8月1日(木)
あなたは多くの人を諭し、力を失った手を強めてきた。あなたの言葉は倒れる人を起こし、くずおれる膝に力を与えたものだった。だが、そのあなたの上に何事か降りかかると、あなたは弱ってしまう。それがあなたの身に及ぶと、おびえる。
ヨブ記4:3~5
クリスチャンになってから、私たちは生き方を変えた。それは、神を愛し、人に仕えることを意識した生き方だ。実際には、それほどうまくいくわけではなく、がっかりすることもあるのだが、それでもなんとかクリスチャンらしく生きたいとの願いは消えるものではない。うまくいっていると自惚れると必ず試みに遭うのが不思議だ。その結果は決して誇れるものではない。だから、決して高慢にはなれない。それでも、聖書が私の内面を変えていくことも事実だ。目には見えないが聖霊の助けをいただき、主を理解し、信仰がだんだん強められているように感じる。そして、目の前に困難な問題を抱えて弱り果てた人がやって来る。その時には、いつでも肯定的に励まし、一緒に祈り、優しく励ます。それで、喜んで立ち上がって感謝しながら帰って行った人たちを見てきた。ヨブは、完全な人を目指して努力していたのだ。いつでも主の御目を意識して、落ち度のないように理想的に信仰の道を歩んできたのだが、初めて打ちのめされた。これを試練と呼ぶには酷すぎる。試練と共に逃れの道があるはずなのに、今回は無い。何か罪を犯しただろうか、何が悪かったのだろう。あれだけ注意深く正しい生き方をしてきたはずなのに、なぜこうなったのだろう、と疑問が次々に湧いてきたに違いない。そして、なんとかこの苦難から逃れたいと思ったはずだ。しかし、時間が経つに従って、苦痛がまさってしまった。実際に、大変なことが自分の身に起こると、人は冷静ではいられないから、弱り果てるだろう、極端に落ち込んで鬱にだってなる。二十四時間この苦痛と恐怖は去ることがない。だから、おびえたって仕方がない。ヨブの時代には、災いは罪を犯した因果応報のように理解されていたから、その考え方で友人は話し始めた。それが、ヨブを苦しめることになるのだが、友人はヨブを助けたいとの思いで厳しくヨブに迫ることになる。それにしても、私たちも弱っている人を助け、支え、励まし、唯一の希望である神へと目を向けさせようとするのに、自分の番になると普通の人と同じように弱ってしまう。しかし、クリスチャンは、ただ弱るのではない。そこから、祈りの格闘が始まるのだ。神にしか助けがないのを知っているので、全てを捨てて神へと向かうのだ。それは起きている間中続く。その先に、思いがけない大きな喜びと霊の人の成長を知ることになる。これは、平凡で平和な時には起こらないだろう。
8月2日(金)
塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。
ヨブ記5:6、7
人間が造られたのは、地の塵からでした。そこで、ここでは人間の体から災いや苦しみが生じるのではないと言っています。それなのに、生まれれば必ず苦しむと言うのです。まるで法則のように決まっているとでも言っているようです。確かに、人間は体と魂と霊によってできているのですから、体ではないと言うのなら魂や霊の問題と言えるでしょう。苦しみの原因は罪と死と悪魔が関わっているのですが、実際には人間関係が目に見える一番の原因となっています。人間いとって自然災害や経済恐慌、それに戦争のようなものも恐ろしいものです。しかし、やはり身近な苦しみは人間の中から出て来るものによって引き起こされているのです。幸い、私の苦しみは何かあったかと考えても思い出せません。多分、人よりも多くの試練に遭ったので大変なことを上げればあるのですが、今は主に癒されて苦しみと感じないで済んでいます。だから、苦しみを思い出せません。不思議ですが、イエス様のおかげです。聖書があってよかったと思います。苦しみの根本原因である罪と死と悪魔から、主が解放してくださったのです。それは、主が聖霊を新しく人の中に注ぎ入れてくださったことで、罪の法則からキリストによる命の御霊の法則で解放してくださったのです。だから、テレビを買ってきて、アンテにつないで電気を入れれば番組を見ることができるのです。でも、アンテに繋がなければ映像は映らないし、電源を入れなければ何も映りません。主は、私たちにアンテナをつなぎ、電源を入れてくださったのです。だから、本来の目的を果たすことができるのです。古いアダムは、アンテナを外され電源も失ったのです。それは、このヨブ記に書かれた通りの人生が定められたと言うことだったのです。私たちの救い主イエス様に感謝しましょう。
8月3日(土)
絶望している者にこそ、友は忠実で有るべきだ。さもないと、全能者への畏敬を失わせることになる。
ヨブ記6:14
ヨブにも友達がいたがここに出てくる人々は皆ヨブより年長者であったようだ。当然、ジェネレーションギャップもあったはずだ。最近、インターネットで音楽が簡単に聴けるようになり、定額料金で聴き放題というものがいくつも有るので世の変化を感じています。今やレコードもカセットもCDすらいらないというのだから、昭和世代の人間にとってはなんとも心もとない気がしてきます。当然、いかなるプレイヤーもいらなくなり、スマホが一台あればあとは、同調できるスピーカーがあればよいわけです。先日、息子を車に乗せたら、すぐにスマホを取り出してオーディオとつないで好きな音楽を再生していました。このように、世代によって全く考えも常識も異なっているのです。ところが私たちは、いつでも自分中心に人のことも考えるので、厄介なことになるわけです。例えば、好きな音楽をインタネットで聞けば、あなたへオススメの音楽というのが出てきて、私は見事に昭和の音楽ばかりでした。最も牧師になってからは流行りの音楽をほとんど聞いていないので、若い頃の音楽が懐かしいと思って聴いたせいかもしれませんが、たぶん理解できる音楽すら世代によって違っているのです。さらに、キリスト教であっても国別の傾向があります。辞典でもドイツの神学、イギリスの神学、アメリカの神学のように国によって違いがあるのです。教団教派のようなものでは同じ賛美歌集、同じ礼拝式次第、同じ決まりごと、のようにマクドナルドのように世界中どこに行っても同じものが食べられる、に近いものがありますが、それでも国によって違っているのですから、人間の面白さを感じます。さて、友達についてです。年齢の違う人同士でも友達になれます。走れメロスに出てくるような命がけの友情を持った友達もいるでしょう。その反対にすぐに裏切られる友達だっているのです。それでは、親友はどうでしょうか。親友に結婚まで考えていた彼女を奪われたということもありますから特別分けて考えても仕方がないですね。友達は何かあれば助けに来てくれるでしょう。災いに遭えば心配して駆けつけてくるでしょう。実際、ヨブの友人たちはそうしました。しかし、友達だからといって、ヨブに今かける言葉を知らなかたのです。そこで、ヨブを慰めるどころか、苦痛を与え、ヨブを怒らせてしまいます。ヨブは、神が敵になったと思っていたのです。だから、一刻も早く殺して欲しいと願っていたのです。ヨブの友達は、1章、2章のヨブの立派な信仰告白を知らなかったのでしょう。クリスチャン同士でも、相手に親切心で言った無理解な言葉で相手を傷つけてしまうことがあります。だから、自分の狭い考えに囚われてさも道徳的な考えで相手を非難してはならないのです。神様はそれを問題にすることが後でわかります。私たちは議論になると感情的になって、相対的な問題を絶対的な問題にすり替えて、相手を裁いて傷つけることがあるのです。世代や国籍があるいは立場が違うだけでも、何を言っているのか正確にはわからないことが多々あることを忘れてはいけないのです。決して裁く側に立たないことです。友人ほど親密な関係なので、この危険が絶えずあることを戒めておくべきです。クリスチャンは自分のして欲しいことを友達にするのです。相手の理解できないことはそのままで構いません。ただ、否定しないことです。相手を信頼するというのはそういうことです。自分の正義を持ち出して相手を正そうとか変えようとすれば、取り返しのつかない争いになるだけです。そんなこと神様でもしないのに、人間は傲慢ですね。絶望している人がいて、自分と考えが違っても、信頼して、ただ黙ってその人のそばにいてあげる人が友達です。
8月4日(日)
人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。
ヨブ記7:17
大きな苦難の中にいれば、人間はどんどん否定的にならざるを得ない。順境の時には自信に満ち溢れていたのでに、自分の理性をしてもどうすることもできないひどいことが我が身におよべば、もはや正しいことを言葉にすることすら難しい。現状を逃れることばかり考えるが、結局、このような最悪の状況に自分が追い詰められたのは、自分の罪のためだろうと考えることだろう。そこで、過去のことをあれこれ思い煩い、後悔し、自分を責めることになる。そして、自分をこのように苦しめているのは、自分に原因があったとしても、それを一々見つけては罰するのは神ではないか、と疑い始めるのだ。健康な時には、決してこのようなことを考えることはなかったのだから、説明することすらできない。まさに、ヨブの言うように「人間とは何なのか」と問いたい。決して答えが見つからないかもしれないが、心は問い続けることになる。苦痛から一刻も早く抜け出したいからだ。だが、それすら、空しいことであれば、やはり死んで楽になりたいと追い込まれてしまう。それが間違っていると言えるのは、ヨブの友人のように、苦しんでいる人の傍観者である。このように、苦難が人間にとってあってはならないことであることは間違いない。健康で、平和に暮らして、平凡でもいいから幸福であり続けたいと考えることは正しい。では、何が問題なのだろう。悪魔は、他の被造物には目を向けずに、人間を、特にヨブのような正しい人を見張っているのだ。ヨブが勘違いしたのは致し方ないが、ヨブが神が見張っていて、罪を少しでも犯そうものならば、それを理由に人間を打つと考えたのは間違っていた。それこそ、悪魔がやっていることなのだ。人は神に罰せられるとしたら、それは逃れの道があり、決して憎んでそうしているのではなく、いたずらに愛する人間が滅んではならないからなのだ。しかし、悪魔は人の失敗をさも大きな罪を犯したと騒ぎ立て神に訴えるものなのだ。そもそも、その失敗の原因に悪魔が関わっていたことは間違いないだろう。だから、大きな苦しみの下にある人は、神はイエス・キリストを通してあなたを贖い、すべて許していることを覚えるべきだ。そして、神はあなたを惜しみ、愛していることを信頼すべきだ。あなたにとっては無力でどうすることもできない問題であっても、イエス・キリストはあなたの問題を解決できる。だから、イエスにすがりなさい。イエスはあなたが知っているどんな優しい人間よりも、もっともっと優しい愛のお方なのだ。あなたが負いきれない罪、咎、呪いを、身代わりに負ってくださり、黙って十字架にかかって死なれたお方なのだ。その方が復活したのだから、あなたが救われ、悩みから解放されることは可能になったのだ。主を賛美しなさい。あなたは祝福された人生を歩めばよいのだ。何も疑わずに、どのような境遇にいても、そのまま天国にいるように生きることができる。主はあなたの王となり、あなたはその支配する下にいるのだから、大いに主をほめたたえよう。悪魔の嘘に付き合うのはもうやめよう。聖書を信じよう。イエスに祈ろう。そして、すぐに楽にしていただこう。
