2022年8月ディボーション

8月1日(月)

この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊に注いでくださいました。

テトス3:5、6

 

私たちが「救い」と言っていることの内容は、どうなっているかこの聖句でわかります。もちろん、前提は、「神はわたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」(5節)。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ」、つまり、人間の義の業による救いではない、もっと根源的な救いを神様は御計画になられたのです。それは、罪人の修正ではなく、新しく生まれさせることでした。その方法は、聖霊によります。アダムが神の息である聖霊を吹き込まれたら、生きたものとなった、とあるように、もう一度聖霊を吹き込むことで新しく生まれさせることでした。しかし、これだけではなかったのです。次に「新たに造りかえる洗いを通して実現した」とあるからです。この「洗い」は水の洗礼をイメージすると思いますが、イエス様は、ニコデモに、水と霊から生まれる、とありますから水だけではなく聖霊によるバプテスマが必要だということです。そして、その聖霊がイエス様を通して注がれることが記されています。ですから、主イエス・キリストを信じる信仰があって、完全な救いを得るために、テトスの今日の御言葉の通りの救いを求める必要があります。しかし、ありがたいことに、神様の憐れみによって救われるのですから、誰にでも希望があるのです。先に召された皆様は、新しく生まれた者として、信仰を持って生きていただきたいと思います。世の光と言われるほどの光をいただいていますが、油切れになれば、光も消えます。ですから、聖霊の油を注いでいただけるように、主に祈ることも忘れてはならないのです。これほどの霊的なことを神様はあなたに啓示しています。ですから、あなたが神様に召された特別な存在であることを覚えていてください。

 

8月2日(火)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

Ⅰペテロ1:23

 

なぜ新しく生まれる必要があるのでしょう。それは、罪人だからです。罪人には希望がありません。でも、救い主イエスは、あなたを救うことに成功しました。それだけではなく、罪人の時には持てなかった希望を、持つことができるようにさらに驚くべきご計画を立てられたのです。それは、私たちクリスチャンが皆願っている聖なる者になる方法を備えられたということです。それは、今日の御言葉にはっきり書かれています。天国に入れるように新しく生まれさせる方法です。それが神の御言葉です。これは、比喩ですが御言葉は朽ちない種だと言っています。種なので、土に蒔かなければなりません。良い土は良い心のことです。聖霊は種を成長させます。御言葉を理解しようと考えることも重要ですが、聖霊の解き明かしを願う祈りも大切です。何しろ、あなたが生まれ変わることができるのは、神の御言葉によると明確に書いてあるのです。自分勝手な解釈は禁じられていますが(Ⅱペテロ1:20、21)、聖霊は聖書を通して読者に神様のメッセージをに伝えることができます。信仰は大変役に立ちます。難しく考えずに、信仰を持って聖書に向かいましょう。ちゃんと種を蒔くことができれば、その効果は時間がかかっても現れてきます。あなたはの考えは聖書と一致してくるからです。聖書は持っているだけのものではなく、読むものです。聖霊はあなたの益となるように、必ず働いてくださいます。

 

8月3日(水)

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、誰でも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1:19、20

 

 

クリスチャンの悩みの一つは、「怒り」です。クリスチャンなので、当然怒っては行けないと思っています。ところが、まるで試されるように、イライラさせられるようなことが身近に起こってきます。ヤコブ書では、「聞くには早く」「語るにはおそく」「怒るにはおそく」とクリスチャンが守る三原則を挙げています。ところが、見事にこの逆の三原則を実行してきたことにガッカリするのです。「聞くにおそく」「語るに早く」「怒るに早く」が人間の得意技なのです。頭の回転の速い人は、相手の言葉をちょっと聞いただけで結論まで待てずに、遮ってでも自分の意見を語っています。そこに、怒りが加わると恐ろしいほどです。そして、その結果は、いつでも後悔になってしまいます。「昔は瞬間湯沸かし器、なんて呼ばれていました」と、開き直って笑って言っていた人も、クリスチャンになると、とても恥ずかしくなります。心理学者によれば、人間はいつでも選択をしているのだ、と言われていますから、実は瞬間のうちに怒るかどうかを自分で選択しているのです。ということは、「怒るにおそく」も選択できるので、意識して努力することはできるはずです。ただ、正義の怒り、のようなことはあるので、怒りそのものを絶対ダメとは言っていません。それでも、おそくしなさい、とは言われているということです。このわずかな時間がとても重要なのです。ここで、人は過ちを犯さないで済むことになるからです。感情に任せての怒りは、後味が悪いもので、時には罪に問われることすらあるのです。ですから、私たちは、このヤコブ書の三原則を覚えて意識している必要があるのです。その結果はきっと良いものとなるはずです。

 

8月4日(木)

未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする。

箴言14:15

 

いろいろな人生がある。実に人生は様々だ。だから、面白い。しかし、破滅的な人生を選択してしまう人もいる。カルトが毎日のように騒がれているが、それも初めはキリスト教を名乗っていたので、キリスト教会の受けた被害も大きい。それにしても不思議なのは、まともなキリスト教団より、カルトの方が人を集めていることだ。そればかりか、破産するほど貢がせ、家庭を壊し、非合法な方法でお金を稼がせても、正統的なキリスト教団よりも教会員が多いということが引っかかる。今日の御言葉を熟読してみよう。子供を見ていると、まさに未熟なのだが、大人になっても未熟のままであれば、人生を損なう恐れがある。何事も信じて良いわけではない。見分けることが重要だ。この世界は、単純ではない。人間が複雑にしているからだ。自分の選択で人生が大きく変わってしまう。誰でも、あの時こうすればよかった、あーすればよかった、と人生を振り返り後悔することがある。今更どうすることもできないのに、過去の出来事を後悔するだけでは、希望は生まれない。「熟慮ある人は行く道を見分けようとする」。信仰は、熟慮を身につける早道だ。軽率に判断しないで、まず祈る。神に聞くことが大切であることを知っているから祈る。考えることが苦手な人でも、祈ることはできるから、神に導きを求めるべきだ。キリストは、私たちにご自身が「道」であると教えられた。それゆえに、私たちが歩む道は、キリストと決まっている。しかし、それは、信仰と御言葉と祈りによって歩む道なのだ。そして、できるだけ単純にして生きることが良い。聖書は、「行く道を見分けようとする」と書いてあるので、あれこれ考えて迷うということではなく、見分けているのだ。何が主の御心かと考えて、正しい道を選ぶ。肉が働かないようにと願い、聖霊の助けを求める。そうすれば、正解の道を選ぶことができる。

