ディボーション

Ilona IlyésによるPixabayからの画像
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3月19日(火)

神に従う人の道は輝き出る光

進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

神に逆らう者の道は闇に閉ざされ

何につまずいても、知ることはない。

箴言4:18、19

 

クリスチャンの多くは内に光が見えるのですが、悪魔に攻撃されたり、罠にかかったりしている人は、逆に黒く闇が見えます。それでも、祈ると黒く見えていたものが消え、光が満ちてきます。光も色が付いて色々に見えることがあります。パステルカラーのように柔らかい穏やかな明るい色で見えている人もいますし、白い光に満ちている人もいます。聖書で言えば、今日の聖句がよく説明していると思いますが、信仰を持って信心深く生きている人の道はまさに輝き出る光なのです。そのまま、信心深く主に近づこうとしているなら、進むほどに光は増します。それは、真昼の輝きとなる、とあるように白く輝く眩しい光なのです。主が近づいて来られた時の色だと思います。この恵みは信仰の旅路を支えます。一方、神に逆らう者の道は闇に閉ざされているとある通りです。霊的な真実がまるで見えません。その結果、いつでも何かにつまずく危険があります。さらに恐ろしいのは、何かにつまずいているのに、知ることができないのです。神がいないからとたかをくくっている人たちは、自分中心に物事を考えるので、非常に危険です。それがわからないのは、暗闇の中にいて見えていないからです。それにくらべ、神に従う人は、生活は良くなり、信仰を増すように神の恵みをいただくことができます。信仰者は信仰の実りがあることをあまり理解できていません。ですから、光を見ることを求めると良いのです。誰しも同じような人生であるようですが、実に大きく分かれています。神に従う道以外は、とんでもなく大変ですから、回り道をしないように気をつけましょう。意識して、主に従順でいましょう。

 

AndreasによるPixabayからの画像
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3月18日(月)

いかに幸いなことか

主を神とする国

主が嗣業として選ばれた民は。

主は天から見渡し

人の子らをひとりひとりご覧になり

御座を置かれた所から

地に住むすべての人に目を留められる。

人の心をすべて造られた主は

彼らの業をことごとく見分けられる。

詩篇33:12~15

 

日本がキリスト教国であればどれほど良いか、と考えてしまいます。隣国の韓国が仏教と儒教の国であったのに、今ではキリスト教国となっていることがうらやましく感じます。日本の首相も大臣も国会議員も知事もことごとくクリスチャンであれば良いと思います。もし、日本人が皆クリスチャンになるとすれば、全国民が天国へ行ける可能性が出てきます。これは、すごいことで、イスラエルの神の民のようになるということです。天の神様は、その御座からでも地に住む者すべてを見ることができます。その心に真実があるのか嘘があるのか、見分けることがおできになるので、不正を働いている人の嘘の言葉も通用しません。逆に、正しいことをしているのに、虚偽で訴えられ陥れられるようなことがあっても、何が真実かを神様はご存知なので、後で正しい裁きがなされることになります。それにしても、日本人の1%にも満たない数のクリスチャンしかいないことに驚きます。日本人は優秀で性格も穏やかで真面目な人が多いのに、なぜ真の神様を信じないのか不思議でならないのです。フランシスコ・ザビエルが日本に宣教に訪れ、キリスト教伝道が始まりましたが、その時の様子と比べると、天地の差があります。地方の大名にクリスチャンが多くいました。その家族はもちろん、その家来衆たちも皆クリスチャンになりました。日本人伝道を成功させるために、神学校も作りました。日本人の聖職者を養成することが重要と考えたからです。大名の子弟や家来の子弟で優秀な子供が選ばれました。イエズス会は、信仰の対象として聖母子像を拝ませていたのです。ですから日本でも同じようにしようとしたのです。しかし、西洋から優れた絵を運んでくることは容易ではありませんでした。そのため、神学校に美術の時間を設け、日本人に聖母子像を描く技術を教えました。まだ、西洋絵画を知らなかった時代に、キリスト教信仰を広めるための道具としてキリスト教美術がいち早く入ってきたのです。実際、この聖母子像を描いた絵画は、広められ信仰対象になっていったのです。それは、日本人の信仰感に合っていたのです。今日、偶像を拝んではいけない、という戒めのために、プロテスタントの教会に行っても、聖母子像はありません。ただ、カトリック教会にあるのみです。拝む対象が何もないとなると、その宗教はかなり高度な宗教であることになります。ですから、余計に伝道が進展しないのかもしれません。ただ、クリスチャンがキリストの似姿となって、愛の模範を示せば、大きな伝道の力となるでしょう。これが、聖書に書かれた方法であり、プロテスタント教会のやり方なのです。