2024年3月ディボーション

3月1日(金)

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

Ⅱコリント2:14、15

 

人間に備えられた五感を使ってキリストを伝えることが聖書の教えです。そのうちの嗅覚に例えられたのが、「キリストを知るという知識の香り」です。皆さんは、「キリストによって神に献げられる良い香り」なのです。二月は、梅の花が咲き、早春の清楚な香りがします。卒業式を迎える時期には沈丁花の良い香りが漂い、卒業生をお祝いしているかのようです。このように、良い香りはだれにでも届き、喜ばせるのですが、私たちもキリストの良き香りなのです。私たちは、霊的な目を開けば、「いつもキリストの勝利の行進に」加えられているのです。これは伝道が一人で孤軍奮闘するものではないということで、クリスチャンはキリストの勝利の行進に加えられ、大きな流れのように周りの人たちを巻き込んでいくのです。ですから、雄弁でなくても、知識が豊富な聖書教師にならなくても、ありのままで十分に役立つのです。何しろ、キリストの良い香りなのですから。自分の存在が人々を幸せにし、気分よく、元気にすることができるのです。これなら、伝道は難しくはありませんね。花の良い香りを嗅いだ時には、自分もこのようにキリストの良い香りだと思ってください。

 

3月2日(土)

わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

黙示録1:6

 

私たちの想像力は貧弱で、クリスチャンになった今でも、自分がどうなっているのかを正しくは理解できないでいる。そこで、今日の聖句を読んでみよう。まず、私たちの主であるイエス・キリストは、私たちを十字架で救ってくださったと覚えている。その主イエス・キリストは、私たちを愛しているのだ。これは、聖書に書かれているので確かであり、一人一人がイエスに愛されている体験をしているはずだ。そのことに気がつかないなら、よっぽどこの世に目を向けているからだ。この世に流されてはならない。この世には信仰を持たない人たちが多数いるから、無批判に情報を鵜呑みにはできない。そのことは、今日の聖句を理解すれば、なおさら考えるようになるはずだ。次に、私たちは主イエスを信じて、救われた。それは、主イエスのご自分の血によって罪から解放してくださったからだ。ここまでは、クリスチャンになる時に、聞いていると思う。その先が肝心なことで、「わたしたちを王とし」と書いてあるので、身分が変更されているので、そのことも信じる必要がある。もちろん、神の子としてくださったことも聖書から学んでいるはずだ。だから、主イエスの兄弟姉妹になっているので、王となっていても驚かないだろう。ただ、この世でも努力をしても王になることはまずできないから、主イエスが奇跡的な働きをされて王にしてくださったことを忘れてはならない。このことだけでも驚きであるが、さらに、「父なる神に仕える祭司としてくださった」とあるので、あなたは、王であり祭司であることを覚えていなければならない。祭司であるからには、神にお仕えすることが使命と心得なければならない。この世のことで思い煩っている暇は無いのである。王であり、祭司であるなら、どう生活を改めるか、何を楽しみにするか、何に心を注ぐか、注意するべきことがわかってくるはずだ。ただ、ファリサイ人のような失敗はしてはいけない。肝心なことは、へりくだり、自分は主の忠実な僕やはしためであるということを理解することだ。主イエス・キリストが地上に来られた時に、何をしていたかを考えれば、理解できるだろう。しかし、主イエスが神の子であったように、私たちも神の子であることを覚えよう。主イエスの私たちにしてくださった恵みは、あまりにも大きい。私たちは、主を讃美することを決して忘れてはならない。心をこめて主イエスを愛し、感謝を持ってほめ歌を歌おう。

 

3月3日(日)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

エフェソ1:3

 

私たちはクリスチャンをずいぶん小さな者として考えているようです。聖書をちゃんと読んでいないからか、それとも書かれたことを理解する力が弱いのか、自分が神様からどのようにされたのかを理解しているとは到底言えそうにありません。例えば、今日の聖句をよく読んでください。地上の祝福はしれています。すぐに消えて行くだけのものです。しかし、霊的な祝福は天から来るのですから、当然、永遠の内にあるのです。つまり、使えば無くなるようなものではありません。しかも、物質的なものはどんなに高価でも、朽ちて消え去る運命になっています。そこに自分の満足を求めても、空しくなるだけです。ある金持ちの人の家には、ガレージにとんでもなく高価な世界の高級外車が何台もありました。その車は乗らないというのです。ただ、そこにおいて眺めていると言います。その人の所有欲は満たされているのか心配になります。欲は貪欲なので、満足することはないのです。しかし、霊的な祝福というのは、物質ではありませんから、目には見えません。もちろん、お金では買えません。欲しいと言っていただけるものでもありません。そもそも、人間とは何かすらわからない人には、真の価値などわかるはずがありません。聖書には、霊的祝福の不思議さが書かれていますが、読者は、まさか自分にも同じような祝福が与えられているとは分かっていないようです。クリスチャンが受けたものは、想像もつかないほどの天の宝なのです。それをなぜ価値すらわからず、理解しようともしない、私たちに惜しげもなく与えられたのか、分かりますか。キリストの命を犠牲にしなければ救われない私たちが、救われてキリストの命の価値がわかったと言えるのか?疑問です。「天のあらゆる祝福で満たしてくださいました」と書かれているので、すでにクリスチャンとなった、あなたにこの御言葉は当てはまります。なのに、その実感がないと思っていませんか。これは、信仰によって理解されるからです。あなたの信仰は十分なので、書かれた通りに信じてください。そうすれば、この天からのギフトは全てあなたのものです。それをどのように活かして生きていくか、ワクワクしながら、主に祈って聞いてみましょう。

 

3月4日(月)

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

エフェソ1:4

 

