2021年8月ディボーション

8月1日(日)

主に信頼し、善を行え。

この地に住み着き、信仰を糧とせよ。

主に自らをゆだねよ

主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:3、4

 

この世界で幸せに生きる秘訣が今日の聖句です。標語のポスターのように、紙に聖句を書き写し、壁などに貼っている人がいます。それで、忘れずに済むのなら、やった方がいいです。よく、祈っても願いがかなわないとあきらめる人がいますが、その人は、聖書に書かれたルールを知らないのです。心の願いを主にかなえて欲しいと思ったなら、主に自らをゆだねれば良いのです。ところが、多くの人は主にゆだねることなく、自分で抱え込んで離そうとはしません。そうなると、自分の思い通りにすると主張しているのですから、主の入り込む余地はなくなります。聖書は、「あなたの道を主にまかせよ」とまで語っています。これは、主への信頼です。つまり、信仰なのです。その時、はじめて主は計らうことができるのです。力を抜いて、主の恵みに自らをあずけてみましょう。

 

8月2日(月)

わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

Ⅱコリント5:14

 

クリスチャンになるということは、キリストのゆえに死んだのです。それは、発想の転換ですが、死んだ者は自分のために生きないということです。それでも生きているのは、自分の救いのために死んで復活してくださったキリストのために生きるためなのです。これが、キリストの救いの奥義です。あなたは、勘違いして古い人のまま生き続けていると思っているかもしれません。しかし、そうではなく、洗礼を受けて水から上がった時から自分のために生きることをやめたのです。そうではなくて、キリストの愛が私たちを駆り立てるので、その愛に応えて愛し返したいのです。それで、キリストのために生きているのです。ですから、生きる目的が変わったことを自覚する必要があります。キリストは、復活後に天に帰りましたが、私たちはキリストの復活の命にあずかり、神の支配の下に生きているのです。つまり、神の国に生きているのです。ですから、肉のことで思い煩ってはならないのです。あなたの内には聖霊が留まり、「外なる人」は衰えていき、「内なる人」は日々新たにされていくのです。キリストのために生きましょう。

 

8月3日(火)

また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

エフェソ3:18、19

 

結局、キリスト教はキリストの愛をどこまでも知ることを目指しているのです。なぜなら、罪深い人間は愛によらなければ、生まれ変わることができないからです。それは、人間から受けた愛ではなく、それを超えた完全な愛です。少なくともクリスチャンになる決心をした人は、キリストの愛に触れています。それがどのようなものであるのか、はっきりとはしていなかったとしても、心の最も深いところでキリストの愛を受け止めたのです。そして、クリスチャン生活はキリストと共に生きることなのですが、この世の目に見える事に惑わされて、キリストの愛が見えなくなることがあるのです。ですからクリスチャンは自分が目指すところはキリストの愛を知ることであると肝に銘じておかなければなりません。今日の御言葉のようになることはクリスチャンなら誰でも可能です。キリストの愛はいつでもあなたに注がれているので理解し、知ることができるのです。そのことがもたらすことは大きいのです。「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」こと、これがあなたの到達するところなのです。このことが用意されているのですから、イエス様の愛をいつも理解し、知ることを心がけてください。

 

8月4日(水)

しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブライ7:24、25

 

聖書に書かれている祭司の働きは、神様に人の罪の執り成しをすることです。そのためには、罪の贖いとなる犠牲を献げる必要があります。キリストの尊い血を流すことなしに罪を清めることはできないのです。そして、キリストの祭司職としての執り成しがあってこそ私たちの救いは成り立っているのです。今日も、明日もキリストは変わらずに、あなたのために天で執り成しておられます。それは完全な執り成しなので、あなたは信仰によって正しい者となれます。この執り成しの価値がどれほど偉大であるか、果たして人間に理解できるのか分からないほど奇跡的な驚くべき救いの力があるのです。ですから、どんな人でも、キリストを信じて悔い改め、祈る時、天で聞き耳を立ててどんなつたない祈りでも聞き届けていてくださるのです。このようにキリストを通して神様に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる、と聖書は証言しています。

 

8月5日(木)

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

マタイ24:35

 

この世界はいつまでも続くと、なんとなく思っている人は多いでしょう。しかし、地球温暖化、異常気象、ゲリラ豪雨、と地球の危機を告げる言葉が頻繁に聞こえるようになってきました。地球規模の危機がいつどこに起こるか分からない状態が始まっているのです。それでも、キリストの言葉は「天地は滅びる」と断言しているので、その通りになるのです。そうであれば、一人でも多くの人が救われることが課題となります。クリスチャンであれば、自分の救いだけではなく、身近な人の救いも大きな課題となるのです。一つの教団、教派の狭い枠の中にはまらなかければ救われないと考えると、救われる人の数は制限されてしまいます。しかし、キリスト教は数多の教派があって、多様性があるので多様な人たちが救われるチャンスが用意されているとも言えるのです。しかし、そもそもそのような厳格な組織に入れない人もいるのです。それらの人たちはどうなるのでしょう。キリストは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と、お語りになりました。ですから、そのための道も用意されているはずです。世の終わりに近づいていることを覚え、その中でキリストの御言葉が決して滅びないという意味を考えて、聖書を開いてみましょう。

