2022年3月ディボーション

3月1日(火)

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

春の兆しが見え始めると太陽の日差しが暖かになってきます。そうすると外に出て散歩でもしようかという気になります。田舎道を青空を見上げて気分よく歩いて行くと、今日の聖句が浮かんできます。「へりくだって神と共に歩むこと」。なんと、私たちは神と共に歩めるのです。イメージしてみてください。神と共に歩んでいく自分の姿を。ここで、興味深いのは、「へりくだって」と書かれていることです。つまり、神と共に歩むには、へりくだらなければならないということです。それで、クリスチャンは上手に神様が高慢や貪欲を砕いてくださるのです。くだくというぐらいですから、痛みを伴うのです。それでも、私という強烈な自我が砕かれないと、孤立して孤独を感じるようになるのです。それは、自己の明け渡しができないで、自分の考えにこうだわっている人の行き着く先です。この人の困ることは、自分の考えを人に押し付けてしまうことです。しかも、自分がそのようなことをしているとは思っていないのです。パウロも相当強烈な個性を持っていましたが、キリストの出会いで砕かれてしまいました。ただ、本来持っていた意志の強さは、異邦人伝道つまり世界伝道を進める上では必要な武器でした。そして、ユダヤ人からの激しい迫害に耐え、決して諦めないで伝道したために、世界に福音は届いていったのです。パウロは、自分の弱さに中に神が働かれることに気がつきました。これが、新しい人に生きる秘訣だったのです。以前は、強さが大切だと思っていたのですが、そうではなかったのです。私たちは、聖句に神の力があることを知っています。ですから、今日の聖句の通りにできるように祈ると良いのです。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」が、主イエス・キリストによって、私の上に成就しますように。

 

3月2日(水)

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

詩篇103:11

 

可能思考を声高に叫ばなければならないほど、信仰の意味がぼやけているようです。信仰は、単純に信じることです。それが目に見えない神様であっても信じることが肝心です。信じる力は、実際にこの世界に作用して、時には奇跡を生み出します。聖書の登場人物は、そのことを実践してみせた人たちです。彼らは、可能思考とか積極思考とか聞いたこともありません。しかし、なんでも疑る現代では、あえて言う必要があるのです。こうした可能思考は牧師が気がついて人々に教えたのです。それは、信仰者がこの世の人と同じような問題を相談にくるからです。神様を信じることを励まさなければならなくなったのです。どんな難しい問題であっても、神様にとっては簡単です。そんなこと言われなくても知っていると思われますか?ところが、自分の番になると途端に信じることで解決しようとは思えなくなるのです。信じて解決できなければどうするのか、と思い煩うからです。私は、自分の信仰生活を振り返ってみても、確信して言えるのは、クリスチャンは到底使い切れないほどの恵みをすでにいただいていると言うことです。例えば、大富豪が子供に莫大な財産を残そうとする時に、まずすることは弁護士を呼んで遺産相続の法的手続きをするのです。そして、全財産を譲り受けたとして、そのお金は手渡されるわけではありません。自分名義の銀行に振り込まれます。ですから、そこから引き出して使えばいいだけです。ところが、自分の手元にお金を渡されると思っていたのに、実際には銀行に預けられていると、何ももらっていない気がするのです。銀行に行ってお金を引き出せばいいだけなのに、そんなことできるはずがない、銀行に行っても恥をかくだけだ、そんな簡単なことでお金がもらえるはずがない、と疑り深くなるとお金が自分のふところに入ってきません。まずは銀行に行って聞けばいいのに、ただお金が無いと嘆いている人がいたら、おかしいですよね。クリスチャンも、同じように神様からすでにお恵みをいただいています。しかし、引き出す方法は「信じること」なのです。今日の聖句を読めばわかりますよね。あまりにも大きな恵みなのです。ですから、信じることに集中してみましょう。

 

3月3日(木)

それゆえ、主は恵みを与えようとして

あなたたちを待ち

それゆえ、主は憐れみを与えようとして

立ち上がられる。

まことに、主は正義の神。

なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

イザヤ30:18

 

今日の聖句を読んで、あなたはどう思っただろうか。「恵み」とは何か?などと急に哲学者になる必要はない。自分の信じている神がどれほど素晴らしいか、私たちは知る必要がある。そして、聖書を調べると驚くだろう。「神は愛なり」と叫ぶことになる。それは想像していた以上に圧倒的に神は私たちを愛しておられるからだ。まさに熱情の神だ。激しく深く愛してくださるからこそ、人間が裏切ると失望落胆も大きいだろう。私たちなら、すぐにでも絶交しているはずだ。それなのに、予想を裏切って、神はまだ私たちを愛し続け、罪をご自分を犠牲にして赦そうとされるのだ。どうして、御子を十字架につけてまで罪人を救おうとするのか考えたことがあるだろうか。これは、ちゃんと自分で聖書を調べて考える必要がある。わからなければ、祈ればいい。最高の教師がすでにあなたの内に住んでいるから。まず、今日の聖句から考えてみたらどうだろう。恵みをあなたにあげようと待っていてくれる神を想像できるだろうか。あなたが、恵みを受け取らないで、それどころか恵みに気づきもしないで、この世の常識にしばられているなら、主は待ち切れなくなって、立ち上がるのだ。あなたが信仰を持って生きているから。そんなあなたを悪魔は敵とみなして誘惑し、困らせるよう攻撃してくるので、あなたはだんだん神の恵みを疑うようになり、現実の生活に神の恵みが見出せなくなっているのではないだろうか。神はあなたに恵みを与えたくてしょうがないのだ。だから、感謝して受け取ろう。そして、悪魔に思い知らせよう。私たちは神の恵みをいつでも十分いただいていると。だから、私たちは困ることはない。あなたが主を信じて待ち望む人であることを自覚しよう。それだけがあなたの責任だ。あなたは、主を信じているので幸福に生きていける。主を讃美しよう。

 

3月4日(金)

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩篇138:8

 

今日の詩篇は、あなたに当てはまります。まだピント来なければ、あなたの人生を大きく変えることが可能です。もう一度、聖句を読んでみましょう。私たちは、クリスチャンになって人生を一変させたのです。何しろ、色々起こる人生の出来事がことごとく、煩わしく困難に満ちていても、私に関わる全ての事を、主が成し遂げてくださるのです。全ての事をですよ。これはすごくないですか。ああ、これが主の恵みかと思ったなら、この恵みは永遠に続くことを今日の聖句から確認してください。これほどの恵みを受けているのに、受け損なって、主の手を払い退けて、自分でやろうとして苦労てきたのではないですか。主の恵みを受けて喜んでいる自分を想像してみましょう。人生に起こる、全ての面倒なことも、大変なことも、不安になって心配するようなことも、自分には到底できないのではないかと思えることも、とにかく全部、主が成し遂げてくださるのです。私が努力したからだ、と思うことも全て主が働いてくださっていたのです。それが体験的にわかってくると、人から見ると楽観主義者のように見えるかもしれません。事実、主を信じているので楽観的に物事をみているのです。それで困ることはありませんでした。主にゆだねればゆだねるほど主の恵みを知りました。あまりにも主の恵みが大きいので、この詩篇記者も「あなたの御手のわざを捨てないでください」と思わず書いたのでしょう。主の恵みは、自分にちょうど良いので負担にはなりません。平安のうちに穏やかに暮らせることが一番だからです。ですから、今の生活を感謝してみましょう。若い方は、これから活躍する力があるので、小さく制限することなく、主に幻を見せていただくことです。願いを起こしていただくのです。主からのものであれば、それは実現します。年配の方は、主の恵みを十分に味わってください。毎日、主へ感謝する生活を送ることができます。平凡な生活の中にこそ、主の恵みがあるのです。主を喜ぶことは力です。

