2022年9月ディボーション

9月1日(木)

どう足を進めるかをよく計るなら

あなたの道は常に確かなものとなろう。

箴言4:26

 

「行き当たりばったり」という生き方をしている人もいます。「出たとこ勝負」と威勢の良い人生をギャンブルのように過ごしている人もいます。かと思えば、「石橋を叩いても渡らない」という慎重な人生を選ぶ人もいます。どのような人にでも、人生は良い時ばかりではなく、悪い事も起こるものです。若き日に、「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ」と聖書を読んで、覚えておこうと思ったものです。実は、誰でも緊張して注意深く生きようとしても、長続きはしません。それに、仕事や生活に慣れが生じると、どうしても気が緩むものです。そんな時に、落とし穴が待ち構えているわけです。また、仕事で考えると、本屋には「看護師になるには」といった、ある職業に就くにはどうすれば良いのかを教える本が並んでいます。多くの場合、社会を知らない若者が、サッカー選手や野球選手になりたいと思っていないなら、他に何になろうと思えるのでしょう。ある人は、医者になる、弁護士になる、会計士になる、警察官になる、とテレビなどで見たことのある職業になりたいと言います。ただ、ほとんどの人が何になりたいのか、何が自分の天職か知らないで、時が来ると押し出されてどこかの会社に就職することになります。昔の若者は、もっと猶予が欲しいとモラトリアムと言われたりする人がいて、働くことを先延ばしする若者もいたのです。牧師になるには、教団指定の神学校に入学し、卒業することが求められます。これは専門職なのでさらに大学院で学ぶ人もいます。このように、道が定まったものもあります。しかし、人生という長い時間をどう生きるかということになれば、今日の聖句はよく考える必要があります。「あなたの道は常に確かなものとなろう」とはっきり書いてあるのですから、この生き方が聖書的な生き方となります。それは、「どう足を進めるかをよく計る」ということの内容を考えればいいわけです。奴隷のようにただ疲れたと働いているなら、それは聖書の教える生き方ではありません。家庭の主婦でも、無職の人ですら、この勧告に耳を傾け、考えるのです。「できない」とか「無理」という言い方もできますが賢明ではありません。それぐらいなら、にっこり笑て「できる」と言った方が建設的です。大それたことをする必要はありません。自分ができることをするのが前提です。できるところから始める。ハードルは低めにしておく。助けてくれる人を見つける。仲間を作る。ストレスを溜めない。できるだけ楽しく働く。自分の働きが人のためになっていると思うこと。疲れたら休む。頑張ったら自分を褒める。ご褒美もあげる。こんなことを自分のために計画し、決めるのです。悩みそうになったら相談できるように、相談できる人を見つけておくことも大切です。こうして、経験を積むとそれが財産になります。

 

9月2日(金)

レビ人の長ケナンヤは、運搬に当たり、運搬を指揮した。彼はそれを専門としていた。

歴代誌上15:22

 

ダビデは契約の箱をダビデの町(エルサレム)へ運びたかった。ペリシテに奪われ、それをペリシテ人が返してよこしたが、いまだにダビデの町に安置されることはなかった。そもしもの経緯は、歴代誌上13章を参照してください。ダビデは、契約の箱を運ぶ時に失敗していた。牛車を使って運搬しようとしたのだ。今と違って舗装されていない凸凹の道路を荷車に乗せて運べば、落ちそうになることぐらいわかりそうなものなのに誰も気づかなかった。そして、契約の箱を預かっていたウザが当然のように荷車の横を歩いた。そこで、悲劇が起こった。箱が落ちそうになったので、思わずウザは手で契約の箱を押さえてしまったのだ。このために命を落とした。そもそも、このようなことのないように、専門家のレビ人が箱にかつぎ棒を通してお神輿のようにかつぎあげて運ぶことが決まりだった。それなのに、ダビデは自分の考えで最善と思われることをしたのだが、結果は最悪なものになってしまった。国をあげての国家行事だったので、ダビデの面目はつぶれた。そして、冷却期間が過ぎ、今度は古式にのっとりレビ人に任せた。盛大なパレードとなるのだが、その中心はレビ人だった。門衛たちは契約の箱を守った。そして、運搬の責任者はレビ人のケナンヤだった。運搬の指揮者だ。彼はそれを専門としていたのだ。ここで、考えさせられる。引っ越しの時に素人がトラックを借りてきてやる場合もあるが、大きな引っ越しは専門家でないと難しい。どんな仕事にも専門家はいるものだ。興味深いのは運搬の指揮者という専門家がいたことだ。今日でも、仕事は何でも専門性が増して、昔は職人と言っていたような人でも専門職となる。適材適所、どうすれば全てうまく行くのか、よく研究して知っている人になることがこれからますます大切になるだろう。皆んなと同じなどと教育されてきた日本人には試練の時になるだろう。自分らしさを活かせる専門職を考えてみるのも必要だと思う。

 

9月3日(土)

主よ、あなたは情け深い神

憐れみに富み、忍耐強く

慈しみとまことに満ちておられる。

わたしに御顔を向け、憐れんでください。

御力をあなたの僕に分け与え

あなたのはしための子をお救いください。

良いしるしをわたしに現してください。

それを見て

わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。

主よ、あなたは必ずわたしを助け

力づけてくださいます。

詩篇86:15~17

 

今風に紹介すると、私たちは元罪人と言われてしまうでしょう。それが、今はキリストに救われて神の子となりました、と続くのです。私たちは自分のことをよく知っています。本物の悪人ではないでしょう。正義感もあるでしょう。愛の人になりたいとも思っているはずです。それなのに、罪人の時の考え方が頭をもたげて、自分のために生き始めます。そうなると、「隣人を愛せよ」との主のご命令は、すっかり忘れてしまいます。そのような人は、この世では普通ですが、クリスチャンとしては問題があります。それでも、相手が親切ならこちらも親切にできるので何とかなります。しかし、主は「汝の敵を愛せよ」と信じられないような命令をされました。競争社会の中では敵だらけで、そんな甘いことを言っていたら、たちまち蹴落とされてしまいます。しかし、クリスチャンも人間ですから、弱さを見せながらも何とか頑張って生きているのです。しかし、神様に祝福されているので、つい調子に乗ることだってあります。そのような時が危険で、敵を作ってしまうかもしれません。このような油断がなかったとしても、一方的に敵が現れて攻撃されることもあります。クリスチャンだから悪魔が背後にいて攻撃されているのだと思っても、敵がいることも、攻撃されることも困ります。相手は、こちらを巧妙に陥れるかもしれません。もっと難しいのは迫害されることです。このように、私たちは敵を作り、攻撃されたり、迫害されたり、誹謗中傷されることがあります。私たちはクリスチャンなので、まず祈ります。自分の不注意や罪を悔い改め、そして主に助けを求めるのです。その時の祈りが、今日の聖句です。「わたし」と書かれたいる所に、自分の名前を入れて読み替えるのです。「○○に御顔を向け、憐れんでください」と祈るのです。私だと、「主よ、あなたは必ず典臣を助け、力づけてくださいます」と祈ります。しかし、まずは「隣人を愛せるように、僕をへりくだらせてください」と祈るべきですね。

 

 9月4日(日)

あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

申命記8:5、6

 

