてもらえれば、勇気が湧き、たいていの困難も乗り越えられるし、人生に成功できるのです。たった一人でも良いから自分のことをちゃんと認めてくれたら、人間は何でもできると思えるのです。それは良い自信となり、自分の人生を切り開いていく力となります。神様はあなたにちゃんと高価で尊いと言ってくれました。では、あなたは誰か大切な人にちゃんと認めて、言葉にして最高の価値があると告げているでしょうか。あなたの周りの大切な人に、愛していることをちゃんと伝えたいものです。(さくま)

 

3月21日(水)

「彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を道足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」

詩編91:14~16

 

私たちが信仰を持っているのは、神様を知って慕っているからです。あなたは「信仰があるか」と問われれば、急に不安になるかもしれません。自分の信仰が弱いことを知っているからです。何か神様に誇れることがあればいいのですが、よく考えてみるまでもなく神様に自慢できるようなこともなく、神様に義と認めてもらえるようなことも何一つできないのです。しかし、あなたは神様がどれだけ慈しみ深く接してくださっているかわかっているはずです。実際、神様にどれだけ助けていただいたかしれません。本当に、感謝しか出てきません。たとえ、不信仰に陥って神様を悲しませたことがあったとしても、それでも見捨てられてはいません。それどころか、あなたは神様に愛され、祝福され、成長できる機会を与えられ、本当に驚くことなのですが、神様はご自分の働きをあなたに任せられているのです。あなた今日の御言葉の彼であり彼女なのです。このみ言葉はあなたのための神様の約束なのです。ですから、あなたは必ず成功するでしょう。あなたは、神様のチームのエースなのです。だから、自信を持って今日を生きてください。(さくま)

 

3月22日(木)

だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたがたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。

ガラテヤ3:7、8

 

あなたがクリスチャンであれば、喜ぶべきです。それは、大昔から祝福されることが予告されていたからです。そのことを今日のみ言葉は教えています。アブラハムは信仰の父と呼ばれていますが、創世記を読むとアブラハムと神様との間で、信仰の物語が書かれていて、それが今日のクリスチャンにまで影響していることがわかります。そこで、あなたにチャレンジです。あなたは祝福されていることを信じますか。ぜひ、私は祝福されていると、言葉にしてみましょう。そして、いつもそのことを信じてください。何が起こっても、心配しなくても大丈夫です。あなたは神様によって祝福されているからです。そして、あなたは信仰によって生きる人なのです。そのことを決して忘れないでください。(さくま)

 

3月23日(金)

三度目にイエスは言われた。。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

ヨハネ21:17

 

哲学者のヴィトゲンシュタインは、「キリストを信じよ」ではなく「キリストを愛せよ」と言うべきだったと語った。それで、歴史が変わったと言うのだ。私たちはあまのじゃくで高圧的に命じられると反発を感じる。「キリストを信じよ」と言われると、素直に信じるとは言い難い。もちろん、信じる人がいないわけではないが。これが、国レベルで行えば迫害や戦争にまで発展する。歴史が証人だ。ところが、ヴィトゲンシュタインが指摘する通り、「キリストを愛せよ」とは、なかなか聞くことがなかった。その反対に、「キリストがあなたを愛する」とはよく聞いたし、キリストに愛されることばかりを求めてしまったかもしれない。もし、「キリストを愛せよ」と未信者に語ればどうなるだろうか。「神は信じるもので、愛するなんて聞いたことがない」と思うだろう。だが、今日の御言葉を見てほしい。イエスは、弟子に「私を愛しているか」と確かに聞いている。もちろん、イエスがはじめに愛してくれたのだ。そして、それがわかったらイエスを愛さずにはいられない。「私はイエスを愛します」と心から言葉が出てくるなら、あなたは大丈夫だ。あなたは「キリストを愛せよ」と言うだろう。相手は、「どうして」と聞くはずだ。それから、あなたはキリストが何をしてくださったか愛の物語を話し始めるだろう。(サクマ)

 

3月24日(土)

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。

マルコ2:23、24

 