天地創造の前に、私たちにとって重要なことが起こっていました。天地創造の時に人間は創造されましたが、私たちはその前に神に愛されています。そして、「御自分の前で聖なる者、汚れにない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と書かれています。つまり、キリストは天地創造の前にすでにおられたということです。そのキリストによって、皆さんは選ばれたというのです。それも、神の御前で聖なる者、汚れのない者にしようとしてです。これは、ファリサイ派の人たちが考えたような、自分の力や努力で達成できるようなレベルではありません。もっとはるかに超越した聖なる、汚れのない者にしようというのですから、人間の力で達成しようというのではありませんが、信仰の力で達成しようとされているのです。もちろん、キリストが人間ではできないことをことごとくなされます。例えば、十字架で罪の贖いとなることや死に打ち勝ち復活することなど、はすぐに思いつくでしょう。それだけではなく、キリストの御言葉も救いに欠かせません。約束通りに別の助け主である聖霊を信じた者に送られたことなども聖なる者になるために不可欠です。こうして見てくると、私たちはすでに選ばれた者であるが、まだどうなるか分からない。神様が認める、聖なる者、汚れのない者になっていないからです。その途上にあると言えばいいでしょうか。クリスチャンになれたことを感謝し、聖書を研究し、聖霊のバプテスマを求め、聖霊に満たされて、信仰を持って生きて行くのです。

 

3月5日(火)

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

エフェソ1:5、6 

 

私たちが救いと言う時、どんなことを考えているのでしょう。聖霊にお働きで自分の罪を知り、その罪深さに驚き、自力では罪から自由になれないことを知って、初めて救いを求めるなら、この罪からの救いという意味で考えているはずです。しかし、やがて死の問題にも気がつきます。死んだらどうなるかと言うことです。クリスチャンは皆天国へ行くのだ、と楽観的に考え、事実そうなるのならいいのですが、そのためには復活しなければなりません。ありがたいことに、キリストは死んで三日目に復活されました。これで、死を打ち破って復活された初穂となられたので、クリスチャンが死んでも復活の希望が与えられました罪。さらには、キリストの十字架は罪と死と悪魔に勝利したと言われています。こうしたことが救われるためには全部必要だったのです。人間は罪を犯さざるを得ないので、罪を犯さない自由が無かったのです。さらに、人間は必ず死ぬので、死なない自由がありませんでした。しかし、「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない』」(ヨハネ11:25、26)。そして、十字架で死に勝利し、生きる者にしてくださったのです。さらに、悪魔もこの世の支配者であると豪語して、人間を暗闇に閉じ込め、罪を犯すように誘惑し、その罪を犯したことを神に訴える者で、まさに人間を奴隷にしていたが、キリストが十字架で勝利し、悪魔から自由にしたのです。こればかりか、約束の聖霊を送ってくださるのも、聖書を与えられたことも、すべてあなたをキリストによって神の子にしようとされているからです。これは、前もって神がお定めになったことです。そして、罪からの贖いも、信仰による義も、聖霊を受けて新生することも、御言葉を聖霊が解き明かしてくださることも、たとえ死んでも再臨の時に復活することも、天の新エルサレムに入れることも、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」そのものなのです。このことが理解できたなら、あなたが讃美する時なのです。ハレルヤ!

 

 3月6日(水)

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

エフェソ1:7

 

私たちは罪人という言葉の意味を知っています。肉のうちに罪が宿っていると言われています。この罪は、大元の罪で次々に罪を生み出しています。罪は、確実に人を不幸にします。悲しみ、苦しみ、憎しみ、貪欲、高慢、嫉妬と罪を言い表す言葉はキリがありません。しかも、罪を教わったわけでもありません。罪は自己中心なので、自分の罪に気がつくことができません。責任転嫁も罪の特徴です。罪は、愛の反対語です。罪は、神との愛し、愛されという関係を断絶させました。あなたは、自分のことを嫌だなーと思ったら、罪を見ています。罪が支配すると、愛が締め出されます。神様のくださった愛は自己犠牲の愛だからです。罪がわからないという人は、神様に「自分の罪を見せてください」と祈ればいいのです。自分の罪を知ると、居ても立ってもいられません。この罪をなんとかしなければいけません。人間の力では罪を取り除けません。罪は汚れです。罪は必ず裁かれます。自分が死んでも罪は解決しません。罪ははなはだ悪性です。罪を赦し、清めることはイエス・キリストにだけできることなのです。ただし、イエス・キリストが血を流し、死ぬことによってできます。人間は無力で何もできません。これは、聖書に書かれた通り、神様のお恵みなのです。そのことを忘れてはいけません。私たちは、御言葉を研究することができます。こうした、神様、御子、聖霊がどのように働かれたのか、罪はこれで終わりなのか、これから、私たちはどうすればいいのか。こうしたことが、クリスチャンの課題です。ただ、罪の赦しと清めがすでにイエス・キリストによって実現していることに感謝を忘れてはいけません。すべてはここから始まっているのです。私たちは無力で何もできなくとも、神様の恵みで救われたのです。

 

3月7日(木)

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。

エフェソ1:8、9

 

私たちの生きている時代にも、戦争が起こりました。隣国は軍事費を三十数兆円に値上げしました。国の経済が心配されている時にです。平和がどんなに叫ばれても、分裂、分離が続いてきたのです。国連も平和に役立っているのかと首を傾げる人が増えるばかりです。このように、人間は昔から戦い続けてきました。その原因に罪が挙げられることがありますが、人間の力だけでは、どうしようもないのです。しかし、聖書で分かったことは、神は人間を救済しようと計画をお立てになられたということです。しかし、このことは奥義となっていました。それが、キリストの到来と、十字架につけられたことに、私たちの罪の贖罪の意味があったのです。それだけではなく、救われた人がどのように成長し、さらに聖化するための計画も立てておられたのです。最も驚くことは、聖霊を聖徒一人一人に送られて、新しい命とし、御言葉の解き明かし、霊の賜物を付与し、聖霊の実を結ばせることをするのです。こうして、秘められた計画を私たちに知らせてくださったのです。以前は、イスラエルだけが救われると思っていたのが、キリストの到来で異邦人も救われることが明らかになりました。ユダヤ人と異邦人の両方が救われるという真実が明らかにされたのです。