8月5日(月)
ついには、神はあなたの口を笑いで満たし、あなたの唇に歓喜の叫びを溢れさせる。
ヨブ記8:21
クリスチャンになって一番大きなことは、自分に罪があることを知り、自らの力ではその罪に勝てないが、イエス・キリストがそこから恵みで救い出してくださったという事実だ。人生には順境の日も逆境の日もあるものだが、信仰はそのどちらの日にも助けになることを知った。悪魔から出たものは、初めこそ良さそうに見えるのに、終わりには恐ろしいほど悪いことが待っている。神は知恵があるので、その人に益になるようにすべてのことを備えることができる。だから、試練があっても、逃れ道を作られるし、心がいじけるほど懲らしめることもなさらない。そうではなくて、神はあなたの口を笑いで満たそうとされているのだ。信仰に立ち返り、祈りがあなたの生活の中心にまで達するように導かれる。そうなれば、あなたは不調が快調に変わってきたことを実感するはずだ。あんなにこだわっていたことがいつの間にか消えているだろう。そして、神へと近づいている自分を発見するはずだ。ついには、神もあなたに近づいて来られる。その時、あなたの唇に歓喜の叫びが溢れるだろう。主は恵みに溢れておられる。あなたを救うと決心されたのだから、あなたが余計な心配をする必要はない。その証拠に、御子イエスが十字架につかれたではないか。そして、あなたが新しい命に生きることができるように、墓からよみがえったのだ。あなたは、主を賛美すると喜びが湧き起こるようになる。自分の内に天からの力が満ちてくるだろう。それがあなたの真の姿なのだ。
8月6日(火)
たとえ私が呼んで、神が答えるとしても、私の声に神が耳を傾けるとは信じられない。神は嵐によって私を傷つけ、理由もなく私に多くの傷を与える。神は私に息つくいとまも与えず、私を苦しみで満たす。
ヨブ記9:16~18
これは、ヨブの率直な感想です。唐突に何もかも失い、自らも重い皮膚病で苦しみながら死ぬこともできないで、理不尽に苦難に陥った信仰者の追い詰められた言葉なのです。彼には、今の苦しみに説明ができない、理由が理解できないのです。最新の注意を払って信心深く、落ち度のない生活を送っていたのです。苦難の始まりには、普通の人では言えないような立派な答えをして、言葉で罪を犯すことはなかったのです。それなのに、ここに至って、限界を超えたのでしょう。病気や大きな苦しみの最中に誰かが話しかければ、それは苦痛以外の何もでもありません。人間は、人の苦難に直面すると、言葉を失いますが、やがて理由を求めて、こんなひどいことが起こるのは、この人がよっぽど大きな罪を犯したからに違いないと決めつけてしまう傾向があるのです。人をこんな時でも信頼することができないのです。だから、一刻も早く自分の罪を認めて悔い改め、神の憐れみにすがるように、間接的に裁き始めてしまうのです。本人は裁いているつもりはないので、相手のためになると思っているために、裁くことを止めることができません。もっともその背後にはサタンがいるのですから、サタンは、どんな正しい人でも苦しめてやれば、神を呪うだろうと悪い考えを持っているので、そのように誘導しているのです。残念なことにそこには人が介在して、あたかもサタンが悪意ある行為をしていることが見えないようにしているので、普通の人たちはサタンの企みに気が付きません。それでも、神がなぜ義人をサタンが試みることを許されたのかは、未だ謎のままです。悪魔の執拗な責め苦は、義人の代表であるヨブをしても絶望してしまうのです。それが、今日の聖句に現れているのです。ある意味、私などはヨブのような義人ではなかったからこのような大きな試練に直面させられていないと安堵しているのですが、皆様はこの物語で考えることが多くなるはずです。悪魔はヨブを通して神をも試みて苦痛を与えているように見えてくるかもしれません。やはり、知恵が必要ですね。ヨブを読み終わる頃にはきっと頭が良くなっていると思います。
8月7日(水)
もし過ちを犯そうものなら、あなたはそのわたしに目をつけ、悪から清めてはくださらないのです。
ヨブ記10:14
ここに人間の神様への誤解があります。神様を知らない人が神様を偏見で見ようとしないのはまだわかりますが、神様を信じている人が神様を誤解することがあるのです。クリスチャンなのに、神様が自分にひどいことをするといい続けている人がいます。ヨブと同じですね。そうではないと言っても決して納得しないのです。まるでヨブの友人のように思われてしまうでしょう。では、どうして人間は神様を誤解してしまうのか、それは、この世界で過酷で残酷なことがあるからです。もちろん、それは悪魔の仕業なのですが、悪魔こそ存在しないように思わせているので、神を信じる人たちは、恐ろしくも残酷な悲劇が起こるとそれをどう理解するか自分で判断しなければならなくなり、ある人たちは神様がひどいことをしたと判断してしまうのです。実際には悪魔がやっているのですが、それを認めることはできないのです。大抵の人は、信仰の葛藤を繰り返しながら神様が自分を不当に苦しめるはずはないと確信していけるのですが、ある人たちは、自虐的になってしまい、これだけ真面目に頑張って信仰を守ってきたのに、少しでも過ちを犯そうものなら、神様は私に目をつけ、怒りをぶつけてくるのだ、と訴えます。そして、大きな過ちを犯します。それは、神様が「悪から清めてはくださらない」と言い切ることです。私たちは福音を知っているので、すぐに「それは違う」と反応するでしょう。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(一ヨハネ1:7)。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(同1:9)。私たちが信じているのは、「御自分の血によって罪から解放してくださった方」(黙示録1:5)、主イエス・キリストです。つまり、イエス・キリストが人として現れるまで、人々は神様を誤解し続けていたのです。律法主義者が現れるのも同じ理由です。彼らは少しでも過ちを犯せば、神様は赦してくれないと恐れているのです。神様は愛なので、見当違いも甚だしいのですが、今でもこの考えは根強いのです。そもしも神様は愛であると聖書に書いてあるのですから、愛の問題として神様を理解しないと間違うのです。どんなひどい目にあっても、神様を信頼することが愛の力で起こるなら、それは義となります。しかし、人間は思いの外弱い存在なのです。聖書で人間を羊に例えるように、道に迷いやすく、弱くて、羊飼いの助けが必要な存在なのです。だから、父なる神様はあなたのために羊飼いとしてイエス様を送られたのです。だから、あなたはヨブのようになる必要はありません。今日の聖句にあるようなことをしているのはサタンなのです。彼こそが告発者なのです。そのような存在がある以上、どのような方法で人間を救えるかといえば、御子イエス様の犠牲しかもう方法がなかったのです。そして、イエス様はわたしたちを救うために本当に犠牲となられたのです。だから、私たちに救われるための功績を求めなくてもよくなったのです。そこで、悔い改めて罪を告白し、イエス様を信じて救われるのです。
8月8日(木)
生まれたときには人間も、ろばの子のようなものだ。しかし、愚かな者も賢くなれる。
ヨブ記11:12
