3月1日(日)
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。
詩篇16:11
コロナウイルスのニュースで不安が増している人もいれば、まだまだ人ごとのように考えている人もいます。専門家も人によって違うことを言うので、疑心暗鬼になり、何を信じて良いのかイライラも高まっているでしょう。ちょうど、花粉症の発症時期にも重なり、微熱が出たり、体調不良になったりする人もいるのでパニック寸前です。検査ができないための不安であるため、1日も早く希望者全員が検査できるようにと、ニュース番組は語ります。SNSでは「トイレットペーパーが無くなる」と誤報が流され、たちまち買い溜めが始まりました。さて、私たちはもう少し落ち着く必要があります。聖書には、「いのちの道を知らせてくださいます」と書かれています。不安な時ほど、主のもとへと急ぐべきです。祈りは主に近づく近道です。主は、あなたを助けるお方です。万が一病気になっても、主はあなたを助け、癒してくださいます。主を信頼しましょう。神様から来る平安がありますように。
3月2日(月)
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
詩篇23:3
クリスチャンになるということは、死んでいた魂を生き返らせることなのです。罪人であったと悟らせてくださらなければ、罪を認識できなかったのは、魂が死んでいたからです。そこで、新しい命となってくださる聖霊が人の外側から働きかけて、罪を悟らせるのです。その時、重要なことは福音を聞くことです。イエス・キリストが一体私のために何をしてくださったのか。それは、神の恵みであったこと。罪人ではなく正しい人になるために神に義と認めていただくには、自分の力では何もできないこと、ただイエス・キリストを信じることによる事を知る必要があったのです。こうしたことは、不思議ですが、私たちに実際に起こったのです。クリスチャンの人が人生が変わったと証言するのは、主が「御名のために、私を義の道に導かれる」からです。そのために生き返ったのです。ですから、義の道意外に向かってはいけません。あなたは恵まれているので、すでに義の道へと導かれています。素晴らしいことが待っていますから、楽しみに信仰に歩みましょう。
3月3日(火)
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
詩篇4:8
この世で生きていければ、ストレスが強いので、安眠が難しいと思っている人は多いのです。しかし、聖書を調べると、今日の御言葉が出て来ます。私も若い時には人並み以上に試練があったと思いますが、それらを信仰で乗り切ることを主は導かれ、主の御力と恵みを知ることができました。弱くても、たとえハンディキャップがあっても、荒野の旅を乗り切ることができるのです。それほど主は私たちを憐んで助けてくださるからです。主への信頼はそのようにしてできてくるものです。今は歳を取りましたが、この御言葉の通りだと証言できます。だから、主への感謝がいつもあります。朝目覚めてから主に感謝せずにはいられないのです。ですから、今大変な思いをしている方も将来には、平安をいただいて、幸福な生活が待っていることを覚えてください。主を信じている者には、安らかな生活が約束されているのですから、今は信仰を学ぶ時と理解して、信仰で一つ一つ勝利して行きましょう。一日が終わって眠りにつく時に平安がありますように。
3月4日(水)
祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。
主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。
詩篇102:1、2
今日の御言葉は、詩篇です。しかも、普通は読まれない前書きのような小文字の箇所に目が止まりました。「祈り」と、まず書かれています。つまり、この詩篇は祈りなのです。この詩人は、「心くじけて」います。何があったのでしょう。誰にも言えずに苦しんでいる詩人が「主の御前に思いを注ぎ出」して祈っているのです。この人はどんな人でしょう。「貧しい人の詩」と書かれています。人間が自信を持って生きている時には勢いがあり、多少のことは平気で乗り越えていけます。しかし、心がくじけるほどのことがあると、立ち上がることも容易ではありません。「貧しい人」というのは、いろいろな意味で弱っている人のことです。この人は、誰かに守ってもらうこともできずに、困っているのに助けてもらうこともできない人です。貧しさに身をかがめて震えています。その人ができる最後の希望は、主への祈りです。「主よ、わたしの祈りを聞いてください」。あなたもこのように祈ったことがありませんか。「この叫びがあなたに届きますように」。この人の祈りは叫びなのです。二人の盲人が「イエスがお通りになると聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐んでください』と叫んだ。」(マタイ20:30)。群集が叱っても叫び続けたので、「イエスは立ち止まり、・・『何をしてほしいのか』と言われた」のです。貧しい人は、この主に向かって叫び続ける人のことです。きっと、あなたが叫ぶ時、主は立ち止まって、「何をしてほしいのか」とお聞きになるでしょう。
3月5日(木)
神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んでくる矢をも、遅れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない。・・・あなたには災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。
