2022年4月ディボーション

4月1日(金)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ3:15

 

クリスチャンは、聖書を読みます。それは、どれほど大きな特権でしょう。聖書に書いてあることだけで、あなたの人生を幸福に豊かにすることができるからです。そこで、まだ、知らない聖書の秘密がるとすれば、それは書かれたことをその通りにするとどうなるかということです。たとえば、クリスチャンになるときにバプテスマ・クラスをたいていの人は受けることになります。そこで、「召されて一体となった」ということの意味を教えられます。残念なことに、初心者には難しすぎるので、何となく終わってしまうことです。今日の聖句をよく見ると、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」とあって、まずこれがよくわかりません。初心者にとっては、何となくわかったような気がするでしょう。でも、意味がわからないので何もできずに終わるのです。それから、何年、何十年と信仰生活を送ってくると、いろいろ考えるようになります。実は、ヒントが次の文章に書かれています。「そのためにこそ」、これは初めの文章にかかっています。つまり、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにするためにこそ」と、読めます。「~するためにこそ、召されて一体となった」となります。「召される」は救われてクリスチャンになったことです。パウロは、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(ローマ6:3)と言い、「キリストと一体になってその死の姿にあやかるなら」(同6:5)と、洗礼を受けた人は、キリストの死と復活にあずかるためにキリストと一体になるのだと、教えています。ですから、罪に死に、罪の汚れを清められ、新しく神の息である聖霊を吹き入れていただき、キリストの復活の命にあずかったのです。ですから、その証拠に、あなたの内に聖霊が宿っているのです。この聖霊は三位一体の神ですから、キリストが内住していると言うこともできます。キリストの平和は、罪によって神と断絶していない状態です。神の愛が初めてわかることです。そして、自分の内に愛が働き、神を初めて愛することができるのです。神に愛せられ、神を愛す、愛し愛される関係のことです。これが心を支配すれば、どうなるでしょう。この状態こそが召されてクリスチャンになった理由なのです。ただ、相変わらず肉は生きてい聖霊の働きに対抗して、罪を犯させようとします。聖霊に従うか、肉に従うか選ぶのはあなたです。では、どうやって聖霊(キリスト)に従うのか、と言えば、主に感謝するのです。ことごとく、何に対しても主に感謝することです。キリストの支配が明瞭になるよう、何事においても感謝する心を持つ人になれと命じられているからです。これだけで、あなたのクリスチャン・ライフは祝福が目に見えるようになります。

 

4月2日(土)

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

ヨハネ14:1

 

人生には不安になったり、心配することがいくらでもあります。そのたびに、心を騒がせているのが人間なのです。ところが、イエス様は今日の御言葉の通りにお語りになりました。この聖句は心にしっかりと刻んでおくべき御言葉です。そうすれば、人生の大事な時に力を与え、心にゆとりをもたらします。感受性の強い人や短気な人も上手にピンチを切り抜けることができます。心配性の人は、この御言葉を唱えるだけでなく、「心を騒がせない。神様を信じます。イエス様を信じます」と宣言すればいいのです。一流の科学者たちは、どうも心で信じるということが奇跡を起こすことを科学的に理解し始めているようです。信じる力は、大昔から現代までたくさんの人々によって証明されてきました。本当に困ったり、追い詰められる時に、主を信じて奇跡が起こった、というような話は、特別な人にだけ起こるのだと思っているなら、大間違いです。誰でも、神様の法則に従えば、同じ結果になるのです。しいて言えば、神様へ集中することの上手下手があるということでしょうか。祈りの達人たちは、祈りの場所を決めている人が多いようです。それは、集中するための方法なのだと思います。昔、神学校の宿舎に祈りの部屋という一畳ぐらいの狭い部屋がありました。土足を脱いで、畳に上がって正面の上の方に小さな窓があり、あとは、右の壁によく見るイエス様の肖像画?が飾ってありました。ところが、ここが特別に祈りやすい場所で、神様に近づきやすいのです。このような狭い場所も祈りには良いと言われているのです。また、広いキャンパスには、宣教師の先生が考えた美しいガーデンが広がり、生垣で囲われているので、祈りの場所としては最高に良い場所でした。また、自然の地形を利用して、丘のような高台があり、そこは植木が茂っていて、自然の中で祈りたい人にとっては、またとない場所でした。クリスチャンは、神様を信じ、イエス様を信じる人のことです。ですから、「心を騒がしてはなりません」との主のお言葉は、神様を信じることで実現するのです。あるいは、イエス様を信じることで超越するのです。まるで、自分の信仰を測るバロメーターのようなものなのです。こうやって、目には見えない信仰が主の求める高さにまで至っているかは、このように具体的なことで測るのです。ですから、自分の信仰が弱いとか何とかつまらないことを言う暇があれば、神様を信じる、イエス様を信じる、と信じることに専心すべきです。その良い方法が、祈りであることも覚えてください。

 

4月3日(日)

神に従う人はどのような災難にも遭わない。

神に逆らう者は災いで満たされる。

箴言12:21

 

何かの会員になると特典が付くことがあります。では、クリスチャンになるとどんな特典があるでしょう。最終的には天国へ入れていただき、神の子になることですが、この世でも良いことがたくさんあります。その一つが、どのような災難にも遭わない、というものです。これはかなり嬉しい特典ですね。今日の聖句で見てみると、クリスチャンがどのような人であるかがわかります。「神に従う人は」と条件のように書いてありますが、この神に従う人こそがクリスチャンなのです。罪人は、「神に逆らう者」と同意語ですから、災いで満たされる、という怖い運命になっているのです。もちろん、故意に神に逆らう者が受ける報いです。聖書に書かれているので避けることができません。これだけでも、クリスチャンになってよかったと思います。クリスチャンの特典は、他にも多いのですが、ご自分で探してみてください。驚くほどの恵みです。そして、それを体験してみましょう。

 

4月4日(月)

わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

エフェソ1:19

 