私たちが覚えておかなければならないことに、「主の訓練」があります。信仰生活は本来、恵まれて楽しい者であるはずなのに、実際には試練があります。それも、信仰がまだ未熟な時ほど試練に遭うものです。それが実は、神が私たちを訓練しているからだと聖書は教えています。確かに、新約聖書にも「鍛錬」という言葉が出てきます。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」(ヘブライ12:7)とあります。つまり、人間でも子供にはしつけをし、父は子を訓練します。それは、立派な人に成長して欲しいからです。同じ理屈で、神はあなたを訓練するというのです。それは、新約聖書の言葉の通りに「鍛錬」と私たちには感じます。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(同12:11)。ですから、神様の訓練を尊び、それに耐える信仰と忍耐を身につけることです。何しろ、天国に入る準備をしているのですから、神の御手に全て信頼して自分をあずけることが賢明ですね。

 

 9月5日(月)

偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。

マタイ24:11~14

 

世の終わりは必ず来ます。そのことを知っているのは、聖書を読んで理解できた人だけです。しかし、世界の人々は異常気象や自然界の異常で、実際に災害が起こり頻繁に深刻な被害が出ていることで恐れているので、世の終わりを口にします。聖書の預言は、終末についてちゃんと語っています。それは、一部ですが今日の聖句にも見られます。偽預言者と言われて何か閃く人もいるでしょうが、現代人はピンときません。そんなものはインチキなので、誰も相手にしないと思っているからです。しかし、実際には身近に迫っています。毎日、テレビや新聞を賑わせている多くの被害者を出したカルトなども、教祖はキリストが十字架で死んだのは失敗であって、そのために再び人類救済のために来た私こそが真のキリストだと公言したそうです。自称霊能者と名乗る人たちも神から遣わされていないのなら、偽預言者となります。しかし、新興宗教の中には操霊術(そうれいじゅつ)を売りにしているものが多いのです。偽預言者といわれる者たちがどれほどいるのかは誰にもわかりませんが、驚くほど多くいるのです。では、そうした人たちがこの聖書の預言の成就かと問われれば、決してそうとは思えません。これから来ます。それは、この世界に不法がはびこり、愛が冷えるという状況が実現してからです。それが、どんなに恐ろしい世界になるか想像も及びません。その時、生きているクリスチャンには厳しい時代となりますが、主は「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と語られました。忍耐も信仰なので、信仰を持って耐え忍ぶことになります。不思議なことに、平和な時ではなく、このような不法がはびこり愛の冷える時に、福音があらゆる民へ、全世界へと宣べ伝えられるのです。それが済むまでは、終わりはきません。偽預言者に騙されないように、今のうちにしっかりと聖書を学び、信仰の人を目指したいですね。

 

9月6日(火)

不遜であれば知恵を求めても得られない。

 聡明であれば知識は容易に得られる。

 

愚か者の前から立ち去るがよい。

 彼に知識ある唇を認めることはできない。

 

8思慮深い人は自分の知恵によって道を見分ける。

 愚か者の無知は欺く。

 

9無知な者は不遜で互いをなじる。

 正しい人は互いに受け入れる。

箴言14:6、7、8、9

箴言はとても興味深い。知恵が隠されているので、簡単に読み飛ばしてはもったいない。たとえば、今日の聖句は6節から9節が互いに関係している。どのようにつながっているかと言えば、すぐに気がつくと思うが、同じ言葉がキーワードのように、節ごとの文章を補い、つながっている。「不遜」という言葉は、6節と9節に出てくる。だから「不遜」で囲っているこの6節から9節が一つのことを教えていることになる。6節の「知識」は7節にも出てくるので、つながっていることがわかる。同様に、7節は「愚か者」で8節とつながっている。また、同じことの言い換えも目に付く。6節の上の句の「知恵」は下句で「知識」と言い換えている。6節の「聡明」が8節で「思慮深い」となり、さらに、「聡明」=「思慮深い」=「正しい人」とつながっている。同じように、7節、8節の「愚か者」は9節で「無知な者」となっている。これらを相互すると、不遜であれば知恵を求めても得られない。このような者には知識ある発言を期待できないから、敬遠して立ち去るべきだ。なぜなら、愚か者の無知は欺くので、間違った道、危険な道すら見分けることができない。その結果が悪いと、反省するどころか、人のせいにして互いになじることになる。一方、聡明であれば知識は容易に得られるものだ。彼は思慮深い者なので、自分の知恵によって道を見分ける。だからよい道を選ぶことができる。このような人を正しい人という。彼らは互いに受け入れることができる。クリスチャンが正しい人であることを求めているのはご存じだろう。そのためには、気持ちだけ正しい人になろうでは、足りない。なぜなら、正しい人は、聡明で思慮深い人と言われているのだから、あまり考えないで衝動的に感情のままに生きていては到達できない。それどころか、愚か者に近くなってしまう危険性すらあるのだ。人間はすぐに感情に大きく左右されて失敗をおかしやすいのだが、そのままでは愚か者になってしまう。だから、「正しい人になる」と威勢よく宣言してみたところで、何の役にも立たない。まず、大切なことは思慮深く考える習慣を作ることだ。それから、自分は聡明な人間であるとイメージしてみることも効果がある。心にイメージを思い浮かべることは簡単だが、効果があるのだ。この時、照れてはいけない。自己肯定感が低いからとか、余計なことを言っている場合ではない。何のために信仰を与えられていると思っているのだろう。今こそ、使う時だ。正しい人になりたいと思うのは、聖書的で正しい。それは、同時に、聡明で思慮深い人になりたいと言っていることと同じであると認めよう。クリスチャンのイメージは、正しく聡明で思慮深い人だからだ。それこそが、あなたなのだ。

 

9月7日(水)

そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

マルコ3:4

 

質問したのはイエスであり、質問されたのはイスラエル人でした。子供でわかる簡単な質問です。それなのに、彼らは答えることができずに黙っていたのです。場所は会堂でした。そこには片手の萎えた人がいました。そこにいた人々はイエスが癒したら訴えようと注目していたのです。彼らは、安息日には癒してはいけないと信じていました。すべての業を休まなければならないからと考えていたのです。そして、病人を癒すことは働くことなので、律法に違反すると考えていました。さて、イエスの質問を読むと、「安息日に律法で許されているのは、病人を癒すことか、癒さないことか」と聞いていません。そうではなくて、「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と病人を癒すことの意味を問うものでした。つまり、律法の理解がイスラエル人とイエスではまったく違っていたのです。もちろん、イエスが正しいのですから、イスラエル人がなぜ間違って理解していたのかが問題です。それは、律法を善悪や命の救いで解釈するものとは考えていなかったということです。イスラエル人は長い時間をかけて律法を守る国を作ったはずなのに、その律法理解は、教条主義と言われても仕方ない有様でした。そもそも、イエスの質問自体がイスラエル人の常識を覆すものでした。なぜなら、「安息日に律法で許されているのは」と禁止ではなく許されている行いについて聞いたのです。彼らは、安息日に休むことだけに目が行っていたのです。しかし、彼らは食事もするし、家畜の世話もしていました。自分や家族、そして家畜に食べ物を食べさせる行いをしていたのです。自分に都合の良いことは行うのですが、他人には逆に厳しく何でもかんでも行ってはいけないと言うのです。本来、病人を癒すことは急務です。一日ぐらい痛たかろうが具合が悪かろうが何もしないで放っておけばいい、とは言えません。イエスは、「安息日に病人を癒すことは善を行うことになるか、それとも悪を行うことなのか」と聞いているのです。そんなことを考えたこともありませんでした。なぜ、考えないのでしょうか。それが宗教であり、律法であるからでしょうか。もしそうなら、自分で考えないことは危険だと気が付きます。誰か偉い人が安息日にはすべての業を休まなければならないと教えているのでそうする、というのでは律法を間違って理解する危険が出てきます。今日の聖句の箇所がそうでした。ですから、律法が人を義人にするようにうまく機能しないのなら、もっと人を義人にすることができる方法に変えた方が良いことがわかる。つまり、障害者をイエスが安息日に癒したことが善を行うことで、安息日に許されていることだ、とわかるのなら、そちらの方が良いということだ。聖霊がクリスチャンに内住しているのだから、正しいことがわかるはずだ。それが愛であることにも気がつくだろう。