詩篇91:4ー7、10
人間が集まり都市に住む限り、疫病の発生は避けることができないことは歴史が物語っています。聖書でも、疫病を恐れている人々が出て来ます。それほど古い時代から人間は疫病の脅威に怯えていたのです。そもそも、創世記11章のバベルの塔の物語に人が集まって都市を形成すると、神を恐れず、おのれを神のように思うようになることが暗示されています。確かに、今でも天に届くような高い塔を立てようとするのです。大都市の象徴は高層ビルや超高層マンションです。そもそも言葉が一つだったので、大勢の人が集中することは容易かったのです。それで、神様は言葉を混乱させて、今のように多言語になり、世界中の人が一つに集中できないようにしたのです。ところが、いつの間にかグローバル化と言われるようになり、世界は一つになったと言われるような状況にすっかり変わりました。今回の新型コロナウイルスの感染の様子を見ても、人の行き来が全世界的になっていることがわかります。大勢の人が長い距離を移動して接触するわけです。あっとういう間に経済は停滞し、普通の生活ができなくなります。このようになると、なんでも思い通りになると思っていた人間が実は無力で、いつの間にか驕り高ぶっていたことを思い知らされます。バベルの塔の警告は今も生きているのです。ただ、神様は「彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう」(14節)とお語になります。いずれにしろ、信仰をもっているあなたには、特別な主のお守りがあることを覚え、感謝してください。あなたにウイルスが感染できないように、不思議が働くことも期待できそうです。ただ、非常識な振る舞いは禁物です。できるだけ、人混みには出歩かないでいたいし、免疫力を高めるためにも健康的な生活を送りたいですね。心の健康のためにも、お祈りは効果が期待できますよ。
3月6日(金)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
フィリピ4:4、5
聖書で命令されていたら、クリスチャンのあなたはその命令を実行したいと思うでしょう。今日の箇所は、その命令が書かれているのです。実は、この命令を実行することが信仰の秘訣の一つです。つまり、「主において常に喜びなさい」との命令です。しかも、ここでは重ねて同じことを命令されていますから、聖書の中でも特に重要な箇所なのです。普通の人は、喜びなさい、と言われても喜ぼうとはしません。というか、何か喜べることがないと喜べないのです。しかし、クリスチャンは「主において」との言葉がついているので、ここに秘訣があると気がつくはずです。つまり、喜びの根拠は「主」にあるということです。旧約聖書でも同じです。主を喜ぶことは力なのです。それを体験することが大切です。それでは、今日、さっそく、喜んでみましょう。「常に」と聖書に書いてありますから、怒りたくなった時も、嫌なことがあった時も、悲しい時ですら、とにかく喜んでみるのです。いつも喜ぶことができれば、人生はとても良い状態になっていくはずです。誰かのことでイライラしたり、心を痛めたりしている人には、特効薬となると思います。きっと、あなたは心の広い人として皆んなに認められるようになります。そして、嬉しいことに、主は喜んでいる人と共におられるのです。だから悪魔も手出しができないのです。あなたのイメージがいつも喜んでいる人、と周りの人たちから認められるようになれば、嫌なことやネガティブなことは近づかなくなるでしょう。喜びは喜びを呼ぶので、楽しくなります。感情に負けないように、信仰で喜びます、と主に祈ってみたり、声に出して宣言することも効果的です。喜ぶだけで人生を幸福に変えましょう。
3月7日(土)
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
イザヤ55:10、11
聖書には神様の約束がいくつもあります。そして、その聖書を理解できるように真理の御霊である聖霊を送っていただいたのは、あなたなのです。初めはうまく行かないかもしれませんが、牧師に聖書研究をお願いするのも良いことです。 聖書は、何度も聞かないと理解できないかもしれません。あるいは突然、天から降りて来たように急に分かったと
声が出るようなことも珍しくありません。一番重要なことは、神様が口から出した御言葉は、力があって、光あれと言えば光がある、というような不思議があります。そこで、神様の意思が働き、もしあなたのもとへ御言葉が届いたなら、それは必ず主の望まれたことを成し遂げるのです。主は、あなたを愛しておられるので、あなたにとって一番良いことを実現しようとされるはずです。そのために、御言葉を発することはあるのです。しかも、それは必ず成功するのです。なぜなら、それらは主の望みだからです。だから、一時苦しむようなことがあったとしても、すべて益に変わり、神様の愛を見る事になるのです。
3月8日(日)
私は、自分に与えられた恵みにより、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
ローマ12:3