あなたの神様は小さすぎないか?という言葉を聞いたことはありませんか。神様が人によって、大きかったり、小さかったりするということはありません。この言葉は、あなたは神様を過小評価していないか、という意味です。どうでしょうか。あなたは、あなたの神様をどのようにイメージしているでしょうか。あなたのことを助けられない神様と、思っていないでしょうか。聖書を読めば明らかですが、この地球も宇宙もすべてイエス様によって創造されました。人間の想像を遥かに超えた力が神様にあるのです。まさに全知全能の神様なのです。しかも、神様は愛です。人間が無意識に求めているのはこの神様の愛なのです。そして、神様は愛を惜しむことがありません。そこで、信仰者には絶大な働きをなさるのです。その神の力をあなたは知ることができます。あなたが豊かな人生を歩み続けることができるように、神様は信仰に応えて働かれるのです。神様の力を悟れば、人生は大きな可能性に満ちています。楽しみですね。

 

4月5日(火)

神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、7つ目のわざわいはあなたに触れない。

ヨブ5:19

 

クリスチャンも人間として同じような経験をするのですが、違いが一つあります。それは、今日の聖句にあるように、神の救いと守りがあることです。何度も大変なことを経験して、その度に主に助けていただくのがクリスチャンです。決して、大変でないというわけではありませんが、救いがあるということです。そして、ついには災いが来ても、苦しませることも、悲しませることも、ましてや破滅させることもできないで、目の前から消えて行くのです。クリスチャンが試練にあう話しは、新約聖書にも出てきます。「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(Ⅰペトロ4:12)と、書いてあります。ですから、人生で数度の大きな患難が試練としてあるでしょうが、信仰で神に頼っているなら、救いが必ずあり、最後には、災いの方が近づくこともできなくなるほどの神の守りがあるというのです。試練は、自分の本心がどこになるかを調べる役目もあるのです。信仰が本物か試されるのですね。それだけでなく、試練によって練り清められ、強い信仰を持つに至ります。それは、この世に対して、そして、この世に属する古い私に死に、新しい世に属する新しい人に生きる、転換をもたらすのです。少し、難しくなりましたが、要は、何が起こっても信仰があれば、困らない。災いが襲っても神様が救ってくださる。試練は、信仰によって良い働きをし、自分を神の子へと造り変える力となるのです。このように、信仰によって主を信頼して生きていけば、しまいには災いはあなたに触れない。このように、信仰を持ったクリスチャンは、そうでない人にはない、救いと、鉄壁な守りがあるということです。ですから、いたずらに不安になったり、悪いことを想像するような愚かなことは決してしてはいけません。それよりも、楽しいこと、主が与えてくださる恵みを見逃さずに受け取ることを考えて、いつも喜んでいましょう。

 

4月6日(水)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

神様は、ただ見ていてるだけで何もしないと思っている人もいるようだが、決してそのようなことはない。いつでも、助けようと待ち構えている助け主だ。ただ、人間と違って賢いから、何が本人のためになるかを知っている。そのために、神様に聞く気になっているかどうかで対応を変える。聞く気にならなければ、助言も意味がない。そこで、信仰者は、神様との距離が測られる。いつも神様に聞いている人もいれば、行き詰まるまで決して神様に聞こうとしない人もいる。罪人の名残で、自己中心に物事を考えると、神様に聞かずに自分の思い通りにしてしまう癖が抜けない人もいる。また、せっかく信仰を頂いたのに、間違った思考で物事を判断する人も結果が当然悪い。神様は、意地悪ではない。それどころか、今日の聖句を読めばすぐわかることだが、悟りを与えようとされる素晴らしい神様なのだ。聞いても間違った思考の人はフィルターがかかったように、神様の悟りが入ってこないのだ。悪魔だって、聖書を読んでいるのに、一向に悪から離れることができない。それは、悪い思考で聖書を見ているからだ。そこで、先生の言うことを何でも素直に聞く子供を思い浮かべてみよう。神様は悟りを与える時に、受け手が素直に受け取らなければ、何も伝わらない。だから、単純に子供のような素直さを持って神様に聞くことだ。そうすれば、あなたの行くべき道はわかるだろう。神様に心を向けている人は、神様との距離が近い。その人にとっては、聖書は有用な助言に満ちているから、困ることはない。このように、私たちは神様との関係を近いものとし、悟りを求めるへりくだった心で祈れば、人生は限りなく祝福に満ちたものとなる。

 

4月7日(木)

きょうあっても、あすには炉に投げ込まれてる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

マタイ6:30

 

クリスチャンが一番言われたくない言葉が、「信仰の薄い者よ」と言われることです。それなのに、今日の聖句は主がはっきりと言われています。都会人は、野の花が無いから分からないと言い訳を言うのでしょうか。私の部屋の出窓に娘からもらった蘭を飾っているのですが、もう何度も花を咲かせて楽しませてくれています。ですから、野の花を見るまでもなく、神様の「装ってくださる」意味がよくわかります。私たちが注目するのは、「よくしてくださらないわけがありましょうか」という箇所です。この言葉と、「信仰の薄い人」が対照的に並んでいます。私たちに必要なことは、「神様が良くしてくださるに決まっている」という信仰なのです。事実、その通りなのです。神様がよくしてくださる、ということがイエス様によって保障されているのです。肝心なことは、私たちの方がいつでも信じていることなのです。そして、実際に神様が良くしてくださることを日常的に味わっていることが大切です。そのような人が身近にいれば、神様を信頼することができる人が増えます。それに、主から「信仰の薄い人」とは言われたくないですね。自己点検をして、今日も主が良くしてくださると信じることに集中してください。

 

4月8日(金)

預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を恐れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」

士師記6:8~10

 

士師記6章の冒頭には、「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された」(6:1)とあります。それは、彼らがバアルの祭壇を作り、アシュラ像を拝んでいたからです。つまり、神の命令に従わず、アモリ人の神を恐れ敬ってはならない、と言われていたにも関わらず、それを破って他の神を拝んでいたということです。そのために、遊牧民に収穫を全部奪われていたのです。イスラエル人の犯した罪は重いものでした。それにしても、なぜ、イスラエルの神ではなく、他の神を拝むようになったのでしょう。出エジプトの事件は、近隣諸国にまで伝わり、皆がイスラエルの神を恐れたのです。それなのに、時代が進むにつれて、神の忠告通りの問題が起こってしまいました。これは、モラルの問題でしょうか。それとも他に問題があるのでしょうか。おそらく、カナン人の文化や都市生活が魅力的だったのではないでしょうか。宗教も快楽的で、禁欲的ではなかったのです。ちょうど、田舎に住む青年が雑誌で東京のファッションや流行のお店などを見ては憧れ、顔を上げて窓の外を見ると田んぼが広がり、遠くに山が見えるだけの景色に、は~とため息をつくのに似ています。イスラエルの民は、外敵に七年も略奪を繰り返されすっかり疲弊してしまいました。そこで、ようやく自分たちの神に叫んだのです。わたしたちクリスチャンも、世俗との戦いがあります。若い人たちは、お正月に初詣に誘われて行くかもしれません。そのために、初詣は教会へと元旦礼拝をやっていました。商業主義に走る神社などでは、フッショナぶるな各種お守り、おみくじ、絵馬や猫などの奉納物、カルトも侮れません。しかし、それ以上に聖書の神から引き離す世俗の力は、考え方、道徳、何よりも隣人愛を失わせるように働いているのです。誰が、主に最後まで忠実か、やがてわかる日が来ます。その日がいつか分かりません。突然、主人は帰ってくるとイエスは譬え話をしました。その時、主に「忠実な僕」と言われたいものです。