 

8月6日(金)

しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

ローマ7:6

 

聖書は「あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対して死んだ者となっています」と示しています。あなたが考える必要があるのは、律法に対して死んだ者となり、というところです。「自分を縛っていた律法」とは、あれはしてはならない、これはしてはならない、といった縛りが無意識か意識してか、自分を縛っていたのです。そうなると、自分はいつでも律法の要求を満たせないダメな存在になってしまいます。それどころか、律法によって、誘惑が生じ、葛藤が生まれるのです。それは、いつでも負ける戦いです。そのため、罪の問題は深刻になります。しかし、キリストが律法から解放したのです。律法があるから正しくなれると錯覚していたのですが、そうではありませんでした。逆に罪へ誘う力になってしまいました。ところが、律法を無くするなど考えることができませんでした。しかし、キリストが十字架にかかり、律法から解放したのです。呪縛のように縛られていた律法からの解放は、死ぬことしかなかったのです。それをキリストは教えてくださり、そして、聖霊に従う新しい生き方で主に仕えて行くように道を開かれたのです。ですから、聖霊に従う新しい生き方を身につけましょう。

 

8月7日(土)

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる。

マタイ12:36、37

 

肯定的な言葉は人間を益する、と言われますが、聖書で人の話す言葉が意外なほど厳しく裁きの対象になっていることが指摘されています。「つまらない言葉」にまで責任が問われるのであれば、大問題です。私たちは感情的になることがあるので、そんな時には、まずい言葉を連発しているでしょう。また、テレビやラジオも要注意です。つまらない事を話している人にツッコミを入れて、まさにつまらない言葉を発しているでしょう。そんな時には、否定的な言葉がいくらでも出てくるものです。これらに責任を問われるなら、誰でも自信がなくなります。さらにまずいのが、SNSの書き込みです。匿名ならばと言いたい放題暴言を吐く人も少なくありません。これは、神様に責任を問われる事になっていると知れば、途端にできないでしょう。さて、マイナスの面を見てきましたが、プラスの面もあります。それは、「自分の言葉によって義とされ」る事です。すごくないですか。これは、心にあることが言葉となって出てくるから、信仰によって義となる人は、言葉が違っているのです。もちろん、付け焼き刃、あるいは取ってつけたような言葉では、義とはなりません。ここでも、キリストの関係を正しくしていることが言葉で義とされる秘訣です。今日は、自分の言葉がどうなっているのか、自己チェックしてみましょう。イエス様を信じる言葉が出てくるといいですね。

 

8月8日(日)

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださるものならだれにでも、与えられているものなのです。

使徒言行録2:38、39

 

これは、ペンテコステの時のペトロの説教の一部です。弟子たちに約束の聖霊が降った後で、霊感されたペトロが真理を語ったのです。それは、後世の時代の人々へ伝えるべき重要な教えです。それが、聖書という姿で私たちは手にしたのですが、この箇所に目が止まり、その意味を正確に理解するまで一体どれぐらいの期間が必要だったでしょう。聖書を正しく解き明かしてくださるのも聖霊です。私たちを天国へ入れるように着く変えてくださるのも聖霊です。神の愛を直接伝えてくださったのも聖霊です。祈りを助けてくださるのも聖霊です。伝道や人を助けるために必要な霊の賜物も聖霊によってもたらされます。神の臨在を現すのも聖霊です。このように、聖霊がなければ、クリスチャンになっても天国へ入れるかどうかわかりません。使徒言行録の中には、聖霊の働きがいかに重要であるか証されています。そして、聖霊の現れはどんなに鈍感な人でも絶対にわかります。聖霊に満たされるなら、人生観が変わります。人間は神に似せて造られているので、神は愛であるから、人間も愛し、愛されて生きるように造られているのです。そのために、この世界で十分に愛されないと問題が起こってくるのです。罪は愛を破壊し、断絶させる力そのものです。ですから、罪によって人は本来の創造された素晴らしさを失っています。この世では愛されたくても愛してくれないことが多いのです。ですから、聖霊が人の内に住み、いつでも無条件に愛を満たしてくださる事によって人は神の像を回復され、愛し、愛される者に変えられるのです。聖霊をもっと真剣に考え、祈り求めましょう。

 

8月9日(月)

神は一つのことによって語られ

また、二つのことによって語られるが

人はそれに気がつかない。

人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると

夢の中で、夜の幻の中で

神は人の耳を開き

懲らしめの言葉を封じ込められる。

人が行いを改め、誇りを抑え

こうして、その魂が滅亡を免れ

命が死の川を渡らずに済むようにされる。

ヨブ記33:14~18

 

神様はあなたに語りかけるお方です。それは、必ずしも耳や心に聞こえる言葉でなくてもよいのです。あなたが気づけばよいからです。しかし、あまりにも忙しく生きるあなたは、このような神様から語られることに気がつかないのです。そこで、夢の中で、夜の幻の中で、神様からの言葉が絶対気がつくように与えられるのです。このようにしてでも、人を悔い改めさせたと神様は考えておられるのです。ようやく神様から語られていることに気が付いたなら、あなたは行いを改めることになります。あるいは、あなたのプライドが問題であるかもしれないので、プライドを捨てる決心が必要になるかもしれません。このようにして、神様は人が罪ゆえに魂を滅ぼさないように働かれるのです。 