人間の厄介さは、生活がうまくいっている時にただ感謝していればいいのに、わざわざ危険を冒したり、過去のどうしようもないことを振り返ったりすることだ。その結果、またしてもひどい目に遭うのだが、繰り返すところをみると、学習することができないのだろう。それほどの強い罪への誘惑が後遺症のように、人間につきまとうのだ。これがクリスチャンであれば、見過ごしにはできない。なぜ、このような事になるかといえば、今日の聖句が理解されていないからではないだろうか。「限度を越えて思いあがる」からだと聖書は教えている。対処法は一つ、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」。所詮人間は全てを理解する事などできないのだ。それは、神の知恵だと思う。だから、自分が何もかも分かっていると思い上がってはいけない。ましてや他人の心の中まで知る事などできないのだ。それなのに、人間関係で勝手に悩むのは、おかしな事だ。せっかく与えていただいた信仰をなぜ使わないのだろう。自分にちょど良いだけ信仰を与えてくださっているのだから、信仰が使えない、などと言えないわけだ。問題は、慎み深い考え方をするかどうかなのだ。もし、すべての人に対して、慎み深い考え方をすることができれば、楽になるのだが、そこでいつも失敗しているように思う。今日はこの聖句をよく考えてみよう。
3月9日(月)
さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。
そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。
ヨブ22:21、26
人間が何か努力して自分を矯正し、より良いものとなれるようにと考えることがしばしばあります。しかし、実際にはあまりうまく行かないのです。たとえば学生は勉強をしなければなりません。しかし、成績が良くないと先生や親から注意され、自分が認めてもらえなくなります。それならば、頑張って勉強をして良い成績を目指せばいいのですが、そうはなかなかなりません。なぜなら、動機が弱いからです。勉強は面白いからやるのでなければ、あまりうまくいきません。どんな科目でも、理解しようと一生懸命に取り組めば、やがて面白くなるのですが、そこまで行けないのです。だから多くの人はテストのために勉強しているので、あまり楽しくありません。これが、神様のことであればどうでしょう。クリスチャンが面白いと思う勉強は、やはり聖書でしょう。しかし、聖書は神様のことが書いてあるので、神様を知る事になります。神様をさらに知ろうとすれば、自分のことを知る事になります。神様に近づくために、自分を変える事が必要になって来ます。たとえば、「互いに愛しあいなさい」と言われ、「互いに受け入れなさい」とも命じられるからです。一見簡単そうで、実は自分を変える事なしにはできない事なので、葛藤が生まれるでしょう。ただ、聖書をよく読むと、「キリストが神の栄光のために、私たちを受けれいてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」(ローマ15:7)と書いてあるのです。クリスチャンがよく理解しなければならないのは、初めにあなたが努力するのではなくて、初めに神様が愛してくださり、あなたを認めて受け入れてくださるのです。そのことが心の動機になって、心が変わり、心から出てくる愛ができなかったことを可能にするのです。だから、神様に愛され、認められていることをまず信じて、受け取ってください。ダメだと決めつけていた自分を神様は何も言わずにそのままで愛してくださるのです。それを味わってください。神様と和らぎ、心の平和を得ることができますよ。
3月10日(火)
主はわがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神、わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
詩篇18:2
この地上に生きる限り、さまざまな危険から身を守らなければなりません。順境の日には不安を覚えることはないでしょうが、逆境の日は無いとは言い切れませんから何か起これば不安に苛まれるでしょう。そのような時に、私たちは神様に助けを求め、頼ります。それはいつでも最も信頼できる助けとなります。それは、古代のイスラエルから変わっていません。詩篇の詩人は、今日の御言葉の通りに主の助けをいくつもの言葉で表現しました。これぐらい連発するぐらい、主に祈って頼るべきだし、これぐらい確実にどのようなことが起こっても大丈夫だという意味です。確実に助けていただけるわかれば、恐れることは何もありません。また、自分が不調になってしまった時でも、自分でなんとかしょうともがくよりも、今日の御言葉を唱えて、自分の救い主を呼びましょう。どれも、力強く、確かな保護を意味しています。この神様があなたを確実に助けて、守ってくださいます。だから、新型コロナウイルスで心配が広がるようなこの時も、今日の聖句を唱えて、主に守っていただきましょう。気分障害で悩んでいる人も、人間関係で悩んでいる人も、経済や将来のことで不安を覚えている人も、皆、この聖句を唱えて、主を呼びましょう。そして、心に大きな平安をいただきましょう。
3月11日(水)
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
ゼパニア3:17