 

8月5日(金)

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26

 

クリスチャンが「神の子ども」と言われることがあります。事実、聖書には複数の記事があります。その一つが今日の聖句です。ここでは、神の子の定義が、「キリスト・イエスに対する信仰」があることとなっています。ですから、クリスチャンに当てはまるわけです。神の子どもであることに、何か特権があるかと言えば、大きな特権があります。つまり、死んで地のちりに戻ってしまう被造物から、永遠の命に生きる神の子どもになることです。それは、天国へ入ることができるという意味です。これらを考えると、神の救済計画は、罪人の罪を赦すことだけにとどまらず、新生させ、天の住人となることができるように、神の子どもにすることまで含まれていたのです。ですから、この世の罪人たちの間にあって、神の霊を宿す者として、肉ではなく霊に従う者となって生きる必要があります。行いによる義が成立しないことが聖書で明確に示されているのですから、同じ聖書が教える信仰による義の生き方が身につくようにしたいのです。肉に従うとは、クリスチャンになる前の生き方に戻ることです。自分がよく知っている生き方です。欲に従う生き方と言えます。それに対して霊に従う生き方は、自分の考えではなく、聖霊の意図する生き方です。聖霊の導きを求め、示されたことに従順に従う生き方です。信仰が要求されます。祈ることで、この世の時間を止めることも必要です。立ち止まって、主の御心を知る時間です。これは自分の為に必要な霊的な時間となります。そして、私たちは、聖書を考えるようになります。聖書をただ読むのではなく、考えるわけです。当然、難しいことは分かりません。そこで、聖霊の助けと解き明かしを求める祈りが必要になります。初めのうちは、すぐに答えを得ることができないかもしれませんが、答えが与えられるまで、何日でも考え続けることが益となります。愛が私たちの課題なので、愛を忘れないようにしなければなりません。肉で生きる古い生き方の方が慣れているので、愛をすぐに忘れてしまうのです。「互いに愛しなさい」、これが新しい掟です。これも理解するまで、悩みの種になります。しかし、あきらめないでください。行いによる義は無いと言うことを覚えていれば、愛は、行いではない、つまり、自分の努力ではないということになります。心から出てくるものが愛です。その心に聖霊が住んでいるのです。霊に従って生きるという意味がわかってきますね。古い人には理解できません。新しい人こそが理解できるのです。その新しい人を神の子どもと言うのです。

 

8月6日(土)

主よ、あなたは情け深い神

憐れみに富み、忍耐強く

慈しみとまことに満ちておられる。

わたしに御顔を向け、憐れんでください。

御力をあなたの僕に分け与え

あなたのはしための子をお救いください。

主よ、あなたは必ずわたしを助け

力づけてくださいます。

詩篇86:15、16、17c

 

私たちが神様に頼れるのは、主が情け深い神様であるからです。私たちは、自分の弱さを知っているので、神様の憐れみにすがるのです。私たちが聖なる者ですと言えるのならいいのですが、残念なことにその逆であると自覚することが多いのです。それでも、主は忍耐強く私たちを見捨てないのです。私たちがうまくいっていると思っている時はいいのですが、長くは続きません。何かしら問題が起こるからです。それを気にしないで乗り越える人はいいのですが、いちいち気にやみ苦しみを覚える人もいるのです。聖書を読むと、どうもその苦しみを覚える人にも、主は同情的なのです。私たちは、神様の憐れみにすがり、現実の生活に生じる様々な悩みを解決していただきたいのです。それどころか、上よりの力に満たしていただき、問題や悩みを乗り越えていきたいと願うのです。これは、決して間違ったことではなく、むしろ聖書的です。勇者ダビデですら、同じように主に頼って生きたのです。ですから、私たちは自分を責めるようなことはしないで、ありのままに主に祈り、救いを求めて良いのです。私たちの神様は必ず助けてくださいます。人間は厳しいので、とやかく文句を言うかもしれませんが、主は別です。主は優しく憐れみをかけてくださいます。主が力づけてくだされば、何も怖くありません。このように、私たちは大きな主の憐れみの中で、安心して生きて行くことができるのです。ハレルヤ!

 

8月8日(月)

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりに持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

ヨハネの手紙一1:3

 

私たちは聖書を神様の手紙と言うことがあります。信仰という眼鏡をかけなければ見えない手紙です。私たちが生まれた時には、すでにイエス様の出来事は旧約聖書の預言の通りに全て成就していました。ですから、直接イエス様を見たり、話したり、お会いすることはできませんでした。でも、イエス様に出会ったことは間違いありません。そして、知恵と知識は、聖書を通して聖霊が与えてくださいました。それは、イエス様にお会いした人たちから、イエス様のことを聞くようなものです。そして、今日の聖句を読むと分かる通りに、この手紙がある理由は、私たちが交わりに招かれているからです。その交わりは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」なのです。ですから、これは信仰による交わりです。イエス様を信じて救われた人たちへの交わりの招きなのです。なんと恵まれたことでしょう。この交わりこそが、信仰による義によって得られるものです。肝心なことは、聖書に書かれています。あちらこちら調べてみましょう。そして、御父と御子イエス・キリストとの交わりにあずかることです。別の助け手、聖霊が信仰に応えて働かれます。「神は霊である」(ヨハネ4:24)ですから、交わりには聖霊の助けがいるのです。そして、「だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(同)とあるのです。礼拝は神との交わりなので当然です。このように、私たちはイエス様を信じて救われ、主の礼拝者になったのです。このことが形式的な週一回の礼拝だけに限定されていないことが重要なのです。いつでも私たちは礼拝者なのです。それがどれほど大きな恵みであるかを日々理解したいのです。

 

8月9日(火)

あなたの定めは驚くべきもので。

わたしの魂はそれを守ります。

詩篇119:29

 

この詩篇は、信仰者には理解し共感できる箇所です。私たちは神が愛であることを知り、自分が罪人で神の赦しがなければ滅ぶべき者であることを知らされたのです。キリストは、神が愛であることを見せてくださいました。キリストの十字架の犠牲は私たちの心をとらえ、回心へと導いてくださいました。洗礼を受けてクリスチャンになると、今度は信仰の道を歩むことがどのようなことかすぐには理解できずに、神のさとしを必要としたのです。新共同訳では「定め」と訳していますが、クリスチャンが神から受け、理解した信仰者の生き方です。それは、人間の作る規則のようなものではありません。神に愛され、神を愛し返し、隣人を愛することです。「定め」とある通り、こうやって生きて行くように神は定めたのです。ですか、私たちの最も深い所、魂がそのことを知り、守ろうと反応するのです。これは、罪赦された者の経験です。これを私たちは罪人の世界で喜んで守ろうとしているのです。