たしかに、人間は成長し賢くなれるところが素晴らしい。愚かな者も賢くなれるのです。自分が二歳児の頃どうであったか覚えていないことは幸いなことです。それから、どんどん知恵をつけて、知識を増やしていけるのですが、生まれ育った地域や環境の影響も大きく関係してくるでしょうし、どのような教育を受けたか、良い教師に巡り会えたか、精神的に安全で安定している境遇であったか、戦争をしていたか平和であったか、経済的な問題もあるでしょうし、色々な要素が一人の人間に影響を与えるのです。それでも、人間は年齢相応に成長していけます。ただ、人格形成は人によって差が出るものです。キリスト教はその人格形成に良い影響を与えるはずですが、やたら戒律が厳しい禁欲的な宗派では逆に萎縮させたり、神様を嫌いにさせてしまうこともあります。現に、ヨブと友人の会話は、宗教の難しさを垣間見ることができます。両者の会話が噛み合っていないのは、ヨブは友人たちの考えているような正しさを満たしていた非常に優れた信仰者であったのですが、災いに苦しむ姿を見た友人は、ヨブが悪いことをしていたからその報いでこのような悲惨な目にあっていると断定したわけです。その悪は、神様にたて突くようなことであって、神様を知らない向こう見ずな人のやり方だと思っていたのです。さて、このようにヨブの正しさを知らずに一方的にヨブが悪いと決めつけて厳しく裁けば、ヨブの苦痛は増すばかりで、ちっとも助けにも救いにもならなかったのです。このようなことが現代でも起こるので、私たちも気をつける必要があります。つまり、何か病気や問題を抱えている人は、きっと罪を犯していたから神様に罰せられているのだ、と勝手に解釈してはいけないのです。イエス様がそうであったように、誰であっても病気や悩みを抱えていれば、とても苦しいものです。それは我慢できるようなことではなくて、すぐにでも癒して欲しいし、解決して欲しいのです。そこで、神様は私たちに裁かないで、自分がして欲しいことを相手にもしてあげなさい、と教え、心が痛みや悩みで苦しんでいることに目を留めて、愛してあげなさいと諭しておられるのです。人を裁けるのは罪の無い人ですが、私たちは自分も罪を犯したのに、神様の位置に立っって、人をすぐに裁く傾向があるのです。このヨブの友人の意見を聞いていると、裁くことでは何も友人を助けることにならないのに、と気がつくでしょう。それこそ、いまだに愚か者のままだと思えてきます。つまり、大人になるだけでは、また歳をとるだけでは、賢くなれないということです。人間にはお手本になる先生が必要なのですが、私たちにはイエス様が先生です。イエス様に倣って物事を考え、言葉を選び、愛を惜しまない人になりたいのです。それは、自分を捨てることなしにはできないことなので、聖霊の助けが必要です。自分が強く出ると簡単に失敗してしまうものです。謙遜に生きることができれば、大きな失敗はしなくてもすみます。愛することがクリスチャンの生き方なので、それが聖霊の助けでできるとき、賢くなったと言われると思います。
8月9日(金)
人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと、安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ。
ヨブ記12:5
ヨブの苦しみに途中から意見する者が現れましたが、それがヨブの心に変化を生みました。自分が神の御前に無垢であろうと努めてきたのに、神のなさりようは理不尽に思えてきたのだ。ヨブが悪いからと決めつけて、神に謝れと迫るような友人には、ヨブの抱えた心の葛藤は理解できない。神は正しい者を良しとして祝福する方のはずが、なぜ反対に何もかも奪い、重い病の苦しみに突き落としたのか、それすらも初めは主のなさることだから疑わずに受け入れようとしていたのだが、友人の言葉に刺激されて心のタガが外れてしまったかのように、一気に神への不信が吹き出ている。それは、苦しみを増し加えている友人にも怒りとなって言い返している。さて、今日の聖句だが、考えさせられ、反省させられる御言葉である。それは、「人の不幸を笑い、よろめく足を嘲っている」人々の世界があることだ。マスコミが批判されることは珍しくない。小さなことを大げさに言って、争いを煽っているようなことがしばしば目につくのだ。人の不幸を願って、不幸を演出して煽りたてているようなことを自戒しなければならない。マスコミがそのような誘惑に慣れてしまっていて、また、視聴者がそれを望んでいるとどこかで思っているのではないだろうか。問題なのは、人間は年齢を重ねれば皆立派な人になる、ということはないことだ。年寄りが問題を起こしてニュースになることも珍しくない。あと何年生きていられるかを考えれば、自分の品性がどれだけ立派になったか、人間として天国に入るのにふさわしい人になれたかのか自省してみる必要がある。それは、人の不幸をどう考えるかでわかる。それだから、笑ったり、嘲るような人間では困るのだ。障害を持ってパラリンピックに出てくるような人たちは、尊敬に値する。どれだけ強い精神力を持っているのだろうと驚く。自分の受けたハンディキャップをバネに変えてよりたくましく生きている。そこには、人の不思議がある。外の見える人ではなく、見えない内なる人がどうであるかが重要なのだと思う。人それぞれに能力が違っているのだから、その能力の優劣で人を測ることは一面の評価に過ぎないのだし、人間の価値はそれだけで測るようなものではない。たとえ、何もできなくても神が生かしているのなら、十分価値があるということだ。だから、本当に大切なことがわかる人間になりたい。人を笑ってなどいられない。自分だけ安穏に暮らしていると人を笑っても良いとどこかで思ってしまうのだろう。そんな心に愛があるとは言わないだろう。人間は、ただ生きているだけでは愛ではないことを平気で始めてしまうようだ。主イエス・キリストを信じているのなら、愛の探求者になっているはずだ。だから、人を見たり、接したりする時に、心ではいろいろなことが起こっているのだ。聖霊の指導と助けを受けて、イエスの眼差しを受け継ぐ者になりたい。
8月10日(土)
罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください。なぜ、あなたは御顔を隠し、わたしを敵と見なされるのですか。
ヨブ記13:23、24
クリスチャンになっても大きな試練に苦しめられることがあります。そんな時に、ヨブと同じ気持ちになることがあるのです。特に、真面目に信仰生活を送っている人、あるいは禁欲生活を送っている人たちは、自分が正しいと思う傾向が強いのです。そのために、一旦試練に遭うと神が不当な扱いをしていると感じやすいのです。そして、神が自分の敵になったと思ってしまいます。このヨブ記の読者は、神ではなくて悪魔が実際にはヨブを苦しめていることを知っています。ただ、神がそれを許されたことも事実なのです。まだ先が長いので結論めいたことを言うことはありませんが、もし今苦しみの中にいる方がいらっしゃれば、それは神ではなく、悪魔が実行犯です。これは、神が安易に試みを許されているわけではなく、神も一緒に戦っているのです。それは、罪の発祥の原因とです。戦国物語が好きな方、あるいは世界の歴史の好きな方は人類の歴史が権力争いで、戦争すら必然のように繰り返し起こって来たことを知っていると思います。つまり、人間は大から小に至るまで権力争いをするものなのです。新たしいクラスに行けば、そこで自分の順位をすぐに知ります。テストをしたり調べたのでもなく、自然とわかるのです。だから、一番になりたい人は厄介です。ルシファーは天国で一番になりたかったのです。でも、どうしても超えることのできない方が御子イエスでした。そのために、心の中から何か悪いことが始まったのです。それが罪の起源です。ですから、神は人類救済のために罪の起源に遡って根本からの解決を図ろうとしているのです。その解決策に、人間が深く関わっているのです。さて、悪魔は神を人間が無垢に完全に愛するはずがないと決めつけています。だから、ヨブのように正しく無垢な信仰者を見ると不安になるはずです。そこで、危険を冒して神の元まで行って、ヨブを試みるようにそそのかしたのです。それは、「利益もなく神を敬うわけがない」と言う悪魔的な発想で、神をも試みたのです。しかし、ヨブは利益を得るために神を崇めていたのではありませんでした。そこで、悪魔は「体を苦しめて、命を脅かすようにすれば神を呪う」と神をそそのかします。そこで、神は悪魔にヨブの体に触れることを許されました。神はヨブに何を期待していたのでしょう。それは、同時に大きな試練を背負わされている人にも共通の問題です。今日までのところ、実際に人間にひどいことをしているのは神ではなく悪魔なのだとわかりました。おいおい、もっとこの問題の内容がはっきりしてくると思います。それは、人間として、信仰者として大きな意味を持つことになります。あなたも考えてみてください。
8月11日(日)
人は死んでしまえば、もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから、交代の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。
ヨブ記14:14
日本は自殺者の多い国です。減ることがありません。事故でも病気でも寿命でもなく、命を絶たなければならない理由は何でしょう。ある女性は、精神的な病気なのですが、医師も病名をつけることができません。それは、治療できないと言うことですから、治る見込みもなく、十代の初めから二十年ぐらい苦しんできました。青春時代も楽しむことができずに、悪くなるか、非常に悪くなるか、最悪になるか、こんなことを繰り返して来ました。だから、疲れ果てて死にたくなることがあるのです。どうしてこんなことがあるのか、人間には説明できません。「夜眠れず長く、孤独で辛い時間を過ごしてます」といったメールが届きます。やるせなくなりますね。だから、ヨブ記に何か答えがあるのではないかと探してしまいます。ところがヨブは、神様が不当にひどい目に合わせていると思っているので、逆らうこともできずに、苦しみがそうさせているのですが、死なせて欲しいと嘆願しているのです。ヨブの苦しみの深さがよくわかるのが、「・・・もう生きなくてもよいのです」と言う箇所です。生きることが辛いと思っている人は少なくないでしょうが、もう生きなくてもよい、ということが慰めになっている人もいるのです。生きるのが苦役でしかないのなら、本当にもうやめてしまいたいと思うでしょう。しかし、ヨブの間違いは、神様がヨブの敵になっていのに神様がヨブを故意に苦しめていると思っている点です。悪魔が苦しめているのは、ヨブに神様を呪わせようとしているからです。どんなに試みられても神様を誤解して呪うようなことは避けなければなりません。しかし、ヨブのように信仰生活において完璧な神様のご自慢の聖人が、自分の肉体が苦痛に悲鳴を上げると義人でい続けることが難しくなってくるのです。もし、そうであれば誰が義人となって救われるでしょう。イエス・キリストの到来でわかったことは、結局、神様は義人となれなくて、弱小で情けない存在の人間であっても、そのままの姿で救ってくださるのです。恵みで救ってくださるのです。ヨブはまだそのことを知りません。苦しみにある人が必要以上に自分を反省して、責める必要はないのです。ただ、イエス・キリストを信じて、主の憐れみにすがればいいだけです。