クリスチャンが主によって救われるということは、今日の聖句に書かれているようになることです。この世にいる限り、良いことばかりが起こるのではなく、時には災の日もあるでしょう。しかし、それでもあなたに対する主のお答えは、今日の聖句なのです。だから、本当は災いもあなたには近づけないのです。ただ、人間お弱さが出てしまい、恐れると被害を受けることがあります。そこで、信仰で勝利するというのは、自分の本来の姿を思い出すのです。それは、主がお語りになった通りに、今日の聖句のように主はあなたを困らせることはしないし、敵が現れれば、主が救いの勇士になって戦ってくださるし、あなたを喜ばせて、それを見て楽しむのです。主はいつでも変わらない愛であなたを愛しておられるので、あなたは安らぎの中にいることができるのです。あなたは主にとって、喜びなのです。だから、主ご自身が高らかに歌ってあなたのことを喜ばれるのです。それほどまでに主に愛されているのですから、あれこれ思い煩わずに、主の御言葉の通りになっていると信じましょう。そして、本当にこの御言葉を味わい知ることです。あなたは恵まれているのです。
3月13日(金)
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがた行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
ヨハネ15:16
何で自分が神様に選ばれたのか、と考えはじめれば分からなくなりそうですが、聖書に書いてあるのだから間違いありません。お友達が聖書研究を始めたいのに一人では嫌だから近所のお友達に頼んで一緒に聖書研究を始めて、一年後にはお友達の方が先にクリスチャンになる決心をして、はじめのお友達を逆に励まして結局一緒に洗礼を受けた、といったことが起こります。歳をとってから聖書が気になり始め、背中を押されるように教会を訪ねて行き、勇気を出して聖書を学び始めることになったのですが、その時、奥様と娘さんを誘って一緒に聖書を学び始めました。そして、家族仲良く一緒に洗礼を受けてクリスチャンになりました。夫が家に帰らなくなって、途方に暮れて、子供を幼稚園に連れて行き、幼稚園でお母さん向けの講演があって、そこで新しい牧師を知り、その牧師が講演の最後に聖書を学びたい人を募ったのです。その時、どうしてか聖書を学びますと言ってしまって、ビックリしたのですが、その数ヶ月後にはクリスチャンになっていました。そして、ご主人も帰って来たのです。冬に利根川で洗礼を受けた姉妹、病床で信仰を告白した方々、誰かがポストの入れた一枚のトラクトでどうしてか初めて教会へ行ってみようと思って、洗礼を受けた人。道でキリスト教講演会のチラシを受け取って、そのまま講演会に出席して、洗礼を受けた医師。九州で文書伝道をしていた兄が、東京で劇団員として有名になることを夢見ていた弟を導き、東京の教会に行くようになり、そして洗礼を受けてやがてその弟が牧師になりました。子供のことで悩んでいたお母さんが知り合いのクリスチャンに誘われて、家庭集会に出席するようになりました。そして、イエス様に出会い、このお母さんがクリスチャンになりました。皆、神様に選ばれたのです。私たちは、実を結ぶことが定められいます。それだけでなく、その実が残るのです。そのために、私たちには特権が用意されていて、何でもイエス様のお名前によって天の父に求めることができるのです。新型コロナウイルスよりも何倍もクリスチャンの方が感染力が強いのです。私たちは、まだまだ奇跡を体験できます。魂が滅ぶ前にイエス様のもとへ連れていかなければなりません。その人は、私たちが選ぶのではなく、神様が選んだ人が目の前に現れてくるのです。ですから、誰がその人かわからないので、いつでもイエス様を証しできるように準備していましょう。楽しみですね。
3月14日(土)
高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。
イザヤ57:15
今日の聖句をよく読んでみると、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人」がポイントだとわかるだろう。高く、聖なる神は、低く、へりくだる霊の人と共にいる、ということだ。逆のようになっているのが興味深い、律法学者たちが失敗した理由が察せられる。律法を守って正しい人になり、義となろう、というのでは自らの力で自らを高めて高くなり、神に認めてもらおうとしていることになるから、へりくだる霊の人とは逆の方向へ向かっていることになり、対照的だ。では、どうしたら「へりくだる霊の人」になれるのだろう。察しの良い人なら、これは、自分でなろうとしてなれるものではないと気がつくだろう。「打ち砕かれて」という言葉があるのだから、誰かに打ち砕かれているわけだ。もちろん、それは神のなさることだが、罪人の救いには欠かせないことなのだ。自己中心で自分のことが見えない罪人は、自分の問題がわからないので平気で生きられる。そこで、本人が気がつけない問題点を打ち砕くことを神がするのだが、本人の意思に反して勝手にするわけではない。分からないながらも本人が望んで始まるものだ。しかし、本人にとっては試練以外の何ものでもない。苦しいし、何とかしたくても自分の力ではどうすることもできない。さらには他の人の力でも助け出すことができない。砕かれるべきものが何か、早く気がつけばいいのだが、それができないのでいたずらに苦しむことになりやすい。それは、自分がよって立つものであり、自尊心や、高慢や、貪欲や、不安や、恐れであったりするからだ。それらを手放す怖さがあるのだろう。自分の大切なものを何もかも捨ててしまうような感じだから。そこで、神が愛であることを知る必要が出てくる。この愛があれば、あとはどうでもいいや、と思えるようになるかどうかだ。このように考えて、主のために無一物になって人生を新しく始めた人を「へりくだる霊の人」と言っている。まるでこの世のすべての富と神の愛を天秤にかけて、どちらを選ぶかと迫られるような状況に追いやられるわけだ。だからこそ、神の愛、イエスの恵みを知らなければ、選ぶことができないのだ。今、打ち砕かれている最中の人は、早く砕かれてしまえば、その後に本物のクリスチャンの人生が待っている。今までが肉で生きていたと認めるほどに、へりくだる霊の人になれるわけだ。この人が主から命を得られる人だ。