 

8月10日(水)

喜びを抱く心は体を養うが

霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。

箴言17:22

 

クリスチャンはパウロの「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)という命令を心に留めています。ですから、喜ぶことが一般の人よりは多いはずです。確かに何か喜ぶようなことがあって初めて喜ぶというのなら、普通です。クリスチャンは、そうではなくいつでも喜ぶのです。つまり、喜べない状況に置かれても、主に向かって祈ることができるので、感謝と喜びが出てくるのです。このような喜ぶ習慣は、聖書に書かれている通りに、健康にまで影響してくるのです。なぜなら、体は神様の創造によってできているので、肯定的に喜ぶことでホルモンも、全ての機能が正常に働いて健康を作る仕組みになっているのです。ですから、いつも意識的に喜ぶようにするのです。これは、感情を昂らせるということではありません。鏡を見て自分の笑顔を確かめてみましょう。上手に笑えているでしょうか。自然な笑顔になるように、鏡を見ながら顔を動かしてみると、自然な笑顔は喜びにつながっていることに気がつくでしょう。そして、無理に笑うのは疲れますが、自然な笑顔は疲れません。そして、自分の顔が美しく見えるはずです。喜んでいれば、顔は自然な笑顔になっていて、何をやってもうまく行くと思えます。人と会ってもストレスになりにくくなります。一方、神様から心を遠ざけると、つまり自分だけでクヨクヨと考え込むと霊が沈みこんで来ます。ですから神様に心を向けることです。そして、「広い心をください」と祈ってみましょう。それだけで十分です。そして、喜んでいると良いことが多くあるのですが、対人関係で役に立つ親切な言葉が自然と出てくるようになります。「親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す」(箴言16:24)とあるように、人にも自分にも良い効果があるのです。ここまで読んで、でも「どうやって喜ぶの」と思っている人は、「主において常に喜びなさい」という言葉を考えてみるのです。信仰者なので、自分の努力でと思うのではなく、主との関係で喜ぶことなのだと気がつくでしょう。そうなれば、あとは試すだけです。あなたの笑顔に癒される人が出てきます。

 

8月11日(木)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊になり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

フィリピ1:9~11

 

パウロは「本当に重要なことを見分けられるように」と祈りました。私たちは、ただ生きているわけではありません。自分の置かれた立場で日々の自分の勤めを果たし、その上に信仰の道をマラソンランナーのようにゴール目指して走っているのです。オリンピックや世界陸上で、選手が懸命に走る姿は感動します。誰もが最後にメダルを取るために競争しているので、その真剣さが伝わり感動するのです。信仰者も同じだとパウロは思っていました(Ⅰコリント9:24参照)。私たちは、気が向いたら頑張り、やる気が無くなればやめてしまう、といったような信仰生活を送っていません。私たちは、キリストの日、つまり再臨の日に間に合うようにと清い者になろうとしています。それが、私たちが走っていることの意味です。主の救いのご計画による救いの過程は、聖霊によって導かれ実現して行くものです。そのためには、信仰が要求されます。私たちに要求できることはこれだけなのです。そこで、信仰に必要なことは、知る力と見抜く力です。何を信じるかが重要だからです。漠然と信じているではダメなのです。この世の神だと豪語する悪魔も、あなたに偽りを持って騙しにきます。真理に似ていて非なるものが私たちの信仰の道の罠となるのです。ですから、聖書を学び、祈り、真理を知り、信仰を強め、神を愛し、隣人を愛し、本当に重要なことを見分けられるようになることが、求められています。このようなことが日々訓練されていると思ってください。勝利の栄冠は創造以上の輝きを放ちます。目先のことに惑わされて、肉が出てこないように、キリストの恵みを味わい知り、信仰に生きる道をいつでも選ぶことです。キリストは、義の実をあふれるほど与えるはずです。そこにこそ、真の価値があるのです。いつでも神を賛美する者となれますように。

 

8月12日(金)

”霊”と花嫁とが言う。「来てください」と。これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、値なしに飲むがよい。

黙示録22:17

 

黙示録は、多くの人たちが理解できずに聖書の中に入れないようにと言ってきました。あの有名なルターですら、自分の聖書には入れていましたが、正典としての地位を与えませんでした。しかし、今日の世界の混沌とした様子を見ると黙示録が私たちに終末の意味を教えていることは明らかです。今日の聖句は、黙示録の最後の部分に出てきます。聖霊と花嫁はクリスチャンのことです。私たちは、信仰をもって「主よ、来てください」と言うのです。私たちは、この世ですっかり渇いているのです。霊的に満たしてくれるものをこの世で見出せずにいるからです。すると、私たちに呼びかけがあります。「渇いている者は来るがよい」と聞こえます。渇いていることを自覚している者に聞こえる言葉です。信仰によって生きようとすると、だんだん渇きを覚えるようになるのです。そして、「命の水が欲しい者は、値なしに飲むがよい」と聞こえるのです。ただで飲めるのですが、これは、良い行い、良い功績が無くと飲めると言われているのです。そうすると、渇いている者とは、律法を守ろうとした人やクリスチャンらしくふるまおうと自分勝手に解釈して行いによる義を求めてしまっている人のことです。しかし、そのようになっても、まだ恵みの時は残されていて、命の水が欲しい者は、値なしに飲めるのです。ですから、悔い改めて、聖霊の御力で渇きを癒すことができるのです。「来るが良い」と主がおっしゃるのですから、主のもとにいかなければ、渇きを癒すことができません。今日、静まって、主のもとへと出てみましょう。「命の水が欲しい」と祈ってみましょう。

 

8月13日(土)

主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。

主を畏れる人には何も欠けることがない。

若獅子は獲物がなくて飢えても

主に求める人には良いものの欠けることがない。

詩篇34:10、11

 