8月12日(月)
惑わされてむなしいものを信じるな。その報いはむなしい。時が来る前に枯れ、枝はその緑を失う。
ヨブ記15:31、32
この世の中には、むなしいものが少なくありません。小学2年生の時に大きなお祭りを友達に誘われて観に行きました。そこには、見世物小屋が建っていました。初めて見るものでした。入り口には口上を述べる人が、まがまがしい言葉で人を集めていました。ろくろっ首の女とか、犬人間とか、看板の絵を見ると驚きの光景が広がっていました。もう想像力がフル稼働して恐ろしい化け物のような人間が今この小屋の中にいることを疑いませんでした。怖いもの見たさで、友達とその入り口を進みました。しかし、見世物はインチキなまがい物でがっかりしましたが、異様な雰囲気は子供の心にインパクトを与えたのは事実でした。ところが出口があって、そこにおじさんが待ち構えていて、「お代は観てのお帰りだよ」とお金を要求したのです。そこで、初めてこの世の中の仕組みを垣間見たのです。問題は、そのお金を持っていなかったことです。ここでお金が無いと言ったら、この見世物小屋に捕まって、一生この小屋でタコ人間か犬人間になって、見世物にされてしまうのではという恐怖に包まれました。幸い、友達が余分にお金を持っていて、私の分も支払ってくれました。そのおかげで、将来牧師になれたのですからその時の親友には感謝しかありません。今日の聖句はまさにこの時の私の経験に当てはまります。それは確かに幼い小学2年生の経験にすぎませんが、実は実は一生涯、教訓としておかなければならないことなのです。テレビのニュースに何かの投資話にのって、お金が戻らないと訴える人が実に多いのです。それが、老後の生活資金であると泣きながら訴えても、今日の聖句を思い出すだけです。詐欺師もあの手この手で次々に同じようなことで新しい被害者を作っているのですから、罪は重いですが、同時に騙される人がむなしいものを信じていることになぜ気がつかないのだろうと不思議になりますが、聖書を知らないのですから、知恵がなくても当然なのかもしれません。くれぐれもこの聖句を教訓として忘れませんように。
8月13日(火)
このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天にはわたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。
ヨブ記16:19、20
ヨブが気がついたことは、天に自分の友がいることです。彼は自分の証人となって執り成してくださる唯一の味方です。私たちがどんなに落ち込んで絶望的に思える時にも、天に助けてくださる方がいるのです。私たちのこぼれる涙を見逃さない愛の神です。私たちは、この方をイエス・キリストと呼んでいます。ヨブは苦難の中で色々考えて、まるで苦難を増すような友人の言葉にも負けずに、自分を保てたのは、この天の証人に希望を持つことが出来たからなのです。人間はとても弱い存在ですが、主イエス・キリストを信じるなら、キリストのゆえに強くなることができるのです。私たちは窮地に立たされると、自己弁護すら出来なくなることがあります。そして、誹謗中傷の類が自分を取り巻いていているために一方的に悪く言われていても、弁明の機会すら与えられなくても、イエス・キリストが執り成し、証人となり、弁護してくださるのです。だから、私たちは、ありがたくてイエス・キリストを仰ぎ見、感謝の涙を流すのです。あなたがどのような状況に立たされてようと、あなたを執り成す方が天にいることを覚え、信仰に固く立ちましょう。
8月14日(水)
神に従う人はその道を守り、手の清い人は更に勇気をもて。
ヨブ記17:9
クリスチャンという生き方があります。この世の人たちには別の道があります。それぞれの道にはゴールがありますが、決して同じゴールではありません。クリスチャンがまず考えることは、「神に従う」ということです。それまでは自我に従っていたのが、それを捨てて、全く新しい人生を始めるわけです。問題は、世界中がクリスチャンで同じ道を行くのであれば良いのですが、実際には正反対の道であり、広い門なのです。クリスチャンはイエス・キリストという一本道を歩み、そうでない人たちは、無数のあてにならない道を進みます。それだけに、クリスチャンが神に従うと決めるとその信仰をあざ笑うかのようなこの世の唆しにさらされます。クリスチャンが信仰の道を守り通すのはそう容易くはないのです。また、クリスチャンになると生活を改めたり、清い生活を送るようになります。それが人間にとってどんなに良いことかは言うまでもありません。清い生活を送るだけで、仕事も健康も経済も人間関係も万事が好転し始めます。何をするにしても清いというのは信仰と聖霊の助けなしには実現しません。そのような人を嫌うのが悪魔です。そこで、妨害が始まるのですが、それは信仰を強めるためには良い訓練にもなります。しかし、信仰は勇気と関係があります。ですから、勇気が問われてきます。いつでも神様を第一にすると決めて貫ける人は良いのですが、そこが曖昧だとすぐに試みられてしまいます。そこで、クリスチャンは聖書と一致する生活を始めると勇気が必要になります。最も絵に描いた聖人になれと言っているのではありません。自分の力で頑張らずに、信仰のみで聖霊のお働きを信頼して主の恵みを楽しむことも重要なのです。悪魔の攻撃にあっても、すぐにうろたえることなく、私の主イエス・キリストはすでに悪魔に勝利した、と宣言することです。「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し」(マルコ16:17)と聖書に書いてある、と言い、本当に主の御名により悪霊を追い出すのです。これも勇気が必要な理由となります。今日も臆することなく、勇気を持って雄々しく進みましょう。
8月15日(木)
神に逆らう者の灯はやがて消え、その火の炎はもはや輝かず、その天幕の灯は暗黒となり、彼を照らす光は消える。
ヨブ記18:5、6
18章はビルダドの言葉です。ヨブが神様によって無垢な正しい人と認められていましたから、このビルダドの言葉もまた偏見で見えていません。当時の人たちがどのような考え方をしていたかをビルダドは代弁しています。そこで、分かることは5節以降に神に逆らう者の呪いのような悲惨な結末が順を追って説明されています。当時の人たちは神様とはこのように罪人になさると考えていたのです。だから、ヨブの言葉を受け入れることが出来ません。実は、キリスト教にもそのようなことは起こるのです。同じものを見ていても見える人と見えない人に分かれてしまうことが多くの悲劇を生んできました。私が元いた教団には1888年問題というものがあります。専門用語では「信仰による義」の問題とされていますが、実際に起こったことやその問題提起したジョーンズやワゴナーの記録を読んで行くと、明らかにこれは「聖霊のバプテスマ」問題だったのです。聖書を読めば明らかに書かれていて、使徒言行録でも聖霊のバプテスマが本当にあることが明確に示されています。宗教とはもともと霊的な世界の話であるのですが、それを理性偏重で霊を認めないという傾向が顕著になっています。19世紀の方がまだマシであったと思いますが、指導者が聖霊のバプテスマの聖書通りの説明を認めずに、合理化した、つまり実態のない聖霊のバプテスマにしてしまったのです。そのために、聖書に書かれた初代教会の教会員とは明らかに違う人たちが出現してきたのです。文字通り聖霊のバプテスマを受けて霊的に刷新しなければ、ただの道徳・倫理宗教になってしまいます。聖霊の賜物がない教会ではほとんど奇跡が起こりません。これが、サタンの最後の教会への攻撃だったのです。生まれたままの人では聖なる者になるのも困難なのです。ちょうど、ヨブの友人たちのようになってしまいます。彼らの非常な言葉は彼らにとっては正しいことなのでしょうが、全く実際の真実とは違っていたのです。でも、彼らにはヨブを理解できないし、神様も理解できなかったのです。ただ人間の教えを厳格に守り教えていただけです。その裁きは、最後に下されるので、再臨までこのまま進んで行くのだと思います。ただ、教えてもらうことがなかったので、知らなかったという信仰熱心な人たちは大勢います。その方々のためにも聖霊のバプテスマを含めた正しい福音を伝えていかなればならないのです。
8月16日(金)
わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
ヨブ記19:25~27