 

 9月8日(木)

不遜な者を諭しても侮られるだけだ。

神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。

不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。

知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。

箴言9:7、8

 

長く生きると、いろいろな経験を積むことができます。その中には、嫌なことや辛いこともありますが、楽しいことや喜びもあります。そのどちらもが自分の益となるのですから不思議です。ただ、若くても聖書から学ぶなら、よけいな苦労をしなくて済みます。人生経験が足りないので、聖書の御言葉を文字通りに守ることが賢明です。後で、その恩恵にあずかったことを知ることができます。さて、練習として、今日の箴言を考えてみましょう。まず、「不遜な者」の反対は「知恵ある人」です。何となく、反対は「謙遜な者」ではないのかと思うかもしれません。「不遜な者」のイメージは「高慢、貪欲」がわかりやすいですね。どちらも罪です。そして、「神を畏れない者」こそが「不遜な者」なのです。そうであれば、「神を畏れる者」は「知恵ある人」ということになります。そこで、人に叱られた場合に自分はどうするだろうか、と考えてみるのです。すぐに腹を立てて言い返すか、言い返せない相手なら憎むのではないでしょうか。でも、その時になぜ叱られたのか考え、自分の足りなさを忘れないように反省させ、あなたのためになることを気づかせてくれたのだと思えたら、あなたは叱ってくれた人を愛するでしょう。このような人を「知恵ある人」と聖書では教えているのです。やがて、人の上に立つ立場になれば、誰を叱るか考えることになります。優しく諭しても、強く戒めても、嫌な目に遭うことがあります。一番残念なのは、その人が叱られたということに腹を立てているだけで、肝心の何がその人にとって改善しなければならないことだったのか、その人は全く理解しないということです。そして、人間は、時間がかかっても悟って成長できる人と、どんなに誠実に諭しても悟らないで成長しない人に別れるということです。特に危険なのは、神に逆らう者です。この人は何をするかわからないので、ひどいことをされるかもしれませんから要注意です。私たちも人の諭しを聞ける者になりたいですね。

 

9月9日(金)

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネ3:36

 

牧師になって、信心深い人に何人も会いました。素晴らしいと感心することが多々あるのです。決して大袈裟なことをするのでもなく、派手に伝道するわけでもありません。どちらかと言えば普通の人に見えるでしょう。個性もいろいろで、イエス様の弟子は実に多様であると言えます。クリスチャンの皆さんも伝道してみると、いかに伝道が難しいことかと実感するでしょう。信じない人にどんなに頑張って説得しても、イエス様を受け入れさせることなどできません。ですから、クリスチャンになってすぐに、友達や家族などに自分の感動を分かち合おうと話しても、共感してもらえることは稀です。ましてや、クリスチャンになると言い出す人はいないのではないかと思うでしょう。ところが、私が牧師になってみると、実際は違っていました。よく考えてみるとイエス様を信じて洗礼を受け、クリスチャンになった人は、初めから反発したり、反対していなかったのです。それどころか、この人は初めからイエス様の話を聞いて信じたいのではないかと思えてくるほど、何の苦労もなく回心へと向かうのです。確かに、神様へ「洗礼を受ける人を与えてください」と祈っていましたから、そのような人がやってきたのかもしれません。それにしてもクリスチャンになる方は、素晴らしい方ばかりなのです。それも不思議に思います。結局、神様が伝道されているのだから、当然だと思えてきます。その救われたクリスチャンも、十二使徒が皆個性的で、タイプも違い、性格も異なっていたように、いろいろ人がいます。その人たちの役割はそれぞれ決まっていて、互いに愛する時に最大の効果が期待できるのです。神様は皆さんのお住まいのある町に、救うべき人を備えています。理想は、家の教会が全国に広がり、その町の人たちが福音に接する機会を得ることです。そして、そこでは、聖霊が自由に働き、クリスチャンは神様の愛、イエス様の恵み、聖霊の交わりを体験するのです。これは、神様の御心にかなっているので、チャレンジがありますね。

 

9月10日(土)

わたしはあなたの神、主である。

出エジプト20:2

 

ただわたしのみ主である。私のほか救う者はいない。

イザヤ43:11

 

あなたには主なる神がいます。その神は、あなたを救うことのできる神です。他にはいません。主なる神という言葉には、力の神という意味が含まれています。つまり、あなたを愛し、あなたに恵みを与え、信仰を分け与え、困って八方塞がりになっても必ず救うことができる神だということです。私たちが生まれた日本には八百万からの神々がいると言われ、神々が溢れているのですが、その神々には私たちを救う力がありません。そして、私たちが唯一拝み、従う神は、この聖書の神のみです。そして、この主なる神だけが、私たちを救うことのできる方なのです。私たちはすでに、その神と出会い、信じて救われた者です。ですから、この神の御心にかなう人生を歩むことが定められています。そして、隠されたことも全て明らかになる日がまもなくやって来ます。主が迎えに来られるのです。その時のために、今を生きましょう。

 

 9月11日(日)

愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。

Ⅱペトロ3:17、18

 

「このこと」の内容が知りたい人は、聖書を開いて3章を読んでみましょう。終末のこと、再臨のことを教えているのですが、終末には、いろいろな人が出てきてクリスチャンをも惑わし、正しい道からそらそうとするというわけです。そのようなわけで、「堅固な足場を失わないように注意しなさい」との警告です。これらの問題は、決して教会の外の人の問題だけではなく、教会の中でも問題が起こることを告げています。そこで、私たちは平和なうちに信仰を成長させ、堅固な足場を築く必要があるのです。そして、それだけでは足りないのも事実で、真理に対しても攻撃があるでしょうが、それよりも信仰生活で誘惑が起こることを想定しておかなければなりません。では、どうやって自分を守れば良いのでしょうか。今日の聖句では、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」とあります。これに対して、あなたは何をしようと思いますか。聞いたままで何もしないのなら、何の益もありません。これは、あなたの課題なので、ご自分で考える必要があります。そして、今できることを考えて実行しましょう。もちろん、聖霊の助けなしには何もできませんから、祈りが重要になることは間違いありません。自分のご利益ばかり求めている人には、理解できないかもしれません。主にお仕えする献身が信仰を成長させ、さらに整えていくことも知っておくべきです。

 

9月12日(月)

神は歓呼の中を上られる。

主は角笛の響きと共に上られる。

歌え、神に向かって歌え。

歌え、我らの王に向かって歌え。

神は、全地の王

ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。

神は諸国の上に王として君臨される。

神は聖なる王座に着いておられる。

諸国の民から自由な人々が集められ

アブラハムの神の民となる。

地の盾となる人々は神のもの。

神は大いにあがめられる。

詩篇47:6~10

 