神様は一人一人を大切にお考えになられています。決して、その他大勢のようにまとめてみているわけではありません。ですから、あなたのことも深く関心を寄せています。何しろ、御子の命を代償にあなたを救ってくださったのですから、あなたの価値が非常に高いと思っておられるのです。そして、あなたは、主を信じて愛しています。イエス様をこの世の何ものにも変え難いと思っているはずです。しかし、今日の聖句を実際に味わったでしょうか。主を畏れ敬う心があるかどうか、試される日があるかもしれません。そして、あなたが見事、心から主を畏れ敬う者であることが示されたなら、あなたは一生何も欠けることがない人生を歩みます。この世の常識ではなく、神の支配する世界に生きている信仰者は、次の聖句を忘れてはいけません。「主に求める人には良いものの欠けることがない」。どうですか、あなたはこのことを実際に生きて体験するのです。すぐ心配する人や、不安になる人は、主の恵み深さを味わう訓練を必要としています。信仰は、あなたを主によって安心させてくれるものです。ですから、主によって楽観的になれるように信じるのです。そのために今日の詩篇を覚えましょう。

 

8月14日(日)

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

エフェソ2:1、2

 

神の目から見ると、以前の私たちはこのように映っていたのです。事実、そうであったので深刻でした。しかも、罪の自己中心性によって本人は自分のことを気付けないでいたのです。自分は悪くなり、悪いのは○○だと責任転嫁ばかりしていたのです。子供たちの様子を見ていると、仲良く遊んでいても、しばらくすると喧嘩になります。そして、注意すると、相手が悪いと互いに言ってはさらに喧嘩するのです。これを見ていると、つくづく人間には罪が宿っていると思わされます。この罪人の世界には神はいません。しかし、偶像はいます。偶像はまさにアイドルと同じです。自分の欲望の投影なのです。ですから、自分を喜ばせる偶像はあっても、自分を裁く神はいないことにするのです。人間は知らなかったのですが、神を離れては生きられないのです。ですから、罪を犯して神と断絶し、神から逃亡している人間は霊的に死んでいるのです。この罪人に悪魔は関わろうとします。支配したいのです。罪人は悪魔の敵ではありません。悪魔はこの世の王として罪人を奴隷のように支配するのです。そのために、不幸なことが次々に起こります。悪魔は、まるで人間の醜さを露見させるように働いていたのです。罪人は神に対して不従順なので、悪魔は誘惑することができ、そそのかして罪を犯させるのです。ちょうど家出少年、少女を見つけてはカモにする悪人のようにです。残念ながら、誰もがこのように罪人として生きていたのです。誰も、自分の力でこの呪いから自由になることはできませんでした。この惨めな罪人を誰が救えるのでしょう。驚くことに、神を裏切った生き方しかできない罪人を、神は憐れみ、救うことを決意されていたのです。希望の光は消えていませんでした。そして、救われた皆さんは、希望の光の意味を知っています。ですから、救われた者の自覚を持って生きる必要があります。いつの間にか、この世に流されて昔に戻っていないか点検する必要があります。何しろ、この世の王だと豪語する悪霊が敵なのですから、うっかりでは済まないのです。後戻りしないように注意しましょう。

 

 8月15日(月)

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

ガラテヤ5:6

 

聖書を読むようになって、新しい知識が与えられました。その一つが割礼です。私たちには馴染みのないものです。しかし、聖書ではイスラエルの民が割礼を受けていて、彼らにとっては非常に重要であることが分かります。また、イスラエル人ではない異邦人は割礼を受けていませんから、汚れた者と見なされていました。ところが、キリスト教は割礼を必要としません。では、何が重要なのでしょう。それは、愛の実践を伴う信仰なのです。これは、簡単ではありません。そもそも、割礼がなくても良いのは条件が付いています。その条件は、「キリスト・イエスに結ばれていれば」ということです。そこで、私たちは、キリスト・イエスに結ばれるとは如何なることかと考えてきました。抽象的で、分かるようで分からない、つかみどころのないものに感じます。しかし、教会の中ではこのような表現は何ら問題になりません。それどころか、積極的に使われ、祈りの中でも普通に使われているのです。割礼が律法と同一視されていたことから、割礼を守っていると言うイスラエル人は、律法を守っていると同じ意味で使っていたのです。律法を守り行うことが義をもたらすと信じていたのです。しかし、キリスト教はそれを認めません。律法を守ること、つまり割礼を行っていることでは義とされないからです。事実、割礼は罪の免罪符ではなかったし、人の罪は人間の行いでは克服できなかったのです。そこで、罪の問題を完全に解決してくださったのがキリスト・イエスでした。ですから、自分の罪を悔い改めてキリストを信じる人は罪を赦され救われたのです。そのキリストを信じる信仰を持ち続けることがキリスト・イエスに結ばれることなのです。そのことが明らかになるのは、愛の実践です。キリストは愛の実践を見せてくださったので、弟子である私たちは、愛の実践を実現させたいのです。ただ、信仰がなければ決してできません。そこで、信仰の日々が備えられていて、その内容は愛の実践なのです。ただ、これは律法の行いとは違っています。信仰によって愛が実現するからです。義人とは、信仰によって愛の実践を実現している人のことです。キリストがその人の内に住んでいるのです。

 

8月16日(火)

わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも良い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。

Ⅱテサロニケ2:16、17

 

私たちは、神様をどのように理解しているでしょう。人それぞれにイメージがあるはずです。ある人は、言葉で説明できるでしょう。また、他の人は絵を描くかもしれません。他の人は讃美歌を思い出して歌うでしょう。ある人は、聖書を開き書かれている通りに神様を読むでしょう。いずれにしろ、その人の理解で神様はその人にとって具体的なのです。ただ、勝手にイメージしているならば、それは良くありません。やはり、聖書に書かれた通りに理解することが重要です。そこで、今日の聖句を読んでみましょう。この御言葉のまま言えば、自分の信じている神様を言葉にできるのです。そして、この通りに主を味わうことが肝心です。今日の聖句を朗読すれば、皆がアーメンと唱和できることが生きた教会の姿です。そして、この通りに信じることができるなら、人生はずっと楽しいものとなるはずです。時代が暗くても、自分の人生を一緒に暗くする必要はありません。この世界は滅びると預言されています。ですから、この世に縛られる必要はありません。キリストが自由にしてくださったのですから、聖霊に従って生きればいいのです。あなたは、良い働きをし、善い言葉を語る者と呼ばれるでしょう。

 

8月17日(水)

そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証するようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。

使徒言行録10:42、43

 