「贖う方」はヘブライ語の名詞でゴエル、動詞ガアルから来ています。これらの語は、本来は家族法からきています。誰か家族の一員の権利が損なわれることから守り、保護する家族の義務を意味しています。ルツ記などを読むと、夫を失った妻と結婚して夫の名を残し、嗣業を子に残す人がゴエルとして描かれています。親族が負債のために奴隷に売られようとしている時に、その兄弟や従兄弟あるいはそれに次ぐ親戚に「贖われる」ことが出来ます(レビ記25:47~49)。同族の一人が殺された時には、最も近い同族の者が復讐しなければなりませんでした(申命記19:1~13、民数記35:9~34)。殺人者を殺すことで「贖い」が成立しました。贖いの代価という考え方は、別のヘブライ語の動詞「贖う」パダーが用いられています。例えば、婚約した女性は、相手の男性に不満とされた時に「贖われる」(パダー)ことが出来ました(出エジプト記21:8)。もっとも、「買い戻される」(新共同訳)と訳されています。この二つの語は、共に神が贖い意味でしばしば使われています。さて、ここまで「贖う」という語について見てきたのは、今日の聖句でヨブが使っているからです。キリスト教では、イエス・キリストの到来と十字架の罪の贖いに結びつけたいのですが、旧約聖書では、神が贖う場合、罪は出てこないのです。ですから、ヨブもここまでの過程で、初めは神が自分を無実とは考えていないと思ったのです(9:28)。それから、もし神が自分のことを知ってくれさえすれば、無実が証明されることを「知った」(13:28)。そして、今は神が自分のゴエル「贖う者」として惨めな自分を家族のように傍に立ってくださだろうと「知った」のです。ヨブは自分はもうすぐ死ぬだろうと思っていたようです。しかし、ヨブの主は生きておられ、ヨブが死んだ後に墓の上に立つ、と言うのです。それまでは、天上での裁きが想定されていたのに、変わっています。ヨブは、ヨブの正しさを信じる神が信じない者に弁護する者となり、ヨブのために勝利を勝ち取ってくださると想像していたのです。ヨブが墓に入った後にもこの弁護者が最も近い近親者となって、復讐を果たし、ゴエルの任務を遂行すると期待したのです。そのことで、自分の名誉の回復と、天での裁きの逆転勝利を願ったのです。誰も理解してくれないで、苦しみの中でさらに苦しみを増し加える人たちの中で、ヨブの信仰はとうとう苦しみを超える信仰の高さへと昇華したのです。神は、唯一自分の味方となって、血縁の最も近い者のようになって、温もりを持った弁護者になって、ヨブの正義を証明してくださる、だから、その贖う方を仰ぎ見たいと切望したのです。
8月17日(土)
悪が口に甘いからと舌で抑えて隠しておき、惜しんで吐き出さず、口の中に含んでいれば、そのパンは胃の中に入ってコブラの毒とかわる。
ヨブ記20:12~14
ヨブに対して、ツォファルが口を開きます。しかし、その言葉はひどいものです。苦難の中で同情を友に求めてはならないのでしょうか。宗教論争が忌み嫌われるのは、このようなひどい言葉の中に見ることが出来ます。今も昔もそれは変わりません。正統派という言葉がむなしく響きます。まさに、正統派を代表したような人が口を極めて相手を打ちのめし、しかもヨブの言葉が神が自分を助けに来て、ヨブのために正しさを弁明してくれると信仰の言葉を発した後に、その希望を全否定しているような激しさです。この議論を聞いていても、人間が人間を裁くことがいかに困難なことかよくわかります。所詮、人間は自分を超えることが出来ないのです。自分以外の人間のことを神のように理解するなど不可能です。それなのに、平気で人間は他人を裁くのですから恐ろしくなります。人間がどんなに考えて宗教の規則を作ったろことで、それは人を救うことが出来ないのです。せいぜい、何もわかっていないのに、人を裁く道具になるだけです。悪の問題、罪の問題は暗闇で答えを探しているような難しさがあります。罪は十戒のようにわずかな戒めで測ることが出来ますが、なぜそのような罪を犯しているのか、となると急にわからなくなるのです。遺伝なのか、先祖の呪いのなのか、ただ意志が弱いからか、脳の障害があるからか、気質の問題なのか、生い立ちの厳しさがいけなかったのか、悪い友人のせいか、感情的でコントロールが難しいからか、戦争のような時代が悪いのか、カインとアベルのような兄弟の問題なのか、祭司や律法学者のような宗教家であるからか、・・・書いていけばきりがないのです。同じような境遇でも悪に染まっていく者と、正しい生き方を守る者と別れるのは、なぜか。ツォファルは犯罪者ではありません。正しさを自認しているような人です。自分の中の正義を人に当てはめて裁くと危険なことが起こるものです。人間関係が難しいと感じる人は多くいますが、人を愛で見るゆとりがなければ、すぐに人間関係は破綻しやすいのです。愛で見ていると思っても、傷つけられたと感じると怒りがおさまりません。しかし、赦すことが自分を救い、相手をただす最善の方法なのです。ツォファルは自分が非難されたと思ったのだが、それで怒りを爆発させ、極めてひどい言葉でヨブに攻撃をしたのです。怒らないようにすることは難しいかもしれないけれど、怒りに任せて口を開けば取り返しのつかないことを言ってしまう危険があるのです。だから頑張って口を閉じて、脳が鎮まるまで時間を置くことが肝心です。それから、なぜこのようなことになったのか、相手は何を訴えているのだろう、と相手の気持ちを推し量るのです。そして、すぐに神に祈ることです。最後には赦すことになりますが、少し時間が必要でしょう。ヨブの友人のようにはなりたくないですね。
8月18日(日)
なぜ、神に逆らう者が生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか。子孫は彼らを囲んで確かに続き、その末を目の前に見ることができる。その家は平和で、何の恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない。
ヨブ記21:7〜9
箴言などを読んでいて、ふと疑問が湧くのは、悪人は神が報復するので罰を受ける、というがそうでない例もあるのではないか、ということです。その点、コヘレトは悪人が富み栄え、その子孫も繁栄しているじゃないか、これもまた空しい、と悲観的なことを語ります。ヨブもコヘレトに近い考えのように見えます。教科書的な友人たちの宗教観、神観は悪はやはり栄えることなく災いが下る、というものでしたから、ヨブの悲惨な現状に対して悪人と同じにみなすことになります。でも、ヨブは、その教科書的な考えは現実に合っていないと訴えます。ここで、私たちは考えます。人の複雑さを思い、自分以外の人のことを意外なほど理解でいないので、自分という尺度で見てるだけでは正しく判断できないのではないか、と。そのために、何もかも見通し、どんな人間の心の中も全て見通して理解できる神は単純に悪を行うから滅ぼす、といったような危険なことはしないのではないか、それよりも罪人を惜しんで何とか救おうとあきらめないのではないか、とこのような感じで色々考えて当然なのです。1+1=2というような単純なことではないのだろうと、気がつくと、律法を単純に考えて守るか破るか、というような宗教観では過ちを犯しやすいのではないかと思えてくるのです。私たちがすぐに人を裁く傾向があるので、なおさら、それは神の領分で私たちが神に代わってはいけないと戒めなければなりません。それにしても、ヨブと友人たちは、ヨブの苦しみの前に同じスタートラインに立ったはずなのに、結論だけは正反対になったのです。ここに、考える必要ができてたのです。神の正しさとは、ヨブの言う人間の正しさとは、何か。それらがヨブの苦難を見てヨブの悪に対する神罰と判断した友人たちと、自分は正しいはずなのに神が敵になって私を打った、と主張するヨブの対立になりました。実際に目の前で苦しむヨブ本人の主張よりも、自分たちの理解してる神は悪を見過ごしにせず、懲罰を持って報いるはずだ、と言う考えに固執します。なぜ、ヨブの言うことを信じる友はいなかったのだろう、と考えると、それほど完成した宗教的教えは、その人間の真実を無視するほど強いと言えます。私たちは、イエス・キリストのなさった通りに、目の前の人を愛を持って見ること、そして、わからないことはわからないと言えば良いし、神に祈って聞くこともできますから、固定した宗教観で何でもかんでも裁いてはいけないということです。まだまだ、聖書は考えさせます。頑張って考え続けましょう。
8月19日(月)
あなたが正しいからといって全能者が喜び、完全な道を歩むからといって、神の利益になるだろうか。
ヨブ記22:3
さて、エリファズの番だ。彼の主張はヨブの話を聞いていなかったかのように、古い考えに支配されている。もし、あなたが真理の探求者であるのなら、エリファズの愚を教訓にすべきである。初めから物事はこうであると決めてかかる人は真理の探求者にはなれない。全て確かめたものでなければ、古くからの言い伝えや因習、多くの人にとっての常識であっても、鵜呑みにしてはならない。初めに予想して、こうであろうと目論みを立てて、実際に実験してみると結果は違っていることはいくらでもある。だから、謙虚さが必要になる。エリファズはヨブが悪を行なったと確信している。それなのに、神が悪いと言っているように聞こえるから、怒り、ヨブの真実を確かめることをしていない。そればかりか、思いこみの論理で自分たちの見解の正しさを保証する。このようなことがこの世界ではどこでも起こっている。それがいつ自分の番になるかはわからない。初めから悪人と決めつけると、もう何を言っても聞く耳を持たないのが人間の習性のようだ。実際に、冤罪事件など密室の取り調べで、容疑者の意見など聞いてくれないで、刑事の描いた通りの調書を半ば強権で無理やり取られた結果だ。なぜこのような冤罪が後をたたないのか、それは、思いこみがあるからだ。一旦、この人が犯人だと決めると犯人であると自供させることしか考えられなくなり、容疑者の言う事は全部嘘だと決めつけ話を聞けなくなる。こうしたことが冤罪を生む原因になっている。だから、人間の常識はいつでもテレビのニュースショーに操られていると言いたくなるほど、マスコミの影響は大きなものになる。これも、自分で調べ、考えることをしないから、手近な真実はこうだというコメンテーターの意見をそのまま無批判に受け入れてしまう危険があると言える。ヨブ記ではそれが神の正しさ、ヨブの正しさ、という大きな問題なので、友人たちがテレビの評論家の先生たちのようにヨブが悪いと言えば、我々は複雑な気持ちになる。もちろん、ヨブを支持したいのだが、悪魔の存在、それに神はなぜ悪魔にヨブを試みて良いと許可を与えたのか、もやもやが続くことになる。なぜなら自分に対しても神はサタンに試みの許可を当たるかもしれないと不安があるからだ。もっとも、ヨブほどの正しい完全な生活を送っているとは言えないかもしれないので、それほど心配する必要はないはずだ。ただ、自分がひどい目に遭ったのは、影で悪魔が暗躍して攻撃していたことは間違いない。もちろん、それはいたずらにひどい目に遭うというよりは、突破できない壁を打ち破って、一段以上高い信仰の頂にのぼるためであったと悟ることができる可能性を秘めている。今日の聖句も、実は「あなたが正しいから全能者が喜ぶ」ということはある。人間の親でも小さな子供が正しいことをしたら喜ぶものだ。そして、あなたが完全な道を歩むことは新約聖書で勧められている。神の利益になるに決まっている。そもそも悪魔が天の御前会議に来た時に神はヨブについて自慢しているではないか。残念ならがヨブの友人たちの神理解は、一面的で信仰者としては不完全なものと言わざるを得ない。あなたの神は、想像以上に良い神なのだ。あなたの益となるとように恵みの業を決して惜しまない。だから、今日も安心して一日を始められると覚えておこう。