 

8月10日(火)

神に従う人は七度倒れても起き上がる。

神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。

箴言24:16

 

人間が人を見て感動するのは、その人が倒れた時に起き上がってくる時だ。それも、一度だけではなく、たとえ七度倒れてもまた起き上がってくる時に深い感動を覚える。しかし、当の本人にしてみれば、倒れてそこから起き上がることは簡単ではないはずだ。それが一度なら起き上がる人もいるだろうが、七度、つまり何度倒れても必ず起き上がってくるのは、もはや人間の力ではなく、やはり神の助けがあるはずだ。そもそも神に従う生き方は、神の御心にかなっている。そうであれば、神はその人をさらに御目に適う者に成長させようと計画される。見込みがあれば厳しい試練にも耐えられるはずだ。そこで、神は祝福だけではなく、時にはその人の頑なさを砕いたり、信仰を試すことすらされる。ただ、その人は神の御手の中でそれらを行なっているので、突き放されているわけではない。そして、信仰者は、聖書に答えを求め、どんな時にも主への信頼を失わないので、倒れても起き上がるのである。一方、神に逆らう者は災難に遭えば、信仰がないので自分を支えるものが何もない。そこで、簡単につまずく。だから、非常に大きなダメージを受けることになる。自業自得なのだが、悪い結果が待っているわけだ。自分で自分を助けることができないことを悟れば、神に目を向けることもできるのに、愚かな者は自分を助ける命綱を自らの手で外すのである。信仰者は、人生につきものの困難さえ、キリストによって最後には益に変えてしまうことができるのだから、神の恵みを味わう特権を既に得ている人なのだ。

 

8月11日(水)

「見張りの者よ、今は夜の何どきか

見張りの者よ、夜の何どきなのか。」

見張りの者は言った。

「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。

どうしても尋ねたいならば、尋ねよ

もう一度来るがよい。」

イザヤ21:11、12

 

再臨を待望する人たちは数え切れないほどいただろう。しかし、その人たちは歴史の中で既に眠りについた。彼らは、主に尋ねてきた。その時はいつか、と。多くの時代、キリスト教とは迫害されてきたからだ。今も迫害の苦しみの中で信仰を保っている人たちはあちらこちらにいる。一方では、平和な恵まれた環境の中で信仰を安心して守っている人たちがいる。そのどちらもが、主の再臨はまだなのかと主に尋ねているのだ。主のお答えは、決まっている。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ」と。つまり、再臨を待望する者は、いつでも夜明け前に生きているということだ。夜は必ず明けるが、まだ夜なのだ。その中で信仰をどのように持ち続けるのかが私たちの課題となる。再臨を生きて迎えようと、眠りについて迎えようと、喜びは変わりない。そして、夜明けはまもなく来ることも確かなのだ。信仰を互いに励まし合って、主をその目で仰ぐ日を待ち望みたい。

 

8月12日(木)

命のある限り

恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り

生涯、そこにとどまるであろう。

詩篇23:6

 

詩篇23篇は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」から始まります。私たちはこの羊飼いが、自分にとっては主イエス・キリストであると確信しています。ですから、クリスチャンの人生は自分一人の力で頑張って行くものではないと理解しています。確かに、一つ一つの問題は困らせることはありますが、結局乗り越えることができます。そして、倒れそうになっても主を信じる信仰で倒れずに済むのです。そのような信仰生活を通して、少しずつ主は自分に何をしてくださるのかが分かってきます。それは、詩篇記者と同じであれば正解です。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」と書いてある通りなのです。他の人はそうでも、自分は違うと言う必要はありません。それは、主イエス・キリストがあなたの救い主だからです。主はあなたのことをよく理解しておられます。その上で、あなたを選んでいます。初めに愛したのは主からです。ですから、あなたは主を信じて安心してください。ただ、「追う」とあるように、少し遅れて来るかもしれません。それで、不安になることもあるかもしれません。しかし、振り返れば、いつも主は羊飼いの役割を忠実に果たしてくださるのです。だから心配しなくてよいのです。それにしても、私たちは本当に恵まれているのです。嘘のようですが、恵みと慈しみがあなたを追いかけてくるのです。イメージしてみるとおかしくなります。イエス様、ありがたいです、と毎日言って生きていけるのです。 

 

8月13日(金)

実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。

伝道5:19

 

私たちが生きていけるのは神様の賜物があるからです。それは、全ての人に及んでいます。しかし、人間の多くはそのことを理解できずに生きるので、文句が出るし、感謝できないで、その分不幸に感じているのです。神様は、労苦でさえ喜ぶようにされたのです。ですから、働くことは実は楽しいことなのです。生活の中で必要なものは神様が与えてくださいます。時には不思議な方法で。ですから、今の世の中ですら、自分の受ける分があり、普通に幸せに暮らしていけるのです。それは、神様がそのようにしてくださる賜物だからです。このことを理解したら、神様への讃美はいつも心にあり、そのことが生きることを容易にします。静まって、神様の恵みを考えてみましょう。

 

8月14日(土)

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。

箴言17:9

 

