2023年2月ディボーション

2月1日(水)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

私たちは、日本に生まれてきましたから、比較的自由な国に生活しています。つまり、身分制もないし、職業選択の自由もあります。もちろん、キリスト教を信仰しても迫害されません。このような国で、何になるかは全く自己責任なのです。そこで、クリスチャンという生き方を選んでみましょう。クリスチャンになりたければ、誰でもなれます。しかし、本当は、初めに主の召命があって、その召命に応えるかどうかを決めることができます。そして、見えない神の召命に応えるのは信仰です。信仰は使えば使うほど成長し、本人にも良い影響を与えるのです。さて、クリスチャンの強みは、今日の御言葉に出てきます。主は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない、というものです。離れないというのは、聖霊が送られてきて、その聖霊が私たちの内に入り、住み込むということです。聖霊は三位一体の神なので、キリストが私の内に住んでいるという言い方もできます。ですから、主といつでも一緒なので、怖いものなしなのです。「捨てない」という御言葉は大きな意味を持ちます。私たちは、もともと罪人なので、肉の内に罪が宿っていました。キリストの贖いのおかげで、その罪が取り去られ十字架につけられました。ようやく、罪からも死からも自由になったのです。これで、聖霊の導きに従うなら、キリストのようになれるのです。しかし、肉に従うことも自由なのです。結果は、大きく異なりますが、選択の自由は私たちにあります。しかし、このようにはっきりわかっていながら、しばしば誘惑されて肉に従うのが人間の悲しさです。そのような弱い存在であっても、神様は捨てないのです。そして、イエス様が天国に昇天されてから、もう一度再臨されるのをクリスチャンは待望しています。それは、主が「捨てない」と言われたからです。主は全ての準備を整えてから戻って来られます。その時、捨てられなかったことが明白になります。このように、私たちは信仰を強められ、再臨を待望するように励まされているのです。

 

2月2日(木)

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

Ⅱペトロ1:3

 

ここに書いてあることは、あなたに起こったことなのです。少し難しく感じるかもしれませんが、人が救われるということは、例えば雪山で遭難している人が救難ヘリに吊り上げられて、九死に一生を得るような状況を想像すれば良いのです。その救われた人は、自分の救いのために何をしたでしょう? 何もしなかったのです。いや、できなかったのです。ただ、救助隊員が全てしてくれたのであって、我が身をただ任せていただけです。キリスト教の救いもまさにそのようなものなのです。ですから、恵みの宗教なのです。そもそもが、私たちは罪人だったのですから、神の憐れみによらなければ救われないのです。それが分かれば、クリスチャンは今までのようには生きていけません。悔い改めて、キリストの教えの通りに生きていこうと考えます。しかし、自分の力では無理なのです。ですから、主イエスが神の力によって、命と信心とに関わる全てのものを、私たちに与えてくださったのです。救われるために必要だからです。ここまでは、納得が行きます。問題は終わりの行です。召し出した方を「認識させることによる」とあります。つまり、主イエス・キリストを認識することによって、私たちは救いに必要な神的なもの全てをいただいているのです。これが、クリスチャンを満たしているのです。クリスチャンから出てくる聖霊の賜物も聖霊の実もキリストによるのです。あなたは、自分でどう感じるかではなく、すでに自分の内側に生命と敬虔に必要な全てが贈られて内なる力となっているのです。ですから、信仰が薄いと言われてはならないのです。無いなら仕方ありませんが、キリストに贈られて持っているからです。ぜひ、祈りの時間を増やして、霊的に覚醒させていただきましょう。自分の内にあるキリストの贈り物が、キリストの召しに応えて献身したあなたには、キリストがわかるので、完全な者、聖なる者になれる力が自分の内にすでに与えられていることも分かるはずです。ですから、まだ信仰が足りないからとは言えないことを覚えておきましょう。素晴らしい主の救いは完全なのです。

 

2月3日(金)

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

ヨハネ16:33

 

それぞれの人生は、結局一人で頑張って行かなければならない。思い出してほしい、初めて小学校へ行った時、どうだったろう。楽しくてしょうがなかっただろうか、それとも行きたくないと駄々をこねただろうか。学校に行くのが嫌でしょうがなかった人と学校が楽しくてしょうがなかった人では、何が違うのだろう。しかし、すぐに成長して大人になってしまう。それまでの間にいろいろなことがあっただろうが、一番驚くことは、その間に自分のイメージができてしまうことだ。でも、まだ大人ではない。社会人になって世に出て行く時に、一番必要なことは勇気だ。それまでの準備期間に何かを学び、人の中でどうやって生きていけばいいかを訓練してきた。しかし、そこには、先生がいて、教室があってクラスメートの数はせいぜい多くても40人程度だった。それが、先生もいなければ、クラスメートもいない社会へ放り出される。そこで、神様に自分が正しく生きてみせることができるかどうか。そのためにも、必要なことは、自分の中にある怖気付く弱い心をなんとかしなければければならない。すぐに逃げ出したくなるかもしれないが、そこを踏みとどまって、勇気を出すことだ。残念ながら、イエス様もおっしゃったように、この世には苦難がある。誰でも、避けることができない。苦難につまづき、人生を台無しにしてしまう必要などない。失敗しても、勇気があれば、次へ向かえる。苦難のせいで自信を失う必要などない。なぜなら、この世に勝利したと主は、はっきりあなたに語っているからだ。あなたは、一人ではない。主イエスがいつでもあなたのパートナーとなって共にいる。あなたは、主の命令に奮起して、勇気を出しなさい。目の前にあるこの世の苦難に怖気付いてはいけない。方法は一つ、勇気を出しないさい。あなたと主は一つなのだから、主が「わたしは既に世に勝っている」と言われたのなら、あなたも世に勝っているのだ。そのことをはっきりさせるためにも、勇気を出しなさい。乗り越えらない苦難などないのだから。だから、勇気を出せば、生きていける。

 

2月4日(土)

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。

詩篇119:89、90

 