 

4月9日(土)

いいですか。神の国は、あなた方のただ中にあるのです。

ルカ17:21

 

神の国が良いもので、できることならそこに入りたいと、誰もが願うものです。しかし、それは、死んだ後のことと思っているのです。ところが、イエス様は、今日の御言葉をお語りになったので、頭をひねってその意味を理解したいところです。文字通りなら、あなたの中に神の国があることになります。それなのに、人生がうまくいっていないと嘆くのはおかしいことです。何しろ、神の国があなたの中にあるのですから、そこでは神の支配があり、幸福の源があります。人生で挫折経験は大切で、クリスチャンには必要です。高慢をへし折られることが必要だからです。でも、同時に自信を失う人が出てきます。その人には、神の国が自分の中にあると認めることで、自分に自信を回復してほしいです。神様は、天地創造の時、御言葉で命じるとその通りになりました。そして、神に似せて作られたアダムは、神様が地のチリで体を形作りました。ですから、たいていのことは、言葉で信じれば、それが生まれてきます。しかし、ただ信じるだけではなく、行いも重要だということがアダムの創造でわかります。また、アダムが神の息を吹き入れられたことで生きたものとなったのですが、罪を犯してしまい、罪の報酬として死を受け取りました。そこで、イエス様は、罪の贖いを十字架で完成し、新しく聖霊を吹き入れたのです。その聖霊は、三位一体の神ですから、神様がその人の内に生きているのです。その神様によって、支配されているなら、つまり、本人の自由意志で聖霊に服従しているのなら、そこに神の国が存在しているのです。ですから、クリスチャンは信じて不可能を可能にすることができるのです。信仰により何も困る必要がなくなります。早く、このことに気づけるといいですね。

 

4月10日(日)

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって作られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2:10

 

聖書には驚かされることがありますが、今日の聖句もその一つです。何しろ、私たちが神の作品で、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって作られた、と言っているからです。神の作品と言われると、何か誇らしく感じます。神様は失敗しないので、少なくとも私たちは失敗作ではあり得ません。そうなると、相当、素晴らしい存在であることになります。人間の評価は不完全で、当てになりませんが、神様のお墨付きがあるとなると、私たちは人間の名人が作った国宝級をはるかに超えた存在なのです。何しろ、作者が神様だからです。人間がいくら多くいても、大量製品ではありません。一点ものの傑作揃いです。ですから、他人と比べても意味がありません。問題は、何のために造られたか、です。聖書は明確です。良い行いをするためであるというのです。しかも、人生そのものが、良い行いに歩むように、その良い行いを あらかじめ備えてくださったのです。それなのに、罪深くて神に背を向け、逃げてばかりでした。しかし、ついに、主の御手にとらえられ、正しい道へ戻されたのです。そこには、あなたのための良い行いが準備されています。その良い行いこそが、あなたがあなたであることを実感できる最高の生き方になるのです。ただし、人間の欲で考えてはいけません。肉の考えでは理解できないのです。これは、聖霊の導きを受けてわかることなのです。よく、自分らしく生きる、と言う人がいますが、自分らしくの意味はわかっていないようです。それは、主が備えられた良い行いができている状態のことです。これが、あなたに実現します。主に従いましょう。思い込みを捨てて、主に任せれば良いのです。主の恵みに満ち足りた人生となります。

 

4月11日(月)

モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。

使徒言行録7:22

 

モーセほど偉大な人はいません。そのモーセが生まれてきた時には、エジプトのファラオは赤ちゃんを殺すように命じていました。それが、王女に川で拾われ、王宮で育つことになりました。それは、当時の世界一の教育でした。教育がいかに大切かモーセの偉大な働きと結びついています。人は、教育次第でできることが変わります。良い教育は、その人を成長させ、秀でた者とすることができます。ところが、勉強は、全ての人が好きと言うわけではありません。むしろはっきり嫌いという人も少なくありません。しかし、モーセが何の教育も受けていなかったなら、出エジプトそのものが起こらなかったかもしれません。私たちは、神の子と呼ばれていますから、天の教育を受けることができます。それは、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16:13)とある通りです。そこで、学ぶのが聖書です。聖書がわからないということは、キリスト教の教えはわかっていないということになりますから、学ぶ必要があります。聖書注解書のような解説書もありますし、聖書辞典や聖書語句辞典に聖書地図など、聖書を学ぶのにあると助けになる道具も手に入りやすいはずです。礼拝は、聖書の講解説教になっていますから、聖書を学ぶ役に立つと思います。引照付き聖書をお持ちなら、それを使ってみることです。私たちは、こうして神様に教育していただいて、「すばらしい話や行いをする者に」なりたいのです。

 

4月12日(火)

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

ローマ12:17、18

 