3月15日(日)
しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
Ⅰペトロ5:10
クリスチャンは清く正しく愛に生きるものですが、初めからうまくいく訳ではありません。何度も失敗を繰り返して成長して行きます。しかし、今日の聖句にもあるように、「しばらくの間苦しんだ」と言われるような試練の期間があるものです。もちろん、例外もあるのでしょうが、普通は何かしらの苦しみを経験することによって、古い人の手放さなかった宝を捨てさせるのです。もっとも、宝と言っても、天国では何の価値も無いものです。たいていは、この宝が持ち主を苦しめる元凶になっているのですが、本人は手放すことができないのです。しかし、試練を通して悔い改め、主に全てをゆだねることができるようになると、主はあなたを完全な者にしようと働きます。それだけではなく、強くし、力づけ、もう揺らぐことがないようにしてくださるのです。これらは、人間が作った戒律を守って義となろう、というようなこととは全く違っています。何しろ、神様が働いてこれらをすべて実現させるのです。だから、誰でも信じる者はこの課題を見事クリアーすることができます。肝心な点は、聖句の初めの部分です。「あらゆる恵みの源である神」と書かれている通り、主の恵みの中で全ては進んで行きます。だから、勇気を出して、主イエス・キリストに望みを置きましょう。
3月16日(月)
神の御心を行なって約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
ヘブライ10:36
聖徒たちの日々の歩みは、平凡でもいいのですが、嘘偽りがあってはいけません。正直に生きることが一番です。確かに、立派なクリスチャンになりたいと頑張っている人もいれば、何度も挫折して開き直っているようなクリスチャン もいます。それは、誤った思い込みがあって、出来もしないことを頑張ってやっては失敗することを繰り返し、その結果、中途半端な状態でいい加減になっているか、いたずらに苦しんでいるか、そんな人を増やしているのです。その人たちにとって、福音は理解されていないはずです。決して良い知らせは聞いていないのです。聞いても、自分の思い込みの方が強くて、恵みで義となるのに、自分の努力で義になろうとしているのです。しかし、自分の力では義となれないことを認めなければなりません。そこで、「悔い改め」という言葉が重要になります。自分で勝手に考えて自力で義となろうとして苦しんでいたことを認めて、聖書に書かれたことを無視していたことを神様に謝り、神様の憐れみによって自分を義としてくださるようにあらためてお願いします。それで、正常な福音を理解し信じることから始めます。そして、聖霊をもう一度注いでいただけるように祈ります。聖霊によって覚醒していただくのです。すると、目が開けて主の恵みによって自分が変えられていくことを受け入れることができます。そればかりか、主のために生きることを願い、御心を行いたいという願いが起こります。そこから始まり、悪魔の攻撃にも勝利し、聖書を理解できるようい聖霊が働かれるので、実際の生活と真理が結び合うように導かれます。時々、顔を表す肉の性質とは戦う必要があります。悪魔も諦めずに手を変え品を変え罠を仕掛けて誘惑を繰り返すでしょう。それらに主の御名によって勝利して行きます。このような中で、御霊の実を結ぶことを願って、クリスチャンとして生きていくのですが、忍耐が必要であることを誰もが実感することになります。互いに愛することも互いに受け入れ合うことも、忍耐が伴うでしょう。誤解されたり、中傷されたり、批判されたり、ひどい噂を流されることもあるでしょう、一生懸命にクリスチャンとして生きても報われないことが心を挫くかもしれません。それでも、私たちの目指す所は天国であり、それにふさわしいキリストの品性であり、イエス様のようになることなのです。だから、忍耐が必要です。へりくだらなければとてもできないことです。もっとも、私たちの先生であるイエス様がすでにその忍耐をやって見せてくださったのです。私たちの模範として、へこたれないように、ちゃんと見ているからと、励ましておられるのです。ありがたいことです。
3月17日(火)
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
ヘブル13:5
狭い日本に一億人を超えるほどのたくさんの人々がいるのに、孤独を覚えている人は意外なほど多いのです。人間関係で一旦傷つくと、自信を失ったり、臆病になったり、また失敗するのではないかと人との距離を取ってしまう人たちがいるのです。クリスチャンの強みは、実は信仰によって孤独を克服することができることです。それは、今日の御言葉にも明確に記されていますが、主が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」とお語りになっていることです。この約束は絶対です。たとえ、自分に非があって、責められてもしかたないような状況になっても、主は決して約束を反故にするようなことはしません。あなたのことを周りの皆んなが誤解して離れてしまっても、主はあなたを離れません。だから、あなたは最強でいられます。主が認めてくださるのですから、自信が湧いてきます。主に愛されていることがわかるので、人生が楽しくなり、生き生きとすることができるので、好転して行きます。クリスチャンは正しく生きるので、その道は真っ直ぐになり、大きなしっかりとした道となります。たとえ一人になっても、へこたれないでワシのように羽ばたきます。主が自分のことをありのままに認めてくださっているのに、自分で自分を責めるようなことはできません。だから、気楽になって、自由に生きようと思えるのです。信仰は御言葉をそのまま食べてしまうようなものです。まるで薬のように、このまま飲み込んでしまうのです。そうすれば、効果が現れてきます。今日の飲み込む御言葉はこれです。こんな泣かせることを言われて、私たちは主に何と応えましょう。ちょっとカッコ悪くてもいいから、「嬉しいです」と率直にお礼を言っときましょう。心が軽くなりますよ。