あなたは自分の心に栄養を与えているだろうか。ただ生きているだけでは心はやせ細って行くだけだ。クリスチャンこそ聖なる感動をいつでも経験できる特権にあずかっているはずだ。この世界がストレスばかりと思っているなら、どうしてもストレスの疲れを癒すことばかり考えてしまうだろう。だから、心は栄養失調になるかもしれない。心を喜ばせたり、神様の深い愛と共感したり、小さなことにも主の恵みが備えられていることを発見して心を感動させることができる。祈りもそうだ。一体いつから祈りが、お願いリストの読み上げのようになってしまったのだろうか。主の愛に思いを馳せ、素直に愛されて喜ぶことは誰にでもできることだ。詩篇から祈りを学ぶことは素晴らしい。今日の聖句はどうだろう。圧倒される言葉だ。「あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています」とは何のことだろう、と子供のように素直に考えてみよう。わたしのこともとこしえから、天において定まっているのだろうか。それは、神様の御言葉によるのであれば、神様はわたしのためにどんな言葉をお語りになったのだろう。きっと、聞いたら幸せになる御言葉に違いない。だから、私は救われ、幸せになるように天で定まっているのだ。それは、主が真実で代々変わらない愛で私を愛しているからなのだ。この地も、つまりこの世界も主が言葉で創造されたので、堅く立つ。それは、造りぱなしではないということを意味する。主が造られたこの世界が、罪によって汚され、堕落してしまったが、そのまま諦めて放置したわけではなかった。救済計画をおたてになり、主、自らが今に至るまで支えておられるのだ。このように、神様が何をおこなっているのか理解できると、主のお顔が見えてくるような気持ちになる。その時には、いつでも感動がある。その心を歌にすれば、また波状的に感動が心を打つはずだ。そして、人の思いやり、人の親切、親が子を心配する思い、子が親を慕う思い、このような当たり前のことが、人の心の栄養になっているものだ。罪はそれを奪う。でも、私たちが希望を持って生きることができるのは、天に神様の愛の言葉があり、救いの約束の言葉が定まっているからだ。今日を始める時に、神様の恩寵を感謝しよう。

 

2月5日(日)

わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。

Ⅰテモテ1:5

 

「この命令」とは、「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように」との命令です。牧師になりたての頃、母教会から札幌に旅行に来られた信者さんが、私を訪ねてくださりイエス様献金だと言って、牧師個人が自分のために使う名目の献金です、と封筒を渡してくださいました。ちょうど夏休みになって子供たちをどこかに連れて行ってあげたいのに、お金が全く無くてどうしようかと思っていた時でしたから、これは神様のお恵みに違いないと感謝しました。その献金をわざわざ届けてくださった方は、時間があれば予定説について議論したかった、と言って帰っていかれました。神様は、このような不思議な方法でこれから始まる牧師の生活を支えてくださると教えてくださったのです。そして、今に至るまで、必要な時にはいつでもちょうど良く生活を支えてくださいました。これがキリストによって生きることだと納得のいくように教えてくださったのです。ですから、信者さんにも確信を持って教えることができるのです。このように神様が生きて働き、慈しみ深く見守っていてくださることを知ることは信仰者にとって大切なことです。ところが、時々、道をそらすような議論や何の根拠もない終末論などが教会の中にも起こることがあります。もっと困るのは、肉の問題を解決できずに教会に波風を立てることです。その人たちは、何をしに教会に所属しているのでしょうか。聖霊に聞くべきです。今日の聖句は、その点を明らかにしています。つまり、クリスチャンは何を目指しているのかということです。とてもわかりやすいです。まず「清い心」と「正しい良心」と「純真な信仰」を目指すのです。他のものを入り込ませてはいけません。自信がなければ、主に祈ります。これは聖書の御言葉ですから、御心にかなっているので聞かれる祈りです。ですから、難しくありません。もし、邪悪な心や汚れた良心や不純な信仰があれば、それを取り除くために何か主の御業が起こってきます。嘘はダメです。人は騙せても、神様は騙せません。ですから、危険なことをせずに、従順に主の取り扱いに任せます。ただ、これは最終目標ではありません。このようにして、清い心と正しい良心と純真な信仰を達成し、そこから生じる愛が目指すものなのです。この愛は、他の方法では実現しません。新しく生まれたというのなら、これら三つを達成していただき、さらに愛の人生を実現するのです。

 

2月6日(月)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。

Ⅱコリント5:17

 

人生はいつからでもやり直せます。過去を振り返れば、嫌なことばかりと思っている人もいます。今までが辛かったから、これからもそうだと思い込むのは間違っています。確かに、自分を変えることは難しいことで、ダイエットに挑戦するようなものです。痩せたいと思うだけでは、何をしてもうまくいきません。同じように、ただ、過去を忘れて良い人生にしようと決心しても、そうそううまくはいかないでしょう。しかし、聖書には、はっきり「新しく造られた者」と出てきます。これになりたいと思うなら、この御言葉を信じましょう。膨大な聖書の御言葉の何を信じるのかと考えると、何か定まりません。しかし、今日の聖句は信じる必要があります。それは、クリスチャンの特権だからです。罪人であった自分が、クリスチャンになって、新しく造られた者となると聖書は断言しています。「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」と書かれていることは、あなたに当てはまります。過去の記憶にいつまでも苦しんでいた人にとっては、福音です。そして、人生に挫折した人も、いい加減に怠けて生きてきてしまった人も、変わりたいと真剣に思っている人にとっても、この聖句は奇跡を起こすのです。何のために信仰を持ったのか、それは、キリストを信じて救われることでした。その救いには、「新しく造られた者」と書かれているように、自分の力で変わるのではなく、主の御力で新しく造っていただくのです。私たちのすることは一つです。ただ、キリストのうちにあること。キリストから離れて生きようとしないことです。そして、キリストがあなたを新しく造ることに従うことです。そもそも古いものは過ぎ去ったのです。「すべてが新しくなった」と言葉にしてみましょう。

 

2月7日(火)

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

イザヤ41:13

 

人生に必要なことは、誠実に正しく生きることです。しかし、自分が弱いとこれはかなりハードルが高いものになります。そこで、私たちは幸いクリスチャンになりましたから、ますます誠実に正しく生きることを自らに課しているのです。ところが、残念なことにうまくいかない理由があるのですが、それは、感情をコントロールできないことです。どこで、どうなればスイッチが入るのか、制御不能に陥ることがあるわけです。有名なブルース・リーは武道の鍛錬で感情を制することができたと言っています。まさか、私たちもブルース・リーのマネをするわけにはいきません。では、武道によって鍛えること以外に、どんなことがあるでしょう。クリスチャンの場合は、信仰です。ブルース・リーは子供の頃より鍛え続け、達人になりました。彼は、いろいろな蹴りを練習するのではなく、たった一つの蹴りを一万回も練習するのだそうです。私たちも、信仰において達人の領域を目指したいのです。そのためには、たった一つのことを鍛錬すればいいのです。それは、今日の御言葉を主があなたに語ってくださっているのですから、「主よ。わかりました。私は恐れません。あなたが私を助けてくださるからです」と一万回繰り返すことです。大変なことが襲ってきても、鍛錬と思えばありがたいことです。どんどん信仰が強くなって達人の域に達すれば、感情に振り回されることはなくなります。感情を制すれば、健康もついてきます。元気になれば、やりたいことは何でもできます。一つのことを信じてみる。その信仰の力を自分のものにしてみませんか。それにしても、イエス様に手を握られて、「恐れるな。私があなたを助ける」って言われたら、心が熱くなりませんか。少女漫画の主人公のように、目の中に⭐️が光ってしまいそうです。信仰って、やっぱりイエス様を愛することなのだと思います。

 

2月8日(水)