この聖書の証言によれば、イエスは生死を問わず人間の審判者に定められているというのです。つまり、あなたも必ずイエスによって裁かれる時が来るのです。聖書を初めの創世記から読んでみると、ノアの洪水の話が6章に出てきます。つまり、神は人間の罪を見過ごしにできずに審判をくだし、全ての人を洪水で滅ぼそうとされました。しかし、ノアがいたので、ノアとその家族が箱舟で洪水を乗り越え生き残ることになりました。ですから、現在の人間はこのノアの子孫です。しかし、神は洪水によって生き物が滅んでいくことに心を痛められたのです。ですから、洪水で人を滅ぼさないと契約を結びます。その後の人間はやはり罪を犯したのです。そして、神が罪を見過ごしにできるはずがありませんから、罪の裁きがなされなければなりません。しかし、洪水で滅ぼさないと契約されたので、このように長い時間が経ってしまいましたが、イエスによる審判が計画されました。それは、再臨です。今度、イエスが現れるのはこの世界の終わりの日です。審判を携えてくるのです。ですから、イエスが来られたら、自分がどうなるかが分かります。救われる者もいるのですが、罪の問題はどう解決したのでしょう。それは、イエスが十字架で犠牲を払われて罪の贖いがなされたのです。そこで、イエスを信じて悔い改めた人には、罪の赦しがあるのです。そのようなわけで、再臨の時にイエスを信じて救われた人は、空中に引き上げられて、イエスと共に天の新エルサレムへと向かいます。一方、罪人たちは、自分の罪のために当然、死ぬことになっています。このお話の肝心なことは、イエスを信じた人たちに主の恩寵が与えられることです。何の功績もないのにイエスを信じただけで、罪赦され救われるのです。それは、信じた者の罪を赦し贖う方が審判者でもあるということです。だから、信じた者は確実に救われるのです。

 

8月18日(木)

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

命を墓から贖い出してくださる。

慈しみと憐れみの冠を授け

長らえる限り良いものに満ち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

詩篇103:3~5

 

聖書の約束は慈しみ深い。私たちは罪人の中に罪人として生きてきた。それゆえ、罪を罪と思わないで生きてきた。しかし、キリストは探していた。道に迷った羊のように私たちは神から遠ざかってしまった。それなのに、キリストは根気よく私たちを探し、ついに見つけて神のもとに連れ戻してくれたのだ。そのためには、罪の赦しが必要だったので、罪を示して気づかせる必要があった。それも、決定的なものでなければならなかった。心が180度回るほどの出来事があって、回心したのだ。そのため、神に背を向ける者から神に向かう者に変えられた。それは、キリストの愛の力だった。自分の罪が十字架によって赦されることを知った。それまでの生き方はまるで死に至る病だった。それが、癒されたのだ。死ぬことが決まっている生き方から、永遠に生きる生き方へと主は私たちを変えられたのだ。私たちには昔のプライドはすでに無い。そんなものに固執していた自分が恥ずかしく思える。自分には誇れるような行いが全くなかったのだ。それでも、救われたのだから、これは主の慈しみと憐れみによるとわかった。キリストを信じてからの人生は、決して楽なものではなかった。それは、罪の清算は信仰によってキリストが全て完全に済ませてくれたが、聖化することが必要だった。何しろ、罪人だったのにいきなり恵みで救われたために、キリストのような品性へと変えなければならないからだ。これも、信仰による。そして、その初めは試練であっても、砕かれていくことで罪の残骸は消えて行く。主の訓練に従順であれば、やがて平安の中を良いものに満ち足らせて生かしてくださるようになる。さらに、心が聖霊に満たされるので、その人は若さを取り戻すことができる。信仰に必要な気力が満たされるのだ。モーセのように最後まで目もかすまない者になれるのだ。信仰によって良いことがもたらされるので、幸いなる者と言わざるをえないのだ。

 

8月19日(金)

私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。

哀歌3:22、23

 

一日というものがどんなに素晴らしいことか考えたことがあるだろうか。一日のうちに良いことも悪いことも起こる。それがどんなに辛いことでも、悲しいことでも、夜が来てまた朝が来る。すると、目が覚めた時、新しい一日に変わっているのだ。辛かったことも、悲しいことも、過ぎてしまう。イエス様のおっしゃった通りだ。「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)。私たちの主は憐れみ深い。私たちは自分でも恥入り、クヨクヨと後悔し、過ぎたことなのにいつまでも悩む、愚かしいと分かっていても、何度も同じような失敗を繰り返すものなのだ。それなのに、未だ滅んでいない。神を知る前は、気にやむこともなかったが、神を知ると罪を知ることになるので、その恐ろしさも知ることになる。だから、弱い私たちは主の恵みによらなければ、新しい朝を無事に迎えることができない。この神は、驚くことに忍耐強い、そして何よりも私たちを愛しておられる愛の神なのだ。だから、主の憐れみは尽きることがない。過去に縛られることなく、罪を犯せば、悔い改めて、主に従順に生きることだ。御言葉を学び、解き明かしができる聖霊が内住しているのだから、自分が聖なる者とされたと信じよう。そのように、救いの道を見失うことのないように生きよう。主の恵みはあなたのものだから、信仰で受け取る人生をたどろう。主の真実は力強い。

 

8月20日(土)

ソロモンが祈り終えると、天から火が降って焼き尽くす献げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちた。祭司たちは、主の栄光が神殿に満ちたので、神殿に入ることができなかった。イスラエル人は皆、火と主の栄光が神殿に降るのを見て、ひざまずいて敷石の上に顔を伏せ、礼拝して、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美した。

歴代誌下7:1~3

 

これは、ソロモンの時に神殿が建造された時の光景です。エルサレム神殿に神が降ってくださった時の驚くべき出来事を描写しています。神殿がただの建物から、神の降臨で本物の神殿になった証言なのです。この時、それを見たイスラエル人たちは、すぐに平伏して礼拝します。その時に唱えた賛美が重要です。「主は恵深く、その慈しみはとこしえに」。これに先立ち、幕屋に置かれていた契約の箱や神器がことごとくレビ人によって運ばれ、契約の箱は至聖所に運び込まれた。それは大きなケルビムの向かい合って広げられた羽の間に置かれた。興味深いのは、「箱の中には石の板二枚のほか何もなかった」(5:10)。アロンの杖もマナの入った金の壺もすでになかった。契約の箱の上の蓋に神は降り立つので、神の住まいが整った。すると、レビ人の詠唱者全員、朝ぬのの衣をまとい、シンバル、竪琴、琴を持ち、百二十人のラッパ奏者たちと共に声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。「彼らは声を張り上げ、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた」(13)。どうだろう、これが主を礼拝する真の光景なのです。礼拝で気の抜けたような讃美歌を聴くことがあるが、その逆に聖書にあるような「声を張り上げ」生き生きと賛美するのを聴くことがありますが、どちらの礼拝が恵まれるかは言うまでもありません。私たち神の礼拝者は、必ず覚えておくべき賛美の言葉があります。それは、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」です。再臨の日に空中に引き上げられる時、大滝の轟のように賛美が聞こえると言います。その賛美がこの言葉であると思います。おそらく、誰もが王なるイエス・キリストを自分の目で見て、感動しながら賛美するでしょう。「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」。