 

3月5日(土)

憐れんでください

神よ、わたしを憐れんでください。

わたしの魂はあなたを避けどころとし

災いの過ぎ去るまで

あなたの翼の陰を避けどころとします。

いと高き神を呼びます

わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。

天から遣わしてください

神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。

詩篇57:2~4

 

ウクライナにロシア軍が侵攻し、多くの犠牲が出ています。これは、歴史的事件です。千年前にロシアにキリスト教が入ったのがウクライナの首都キエフです。その美しい街が攻撃されています。これは、もはや霊の戦いです。背後に働く悪魔軍を神の軍勢が打ち破ってくださるように祈ります。今も、世界中のクリスチャンが祈っているはずです。そして、何よりもウクライナのクリスチャンが祈っているのです。今日の詩篇は、まさに彼らの祈りとなります。世界の歴史には同じようなことが無数に起こりました。戦争はやってはいけないのです。平和がどんなに大切なことか、多くの人が理解すべきです。何もしないで平和が続くことはありません。クリスチャンでも、好きな国と嫌いな国があって、民族によってはその文化を受け入れないと思うのです。旧約聖書を読めば、イスラエルも戦争をし、異邦人を忌み嫌い、偶像教徒は敵でした。私たちは、今の世界で、戦争を望みません。それでも、侵略してくる敵がいれば、今の生活は全て失われるでしょう。家族の誰かは死ぬでしょう。その時、この詩篇の祈りがわかります。神を避けどころとすることで、災いが過ぎるのを待つのだろう。しかし、祈り手はそれだけを祈っているのではありません。このような最悪の状況で何を祈ればいいのでしょう。「天から遣わしてください」と頼んでいます。万軍の天使でしょうか。そうではありません。「慈しみとまことを天から遣わしてください」と祈っています。これは、神様の顕現のことです。なぜなら、慈しみとまことは神様の御性質なので、間接的に神様を言い表していて、その神様が天から降って来てくださって救ってくださることを求めているのです。本当に、今、世界はおかしくなっていますから、神様にひざをかがめて悔い改める時なのです。その初めの祈りの言葉が、「憐れんでください」という悔いた心の声なのです。世界にリバイバルが起こりますように。多くの人たちが救われますように。

 

 3月6日(日)

わたしは主をたたえます。

主はわたしの思いを励まし

わたしの心を夜ごとに諭してくださいます。

わたしは絶えず主に相対しています。

主は右にいまし

わたしは揺らぐことがありません。

わたしの心は喜び、魂は踊ります。

からだは安心して憩います。

詩篇16:7~9

 

なぜ、神様を信仰するように勧めるかといえば、不確かなこの世人生で、確かな恵みの生き方が与えられるからです。神様を讃美することは楽しいことです。この世から神の国へ入っていくような経験です。私たちの神様は、天でじっとしているような神様ではありません。あなたのことを気にかけ、思いを励ましてくださる神様です。一日が終わり、夜になるとその日の出来事が心の負担になっていることがあります。あるいは、自分のおかした失敗や、間違いも、気づけなかった諸々がそもまま残ると、心の負担になるのです。そこで、主は私たちの心を夜毎に諭してくださいます。もっと驚くことに、私たちは、絶えず主に相対しているのです。自覚はないかもしれませんが、救われた者の特権です。主が私たちの義となっておられるので、私たちは揺らぐことがありません。この世の必要を満たし、霊的にも満たし、健康も守ってくださるので、心配がなくなります。私たちは主に祝福されているので、生活も豊かになってきます。精神的な喜びが全身を健やかにします。魂が踊り出す経験をすることができます。心配、不安から解放され、悪魔の攻撃からも守られます。ですから、真の平安を得ることができ、安心して安息をいただくのです。これが、クリスチャンのあなたに起こる主を信じる喜びです。

 

3月7日(月)

激しやすい者は争いを引き起こし、怒りを遅くする者はいさかいを静める。

箴言15:18

 

人が心を痛めるのは、自分がしでかしたことを後で後悔することです。聖書に出てくるその典型が「激しやすい」という言葉で出てきます。すぐに怒ってしまうと、後でどんなに言い訳をしても虚しいものです。激しやすいことで失敗することは原因と結果です。ですから、これをなんとかしなければなりません。詩篇には、「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」(37:8)と、あります。生まれつきだからこれはどうしようもない、と言いたくなるでしょうが、自分の近くにいる人を傷つけてしまうので、そのような無責任な言い訳は通用しません。まずは、神様に祈ることが始まりです。クリスチャンが聖化されることを知っていると思いますが、「激しやすい人はいさかいを引き起こす」では、話になりません。ただし、主の弟子たちも相当激しやすい人たちがいたので、希望があります。では、どうしたらいいでしょうか。新共同訳では、下句が「忍耐深い人はいさかいを鎮める」と書かれています。ですから、怒りを遅くすには、忍耐深い人になることが大切なのです。信仰は助けになります。自分はこれが正しいとこだわらないことです。悪人にも、サタンにも、自分が正しいという理屈があります。ですから、そこが重要なのではありません。正しいのは神様だけです。ですから、人それぞれであって、その人になってみないと本当のところはわからないのです。それなのに、私たちを怒らせる、キーワードのようなものはあるものです。それでスイッチが入ると、怒りを抑えることができなくなるのです。激する人を周りの人は、呆れて見ています。私たちに期待されていることは、争いを鎮めることで、争いを引き起こすことではないのです。聖霊の助けを得て、「怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい」(コロサイ3:8)。歳をとると怒りやすくなるので、日頃から、祈りの課題ですね。穏やかで楽しい日々を過ごしましょう。

 

3月8日(火)

主よ、あなたはご覧になっています。沈黙なさらないでください。わたしの主よ、遠く離れないでください。わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし起き上がり、わたしのために裁きに臨み、わたしに代わって争ってください。主よ、わたしの神よ、あなたの正しさによって裁いてください。敵が喜んで「うまく行った」と心の中で言いませんように。「ひと呑みにした」と言いませんように。苦難の中にいるわたしを嘲笑う者が、共に恥と嘲りを受け、わたしに対して尊大にふるまう者が、恥と辱めを衣としますように。

詩篇35:22~26

 