 

3月8日(金)

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストの元に一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストの元に一つにまとめられるのです。

エフェソ1:10

 

人間が何人か集まると争いが始まると言われると、大袈裟なと思うかもしれませんが、世界は、実際に不穏な空気に包まれています。キリストも「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」(マタイ24:7)とお語りになっています。しかし、一方でキリストは救いの業全てを完成し、信じるだけで救われる道を開きました。それは、ユダヤ人だけの救いではなく、異邦人も救われるという秘密でした。隠されたいたので、奥義と言われていましたが、キリストが到来してユダヤ人も異邦人も一つになって救われる道が完成したのです。かつてはバラバラであったこの世界が、キリストの来臨で、預言通りに救いの全てが成就しました。天で起こった罪の問題も地上に広がり、滅びや天の裁きが私たちの上にあったのです。しかし、キリストの十字架の贖いにより、罪の贖いがあることや、回心、新生、聖化、栄化と全てキリストの業のおかげで、救いは完成して行くのです。全てはキリストにあって一つになるというのは、人間にとっての偉大な喜びなのです。ですから、キリストに救われた自分を考えてみるのです。なんでもできます。神がキリストを通して、一つにしたからです。

 

3月9日(土)

キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

エフェソ1:11、12

 

エフェソ書を書いたパウロが、「わたしたち」と書いてあるときは、パウロと同じユダヤ人キリスト者のことを意味しています。異邦人には「あなたがた」と書いてあるので、区別していることがわかります。創世記を読むと、アブラハムと主は契約を結んでいます。それは、子孫にまで及んでいます。ですから、ここに書かれている「約束されたものの相続者」というのは、アブラハム契約のことだと察しがつきます。ユダヤ人たちは、早くからキリストが来られることを知っていました。しかも、自分たちの国に来られると理解していたのです。もちろん、キリストはユダヤ人の解放のために来ると信じていたのです。彼らこそが、神の栄光をたたえる人たちだったのです。しかし、神様はユダヤ人だけを救おうとされていたわけではありません。全世界の全ての人を罪から解放されようとされていたのです。初めは、ユダヤ人を通して福音を世界中に広めようとされたいたのですが、ユダヤ人は逆に自分たちだけが選民であると考えるようになってしまいました。そこで、異邦人に福音を伝えると、異邦人クリスチャンが世界に伝道したのです。そのために、キリスト教は短期間に世界中に広がりました。ユダヤ人でイエスをキリストと信じた人たちは、メシアニックジューと呼ばれています。彼らは、世界中のユダヤ人に伝道しています。現代では、メシアニックジューもクリスチャンも共にキリストに希望を置き、神の栄光を讃美しているのです。再臨の日が楽しみです。

 

3月10日(日)

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

エフェソ1:13、14

 

アメリカのフードコートに行くと、味見をしろとばかりに爪楊枝に刺した鳥の照り焼きなどを通りゆく人たちに突き出して、呼び込みをしています。クリスチャンに聖霊を与えられるのは、この味見に似ています。聖霊を受けて、初めて天国の一部を味わうわけです。天国は、とても素晴らしいと聞いてはいても想像がつきません。そこで、天国に入る前に、天国をほんの少しですが味わわせてくださるのです。そのためには、まずイエス・キリストを知らなければなりませんから、真理の言葉を聞いたり、読んだりします。それは、多分クリスチャンや牧師などを通して福音を聞くことから始まるのです。私たちの罪のこと、その罪からの解放の方法、それができる唯一の方がイエス・キリストであるとなどを聞いて、洗礼を受けてクリスチャンになりました。この聖句は、異邦人へのメッセージだったのですね。しかし、決定的なことは、聖霊で証印を押されたことです。皆さんが天国へ入るために保証となるものは、この聖霊なのです。私たちは、このように神とキリストによって完全に救われる道が備えられているのです。ですから、主を信頼して、聖霊のお導きを頼りに、信仰の道を進みます。さらに、重要なことは、私たちは神のものであることです。それは、最善の道です。このことを悟れたら、神の栄光をたたえることになるのです。

 

3月11日(月)

主はこう言われる。

正義を守り、恵みの業を行え。

わたしの救いが実現し

わたしの恵みの業が現れるのは間近い。

イザヤ56:1

 

クリスチャンは、主の再臨を知っています。その時期に関しては、いろいろな意見がありますが、その日時は分かりません。ただ、いつ再臨が来てもいいように生きることが奨励されています。それは、一体どのようなことでしょうか。聖書を読んでも、いろいろなことが書いてあります。あれもこれも守ることが多くあるのです。ですから、結局、何も守れないと、どこかで諦めているのです。しかし、実際に人間が心がけることは二つ、一つは「正義を守ること」、もう一つは「恵みの業を行え」です。実に、この二つを心がけていれば、多くの大切な戒めを守ることになります。しかし、そのためには、自分自身が変わらなければならないことが出てきます。例えば、人の気持ちは言葉にしなければ分かりません。親しくなればなるほど、相手への気遣いがおろそかになりやすいのです。つまり、勝手にあの人はこう思っていると断定してしまって、その人の気持ちをちゃんと確かめない、とか、自分の思いを優先してしまって、本当は相手は何をしたかったのか聞かなかった、というような失敗をしがちなのです。このようなことが積み重なれば、相手の心に負担をかけたり、がっかりさせたり、悲しませるかもしれないです。それでは、一方的で正義ではなくなり、優しくないので恵みでもないのです。このように、相手の人の気持ちを大切にするようになると、自分が変わって行きます。性格は変わらなくても、生き方は変わることができるのです。こうした人間の優しさや思いやりは、必ず自分へも帰ってくるので、いつでも幸せでいることができます。主も幸せになるように一緒に働いてくださると思います。