 

8月21日(日)

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。」

Ⅰペテロ3:9~11

 

神様から与えられた賜物は祝福だった。与えられた賜物は使わなければ取り上げられてしまう。そこで、自分の賜物を使うことになるのだが、それが祝福であるというのは、かなり恵まれたことで、誰からも感謝されるし、自分自身も楽しくなる。人を喜ばせることが好きな人はこの賜物が一番あっている。何しろ、どんな人でも祝福できるのだ。子供のヒーローたちは、テレビで自分の賜物を使って敵をやっつけるものだ。では、私たちの場合位はどうなるかといえば、自分に向けられた敵の攻撃に、なんとか反撃しようと、賜物を使うと、どうなるか。敵であろうと嫌な相手であろうと、こちらの攻撃の武器は祝福なのだ。まず、相手が悪の攻撃を仕掛けてくる、さらに追い打ちをかけるように侮辱してくる。以前の自分なら、目には目をとばかりに、悪には悪で攻撃し、侮辱されよう者なら、さらに侮辱し返していただろう。ところが、クリスチャンになってそれができない。それどころか、祝福を与えることしかできないのだ。その結果は、驚くべきものだ。敵が敵でなくなるのだから、滅ぶべき者が救われる奇跡が自分を通して起こるなど、考えられないことだったのに、それが現実に起こるのだ。なんと気分の良いことだろう。そして、聖書に書かれている事を守るとそこに書かれた通りの恵みを得ることになる。これは、信仰をもってやってみるしかわからないだろう。不安な時代になっても、平和な日々を送る方法を私たちは知っているのだから実践しない手はない。毎日、気分良く幸福に生きることが可能なので、今日の聖句を実行しよう。

 

8月22日(月)

人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。

コヘレトの言葉2:24

 

8月になると毎年、戦争の記憶を国民が忘れないようにとテレビなどが放送します。日本は戦争が終わって70年以上が過ぎ、平和が続いています。その前の70数年は戦争ばかりしていました。平和は当たり前のことではないとあらためて思います。高校生ぐらいの時に、普段は通らない道を夏の夕方歩いていると、線路のそばに小屋のようなみすぼらしい家が数軒建っているのに気がつきました。その一軒の家は掃き出し窓を開け放って、家の中が丸見えでした。電灯の下、ちゃぶ台を囲んでランニング姿のお父さんの背中が見えました。その左隣には小さな子供の姿が見えます。向かい側にお母さんも座りました。夕飯の真っ最中だったのです。それが、なぜか物悲しく見えたのです。お父さんは生真面目に正座しているのです。一日中働いて疲れているだろうに一家の主人としてそこに座り、たとえ質素な食事であろうと魂を満足させているのです。だから、その家族はきっと幸せなのだろうと今は思えます。聖書の中で、コヘレトの言葉は「空しい」と響きます。しかし、私がその時に見た光景は、きっと今日の聖句の通りだったのだろうと思えるのです。神の手からいただくもので、全ての食卓が備えられ、善良な人々の魂を満足させるのです。

 

8月23日(火)

あなたの重荷を主にゆだねよ

主はあなたを支えてくださる。

主は従う者を支え

とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩篇55:23

 

重い荷物を運んだことがある人は、その辛さを覚えている者です。高校生になった頃、バンドをやっていて重いアンプを手で持って練習場所に運んでいました。これがとんでもなく重いのです。途中で何度もアンプを道に置いて休まなければ運べません。ところが、友達が一緒にいる時には、交代で運ぶことができます。しかし、誰か大人の人が車で運んでやろうと言うと、信用できずに断ってしまいます。このように、人間は大事なことは人任せにはできないのです。聖書では、「重荷」という言葉で人生に起こる悩むような大変なことを表現しています。この重荷は、今日大丈夫でも明日も大丈夫かどうかはわかりません。よく、器の大きな人はちょっとやそっとでは動揺しない、と言われることがありますが、クリスチャンは、器はともかく、信仰でこの重荷を負わない秘訣を身につけることができるので、少しのことでは動揺しなくなります。その方法が「あなたの重荷を主にゆだねよ」なのです。人間は先のことが見通せないし、不安になりやすいのです。しかし、信仰は役に立ちます。主を信じて主にゆだねようと、と決心することができるのです。そうすると「主はあなたを支えてくださる」のです。これは具体的なことなので、大変心強いです。問題は、ゆだねるのが意外と皆にがてのようで、いつまでもグルグル悩むことが多いのです。これほど消耗することはありませんから、「御言葉の通りにできるように助けてください」と祈りましょう。重荷をおろせるまでは、祈りをやめてはいけません。信仰もコツのようなものがあるので、体得するまで練習あるのみです。楽になれば、重荷をおろしたことになりますから、わかりやすいです。人生をよりよく生きるために、今日の御言葉を自分のものにしましょう。

 

8月24日(水)

しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。

箴言1:33

 

いろいろな人がいます。驚くような人生を過ごした人もいます。しかし、平凡な人生は意外と良いものです。私のような者は、同じ所に一生いてもよいのです。それなのに、実際には転勤族になり、引っ越しばかりの人生でした。それが、結構楽しいこととして思い出になっています。神様は、私たちのことをよくご存知で、その人を主の道へと導かれるのです。人生に挫折したとか、損ばかりしてきたとか、ついていない人生だったと、言う人がいます。しかし、その人がクリスチャンになると、悪いはずの記憶すら変わってくるのです。悪い人生だと決めつけていたけれど、信仰を持ったら見方が変わり、全て自分に必要な経験だったと思えるようになった、と肯定的に受け入れているのです。それにしても、クリスチャンは信仰の成長も、品性の変革も、聖化まで期待されているのですから、人生にいろいろな事が起こってもなんら不思議ではありません。ただ、今日のような聖句を見つけたなら、書き出して忘れないようにしておくといいでしょう。やはり、人生は安全な住まいを設けること、また災いを恐れてビクビクして生きることからの解放、そして、平和で安らかに生きることが理想なのです。これらは、主に聞き従う者へは保証されています。主に聞き従うことは良いことで、面倒ではありません。誰でもできることです。もしできないとしたら、それは罪の問題がまだ残っているという事です。罪を悔い改めて、主に従順な者となりましょう。