中学生の時に夏休みに長野で合宿をしました。その時、おやつに桃を買いに行きました。そこは、農家が収穫した桃を集めて検査する集荷場でした。一箱に山盛り入れてわずか500円だったと思います。このように、桃を検査して市場に出荷するのですが、一度検査の基準を設けるとそれはやがて絶対的になります。その基準を見直したり、その基準が間違っていないかなど考える事はなくなるのです。宗教にも同じようなことが言えます。キリストがおいでになった時に、すぐにこの問題が起こりました。旅人が麦の穂を摘んで食べる事は律法で認められていたのですが、安息日に仕事をしてはいけない、という戒めを違反したという指摘です。ところがイエス様は弟子たちのした事は問題ないとしたのです。「安息日は人のために定められた」と言われました。これが正しい基準だったのです。ファリサイ派の人々は、「隣人を自分のように愛せよ」という律法の本質を忘れていたから、律法が愛であることを見失っていたのです。「検査をするのは正しい」と同じで「律法を守るのは正しい」のですが、検査が検査されていない事が問題だったのです。一見正しいと思える、宗教の確信がイエス様によって正された事を、今日も決して忘れてはいけないのです。律法といえば、「神様を愛する事」と「隣人を自分のように愛する事」であるかどうかでチェックすればいいのです。(さくま)

 

3月25日(日)

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ13:34

 

なぜ、イエス様が大好きなのか考えてみると、すぐに愛してくださったからだ、と答えることができます。愛される事は幸福そのものなのです。愛されることで誰かを愛することも容易になります。誰かを愛する事はとても嬉しい事です。時には、その相手から愛し返される事がない事もあります。見返りを求めない愛の方が良い事はわかります。イエス様が弟子たちに示した愛はそういう愛でした。弟子たちは、それぞれが個性的で、考えも価値観も違っていました。人間的にみるとそれほど立派な人とは言えないし、欠点も多く、わざわざ選ぶような特別の人たちではなかったのです。誰が一番偉いかでいつも争っていました。そのような弟子たちをイエス様は愛されたのです。そして、互いに愛することを掟にしました。旧約聖書では、「隣人を自分のように愛しなさい」であったのが、「互いに愛し合いなさい」と新しい掟を与えたのです。これが幸福になる秘訣なのです。愛したり、愛されたり、時には難しく感じる時もあるでしょうが、そんな時にはイエス様のことを考えるのです。これ以外に幸福になる方法がないからです。(さくま)

 

3月26日(月)

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

マルコ10:17

 

もし、あなたがこの質問をされたなら、なんと答えるでしょう。ヴィトゲンシュタインは「キリスト教の教えとは、結局これではないだろうか。すなわち、自分の生活を変えるということ。生き方を変えるということ。」と語っています。このイエスに質問した人は、救われるには何をしたら良いか、と聞いている。それに対してイエスは、十戒の私と隣人の関係を規定している六つの戒めをあげている。すると、この人は、それらは子供の時から守っていると言った。それで、イエスは「あなたに欠けているものが一つある」と言われ、持ち物を売り払い、貧しい人に施して、それからイエスに従えと言われた。その人は、たくさんの財産を持っていたので、悲しみながら立ち去った。ここで、財産がいけないと短絡的に考えてはいけません。問題の本質は、ヴィトゲンシュタインが指摘したことにあったのではないだろうか。「自分の生活を変えるということ。生き方を変えるということ。」彼の場合は、財産を持った生き方を変えることができなかったのです。もう少し言えば、律法を守っていると言えても、イエスを選んだ生き方に変えることはできなかったのです。私たちはどうでしょう。古い生き方をイエスに従うために変えたと言えるでしょうか。考えさせられますね。(佐久間)

 

3月27日(火)

心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈みこむ。

箴言15:13

 

「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉を聞いたことがありませんか。リンカーン大統領の言葉だそうですが、実際、顔はその人がどのような人であるかを現しているということですね。今日の聖句にも「顔」が出てきます。そして、下の句に「霊」が出てきて「顔」と並行しているので、同じ意味があることに気がつきます。私たちの最も深いところ、つまり霊は、顔に現れてくるということです。そして、自分の心がどうあるべきか教えています。例えば、何か問題が起こります。どうにか解決しようと考えるのですが、どうしてもうまく行きません。そのうち絶望感が心を支配してきます。この状態では最悪の結果が待っているだけです。それは、心に痛みがある状態です。この人は、自分の判断が正しいと決めつけています。これでは、痛みしか感じないでしょう。しかし、「心に喜びを抱けば」とあるのですから、実は別の良い考えがあるもので決して絶望的に思う必要はないのです。あえて、自分の今の考えにしがみつくことをやめて、反対の考えにも心を向けることができれば道は開けるものです。クリスチャンは、それで人間が陥る危険から身を守るためにある言葉を口癖にしています。それは、「いつも喜んでいなさい」という御言葉です。そして、鏡を見ることです。あなたの顔が明るいかどうか見れば、あなたの霊的状況も信仰状況もわかるのです。