自分に罪を犯した者を赦すことはクリスチャンになってすぐに教えられ、そしてその実行の難しさを味わうことになります。これは、だれにでも訪れる試練です。心の中で赦したくない相手を一方的にこちらが赦すということは、なかなか納得が行きません。こちらも深く傷ついているからです。それでも、善いクリスチャンを目指しているので赦す努力をします。時に涙ぐましい努力をするのです。そして、本当に赦せると驚くほどの解放感と主の愛を感じます。ところが、口先だけの赦しは心から赦していないので何度も思い出しては苦しむことになります。その度に赦すと言うのですが本当に赦し切らないと、何度もその時の苦しみや恨みを話すことになります。赦していると忘れることができるのですが、赦しが義務的なものであれば呪いのように自分の心から離れることがないのです。なぜそうなるかというと、クリスチャンの本分である愛を追い求める生き方ができていないからです。人を愛するから赦すのですが、赦すことの方ばかりに心が奪われているので恨みが残るのです。もっとも注意しなければならないことは、恨みなので、本人に自分がいかに苦しんだかを何度も言ってしまうことです。これは、厄介なことに相手が親しい友だと言いやすくて、自覚なく何回も言い続けてしまいます。これでは大切な友が離れて行くでしょう。そうでなくても、嫌な思い出を何度も繰り返すのは辛いだけです。赦しは、自分だけでするのではなく祈りの中で主に助けていただくことです。いつでも心が楽でいることは大切なことです。

 

8月15日(日)

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

エゼキエル36:26、27

 

人を救うことの内容はどのようなことになるのでしょう。十字架や復活の意味は度々聞かされることですが、その先はどうでしょう。今日の聖句は、新しい心を与え、新しい霊を置く、とあります。聖霊を人の内に置くには新しい心が必要だということでしょう。それは、以前は石の心であったのでそれを取り除き、それに代わって肉の心を与える、と表現されています。石の心とは、血の通っていない、愛の無い心のことです。それに対して肉の心は、血の通った、愛のある心のことです。聖霊を愛のある心に置けば、主の愛の掟に従って生きることができるのです。主の御心にかなって生きることがこうして実現するという預言でした。教会で時々耳にするのは、福音の謝った理解です。それは、ありのままで救われ、自力で無く、他力で救われるから、何も努力することもない、と楽観している姿です。実際には、今日の聖句のように、心を新しく刷新されて、新しく聖霊をそこに置いていただくことが条件です。この新しい聖霊が重要なのです。それ無しに何かを期待しても仕方がありません。また、聖霊を置かれただけでもダメで、主の掟に従って歩む必要があります。また、主の裁きを守り行わせるとも言っているので、聖霊によってこのことを実現させる必要があるのです。それらには信仰が重要となります。平たく言えば、聖霊によって愛に生きているかどうかです。これは、自力ではできません。感情が追いついていかないからです。ですから、新しい心が必要なのです。石の心なら愛でないことをができましたが、肉の心はそれができません。それだけでなく、助け主である聖霊がキリストの愛を無条件に与えてくださいます。それだけでもありがたいのですが、キリストが愛してくださったように互いに愛し合いなさい、との掟が自分の生き方を正しく導きます。そして、自分ではできなかった義を主が実現させてくださるのです。

 

8月16日(月)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

ローマ8:28

 

 

時々、未信者の中に自分が神様を信じてクリスチャンになるかどうか決めることができるのだと思っている人がいます。確かに、信じるのはその人の自由意志に任されていますが、そもそもなぜクリスチャンになろうとしているのか不思議に思わないのでしょうか。どの人も、神様の招きがなければ救われません。ありがたいことに人間の基準とは違っているので、立派な人だけが救われるということではありません。聖書に出てくる十二使徒でも、出てくる人には身近に感じるほど人間くさい人が多いのです。このように、主は寛容に召してくださるのです。ただ、完全に清いから救うということではないので、洗礼を受けてからが重要になります。そこで、時には試練すらやって来ます。信仰生活でも世俗的になったり、失敗することもあるのです。神様のうながしがあって悔い改めることもあるでしょう。しかし、今日の御言葉を見てください。どうでしょう「万事が益となるように共に働く」と書いてあるのです。つまり、クリスチャンの人生に起こることは、どんなことも偶然ではなく、悪いことだ、災いだ、と思うようなことですら、私たちに働いて信仰を引き出し、気がついてみると万事が益になっているとはっきり分かるのです。それは、背後で主が働き、人間の能力では到底理解できない神様の大きな御力で、あれこれ動かして私たちがキリストの御姿に似てくるように働かれているのです。ですから、苦しい日もイエス様を信じて乗り越えることができます。希望は絶えず与えられています。今日の聖句を覚え、最後はうまく行くと自分を励ましましょう。

 

8月17日(火)

あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。

ルカ9:48

 