人間の問題は、自分に対して相手が悪をなしたから、だからこちらも悪を返す、という単純な問題です。どちらの悪が大きいか小さいかといったことは大した問題ではありません。復讐が悪だということが問題なのです。放っておけば、しまいには戦争にまで発展するのですから怖いわけです。クリスチャンにはこの問題の解決の仕方の正解が教えられています。イエス様は、マタイの福音書5章38節から48節まで、ちゃんと教えています。そして、今日の聖書箇所でも教えています。人から悪意ある仕打ちを受けた時に、確実に傷つき、ダメージを受けます。そこから立ち直る過程で、復讐心が湧いてくるのです。悪いことをされたらやり返せ、ではなく、善を行えというのです。そのことを心掛けよ、というのですから、やられ損だと憤慨するかもしれません。しかし、復讐心に燃えている間、心は何度も嫌な場面を思い出し、ひどい言葉を繰り返し聞くことになります。その度に、治りそうになっていた傷から血が出てくることになります。思い出したくないのに勝手に思い出す、と訴える人は、聖書に書かれた通りにしていないはずです。つまり、相手を心から完全に赦すということです。言葉にできないほどひどいことをされたのなら、復讐心が消せません。そこで、今日の聖書箇所の続きを読めば、正しい解決法が書いてあります。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われるのです。大切なことは、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」ということです。この通りにすると、心がウソのように軽くなり、もう見えない敵に苦しむことは無くなります。信仰は人を強くします。弱いと罪を犯し、悪いことの連鎖の中でいつまでも幸せになれません。だから、信仰で強い人になるよう、導かれているのです。「すべての人と平和に暮らしなさい」との命令は、主の教えに従えば、どんな人が周りにいても、悪に負けることなく、善をもって悪に勝てるからです。それほど神様に愛されているのですから感謝ですね。

 

4月13日(水)

主よ、それなら

何に望みをかけたらよいのでしょう。

わたしはあなたを待ち望みます。

あなたに背いたすべての罪からわたしを救い

神を知らぬ者というそしりを

受けないようにしてください。

わたしは黙し、口を開きません。

あなたが計らってくださるでしょう。

詩篇39:8~10

 

この世に生きる者のはかなさは、あくせく生きる者の報いとしてはむなしい。だからと言って、どうすれば良いのか。詩篇詩人は、それなら何に望みをかけたら良いのかと問いかけます。信仰を持った者の答えは、「わたしはあなたを待ち望みます」と明快です。結局、神様の到来により、初めて人生に希望が持てるのです。意味ある人生とは、主を信じる生き方です。なぜなら、主は良いお方で、慈しみ深く、憐れみに富むお方です。主を信じる者を祝福し、その祝福はとてつもなく大きなもので、子供、孫へと続きます。興味深いことに、人は主イエス・キリストを信じて愛する者とそうでない者に別れます。罪を犯していないからと言える人間はいません。そこで、罪の問題は、救いにかかっています。私たちは、主に罪を赦していただき、救われた者です。ですから、感謝を忘れてはならないのです。主は計らってくださるので、良い人生を送ることができます。否定的な言葉を不用意に口から出さないように気をつけましょう。沈黙の方が良い時は多いのです。

 

4月14日(木)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:16~18

 

私たちは、毎日どのようなことを心がけていればいいのでしょう。それは、三つあります。一つ目は、「いつも喜んでいなさい」です。重要な部分は「いつも」です。私たちは、忘れる天才です。ですから、喜んでいなさい、と聖書に書いてあれば、よし、喜んでみようと思えるのですが、喜ぶこともなく喜ぶのは難しいと考える人がとても多いのです。つまり、彼らは信仰をよく理解していません。信じることをよくわかっていなのです。主の命令なので、誰でもできることなので、本当は喜ぶことは難しくありません。試しに、喜んでみてください。喜びが湧いてきます。そこで、これを心がけている人は、不思議なほど喜びの生活を普通に実現できます。問題は、忘れてしまうことです。長続きしないのです。だから、意識しているべきは、「いつも」の方なのです。朝から晩まで喜んでみてください。二つ目は「絶えず祈りなさい」です。祈りが信仰者にとって大変重要なことは知っているはずです。しかし、自分が祈ることに関しては、自慢できるでしょうか。絶えず祈れ、とはどのような意味があるだろうか、このようなことを考えてみましょう。祈りが神様との会話であるのなら、絶えず祈れは、絶えず神様と一緒にいるということになります。三つ目は、「どんなことにも感謝しなさい」です。ここでも、注目すべきは、「どんなことにも」です。「どんなこと」に、感謝できないことも含まれるわけです。それでも、感謝するのですから、神様はどんな時にも、私のために良いことだけ起こるようにされているので、たとえ、見た目が悪ことであっても、それを通して自分の益となるように神様が働いておられることを信じることです。そうであれば、どんなことにも感謝できるのです。究極のポジティブ思考ですね。この三つのことをキリスト・イエスにおいて実現するという信仰があれば、不思議なほど恵まれた人生を歩むことになります。神様に御心にかなう生き方です。

 

4月15日(金)

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。

ローマ8:32

 

クリスチャンの特権は、驚くべきものがあります。そもそも、罪人であったのに救われたこと。救われるために何もしなかったのに、御子が十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったので、救われたのです。その御子は、天の父なる神様が私たちを救うために犠牲として与えられたのです。なんとありがたいことでしょう。御子を与えてくださった神様が御子以上のものなど何もないのですから、必要なら何でも与えてくださるはずです。ですから、欠乏することなく、満ち足りた人生を送ることができます。そのことを理解できるなら、悩みはことごとく消えていくでしょう。私たちは、御子の十字架が言葉で言い尽くせないほどの価値があり、愛の真実な姿であることを知っています。ですから、主の救いを誰も妨げることはできません。何しろ神様の御心にかなうものなら何でもいただけるのですから感謝です。

 

4月16日(土)

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

Ⅰコリント1:20、21

クリスチャンの秘密は奥が深いので、聖書をよく学び、祈って真理の聖霊に聞く必要があります。まず、あなたに「キリストと結ばれ」ているという自覚はあるでしょうか。これはクリスチャンとして重要なことです。キリストと結ばれることにより、救われ、神の子となります。この世にいながら、神の支配に服すことができ、キリストの言葉が命であり、霊であることを知ることができます。この世に住んでいながら、すでに神の国に入ることができます。命の水をいただき、渇くことの無いように泉が湧いているのです。そして、「キリストは神の知恵となり、義と聖と贖いになられたのです」。これは、神秘ですね。信仰によらなければ、決して理解できないし、実現できないことです。このような信仰体験は、実態がありますから、霊的な視野が開かれ、信じることが容易になります。そして、自分ではなくキリスト、という信仰が生まれます。霊の賜物が現れ、人を助けたり、癒したり、預言したり、とキリストの望む通りの働きができます。ですから、驚くようなことも起こりますが、それで、自分を誇ることはできません。明らかに、それは主によるからです。そこで、「誇る者は主を誇れ」と言われているとおりになります。これが守られないと、悪魔の誘惑に負けて罪に陥ります。そうならないように、栄光はすべて主に帰すことです。あなたがイエス・キリストと結ばれていることを信じましょう。