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

Ⅰヨハネ5:3~5

 

「神の掟」と聞くと、難しいことをしなければならないと感じてしまうかもしれません。それは、神を愛することなのです。別の言い方をすれば、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、その方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(同3:23)。クリスチャンはファリサイ人のようにはしません。律法遵守と言っては偽善者となったからです。我々がどのような者であるかを主イエスは理解してくださいました。ですから、新しい掟を授けました。それは、「互いに愛し合いなさい」というものでした。これだけです。モーセの律法はどうなったのでしょうか。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)。そもそも、律法は神の愛の具体的な体現でした。ですから、愛することは律法の要求を満たすことになります。私たちは目が開かれて、イエス・キリストを愛し、父なる神を愛します。もちろん、聖霊も愛します。その愛がいかに深まり、主の要求を満たせるかと考えると、少し不安にもなりますが、実際には主のお助けがあります。そして、愛するのは感情だけではなく信仰によるのです。それ自体、ありがたいことなのです。自分には愛がないとか信仰がないとか言いたがる人もいますが、賢明ではありません。信仰は愛と結びついているので、楽しいことであり、嬉しいことなのです。どんなに辛く悲しいことがあっても、主の愛はいつでも自分のものなのです。どうやってと問うなら、「信じなさい」と答えるでしょう。主に愛されていることがどれほどすごいことなのか、体験しましょう。そして、主を愛することが信仰であると理解しましょう。

 

2月9日(日)

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

Ⅰコリント1:30

 

ここに、あなたの真実があります。神は、キリストを信じたあなたに何をしたのか。救いとは、実に神秘的な面があるのです。あなたは、それを信仰によって理解しなければなりません。すでにあなたは何度も聞いているはずです。「神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」と。しかし、そのことの重みを考えずに、罪人であった時と同じように歩み始めたのではないですか。それは、なれていたからです。しかし、あなたに神様がなされた御業は、天地万物を創造された時以上の驚くべき奇跡なのです。あなたが神の子になるのですから、これ以上の驚きはありません。しかも、あなたは何もしていません。だって、あなたはイエス様を信じただけなのですから。人間の理解を超えています。あなたは、そこで、御言葉を信じることが賢明な選択となります。「神によってキリスト・イエスのうちにある」と信じてください。このキリストによって救われるのですから。罪人を救う方法がキリストによることしかなかったのです。人間にはいまだに完全に説明などできません。ただ、信じるだけです。実に、キリストは神の知恵なのです。救いの計画は天国に入るまで続きます。完璧な計画であり、救いなのです。そして、それにはキリストが不可欠なのです。キリストを信じて生きることにより、クリスチャンは、義とせられ、また聖めを実現していただけます。最も難しいことは罪人の罪の負債をどうやって支払うかでした。それが無限の価値があるキリストの命による贖いで、罪人の罪を赦すことが可能になったのです。ありがたいことです。ですから、イエス・キリストなしにはだれ一人救われなかったのです。今日は、そのことを思ってイエス様に感謝しましょう。

 

2月10日(金)

神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人と認めた人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。

コヘレト2:26

 

さて、今日の聖句はどうであろう。読者は、自分は善人であることを前提に読んでいるのではないだろうか。善人に神が与えるものは金銀財宝ではない。「知恵と知識と楽しみ」これだけが報酬だという。そして、もう一人悪人が出てくる。善人といえば悪人がセットで出て来る方がわかりやい。悪人は、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。ところで、なぜ自分は善人と思ったのだろう。別の訳では悪人を「罪人」と訳している。そうなると、急に不安になるかもしれない。私たちは自分が罪人であると認めたからだ。それでも、キリストに救われて、もはや今は罪人ではない、と言える。それなのに、何か落ち着かないかもしれない。それは、いつまでも罪を犯し、神の御前に出て胸を張れるかどうか自信が持てないからだろう。そもそも、この文章の最後に書かれた一文でどうにも理解不能になる。つまり、悪人が善人に渡すために富を貯めなければならないように神が決めている、となれば悪人の立場で見れば確かに「空しい」となるだろう。神が出てきているので、善人を祝福し、悪人は貪欲にお金を集めても、結局はそれを神が善人に渡してしまう、というので、「これまた空しく、風を追うようなことだ」。結局、悪人が罪人であるということで、こちら側に自分が投影されてしまうようだ。それでは、空しいと言わざるを得ない。しかし、初めは自分は善人だと思っていた。だから、神が悪人にひたすら稼がせ、貯めさせ、最後にはその稼ぎを善人に与えることは正しいと思っていた。しかし、悪人が罪人のことならば、どうだろう。私たちは、自分のことを自分で裁いていたのだ。罪人よりも義人が良いに決まっている。それでも、最後に全部自分の努力が全部取りあげられ、主の御心にかなった人に与えられるのは、酷すぎる、納得がいかない、と思うだろう。つまり、罪人は空しいということなのだ。私たちは救われたと言う。それは、主の御心にかなった人になったということだろうか。教理ではそうでも、実感は罪人の影を引きずっているようだ。だから、いまだに完全になったとは思えない。ではどうなのだろう、このままでいいのだろうか。今日の大切なポイントは、「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる」と言われたことです。クリスチャンになって、罪を赦され、聖霊を吹き込まれて新しい人に生まれたので、本来は主の御心にかなう者となったのです。ですから、「知恵と知識と楽しみを与えられる」のです。あなたはもらいましたか。あなたは知らずにいたのではないですか。この三つが善人であり続ける必須アイテムなのです。実は、主はすでにあなたに「知恵と知識と楽しみを与えられた」のです。ですから、自覚し、それらを使うことです。楽しみが入っているところがいいですね。クリスチャン人生には楽しみがあると理解できれば、空しくはなくなりますね。

 

2月11日(土)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

ローマ15:13

 

安達太良山の山小屋に大晦日にどんな人たちが来るのかNHKが取材しました。その中に、男性三人、女性一人の四人組がテーブルを囲んでいました。話を聞くと、そのグループの一人の男性(50代)の奥様(40代)が病気で亡くなられ、仲間がなんとか励まそうとその男性を誘って来たとのことでした。彼は、奥様愛用のリュックを背負って山を登って来ました。友人たちは、奥様を背負って登っていると囁き合ったとのことでした。なんとも淋しい話ですが、クリスチャンであっても同じようなことは起こります。人はいつ死ぬかわからないのです。夫が先に死ぬのか妻が先に死ぬのかだってわかりません。死んでしまえばどんなに会いたくても会うことができません。ソロモンなら、だから空しいというのでしょうか。しかし、イエス様が初臨されて以降、信ずる者には希望が与えられました。それは、再臨の時の復活です。ご自分の息子が白血病で亡くなった時に、お父さんが洗礼をお受けになり、やがて復活した息子と天国で再会するという希望を得ました。別の女性は、娘が子供ながらに信仰を持ち、イエス様のことを娘から聞かされたと言います。その賢い娘は、病気になり、天に召されました。娘はその病床で天国のことをお母さんに話してあげました。自分が死んでも悲しまないで欲しい。「私は天国に先に行くので、お母さんもクリスチャンになって天国で会いましょう」と約束させられました。終戦後の大変な時期の話です。それから、何年も経って、苦労の日々も落ち着いて、お母さんの心には、娘との約束がよみがえって来ました。そこで、なんとしても洗礼を受けようと決意しました。ご主人様は早くに病気で寝たきりになり、他の子供がいたので、必死に働いて大学も出させ、ようやく自分の時間を持てるようになった時期でした。彼女をここまで頑張らせたのは、娘から聞いたイエス様のお話しで、あり、娘の清い信仰でした。それが希望となったのです。洗礼を受けた彼女は、「信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで」満たされたのです。これで、娘に会えると何度も言っては喜んでいました。イエス様を信じることには、不思議な力があります。その信仰によって主の恵みの御業を味わうことになるのです。自分が信仰を全うすることで、誰かがその後に続くのです。その結果は、再臨の日にわかるでしょう。「聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」。