3月18日(水)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてのことに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
コロサイ3:12~14
クリスチャンとして何をすればいいのか、と思い巡らしている人は、今日の聖句を自分のものとしましょう。出発点は、神様に選ばれたことです。だから、自分の功績ではありません。では、神様に選ばれたことはどんな良いことがあるでしょう。それは、聖なる者にされたこと。そして、神様に愛されていることです。それゆえに、次のことは要求されています。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。御霊の賜物と重なるものもあります。柔和、寛容の二つです。御霊の賜物は、聖霊が内住して働かれることの結果生じるキリストの品性です。しかし、クリスチャンが信仰生活の中で、意図的に自分が身に着けるべきものとして理解しておくべきリストが今日の聖句に出てきたのです。赦し合うこともそうです、さらに結局、愛がなければ意味をなさないことが最後の言葉に表されています。ですから、クリスチャンは愛を自分の大きな課題として意識しながら生きているのです。それは、愛が全てを完成させるきずなとなっているからです。この愛の中に、ここに出てきた徳の全てが含まれているからです。聖霊が働いてくださって身に着ける品性だけではなく、聖霊が自分のために働いていてくださるからこそ、信仰を持って意識的にこれらの徳を身につけて行くことが奨励されているのです。この御言葉の通りになりますように。
3月19日(木)
そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
エフェソ5:20
クリスチャンは、人生の達人に慣れます。その秘訣は簡単で、誰にでもできます。その秘訣が書かれている箇所が今日の聖句なのです。例外なく「いつも」、「あらゆることについて」父なる神に感謝するのです。それは、ただ感謝するのではなく、主イエス・キリストの御名により感謝します。ここがポイントです。感謝すること自体がポジティブなので、自然と気持ちが明るくなり、楽しくなります。初めのうちは、意識的に感謝しなければならないでしょうが、神に感謝すること自体が楽しいことなので、自分の心から感謝が溢れ出すようになります。そして、すごいことが、「あらゆることについて」と書かれているので、良いことも悪いことも何でも感謝することになります。特に落ち込みやすい人は、感謝を習慣にすることです。そのためには、朝起きて一番初めに主への感謝を始めます。思いついたことは何でも感謝します。思い浮かばなければ、聖霊に助けていただくことです。「何を感謝すればいいですか。思い出させてください」と聖霊に頼みます。そして、焦らずにゆっくり待つのです。心に色々と思い浮かんでくるはずです。さらに積極的に感謝したい人は、主に祈りの奉仕を志願してみるといいと思います。今の時代はSNSのような便利なものがあるので、祈りのリクエストがやってきます。それが緊急なものなら、その場ですぐに祈りましょう。今日は、アメリカから帰国した人がオンラインで飛行機のチケットを買おうとしたら、停電し、その上パウポートが見つからないから祈って、というSOS がきました。それで祈ったのですが、その後、見つかって無事にチケットが買えたようで、感謝の連絡が入りました。これだけでも、神への感謝が出てきますよね。主がすぐに祈りに応えてくださることや、困っていてもすぐに助けてくださることがわかると感謝が自然と湧いてきますね。このようにして、主への感謝の達人になれるといいですね。
3月20日(金)
救いは主のもとにあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。
詩篇3:9
人は救いを必要としています。どんな人も例外ではありません。聖書を開いて読んだ人は、すぐに最初の人間であるアダムが罪を犯して堕落した話しを知ることになります。そこから始まり、あなたまで続いている罪の問題が人間を悩まし、本当の意味で幸せになることを阻んでいるのです。それどころか、神から離れ、神はいないと言い出します。この世でどんなに立派な人でも、神を認めることができない人は、大変気の毒な人たちです。罪の呪いがその人の人生に影をさしているからです。そのようなものがあるので、迷信と言っておきながら、不安を覚えると神仏にすがりたくなるのが人間です。厄介なことに、自分以外の人間をはなから信頼していないので、目に見えない大きな不安に気がつくと人間以上の確かな存在に頼りたくなるのです。しかし、本当に必要な救いは、人間以上の超越した力を持っている確かな存在でなければならないのですが、それが何であるのかを知りません。そういう人はそもそも自分の罪というものすら、知らないで生きているのです。ですから、人間の救いは罪からの救いです。ただ、罪だけでなく、罪の結果としての死からの救いも必要です。さらに、罪を犯すようにと誘惑する敵がいます。サタンです。このサタンは神のかたわらで人が罪を犯したと訴える者でもあります。ですから、サタンからの救いも必要なのです。この三つの罪、死、悪魔に勝利して、見事人間を救われたのが主イエス・キリストです。十字架は勝利のしるしです。人間はこのように主イエス・キリストに救われなければ、永遠に滅びるしかないのです。私たちは、このことを知り、主を信じて救われました。ですから、今日の聖句は真実であると知っています。救ってくださった主は、今日もあなたを祝福してくださいます。だから、自信を持って今日を生きましょう。