 

3月12日(火)

神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。

使徒20:32

 

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(Ⅱテモテ3:16)と書かれていることをご存知だと思います。これは、バプテスマクラスで教えることだからです。それほど、初歩的教えですから、クリスチャンは聖書を特別に考え、永遠の命に関わる重要なこととして理解しておくことが肝心です。キリスト教の書籍を扱う古本屋でもブック・オフのような古書店でも、聖書を見つけることができます。誰が、聖書を売ったのだろうと心配になります。永遠の御国へ入るガイドマップか指南書のようなものなのに、聖書を売った人はどうなるのだろう、と心配になるのです。それは、聖書自身が「あなたがたを造り上げ、・・恵みを受け継がせることができる」とハッキリ書いてあるからです。残念なことに、クリスチャンでも聖書をなかなか読みません。ましてや研究している人は少ないのです。それは、悪魔もその点をよく理解しているので、聖書を読ませないように妨害していると昔から言われています。さて、あなたは聖書を何冊持っていますか。訳の違う聖書を持っていますか。英語聖書など外国語の聖書や原典を持っていますか?何冊持っていても使わなければ意味がありません。たった一冊でも大事に読んでいれば、とても価値のあるものとなります。聖書は、できれば中型か大型にして、余白を使って意味や大事なことを書いておくといいですね。昔は赤鉛筆で線を引いていましたが、今は蛍光ペンなど筆記具もよくなっていますから、工夫して使うといいですね。記号を使う人もいますが、そのうち教えますね。

 

3月14日(木)

わたしには律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

ローマ3:9

 

私たちは、信仰による義の大切さをもっぱらパウロから学んでいます。私たちが自然に考えることは、どうしたら立派な神様に認められる正しいクリスチャンになれるか、ということです。つまり、天国へ入るのに、義と神様に認められる必要があると考えているのです。しかし、いざ義と認めていただこうと思うと、力んでしまいうまくいきません。それどころか、たとえば安息日を守るように聖書に書いてあるのだから、頑張って守ろうとすると、安息日礼拝に出席できたから守れたと思っても、では、午後は何をしていたのか、と不安になることが幾つでも出てきます。自動販売機で飲み物を買って飲んでいいのか、自動車は何キロまで運転してもかまわないのか、外食してもいいのか、テレビは観てはいけないだろうが、宗教の映画はどうか、休むのだから寝ていなければいけないのではないか、といったように、いくらでも疑問が湧いてきます。はたして、礼拝に参加すれば安息日を守ったことになるのか、と、尽きない疑問とちゃんと守れていないのではないかという不安が消えなくなります。これは、真面目な人が陥る問題です。パウロの答えは明確です。「わたしには律法から生じる自分の義ではなく」とある通り、安息日を守る(律法)から生じる義じゃない、と大切な点を指摘しています。自分は、律法をちゃんと守っている、だからわたしは義なのだ、という論理は、「自分の義」であって、神様が認めた義ではない、と言っているのです。では、他にどんな義の方法があるのでしょう。「キリストへの信仰による義」です。つまり、「信仰に基づいて神から与えられる義があります」。何か正しいと言われていることをするのではなく、ただ信じる信仰から良いことが始まります。神様がそのようにしてくださるのです。私たちは、プライドを捨て去り、自分で自分を義としようとしないことです。私たちを義とするのに必要なことは、すべてイエス・キリストがすでに行いました。あとは、あなたがイエス・キリストを信じて待つだけです。

 

3月15日(金)

あなたの定めはわたしの楽しみです。

わたしに良い考えを与えてくれます。

詩篇119:24

 

聖書をどのように読んでいるのか、他の人のことが気になりますか。私が聖書を手にしたのは、18歳の時です。大きな書店で口語訳の中型聖書を買いました。その頃には、いろいろな聖書が平台に並べられ、聖書が一種類ではないことに驚きました。珍しい聖書では、イエス様のお言葉だけ赤インクで印刷された聖書もありました。今では、見かけることがありません。アメリカの有名な説経者は、この赤インクのイエス様のお言葉だけを読んで、救われました。そして、友達にも勧め、その人も救われました。イエス様のお言葉には力があるのです。聖書には、神様の戒め、定めが書かれています。詩篇記者は、「あなたの定めは私の楽しみです」と言いました。聖書の読み方が違っているのです。いわゆる律法を読んで楽しいと言う人がどれほどいるでしょうか。明らかに詩篇記者の読み方は普通の人とは違っているのです。どうしたら、神様の定めを読んで楽しみになるのでしょうか。そのヒントは、下の句にあります。「わたしに良い考えを与えてくれます」。つまり、普通の人は聖書を読み飛ばしているのですが、詩篇記者は味読しているのです。良い考えが浮かぶまでにどれほどの時間が必要でしょうか。読んだ途端に、神様が何をおっしゃっているのかがすぐにわかることもあれば、なかなか意味がわからずに、何日も考え続けることもあるでしょう。「与えてくれます」とあるのですから、ある時、神様が突然のひらめきのように教えてくれるのです。その喜びはとても大きいものです。神様の定め(律法)を規則のように考えた人たちは、ファリサイ派の人たちのように律法主義者になりました。彼らのように読んで守れないと律法から遠ざかる者もいます。しかし、「殺してはならない」との定めを読んで、そんなことは当たり前だと、何も考えないなら今日の聖句のようにはならないのです。たとえば、創世記3章のカインとアベルの物語を読んだ時に、「殺してはならない」と言う意味を考えることになります。また、ダビデが自分の不貞を隠すためにウリヤを殺してしまう時に、また「殺してはならない」とは、と考えます。さらに、イエス様が十字架で殺される場面でも、「殺してはならない」とは、と考えるのです。このように考えて行くと良い考えが与えられるのです。神様が私たちのために聖書を残されたのですから、宝箱を開くように楽しみがあるのです。その面白さを知るまで、聖書を読んでみましょう。