 

4月17日(日)

立ち上がってください、主よ。

神よ、 御手を上げてください。

貧しい人を忘れないでください。

なぜ、逆らう者は神を侮り

罰などはない、と心に思うのでしょう。

あなたは必ず御覧になって

御手に労苦と悩みをゆだねる人を

顧みてくださいます。

不運な人はあなたにすべてをおまかせします。

詩篇10:12~14

 

自分が困った時に、頼れる方がいる人は幸せです。この世では、学校でも幸せになる方法を教えていません。それに、たった一度の人生をどのように生きれば良いのか正しく教えてくれないのです。誰もが、まるで実験場のように、ある条件のもと生まれて生きていくのです。それでも、クリスチャンになる人がいます。なんと幸せな人でしょう。ところが、聖書に「味わい、見よ、主の恵み深さを」(詩篇34:9)と書かれているのに、主の恵みを味わうことを拒む人がいるのです。悪魔が妨害したとしても、おかしなことです。それは、その人に吹き込まれた否定的な考えが影響しているのです。このような人は、神に逆らう者がうまくやっていると思い、うらやましく思っていたりします。思い込みで、自分はついていないから、神に嫌われているから、何をやってもうまくいかずに、貧しくなるしかない、と信じていたりします。自分の容姿を醜いと信じている人もいます。逆にこの子は頭が良い、と言われて、頭が良いのに勉強して努力したのでは、本当に頭が良いことにならないと勉強しないようになって、当然のように成績の悪い生徒になってしまうことだってあります。また、神様を侮る人が出てきます。そのような人は愚かにも罰がないと思いこみ、悪いことを平気でします。神様を侮るのですから、親も、先生も、警察も、侮るのです。このように、人間は驚くほど間違った考え方をするものなのです。聖書のような正しい情報をもの御心が着く頃から教え諭して行く必要があります。それでも、神様は人々をご覧になり、信じて、労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。つまり、誤ったネガティブな考え方にこだわらずに、神様に心を開いてポジティブな考えに変えていただくのです。悪魔が存在するのですから、不運な人がいるものです。その人でも、信仰を持って神様にすべてをお任せすることで助けを受けられます。それも、思考を変えるだけです。頑固にならずに、自分の思いを放棄して、神様に任せるのです。悪魔は、悪いことはすべて神様のせいにするので、神様に任せることができないように洗脳してくるので、その神様の誤ったイメージをも捨てて、神様の救いの御手に縋る必要があります。ひどいことをしていたのは悪魔であって、神様ではありません。その証拠に、神様があなたを救って、幸福な人生を与えてくださいます。主に目を開いていただきましょう。

 

4月18日(月)

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとしてご自身を献げられました。

Ⅰテモテ2:4~6a

 

この聖句を読むと、神様がすべての人々を救われるように望んでおられることがわかります。しかも、ただ救われるだけではなく、真理を知るようになることを望まれているのです。ヨハネ1:17には、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と書かれています。私たちは、神が唯一であり、神と人との間の仲介者も、受肉したキリスト・イエスただお一人であることを知っています。私たちがキリストを慕い、すがるのは、仲介者であるからです。そして、キリストはすべての人の贖いとしてご自身を献げられたのです。これが、私たちが罪人であるのに救われた理由です。私たちは、キリストが恵みであることを知っています。その上、真理が満ちておられるお方なのです。そして、この真理によって私たちもまた献げられたものとなるのです(ヨハネ17:19参照)。聖書の御言葉を読み、信じましょう。信じる訓練となります。そして、この御言葉がその人を真理によって聖なる者とされるのです。この神様の不思議を体験したいですね。

 

4月19日(火)

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。

Ⅱコリント9:8

 

あなたはクリスチャンになって、物事の考え方や見方が変わりましたか。神様のいないと思われていた世界では、運が良い、運が悪い、といった偶然の世界だと思われていました。そこでは、うまくことが運べば、ついている、と喜び、うまくいかなければ、ついていないと嘆くことになります。さらに、心配になれば占いの本でも買ってきて、自分の運勢を占うことまでします。このような世界に生きる人は、何を信じているのでしょう。死んでいる偶像にすがっているのでしょうか。何か運勢が良くなると言われれば、パワーストーンでも何でも高価であっても買うのです。さらに、病気になったり、不幸が続くと、祈祷してもらうだけで何十万円も払ってしまいます。それで、貯金を使い果たす人も出てきます。このような世界に生きてきたので、クリスチャンはネガティブな思考を変えなければなりません。そもそも、神様の知識がないのです。いや、それだけではなく、間違っているのです。今日の聖句を読めばよくわかりますが、聖書の神様は良い神様なのです。今まで、聞いたこともないような恵みをあふれるばかりに与えてくださる神様なのです。そんな旨い話は無いと心の中で否定する声が聞こえるなら、すぐに悔い改めて、過去の空しい否定的な思考を捨て去り、無条件に愛し、祝福し、良い人生を歩めるように、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えてくださる神様を信じることが普通になるようにしてください、と熱心に祈る必要があります。信仰は使って大きくしていくものですから、このような自分の思考を正しく肯定的になるように信じてみることです。まずは、今日の御言葉を繰り返し、唱えて自分の心に覚えさせましょう。そして、主に恵まれた人生を楽しく生きてください。

 

4月20日(水)

戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。そして、更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震がり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

ルカ21:9~11

 

イエス様の終末預言は、まるで今、成就しているように見えます。しかし、まだすぐに終わるわけではありません。キリスト教徒の迫害がまだ聞こえてきません。今日の聖句の最後に出てきた、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れるのは、迫害が始まった後です。そして、すぐに再臨です。毎日、テレビでは、ウクライナでの戦争のこと、世界中で暴動が起こっていること、コロナのこと、大きな地震のこと、ウクライナ戦争で、食糧が足りなくなることなど、まるで聖書の預言通りになっていると思わずにはいられません。このようなことは、想定内の出来事であって、それよりも、個々のクリスチャンが自分の信仰を顧みることの方が重要なのです。イエス様は、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21:36)と警告しています。私たちは、どのような時にも主のお守りがありますから、いたずらに恐れることはありません。それよりも、神の国へ入る準備をするべきです。それは、聖書に書いてあることを調べることで理解が深まります。祈りも考えてみましょう。神様と霊的に交わることができているかどうか、考えてみることも大切です。そして、今だからこそ、再臨について祈ることに意味が出てくるのです。