私たちの心が震えるのは、このような詩篇の中にあります。私たちの主は王なのです。聖書を読んだ人はイスラエルの神と理解します。しかし、この神は諸国の上に王として君臨されるお方なのです。私たちは日本で福音を聞きました。そして、主イエス・キリストこそが自分の救い主であると信じたのです。それは大きな奇跡となり、私たちは信仰だけで救われました。そして、その日から神を知る日々が始まりました。今日の聖句を読むと、「諸国の民から自由な人々が集められ」とあります。これはクリスチャンになった人のことです。なぜなら「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5:1)。私たちは「アブラハムの神の民と」なりました。そして、クリスチャンは「地の盾となる人々」なのです。この罪の世に流されることなく、悪魔に神の武具を身に纏って立ち向かい、祈りによって盾となっています。教会を牧師を聖徒たちを守る祈りの盾なのです。勝利は主のもの、神は大いにあがめられるのです。賛美したくなりましたか。好きな讃美歌を神に向かって歌いましょう。王を讃えるように賛美しましょう。

  

9月13日(火)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

フィリピ4:6、7

 

面白いことに、願いはある日起こります。それまでは何も考えてもみなかったことが、急に心に満ちてくるのです。それも、私もやってみたい、挑戦してみたい、こうなりたい、あーなりたい、と具体的なのです。しかし、それが簡単では無いので悩み始めるわけです。お金は大丈夫か、自分にできるか、本当にうまくいくのか、と悩みはつきません。それなのに、願いは膨らむばかりで、こうなれば神様になんとかお願いしようということになります。特に、人生の進路を左右するような大きなことでは、クリスチャンは一生懸命に祈るはずです。私は、牧師になりたいと思っていましたが、その時には道は開かれませんでした。それは、初めに神学校に導かれていたのに勝手にやめてしまったからです。そして、何年も経って諦めたら一気に道が開けました。それでも、自分の考えで初めに神様が導いくださった神学校ではなく、自分で勝手に選んだ神学校を受験して入学したのですが、そこでは牧師になれなかったと思います。その頃所属していた教団の教区長から来るようにとハガキをいただいて、訪ねると今の神学校では牧師になれないから教団の神学校に転校するようにとのことでした。しかも、過分な奨学金を提示されて、結局、初めに神様に導かれた神学校に転校しました。ヨナのように逃げ回っていたようで、結局主の御心の学校に入って牧師になれました。それから、大学院で勉強したいと願いが起こされると、教団に申請して順番待ちになりました。私の前に二人の牧師がいたので、数年先になると言われていたのですが、御心であると道はすぐに開かれることがわかりました。というのも、前の牧師たちが二人とも辞退したのですぐに留学することになりました。それから数年して、今度は博士課程で学びたいと願いが起こされると、それもすぐに実現しました。お金の心配も、休職することもなく、しかも、論文が書けないで卒業できない牧師がたくさんいるのに、私は最短で論文を提出してすんなり通ってしまい、神様が全て助けてくださったと感謝しました。ところが、欲張って神学以外の他の勉強もしたいと願っても全く道が開けません。神様は聖書や神学だけ勉強させたいとのだとつくづく思うのです。それぞれに、自分の役割があって、それぞれの道が主によって定められているのですね。それが自分の道であれば、情熱が与えられたり、万事が益になるよう働いてうまくいきます。人から見ると大変だな、と思えることでも本人には面白く楽しいのです。そこで、願いが起こされたなら、今日の御言葉をよく読んで、祈ってみましょう。その結果、聖句の通りに平安が来れば道が自然と開かれて行くでしょう。クリスチャンには不思議な主のお導きがありますから、願いが起こされたら、それを主が実現してくださることも本当なのです。

 

9月14日(水)

主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

Ⅱペトロ1:3

 

クリスチャンが主イエスからいただいたものは何でしょうか。それは、今日の聖句に書かれています。「命と信心とに関わるすべてのもの」をいただいたのです。つまり、何か信仰の修行を積んで一つ一つ身につけて行くようなやり方ではありません。洗礼を受けたばかりのクリスチャンでさえ、すべてのものをいただいています。それは、「命と信心とかに関わるもの」とあるので、驚くべきことなのです。命と言えば、救いのこと、永遠の命のことが思い浮かぶでしょう。また、信心と言えば、信仰生活のこと全般のことですから、クリスチャンとして永遠の命への道を歩み、再臨の日に天国へ見事入れることを可能にする全てをいただいているということです。それも、私たちは何もしていないので、神の力でこの奇跡が行われているのです。これらを可能にしたのは、主イエスの公生涯の全て、特に十字架の犠牲、復活、昇天とイエスの出来事を信じることができるようにしてくださり、主イエスを個人的な救い主として認識させることによるのです。これこそが、召命なのです。その主の召命にあなたは応えたので、特別な救いの過程を進んで行けるのです。あなたは、クリスチャンになれたことを感謝しているでしょうか。感謝すればするほど、神の救いのご計画を正しく理解し、その過程を見事に通って天国の門をくぐることができます。まずは、ここまで理解してくださったでしょうか。この先は、クリスチャンになった後の疑問に答えるものとなります。まずは、今日の聖句を理解しましょう。

 

9月15日(木)

この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊く素晴らしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。

Ⅱペトロ1:4

 

クリスチャンになると、それまでの生活とは違う信仰生活が始まります。その中で礼拝は大きな力になります。毎週、神様を礼拝することがどれほど大きな助けになっているか、肉では理解できません。霊的なことだからです。しかし、神様を第一にしようとすると礼拝が大きな位置を占めていることに気がついてきます。確かに、この前の3節には、救いに召し出してくださった方を認識させることが書かれていました。つまり、神様を知ったということです。それなのに、神様を第一にしないで、自分を第一にすることは可能でしょうか。実際には可能です。それどころかこの戦いが始まるのです。牧師を始めた頃、信者さんが「来週の礼拝は休みます」と言われて、その理由が「法事があるので」というのです。この方は、何も悪びれずに礼儀正しく牧師に休むと伝えることが正しいと思われたのでしょう。これが、イスラエルと日本の差です。もっとも、黙って礼拝を休む人の方が多いでしょうから、この方は誠実に牧師に断りを入れただけマシなのでしょう。まあ、牧師にはこれでもいいでしょうが、神様にはどうでしょう。ここでも、やはり二つに分かれるのです。たとえこの世の義理を果たせずに不義理をしても、とにかく何があっても礼拝を第一にしようとする人のグループと、自分の都合を優先させて礼拝は二の次にできる人のグループに明確に分かれます。私は特に安息日を文字通りに休む教会だったので、週五日制になる前の時代ということもあって、仕事も休み、大学も土曜日は休むので、卒業できないと言われました。それでも教会を休まないで礼拝に行くわけですから、かなり大変でした。今のような自由な時代になれば、こうした安息日遵守や礼拝を忠実に欠かさないといったことは、律法主義だと批判されかねないのですが、実は神様に忠実であった報いは計り知れなかったのです。これは、実践した人でなければわからないと思います。さて、今日の聖句です。これは驚くべき聖書箇所です。クリスチャンは自力で世俗から身を守り、聖なる生活を送ろうと考えるのですが、それがどれほど無謀で実現不可能なことかすぐにわかります。真面目に取り組んでも、うまく行くことはないのです。しかし、今日の聖句では、「この世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになる」とはっきり書かれているのです。つまり、クリスチャンが聖なる者になれるということです。それは、神様の本性にあずからせていただくからです。罪人は聖なる神様に近づくこともできません。近づけば死んでしまうからです。しかし、この御言葉の通りになる恵みを頂いたので、罪の清めが実現し、神に近づけるようになり、神様と交われるまでに聖い者となれるのです。それは、人間の努力だけでは全く不可能なので、イエス・キリストの出来事と神の憐れみにより、聖霊を信じた者へ約束通りに注いだこと、その聖霊を命にして新しい人として生きるようになること、それらが信仰によってのみ実現すること、こうした救いの方法が確立しているのです。そうなると、礼拝を自力で休まず頑張ったと自慢したところで意味がありません。もちろん、主に忠実であるという意味であるのなら最重要ですが、自分の功績によらないということなので、頑張ったといってもたいして意味はありません。しかし、私たちが真に神の子に変えられるのは、神様の本性にあずかることができるからです。そこまでの深い恵みは霊的であるので、霊的に心を閉ざしている者には理解できません。キリストの十字架を見ても自分のプライドを捨てられないのなら、その先は何もありません。キリストが命を捨てて救おうとしているのに、なぜ他のことがそれよりも大切だと思えるのでしょうか。自我が打ちのめされ、捨て去らないのなら、神様の本性にあずかれるはずもありません。そうであれば、救いはすでに挫折しているのです。そうならないために、何度も試練があったはずです。今や、救いの行程を先に進む時です。自我を捨て、謙遜になって主に従いましょう。