 

3月16日(土)

むなしいものを見ようとすることから

わたしのまなざしを移してください。

あなたの道に従って

命を得ることができますように。

詩篇119:37

 

クリスチャンもこの世に生きているので、誘惑は身近にあります。特に目の誘惑は影響が大きいので要注意です。たとえ仕事でも、偶像になることがありますし、神様から引き離す力があります。ですから、「むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください」という祈りは、誰にとっても必要なのです。こうした日常生活の中で何気なく罪の罠にハマって行くことは死を意味しているので、危険なのです。自分の努力では足りないと感じるなら、主に祈って助けていただくことが肝心です。永遠の命が得られますように。

 

 3月17日(日)

わたしは愚かで知識がなく

あなたに対して獣のようにふるまっていた。

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので

常にわたしは御もとにとどまることができる。

あなたは御計らいに従ってわたしを導き

後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。

地上であなたを愛していなければ

天で誰がわたしを助けてくれようか。

詩篇73:23~25

 

教会に行くようになって、罪人という言葉を頻繁に聞くようになりました。その意味もだんだん分かってきましたが、今日の詩篇ほど強烈に言い当てている箇所は見当たりません。それは、「あなたに対して獣のようにふるまっていた」という箇所です。「愚かで知識がなく」という箇所は、そうだな!と受け入れることができますが、「獣のように」と書かれてみて、初めて罪人の深刻さを知ったのです。それまでは、自分を肯定する気持ちが強く、自分のどこが悪いか、と居直っていたのかもしれません。このように、神様から見れば、どうしようもない人間を神様が「わたしの右の手を取ってくださるので、常に御もとにとどまることができる」のです。これは奇跡ですね。そうです、皆様を神様は特別な思いでご覧になり、愛されているのです。ですから、私たちは神様の御計画に従って導かれているのです。そして、それは最後に「栄光のうちにわたしを取られる」とある通りに、眠りにつく時がくれば、自分の人生がいかに神様によって祝福されていたかがわかります。なんの心配もなく、マラソンランナーがゴールを駆け抜けるように、クリスチャン人生を全うするでしょう。そして、信仰を持って生きてきたことが、神に愛され、主を愛する日々であったと悟るのです。この地上で主を「愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか」という聖句の通りに、主の真実を知るのです。ハレルヤ!主に感謝いたします。

 

 3月18日(月)

いかに幸いなことか

主を神とする国

主が嗣業として選ばれた民は。

主は天から見渡し

人の子らをひとりひとりご覧になり

御座を置かれた所から

地に住むすべての人に目を留められる。

人の心をすべて造られた主は

彼らの業をことごとく見分けられる。

詩篇33:12~15

 

日本がキリスト教国であればどれほど良いか、と考えてしまいます。隣国の韓国が仏教と儒教の国であったのに、今ではキリスト教国となっていることがうらやましく感じます。日本の首相も大臣も国会議員も知事もことごとくクリスチャンであれば良いと思います。もし、日本人が皆クリスチャンになるとすれば、全国民が天国へ行ける可能性が出てきます。これは、すごいことで、イスラエルの神の民のようになるということです。天の神様は、その御座からでも地に住む者すべてを見ることができます。その心に真実があるのか嘘があるのか、見分けることがおできになるので、不正を働いている人の嘘の言葉も通用しません。逆に、正しいことをしているのに、虚偽で訴えられ陥れられるようなことがあっても、何が真実かを神様はご存知なので、後で正しい裁きがなされることになります。それにしても、日本人の1%にも満たない数のクリスチャンしかいないことに驚きます。日本人は優秀で性格も穏やかで真面目な人が多いのに、なぜ真の神様を信じないのか不思議でならないのです。フランシスコ・ザビエルが日本に宣教に訪れ、キリスト教伝道が始まりましたが、その時の様子と比べると、天地の差があります。地方の大名にクリスチャンが多くいました。その家族はもちろん、その家来衆たちも皆クリスチャンになりました。日本人伝道を成功させるために、神学校も作りました。日本人の聖職者を養成することが重要と考えたからです。大名の子弟や家来の子弟で優秀な子供が選ばれました。イエズス会は、信仰の対象として聖母子像を拝ませていたのです。ですから日本でも同じようにしようとしたのです。しかし、西洋から優れた絵を運んでくることは容易ではありませんでした。そのため、神学校に美術の時間を設け、日本人に聖母子像を描く技術を教えました。まだ、西洋絵画を知らなかった時代に、キリスト教信仰を広めるための道具としてキリスト教美術がいち早く入ってきたのです。実際、この聖母子像を描いた絵画は、広められ信仰対象になっていったのです。それは、日本人の信仰感に合っていたのです。今日、偶像を拝んではいけない、という戒めのために、プロテスタントの教会に行っても、聖母子像はありません。ただ、カトリック教会にあるのみです。拝む対象が何もないとなると、その宗教はかなり高度な宗教であることになります。ですから、余計に伝道が進展しないのかもしれません。ただ、クリスチャンがキリストの似姿となって、愛の模範を示せば、大きな伝道の力となるでしょう。これが、聖書に書かれた方法であり、プロテスタント教会のやり方なのです。

 

3月19日(火)

神に従う人の道は輝き出る光

進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

神に逆らう者の道は闇に閉ざされ

何につまずいても、知ることはない。

箴言4:18、19

 