8月20日(火)
神がいったん定められたなら、誰も翻すことはできない。神は望むがままに行われる。わたしのために定めたことを実行し、ほかにも多くのことを定めておられる。
ヨブ記23:13、14
私たちは神の定められた通りに生きているだろうか。人生を振り返ってみれば、その後の人生を分ける大きな分岐点があったはずだ。その時の選択の結果が今であるわけだが、その時に私たちは別の選択をしたならどうなっていたのだろう、と考えることがある。そして、いろいろな思いが巡って、結局他の選択はしなかっただろうと気がつくことになる。そもそも、日本人に生まれ、あるカップルの間に生まれ、その時も他ではない歴史上の定まった時に誕生している。どのように育てられたかは両親あるいは育ての親に負っている。そして、いつしかクリスチャンになったのだが、先人たちはそれは神の召命なのだとと諭される。その召命に自分の意思で応じたためにクリスチャンになったわけだ。これらは、偶然だろうか。それとも、神が定められたからか。私たちは、時々神は人間の偉人のようなものだと無意識に思っているのかもしれない。だから、神を人間のように考えてしまうために、神を人間のレベルまで引き下げてしまうことがあるのだ。ヨブは、神が自分をひどい目にあわせているとしか考えていない。それが理不尽であるという思いが強いのだ。その理由は、自分が頑張って正しく完全に生きていたからだ。だから、初めは神に怒ってしまったのだが、今は自分の正しさを神にわかってもらいたがっている。これだけでも、ヨブが神をわかっていないことを現している。私たちは、この事件の背景を知っている。ヨブが思いもしない悪魔の唆しが、そして苦難の実行犯がサタンであることを知っている。だから、ヨブの意見もそうではないと言いたくなる。私たちは、このように自分が逆境にさらされた途端、理性が空回りしているかのように、堂々巡りを始める。神を信じているのになぜこんなことになってしまったのか、その理由を求めているのだ。だが、何があっても神を信頼するというようにはうまくいかない。そうではなく、神に対し怒りまで出て来るだろうし、自分の正しさを説明しようとするかもしれないし、逆に自分が悪いからと責め始めるかもしれない。苦難を打ち破るには、暗く落ち込んではいけない。そうではなく、逆に勇気を鼓舞して、神の定めた通りになるとしても、それは私にとって良いことに違いない。このような災いが襲ってきた今でも、それは悪魔の仕業であり、神にはもっと良い意図があってしばし悪魔の攻撃を許されているはずだ。だから、悪魔に打ちのめされる前に、賛美して、喜び、感謝しよう。説明は上手にできないけれど、神は私を初めに愛されたお方だから、その愛が変わることはないので、私が理解できない深い意図があるはずなので、その神を信頼して、賛美しよう。悪魔がいたたまれなくなって逃げ出すほど、神を賛美しよう。これを実践できる人は幸いな者と呼ばれるだろう。
8月21日(水)
光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず、光の射すところにとどまろうとはしない。
ヨブ記24:13
ニュースを聞きたくないと思う時があります。悪人が聞くに耐えないことをするからです。ヨブの言うように、この世には悪人がいて、ひどいことをやめようとはしないのです。単純に神様が悪人を滅ぼしてくれれば、警察も刑務所もいらなくなります。そして皆が安心して暮らせるのですが、どうもそうはならないのです。時代が変わっても、貧しい者が搾取され、虐げらることは変わりません。そして、このことに世界中の人々が無関心でいられます。どうみても、悪人が犯罪を犯し続けても普通に暮らしているように見えるのです。いつの時代も子供達が犠牲になりやすく、弱い者や貧しい者も踏みつけにされやすいのです。ヨハネが「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:4、5)と言っている通りです。救い主キリストが人間の世界に降りてきた時に、この世界の人々はそのことを理解しなかったのです。そして、今日のヨブの言葉もまた人間の中の罪が光に背くことを教えています。ただ、ヨブはまだ神様を正しく理解していません。なぜなら、神様は人間を救うために御子イエスをこの地上に送られたからです。ヨブの言うような神様ならば、天から何もしないで見ているだけでしょう。しかし、イエス様は卑しい人間になられて、自己犠牲の愛を示されました。このような神様は他にはいません。私たちは物事の一面を見て、すぐに否定的に判断してしまう傾向が強いのです。それで、主がすぐに助けてくれずに苦難が続くと主への信頼が揺らいでしまうのです。一方、パウロはイエス様に出会いましたが、そのイエス様のために苦難を受け、獄中にいる時も、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:20、21)と言えたのです。やはり、人間の弱さを見れば、イエス様が見える人間になって福音を伝えてくださることが必要だったのです。そうであれば、苦難の意味がわからない時でも、主への信頼を増すことができるのです。今や、私たちは光の内にとどまることができるのです。主にハレルヤ。
8月22日(木)
どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
ヨブ記25:4
イエス・キリストが未だこの地球に来ていなかったなら、今日の聖句の通りなに人は語り、人間には希望がないことになります。神と人間という関係は、創造の時には神の像に作られたのだから、罪の無い清い存在だったのです。そして、何より「神は愛なり」と聖書にあるように、神の愛の性質も人間はいただいたのです。それなのに、罪は愛を裏切り神と断絶する恐ろしいものだったので、人間は神の像を失ったのです。それ以来、人は神の前に正しくありえないものとなりました。恐ろしいことに、アダムの罪はその子孫に受け継がれ、罪の遺伝罪のように思われてきたのです。それを原罪と呼んできました。しかし、それではあまりにも希望がないので、自己責任はないのかともう一つの考えが生まれました。それは罪責と呼ばれます。胎児の時には無垢であったのですが、産まれた後、その人の自由意志で罪を犯したら、そこに罪責が生じるという考え方です。しかし、どちらも人間にはあるからこそ、悩むのです。人間が何が正しいことか分からないので罪を犯すのなら、律法を授けて、何が罪か判別できるように正しさの物差しを与えてみたのですが、結果は同じで人間の罪深さだけが際立ちました。例えば、歴史を通して人間は戦争を繰り返してきたのですが、それは多くの若者を犠牲にしてきたということです。その家族の悲しみはどれほどだったでしょう。災害が起こり尊い命が犠牲になると、社会はこぞって悲しみに沈み、二度とそのような犠牲者を出さないように努力が始まります。しかし、戦争だけは、決して教訓を学びません。刃物を持った通り魔が一人いるだけで怖いと思うのに、普通の人に兵器を渡して殺し合いをさせるのは平気なのでしょうか。キリストの終末預言の通りに、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」(マタイ24:7)と書いてある通りになってきました。罪は最後に裁かれます。その裁きに耐えられるのは、イエス・キリストを信じて救われた者だけです。ヨブの頃には理解されていなかった福音が私たちに届き、信じる者とそうでない者にふるい分けているのです。私たちも福音を伝える特権にあずかっていることを覚えましょう。
8月23日(金)
あなた自身はどんな助けを力のない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
ヨブ記26:2
私たちは知らないが、信じられないような助けを与えるために日夜努力している人たちがいます。多くの場合、それは組織ではなく個人が奉仕しているのです。世界には先進国を除けば、すべての面で恵まれていない国々はたくさんあります。そのような中でいつでも犠牲になるのは子供達です。その子供達を助けようとする人たちがいるのです。国連でもなく、何の後ろ盾もない若者が内戦で孤児となった子供達を無報酬で保護して育てているのです。ヨブの友人たちは立派な人たちなのでしょうが、このような試みの場に出ると、その本当の姿が暴かれてしまいます。なぜなら、普段なら失礼でとても聞けない質問がヨブの口から飛び出したからです。ヨブに意見する資格がないというわけですが、不思議なことに人間の議論ではこれでわかりました、とはならないのです。宗教はこうであるとか、律法を守らなければいけないということはそれほど難しいことではありません。クリスチャンとして立派にやっていこうと誰でもが思うのですが、その実際は思い通りには行きません。ある時、末期癌の信者さんが入院先で危ないというので、病院に駆けつけました。そこに放蕩息子のような次男がやって来て、模範的な長男と二人の息子が揃ったのです。あとでその次男は、亡くなった父と母が、教会から帰ってくると牧師や教会員の悪口をいつも語っているのを聞いて育ったと言うのです。父は教会の長老であったのに、教会では立派な人を演じていたが家に帰ればこの世の人と変わらない偽善者だと、弟は怒っているのです。だから、自分は教会を離れたのだと訴えていました。このようなことが起こるのは、福音が十分に理解されていなかったからです。聖霊が人の内に住み、新しい命となって変えられていくのです。しかし、古い自分を捨てることは避けられないことも事実です。もし、天の父と御子イエスと聖霊が力づくで助けてくださらなかったら、誰も救われません。それで、私たちは信仰に本音と建て前を持ち込むことをしません。そんなことをしたら救われません。私たちは肉の性質がはなはだ悪性であることを知っています。だから、ヨブが友人に答えて語り出した言葉の意味がわかります。ヨブを責める資格がないのです。自分にはできないのに人に正しいことを強いる人は危険なことをしているのです。その責任はあとで問われます。ですから、私たちは安易に人を裁かないようにいつでも細心の注意が必要なのです。できれば、隣人のかたわらにいて、愛を語り、実践する者となりたいものです。