 

8月25日(木)

わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く、わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

エゼキエル36:25~26

 

「石の心」とはどんな心のことだろう。すぐにわかることは、愛がない心、ということだ。

愛と言われると、それが良いもので最重要であることはわかる。何しろ、神は愛なり、と書かれている通りだからだ。それにしても、私たちは神様から罪を示されて、罪の恐ろしさを知った。しかも、「法則」と聖書に書かれている通りに、自分の努力や意志の力では止めることができない。そして、罪を重ねることで生きてきたのだから、どれだけ汚れていたか想像がつく。しかし、罪の自己中心は、そのような自分の罪さえいい加減に都合よく考えるようになるので、はなはだ悪性なものだ。それを清めることができるのは神様しかいない。私たちにもわかるように、神は清い水を振りかけるとき清められると教えている。興味深いのは、汚れだけではなく、偶像からも清めるとあるから、自分の心が惹きつけられている欲望のことだ。それは、たいてい具体的な形を取るので、偶像と呼ばれるし、必ずしも形をとらなくてもよい。お金持ちになりたいとか、偉くなりたいといったことでも十分に欲望に結びつくので偶像と言える。さらに、「新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と書いてある。心が新しくなるというのは、どのようなことだろう。自分の心も汚れてしまったので、新しい心を与えるというのであれば、悪いことを考えてしまったり、人を恐れたり、恨んだり、呪ったりしていたのも心の中でやっていたのだから、正しいことを勇気を持って考え、思い、実行する、という心を汚してしまったのだ。だから、新しい心が必要で、主に義人を認められるためには必要なことなのだ。そして、もっと重要なことは、「お前たちの中に新しい霊を置く」とあることだ。聖霊が人の中に入るのには、清めと清い心が必要だから、新しい心を与えられたわけだ。さて、核心部分で、「石の心を取り除き、肉の心を与える」という箇所が気になる。石の心は、血の通っていない心、死んだ心、人を赦せない心、人を呪う心、のことだ。「肉の心」と書かれていることには驚く。というのも新約聖書では「肉」は罪の温床で、従ってはいけないものだからだ。そうすると、ここでは単に石に対しての肉と理解した方が良い。それは、愛情深く人に接する心、愛に満ちている心、思いやりの心、同情する心、いたわる心、慈しみ深い心、つまり、神に似せて造られた人間の罪の無い心のことだ。イエス・キリストの心を想像した時の心といってもいいだろう。とにかく、人間の業ではなく、神のみができる人の救いの恵みなのだ。その恵みを実現する方法を信仰と言っている。だから、自分の信仰を発動してみよう。聖書に書かれたことを信じて実現することだ。信仰は筋肉と同じようなものなので、使えば使うほど強くなり、目に見えるほどに大きくなるものだ。早速、今日の御言葉を使って信仰を発動してみよう。

 

8月26日(金)

しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

ヨハネ16:7

 

私たちは、自分を正当に理解して欲しいと思うのです。と言うのも、この世では必ずしも自分の望む通りには理解されずに、悔しい思いをすることが起こります。それは、人間がそもそも認知したり、理解することが結構不正確だからです。そのために、誤解したり、うらんだりすることだって起こり得るのです。裁判でも被告と原告との言い分が正反対で違っていると言うようなことが起こります。そこで、証拠が重要になります。そして、自分を弁護してくれる弁護者が助けてくれるのです。聖書の世界でも、イエス様が弁護者について説明しています。それは聖霊を送るという意味でしたが、それが今日でも起こっています。クリスチャンは、聖霊という別のキリストが弁護者になってくださいます。それは、罪人の罪の裁きがあるために、キリストを信じた人に与えられる弁護者なのです。イエス様は、ここで約束された通りに、今でも弁護者を送ってくださいます。そのために天に帰ったのですね。皆様が口下手であろうと心配する必要はありません。悪魔もかなわない最強の弁護者です。このような罪の問題の最終解決のために、最後の裁きがあるので、救われた人には弁護者が必要だったのです。この主の約束も実現しているので、きっと最後の審判も耐えることができますね。

 

 8月27日(土)

わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」

ヨハネの黙示録14:6

 

預言者は、とても印象的な光景を見たのです。天使が現れ、空高く飛んでいます。世界中のさまざまな人々に福音を携えて来たのです。永遠の福音と書いていますから、変わることのない不変の福音です。旧約、新約とあったようにイスラエルの歴史を通して神は人類救済の計画を実行して来ました。初めの契約では罪人を救うことができませんでした。そして、新しい契約で初めて人間の救いが実現したのです。おそらくこのような段階を踏まなければ人間は高慢であったので自力でなく恵みで救われることに納得しなかったのでしょう。どこまでも、自分の功績で救われたかったのです。しかし、罪は、はなはだ悪性で人間の努力などでは到底太刀打ちできなかったのです。そこで、神の御子イエスが、人となって十字架につきお体を裂いて血を流し、犠牲となるしか人間を救う方法がなかったのです。このことが本当に実現し、しかも、墓からイエスが復活されて、死を打ち破り、イエスの復活の命にあずかることで、私たちも完全な救いを得ることができるようになったのです。このことを福音と言っています。これは、誰でも、イエス・キリストを信じたものがその信仰で救われるという神の恵みでした。ただ一度のキリストの十字架の犠牲が永遠に効力があるということで永遠の福音と呼ぶのです。さて、驚くことに、天使とは神の命令を実行する使いですから、「神の裁きの時が来た」と言えば、その通りのことが起こるのです。福音を信じて救われた人たちは、創造主を礼拝するようにと命じられています。それは、神を畏れ、その栄光を讃えることです。つまり、この世に多くの時間心を向けている者が、そうではなく、神へと心を向けることが求められているのです。裁きの実現は、人間の想像を超えています。しかも、具体的にいつであるかがわかりません。それだけに、自分の信仰を吟味し、すぐにでも始まるかもしれない裁きに備える必要があります。救いの価値が十分にわかっていれば、神を礼拝するはずだ、ということです。それが、自分の生活のことでいっぱいになるのは、芳しいことではありません。日々、神様を礼拝しましょう。賛美しましょう。楽器ができる人は讃美歌を演奏しましょう。詩篇を暗唱できる人は、心込めて暗唱しましょう。聖書を朗読して、心を天に向けるのです。礼拝を心がけましょう。

 

8月28日(日)

何を守るよりも、自分の心を守れ。

そこに命の源がある。 

箴言4:23

 