 

9月16日(金)

人間を豊かにするのは主の祝福である。

人間が苦労しても何も加えることはできない。

箴言10:22

 

人の豊かさとはなんだろう。昔、「エレファントマン」という感動的な映画を観たことがあります。それは、病気で奇形し象のような顔になった男が見せ物となって生きていくお話です。周りの人々は、彼には知性もない話すこともできない獣のような者だと思っていたのですが、彼はある時、詩篇23篇を暗唱したのです。それは、美しいものでした。人間に知性があり、教養がある時、その人の持つ内面の価値が輝き出てくることがあります。私たちは、罪によって人間が滅びる運命にあることを知りました。そして、人間には善を欲しても悪を行ってしまう、罪の呪いがあることを知ったのです。初めは、努力すれば善人になれると思っていても、罪の意味がわかると、到底人間の努力では善を行えないことを思い知るのです。しかも、自己中心の思いと愛のない赦せない心が人間の真の価値を損なっているのです。ところが、福音を聞き、主イエスを信じた時に、人生は一変しました。罪赦されたので、隣人の罪も赦せるようになったのです。自分を攻撃する者や悪口を言いふらすような人を赦すことなど絶対できなかったのに、赦すだけでなく、祝福するようになるのです。このように主イエスの教えを守るようになると、穏やかな人生に変わって行くのです。そして、聖書の御言葉の意味がわかるようになります。聖霊が助けてくださっているのですが、意味がわかるとその通りに考えたり行動したりしなければなりません。それが、自分の人生を豊かにしていることに気がつくのはしばらく経ってからです。教会の牧師は、できるだけ教会員に祝福の祈りをしようと考えています。それは、主が人を祝福することを知っているからです。人がたとえどのような境遇にあろうとも、内面の祝福まで取り上げることはできません。きっと、クリスチャンであるあなたと出会う人は、良い印象を得ます。そればかりではなく、一緒にいれば、あなたの内から善いものが出てくることに気がつくでしょう。それは、金木犀やクチナシの花の良い香りのように気持ちを爽やかにして、幸せな気分にするのです。ただ、一つ気をつけなければいけないのは、今日の聖句の下句です。クリスチャンが誰かと会う時に、無理して好印象を与えようとか思って頑張ることは意味がないのです。人間的な努力で内なる聖霊の愛の力を引き出そうとしても出てきません。それよりも、自然体が無理がなくて良いし、聖霊を意識すれば、黙っていても相手に聖霊ご自身が働きかけてくださいます。豊かさは、経済だけのことではありません。主の祝福は総合的で大きなものなのです。それは、主のあなたへの真心だからです。あなたは主に愛されていますから、そのことを喜びなさい。そうすれば、主に祝福されている意味が見えてくるでしょう。

 

9月17日(土)

だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。

Ⅱペトロ1:5~8

 

聖書の著者が複数いることは、良いことです。たった一冊の聖書で、人の救いや信仰に必要なことをすべて網羅することは、大変難しいことです。それなのに、聖書はそれを実現したので何千年も変わらずに残ったのです。神の御業としか言いようがありません。さて、クリスチャンにとっての関心は、やはり自分が本物のクリスチャンになれるのか、聖化されて天に入れると聞いても、その聖化が如何なるものかもわからずに、聖書にすべて書かれていると言われても困るのです。難し過ぎると言いたくなるでしょう。しかし、真理をいろいろな人がその人らしく説明すると、その多様性のおかげで視点が増えるので真理が見えてくるものです。神学者のパウロと違ってペトロは大丈夫かと心配する人がいれば、その人は今日の箇所を理解できないと思います。そうであるなら、キリストを知ることもできないし、神の御目にかなうクリスチャンにもなるのは難しいでしょう。今日の聖句の最後を読むと、「主イエス・キリストを知るようになる」とあるのでこの前(3節以降)に書かれたことが大変重要です。そして、すでに順番に説明しているので、今日の箇所に焦点を当てて考えてみましょう。この聖書箇所はよく知られているとこなので、クリスチャンは積極的に実践しているはずなのですが、どうも読んだだけで終わらせてしまっている人がいるわけです。ペトロらしく「力を尽くして」と言いますから、何にもしなくても聖霊か何かが働いて結果的にここに書かれた通りになる、ということはありません。つまり、各人が意識的に努めなければ決してできません。そして、その結果、キリストを知るということは、宗教的な意味があります。これらの過程を経なければ、ここに至りません。そうするともっと明確にキリストを知るという霊的な宗教体験があるということになります。それは、実を結ぶ話が出てきているので、御霊の実を結ぶことと関わりがあります。「聖霊の実はキリストの品性である」と言われますが、まさにキリストに似た完全なクリスチャンになるということです。このように素晴らしい救いの道が備えられているので、聖書にその道を見つけた時には、すぐに従うことです。まずは文字通りに今日の箇所を信じてみましょう。

 

9月18日(日)

 

これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。

Ⅱペトロ1:9

 

これらというのは、5節から7節までに書かれたリストのことです(昨日のディボーション参照)。つまり、信仰と漠然と言っているだけでは足りないということです。あなたはフィラデルフィアという言葉を聞いたことがあるだろうか。アメリカの都市の名前として覚えている人もいるでしょうが、聖書の言葉で兄弟愛の意味があります。信仰の成長は聖霊によるものと自分自身の責任によるものに分かれているのです。そして、自分の分として信仰に徳を加えることが初めの課題になっているのです。いきなりハードルが高いと思われたでしょうか。私はそうは思いません。それは良いものだからです。自分の幸せに不可欠なものです。また、自分の幸せといっても一人で幸せになれるわけでもないので隣人を幸せにすることが含まれ、それが徳の意味に繋がっているのです。そこから始まって、兄弟愛まで来れば教会では終わりのような気がするでしょうが、それに加えるべきがアガペーの愛なのです。アガペーとは神の愛のことだと聞いたことがあると思いますが、クリスチャンには聖霊が内住しているので、私たちが肉に従わずに聖霊に従うとアガペーが現れるのです。つまり、クリスチャンの悩みの原因は肉によるので、信仰の成長によって、最終的に肉につながる古い人を十字架につけて死なせ、聖霊による新しい命に生きる人になることを意味しているのです。そこで、今日の聖句は、このような信仰の成長を順調に続けないと、教会の中で間違った教えに簡単に従うようになり、聖徒をも苦しめることになると教えています。それは、実際に初代教会に起こった事実なのです。このような警告があるので、クリスチャンは何年経っても何もわからない、などと言ってはいけないのです。正しい信仰の道は天国へと続き、皆この一本道を登っていくのです。神様が備えてくださったので、決して難しくはありません。必要なものは全て最初に渡されています。ですから、自分の信仰を使ってみることです。一つ一つ身につけていけばいいので、楽しいことです。難しい、とか大変だと言っているのでは悪魔の囁きです。騙されてはいけません。信仰者は成長できるように導かれているので、主に感謝しなければなりません。終わりの日までに、到達させていただきましょう。 