8月24日(土)
わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ。
ヨブ記27:6、7
さて、私の正しさとは何だろう。日本人のイメージからすると、絶対自分の仕事に妥協を許さない、頑固一徹の職人気質を思い出す。ヨブは、意識的に正しく生きていたし、それは驚くほどの努力であったに違いない。それで祝福された人生を歩んでいれば、正しいから神は私を祝福していると納得がいくのだろう。ところが災いが立て続けに襲ってきた時に、自分の正しさがヨブを苦しめたことは今まで読んできたところに明らかだ。それに友人たちが関わっている。友人たちはこれほどひどい災いに遭うのは、ヨブがよほどひどい罪を犯したからに違いないと確信していた。まさに因果応報だ。この考え方は、イエスの弟子たちも同じようなものだった。それは次の言葉でわかる。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)。それに対してのイエスの答えに注目してみよう。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)。人間が自然に考えることは、いつの時代にも変わりないらしい。何か不幸が起これば、罪の因果応報を考え、災いに遭えば、神に背いたからだと思われる。イエスを受け入れることのできない人たちも、同じ考えに縛られていた人たちだった。それだけに、罪の物差しである律法を形式的になっても必死に守っていたのだ。罪人なのに義人であると頑張っていたと言えばわかりやすいだろうか。だから、福音を理解するには、人間をありのままで救う神の業が働くと考え、それはイエスの十字架であると理解することなのだ。それにしても、ヨブと友人たちの間に正しさの対立があって、双方が自分が正しいとするのを見ると、世界中に争いがあり、それが簡単におさまらないのは、共に私が正しいとするからだと気がつく。しかし、この二つの見方以外に正しさがあることをまだ誰も気がついていない。神を信じるということは、自己の正当化を放棄しない限り実現しないものなのだ。自分を超越した完全な正義が神にあることを知るべきだ。
8月25日(日)
神は知恵を見、それを計り、それを確かめ、吟味し、そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別。」
ヨブ記28:27、28
人間の知恵がどんなに不完全なものであるか、それは多くの事例が証明している。そして、どんな人も自分の知恵で対処したために相当の結果を刈り取っている。私たちの課題は、神の言われたことの内容を知ることにある。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」。ヨブが初めは感動すら覚える主への信仰表明をしていたのが、友人たちに刺激されて怒りと自分の正しさに固執してしまったがために、初めの「主を畏れ敬うこと」から離れていったことを見ることができる。知恵が何か少しわかるだろう。さらに人間にとって難しいことが「悪を遠ざけること」だ。それが分別というものだ。信仰生活が満たされていると実感できるためには、この知恵と分別に注意を向けていればいい。悪魔がやろうとしていることは、信仰者を感情的になるように追い込んで、知恵と分別の二つを見失わされることだ。その時には、ヨブほどの信仰者でさえぐらつくことがわかった。主の祈りがやはり私たちには必要だ。「試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」。主を畏れ敬うことは喜びだ。そのような人生に落ち度はない。悪魔の支配するこの世界に生きているので悪は身近にいくらでもあるだろう。油断などいっときもできない。悪を遠ざけることができるかどうか。それで運命が決するのだ。
8月26日(月)
あのころ、神はわたしの頭上に灯を輝かせ、その光に導かれてわたしは暗黒の中を歩いた。
ヨブ記29:3
神様を信じて正しく生きて、健康で、すべてのことがうまく行き、周りがどうであろうと恐れることもなかった。このように言えるなら、あなたは神様の祝福を信じるだろう。しかし、それがいつまでも続くかと言えば正直わからない。ヨブの場合は特殊だとは言え、絶頂からどん底へと一気に落とされてしまった。しかも、ヨブにはどうしてそうなったのか理由がわからない。友人たちは、ヨブが悪いに違いないとヨブを結果的に責めてばかりいた。ただ、それでもヨブは自己の正当性を捨てることはなかった。ここにきて、自分の過去の栄光を話し出した。どこにも落ち度が無いからと、貧しい者たちすらヨブを慕っていたのだ。ヨブを知る者は誰でもヨブを賞賛していたと話す。さて、この冒頭の部分に注目してみよう。今日の聖句だ。ヨハネの手紙一には「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行なってはいません」(1:6)。ここから判断しても、ヨブの正しさはわかるはずだ。彼は神との交わりを持っていたのだ。「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち」(同1:7)とあるように、クリスチャンはこの世の暗黒の中を光に導かれて歩むことができるし、互いに愛し合う存在なのだ。クリスチャンになって一番良いことは、光の中に入れら、光を知ることができることだ。「神は光であり」(同1:5)、暗闇の中にいた時には気づかなかった自分の罪を光は照らし出します。それで、悔い改めと罪の汚れの清めへと導かれます。光の中に生きていれば、心には平安と恵みがいつも満ちているでしょう。光の子として生きていくことは御心にかなっています。それは自分を捨てることで楽になる生き方でもあります。キリストの教えはそのまま実行すれば力があるということです。今日もキリストから離れずに生きて行きましょう。
8月27日(火)
人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか。わたしは苦境にある人とともに泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか。
ヨブ記30:24、25
私たちは、誰かの不幸を見て平気でいることができない。なんとかしなければと心が騒ぐだろう。苦境にあって、とても辛い経験をしている人が目の前にいれば、一緒に泣いているだろう。貧しさを見れば、心が痛む。しかし、ある国にいた時に、貧しい人たちが日本人は金持ちと思って、次々に訪ねてきた。あれを買え、これを買ってくれ、とまったくいらない物ばかり買って欲しいと来るのだ。その中で貧しい学生が奨学金が欲しいのだとわかれば、買うし、働いて正当なお金を得ることができるようにと仕事を与えもした。お金をただ与えれば良くないこともわかる。基本的に人間はたくましくて、それぞれの境遇でよりよく生きようとしている。開発途上国から来た青年は学費が足りなくなったので、日本で稼ぎたいので仕事を斡旋するように頼んできた。日本語を話せるわけでもないのに、豊かな国でお金を稼いで自分の夢を実現しようとしているのだ。このような自由の無い世界での貧困問題は厳しさが違うだろうが、人間として助け合うことの大切さは誰でもわかるはずだ。だから、自分のできる範囲で弱い者に手を差し伸べることはするだろう。ヨブのような金持ちの有力者で信心深ければ、なおさら慈悲深くなければならなかったはずだ。だから、豊かに祝福された人生を歩めるかと言えば、そうでもないので混乱してくるのだ。良いことをしたから良い報いがある、悪いことをすれば悪い報いがある、と単純な方程式で人生を考えている人にはわからないだろう。つまり、単純な方程式を邪魔する変数があることが問題なのだ。それは、罪人の問題であり、悪魔の存在だ。単純な方程式では、罪人は全員地獄行きで決まりとなる。しかし、クリスチャンは自ら経験した通りに罪人であったが、イエスを信じて救われのだ。この人の場合、過去には罪人であったから地獄行き決定なはずだ。それが、悔い改めて、イエスに罪を贖っていただいて、信仰で義とされたのだ。この時、この人の報われるはずの良いことはどこにあるだろう。どんな良い功績があると言えるのだろう。罪人であるのなら、何の功績も無いことになる。そのような人を救うためには、人間の功績を誇るような方法は無効でなければならない。つまり、救いは神の恵みで実現していることになる。そのような世界で、ヨブは、正しい功績を積んでいたので、苦難を見ても何もしない神に怒り、今度は良い功績を訴え、と神の意味を掴みかねている。これは、新約聖書で宗教家がヨブと同じ考えで信仰生活を行なっていたのだが、イエスの登場で信仰の意味が大きく変わったのだ。ヨブがイエスの十字架を見たら何と言うのだろう。ヨブ記がこのように人に罪と悪魔と神、そして苦難と救いの意味を考えさせるので、多くの人を惹きつけるのだろうと思う。あなたも考えてみよう。
8月28日(水)
わたしがアダムのように自分の罪を隠し、咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。
ヨブ記31:33