戦争が良いことでないことは子供でも知っています。そして、過去にたくさんnの戦争があり、それがどれほどの悲劇を生んだか学校でも学び、ことあるごとに戦争の悲劇を聞いてきたのです。ですから、今更愚かな戦争を起こすなど思っても見ませんでした。しかし、ウクライナにロシアが侵攻し、連日、市民が攻撃されているニュースを見せられているのです。さて、聖書には戦争の話しが出てきます。そして、イスラエルの民が犠牲になったこともしばしばでした。今日の詩篇35篇は、まさにウクライナの市民の祈りのように聞こえます。なぜ、神様は黙っているのですか、「わたしのために裁きに臨み、わたしに代わって争ってください」と祈るのです。私たちも祈ります。この理不尽な侵略をやめさせてください、と。民主主義では自分の考え意見を反対する者が現れます。そこで、話し合えば良い多くの人が納得する結論を導き出せます。その代わり、妥協しなければなりません。アメリカで感心したのは、理事会です。それぞれがちゃんと自分の意見を主張し、激しく対立することもあるのですが、決をとって結論が出ると、すぐにそれに従うのです。反対していた人も文句を言わないのです。日本は、そうはいきません。それほど簡単には割り切れないでしょう。後々まで影で言い続けたり、裏工作をして反対を通そうとしたりもすることがあるのです。民主主義がまだまだ根付いていないと思うことがあります。民主主義ではない、独裁者の国で自分達は民主主義を守っていると言われると、意味がわからなくなります。国民の命を大切に思わない考え、人権を守る意識が希薄な指導者は、人間以上の何が第一に大事だと思っているのでしょうか。古代の新バビロニア帝国のネブカデネザル「王はバビロンの王宮の屋上を散歩しながら、こう言った。『なんとバビロンは偉大ではないか。ここそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ。』まだ言い終わらなぬうちに、天から声が響いた。「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されるて、野の獣と共に住み、牛のように草を食らい、七つの時を過ごすのだ。そうしてお前はついに、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神は御旨のままにそれをだれにでも与えるのだということを悟るであろう。」(ダニエル4:25~29)すべてこの言葉の通りに成就しました。人間の高慢は、自分を神の如く思ってしまうことです。そうでなければ、他国や都市を攻撃することなどできません。一人の人間に権力や支配が集中すれば、どこでも同じような悲劇が起きるのが歴史が教えていることです。第三次世界大戦が起これば、この世は終わりに向かうでしょう。再臨は確実に近づいているのですね。

 

3月9日(水)

わたしは見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。「敵を恐れるな、偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のために戦え。」

ネヘミヤ4:8

 

バビロンに攻められて陥落したエルサレムの神殿を復興することを許され、捕囚先のバビロンから戻ったネヘミヤ達に待っていたのは、神殿復興の困難だけではありませんでした。敵が待ち構えていて、城壁建築の妨害を企んだのです。そして、捕囚を免れて残ったユダの民も敵の脅迫に怯んで弱腰になりました。敵が工事する者たちを殺して工事をやめさせようとしていたのです。そうした危機を迎えて、ネヘミヤは今日の聖句にある言葉で貴族や役人、そして戦闘員たちを鼓舞したのです。彼らは、武器を持って工事を続行しました。こうして、この危機を無事に乗り越えたのです。戦争は、相手に脅威を感じたり、恐れ始めると、理性を失ったようになって、その脅威を取り除けようとして始まります。今日の聖句を読むと、「敵を恐れるな、偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のために戦え。」という言葉が心に残ります。ユダの民が結局勝利するのには理由があって、それは主の御名を唱えていたことが理由だったのです。「敵を恐れるな」。これは、士気を高めていれば負けないからです。「兄弟のために戦え」。これは、家族、祖国のために戦えということです。これらは、どのような国でも戦争の時に必ず聞く言葉です。しかし「主の御名を唱え」は、特殊です。まさに聖戦です。主がネヘミヤたちと共に戦うということです。主を信じる者たちは、このようにして戦うのですね。私たちは幸い平和な国にいますが、日々の生活や仕事で戦い、あるいは困難と日々闘っています。それらに勝利する力も私たちの主の御名によるのです。信仰の旅路を守る力は、主の御名から来るからです。主を信じる者には勝利が与えられます。そのことを心に覚えていましょう。

 

3月10日(木)

あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。

マタイ21:22

 

まだクリスチャンになる前に、祈りを教えてもらって、夜に試しに祈ってみました。そうしたら、次の日に祈ったことが全てかなえられたのです。それで、神様は本当にいるんだと思いました。その時の驚きは、喜びに変わり、それから信仰の扉が開いたのです。信仰生活では、祈りについて教えられることが多くありました。今日の聖句も、その一つです。これほどの約束があるのですから、クリスチャンがいかに祝福されているかわかります。ところが、肝心のクリスチャンが何を求めている、まったくかわかっていないことがしばしばあるのです。天の父は、子供が危険なものや益とならないもの、およそ罪と関わるようなものを求めても与えるわけにいかないのです。しかし、その逆に、必要なもの、神様が与えたいもの、求めて欲しいものを求めない、ということもあるのです。すると、祈ること自体が自分の信仰を育てて、正しい考え方を身につけ、神様の御心を実現する霊的体験となっているのです。また、祈りは、神様と直接交わる時でもあるのですから、神様へ心を注ぐことも大切です。さらに、何が基準となっているか知ることができれば、間違った祈りをすることも無くなります。そのために有用なことが聖書をよく読むことです。つまり、聖書が基準になるように、身につけることです。そのためには、ゆっくりと聖書に書かれた意味を考えてみることが大切です。実は、これらはクリスチャンならよく知っていることなのです。そして、難しくありません。そうすると、今日の聖句がクリスチャンのものになっているはずです。もし、そうなっていないのなら、難しく考えすぎているかもしれません。なぜなら、まだバプテスマも受けていなかった私が、初めて祈った時にすべて祈り求めたことが与えられたからです。初心者の祈りが聞かれるのは、聖書に約束があるからです。何も知らないので単純に信じて祈ったからでしょう。この特権を信仰生活に生かして祈ってみましょう。

 

3月11日(金)

こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

ローマ5;21

 

罪が分からないという人は、律法を守ればよいのです。ロマ書には、「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました」(20節)とあります。それは、律法という明確なものが守れないことを体験して理解すると守れない理由が罪によると納得できるからです。「罪が支払う報酬は死です」(6:23)と聖書に書かれているので、罪と死はセットで人を支配しているのです。罪と死によって支配され、だれも逃れられなかったのです。ところが、主イエス・キリストを信じた者を救ってくださったのです。それは、キリストによる恵みによる支配にとって代わることなのです。では、恵みによる支配とはどのようなことでしょう。それは、罪人の罪を赦し、清め、聖霊を遣わし、新しい命に生かし、その人を義と認め、それによって永遠の命を与えることです。私たちは、この世の人と同じように見えるので、信仰によって自覚しないければなりません。そして、信仰生活もキリストによるのです。私たちは、永遠の命に生きることができるように、キリストを通して導かれているのです。ですから、未だ罪と死に支配されているわけにはいかないのです。私たちは、主イエス・キリストを信じています。ですから、義人に変えられていきます。それは、もっぱら神様にしかできないことなので、人間的な努力とは違って、信仰によるのです。その信仰の源が恵みなのです。罪に代わるものが恵みなのですから、恵みによって生きることを覚えましょう。

 

3月12日(土)

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたかたが、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちにめぐみんでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

ローマ8:31~34

 

クリスチャンになるとどのような特権があるかといえば、今日の聖句を読めば明らかです。この世には、悪魔が支配者だと息巻いて日夜働いています。彼らの敵は神であり、天の軍勢です。そしてこの世にいるクリスチャンも敵として認識されているのです。悪魔との戦いは好むと好まざるとに限らず、一方的に悪魔の敵として攻撃対象になっています。それでも、恐れてはならないのは、神が味方だからです。聖書の見解は明瞭です。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」。つまり、だれも私たちに敵対できないのです。では、悪魔はどうしているでしょう。何とか、信仰から脱落するように働きかけ、少しのミスも見逃さないで昼も夜も神に私たちを訴えているのです。でも、私たちには神が味方しているのですから心配は入りません。クリスチャンのもう一つのよく理解されていない点は、私たちは不足することがないということです。必要なものは何でも神が与えてくださいます。御子をさえ与えてくださったのですから、驚くほどの神の厚意を得ているのです。それなので、生活の心配はしなくても大丈夫なのです。私たちは完全とは言い難いものですが、それでも、信仰を守って生き続けています。私たちの信じている主イエス・キリストは、天で今も私たちのために執り成してくださっています。ですから、希望を持って明るく生きることができます。私たちが信仰を表すなら、ますます恵みが私たちを取り巻きます。自分の足りなさや問題のあるところを主によって癒し、造り変え、聖霊の器として清めて聖なる者にしていただけるように願いましょう。何しろ、天国で永遠に生きるのですから、それにふさわしく新しく造り変えていただきたいですね。