 

2月12日(日)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:6、7

 

クリスチャンになることも大変ですが、洗礼を受けてからも簡単には行きません。人間はなかなか面倒です。自分の心のままに生きようとします。それでうまく行くはずもないのに、問題が起こるまでは生まれたままの古い生き方をしてしまうのです。しかし、今日の御言葉の通りに、キリストに結ばれて歩むことができます。あなたがイエス様を受け入れたのなら、主に一度教会にいるときだけの関係ではありません。しかし、そのような人が少なくありません。そこで、何かしらの問題が起こってきます。それを解決するには、イエス様に頼るしか方法がないような問題です。「キリストに結ばれて」と、言葉が抽象的なので、多分考えずにいい加減に信仰生活を送ると問題の落とし穴に落ちてしまうのです。それでも、気がつかない人がいるので、同じ過ちを繰り返してしまうのです。この人は、イエス様をよく考えて知ろうとしていないのではと気になります。それが証拠に、神様をご利益で考えているふしがあります。日本人的な神様観です。クリスチャンになるということは、罪人が主の憐れみと恵みによって、自分では絶対解決できない罪の問題をイエス様の贖いによって解決していただくことです。しかし、最終的な裁きはまだわかりません。主のみが裁くのであり、人間は誰も口出しできません。しかし、今日の教えを守っていないクリスチャンは教会の中でも裁くことをやめません。とても危険です。ですから、私たちは「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝」するのです。これは、実践しなければ意味がありません。そのためには、よく祈って、考えてみることです。「造り上げられ」と、あったとおりに、私たちは霊的にまだまだ造り上げられて行きます。本当は、聖霊があなたがたの内にいてくださるので、従順な信仰があれば、造り上げられて行きます。それは、聖書に必要なことが全て書かれているからです。御言葉と聖霊と信仰によって、一人でも造り上げられるのです。感謝を忘れずにいることは、信仰生活を順調にする秘訣です。それも、少しだけ感謝しろと言われているのではなく、「あふれるばかりに感謝しなさい」との奨励ですから、これも守ると前向きで健全な精神と明るく健やかで力強い心を得ることができます。もっともイエス様がそうであったのです。キリストに結ばれて歩むということは、あふれるばかりに感謝して生きることです。信仰の定まらない人にならないように、今日の御言葉を自分の戒めとしましょう。

 

2月13日(月)

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰られる。」

ゼカリヤ4:6

 

歴史や政治に関心のある方は、権力の意味を知っているでしょう。NHKの大河ドラマも歴史上の物語を面白く制作していますが、権力闘争であることがよくわかります。人間が都市を作る頃から権力争いは絶えず、平和な国でも政治でも組織でも権力を手にしたい人は後をたたないのです。法治国家でも権力にはかなわないことを昨今のニュースでも目にしているはずです。興味深いのは、エフェソ6:12には「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」とあります。つまり、クリスチャンには戦いがあること、それは人間を相手にするのではないこと、①「支配と権威」②「暗闇の世界の支配者」③「天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」。これは、悪魔、悪霊が三段階に分かれて人間との戦いを行なっている事を著しています。①は悪霊に支配されている人間、②は地上の暗黒面に隠れて支配している悪霊で、③は天にいる、とあるように天は何層にもなっているようで、一説によれば第9層の天に堕落した天使たちの位の高い者が神の赦しを得ているという人もいます。それは明らかではありませんが、少なくとも高位の力ある悪霊たちが天と呼ばれる所にいるのです。このように悪魔・悪霊は三重構造で人間を支配しようとしていることがわかります。ですから、権力が集中するところでは悪いことが起こっているのをしばしば知ることになります。さらに、今日の聖句では、能力は人間の力という意味です。つまり、人間が集まってできる権力も個人の能力や才能でもなく、ただ神の霊の力によって」と万軍の主が語られたのです。この地上や天上の悪霊も、そして人間のどんな企みも、神の力の前では全く無力なのです。神の支配がこの地を覆うと、いつでも信仰者には神の霊の力によって守られ、御業がなされるのです。そして、クリスチャンは主の霊によって生きるのです。

 

2月14日(火)

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことがっできます。

エペソ6:10、11、16

 

悪魔が存在する限り、クリスチャンも霊の戦いに巻き込まれます。ただ、信仰を持っているので、キリストのゆえに勝利することができます。しかし、敵は悪の軍隊ですから、こちらも神の武具で身を守る必要があります。と言っても、霊の戦いですから信仰にゆらいする武具です。それらは、今までにも説明してきているので、今日は、最後に「信仰の大盾」について考えておきましょう。この大盾の効能は、「悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」。それは、例えば、悪口や誹謗中傷、余計な詮索、悪意ある嘘、信用を失わせるような非難、などが考えられます。頑張って働けば、評価が高まり、その分妬みや嫉妬にあいます。こうしたもの全てが「悪い者が放つ火矢」です。普通の人は、こうした悪い噂が流れると、深く傷つくので精神的に取り返しのつかないダメージを受けます。近頃のフェイクニュースもその類です。SNSを使った誹謗中傷が人を死に追いやることだって社会問題になっています。さて、信仰が素晴らしいのは、信仰の大盾を取ることができるのです。目には見えませんが、はっきり自分を守ってくれることを知るでしょう。ここでの「悪い者」とは、愛を否定し、愛を壊す者のことです。キリストの掟は「互いに愛し合うこと」ですから、それに明らかに反して、故意に違反しているので悪い者なのです。愛は人を救いますが、その逆は赦されることではありません。罪人が救われるのは、神の愛によってです。ですから、救われた者が愛を否定し、愛に反することをするようになるのは赦されません。神が裁かれます。このようなことにならないように気を付けなければなりません。ただ、想定されていたので、防御の武具があったのです。それが信仰の大盾です。正しい者が、誹謗中傷されても、黙って忍耐し、主の裁きに委ねるなら、火の矢は、みな消すことができます。自分も相手を批判し誹謗中傷するなら、それも罪なので、火の矢を消すことはできずに炎上するでしょう。信仰はキリストに倣うことなのです。