心を守ると考えたことがあるだろうか。そして、自分の心を守っているだろうか。今の世の中では、何でも有りなので、昔ほどの倫理観も道徳も希薄になっている。古い考えは尊ばれずに、簡単に捨て去られてしまい、日本人の美徳なども、だんだんと薄れている。しかも、隣国のロシアがウクライナに攻め入って戦争が起こっている事実が、平和な日本で大きな衝撃となったが、隣国に脅威があることを改めて考えさせられるようになってきた。そして、戦争が武力衝突だけではなく、もっと巧妙に仕組まれていることも知らなければならなくなってきた。インターネットに繋いだ途端に、一体誰が見ているのか知らないで簡単にSNSを使い、ネットニュースを無批判に興味本位に読んでいる。この国を誰が守っているのだろう。そのような不安を覚えるような時代になって来たのだ。それは、同時にこの世は暗闇なのだ、とヨハネの福音書に書かれた通りだと確信させる。そして、そこに光がある。その光こそがイエス・キリストだ。このキリストが悪を裁くことになっている。この世に迎合し、信仰を疎かにしているなら、やはり裁きの対象にならざるを得ないし、その前に悪の攻撃を受ける危険がある。敵は、クリスチャンも混乱して誤り、命を失うようにともくろんでいる。では、どうやって安全を確保すればいいのだろうか。それは、今日の御言葉が教えている。自分の心に聖書の御言葉以外を種として撒いてはいけない。「何を守るよりも、自分の心を守れ」。終末はいよいよ深まり、再臨は近づいている。聖徒の忍耐はここにあり、と認識しよう。

 

8月29日(月)

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

ヨハネ3:19~21

 

イエス・キリストは人間にとって、自分が悪を行う者なのか真理を行う者なのかを明らかにする力があります。この分け方は、少し変わっています。なぜなら、悪を行う者と対になっているのが善を行う者ではなく、真理を行う者となっているからです。善を行う者であるかと問われても、「そうです」と言うにはハードルが高い気がするでしょう。しかし、「真理を行う者」かと問われる方が戸惑ってしまいます。善悪ならまだ理解できますが、悪か真理か、となるとあまりピンと来ません。クリスチャンになれたのは、悪を行う者でなかったのだからだと言うことはできても、真理を行う者なのでクリスチャンになったとは言えません。私たちの常識から言えば、悪いことをせずに、善いことを行うのがクリスチャンだと言えそうです。ところが、ヨハネは違います。そのような捉え方をしていないのです。こう言っています。「その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と。つまり、クリスチャンになられた方は、善いことをした善い人だから救われたのではなく、その行いが神に導かれてなされた者なので、ということになります。神に導かれた行いなので、「真理を行う」という表現になっているのです。そして、キリストとは、そのことを明らかにする方なので、クリスチャンになる人はキリストの元へ来るというのです。罪人は悪を行う人です。ですから、光ではなく闇を好み、光を避けるので、キリストのもとへ来ない、つまり、キリストを信じないのです。すべての人が罪人なので、「善を行う者」とは言えないのです。そうすると、神の憐れみを受けて何がしかの神の導きを受ける人がいることになります。この人は、そのことが明らかになるように、キリストのもとへと来るというわけです。人間の救いの不思議さがここにあります。

 

8月30日(火)

曲がった言葉をあなたの口から退け

ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

箴言4:24

 

私たちは、言葉の力を侮ってはいけません。言葉は、心の中で思っている事から出てきます。ですから、イエス様も「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:18)とお語りになりました。良い言葉しか言わないようにしようと決心することは正しいです。しかし、私たちの身の回りには、今日の聖句が注意しているような言葉が普通に溢れています。誰かがテレビから曲がった言葉、ひねくれた言葉を語ってきます。私たちが聞きたいのは、愛の言葉、癒される言葉です。愛の言葉は、神様との交わりから心に満たすものです。癒される言葉は、イエス様からいただくもので、いつでも優しいいたわりと信頼に満ちています。このように、神様との交わりを私たちは必要としているのです。そのために、時間を作る必要があります。これも、信仰のうちです。聖書は難しいものから分かるものへと変わります。主の御言葉を心に蓄えることのできる人は幸せです。さあ、あなたは今日の聖句から何を学んだでしょう。主に救われて、神の子にしていただいたのですから、自分を否定してはいけません。間違いを犯して反省し、悔い改めるのは正しいことです。でも、自分にダメ出しをしては「ひねくれた言葉」が出てきます。ですから、自分を褒めたり、励ましたり、肯定的な言葉を多く出しましょう。曲がった言葉は、神様の御前では決して口にしない言葉のことです。聖なる自信を身につけて、人を恐れないようにすれば、正しい言葉を選べます。言葉の力で、より良い信仰生活を送って、幸せになりましょう。

 

8月31日(水)

目をまっすぐ前に注げ。

あなたに対しているものに

まなざしを正しく向けよ。

箴言4:25

 

私たちは見えていると思っているのに、実際には見えていなかったということがたびたびあります。それでも、生活に困っていなければそれでもよいのでしょうが、大切な人間関係や仕事に、そして自分の人生に関わる大事な事になるとそうもいっていられません。クリスチャンなら、なおさらです。イスラエル人はナザレのイエスを見ましたがキリストと理解した人は少なかったのです。私たちは目で見ていると思っていますが、目が直接見ているわけではなく、神経を伝わって脳で見ているわけですから、どう見るかが問われるのは当然なのです。聖書には、盲人がよく出て来ますが、盲人がイエスに見えるように癒された奇跡では、目ではイエスを見ていなかったのに社会の権力者の前で恐れる事なく癒されたことを証ししました。私たちもイエスはキリストであると見極めたのです。特に、今日の聖句から私たちが覚えたいのは、「あなたに対しているものに」と書かれた意味です。それは、誰のことか考える事です。妻や夫であるかもしれません。コロナ禍の中で離婚が増えているそうですが、熟年者に多く、若いカップルでも四六時中家にいると相手の嫌な面が見えて来るからです。この人たちが、今日の聖句を早く知っていたら結果が違っていたのではないでしょうか。人間関係全般に今日の聖句は真理を教えています。よく子供が親に「見て、見て」と言います。皆んな、まなざしを正しく向けてほしいのです。また、善悪を見分けるのにも今日の聖句は格言となります。詐欺の多い時代には、今日の聖句をよく考えてみるべきです。そして、信仰においては、主への信仰態度が今日の聖句に奥義を告げているのです。知恵を求めて、御言葉を自分のものとしましょう。