 

4月21日(木)

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。・・・神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

ローマ8:29、30

 

クリスチャンの救いは、実に見事なものです。それは、神様がお考えになったことですから、当然と言えば当然ですが、肝心のクリスチャン本人がよく理解していないのが問題です。ローマ書を研究することをお勧めいたします。いっぺんに分かろうとしなくてもいいのです。子供の頃、プラモデルをよく作っていましたが、それは設計図が入っていたので、作ることができたのです。クリスチャンも聖書という設計図に基づいて作られていくとことが似ています。自分勝手に解釈しても結果はうまくいかないものです。人の救いは、神様主導で、神様の救いの方法以外では罪人は救われません。神様は、今日の聖句の通りに、順番を決めておられます。皆さんが、前もって神様に知られていたのです。それは、御子の姿に似たものとするために事前に定められていたのです。そして、皆さんは産まれました。成長の日々があって、その何処かで神様に召し出されたのです。キリスト教と縁もゆかりもないと思っていたかもしれませんが、皆さんはクリスチャンになりました。神様は次に皆さんを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。つまり、パウロがあなたがたは聖霊の宮となった、と言っている通りになったのです。あなたは主によって罪から贖われ、清められました。これは、神様があなたを義とされたということです。その義とされたあなたに聖霊を新しく吹き込まれたのです。これで、あなたは自分の内にキリストがいると言えるようになりました。つまり、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。それなのに、肉の支配に戻るようなことがあっていいはずがありません。霊の支配に移ったはずです。そのことを決めるのが信仰です。あなたは、どうしたいか自分で決められます。神様は誠実に、あなたがキリストに似たものとなるように、万事が益となるように共に働くようにされました。ですから、どのようなことが起こっても益になるようになっていますから、主を信じていれば大丈夫です。律法によって義となろうとしていた時は、良い行いをしなければ義と慣れないと大変でしたが、今はキリストのおかげで、自分の努力や良い業を行うことで義となろうとするようなことからは解放されていますが、それは、聖霊の導きに従うから義となれるだけのことです。決して、肉に従ってしまって、義となることは保証されていません。いや、義とはなりません。ですから、霊的な導きに心を向けることが大切です。日々、イエス様の恵みに従う決心が必要です。せっかく神様に召されたのですから、従順に主に従う者となりましょう。

 

4月22日(土)

あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペテロ5:6、7

 

信仰の道はこの世の考え方とは違っています。神様を認めることからはじめ、信じるという説明しにくい信仰によって成り立っています。しかし、救われた人にとっては、大きな転換が必要になります。日本のような社会に生きていると、子供頃から始まる競争社会で生きるすべを学んできました。ですから、競争相手にへりくだるなどあり得ないことなのです。そこで、神様にへりくだるということから学び直しになります。教会で新しく覚える言葉が、「謙遜」です。この世の中では謙遜は単なる処世術でしかありません。文字通りに謙遜な人などまずいません。その逆に、高慢で貪欲な人はたくさんいます。高慢も貪欲も罪の性質ですから、罪人であることを隠すことができないのです。このようなわけで、神様は救われた人に、へりくだりを教えます。人によっては、砕かれるような経験をする人も試練に遭う人もでてきます。ただ、へりくだる謙遜な人になれたなら、もはや試練は必要ありません。悪魔の誘惑もへりくだる人には効果がないのです。神様はいつまでも聖徒を低くされません。彼らを神の子として、ちょうど良い時に高くしてくださいます。ですから、この世でいろいろなことが起こっても、一喜一憂せずに、落ち着いて進行で解決できることを覚えていましょう。具体的には、高慢な時には、私が、私が、と自我が先行したのですが、へりくだりを身に付けたので、思い煩いをすべて神様にゆだねることができるようになります。このようになれば、問題は自分で抱え込むのではなく、神様に全部お任せできるようになります。結果は明らかに最善になります。こうして、クリスチャンは、信仰で生きることの意味を知るようになるのです。

 

4月24日(日)

リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩き出した。

使徒言行録14:8~10

 

リストラと聞くと、私たちは企業の人員削減のことだとすぐに思うようになってしまいました。正式にはリストラクチュアリングで、広辞苑では、企業の買収・合併、不採算部門の整理や人員削減によって、事業内容を再編成すること、とあります。今日の聖句で出てきたリストラは地名です。パウロたちの伝道地の一つです。私たちは、癒しの奇跡を教会で見ることのない時代に生きています。これは大変悲しいことです。まったく奇跡が消えたわけではありませんが、圧倒的に少ないのです。パウロの時代に、大きな癒しの奇跡は起こっていたのです。さて、今日も同じように癒しの奇跡があれば、日本の地でも伝道が飛躍的に進展すると思います。聖書には「いやしの賜物」が明確に書かれているので、世界を見渡せば、いやしの賜物で伝道されている方はいます。しかし、少ないというのが現実です。これは、かなりおかしなことです。なぜなら、いやしの賜物がなくても、クリスチャンなら病を癒せると聖書に書かれているからです。「信じる者には次のようなしるしが伴う。・・・病人に手を置けば治る。」(マルコ16:17、18)。私たちは信じる者なのです。ですから、癒せないはずはないのです。それでも、現実に病人を見舞い、祈っても、目の前ですぐにいやされなことを経験するのです。さらに、パウロのやり方を見ると、「パウロは彼を見つめ」「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」とあります。つまり、相手をよく観察して、「いやされるのにふさわしい信仰がある」かどうかを見極める必要があるということです。やはり、信仰によっていやされるのです。ただ、自動車のアクセルのように、踏めばエンジンの回転が早くなるといった、信仰のアクセルがわからないのです。自分で実験するのは一番容易なので、まずは自分の信仰の点検からです。どのぐらい信じているか、調べるのです。癒しの大会などでは、目の前で、歩けない人が歩いたり、病気の人が癒やされたと飛び跳ねて喜んだり、と否が応でも信仰を跳ね上げるだけの力があるのです。そのようなところでは、連鎖的に癒しが起こるわけです。自分の信じる信仰を引き上げてもらっているのです。いやす人も癒やされる人も、信仰が要求されるわけです。神様のお話を聞いていて、信仰が跳ね上がる人もいれば、祈りの中で信仰が増す人もいます。ただ、世俗の世界で不信仰な話ばかり聞いていると気づかないうちに信仰が薄くなっていくこともあるので注意が必要です。感情に頼る方法は、一過性に終わるので、理性も働かせ、聖霊にも助けていただき、いつでも信仰で生きるといえるようにしたいですね。