 

2月15日(水)

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

ローマ13:8~10

落語家の桂宮治さんがテレビ番組で、施設に入っているお母さんに会いたいとのことで、会いに行く内容でした。宮治さんは落語の真打に昇進し、笑点のレギュラーにもなりました。その間にコロナもあって、4年ほどお母さんに会いに行っていなかったのです。お母さんは、離婚して女で一つで子供たちを育て、宮治さんの良き理解者でした。その自分を可愛がってくれていたお母さんが病気になって、アルツハイマーとパーキンソンを合わせたような難病に罹ったのです。もう反応が無いと聞いていたのですが、病床に行くと、お母さんに表情があらわれ、宮治さんの報告を聞いて喜んでいるのがわかりました。宮治さんも泣いていましたが、親子の愛が伝わってきました。今日の聖句は、互いに愛し合うことが律法を全うすることを教えています。親子の愛はまさに互いに愛し合う典型です。この愛は、借りにはならないというのです。「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ」、これは母親が子供を産んで育てる愛そのものです。なにしろ、子供は自分のお腹にいたのですから。ですから、子供を愛することは自分を愛することとあまり変わらないのです。もし、この世界に罪がなければ、母の子への愛が全うされて、世界は愛に覆われたでしょう。しかし、罪が入ってきたために、愛でないことが起こるようになりました。ですから、私たちにはキリストが必要です。罪の解決があって、はじめて完全な愛が復活するからです。そして、神は福音という何とも手間のかかる方法で愛の復活計画を実現されるのです。まず、先に救われた私たちが、愛を始めるのです。それも、キリストに救われ、神に愛されていることを知り、自分には無条件に愛される価値があることを知るのです。そして、自分を愛すると同じように、隣人を愛するのが、私たちの使命です。よく考えてみれば、何とも良い使命です。そして、この使命を達成するためには、まず自分を受け入れ、自分を天の父が愛したように、自分も愛することができるようになることです。聖霊が助けてくださいます。聖霊は無条件にいつも愛し続けておられます。あなたが納得するまで、主イエス・キリストも愛してくださいます。ですから、愛されていることを信じましょう。

 

2月16日(木)

軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。

伝道の書7:9

 

歳を取ると怒りっぽくなる、と言われますが、気をつけなければなりません。世の中は、どんどん変わって行きます。昭和はレトロと呼ばれ、若い人にとって物珍しいものになりました。しかし、その古さが可愛い、などと騒がれ昭和生まれの人にとっては複雑な感情が湧いてきます。アナログなどと言われて、ラジカセ世代の人は、今でも使いやすい機械を求めているので、音の良いラジカセが売られ、当然ならがカセットも売られているのです。確かに、子供の成長記録を始めは8ミリビデオカメラで、VHSビデオカメラで、次に小型のVHSカメラに、そして、さらに小さなパスポートサイズのカメラにと、ビデオカセットも大きさが次々に変わり、気がつけばプレーヤーは無くなり、膨大な量のいろいろな大きさのカセットが空しく残っています。今では、スマートフォンで録画しているのですから、驚きです。これほど、時代の流れが急速であれば、高齢者が一番困ることになります。男の人なら、イライラが募る毎日でしょう。ですから、今日の聖句は、結構心に響きます。世の中、イライラすることだらけに感じるからです。情報が多すぎ、多様な価値観が同時に存在し、正義もふらつき、何が正しいかがすぐに言えなくなってきた時代には、頭が追いつかずに、かんしゃくを起こす人がたくさんいます。それでも、老人の多いスーパーで、大きな声を上げる人がいないのはすごい事です。老人なりに気を遣っているのです。人様の邪魔にならないように、避けながらも安いものも見逃さないぞ、という気迫が高齢の奥様方から感じます。ひまで奥様についてきたご主人たちが、人の流れと逆行したり、じゃまくさくボーッと通路を塞いでいたりするのを見ても、イライラしてはいけません。きっと人から見れば、自分もそうなのだろうと自戒し、できるだけ売れそうもないホルモンなどのショーケースにカートをつけて呼ばれれば飛んで行く忠犬のように待機しているのです。ところが、どうしてか人がいると寄ってくる人がいて、買いたいものなどないはずなのに、見にくるのです。それで、押しやられ、別の人のいない所にカートを移すと、また人が寄ってくるので、イライラしてはいけない、「苛立ちは愚か者の胸にとどまるから」と、スーパーで買い物のお供をするだけでも訓練されるのですから、楽ではありません。そうして、心を苛立てない方法とは、人と会わないことだ、と仙人にでもなりそうなことを考えています。人には愛を説きながら、すぐに苛立ってしまうようでは情けないと、たとえおばあさんのカートに後ろからぶつけられても、しかも謝りもせずににらみつけられても、混んだレジ待ちの列に割り込まれようが、大声でマスクもしないでレジのお姉さんに話しかけて困らせている老人がいてレジが一向に終わらなくても、決して苛立たずに笑顔まで見せて、「あなたをゆるします」と小声でささやこう。コロナでスーパーにしか行かないのに、信仰の訓練は容赦無く待っているのです。

 

2月17日(金)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

人間は道に迷うものらしい。それが証拠に、自分の人生を振り返り後悔する人が後を絶たない。あの時こうしておけばよかった、なぜもっと勉強しておかなかったのだろう、あの誘いをなぜ断ったのだろう、選択を間違った、と幾度となく後悔をする。そこから教訓を学ぶとか、今度こそ正しい道を選ぼうと、前向きに考えずに、いつも後ろ向きに後悔している。それも罪人の習性であるなら、クリスチャンになった人は、どうすればいいのだろうか。その答えが今日の聖句にある。主を信じた人には、人生の道をどう行けば良いのか教えてくださるというのだ。しかも、それに先立って悟りを与えると言う。人が悩むのは、正解が何かわからないし、失敗したくないからだ。だが、そこで悩みが生じる。しかし、クリスチャンは、人生とは何か、私たちはどうなるのか、天国は存在し、どうすれば天国に入れるのか、こうしたことの答えを得ることができるのだ。それは、信仰によるのだが、悟りは神が与えられると書いてある。ならば、まず、悟りを与えてくださいと祈ることから始まる。行くべき道を見出したなら、人生の後悔も無くなり、迷いが消える。その上、主は私たちの人生に目を留めておられると公言している。それは、助言を与えるためにだ。どうすればいいのかわからない!と、時に混乱し、自分が何をすれば良いのか全くわからなくなることもある。そんな時に、神の助言を聞けるというのだ。これほど、確かなことはない。このように、聖書に書いてあることをもとに主に祈ることが良い。人生は地上であっても主の祝福の中にあるので、幸福に生きていけます。何も特別のことをしなければならないというわけではない。主は、あなたに目を留めておられるというのだから、すでにそれが恵みで、良い人生を歩めると決まっているようなものだ。まずは、主の助言を求めてみよう。