3月22日(日)
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
エペソ1:3
目に見える祝福と目に見えない祝福があります。どちらも人間にとっては良いものですが、価値が高いのはもちろん霊的な祝福の方です。罪人は、そのような霊的祝福をもらうことができません。確かに、神を信じていないと豪語するような人でも、事業に成功したり、この世の富を得たり、地位や名誉を自分の者としている人もいます。しかし、それらの目に見える祝福は長続きしません。また、目に見えるので悪い人たちから狙われて、横取りされるかもしれません。そして、何より徳を高めることと直接は関係ないのです。一方、霊的祝福は、永遠に結びつくもので、人をキリストに似た者へと変える力があります。どのような境遇うに置かれても、それに見事に処することができます。何より、神に近づくことができます。それは、霊的に神の国に入ることを意味しています。霊の体をもって実際に神の国に入るのは再臨の後ですが、罪人の知ることのなかった神の支配に服することが可能となるのです。一過性の喜びではなく、永続的な真の喜びがあるので、いつも喜ぶことでいつも霊的に神の国にとどまることができるのです。この世にある限り神の子か肉の子か、いつでもせめぎ合いがあるのですが、それを超越することが霊的祝福にはあるのです。神の愛がわかり、キリストの恵みが悟れ、聖霊の交わりが実際に体感できるのです。「天にあるすべての霊的祝福」ですから、この世にあって、クリスチャンはまだまだ素晴らしい経験ができるということです。これは、あなたに当てはまります。
3月22日(日)
しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。
箴言1:33
神様を信じている人には、実は多くの特権があります。その一つが今日の御言葉に書かれています。毎日報道されている新型コロナウイルスは、人々の不安をかき立てる力がありますが、それがいつ終わるかわからないことが重くのしかかってきます。しかし、このような世界的な疫病の脅威にさらされている時ですら、「安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである」と約束されているのです。もし、不安感にストレスを覚えている方は、この御言葉を唱えてください。その時、「わたしに聞き従う者は」と但し書きがあることに気がつくでしょう。つまり、信仰があることが条件なのです。もちろん、クリスチャンであれば、当然、主に聞き従う者ですから、だから大丈夫だと言えます。そこで、むやみに不安がる必要はありません。もちろん、危険を犯すような真似はいけませんが、常識の範疇で生きていけば、もう少し安らかにいられるはずです。それにしても、主の約束は心強いですね。主のお守りがあなたの上にありますように。
3月23日(月)
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
ヨハネ10:10、11
私たちは羊に喩えられています。そして、イエス様が羊飼いです。想像してみてください。羊が喜んで羊飼いのそばにいる絵が見えてきませんか。イエス様は、目的を持ってこの世に人となって来られました。それは、私たちが命を受けるためであると、おっしゃるのです。 それも、ちょっとではありません。豊かに命を受けることができるのです。どれぐらいかと言えば、この地上ならせいぜい百歳ぐらいでしょうが、そんなに小さな話ではなくて、この豊かに受ける命とは、永遠の命です。どうです、すごいですよね。この奇跡を実現するためには、私たちが永遠の命にふさわしいものとなる必要がありました。それは、罪の問題です。永遠の命にふさわしい場所は天国です。そこには罪はありません。罪があれば、老化があり、弱って病気になり、やがて死んでしまいます。だから、罪の問題を解決することが前提となっていないければなりません。そのために、イエス様は罪を完全に消し去るために、ご自分を犠牲とする事にして、私たちの罪の問題の完全な解決を実現されました。私たちはそれを決して忘れないように、十字架を掲げているのです。それにしても、あなたの羊飼いであるイエス様は、良い羊飼いであるとご自分で宣言されていますから、あなたは大変恵まれているのです。ですから、どんなことでも悩む必要がありません。もし、悩むことがあっても、良い羊飼いがあなたのために、すぐに最善を尽くされるのです。だから、自分のことだからと自分だけで解決しようと思ってはいけません。良い羊飼いイエス様に悩みを何でも打ち明ける事です。きっと心が軽くなりますよ。今日も羊飼いに従いましょう。
3月24日(火)
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召によって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