 

4月25日(月)

神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。

ローマ4:21~24

 

クリスチャンと信仰は切っても切れない関係です。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるからです。信仰が大切であるということは、誰も疑う者はいないでしょう。それなのに、信仰について真剣に考えなければ、厄介なことになります。それは、信仰の反対が不信仰だからです。つまり、信仰で生きているのか、不信仰で生きているのか、どちらかになってしまうからです。アブラハムは、神の約束を信じたので義と認められたのです。そして、義人こそが神の国に入る人なのです。自分の人生がすでに神のものとなっていると認めることから、クリスチャン人生は始まります。それは、キリストが十字架で命の代価を払ってあなたを買い取ったからです。それで、あなたは主のものなのです。そうであるからこそ、あなたの人生は良い意味があるのです。あなたは、神の約束を信じることができます。つまり、聖書からあなたは神の約束を聞き取る必要があるのです。それを信じることがあなたのすることなのです。そして、何があっても、それがどんなに遠大で途方もないことであっても信じるのです。人間の心のブレーキって、ご存じですか。アブラハムは不妊の妻があり、すでに高齢で子供をもうけることが不可能であった時に、神から、「空の星が数えられるか、あなたの子孫はあのようになる」と言われた時に、信じたのです。私たちはどうでしょうか。もっと小さなことでも、なかなか信じることが難しく感じていないでしょうか。それを確かめるバロメーターが、否定的な言葉です。もし、アブラハムが「主よ、お言葉ですが、妻は不妊で、私たちはもう年寄りなので、無理です」といったらどうでしょうか。これは、不信仰となります。しかし、私たちは、毎日、このようなことをしていないでしょうか。こんなことはできない、これは無理だ、とどうも心にブレーキをかける力が働いているようです。これは、子供の頃から、親や先生など大人の人から、危ないからやめなさい、そんなことをお前ができるはずがない、そんな危ない道を選ばないで、もっと安全な道を選びなさい、と毎日心に否定的な言葉を植え付けられていたのです。それで、自分を守っているはずが、信仰のことになると、マイナスに働くのです。スポーツの一流の選手は、メンタル・トレーナーをつけて、無理とかできないとか否定的なことを自分の心に言わないように訓練するのです。そして、肯定的に、ポジティブな言葉をいつでも言えるように訓練しているのです。もし、あなたが野球選手で、バッターボックスに入るときに、「ピッチャーは速い球を投げるので、きっと打てないだろうな」と思っているか、「速い球を投げるので、当てたらホームランになるぞ」と考えているか、どちらの考えが良いか分かりますよね。実は、信仰で生きるということは、このように肯定的に考え、積極的な思考で対処することなのです。訓練すれば、誰でも良い結果を残せます。少し、楽しいことを考えて、今日は良い日だと言葉にし、そのまま信じてみましょう。

 

4月26日(火)

私が呼んだその日に、あなたは私に答え、わたしのたましいに力を与えて強くされました。

詩篇138:3

 

よく、私たちは気力が出ない、とか、やる気が起きない、と言うことがあります。特に、問題を抱えている時にそうなるし、困難に立ち向かわなければならないような時にこうなると大変です。そうでなくても、学校や会社に行くのが嫌だと思っている人も少なくありません。そのような状態に人間が陥ると、本当に力が出ないのです。そのような時に聞く、霊的サプリが今日の聖句です。このサプリは信仰を持ったクリスチャン限定で効き目が現れます。この聖句を見てみると、あなたがまず主を呼ぶのです。その日のうちに主はあなたに答えてくださいます。つまり、何も起こらないのではなくて、あなたがわかるように何かが起こるのです。あなたはそれが主であることがすぐに分かります。そして、あんなに落ち込んでいたのに、気力など何もないと思っていたのに、あなたの魂に力を与えて強くされます。エネルギーを注入したように、急に元気になるのでわかるはずです。困難に立ち向かいたくなっていることに気がつくでしょう。神様は何でもできるので、ラジオやテレビから語りかけることだってできるのです。たまたま目にした看板に書かれている言葉で答えることもできます。神様から遣わされた人を通して、あなたに語りかけることだってできるのです。だから、あなたは、いつでも元気に力に満ちていられます。今日もあなたは良い一日を過ごすでしょう。何も心配することはありません。まるでガソリン入れ放題のゴールドカードを持っているようなものです。これも、クリスチャンの特権です。

 

4月27日(水)

人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そすれば、あなたがたにも与えられる。押し入り、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

ルカ6:37、38

 

聖書を読み始めた頃に、この箇所は厳しいな、と思わされるところです。ですから、記憶に残る箇所なのです。なのに、すぐに忘れて、裁きやすいのも私たちの特徴です。また、赦すことこそキリスト教の教えだと、思っているのに赦すことがなかなかできないのも私たちの現実なのです。さらに、与えることが苦手で、もらうのは好きなのに、与えるのはついためらってしまう、という人も多いのです。この箇所は、聖書でも極付の重要箇所ですが、その価値がわかっていない人が多いのです。人間の悩みは何と言っても人間関係です。学校でも会社でもご近所でも、親戚・家族・友人・知人と誰でもトラブルの原因になります。そこで、イエス様は、私たちにそうした人間関係で悩まずにすむ、秘訣を教えている箇所がここだったのです。信仰がなければ到底できませんが、クリスチャンなら信仰があるので、誰でもできます。人間関係がギスギスしていれば、自分が相手を裁いている可能性があります。無意識に裁いていると意外に気が付きません。また、クリスチャンならではの問題は、他人を罪人と見る傾向があるということです。これは、要注意で、他人を本当は内面まで知らないし、神様との関係も知らないのですから、罪人と勝手に決めつけるわけにはいかないのです。そこで、罪人だと決めつけることをやめるのです。さらに、赦しも驚くほど難しいのです。それでも、主が赦しなさい、と命じているので従うべきです。これにも不思議が伴っていて、自分も赦されることです。与えれば、与えられる。ここまで見てくると、法則に気が付きます。そうです、主はこう言ったのです。「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」と。つまり、自分の身に降りかかることは、自分が先に決めて実行しているというのです。ですから、人に厳しくすれば、自分にそれが跳ね返って来て、もっと厳しくなるということです。逆に、人に良くしてあげれば、自分にも良いことが豊かに戻ってくるということです。これは、幸福になる秘密だったのです。誰でも、すぐに実行できます。自分にしてもらいたいということを人にすればいいのです。惜しむ心でしてはいけません。心から喜んでするのです。実行して、大いに幸福になってください。