 

2月18日(土)

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5、6

 

信仰の相談を突き詰めていけば、今日の聖句に行き着くように思います。人間の問題は、思う事と実際に行うことが一致しないということです。つまり、「心を尽くして主により頼め」と書かれている通りにしようと思っているはずなのに、そう出来ないということです。わざわざ「心を尽くして」と書いてあるのだから、主に拠り頼みますとただ言っているだけでは足りません。心の全部が主に拠り頼むでなければならないのです。そして、主に頼むことを邪魔するのが、「自分の悟り」です。つまり、自分はこうしたい、こうする方がいいに決まっている、などと自分の思い通りにしてしまうことです。ですから、クリスチャンの修行は、「心を尽くして主に拠り頼め」を実践して、いつでもこの境地に至ることです。私はこう思うとか、こうしよう、などと勝手な自分の考えに従って行動してはいけないということです。「どこにおいても」というのは肝心で、人間の気持ちが変わりやすいことを見越しての注意です。ですから、自分勝手に生きるとすぐにトラブルが発生します。そうならないように、クリスチャンは、「心を尽くして主に拠り頼め」を実践するのです。「どこにおいても、主を認めよ」というのも、そのままに受け取って実践することが肝心です。クリスチャンの中には、主を忘れていたという人がいます。信仰の使い分けをしているのです。教会の顔とこの世の顔を二つ持っていれば、主を認めるのを故意にやめてしまうことが生じるので、危険です。どんな時にでも神様を第一に考えましょう。主は、そのような人のために人生を歩みやすくまっすぐにされるのです。

 

2月19日(日)

人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

ガラテヤ2:16

 

キリスト教信仰を持っているのなら、知っておかなくてはならないことがあります。その一つは、律法のことです。クリスチャンになって、律法を守り行うようにと言われたことがあったと思います。その反対に、律法は守れないものだから、キリストを信じて信仰によってと義とされるのだ、と聞かされたのではないでしょうか。これでは、混乱します。聖書がなんと言っているのか、自分で確かめ、さらに信仰のことも深めて考えたいのです。まず、今日の聖句で明らかなのは、律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる、ということです。まさに、あなたもイエス・キリストを信じたわけです。それは、キリストを信じて義とされると教えられたから、そうしたのです。それでも、クリスチャンになったのだから、これからは清く正しく生きたいという願望が出てきます。そこで、一体どのように生きるべきかと旧約聖書を読むと、律法を守らなければならないと教えられるのです。確かに、正しいことを行うことはクリスチャンにふさわしいので、頑張りますが、それで義とされることはありません。足りないのです。自分ができる事といえば、殺さない、姦淫しない、偽証しない、貪らない、安息日を守る、主の御名をみだりに唱えない、と言った事だと思うのですが、キリストから言わせれば、どれも守っているとは言えない、と悲しいくらいに自分の罪深さが明らかになるだけなのです。偽善者で済まそうとするのならともかく、そうでなければ、律法は重くのしかかってきて、どんなに努力をしても、それを嘲笑うかのごとく、自分の罪が浮かび上がってくるだけなのです。初めは、罪の性質である自己中心な考えで律法すらも自己満足で守っていると言い張れるのですが、神様が罪を見せるとたちまち、恐ろしい呪いの中にあることを悟るのです。そうなると、自分の力で救われるということが幻想であったと気が付きます。ですから、キリストを信じて救われるとの福音に縋るのです。それは、驚くほどの恵みなのです。問題は、そうやって救われたとしても、すぐに自分の力で立派なクリスチャンを演じたくなることです。そして、信仰によって義となるのだと諭されると、途方に暮れるのです。行うのは容易いのですが、信じるだけというのでは心もとないのです。ただ、まず、覚えることは、「キリストへの信仰によって義としていただく」ことと「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」という二点です。それが基本です。この話は奥が深いので、日を改めてさらに学びましょう。

 

2月20日(月)

それゆえ、主は恵みを与えようとして、あなたを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

イザヤ30:18

 

あなたがなぜ主に見つけていただき、救い出していただけたのか、わかりますか。あなたの神は、恵みを与えようとして、あなたを待っているような神なのです。偶像のように、何もせずにじっと来る人を待っているだけで何も出来ないものとは違います。あなたの神は、憐れみを与えようとして、立ち上がられるような積極的な神なのです。実際に、あなたは神は何もしてくれないと思っているかもしれませんが、それは間違いです。あなたが神に対する見方を変えるなら、すぐに現れる神です。つまり、神は私に恵みを与えようといつでも待っていてくださる神だと信じることです。自分に自信がなくて無意識に自分を責めてしまう人は、それをやめなければ主が見えてきません。主は、憐れみを与えようとしてすでに立ち上がっている神なのです。ですから、あなたを責めたりしません。あなたが考えすぎるので、神が見えなくなっているのです。でも、あなたはただ主を待ち臨めばいいだけです。どんな時にも、主を待ち望む人に、主は期待以上に果敢に働きます。自分のために主が驚くほど働いてくださるのですから、恵みのただ中に置かれている自分に気づくはずです。あなたがただ弱い存在であれば、主の憐れみで溺れるほどいっぱい与えられます。だから、預言者は、幸いな人だとあなたに言っているのです。

 

2月21日(火)

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

詩篇103:3~5

 

人類の歴史において、疫病は悪魔のようにやって来ます。ヨハネの黙示録にも疫病の預言は書かれていますから、避けることはできないのでしょう。疫病の怖いことは、大勢の人が死ぬことです。それでなくても、人間は病気に弱いのです。歳を取ってくれば、誰でも体力が衰え、何かしらの病気に罹りやすくなります。お年寄りの社交場が病院の待合室になっている、というのもちょっと前までのことで、今では、マスクをして静かなものです。罪と病気の関係はあるのか無いのか、気になるでしょうが、関係が全く無いとも言えないのです。今日の聖句もそのことをほのめかしています。主は、初めにすべての咎を赦し、次にすべての病をいやし、命を贖い、恵みと憐れみの冠をかぶらせ、一生を良いもので満たされる。その上、若さまで保証しているのです。癒しの祈りも、その前に罪咎の悔い改めの祈りがあった方が良いのです。「罪は死に至る病」とはよく言ったものです。その通りだからです。だれ一人不死ではありません。当然、一年ごとに死に近づいているのです。でも、いつ死ぬかは聞かされていないので、平気な顔をして気に求めずに生きています。ですから、クリスチャンは、いつ死んでもいいように生きています。死は終わりでは無いからです。天国へ入れる希望を持っているから、死を恐れません。たとえ死んでも復活する希望を主から与えられているのです。イエス様がどんな病も癒やされたというのですから、たとえ難病であっても希望があります。イエス様は癒し主で、今も生きておられます。癒しを祈り求めることも良いことです。人たのために癒しを祈りことも良いことです。今日、この聖句を読み上げて、自分のためでも、隣人のためでも、癒しの祈りをささげましょう。主の御業がなされるでしょう。