クリスチャンの多くは内に光が見えるのですが、悪魔に攻撃されたり、罠にかかったりしている人は、逆に黒く闇が見えます。それでも、祈ると黒く見えていたものが消え、光が満ちてきます。光も色が付いて色々に見えることがあります。パステルカラーのように柔らかい穏やかな明るい色で見えている人もいますし、白い光に満ちている人もいます。聖書で言えば、今日の聖句がよく説明していると思いますが、信仰を持って信心深く生きている人の道はまさに輝き出る光なのです。そのまま、信心深く主に近づこうとしているなら、進むほどに光は増します。それは、真昼の輝きとなる、とあるように白く輝く眩しい光なのです。主が近づいて来られた時の色だと思います。この恵みは信仰の旅路を支えます。一方、神に逆らう者の道は闇に閉ざされているとある通りです。霊的な真実がまるで見えません。その結果、いつでも何かにつまずく危険があります。さらに恐ろしいのは、何かにつまずいているのに、知ることができないのです。神がいないからとたかをくくっている人たちは、自分中心に物事を考えるので、非常に危険です。それがわからないのは、暗闇の中にいて見えていないからです。それにくらべ、神に従う人は、生活は良くなり、信仰を増すように神の恵みをいただくことができます。信仰者は信仰の実りがあることをあまり理解できていません。ですから、光を見ることを求めると良いのです。誰しも同じような人生であるようですが、実に大きく分かれています。神に従う道以外は、とんでもなく大変ですから、回り道をしないように気をつけましょう。意識して、主に従順でいましょう。

 

3月20日(水)

主は人の一歩一歩を定め

御旨にかなう道を備えてくださる。

人は倒れても、打ち捨てられるのではない。

主がその手をとらえていてくださる。

詩篇37:23、24

 

神様を信じて、その定められた道をまっすぐに進む人は幸いです。必ず幸福になり、成功をおさめるからです。自分の人生を振り返ってみた時に、後悔ばかりが出てくる人生を歩む人は、意外なほど多いのです。しかし、信仰を持って主のお定になられた道を行くと決めるなら、人生は好転します。しかも、私たちは主の方法に従わなければなりません。それは、性急に生きてはならないということです。神様のやり方は、一歩一歩なのです。つまり、着実にゆっくり生きていけばいいのです。私たちはすぐに良い結果を求めてしまいますが、何が自分のためになるのかを正しく理解しているわけではありません。主に任せて、従順にイエス様にお従いすることが確かな道です。そうすれば、自分の欠点を治していただけるし、天にふさわしい品性を身につけることも可能ですし、何よりも信仰によって義となる生き方が身につきます。こうした御旨にかなう人生の道を主はあなたのために喜んで備えてくださいます。さて、聖書を読むと試練が信仰者にはつきものであることに気がつきます。例えば、「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(Ⅰペトロ4:12)と書いてあります。私たちは罪人であったのですから、いろいろ問題を抱えているわけです。それを修正したり、右にも左にもそれない信仰を形成しなければなりませんから、このような試練も意味があるわけです。ただ、そのような苦難が襲った時にも、主の愛は変わりません。「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」のです。ありがたいことです。ですから、私たちは慎重に確実な一歩を歩んで、信仰の高みへと登っていくのです。

 

3月21日(木)

「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐んでください」と叫び続けた。

ルカ18:37~39

 

これは、ある盲人の物乞いが、イエス様に目が見えるように癒していただいたお話です。この人の特徴は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」と叫んだことです。

しかも、誰かが叱っても、ますます同じことを叫び続けたのです。そこで、立ち止まったイエス様は、「何をして欲しいのか」と聞きました。盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えました。すると、イエス様は「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と宣言します。盲人はたちまち見えるようになりました。この癒しがどうして起こったのか、気になります。盲人は、ただ叫んでいただけです。しかし、そこにイエス様は何かを見たのでしょう。それは、「わたしを憐んでください」という叫びにあったのではないでしょうか。それは、周りの人々からは迷惑なだけだったので、黙らせようとしました。しかし、盲人はやめませんでした。その結果、イエス様は立ち止まり、癒されました。癒しを願う人たちがいれば、彼らはイエス様に癒していただきたいと祈るのですが、奇跡が起きません。どうしたら、この盲人のようにたちまち癒されるのでしょうか。まず言えることは、盲人は叫び続けた、ということです。私たちは、イエス様が立ち止まるまでは祈りやまない、というような祈り方をしているだろうか。そして、彼の言葉です。「わたしたを憐んでください」と叫びました。そうです、彼は主の憐れみにすがったのです。「そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った』」。やはり、イエス様を信じる信仰によって奇跡が起きたのです。しかも、癒されるだけではなく、救われました。救いと癒しが、同じ信仰によって起こることがわかります。この盲人のような信仰を表したいものです。

 

3月22日(金)

兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピ3:13、14

 