時々、自分を小さい者、取るに足りない者だと感じることがあるかもしれません。普段は、そうならないように自分よりを下の者、もっと小さな者を見つけて安心しているのかもしれません。人間の器という言葉を聞くことがあると思いますが、器の大きな人に出会うと自分がつまらない人間のように感じる事があるものです。ところが、親が子供を大事にするあまり、わがままでどうしようもない子供が増え、その結果学級崩壊が起こったり、社会問題化しました。一番不幸なことは、子供が最悪の事件を起こして親がそれを認められないという悲劇が起こる事です。子供に善悪を教え、間違ったことをちゃんと叱ることができない親は、子供を不幸にしているのです。それに加えて、現代はゲームが子供も大人も支配してきました。IT技術の驚異的な進歩は世代間の断絶を深めています。そこには、もはや人間の器うんぬんの話どころではありません。さて、今日の聖句から考えてみましょう。聖書時代の幼児とか小さな者とは、取るに足りない者、軽んじて後回しにしてしまう者、無視してもぞんざいに扱ってもかまわない者のことです。そこで、有力者や偉い人の前ではへつらいながら、小さな者には横柄に態度を変える事が普通である人間の社会で、クリスチャンとしてどうするつもりか、という事です。誰もが軽んじて当たり前と思っているような人をクリスチャンのあなたは大事に思えるかという問いかけなのです。互いに愛しなさい、という掟はこのように機能するのです。今日の聖句を覚えれば、この世界は違って見えるはずです。キリストの弟子の心構えを一つ覚えましょう。

 

8月18日(水)

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御旨に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

ヘブライ13:20、21

 

私たちの神様は、イエス・キリストによって御旨に適う良いことをしてくださいます。私たちは、信仰によって生きているのでいつでも御心を行いたちと願うのです。そのことでも、主イエスが、そうなるようにすべての良いものを備えてくださるというのです。ありがたいことですね。生命保険に入っていると病気の時に治療費が支払われるので安心して治療が受けられるように、神様はあなたが御心を行えるように、すべての良いものを準備していてくださるのです。ですから、あなたは自分の力で良いことを行わなければという重荷から解放されています。日々の生活でいつでも善いことを実現できるようにすでにイエス様があらゆることを備えてくださっているのです。ですから、思い煩う必要はありません。神様に不可能はないのですから、どんなことでも準備できます。主を信じて生きることは心が楽になるので、最善の道です。このようによくしてくださるイエス様に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 

8月19日(木)

だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

使徒言行録13:38、39

 

キリスト教の救いはどのようなものかと聞かれれば、この聖句を思い出せばよいのです。この方とは、もちろん主イエス・キリストのことです。福音はイエス・キリストによる罪の赦しであり、この福音は世界に広がったのです。そもそもユダヤ人はモーセの律法を遵守することで義となると教え、信じていたのです。しかし、会堂や律法学者まで作ってもみても律法を守り行って義となるということは誰一人達成できなかったのです。ところが、主イエス・キリストを信じる者は皆、自分の功績ではなく、ただキリストを信じる信仰によって、キリストが信じる者を義となるようにしてくださるのです。この中身をもっと詳しく学ぶ必要はありますが、基本的にこのようにして人は義とされるのです。ですから、弱い人も貧しい人もどんな人でも主イエス・キリストを信じる者は救われるのです。現代人も救いを必要としています。だから、福音を宣べ伝える必要があるのです。

 

8月20日(金)

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、私あっちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

テトス3:5~7

 

私たちは、新約聖書を読んで行くことで同じような言葉に出逢います。それも、私たちの救いの真実についての言葉です。この世界は、神を見失い、神がいないからこそ罪深く生きることができると証明しているような有り様です。世界が放っておけば良くなるとは誰も思っていません。悪くなるだろうと考えれば不安になるだけです。国の権力を持つ者は国民のために仕えるはずですが、実際には主義主張がどうであろうと自分自身の保身と権威の行使に向かうのです。それを何度も見てきました。ですから、人間お力では世界はよくならないと不安になるのです。そのような世界では、神の否定は霊の否定でもあるのです。本来、宗教であるキリスト教会も霊を信じるはずなのに、この世の人と同じように霊はまるでいないもののように考えている人が増えているのです。もし、クリスチャンが聖霊が今も聖書に書かれたように働き、奇跡を起こし、霊の賜物を与え、霊の実を結ばせてくださると信じるなら、奇跡はもっとたくさん報告されたでしょう。しかし、奇跡は経験したことが無いと言う人が教会の中に増えていけば、この世の人とあまり変わることはありません。このような状況を教会の世俗化と言います。もちろん、悪いことです。ですから、リバイバルが求められるのです。リバイバルは、信仰覚醒と言われますが、実際には大量の聖霊が人々に注がれる現象です。当然、使徒言行録に書かれたようなことが起こります。このリバイバルを祈り求めましょう。個人的なリバイバルでも良いので、祈りましょう。そうでなければ、今日の聖句のようなことは、実現しなくなるからです。逆に、聖句は真理なので、信仰はこのまま受け入れて信じることが肝心なのです。決して難しくありませんから、今日の聖句を読んで信じてください。良い証ができるようになります。

 

8月21日(土)

諸国の民から自由な人々が集められ

アブラハムの神の民となる。

地の盾となる人々は神のもの。

神は大いにあがめられる。

詩篇47:10

 