 

2月23日(木)

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

ローマ8:15

 

罪人と言われていたのですから、罪の奴隷であったわけです。今日の聖句を読むと、「奴隷の霊」と書かれているので、悪霊の影響を受けていたことがわかります。だから、罪を犯し続けていたのです。それが、イエス・キリストによって救われて、罪の汚れも洗われたのです。それだけではなく、今度は聖霊を神から受けました。それは、「子としてくださる御霊を受けた」と明確に書いてあります。つまり、クリスチャンになるということは、神の子となるという意味があったのです。それは、聖霊を受けることによって実現するのです。聖霊は、「アバ、父」と私たちが呼べるようにしてくださいます。イエスが父と呼んでいたのと同じようにしてくださったのです。これが、救いの計画だったのです。ですから、奴隷の霊に支配されているかのような否定的な考え方を締め出さなければなりません。すぐに自分を責めたりするのは、奴隷の霊に支配されていた名残です。ですから、これは克服しておかなければなりません。方法は簡単で、今は聖霊の支配の中にいるのですから、聖霊によって「アバ、父」と言葉にしてみることです。それこそ、聖霊が自分を神の子としてくださったと認めることになります。そうであれば、神の子として生きればいいのです。それが自然です。神の子も愛に生きるということです。神の子の愛がわからなければ、主イエスがお手本です。素晴らしい神の子としての人生をすでに受けているのですから、それを忘れないように生きましょう。大きくて、広い心で人と接するのです。愛は喜びを伴います。ですから、喜びが多いか少ないかで愛したかどうかがわかります。愛に生きれば、人生は大変良いものになります。

 

2月24日(金)

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われわれの避け所である。

詩篇62:8

 

キリスト教の不思議があります。キリスト教はユダヤで始まり、イエスもユダヤ人でした。そして、当時のローマ帝国内に広がっていったのです。それは、やがて西洋でキリスト教が栄えていく結果になりました。20世紀までは、西洋のキリスト教がまだ通用していました。キリスト教も一つに統一しようとエキュメニカル運動が盛んになりました。そして、皆さんも耳にしたことのある、グローバル化が始まったのです。世界は一つ、と経済から拍車がかかり、日本の工場も海外に出て行きました。それでうまく行くと思っていたのに、そうではありませんでした。今、私たちはロシアがウクライナに侵攻しただけで、世界が大変なことになってしまう現実を実感しています。外国のこと、他人事と関係ないと言えなくなっているのです。世界を一つにして効率のよい、経済に都合の良いグローバル化が、世界のどこかで問題が起これば、世界中が痛むことになると知ったのです。そして、さらに、皆さんは日本史を学び、西洋史を学び、さらに東洋史を学んだのではないでしょうか。これは、文化・歴史の相違です。実は世界は多様な文化でできていたのです。当たり前ですね。西洋はそのことを認めずにきました。キリスト教も同じです。西洋の人は、日本と中国の違い、韓国との違いなど全くわかりません。漢字など小さなデッサンというしまつで、言語も全くわかりません。そのような状況ですから、日本でキリスト教がどうして広がらないのか、など考えることもできません。世界的に有名な神学者も聖書学者も西洋の人たちです。彼らは、西洋以外の文明を理解していません。考えたこともありません。そこで、新約聖書学も行き詰まってしまいました。学問としては、20世紀に驚くほど発展を遂げたのですが、それらが今では継承されていません。新しい研究方法自体が継承されていないのです。そして、無視されてしまいました。これらを見ていると、宗教と学問の違いを鮮明に見せられている思いがします。共産党政権下で迫害されているキリスト教は、地下に活動を通して異常といえるほど発展しています。本来、いないはずの本物のクリスチャンが1億人以上、あるいは3億人ぐらいいると推測されています。それなのに、西洋では理解されていません。キリスト教は西洋では行き詰まり、アジアに移行すると囁かれ、アジアの時代がやってくると盛んに言われていましたが、それは、アジアだけのことでした。多分、どんなに頭が良くても、文化を超えてキリスト教が広がることを理解できないのです。宣教学では、文脈化と言って、以前のようなキリスト教の土着化という考えをやめました。それは、西洋文化の押し付けであって、本来ある文化を壊してしまうことを悟ったからです。その国の歴史、文化を尊重してその流れの中にキリスト教が入るにはどうすれば良いのか考えるようになったのです。キリスト教と言って、実は西洋文化の押し付けであったと気がついたのは、宣教地に暮らして全く違う文化を知った宣教師たちでした。彼らは文化人類学者でもあったからです。このように、キリスト教が行き詰まり、多様な文化がぶつかり合い、それらを柔軟に理解して行くことができるのか。おそらくは、知的に知識偏重でキリスト教をやって来た結果なので、もう一度初代教会の出発点に立って、聖霊のバプテスマに象徴される使徒言行録の霊的なキリスト教に戻らなければ先に進めないでしょう。リバイバルが求められなくなって久しいですが、今こそリバイバルを求める時なのです。

 

2月25日(土)

枯れた谷に鹿が水を求めるように

神よ、わたしの魂はあなたを求める。

神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

いつ御前に出て

神の御顔を仰ぐことができるのか。

昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。

人は絶え間なく言う

「お前の神はどこにいる」と。

詩篇42:2~4

 

人間の歴史で、神の存在を疑うことはなかったのは古代と中世でした。哲学の始まった古代ギリシャでも、神の存在は自明のことでした。それは、確かにギリシャ人の考える神であったから、キリスト教は無神論と呼ばれたのです。神が違っているからです。古代ギリシャ人にとって神々がいるのは当たり前だったので、神の本質に関心が向けられました。彼らには世界も神的なもので、特に優れた力が働いていると認められれば、直接神がそこに臨在していると考えられたのです。それに対して、キリスト教は、見えない創造者としての神を信じます。そこで、見えない神が本当に存在するのかが重要になったのです。中世は神の存在の証明が試みられました。そのような流れで、近代になると無神論者がキリスト教圏から出て来たのです。さらに18世紀頃から、西洋で宗教への関心が衰え始めたのです。そして、現代に生きる皆さんは、キリスト教会の衰退を目の当たりにしたのです。多くの人間が、神を失い、信仰を失ったわけです。それは、人は何のために生きるのか、人生とは一体何かを知らなくなり、世界はどこへ向かっているのかといった歴史を明確な意識として捉えられなくなったのです。神を信じられない人の空しさは恐ろしいものがあります。現代の思想家も肝心なことがわからず語ることを断念しているのです。神学者も、膨大な知識を一人の人が知るには多すぎて断念しています。私たちも、戦争や地震などの災害で苦しんでいる人たちを何とか助けたいと思うのですが、誰かが訴え、報道を続けなければ、すぐに忘れてしまうのです。私たちは、おそらく究極の所まで来ているのです。神を魂は求めていて、それは魂が渇いているからです。神はどこにいるか、どうすれば御顔を仰ぐことができるのか、信仰を持っている人は神を探し、信仰のない人は世俗化した世界で生きるのも空しく、「お前の神はどこにいる」と言い続けるのです。これが終末の姿なのです。信仰がなければ、生きることは難しく、何のために生きているのか答えられないのです。そのような中で、神に愛され、祈りが聞かれ、困っても希望を持てるのは、なんと幸せなことでしょう。私たちはどんな世界になろうとも、神を信じます。目に見えなくても、主は生きておられます。日毎に主は恵みを与え続けて、わたしたちを憐れんでくださいます。今、私たちは誰も経験したことのない新しい時代に生きていますが、科学が進歩したと言っても、多くの人が神に飢え乾く時代にいることを忘れてはいけません。執り成して祈りましょう。