クリスチャンは、どうあるべきか考えてみたことがありますか。つまり、自分はただ生きていればそれでいいのでしょうか。ある意味それは正しいのですが、それでも、パウロの勧めるようなクリスチャンのなすべきことと目標はあるのです。私が神様の不思議なお導きで神学校に入った時に、寮で朝夕の礼拝がありました。私はクリスチャンではなかったので、礼拝もわからないし、聖書すら全く知らなかったのです。そんな人が神学校に入ることなどありえないことです。それでも、神様の憐みで寮の礼拝室の一番後ろに座っていました。礼拝の説教者は将来牧師を目指している神学生が務めます。大体、ここで祈り方や説教のやり方を学ぶわけですが、全く何も知らない私が教会の説教ではなく、寮のチャペルの神学生の説教を聞くわけです。証のような説教もあれば、本格的な講解説教や聖句説教を毎日聴く事になりました。そして、何十年も前のその説教で今日の聖句が読まれ、後に牧師になった先輩が語ったことを今でも覚えているのです。もちろん、内容はすっかり忘れましたが、この聖句は印象深く残っているのです。パウロ流に言えば、クリスチャンになったからには、目標を目指してひたすら走ることです。その賞とは、天国でイエス様からいただけるご褒美のようなものです。アスリートのような運動が得意な人には、ワクワクするような説明です。もちろん、マラソン競技のようなイメージなのでしょうが、走るのが苦手で、嫌いな人もいます。そのような人にとっては、このパウロの説明は納得がいかないかもしれません。パウロは信仰も熱い、イエス・キリストへの情熱家なのです。ですから、走るのがそれほど得意ではない普通の人でも、前半部分には着目して欲しいのです。パウロは、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」と言っています。過去に縛られてはいけません。罪人であった自分をいつまでも覚えていることはありません。前向きに生きることはクリスチャンにとっても重要なことです。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。これを求めて信仰生活を送る事になります。そして、それは古き人に死に、新しき人に復活することなのです。

 

3月23日(土)

わたしの救いと栄えは神にかかっている。

力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

民よ、どのような時にも神に信頼し

御前に心を注ぎ出せ

神はわたしたちの避けどころ。

詩編62:8、9

 

クリスチャンがいつも己に戒めていることが、「わたしの救いと栄えは神にかかっている」ということです。これは、自分の力でいくら頑張ってみても義にはならない、という自己義人の否定であり、「わたしの救い」とは、主を信頼して全てを信じて任せることで主が救ってくださることであり、言葉を変えれば、主を信じる信仰によって義となる、ということです。そして、「栄え」とは、クリスチャン人生が栄えるということです。仕事であれ、学業であれ、家庭であれ、志であれ、その手の業はことごとく主を信じる信仰のゆえに栄えるのです。二行目に出てくる「岩」はイエス・キリストのことです。「力と頼み、避けどころとする岩」は神のもとにあるというのですから、毎日、神様に祈り、困った時も、弱った時も、助けて欲しい時にも、神様に縋るなら、そこに主イエス・キリストがいて、祈りに応えてくださいます。皆さんは、どんな時にも神様を信頼して、正直に自分の心を御前に注ぎ出していいのです。この厳しい世の中で生きて行く私たちは、「神様は私たちの避けどころ」と唱えて生きて行くのです。肝心な時に、この御言葉を忘れてしまう人が多いので、あなたは忘れないように、日頃から言葉にして覚えてしまいましょう。心の平安は主から来るので、今日の詩編を覚えてどんな時にも平安をいただき、この世でも勝利の人生を送ることができることを覚えてください。

 

3月24日(日)

わたしは生い茂るオリーブの木。

神の家にとどまります。

世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。

あなたが計らってくださいますから

とこしえに、感謝をささげます。

御名に望みをおきます。

あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い

あなたの御名に。

詩編52:10、11

 

オリーブの木は聖書では良いもの、理想の象徴です。そのオリーブの木に自分をたとえています。しかも、そのオリーブの木は「生い茂って」います。つまり、この木はとても生育も良く、実を期待できる勢いのある理想の木なのです。それは、神の家に植っているオリーブの木でした。つまり、この人は神様を信じている信仰者で、教会から離れることなく生活し、神の恵みにより理想的に成長を続けていて、勢いすら感じるのですが、この人は教会を離れようとはしないのです。どうしてかと言えば、この信仰者はわかっているのです。自分が祝福されているのは、神の慈しみに依り頼んでいるからです。ですから、この人は生かされる限り、いつまでもこの信仰を守ろうと決心しているのです。神に信頼を置いている限り、神がこの人のために全てが祝福となり益となるように計らってくださるのです。そのことがわかるので、永久に感謝をささげるのです。この人は、御名の意味を理解しています。ですから、そこに主がいるように、御名に望みを置くことができるのです。その御名はイエス。イエスを信じて従順な人は、信仰によりイエスの慈しみに生きるのです。イエスの恵みは深く、尽きることがない。

 

3月25日(月)

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

Ⅰコリント15:10

 

この「神の恵み」とは何でしょう。「他の使徒よりもずっと多く働きました」とパウロに言わせた働きの原動力のようなものです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:13)と言わしめた、パウロを強めてくださる方は、聖霊であろう。パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言いました。このように、パウロは最初はキリストと教会の迫害者でありましたが、イエスと出会い、すっかり生まれ変わって、最後の使徒となりました。それだけに、一生懸命に働き、福音を世界に広め、今日に続くキリスト教会を各地に作ったのです。それだけではなく、パウロ神学と言われるように、思想的にも信仰的にもキリスト教会を作り上げていった功労者なのです。誰もが知っているキリストの使徒パウロは、その働きを聖霊の力としていますが、今日の聖句では「神の恵み」と言いました。聖霊がそのようにパウロに働いたからなのです。そして、今日も同じように聖霊は、イエスに服従する者と共に働き、「神の恵み」となるのです。

 

3月26日(火)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることをしっています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23

 

これがクリスチャンの基本的な考え方です。イエス・キリストを信じて救われた日から、私たちは、それまでの生き方を捨てて、ただ主イエス・キリストにお仕えてして生きて行くと決めたのです。ところが、不思議なことに、それは、この世の人に仕えるという形で、実現しました。人と出会う時に、この目の前の人がイエス様であると思ってから、接するようにというのです。すると、冷たくすることも、いい加減な接し方も、できません。それは、誰に対しても心から行わなければならないのです。もちろん、報いもあって、神の国を受け継ぐことができるのです。さて、目の前の人を主キリストと認められるでしょうか。そして、そのように主にお仕えできるでしょうか。この神秘は、信仰によって実現します。あなたは、「主キリストに仕えているのです」。

 

 3月27日(水)