 

3月13日(日)

しかし、主に結び付く者は主と一つの霊になるのです。

Ⅰコリント6:17

 

キリスト教の凄さは、信仰を持った者が神の恵みで神の子となることです。自分の功績で救われたわけではないのと同様に、何か良いことをしたからというのではなく、ただ神の恵みで神の子とされるのです。ですから、クリスチャンは自分が何かしたからではなく、神様の神の子とするという招きに応えただけで神の子となったのです。そのために、実感がなく、悪魔のウソにつきあって、否定的なセルフイメージを未だに負っているかもしれません。そのような人は、自分で神の子にならないようにしているのです。ただの惨めな罪人がクリスチャンになって、そんな自分だから相変わらず、神の子には到底なれないと信じているのです。私たちが神の子であることは御言葉で確かめることができます。そして、さらに良いことは、実感も伴ってくる方法です。それが今日の聖句です。主と結び付く者とはだれでしょう。キリストを信じてクリスチャンになった人のことです。つまり、あなたのことです。あなたは、主を信じますと何度も言ってきました。ですから、あなたは主に結び付く者は私だと宣言するのです。心から信じられるまで何度でも言い続けましょう。そして、心に信じるのです、私は主に結び付く者なので、主と一つの霊になる、と。そして神の子が恵まれているという意味をあなた自身で味わってください。自分に足りないところがあっても、キリストと一つの霊になっているのですから、完全で全てに満たされているのです。一つの霊になれれば、神の愛、キリストの恵み、聖霊の交わりがわかるようになります。神様の御心を知り、豊かな人生を選ぶこともできるのです。その特権を手にしていることを覚えてください。

 

3月14日(月)

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

Ⅰコリント2:14

 

初代教会の時代から、キリスト教は神の定めた通りのやり方で伝道が続いてきました。クリスチャンは、聖書に書かれた通りに「神からの霊を受けました」(12節)。そして、「”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」(10節)。「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(11節)。その霊が、クリスチャンの内に与えられているのです。ですから、これ以上の神を知る方法は無いのです。ところが、現代人は、そもそも霊などないし、霊の世界もないと決めたのです。あるのは天と地だけとしたのです。そのために、教会もその影響が入り込み、聖霊と語りはしますが、聖書の通りには理解しないようになりました。確かに神学もありますが、それはもっぱら人間の知恵であり、人間の知識となっています。ですから、聖霊のバプテスマを受けて聖霊の賜物が現れ、異言や預言を語ると言えば、すぐさま危険だ、何の霊の力によるのか、と全否定してしまうのです。それは、聖霊のバプテスマを受けた霊の人でなく、自然の人(生まれたままの人)だからです。今日の聖句に書かれた通りになっています。このような有様でいいわけはありませんが、現実はこのような状態なのです。それは、社会全体の問題でもあります。それでも、聖霊の話を聞いても不快に思わず、自分も聖霊のバプテスマを受けたいと願う人がいます。それは、天の父の御心にかなった願いなので成就します。ただ、信仰によって受け取ることなので、聖霊が降ってきても気がつかない人もいるぐらいで、まずは信じることから訓練する必要があるかもしれません。このように、現代では霊の人を目指すことすら困難になってきましたが、それでもよく信じることができるように祈り続けるべきです。祈りを通して、聖霊充満に近づくのです。聖書をよく読む人たちは、さらに聖霊の助けを祈り求め、キリストの語られた御言葉が霊であり命であることを知ることができれば素晴らしいですね。

 

3月15日(火)

お前は私が定めたことを否定し

自分を無罪とするために

わたしを有罪とさえするのか。

ヨブ記40:8

 

私たちには自己防衛本能があります。それで、ピンチに陥れば思わず自分を守ためにウソをつくこともあるのです。自分が犯した過ちを他人のせいにしたりすることだってあり得るのです。自分は悪くない、と言い続けているのが人間なのです。そうなることを潔しとしないと心身を鍛えて自分の過ちや負い目を認められるようにと考えてきた人もいました。そのような人は人格者として認められました。しかし、世界を見回すと日本人のように列にちゃんと並ばないで割り込む人たちばかりいる外国の様子を知ると、複雑な感情になるのです。このようなことを知っている私たちが、今日の聖句を読むと考えさせられます。いったい、自分は誰に向かって無罪だと言い続けているのだろうと。自分の人生に起こることが神様の定めたことであれば、それは否定できないはずなのに、否定してしまう自分がいます。ゲッセマネの園で、イエス様は祈って言われました。「父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と。これは、私たちの祈りと同じです。私たちは、苦しめば、苦しみを取り除けてください、と祈るからです。しかし、主はそこからが違っていました。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(同上)と祈ったのです。ここがヨブと違っていたところです。ヨブの問題は、自分を無罪とするために神様を有罪としてしまうことでした。自分は何も悪くない、神様が悪いんだ、という理屈です。私たちは、神様のように見ることができません。ですから、しばしば、「なぜ?」の答えを見つけることができないのです。でも、イエス様の信仰を分けて与えられているので、主と同じように「私の願い通りではなく、御心のままに」と祈れるのです。人からどう思われるかと気にするような人生とは、クリスチャンになって主の十字架につけられた時から解放されているのです。それは、私たちと主はいつも一緒にいてくださる、という言い方が正しいのなら、その逆もまた正しいはずです。つまり、私たちはいつも主と一緒にいることができるのです。その主に責任を転嫁して有罪とすることなどできないのです。ですから、私たちは主の定めに従うし、自分の無罪を主張するのではなく、主の御心を信頼して信仰で生きているのです。これこそ主に従う生き方です。

 

3月16日(水)

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

ローマ12:2

 

クリスチャンは、今日の聖句をよく読んでよく考えて自分の人生に実践すべきです。そうしないクリスチャンは洗礼を受ける前とあまり変わらないまま進みます。まず、「この世に倣ってはなりません」。この世の常識で話したり考えたりする人がいますが、これは時に危険です。私たちは、人間がすべて罪人であることを認めました。ですから、この世に倣うということは、罪人に倣うということと同じ意味になるので危険なのです。教会で兄弟同士で揉めているときは、たいていがこのよい例なのです。ですから、まず、この世の人と同じような考え方で生きていくことはしないのです。この世はヨハネによれば、暗闇だというのですから、何が神様の御心であるかどうか見分けられないのです。光がなければ見えません。その光こそが、主イエスなのです。ですから、信仰を持って生きる人は、主の光に照らして「何が神の御心であるか」を見極めるのです。こういうと、何か難しく感じるでしょうが、実はそれほど難しくはありません。というのも、「心を新たにして自分を変えていただき」と聖書に書いてあるからです。この心が世俗にまみれて罪人の考えに染まっていたのですが、それを信仰を持って心を新たにして、主に自分を変えていただくのです。よく分からない方は、ダビデが詩篇51:12で、こう言っていることから考えてみてください。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」。清い心も神様に創造してもらわなければならないのです。それは、新しく聖霊を授けていただくためです。この聖霊があなたを変えてくださるのです。罪人は悪魔の影響を受けていますので、考え方がとても悪いのです。自分を責める癖がついていますし、セルフイメージを低くされているので、人間関係ですぐに疲れてしまいます。かといって一人でいることは孤独になりますから、誰かと話したいと思うのに、緊張で疲れさせると知っているので、どうしていいか分からなくなります。この悪魔が人間を奴隷化するために考え出した悪の力をキリストに一掃していただき、完全に悪魔から解放していただく必要があります。否定的な考えが得意な自分にこだわって生きてきましたが、それが人生を苦しいものにしてきた原因です。そこから解放されることは主の御心です。ですから、自分で祈る必要があります。そして、御心にかなうことは祈りがきかれるので、心配ありません。ただ、主に助けていただき、新しく心を創造していただいても、その後の生活や生き方、考え方を変えなければ元に戻ります。それが、今日の聖句の後半に書かれているのです。教会の人が言うからではなく、聖霊に聞きながら、考え方を一新するのです。ちょっと例えでイメージしてみましょう。古くて汚いお店がリニューアルオープンして、とてもきれいになり前のお店を思い出せないくらい新しく変わっているとこれはもう別のお店で、まったく新しいお店だと思うでしょう。それと同じように、クリスチャンは変わることができるのです。