 

2月26日(日)

望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。

ヨブ11:18

 

毎日、寝るときになって何も心配せずに安らかに眠ることができるのは幸いなことです。しかし、寝るだけなのに、それが難しい人も少なくありません。多くの場合、ストレスが原因です。心配事があれば、なおさら眠れなくなるのが人間です。普段と違うことがあれば、それだけでも寝られなくなります。ところが、何があっても夜になればストンと簡単に寝てしまう人もいるのです。このような人は思い煩いが無いのでしょうか。体質的なことなのか、人によって違うのです。ウクライナのような戦禍の中で、いつミサイルが飛んでくるかわからないよう異常な緊張状態では、誰でも満足に寝ることができません。また、災害に遭ったり、天災に遭ったりすれば、これまた大変です。そうでなくても、私たちは、簡単に不調に陥ることがあるのです。さて、今日の聖句を読んでみると、安らかに休む秘訣が書いてありました。「望みがあるので」とあります。この望みは、神様から来ます。神様なので、どんな状況でも大丈夫です。私たちは知っています。人間にとって希望は不可欠であり、希望があれば、どん底からでも這い上がれると。希望の灯が灯れば、不思議なぐらいに心は安らぎ、夜も安眠できます。この希望は、イエス様から来ます。イエス様は人間がどのようなものか知っているのです。また、人間はいろいろで強さもあれば弱さも持っていることを理解されているのです。ですから、あなたに同情できます。主は、あなたが祈るとそばで聞いてくださいます。そして、あなたのためになることを考えてくださいます。あなたの心の光が消え、不安や恐れが満ちていれば、すぐに光を灯してくださいます。光った途端に、一瞬で闇は消え、不安も恐れもなくなります。あなたの主はあなたを守ってくださいます。夜、布団に入るとイエス様は一緒にいてくださり、安らかに眠りにつけるようにまぶたに触れます。疲れがすっかり癒されるように、深い眠りへと誘うのです。あなたは主を信じているので、眠る時も主を信じます。夜の間も守られますように。主に望みをおくので、心が楽になり、ただ眠くて、あれこれと考えることができません。良い眠りが与えられます。

 

2月27日(月)

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5、6

 

私たちは、クリスチャンですからどこでも主を認めていると思っています。しかし、何か問題を訴える人たちは、そうしていないように見えます。教会やクリスチャンの交わりでは、主を認めているのですが、例えば職場です。そこでは、世俗の考えややり方が普通ですから、その場に無意識の内に合わせてしまっていることがあるのです。つまり、主とは無縁の場所や、およそキリストを受け入れない人たちのいる場所では、その人たちに合わせてしまい、人間の力で頑張ってしまうことがあるのです。職場でも、一人になれる場所を探して祈っている人もいます。聖書の教えでは、あなたがどこにいても、「主を認める」のです。そうすれば、主はそこを支配します。あなたが信仰を持って主を認めているからです。主は、あなたが進むべき道をまっすぐにしてくださるので、悩むことなく簡単に前進で来ます。何かのトラブルが発生して、自分はどうすればいいのかわからなくなってしまうのは、「主を認め」ていないからです。悔い改めて、「主を認め」るのです。主はあなたが困らないように信仰を持って楽に生きていけるように道をまっすぐにされるのです。この単純なことを実践していないで、苦労している人は、すぐに今いる場所から「主を認めよ」です。どこに行っても、「主を認める」癖をつけるのです。そすれば、より良い人生を送ることができます。

 

2月28日(火)

悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。

詩篇22:26

 

牧師をしていると、何か悩みを抱えた人と会うことが多いのですが、それは、カウンセリングをして初めてわかることです。人は、生きていれば悩み事は避けられません。何でも悩みになるからです。ですから、同じことが起こっても悩む人とそうでない人に分かれます。人間は悩むようにできているのです。ですから、悩んで成長する、というのは本当です。ただ、深刻な悩みは困ります。自分の力に自信のある人は自分の力で問題解決をはかりますが、逆に自分に自信のない人は落ち込みます。落ち込むと周りの人が心配してくれるので、それが嬉しくなります。それで、悩みを帳消しにしようとします。しかし、自信のある人、ない人の間に普通の人はいます。その人は、今日の聖句を実践してみるとよいのです。昔、失恋した人が私の両親に相談して散々涙をこぼしていました。その夜、母がご馳走を作ってくれて、その失恋した人も食卓につきました。すると、美味しかったのか、どんどん食べるのです。おかわりもして、やけ食いないのか、と見ていると、満腹して、満ち足りた顔をして、すっかり失恋のことなど忘れたかのように、元気を取り戻していました。悩んでいる人は、食べ物が喉を通らないと言いますが、悩みのことは一旦忘れて、「食べて、満ち足り」るなら、悩みはどうでもよくなっているはずです。テレビで、やたら食べ物の番組が多いのは、多くの人の日常の悩みは「食べて、満ち足り」ることで解消しているのでは、と思わせます。さらに、主との交わりを求める人、つまり主を尋ね求める人、は祈ってもうまくいかないと思っているのです。とても簡単に主との交わりに入るには、主を賛美すればいいのです。歌が上手いか下手かではなく、自分の知っている讃美歌を心を込めて歌うのですが、現代のワーシップ・ソングと呼ばれるような、神様への愛や感謝を単純な言葉で歌う曲が良いと思います。文語調の古い歌詞に気がとられてしまうような曲や暗い短調の曲は避ける方が良いかもしれません。プレイズと言われている曲は心を天に向けることが容易です。ご自宅で、一人で賛美して、祈って、聖霊が満ちてくるような経験ができると、心が健やかになります。心は失望させては行けません。信仰があるのですから、心を主の愛で満たしていただきましょう。