主よ、わたしを見捨てないでください。

わたしの神よ、遠く離れないでください。

わたしの救い、わたしの主よ

すぐにわたしを助けてください。

詩編38:22、23

 

この詩は、どのような状況の時によまれたのでしょか。あなたの信仰生活で、このように「わたしを見捨てないでください」と思ったことはありましたか。大きな困難に直面した時、大病を患い死を覚悟した時、強敵が現れて命すら危ぶまれる状況になった時、皆の信用を失い、人が自分から離れ去って行き、完全に孤立してしまった時、他にもいくらでも助けを必要とする状況はあるでしょう。この世の中で、こんな最悪の状況に追い詰められると、落ち込み死ぬことすら考えるようになります。大切なことは、そのような状況でも助けを求める神様を信じていることです。この詩人は神様を裏切るようなことをしたかもしれません。自分でも情けなくなるような失敗をして、神様にも見捨てられそうだと気がついた時に、人はどのように祈ったらいいのでしょう。今日の詩編はその答えなのです。普段は忘れているかもしれませんが、あなたにとって主は救いそのものなのです。そして、どんな時も「すぐにわたしを助けてください」とすがることのできる神様なのです。なぜなら、主はあなたを愛していて、滅ぶことを惜しむ神様だからです。あなたの声が主の耳にとどくやいなや、圧倒的な力であなたの救出に動き出します。それは驚くほどです。私たちは、このことを知っているので、失敗しても、悔い改めて何度でも立ち上がることができるのです。主の憐れみ深さを感謝して賛美いたします。

 

3月28日(木)

床に就くときにも御名を唱え

あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。

あなたは必ずわたしを助けてくださいます。

あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。

わたしの魂はあなたに付き従い

あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。

詩編65:8、9

 

信仰とはまことに不思議なものです。それは神様が生きて働かれるからです。私たちは、人生の初めから毎日選択して生きてきました。多感な10代を上手く切り助けるかどうかもその後の人生を大きく変えてしまいますから重要です。しかし、何といってもイエス様と出会ったことが人生最大の恵みです。救い主の必要すら感じていなかったのに、自分が罪人であると知って、その罪をどうすればいいのかわからずに、キリストの十字架の意味を聞いたのです。それは、人を通して福音を聞いたのに、内容は聖霊が悟らせてくださったのです。それから、信仰生活が始まり、気づくとイエス様無しには生きていけなくなっていました。人生は長く、いろいろなことが起こります。およそ、自分で考えてもみなかったことにも遭遇し、試練を経験するのです。そして、年齢と共に信仰は安定して、信じる喜びも大きくなって行くのです。ただ、試練は一度というわけではありません。大きな試練が逆に神様へ近付かせる恵みになって行くこともあるのです。そんな時の詩が今日の聖句です。信仰は、奇跡を生みます。しかし、同じ信仰が地道な努力をも要求するのです。これは、神様に愛されているからこその意義ある導きなのです。

 

3月30日(土)

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

Ⅰコリント13:2、3

 

私たちは、愛について評価が低すぎる。信仰者にとって、第一に重要なことが実は「愛」なのだ。ところが、クリスチャンの関心は霊の賜物にある。それは預言する賜物であれば、あらゆる神秘と知識に通じた人になれると思っているからだ。聖書を何とか原語で読みたいと思う人は少なくないだろうが、学ぼうとすれば、ほとんどの場合、独学になり、初歩を学ぶのにも苦労するのだ。神学校を卒業した牧師ですら、聖書語学を苦手とする人は少なくない。それだけに、入門レベルを超えて、せめて初級レベルをマスターして、聖書を原語で読むことができれば、と願うのだが難しい。ギリシャ語の方がヘブル語よりはマシだが、簡単ではないので、預言の賜物をいただいて、聖書の難解箇所や古くて分からない箇所などを聖霊によって理解できればと願うわけだ。それが実現したとしても、愛がなければ意味がないというのだ。確かに、私たちが目指しているのは、山をも動かす完全な信仰を持つことだ。それが、実現しても愛がなければ意味がないのだ。貧しい人への施しや、信仰のために殉教したとしても、愛がなければ何の益もないと聖書は教えている。そうすると、信仰が満たされないとか、信仰生活が停滞している、という訴えは、実は愛の欠乏が原因である可能性があるのだ。それは、信仰を強めようとか、聖霊に満たされようとか、聖書を学ぼうとか、信仰者は色々努力しているのだが、本当は主の愛を知り、その愛に生きることが求めらているだけなのだ。主に愛され、主を愛す。それが一番大事なことなのだ。そして、隣人を自分のように愛し、隣人に愛されることも、同じように大事なことなのだ。そこに信仰の目を注ぎ続けるなら、きっと今までよりも上手く行くはずだ。まずは、主の愛を瞑想してみよう。

 

3月31日(日)

しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

ヨハネ4:14

 

人間が覚える渇きとは、単に水のことを言っているわけではありません。例えば、人間は仕事をしても家事をしてもストレスを感じます。それを解消するために、手近にあるゲームをしたりするかもしれません。これが、渇きであり、その渇きを癒す水の意味するところです。つまり、この世界に生きていれば、何をしてもしなくても、渇きを覚えるというのです。それを癒そうとするものは、いっときのごまかしのようなもので、結局は癒されることはないとなります。しかし、イエスは「わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35b)と言われました。さらに、イエスは「『渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」(同7:37~39)と語られました。つまり、イエスを信じて救われる人は、天の父から聖霊を遣わされ、その聖霊がその人の内で泉のようになり、しまいには腹から川となって流れ出るほどになる、と言うのです。このように、聖霊に満たされ、聖霊が泉のごとくに信じた人の内で働き、溢れ出てくることが「永遠の命に至る水が湧き出る」ということの意味なのです。