キリストは信じる者を自由にします。それは、罪人は罪と死と悪魔の奴隷であったからです。ですから彼らには救いが必要でした。そして、救う方法はキリストが十字架で死ぬことだったのです。そして、それが罪の贖いとなりました。これ以外には人を自由にすることはできなかたっのです。人の救いは神がキリストを通して実現しました。ですから、完全な救いはキリストによるのです。創世記を学んだ人は神がアブラハムの子孫にまで祝福を約束されたことを覚えているでしょう。それは、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも及びました。異邦人も福音を聞いてキリストを信じたからです。これらの人々がアブラハムの神の民です。世界中から集められるのです。そして、クリスチャンは完全になる道を用意されています。日々の生活の中にそれがあります。誰よりも祈ったとか、善行を詰んだと言うことよりも、普通の生活の中で「地の盾」となったかどうかです。本来は、この世の権力者や指導者のことでしょうが、神の御心にかなった者でなければなりません。そこで、キリストが地の塩、世の光と言われたクリスチャンが地の盾となるのです。それは、神へ栄光を帰する力です。クリスチャンとして労を惜しまず、神を第一にし、自分を愛するように隣人を愛することです。あなたを通して世は神を大いに崇めるでしょう。

 

8月22日(日)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

私たちは誰かが、とても辛い思いをしていたり、悲しんでいることを知ったら、なんとか慰め励ましたいと思うのではないでしょうか。愛の神様ならなおのこと最善を尽くしてくださるはずです。事実、詩篇記者は神様が恵みをお与えになり、それを楽しみ、喜んだのです。このことは、あなたにも当てはまります。神様はあなたのことをちゃんと見ていてくださるので、あなたが悩んだり、また最悪にも魂に苦しみを覚えるような事態に遭遇した時に、あなたが見事に乗り越え、苦難に負けないようにとびっきりの恵みを与えてくださるのです。不思議なことに、泣きたいはずなのに、気がつくと恵みを楽しみ、喜んですらいるのです。ですから、人生は決して悪いものではありません。何しろ、神様があなたのことを心配され、心を尽くしていてくださるからです。ただ、懸命なので、いたずらに甘やかすようなことはしません。一時は辛くても、後で振り返れば、笑えるようになります。気づけば、ひとまわり大きく成長しているでしょう。主の恵みはあなたのものです。辛い時には、周りを見回してみてください。ちゃんと主の備えが見つかるでしょう。

 

8月23日(月)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

クリスチャンにはクリスチャンの喜びや楽しみがあります。これは世俗のものとは異質です。危険もないし、虚しさとも無縁です。クリスチャンは望むことができます。それも神様に対してです。私たちは、祈って単純に信じています。たとえ願い通りにならなくてもそこにも神様の恵みがあると信じているのです。不安、怒り、恐れといった負の感情に支配されません。嵐のように心を騒がせたとしても、神様に祈ることを知っているので、祈りの中で落ち着きます。たとえ自分に自信がなかったとしても、それを隠そうと虚勢を張ったりすることはありません。必要がないからです。神様に全てをさらして知られているので、よく見せる必要がないのです。弱さもそもままでいいし、そこに神様が直接働かれることも知っていますから、弱さは無いも同然です。自分をよく見せようとしなくてよいのですから、なんと楽な生き方でしょう。何しろ神様との間に平和があるのですから、この世で怖いもの無しです。信仰は必ず報われます。その信仰を驚くほど強めるのは、やはり聖霊の力です。聖霊が現実に私たちのために力ある業を現されるので、望みにあふれるのです。

 

8月24日(火)

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5、6

 

人間の作った物は、初めは素晴らしいですが時の経過と共に劣化して行きます。そこで、家でも年月を重ねると外壁塗装をしたり、リフォームをすることになります。ですから、大きなお金が出ることが周期的につきまといます。ところが、人間はそのために準備をしないところがあるのです。そのために、先延ばしにしにします。それでも、急にその時が来ると困ってしまいます。このように、人間は毎日同じことの繰り返しのように生きていても、自分の思い通りにならない日が突然来るのです。そんな時に、クリスチャンは今日の聖句を覚えましょう。困った時に、心を尽くして主に拠り頼めばいいのです。しかし、実際には「自分の悟りに頼るな」と、注意されていたにもかかわらず、自分の力に頼ってなんとかしようとするのです。何とかなればいいのですが、大きなトラブルの時にはそうは行きません。そこで、今度は必死に主に拠り頼むことになります。そこで、主の配慮を見ることになります。私は車が高速道路を走行中にエンジンの警告灯が点り、出口から出た所でエンジンが停止し、それっきりエンジンが壊れてしまいました。そこで、車の買い替えになったのですが、主はその時をご存知で、あてにしていなかったアメリカの年金がちょうど入って来て、今の車が買えました。タイミングが絶妙で驚きましたが、主に拠り頼む人生を歩んできてよかったとこの時もまた感謝しました。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」、これがクリスチャンの生き方です。「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」のです。

 