 

3月17日(木)

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

マタイ24:35

 

クリスチャンの信仰の指針は聖書にあります。聖書は、多くの人が考えているよりもはるかに重要です。ですから、ことあるごとに聖書を開いて調べましょう。それは、今日の御言葉のように「わたしの言葉は決して滅びない」と主が言われたからです。つまり、聖書に書かれたことはすべて成就するということですし、約束があればそれは必ず守られるということです。そこで、ある人は神様の祝福の約束を調べて数えました。また、祈りが聞かれるためには聖書に何と書いてあるか調べてみたのです。聖霊のバプテスマの真実を知りたいと思った人は、聖書を調べました。その結果は、多くの祝福を手に入れたのです。また、必ず祈りが聞かれる秘密を知りました。そして、聖霊のバプテスマを受けることができたのです。善悪の大争闘が繰り広げられいるのなら、悪魔はどうして聖書を攻撃しないのだろうと不思議に思う人もいるでしょう。悪魔は当然、聖書を攻撃してきました。しかし、聖書に神様の御言葉が書かれているのですから、滅ぼすことができないのです。聖書を日本語で好きな時に読めるということは奇跡であり、特権なのです。ですから、何度も読んでいくと、気づきがあります。今まで読んだところに書かれていたのに気づかなかったことがある日、突然目に飛び込んでくるのです。それが、自分の使命かもしれません。私は、「聖霊」でした。何度も読んでいたはずなのに、気づかなかったのです。こんなにもたくさん「聖霊」という言葉が書かれていたのかと驚きました。それは、「聖霊」と書かれた文字が聖書から次々と浮かび上がってきたように見えたのです。人間の傲慢さか悪魔の働きか、その両方かもしれませんが、自分たちの教理に合うように聖書を改竄しようとして、実行した人たちは今も昔もいました。それでも、神様は「わたしの言葉は決して滅びない」とお語りになったのですから、聖書を変えることはできず、これからも守られていくでしょう。このような、神様の御言葉を聖書として持っていることに感謝して、あちらこちらと調べてみましょう。きっと、大きな発見をすることができると思います。

 

3月18日(金)

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

マルコ11:2(新改訳)

 

これほどワクワクする聖書の約束はありません。すごいことです。クリスチャンはもう欠乏することはありません。この祈りの力を使っている人も実際にいます。ポイントは、信じることです。人間は何かを信じています。例えば、私は〇〇だと信じています。ですから、〇〇のところに良い言葉を入れなければなりません。もちろん二文字でなくてかまいません。肯定的な自分が望む姿を言葉かイメージでもいいので、よく考えて、決まったら今度は信じるのです。私の祈りは聞かれないと言う人は、たいてい、祈りの言葉と自分の頭で考えたりイメージしていることが正反対であることがよくあります。例えば、「病気を癒してください」と祈りながら、心の中では「きっと癒されない」と、思っていたりするのです。最近の若い人は、昔の日本人と違って、オリンピックでも楽しんできます!とか、金メダルと取ります、とはっきり言葉にしています。これも、肯定的に考えることが良い結果をもたらすと教えられているからでしょう。信じるためには、言葉で肯定的にはっきり言う、決して否定的な言葉を使わない、態度も言葉通り堂々とする、すでに言ったことが実現したように振る舞う。このように、色々試みて、否定的になりやすい習慣を強制的に肯定的な思考へと変える訓練をするのです。クリスチャンでも禁欲主義者にならなくて良いのですから、普通に良いことをいつも話し、他人のことも悪く言わずに、良く言う訓練をします。世の中には悪い人も確かにいますが、犯罪者は別として、自分にひどいことをした人でも赦してあげなさい、と主は教えています。それは大きなテーマなので、別の時に考えてみましょう。とにかく、良い考えが普通にできるまで、訓練してください。気を抜かないで身につくまで実践してください。そうしないと、今日の聖句が自分にはあてはならないとがっかりしてしまうからです。口先だけの祈りは奇跡を生みません。この祈りが必要となる時がきっと来ます。その時に、信じると言うことは、肯定的に考えるということと一致している必要があります。信仰で恵みを受け取るのですから、すぐにでも肯定的な心になるよう訓練あるのみです。

 

3月19日(土)

信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行なっていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。

使徒19:18~20

 

パウロは、「しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています」(Ⅱコリント12:12)と言っています。つまり、議論や理屈で説得することでは福音を広めることはなかなか難しいということです。しかし、パウロたちのように、奇跡や不思議を見た人たちは、理屈抜きに信じたのです。今日の聖書箇所もエフェソでパウロの悪霊追い出しを真似したユダヤ人祭司の息子たちがサタンに逆にひどい目にあって、それが恐れを生んで人々が改心した騒ぎが起こり、魔術の本を彼ら自身が焼き捨てたという事件です。大きな書店に行けば、必ず心霊本やオカルトのコーナーがあります。私はそのような所は苦手で、知らずに近づくと霊のセンサーが働きますので、すぐに気がつき離れます。悪い霊の働きを感じるのです。さて、二千年も前にすでに魔術の本が多数売り買いされていたことに驚きます。まだ、印刷機は発明されていませんから手書き本です。それらが取引されていたのは、魔術で収入を得ていたからです。ですから、彼らはキリストに出会い、人生を一変させて収入源であった魔術を完全に捨てることを決意し実行したわけです。罪との決別です。キリストを信じる前に持っていた罪に関わるものをクリスチャンになっても捨てられないでいる人はいるでしょうが、それらを完全に処分できるように祈って捨てるなり焼くなりしたいですね。

 

3月20日(日)

心に知恵ある人は聡明な人と呼ばれる。

優しく語る唇は説得力を増す。

箴言16:21

 

あなたはどのような人と言われたら嬉しいだろうか。今日の箴言を味わってみよう。知恵は文字通りの知恵と、もう一つイエス・キリストの意味がある。クリスチャンの場合は、後者のキリストと考えてみれば良い。それは、心にキリストが生きていて、キリストの教えが身についている人のことだ。この人は、どのような人の前でも変わらず、一貫して正しいことを語ることができる。それは、自分の考えによらないから、確信を持ってぶれることがないのだ。自分の考えでないと言っても、何も考えないということではない。主の御心を求めて聖書を探求している。キリストの掟は、「互いに愛すること」なので、そのことを第一にしているので、感情的にならないように自制が働く。キリストのように愛を実現する者になろうとするので、自分の思いや考えよりもキリストの御言葉を優先するようにと決めている。でしゃばることもないし、口数にも気を使い、愚か者とならないように自分を戒めている。これらは、決して難行苦行ではないので、主を喜び、できるだけ楽しく生きる。ストレスは祈りにより解決し、さらに讃美歌を聴き、歌う。あなたは、人から聡明な人と呼ばれる。知識を振り翳したからではない。偉そうに人に教えたからでもない。謙遜なのに、人を説得させるだけの優しく語る唇があるからだ。それこそ、キリストがその人の内に生きている証となる。