 

 9月19日(月)

主よ、あなたはわたしを究め

わたしを知っておられる。

座るのも立つのも知り

遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

歩くのも伏すのも見分け

わたしの道にことごとく通じておられる。

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに

主よ、あなたはすべてを知っておられる。

前からも後ろからもわたしを囲み

御手をわたしの上に置いていてくださる。

その驚くべき知識はわたしを超え

あまりにも高くて到達できない。

詩篇139:1~6

 

ここに記されていることこそが、神は全知であるという意味なのです。私たちは神がよく分からずに人間と同じような方としてイメージしていることが多いのではないでしょうか。神の全知は、「神様なんだからなんでも知っているのは当然だ。それどころか人間にとって認識できないようなことでも知っているということだ」と言えます。私たちは、クリスチャンなので、さらにもう少し深く理解できます。それは、神が私たちを愛しておられるので、私たちのことを何でも知っていてくださるのだ、と考えることができます。ちょうど、お母さんが幼児から目を離さずにいつでも見守り、危険なことから守るために何でも知っている必要があるのに似ています。お母さんは、幼児が言葉がまだ話せなければ、その心を読んで何をして欲しいと思っているのかを知ります。これらは愛から生じています。人間も人のことを知ることができますが、過去や現在のことだけです。将来のことまでは知ることができません。人間は自由だから予測できないのです。それでも、神は人間の将来に属する自由も知っているのです。そして、肝心なことは、神はその人が何をしたか履歴書のような知識だけではなく、その人の悩みや、悲しみ、喜びを正確に理解して知っているということです。つまり、私たちは神が私たちのことを愛しているゆえに心のことまで気にかけて何に悲しみ、どんなことを悩んでいるのか、そして喜んでいるのかを知っていてくださるのです。信仰の面から考えると、これだけではなく、さらに「畏れ」があります。自分のことを神は何でも知っているということは畏れでもあるのです。信仰があるからこそ、神に全て知られていることを恐れて逃げ出さないのであって、信仰がなければ、罪人は皆神に背を向けて逃走しているのです。イエス・キリストがおられなければ、私たちも逃げ出しているでしょう。今は、神に自分の心の深みまで知られていることが自分の安心になっているのですから不思議です。神の愛がいつも迫っているからかもしれませんね。

 

9月20日(火)

主よ、良い人、心のまっすぐな人を

幸せにしてください。

詩篇125:4

 

良い祈りです。この祈りは、あなたのための祈りです。誰かが霊感されて祈ったのです。大昔かもしれませんが、この祈りは今も聖書に残り、あなたのために執りなしています。クリスチャンになるような人は、この祈りを素直に受け入れることができます。この世で戦っているクリスチャンは、時々自分に自信が持てなくなったり、自分を責めてばかりいることがあります。罪がわかるので、自分にガッカリすることがあるわけです。しかし、神様と呼ぶ人は、心のまっすぐな人なのです。クリスチャンとして立派になろうなどと考えれば、たちどころにつまずきます。キリストが十字架にかからなければ救われないほど罪深かったのですから、自分の力で急に正しい人になれるわけではないのです。それを忘れてしまうので、失敗しては自責の念に駆られて自分をダメだと責めてしまうのです。だから、良い人なのです。悪人ならそんなことはしません。悪ことは全て人のせいにするのです。だから、自分を責めないのです。良い人だから、悩むのです。その上、自分に罰を与えて、幸せになってはいけないと思ったりするのです。そのことがいつも心の深いところで疼いているのです。でも、今日の聖句をよく見てください。「正しい人・・・」とは書いていません。「良い人」と書いてあったのです。つまり、あなたのことです。あなたは幸せになっていいのです。神様に幸せにしていただければいいのです。だから、クヨクヨ悩んだり、自分を責めたりしないでください。主は、あなたを愛していますから、この祈りを喜んでかなえてくださいます。あなたの一生は主によって幸せに生きるだけです。

 

9月21日(水)

人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。良い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。

マタイ12:34~36

 

クリスチャンになってよかったと思うことの一つに、今日の御言葉を知っているということが挙げられます。確かに、厳しいと思うでしょう。自分の話したつまらない言葉についても裁きの日に問われるというのですから、恐ろしいことです。口の悪い人は、特にこのような御言葉を知りたくはないでしょう。まさか、話している言葉の責任を裁かれるというのでは、迂闊に話せないと思うでしょう。しかし、重要なことは、話すことの原理があるというのです。「良い人は(クリスチャンのこと)、良いものを入れた倉から良いものを取り出」す。倉はその人の心でしょう。自分の内に何をためているのでしょう。良いものをためていなければ、裁きの座に着いた時に恐ろしい結果が待っているでしょう。でも、良いものとは何でしょう。聖書を読むことは心の倉に良いものをためていることになります。また、隣人を自分のごとくに愛すなら、それも良いものを倉に収めることができるでしょう。親切な言葉、愛の言葉、思いやりの言葉、いたわりの言葉、励ましの言葉、神を賛美する言葉、正義の言葉、優しい言葉、赦す言葉、美しい言葉、このように良いものは心の倉にため、必要に応じて自在に良いものを取り出すことができるのです。でも、悪い心ではできません。人を誹謗中傷する言葉、人を傷つける言葉、人を誘惑して罪を犯させる言葉、悪い言葉、悲しませる言葉、人を見下す言葉、厳しいだけの言葉、愛のない言葉、このように挙げていくと、いかに言葉が難しいものであるかがわかります。自分に悪意がないと言いながら、人を傷つけることを平気で言う人は、神が聞いていることを忘れているのです。きっと、悪い言葉を言ったことすら、自覚しないでいる人は、裁きの日に覚えていないと言うかもしれませんが、それは何の意味もありません。記録されているからです。聖句からわかることは、良いものを心の倉にためることが大切だと言うことです。人をけなすような言葉をテレビは垂れ流していますが、聞いてはいけないのです。SNSで誹謗中傷する人は、裁きの日があることを知らないのでしょう。自分の口や舌は、良い言葉のためにあると宣言しましょう。そして、心に良いものをためることを意識的にやることです。自分が心にためたことだけが外に出て来るということを覚えてましょう。

 

9月22日(木)

イスラエルの聖なる神

あなたを贖う主はこう言われる。

わたしは主、あなたの神

わたしはあなたを教えて力をもたせ

あなたを導いて道を行かせる。

わたしの戒めに耳を傾けるなら

あなたの平和は大河のように

恵みは海の波のようになる。

イザヤ48:17、18

 