8月25日(水)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

歳をとって何もしなくなると体力だけでなく気力も衰えてくるものです。若い時には、何でもできると思っていたかもしれないのですが、年齢を重ねて現実を知るようになります。そこで、どこかで消極的になったり、あきらめてしまったりする傾向があります。しかし、クリスチャンには聖書に書かれた約束があります。それによれば、勇気百倍です。あなたの神様は、あなたを強めてくださり、あなたがやろうと心に願いが出て来たときにそれを実現に至らせることができるのです。もし、それがうまいく行かないのなら、主の御心でないかもしれません。そうでないなら、やり方が間違っているかもしれません。つまり、何でも新しいことに挑戦する時には、なめてかかってはいけません。簡単に考えていたなら、すぐに行き詰まるでしょう。もし、それが簡単であれば、そもそもそれはあなたの挑戦にはなっていません。本当にあなたがやろうとしていることは、初めから大変なことをやろうとしているのです。ですから、忍耐強く、初めは慎重にゆっくり時間をかけるのです。それから、それが勉強であれば、教科書は8回読めという人が多いです。3回でいいという人もいますが、読み方です。教科書は、たいてい一ページ目から何を言っているのか時間をかけて読むべきです。初めのことが理解できると、その理解の上で次のことが理解でき、それが理解できると次が理解できる、といった具合に連続しているのです。それは、言葉の定義があって、それを覚えていくことで理解できるようになっているからです。ですから、ページの多い本だと急いで読み飛ばしてしまったり、興味のあるところから飛ばして読むと、理解できたはずなのに、レポートも試験も良い結果にはならないはずです。①がわかると②がわかり、②がわかると③がわかる、というように教科書が書かれているからです。科目によっても違いますが、論理的なものはこのようになっているはずです。ですから、教科書の理想はページ数の少ない薄いものになります。教えなきゃいけないことは決まっているので、薄くても良いわけです。さて、人生に大切なことは、勉強だけではありませんね。今日の聖句の凄さは、何にでも当てはまることです。伝道者なら、困難な伝道であっても成功できるのです。会社の仕事も、婚活や就活も成功できます。世界一周したいと言えば、それもできるでしょう。ですから、初めから諦めないでいいのです。あなたの口癖は、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」です。今日は、忘れないように、100回言ってみましょう。そして、あなたの願いをかなえましょう。

 

8月26日(木)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

Ⅰペテロ1:23

 

植物の種は、その姿から花や実を想像することができません。それほど大きな成長と変化を見せるからです。農家の方々は種の驚くべき成長と変化を何度も見ることになります。一度でも同じ種から違う品種の花や実ができることはありません。さて、今日の聖句は種をたとえに使って、人が新しく生まれる奇跡を説明しています。宗教的な修行をするのでも、難しい神学の勉強を通して悟りを開くのでもありません。ただ、主イエス・キリストを信じただけで、神の恵みにより、古い罪人に死に、新しく生まれるのです。そのさらなる仕組みが、神の言葉を種のように心の畑に撒くと新しく生まれると言うのです。そうなると聖書を漫然と読み流すようなことでは、種を撒くことにはなっていないかもしれません。そこで、聖書を精読し、種を心に撒くことを必要としているのです。よく、クリスチャンが自分は成長できないとか、新しく生まれた気がしないとか、霊的な確かな成長ができないことを気にしている場合があります。この方々が霊的に満たされた経験をされたかったら、聖書と祈りが欠かせません。それだけでなく、信仰も重要です。信じることが必要だからです。また、聖書の御言葉を覚えて、祈りに使うことも有用ですし、聖霊の助けも不可欠です。また、アポロの説教が水を撒くようものだったと言う通り、礼拝で説教を聞くことも大切なのです。その他にも牧師による牧会も役立ちます。これらは、ごく当たり前のことなのですが、種を撒いて育てるという意識があるかないかで違いが生まれるのです。み言葉の力を信頼してみましょう。あなたはどの聖句が好きですか。好きな聖句が増えるといいですね。

 

8月27日(金)

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

イザヤ12:2

 

クリスチャンは、聖書が契約書であることを知っています。ですから、今日の御言葉も誠実な神様がこの通りに守られるのです。そして、実際に信仰は聖書の真実を現実のものとします。つまり、体験できるということです。よく、どう祈ればよいかわからないと訴える人がいますが、今日の御言葉を見れば、この通りに祈ればよいことに気がつきます。御言葉で祈るのですから、主の御心にかなっているわけです。そして、あなたは御言葉から何か気がつくはずです。私の救いは主そのものなのだということです。主が私の救いなのです。だから、誰もそれを無効にはできません。そして、私ではなく主が救ってくださるのです。いや、主が救いそのものなのです。それは、毎日、救ってくださるということです。今、困れば、主が救いとなってくださるのです。何か、悩みがあれば、主が救ってくださいます。主が私の力なのです。それは、主が具体的に救いを実現して見せるということです。ですから、そのことがわかれば、「私は信頼して恐れることはない」と言えるようになります。しつこく書いたのは、主があなたの救いとなったのだから、いつでも、いつまでも、その救いは継続するということです。つまり、いつも救われているということです。ならば、なぜ悩むのでしょう。主が救ってくださるのが決まっているのに、どうして悩む必要があるのでしょう。信じている人は、いつも主に救われるのです。

 

8月28日(土)

目をまっすぐ前に注げ。

あなたに対しているものに

まなざしを正しく向けよ。

箴言4:4:25

 