 

3月21日(月)

まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。 

ルカ18:7、8

 

祈りは聞かれます。もちろん、神の御心にかなった祈りが聞かれます。聖書を読んでわかることは、祈りが大切であること、信仰の祈りは聞かれること、疑わないで信じるなら祈りはかなうことです。このように、祈りは重要で祈りての信仰を育てることにもなります。ただ、注意しなければならないのは、祈りての人の信仰が未熟だと、間違った祈りをすることがあるということです。正しくない祈りは神にきかれるはずもありません。懸命な親なら、子供が欲しがるものを何でも買い与える、ということはしません。子供の益にならないからです。子供は、何が良いもので何が悪いものか、十分に判断ができないのです。それと同じように、信仰者も時には愚かな祈りをすることがあります。それには天の父は応えることができないでしょう。祈っている人のためにならないからです。また、神様は私たちの祈りがいつかなえられると最善であるかを知っています。そのために、私たちは祈りの結果を性急に求めるのですが、神はちょうど良い時まで待たれることがあるのです。ですから、祈った者は、祈りは聞かれないと判断して、不信仰に陥ることが懸念されます。この世の罪深さをクリスチャンは嘆き、悪が広がって、悪人は富み栄えていると怒り、主に速やかなる裁きを求めるのですが、なかなか神が悪人を裁いているようには見えないのです。忍耐心がないので、性急に結論を出して、神は祈りを聞かれないと信仰を簡単に捨てる危険があるのです。主は、そのことを気にかけていたのですが、終末時代の今、私たちは忍耐強い信仰を持つに至ったでしょうか。それとも、いまだに主を信頼して待ち続けることができていないのでしょうか。主は、再臨の時に、「果たして地上に信仰を見出すだろうか」と語られました。そのようなことにならないように、私たちは、信仰によって生きる決意が必要なのです。

 

 3月22日(火)

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるものだ。」

ルカ17:20、21

 

イエスがメシアであることをファリサイ派の人たちは認めていなかった。そして、彼らは自分達の努力で神の国入ろうとしていた。ともすれば、今日のクリスチャンでもファリサイ派の人と同じように考え振る舞う人たちがいる。この人たちの延長線上には、いつ再臨があるかとさまざまな計算をして、再臨の日を探ろうとする。聖書からいろいろな終末の預言を取り出しては、この世に現れるさまざまな出来事を世の終わりの徴として説明を試みるようになる。だから、ここでのイエスのお答えは、意外なものとなった。「神の国はあなたがたの間にあるものだ」。さて、あなたはこの意味をどう考えるだろうか。すぐに思いつくのは、イエスがメシアであるということがその答えではないのか、ということだ。イエスが神であれば、神の支配が神の国なので、イスラエル人の間に今メシアがいることで、神の国はすでにあることになる。あるいは、神の国は、互いに愛し合う、愛の国であるから、キリストの掟を守って互いに愛し合うことで神の国は現れる。それは、同時に愛を阻む罪が裁かれ、罪の問題の解決がなされなければならない。そして、それこそ、メシアが来られた理由でもあった。また、ペンテコステの日以来、聖霊がイエスを信じる人の上に降ってくるようになった。そして、聖霊は信じる人の内に住んでくださる。だから、パウロは、信仰者は神の宮となったことを覚えるように諭した。この神の宮こそ、神の住まいであるから神の国なのである。事実、別の訳では、「神の国はあなたがたのまんなかにある」と書かれている。いずれ、私たちは主の再臨を迎え、死んでいれば復活して天に引き上げられ、新エルサレムに入ることが黙示録に描かれている(21:9以降)。神の国と書かれていないで、「聖なる都エルサレムが神の元を離れて、天から下ってくるのを見せた」(21:10。21:2参照)とある。ですから、やはり聖霊とクリスチャンが一つになることが重要で、それは初めは、聖霊が内住しても自分が優位にあって、聖霊を無視することができる。しかし、聖書に書かれた通りに、へりくだって、聖霊に服従するようになることが大切で、そうなれば、神の支配に服しているので、そここそが神の国と言える。聖霊は愛なので、愛に支配されている人は、神を愛し、隣人を自分を愛するように愛することができる。愛が支配している所に罪は無い。この救いの完成を私たちは目指している。

 

3月23日(水)

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信仰と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

テトス2:11~13

 

私たちは、主の恵みで救われました。私たちは罪人であっただけです。ですから、放っておけば罪人の姿が現れてきます。クリスチャンになっても、へりくだることを覚えなければ、傲慢な自分がいつでも出てくるのです。自分の思い通りにならなければ気が済まず、何か嫌なことがあれば被害者意識に満たされて、心の中で密かに復讐を妄想しているのです。これでは、罪人でしかありません。クリスチャンはどのようなものかちゃんと学ばなかったので、恵みのことを何も知らないのです。まず勘違いしているのは、自分が不信仰を捨てなければならないことです。自分に都合の良い時だけ、神様に感謝する人は気がつくべきです。聖書を読めばわかることですが、良い時も悪い時も主への信頼は変わりません。ですから、どんな時でも主に感謝しているのがクリスチャンです。さらに、現世的欲望を捨てる必要があります。それは、罪と共に滅び去るものだからです。この世の基準で物事を見ていると悪魔の罠にかかります。クリスチャンは生きている今、神の国に入っている人たちです。ですから、自分からこの世に逆戻りする必要はありません。神の国にこの世の基準が通用するとは思えません。そこで、クリスチャンはこの世で生活する時に、信仰を守って主の御心にかなった生き方はどうすれば良いのか学んでいかなければなりません。今日の聖句は、「思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」るようにと書いてありますから、教会はそれを実行しなければなりません。ですから、何も考えずに無思慮でいいというわけにはいきません。わからなければ知恵を求めて祈り、聖書を調べて指針や原則を学ぶことも必要になります。また、聖霊に指導していただくことも祈り求める課題です。また、「正しく」と考えて生活する人は、道を間違えません。この世の人々は、その点が曖昧なのです。国会議員ですら、警察に捕まることがありますから、誰でも「正しく」と心に刻んでおかなければ失敗します。「信心深く生活する」というのは、修道院のような生活ではありません。イエス様と一緒に行動している人のようにということです。聖書に登場する人たちは、私たちと変わらない人たちが出てきます。ですから、失敗もするし、弱さもさらけ出します。それを笑うことはできますが、自分も同じなのです。それなのに、彼らは結局、神様のもとにとどまり、聖化されています。その理由が、信心深い生活なのです。つまり、超人的な努力をしたわけでもなく、特別能力が高くて秀でていたわけでもありません。もちろん、パウロのような頭の良い人もいますが、ペトロのような無学なただの人、と言われるような人もいました。でも、彼らはイエス様を愛し、何があっても主から離れなかったのです。「私に従え」と言われて、喜んで、文字通りに命懸けで従いました。そのように、主イエス様に人生をかけようとする人がクリスチャンなのです。自分の個性も主に認められています。足りなさも、弱さも、不信仰なことも全て主はご存じです。それなのに、私たちを愛して、従えと言ってくださるのですから、主を愛し、主に従わないでいられるはずがありません。その思いが信心深さなのです。私たちの希望は、主と顔と顔を合わせてお会いすることです。ですから、それは再臨なのです。主とお会いできるので、現世的希望などなんとも思わずに捨て去ったのです。