私たちは何と言っても恵まれています。ちゃんと生かされいるからです。罪の問題も信仰のみで主イエスにより解決しています。主は、「あなたの神」と言ってくださるのです。ですから、あなたのための特典が付いています。第一に、「あなたを教えて力を持たせ」ることです。第二に、「あなたを導いて道を行かせる」のです。クリスチャンが自分勝手なことをしなければ、主はあなたをちゃんと導いてくださいます。人生が安定するわけです。第三に、「主の戒めの聞き従うなら、あなたの人生は平和に満ちて来るのです」。波瀾万丈が好きだと言われると何とも答えられませんが、普通の人は試練や災難、あるいは病気を嫌います。いろいろなことを心配し、思い煩う生活は避けたいですね。ですから、主の戒めに耳を傾けましょう。そうすれば、さらに第四の特典を享受できます。それは、「恵みは海の波のようになる」のです。海の波は止まりません。そのように恵みの波状攻撃が起こります。恵みが次々に押し寄せて来るというのです。このように、クリスチャンは人も羨むような人生を主によって与えられるのです。そうなっていないのなら、聖書に書かれた通りに挑戦してみてください。すぐに御言葉に書かれていることが本当であると実感するでしょう。主はすでに、あなたに祝福された人生を用意しておられます。信仰で受け取るという意味は文字通りです。単純に信じて主に感謝をささげましょう。

 

9月23日(金)

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。

ヨハネ14:23、24

 

私たちは、聖書を読んでもよくわからないことがあります。だから、聖書をだんだん読まなくなる傾向があるのです。しかも、聖書は結構ヴォリュームがあって、何冊もの本が入った本棚のようなものなので、好きなところは何度も読んでも、レビ記や小預言書のようなところはあまり読もうとしません。それでも、教会に繋がっていると説教や聖書を学ぶ機会があるので、全く聖書を読まないということはありません。そのような状況の中で、信仰の成長は望んでいますし、霊的にも満たされていたいのです。では、クリスチャンは何を第一にすればいいのでしょう。もちろん、神様を第一にするということですが、信仰生活の話です。すると、今日の聖句を読むと、大切なことに気がつきます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とあることにです。私たちは、イエス様を愛していると公言する者です。すると、イエス様は、それならわたしの言葉を守るはずだ、と言われるのです。これは重要な箇所で、そうであればイエス様の言葉が知らなければ守ることができません。そこで、イエス様の言葉を調べて覚える必要があるということになります。しかも、覚えただけではなく、守らなければならないのです。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」(21)と書かれた通りです。このことを真面目に取り組んでいる人はどれほどいるでしょうか。そして、その人には、特別にイエス様と神様が来てくださり、一緒に住む、と言われています。これは、実は奥義で、神様と御子イエス様の関係と同じ関係になれるということです(20節参照)。この世ばかり見ていると霊の真理は見えなくなります。聖書に集中して、書かれている通りにすることに努めましょう。

 

9月24日(土)

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピ3:13、14

 

パウロ流の言い方にすれば、私たちは神様主催の競技に参加していることになります。走るのが苦手な人もいますし、「目標目指してひた走る」などと言われると尻込みする人もいます。その反対に、闘志を燃やして頑張る人もいます。実にさまざまな人が救われています。ですから、パウロのような人は、目的達成タイプとでも言えばいいのでしょうか。私の好きなテレビ番組に、「バス旅」がありますが、田川さんと蛭子さんが三泊四日で路線バスのみで目的地を目指す番組が今でも録画を何度も観ています。つまり、私もパウロ型目標達成タイプなのです。そこで、ただクリスチャンでいるということでは満足できないのです。パウロの指摘している通り、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、・・・目標を目指してひたすら走ることです。最近のバス旅では、すぐに弱音を吐く人や文句を言う人が出てきます。初めはやる気があるのかと叱られそうな人が、だんだん変わっていくのです。そして、最後に目標のゴールに向かう頃には、必死に何としてもゴールしたいとなるのです。ああ、これがクリスチャンの姿なのだと思えてきます。何もわからずに始まる信仰生活が、神様の鍛錬が始まると弱音を吐いたり、文句が出てくるのです。それでも、周りに励まされ、神様の助けもあって、成長し始めます。長い道のりですが、何年かすれば、見違えるほど立派なクリスチャンに成長しています。そして、祈りも深まり、聖書も理解し始め、何よりも信仰によって生きているとわかるようになります。これは、完全に長距離マラソン競技なのです。しかも、賞を得なければ意味がないのです。この地上のことなどは大した問題ではありません。再臨の日がゴールです。その前に眠りにつく人も、再臨の日に目覚めますから、同じゴールになります。私たちは天国目指して走り続けているのです。コツは、「後ろのものを忘れ」ることです。過去はキリストを信じる信仰で解決済みです。それよりも、前のものが重要です。まさに「前のものに全身を向けつつ」走るのです。キリストが模範ですから、キリストのようになるために日々信仰によって生きているのです。この世の仕事も生活の糧を得るためにと考えると辛いですが、そうではなく、賞を得るために必要なことと考えると頑張れます。私たちも相当訓練されてきました。でも、肝心なことは「目標を目指してひた走ることです」。どんな賞をいただけるのか楽しみです。

 

 9月25日(日)

イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

ルカ6:18、19

 

大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方からイエスを目当てに来ていました。彼らの目的は、教えを聞くため、また病気をいやしていただくためでした。それに、悪霊に悩まされていた人々もいやしていただくために来ていたのです。これが、イエスの伝道でした。それがどれほどすごい有様であったか想像するのは難しいことですが、大規模なコンサートやイベントを想像すれば近いものがあるかもしれません。人間はそうそう変わることはありませんから、今日でもイエスがいれば同じことをしているはずです。でも、イエスは、天に帰られた。そして、イエスは、ご自分の伝道を弟子たちに託したのです。それがあって、今日までキリスト教会は続いています。しかし、日本伝道を任されたイエスの弟子である私たちは、果たして主の期待に応えられているのでしょうか。そして、現代の教会はどうでしょう。伝道の根本は、イエスがなされたことです。それが、今日の聖句です。民衆が教えを聞こうと教会に殺到している、という話は聞きません。教会で癒しをしているので群衆が押し寄せ、皆癒されているという話も聞きません。悪霊つきの人たちが悪霊を追い出してもらっていやされたという話も聞きません。イエスがいないのだから当然だ、という人は、イエスがお弟子さんにご自分の働きを続けるように、権能を授け、さらに霊の賜物を授け、それが現代まで生きていることを忘れているのではないでしょうか。そうした、教会の沈滞ムードを払拭するにはリバイバルが必要です。聖霊が多くの人の上に大雨のごとくに降って来れば、聖書に書かれた奇跡が起こるのです。今日、誰がリバイバルを求めて祈っているのでしょう。リバイバルは祈りから始めることを覚え、毎日祈りましょう。

 

9月26日(月)

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。

エフェソ1:17

 

クリスチャンの願いは、神を深く知ることです。神を知ることは、信仰を持った時から始まりましたが、人間が神を知ることはそれほどたやすくありません。そこで、信仰生活を送りながら、自分自身の成長を目指すのですが、実はこの成長は神を知ることなしにはできないのです。例えば、柔道を本を読むだけで会得することはできません。それと同じような意味で、この世のことを知るようには神を知ることはできません。神学者はその難しいことを言葉で説明しようとしますが、どうしても限界があるのです。しかし、難しい神学を知らなくても、誰でも信仰者は神を知ることができます。それは、今日の聖句に書かれています。「知恵と啓示の霊を与え」ていただくのです。それで、神を深く知ることができるようになるわけです。それは同時に、心の目を開いていただくことなのです。それは、目に見えないものを見る目です。神を知ることは、この世界を知ることでもあります。また、罪によって創造の時に与えられた能力のほとんどが機能不全に陥っていたのが、神に似せて造られたために、神を知ることで回復することができるのです。ですから、知恵と啓示の霊を与えてくださるように祈ることは正しいことです。神は愛である、という意味がわかるようになるでしょう。