これは本物の知恵の話です。私たちは目の前にあるからといってちゃんと見ているかどうかわかりません。いい加減に見ているかもしれません。問題を先送りにすることはありませんか。面倒なことは後回しにしてしまうのです。それが重要であればあるほど、大変なので目を逸らすのです。ある場合は、自分の家族かもしれないし、会社の人からも知れません。学校の先生や生徒、親と子供、夫と妻、とにかく、あなたに向かっている人がいます。その人があなたに何か訴えています。しかし、あなたは目をそらしているかもしれません。忙しいから、疲れているから、面倒だから、相手にしたくないから。理由はいろいろあるでしょうが、実は、あなたに大切なものを求めているのではないでしょうか。聖書的に言えば愛です。愛は具体的です。「あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ」。その人をちゃんと見てみましょう。怖がることはありません。あなたに求めていることは小さなことです。あなたにとっては、まったく負担にならない些細なことです。それをあなたは大きな負担をかけようとしていると勝手に考えていたのです。あなたにとって重要なことは正直に率直なことです。あなたは信仰があるのでキリストにより人を愛することができます。愛は言葉ではなく行為です。ちゃんと自分を見て欲しいと人は思うのです。まなざしを正しく向けないと、適当に自分の考えで何かをいったりやったりするので、相手に心に負担をかけるだけなのです。お母さんが子供が困ったように目をそらすときに、「ちゃんとお母さんの目を見てごらん」と言う時には、まなざしを正しく向けているのです。そこには愛情が溢れているので、きっとうまくいきます。キリストも同じです。キリストに向かう者に、主はまなざしを正しく向けられました。私たちも、そうでありたいですね。

 

8月29日(日)

信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。

Ⅱコリント13:5

 

クリスチャンになりたての頃は、張り切っていました。これからは清く正しく生きていこうと気概を持っていたのです。そして、それから何年もの時が過ぎて行きます。信仰が順調に成長したでしょう。どれほどパウロの言うところの「完全」に近づいたことでしょう。こう言われると恥ずかしくなるかもしれません。思い描いた通りにはいかないからです。何十年経っても何も成長していないとがっかりすることだって珍しくないのです。今まで、そうやって嘆く人に何人も会いました。何がいけなかったのでしょうか。パウロは初代教会に手紙を書いて諭します。それが今日の聖句です。つまり、私たちは漫然として流されて生きていてはいけないのです。反省する時を設ける必要があります。自分を吟味しなければ、ただ時が過ぎていくだけです。人間は堕落しやすいからです。安直な方へと流れていくのが常だからです。聖人とはなれなくても、信仰に成長したと思えたら嬉しいでしょう。その重要なポイントが、「イエス・キリストはあなたがたの内におられる」ということをどう考えているかです。救いそのものがキリストによるのなら、救われた人がその後もキリストによって生きることも理解すべきです。救われて自由になったからと、罪人の時に生きていたように生きてしまえば、結果は悪いに決まっているのです。そこにはキリストはいないことになります。つまり、信仰を使っていないのです。信仰を使うということは、キリストは私の内に生きていると認めて生きることです。キリストがいないのなら別ですが、失格者でなければ、キリストはあなたの内に生きておられます。そこに焦点を当てることです。今日の御言葉は信仰者にとって重要なことなのです。

 

8月30日(月)

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、

神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いゆえに、値なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

ローマ3:21~25

 

キリスト教の救いを考える時に、この聖書箇所は欠かせません。私たちは救いをどのように考えているでしょうか。聖書と一致しているでしょうか。自分の救いを説明できるでしょうか。今日は、少し時間を取ってこの聖書箇所から救いの理解を自分なりに確かめてみましょう。それは、きっとご自身の信仰にとってより良い効果があります。そして、キリストへの感謝が湧いてくるでしょう。神の救いは完全であることを確信し、讃美しましょう。

 

8月31日(火)

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが、わたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16:33

 

正しいことをしていても、誤解されたり、理解されずにひどい目に遭うこともあります。クリスチャンは真面目になんとかいつでも正しく生きたいと願っています。ところが悪魔はそれが許せません。そこで、いろいろと攻撃して来るのです。自分が正しいと思えれば、大抵のことは耐えることができます。しかし、悪魔は情け容赦なく本人を襲ってきます。と言っても本人は正しいので、本人を誹謗中傷することを好みます。クリスチャンは気をつけなければいけないのですが、人間は他人の悪口が好きなのです。それで、何の確証もないゴシップに一緒になって加わる危険があります。無責任にゴシップを言いふらしてしまうと後で取り返しがつきません。ですから、ゴシップには付き合わないで黙っているしかありません。クリスチャンになれば、あとは幸せな日々が待っていると思っているなら、大間違いです。「世にあっては患難があります」とキリストが言っているのですから間違いありません。だから、悲観することもありません。主は、「しかし、勇敢でありなさい」と言われました。このことは、最後まで心に守っていたいことです。キリストの弟子であるなら、キリストの御足の跡を辿るものです。その主が、私たちにこう言いました、「わたしはすでに世に勝ったのです」と。ならば、この世に恐れはありません。勝利者である主に従って、霊的勝利者になりましょう。それは、人からひどい扱いを受けても、相手を祝福する道です。最後まで愛に生きると決めておきましょう。自分の弱さを認め、主にあって強くなれば大丈夫です。人の言葉ではなく、その人の心を見るようにしましょう。そうすれば、キリストがどうするかわかるはずです。ここには何のストレスもありません。愛は、いつまでも心を温かくします。