 

 

3月28日(水)

主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。

詩編25:12

 

私たちの元々の姿は自分中心に生きる者でした。それが、イエス様に出会い、召されてその招きに応えて救われました。クリスチャンになれたのは悔い改めて罪を赦していただいたからです。その時、特別に善いことをしたわけはありませんでした。イエス様の恵みのおかげです。それから、父なる神様が自分のことを愛してくださっていることに気がつきます。これは、無条件の愛です。神様が愛してくださるとわかった時に、人は生まれ変われるのです。虚勢をはることもないし、反発して嫌な人間になることもありません。驚くことに、自分を通して神の愛が相手に流れることも知ります。人を恐れなくなります。人に認められようと頑張ることもなくなります。この世を慕う肉の思いも、聖霊との交わりの中で消えてしまいます。そして、主を王の王として崇め、自分の唯一の神であることを認める時に、今日の御言葉はあなたの特権となります。あなたは主の御目にかなった素晴らしい人生の道を確実に進むでしょう。迷うことはありません。(佐久間)

 

3月29日(木)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

「もっと早くイエス様の救いを知っていればよかった。手遅れです。私の心はもう壊れてしまったから」と悲しいことを言う人がいました。しかし、本当に手遅れなんでしょうか。今日の聖句を読むと、私たちが信じた神様は、「望みの神」なのです。人間がダメだとあきらめれば、どうすることもできません。しかし、「自分の力ではダメでもイエス様ならどんなことでもできる」と信じるなら、奇跡は起こるものです。たとえ悲観的な人が奇跡など起こるはずがない、と断言しても、イエス様が生きていることが真実であるように、信仰によって奇跡は現代でも起こるのです。私たちが願う喜びや平和も信仰によってもたらされます。さらに、この地上であなたの外からも内からも働くことのできる聖霊様は、望みにあふれさせてくださるのです。だから、あなたは常識に縛られることなく、また否定的になることもなく、どんな時でも望みにあふれて、問題を解決して道を開くことができるのです。あなたにはいつだって、望みが溢れるほどあるのです。(さくま)

 

3月30日(金)

神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。

Ⅰテサロニケ1:4

 

一番嬉しいことは、神様に愛されていることです。色々あるでしょうけど、決して忘れて欲しくないことは、あなたは神様から選ばれているということです。ですから、この世にあっても素晴らしい人生を歩んで行くはずです。試練だと思うようなことが起こっても、それはすべてあなたにとって益となります。あなたは悪いことを考えてはいけません。悪いことを招いてはいけないからです。そうではなく、どんな時でも良いことを考えてください。あなたが望んだ通りにならなくても、なんとかなっていますよね。あなたにはすばらしい才能があり、天の助けもあります。本来、あなたは誰からも愛される存在なのです。だって、天の父なる神様があなたのことを愛しているからです。神様は決して間違うことはありません。あなたは良いことのために選ばれています。ですから、いつでも良いことが待っています。そのことに気がつけば、とても楽観的に生きることができますよ。(さくま)

 

3月31日(土)

ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、したいを木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。

申命記21:22、23

 

 

イエス・キリストは木にかけられました。罪を犯してはいませんでしたが、ユダヤ人たちの陰謀で不当にローマに訴えられ、ポンティオ・ピラトによって死刑になったのです。そこで、イエスは十字架にかけられたのです。パウロは、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)と言います。律法の呪いとは何でしょうか。律法そのものは正しいもので、神の正しさを表しています。つまり律法を守れば義となるのです。しかし、守れなかったら。それは罪となります。律法は、私たちの犯す罪をことごとく裁くものなのです。つまり、律法が私たちを罪に定めているのです。そして、罪の支払う報酬である死が求められます。だから、律法を守って罪を犯さないようにしたいのに、どう頑張っても罪を犯してしまうのです。何度も何度も止まらないのです。律法が私たちを見張っていて、それは罪だ、それも罪だと裁き続けるのです。律法の呪いが私たちをとらえて離さないのです。これが人の世の深い悲しみなのです。そこから、誰が救い出してくれるだろうか。そうだ、主イエス・キリストが救いに来てくださった。その救いは、木にかけられ、私たちのために罪の呪いを一身に受けて、命を代価に贖って、完全に呪いから解放してくださったのです。キリストは死んだその日のうちに葬られ、三日目に墓より復活されました。キリストを信じる者を死から呼び出すために。新しい命を与え、永遠に生かすために。(佐久間)