31章には、ヨブが犯していない罪のリストが並びます。これは大変興味深いものです。人間がどんな罪を犯すものなのか、よくわかるからです。そして、毎日の世の動きを見ていると、実にこの通りのことをしている者がいるのもわかるでしょう。クリスチャンは、誠実に正しく生きることを意識しています。愛の業が行われるようにと心を隣人に向けようとします。時には汝の敵を愛せよとの主の御言葉に葛藤を覚えながらも様々な人との関係を良いものにしようとしているのです。そのためには、自分に徳がなければならないということも理解させられます。しかし、一番重要なことは、アダムの末裔であり続けないで、第二のアダムであるイエス様に倣う者となることが目標なのです。アダムの問題は、教えられなくても自分自身の過去を見ればよくわかります。その教訓は、罪を隠してはならないということです。咎を胸の内に秘めておくこともダメなのだと理解することです。なぜなら、祝福されないからです。アダムは、神様が近づいた時に隠れました。罪や咎を隠していると神様から遠ざかりたくなるのです。ヨブのようにしなさいと言われたら、これは大変なことだと思うでしょう。それほどヨブは素晴らしい生き方をしていたのです。しかし、それだから救われるのではないのです。イエス・キリスト無しには救われません。だから、自分の正しさで救われようとしないことです。神様と共にいれば正しく生きることも可能でしょう。しかし、それだからヨブのように、自分は正しいのに神様がひどいことをしたと文句を言えるような者ではないのです。私たちは、イエス様から離れずに生きたいだけです。それが一番安心できるからです。今日も憐れみ深いイエス様があなたと共にいてくださいますように。
8月29日(木)
日数がものを言い、年数が知恵を授けると思っていた。しかし、人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。
ヨブ記32:7~9
年長者は若い人を失望させてはいけない。尊敬されれば一番良いのだろうが、そう簡単にはいかない。エリフは若い人のようで、三人の年長者に遠慮していたわけだ。しかし、ヨブの迫力に負けたように見えたので口を開いた。議論はたいていの場合、人を興奮させて自分の意見とは異なったことをいう者が現れると、マグマの噴火のように内側から何かかがエネルギーとなって吹き出すものだ。エリフは今、そのようになった。エリフの初めの言葉が今日の聖句となったが、老人になれば皆分別のついた人格者になるわけではないのは、誰もが経験上から知っているだろう。例えば、買い物にでけた先で、老人が店員を怒鳴りつけていたり、非常識な振る舞いで周りからひんしゅくをかっていたりするのを見ることがある。この人は後何年生きるのだろう、とつい思ってしまう。その短い時間で天国に行くにふさわしいを徳を身につけることができるのだろうか?と余計なことを考えてしまう。人生は、長いように思うが、それだけの時間を使って品性を整え、徳を身につける必要があるのに、人生を無駄遣いしている人が多いのだ。一朝一夕でなんとかなるようなものではない。そうなると、山寺にでもこもって修行しなければ無理だと言いだす人もいるかもしれない。しかし、もっと良いことがある。それは、悔い改めてイエス・キリストを信じることだ。クリスチャンの人は、聖書を読んで聖書の御言葉が自分の内に染み込んでくるまで何度も読むことだ。日常生活に御言葉が自然と口をついて出てくるようになれば理想的だ。クリスチャンの良いことは、聖霊が助け主となって品性を作り出してくださることだ。御霊の結ぶ実がリストになって聖書に書いてあることから、これが重要であることは間違いない。そして、普通にできることをすれば良い。賛美歌を歌い、御言葉を朗読し、祈り、礼拝する。創世記を見ていると、アブラハムやヤコブなど族長たちは一人で石を積んで祭壇を築き、その上で羊などを焼いて礼拝している。今日の私たちは、動物の犠牲を献げることはないが、それは、イエス・キリストが十字架で真の犠牲となってくださったからだ。だから、イエス・キリストが中心の礼拝となる。それに、献金や施し、誰か助けを必要とする人がいれば、できる範囲で助けるし、聖書研究会をひらいたり、家庭集会や家の教会を開催しても良い。伝道をすることは、方法を考えれば誰でもできる。聖書を学ぶことも楽しいことなので、他のことで満足を得ようとする必要がなくなる。歳とともに立派な人になれれば一番良いが、ただ歳をとっていくような気がするかもしれない。しかし、信仰生活を長く守ってきた人が何も成長しないということはあり得ない。柔軟さを身につけ、自分と意見が違う人を否定しないだけでも、成長を実感できるようになるだろう。自分の意見に同調しないヨブに怒りを発してしまった友人たちは、後でそのツケを支払うことになる。神様を中心に生きれば、自分の考えに固執することの愚かさを理解するようになる。私たちの知識はとても少ないので、知らないことの方が圧倒的に多いことを忘れないようにしたい。それなのに、自分が正しいと言い張るのは正しい信仰態度ではない。真理はあなたを自由にする。この通りに生きていけば良い。
8月30日(金)
「わたしは罪を犯し正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった。しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ」と。まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる。
ヨブ記33:27~30
クリスチャンはこの聖句の内容は本当だと言うでしょう。罪を知らないうちは平気な顔をして生きて行けましたが、罪を示されるとその恐ろしさが理解でき、正しく生きたいのに罪を犯さざるを得ないから罪人なんだと納得するものです。それでも、希望があるのは、神様が救ってくださるからです。私は神様の不思議な導きで、クリスチャンでもない時に神学校に入れられました。何しろ神様を信じていませんし、キリスト教を知りませんでした。そこは、全寮制で神様は私が逃げ出せないように監禁したのです。そして、場違いな所にいるのですから、毎日逃げ出すことを考えていたのです。そして、将来の牧師たちが格好の練習台がいると思ったのか、私に本をくれました。Fさんは「キリストへの道」を、Aさんは「祝福の山」(キリストの山上の説教の話です)を下さいました。ところがまるで理解できません。読んでもピンとこないのです。それで、岩波新書の「聖書入門」という本を買って読んでみましたが、それもよくわかりませんでした。牧師の求道者クラスで聖書を学び始めましたが、しかたなく通っていました。ところが、労作教育があって、園芸部に配属になり、そこに聖人と言われているS先生がいたのです。聖書学の先生ではなく、学生に労働を教えている老農夫でした。すぐにそのS先生がただ者でないことを理解しました。労働の前に、そのS先生がお祈りし、聖書を読み、少しお話をしてくださいます。それがどういうわけか、私の心に入ってくるのです。はじめの頃は、労働時間を短くするために、先生の話が長くなれば労働時間はそれだけ短くなるので、私は先生に色々質問をして話が長くなるようにしていたのですが、それが全て神様の恵みとなっていたのです。私の怠け心すら利用して神様は私に福音を教えてくださったのです。このS先生が実に牧師になる神学生の信仰を育てていたのです。教室で教える先生ではありませんでしたが、農場でまるでイエス様の教えを聞いている弟子たちのように皆S先生から学んだのです。だから、私もできるだけ信徒を愛して一緒にイエス様を学んで行きたいのです。天国の真珠の門を教会員の全員でゾロゾロと賑やかに笑いあって通りたいのです。きっと実現すると思います。
8月31日(土)
これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
ヨブ記38:2、3
エリフの人間的言葉にもう耐えることができないので、本来の続くべき箇所であると多くの学者が認めている38章へ飛ぶことにしました。そもそもエリフの議論である32~37章は、多くの学者たちはヨブ記本来のものではないとみなしています。もともとあったものに付け足した者がいたと考えているのです。さて、いよいよ神様が登場します。主は嵐の中からヨブに答えます。それは、叱責から始まりました。「神の経綸を暗くするとは」と語られました。神様がすべ治めているいることを理解しているのかということです。つまり、ヨブの主張の中に間違いがあるのです。神様の御心を理解できないでいるということです。それで自分の正しさを主張して神様へ文句を言い答えを迫ったのですから問題ありです。神様の深いお考えを理解していないためにヨブが誤って神様が間違っていると考えてしまったことからの言葉であれば、これは神様に叱責されても仕方ありません。このヨブのようなことをクリスチャンもすることがあります。つまり、信仰生活を送って、正しく生きているのに、なぜこんなことが起こったのか、なぜひどい目にあっているのか、このことで神様に結果的に文句を言ってしまうことがあるのです。それは、アウト!です。私たちは「御心の天になる如く、地にもなさせたまえ」と祈っているのです。ですから、御心が行われているのに、自分の理解が及ばずに文句を言う権利が無いのです。ヨブは、「これは何者か」と言われました。私たちは時々、神様を親しいおじさんのように勘違いしてしまうのです。知識が無いのに、神様にものを言うことができるのです。それが恐ろしいことだとは気がついていません。相手は神様なのですから、当然、主に服従することが信仰の道なのです。それをすぐに忘れ、主を自分の祝福係に賤しめてしまうのなら、信仰者とはもはや言えなくなってしまいます。教会で「謙遜」となんども言われる理由があるのです。いつまでたっても、「謙遜」になれないのは、何か問題があります。ちょうど良い機会ですから、信仰の点検をしてみるのも良いでしょう。神様は間違わないのだから、神様の愛を信頼していたいですね。