 

3月24日(木)

異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。

使徒13:48

 

今日の聖書箇所は、パウロが話すことを反対したユダヤ人に対して見切りをつけ、異邦人伝道を宣言する場面です。この箇所を読むと、「永遠の命を得るように定められている人」と出てきますから、おや、救われる人は決まっているのか、と思う人はいるでしょう。救いについては神様のお決めになることですから、人間がとやかく言えることではありません。しかし、神様が全能であることを考えると、たとえ救われる人が定められていても不思議はありません。人間的には不満があるかもしれませんが、神様は間違うことがありません。そして、人間の能力をはるかに超えているのですから誰が救われているのかと心配することはありません。もちろん、私たちは、決して運命論者ではありません。予定説、予知説と騒ぐ人たちもいますが、未だ決着をみないように、不毛な論議です。聖書から、わかっていることは天の法廷で全ての人が裁かれて、記録の書や諸々の巻物が開かれて、その人の全てが調べられるということです。しかし、重要なことは、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じているかどうかです。主がどんなにありがたい存在であるか、それを知るのが信仰生活です。その中で、主に従順になることを学びます。さまざまな試練があって、信仰が鍛錬されます。そうしてキリストの品性を身につけたクリスチャンが完成してくるのです。天の開かれた巻物の中に命の書があります。ここに名前を書かれた者が永遠の命を受けるのです。あなたは、主を信じているので、きっと新エルサレムの門にたどり着けるでしょう。

 

3月25日(金)

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなた方は知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

ヤコブ1:2~4

 

「忍耐」は誰にとってもあまり好きな言葉とは言えません。ところが、聖書を読むと、よく「忍耐」という言葉が出てきます。クリスチャンらしく考えれば、「忍耐」は特技の一つですと言わなければならないぐらいのものです。ただ、「忍耐」は苦手、できれば避けたい、と思うのではないでしょうか。ヤコブ書の説明によると、クリスチャンは試練に出会うことがある。そのような時には、この上ない喜びと思うのです。忍耐は、信仰を試すことで生じると、あなたは知っています。この仕組みは神様が人間のためにお考えになったことに違いないのです。つまり、子供や子犬を何もしつけをしなければ、言うことを聞かない、わがままな困った存在になってしまいます。それと同じように、生まれたままの人間は、罪を宿しているのでだんだんと罪に染まって行き、神様にも逆らう人になってしまうのです。しかし、クリスチャンになると、その人を神の子に作り変えらなければ天国に入れません。そこで、試練に遭うことで、主に立ち返り、祈るようになります。聖書も開き、熱心に読むようになります。試練はすぐには去りません。ですから、耐えなければなりません。そこに忍耐が生じるのですが、この忍耐から主への従順がより強くなります。そして、聖霊が祈りに応えて働かれるので、その人の内側からまるで刷新されたように新しくなります。さらに、聖霊が導くので信仰によって従うなら、聖霊の実である品性もより清くなります。聖霊に逆らって自分勝手に生きていた人が、自ら悔い改めて、聖霊に従うよう変わります。その結果、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

 

3月26日(土)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなtは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

神様がすごいのは、私たちの悩みを知っておられることです。魂の苦しみにいたっては、私たち自身も気がついていないかもしれません。それほど深いところまで主はご覧になり、私たちのことを理解し、知ろうとされているのです。それは、愛しているからです。愛すれば、愛している人のことを何でも知ろうとするでしょう。特に、その人が苦しそうにしていたり、悲しそうにしていれば、どうしたのだろうと気になりますよね。主は、あなたのことも愛しておられるので、そのように気遣ってくださるのです。その結果は、その人にとって最善な結果になります。悩みの全てを根本から解決し、苦しみの全てを癒してくださいます。その全部が、主の恵みであることを知ることになります。ですから、私たちは、主の恵みを楽しみ、喜ぶ者なのです。そのようにして生涯生きるのです。

 

3月27日(日)

わたしは心が騒ぎ

はらわたの裂ける思いがする。

わたしは愚かで知識がなく

あなたに対して獣のようにふるまっていた。

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので

常にわたしは御もとに留まることができる。

あなたは御計らいに従ってわたしを導き

のちには栄光のうちにわたしを取られるであろう。

地上であなたを愛していなければ

天で誰がわたしを助けてくれようか。

わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが

神はとこしえにわたしの心の岩

わたしに与えられた分。

詩篇73:21~26

 

不思議なことに、なぜ私が救われたのか、どうして神の恵みの中に生かされているのか、考えれば不思議になる。クリスチャンになる前の自分が、神を知らずに愚かで知識もなく、滅びへ向かって生きるしかなかったであろう。それが、主イエス・キリストを信じて救われるようにと、神が私の人生に関わってくださったのだ。何を基準に神が人を選んでいるのかは全く分からない。だから、どうして自分を選ばれたのかも知らない。しかし、洗礼を受けるようにと明確に神が働かれて救われた。それ以来、確かに神が私の右の手を取ってくださるので、神から離れることなく御もとに留まることができる。人間は勝手なことを考え、無責任に言うが、それが宗教だととんでもない間違いを犯すことになる。だから、聖書と聖霊の導きを頼りに、主イエス・キリストを知ることが大切だ。それは天の父を知ることでもある。信仰する神を知ることなしに、一体どこへ向かうのか。主を知ることは、ありがたいことに圧倒的な神の恵みを味わうことになる。そして、自分を神が愛していることを確信することになる。神の愛が、自分の中に奇跡を起こして、自分も神を愛していることに驚く。知らない方を愛することなどできないからだ。つまり、神を知ったということの証拠なのだ。律法主義者のように、人間的な考えで宗教を励んでも愛は生まれない。だから、大勢の人が言うから、大勢の人がそうしているから、などということは何の保証にもならない。でも、人に流されて行く者もいる。私たちは、たとえこの世の命がつきて、眠りにつこうが、神との繋がりが途絶えるのではない。神と共に永遠に新しい世に生きることができる。主こそ、私たちに与えられた分だから。

 

3月28日(月)

諸国の民から自由な人々が集められ

アブラハムの神の民となる。

地の盾となる人々は神のもの。

神は大いにあがめられる。 

詩篇47:10

 

自由を得るために、人類は戦ってきました。多くの犠牲が血となり、流されました。そして、聖書もまた自由と得るためにキリストが十字架にかかってくださった、と教えます。その自由は、罪からの自由です。つまり、罪の奴隷であったはずの人々が、主イエスの功績により、罪と死と悪魔から自由になったのです。彼らは、信仰により、アブラハムの神の民となります。これらの人々は、クリスチャンと呼ばれ、聖霊の恵みを知っています。ですから、聖霊に従うことができます。罪人は肉に従って罪を重ねていたのです。ただ、自由は、選択することを意味していますから、いつでも良い方、聖霊に従うことを選ぶ必要があります。このような、霊の人は神に服従し、心に律法を書き記された人たちで、神の力がこの地を治めるための地の盾となる人々です。この人々は、男も女もいます。神は大いにあがめられるのです。私たちは、いつまでも昔の面影を宿した中途半端な人であり続けることはありません。聖霊の満たしを求めて祈り、祈りの中で成長します。聖書の御言葉が次々に解き明かされて、その力を身に帯びます。むなしい議論のための知識ではなく、地の盾となるための知識を身につけるのです。この人たちの喜びは、主を賛美すること、そして、主が讃美されることが嬉しいのです。

 

3月29日(火)

こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。

あなたが横たわるとき、あなたには恐れはない。休むとき、眠りは、ここちよい。

箴言3:23、24

 