 

9月27日(火)

世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

コロサイ1:26、27

今日、Hさんが伝道しているご友人のSさんから電話がありました。ZOOMで聖書研究ができないか試したいとのことでしたが、残念ながらうまくできませんでした。そこで、電話でお話を聞いたのですが、お若い時に教会に通ったのに、離れてしまい、苦労の多い人生であったことをお話しくださいました。そのために、先祖供養や滝に打たれたり、熱心に宗教にも取り組んだそうですが、幸福になることはなかったと言うのです。そして、ようやくキリストの元に戻って来られたのです。そして、自分のような人はたくさんいるとおっしゃっていました。その通りでしょう。Sさんは熱心に求めておられて、そして心の重荷をおろすような不思議な経験をされたとお証になりました。私たちは、パウロのような大変な伝道はできないでしょうが、それでも、神様に遣わされて誰か救いを求めておられる方に出会うでしょう。そのことを恐れる必要はありません。何しろ、私たちの内におられるキリストが働いているからこそ、そのような伝道に用いられるのです。もし、人間的に伝道しようと考えているのなら、うまくいかないでしょう。そして、嫌なことになってしまうかもしれません。そうではなく、私たちを主の道具のように用いていただければいいだけです。一人の魂が主によって救われることはどんなに嬉しいことでしょう。これ以上の奇跡はありません。神様の愛は忍耐強く何十年でも待っていてくださるのですね。ハレルヤ!です。

 

9月28日(水)

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

コロサイ3:12

 

私たちは、時々不思議に思います。それは、なぜ私が神に選ばれているのか、ということです。特別人格者であるわけでもなく、罪を犯さない完全な人でもないのに、なぜだろう、と思うわけです。この所で、はっきりしていないと先に進めません。大切なことは、神に選ばれたことを感謝すればいいだけなのです。いくら考えてもわからないのですから、そうではなく、罪人であった自分を神は選んでくださったということを感謝する心が肝心です。そうすれば、次に進めます。「聖なる者とされ」とある通り、クリスチャンは自分の努力ではなく、神によって聖なる者にされたのです。これも感謝です。ただ、自分で修行したり努力した結果ではないので、ピンと来ないだけです。そして、一番聞きたい言葉、神に「愛されているのです」。罪人は奴隷のようなものなので、自力では何もできないのです。ですから、奴隷市場で主が私たちを選んで買い取って、自由にしてくださった、というようなイメージです。それだけではなく、体をきれいに洗って汚れを清めてくださり、きれいな新しい服を着せて聖なる者と主がしてくださるのです。それは、聖霊を吹き込み、新しい命を与え、新しい人として生きるようにされたことです。この状態まではクリスチャンになれば誰でも行けます。しかし、次が重要です。主に愛されていることを知ることです。この段階がうまくいかない人が多いのでクリスチャン同士でも問題が発生することがあるのです。それは、クリスチャンになる以前に十分に愛されていなかった、とか、愛情不足が原因となっていることも見逃せません。確かに、この世は罪人の世界ですから、もともと愛が破綻しているのです。愛の源である神と断絶している人を罪人と呼ぶからです。ですから、救いとは、創造の初めに戻ることなのです。人間は愛されるために神に似せて造られたのです。それは、人間も愛することができるように創造されているということでもあります。それが、壊れてしまったので、癒され、再創造されることで愛の回復が必要です。そうなると、キリストが、新しい掟として「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられたのには、主が愛を回復されるからという意味が含まれていたのです。そこで、まずは主に愛されていることを味わってください。心を主に集中して、「主は私を愛しておられます。私は主に愛されているのです」と声に出して言ってみましょう。そして、愛されていることを実感するまで信じるのです。これを毎朝やってみましょう。そうすれば、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と命じられても、ここに書かれた通りに身に着けることが可能になります。ここまで来ると、クリスチャンの醍醐味を感じられます。いつまで経っても私はダメなクリスチャンだ、というような無駄な暇はありません。あなたは、主に選ばれているのですから、今日の御言葉の通りにできます。楽しみです。

 

9月29日(木)

主よ、あなたは必ずわたしを助け

力づけてくださいます。

詩篇86:17c

 

あなたは自分の人生で何が大切なことかわかりますか。人生は長くて時に辛いことや悩むようなことが待ち構えています。失敗したり、落ち込んだりして自信を失うことだってあります。そのような時に、必ずあなたを助けてくれ、力づけてくれる方がいたらどうでしょう。あなたにはいます。あなたがよく知っっているイエス様です。今までもそうであったように、これからも主は必ずあなたを助けてくださいます。イエス様があなたを力づけてくださるのです。だから、人生は恐れては行けません。自分の人生は楽しく良いものだったと、あなたは歳を取ってからつくづく思うはずです。そして、自分が老いて行くことは避けられませんが、たとえ体も気力も弱ってきたとしても、あなたは思うはずです。私には必ず助けてくださるイエス様がおられる。私は落ち込む暇がない。だって、イエス様が力づけてくださるから。今までも信仰で色々な困難を乗り越えてこられたし、これからも主を信頼していけば、何も心配することはないはずだ。私の主は、情け深い神。憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。だから、私が困るはずはない。私の一生は主のものだから、恵みから恵みへと歩んでいける。光の中にとどまることができるように、光の子として歩んで行こう。主を賛美いたします。

 

9月30日(金)

主に望みをおき尋ね求める魂に

主は幸いをお与えになる。

主の救いを黙して待てば、幸いを得る。

哀歌3:25、26

 

人と接すれば、楽しみもあるが悩みも生まれる。学校や仕事に行くならば、人間関係のトラブルは避けることができない。その都度、うまく解決できればいいが、そう行かないこともある。自分の価値観や正義感からして、相容れない問題のある人もいるのが普通である。だから、いちいち気にしていれば身が持たない。そうはいっても、働いている限り、このような自分を悩ます人を避けられないのなら、全能の神に助けを求めて祈ることになる。ここで、解決すればそれでよし、しかし、それでも解決しない場合はどうすればいいのだろう。解決しやすいのは相手ではなく、自分自身だ。他人を思い通りに変えるなど出来ない相談だから、自分を変えることの方が手っ取り早いのだ。大抵の人は、トラブルに巻き込まれたり、失敗して落ち込んだりすると、なかなか這い上がれなくなってしまう。しかし、そこから脱する方法が、「主に望みをおき尋ね求める」ことなのだ。「目の前の問題を解決してください」と言うのではなく、「主は何でもご存じです。ですから、今ある人のことで私が悩んでいることもご存じです。良い解決方法が思い浮かびません。そこで、私はあなたに望みをおき尋ね求めす。それも、魂からの願いです。」このように祈るのです。そうすれば、「主は幸いをお与えになる」と書いてあるのですから、信じましょう。すぐに救いが来なくても、短気を起こさず、黙って待つことです。人間的な解決ではなく、信仰による解決は「さずがは神様です」と賛美したくなるような最善の解決です。ですから、避け得ない悩みの日にも、信仰者は、信仰で最高の救いを得られることを覚えておきましょう。