 

4月28日(木)

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

Ⅱテモテ4:7、8

 

パウロは、決められた道を走りとおしました。彼は、戦いを立派に戦い抜いたのです。それは、信仰を守り抜いたということです。義の栄冠を受けるばかり、とゴールが見えて来たのです。私たちは、クリスチャンとして信仰を守り抜きました、と主に報告したいと思っています。確かに、誰でも戦いがあります。私たちの戦いは、信仰の戦いです。生活の全てが戦いの場になります。パウロのように命懸けで伝道するようなことはないかもしれませんが、それでも、信仰を守り抜くには何かしら戦いがあるのです。決して、誇るような信仰生活ではないかもしれませんが、それでも、主に頼り、御言葉に従って、正しく生きようとして来たのです。それは、自分が大切にしていたものを一つ、また一つと捨てたり、失ったりして、気がつけば身ひとつ、主の御足にすがるような信仰の歩みでした。この地上に何かしら望みを持っているのなら、失望するか、この地と一緒に滅びることになるでしょう。私たちは、最後に義の栄冠を受けるのは、主のご再臨をひたすら待ち望んでいるかどうかで量ることができるのです。備えのできていない人は、主が再臨されると困ります。イエス・キリストを信じて、この世に生きるのではなく、神の国に生きることを考えて、ロトの妻のように後ろを振り返らないようにしたいものです。

 

4月29日(金)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

新共同訳は同じ箇所を次のように訳しています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」。どうでしょうか、この訳だと冗談を言っているように受け取る人が出ても仕方ありません。不信心な者がどうして信じる人と言えるのかと突っ込みたくなるのです。今日の聖句のポイントは、「何の働きもない者」です。不思議なことに、何となく私たちは神様がいて、天から人間の行いを見ていると思っているのです。ですから、良い行いをした人が救われる者で、悪い行いばかりで、良い行いができなかった者が地獄に行く者なのだ、とどうしてか信じているのです。それで、良い行いで得点を稼がないと天国には入れないと、どこかで思っています。ところが、それがとても難しいのです。この世では、イライラすることが多いし、自分を困らせる人や嫌いな人もいます。ストレスに満ちた現代社会で、どうすれば善行を積めるのか考えるのですが、とても実践するのは難しいのです。さて、今日の聖句を見ると、意外なことに「何の働きもない者が」といきなり常識を覆すようなことが書かれています。いくら何でも、何の功績もないということはおかしいと思ってしまうのです。さらに、「不敬虔な者を義と認めてくださる方」として神様のことを紹介しています。ここもおかしいと思わされる箇所です。だって、神様は敬虔な者を義と認めるはずだからです。実は、その通りで、敬虔な者を義と認める方なのですが、不敬虔な者も条件付きで義と認めてくださるということです。その条件が気になりますが、それは、①義と認められるような敬虔な働きが一切ないということ。②そのような者を義と認めてくださる方を信じる。このような、誰でもできそうな条件をどうするかで、その人自身が自分の運命を決めるのです。それにしても、キリスト教の救いは、驚くものがありますね。義人と呼ばれるほどの敬虔もなく、不信心な者でも救われる可能性がちゃんとあるのですから。信じ方が重要です。初めから、神様が自分のように、何の救われるための功績もなく、罪深く生きて来たのに、そのような自分が、不信仰であったにもかかわらず、ただ、イエス様を信じる時、その信仰が義とみなされるということです。

 

 4月30日(土)

なにゆえ、独りで座っているのか

  人に溢れていたこの都が。

やもめとなってしまったのか

  多くの民の女王であったこの都が。

奴隷となってしまったのか

  国々の姫君であったこの都が。

哀歌1:1

 

毎日、ニュースはウクライナの戦禍を報道しています。21世紀に戦争が起こるとは、それも第三次世界大戦になるかもしれない危険な侵攻が起こったのです。グローバル化と言われて久しいのに、戦争が起こってしまいました。その影響は世界を覆い、数年間の暗い悪夢が始まったのです。聖書を開くと、哀歌に目が止まりました。戦争の悲劇は、いつの時代も同じです。一般市民も攻撃対象になり、水も止まり、キャンプ生活のように外で煮炊きをしている女性の姿がテレビに映っています。街は人が住めないほど破壊されてしまい、戦争が終わっても元の生活は戻って来ません。聖書時代にも、「彼女の子らはとりことなり、苦しめる者らの前を、引かれて行った」(1:5)とあります。私たちは、どこか人ごとのように思い、自国は大丈夫だと根拠もなく思っています。ウクライナの人たちだってそう思っていたのです。世界の55%は未だ民主主義ではない、と言われています。人々の傲慢、罪がいつか神様の怒りとなって、罰のように悲惨なことが起こらないとは言えないのです。ウクライナの美しい街が戦禍に汚されていくのは、とても悲しいことです。私たちは、このような出来事をどう考えたら良いのでしょう。終末に生きていると何度も言われ、黙示録を調べ、イエス様の話された終末の徴を確かめ、再臨が近いと言うのですが、それだけでいいのでしょうか。最後まで福音を伝え、執り成して祈り、悔い改めて、この世のことではなく、神の国に入るために、主イエス・キリストに聞き、信じることが大切です。聖書は、いつでも私たちの前に置かれています。解き明かしのために、真理の御霊が助けてくださいます。聖霊を求めて祈り、ひどいことがこれ以上起こらないように、天の父に嘆願するのです。