クリスチャンになると、信仰がいかに大切かと教えられます。そして、それは、真実なのです。福音書をどれか読み始めると、信仰のある者が癒しを受けて、喜んでいる場面がしばしば登場します。しかし、現代人は奇跡がまやかしでそのようなことは起こらないと信じているのです。ですから、奇跡はほとんど起こりません。それは、教会も同じです。聖書に奇跡がたくさん書いてあるのに、奇跡を信じない現代人の思考が、クリスチャンにも影響しています。それで、教会で祈っても奇跡が起こらないからとガッカリしたり、怒ったりする人もいません。このように長々と書いているのは、重要だからですが、何が、と問われれば、信じる力の意味を理解してほしいからです。信じた通りになった、となれば、信仰も上昇します。そもそも、神様は何でもできるのです。ですから、神様に願うことになります。実際に、病気や会社の倒産など、非常に変えることが難しいようなものでも、天に祈りが届けば大丈夫と信じられる人がいます。聖書に出てくる、アブラハム、紅海を二つに分けたモーセ、ダビデ、エリヤなどの預言者たち、使徒たち、目を開けて見えるようにしていただいた人など多数います。女性ではエステルや長血を患った女など多くの信仰者を見つけることができます。これらの人たちは、疑うことなく信じた人たちです。そして、クリスチャンもキリストの弟子であり、神の子なので、信じて疑わない人です。ところが、現代人は、情報社会にいて洪水のような情報に圧倒されているので、信じることがなかなかできていないのです。そこで、皆さんにチャレンジです。今日の聖句を信じて、自分のものとしてください。簡単です。でも、なかなかこのようにならないという人は、祈ることです。それでもダメなら、祈りは、自分の中の思考なので、他にも思考していないか考えてみましょう。つまり、祈っているときだけが祈りではないということです。目覚めてから寝るまでの間に、大体6万ぐらいの思考をするという研究報告をする人がいますから、一つの目安になります。では、祈りでいくつぐらいの思考をしているかと考えれば、6万の思考のうち、ほとんど問題にならないぐらい少ない数の思考になるでしょう。そこで、信じるというのは、この6万全部が同じことを信じるとなれば完璧ですが、家事もあれば、子育てや仕事もある、とそう簡単ではありません。特に問題になるのが、ネガティブ(否定的な思考)です。せっかく、今日の聖句を唱え、信じてみても、テレビで不安になるようなニュースが流れ、コメンテーターが否定的な言葉を連発するのを聞くと、だんだん影響されてしまい、ネガティブな言葉を一緒に考え、口にするわけです。このようにして、今日の聖句をことごとく否定する思考が優ってしまうと、信じていないことになるのです。ですから効果がなくて、逆にネガティブな思考をたくさんするので、嫌なこと、望まないことが自分お人生に起こってくるのです。特に、人を恐れると、恐れたことが起こってくるのですから不思議になります。少なくとも、心の中ではすでに恐れた通りに衝撃を受けています。これは、信仰の反対のことなのです。それは、聖書に書かれていることと反対のことをしているという意味です。信仰は集中が肝心です。信じるときに、ネガティブな思考が入り込まないように集中するのです。そして、自分の中に聖書に書いていないのに、信じていることがあるかないか点検することも必要です。とりあえずは、今日の聖句が自分に人生に実現するように信じましょう。信じたことを否定しないように、肯定的な思考を意識しましょう。自分にはできないとか、自分はダメだとか、自分は信仰が弱いから、などとは口が裂けても言ってはいけません。これがネガティブな思考です。不信仰ともいいます。でも、私たちは聖霊が内住しているので、ポジティブ(肯定的)になれます。聖書に書かれたことをそのまま信じることができます。必要ならば奇跡も起こります。さあ、今日の聖句が自分のものとなり、喜んでいる自分を想像しましょう。あなたにも奇跡は起こります。

 

3月30日(水)

癒しをもたらす舌は命の木。

よこしまな舌は気力を砕く。

箴言15:4

 

箴言は文字を読むほどにはやさしくありません。私たち読者を考え込ませてしまいます。良いことが書いてあるのですが、知恵がなかなか分からないのです。それでも、今の心の必要にピッタリな時には、何がしかの益を受けることができます。今日の聖句が少しわかりやすくなるように、別訳を読んでみましょう。「柔和な舌はいのちの木である、しかし偽りの舌は精神を傷つける」。読み比べてみてください。「柔和な舌」と「癒しをもたらす舌」が同じ意味を持っているのですね。自分がいつもどのような話し方をしてるか考えさせられます。人から、やさしく柔和な言葉を聞けば、確かに癒されるでしょうね。「命の木」は「命を与える」という意味です。心が癒されるような言葉で話されたなら、見えないければ、確かに実感として命が与えられたという感じになります。たとえ、感じなかったとしても、命の不思議で傷ついて失った分の命を補ってもらえるのです。「よこしまな舌」は「偽りの舌」となります。さらに別の訳を見ると「慰める言葉は生命の支えであるが、意地の悪い舌は元気をくじく」とあります。過去を振り返れば、納得できるでしょう。意地の悪い言葉で気落ちしたりすることは誰でも経験があるでしょう。そこで、正反対の二つの舌を神様はどうみているだろうか、と考えることが大切です。当然、イエス様のなさったことやお語りになった言葉は、前者で命の木でした。では、私たちは、どちらの舌でしょう。「よこしまな舌は気力を砕く」というのは、相手だけではなく本人も同様に被害を受けているのです。このように傷ついた心は、人をも傷つけ、さらに自分をも傷つけているのです。ですから、「癒しをもたらす舌」はそのような人の心の傷も癒してしまうので、勝利できます。感情的に反応しているだけでは、このようなことはできませんね。感情ではなく信仰で「癒しをもたらす舌」を持った人になりましょう。

 

3月31日(木)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

詩篇16:11

 

クリスチャンは、幸福に人生を過ごすことができます。その幸福は、この世のものとは違っています。この世では、いのちの道を教えてくれません。罪の問題を解決し、罪も死もない永遠の御国への道です。どうすれば天国に入れるかを主は知らせてくださるのです。それで、私たちは主イエスを信じて、洗礼を受けて、クリスチャンになりました。それは、罪のために神との間に隔ての幕があったのに、それがキリストの十字架によって取り除けられたのです。そのために、クリスチャンは神に近づくことができます。それも真っ直ぐに神に近づき御前にまで進めるのです。そのこと自体が喜びなのですが、それ以上の恵みがあることを意味します。つまり、日々のこの世の暮らしが主の御前にあるということです。そこには、喜びが満ちているのです。ただ、信仰によって生きている時だけそのことが可能です。この世のことに心が奪われたり、主から目を逸らせて忘れてしまうような時には、この世の普通の世界に逆戻りしてしまいます。ですから、喜びが見えなくなって、悲観的な思いが支配してきます。つまり、神に近づけば、そこには喜びがあり、喜びの中に生きることが可能です。でも、不信仰になったり、神との距離が離れると途端に喜びから切り離されたようになります。「あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」とは、「右」が可能な限り最も神に近い所を意味しているので、これは主イエスがおられます。そして、私たちに起こっている奇跡は、その主イエスが私たちの内側に住んでいてくださることなのです。ですから、そのことを信じることに意味が出てきます。主に近づく努力が入らないのです。すでに、霊的には一つになっているからです。主を通して私たちは、楽しみがとこしえに約束されているわけです。これが、信仰によって得られるのです。信じることを侮ることなく、自分の信仰で十分なので、信じることを大切にして行きましょう。