エペソ1:18、19
クリスチャンが恵まれているのは、信じて義とされる約束が聖書に書かれているからです。そこで、信じることがすべてと言っても良いのです。聖書には約束が書かれていますが、それはやはり神の恵みなのです。それもすべて信じていただくものです。そうすると、いとも簡単そうに思えてきますから、真面目な人は信じて救われたなら、今度は真面目に努力して正しい行いを続けなければいけないと考えるのです。確かに正しい行いは聖書にも出てきますから、間違いではありませんが、その前の信仰によって、の信仰がよく理解されていないように思います。そのために、結局は行いによる義になって行くのは、いかにも愚かなことです。行いによる義によっては救われないからです。まずは信仰のことを理解する必要があります。今日の聖句を読んでみると、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」と出てきます。信仰が重要なのは、人間の力で律法に調和して生きていけないので、神の力でその不可能を可能にしていただくことが必要なのです。そのために人間にできることで絶対に必要なことが信じることなのです。ところが、一見簡単そうに見える信仰が、信じきれないという私たちの弱さのために、働かないことがしばしばあるわけです。そのために、信じる信仰を育て、教える必要が生じます。ですから、クリスチャンは御心にかなった信仰を身につけるために、鍛えられているように見えるのです。自分の身に起こる全てが主に義と認められる信仰を得るために必要なことであると思えば、クリスチャンになってからの試練も自分の生い立ちの中に起こった様々な出来事も、ただ辛い経験であっただけではありません。その全てにキリストが関わって、癒し、救済し、正常に戻してくださるのです。それだけの偉大な御力を私たちは信じる必要があるのです。ですから、いろいろな知識やノウハウが自分を救うのではなく、主イエス・キリストを信じることから全てが益に変わり、真の救いを恵みとして味わい知るのです。信仰も主がたてあげてくださるので、力まずに、いつも喜んでいましょう。
3月25日(水)
何によらず手をつけた事は熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。
コヘレト9:10
人間は死ぬことが定められているので、それを避ける事はできない。死んだらすぐに天国へ行くのなら良いが、この世が終わる日までは眠っている事になる。だから、最後の裁きを待っている待合室のようなものだ。当然、仕事も何もない。そのことを覚えている人は、今生きている時間を大切にしようとするはずだ。そして、それが一番賢明ない事と言える。どのように生きても自由だが、何がしかの制限はあるだろう。それでも、自由が保証されている国なら、命を有意義に使おうとして、何かを始めることに意義があって、それが何であれ、いったん始めたら手をつけた事を熱心にする事が勧められている。もしかすると、それはかなり大変なことかもしれないが、簡単に投げ出す事はしない方が良い。死んだら何もできないから、できるうちに頑張ってみよう。死ぬ時になって後悔だけはしないように、今するべき事をし、やりたいと思っていた事を悔いの残らないように始めよう。始めたら、熱心にする事だ。私の義理の父は、亡くなる前に、「人生悔いなし」と言って眠りについた。うらやましい事だ。だから、つまらない思い込みや、人の目を気にして、やりたいこともやらなかったなどと最後に悔いないように、今始めよう。そして、なんとかやり遂げよう。「いつかやろう」とただ言っているだけの人は、自分が今すぐにでも死ぬかもしれない存在である事をちゃんと考えていない人だ。あなたは何か手をつけているだろうか。それは良い事だから、頑張って欲しい。神様はそんなあなたを祝福してくださる。
3月26日(木)
愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸を得、また健康であるように祈ります。
Ⅲヨハネ2
私たちは、今大きな危機の中に置かれているのかもしれません。もちろん、新型コロナウイルスの感染拡大の問題です。東日本大震災の時も大変な経験をしたのですが、今度は世界的な疫病です。聖書のことをよく知っている人には、これらは神様からの警告だと思えているでしょう。そして、先行きが見えずに我慢を強いられているとイライラするでしょう。まら、いったいどうなるのか正確な情報が随時公表されていないのではないかと疑心暗鬼になり、不安感が高まるわけです。しかし、クリスチャンの皆さんは、今日の御言葉のように、互いに祈り会うことが大切です。そして、この御言葉の意味を理解して、その通りと認めることです。つまり、世の中がどうなろうとも、信仰者は神様の支配の中にあるということです。神様はあなたのためにいつでも最善を尽くされるお方です。ですから、あなたを祝福したいのです。魂が幸を得ているだけではないのです。あなたが主から受けている幸は、すべてに及びます。そして、今なら健康が気になりますから、この健康も祝されていることを覚え、賛美しましょう。祈りの中で、平安を得ることが可能なのです。この恵みを他の人たちのためにも分かち合う祈りをしたいですね。ますます、心が満たされて、自分によくしてくださる神様を認めることができるはずです。
3月27日(金)
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
Ⅰコリント15:22
聖書の中で人間と名がつけられたのは最初の人アダムです。それは、まさに象徴的な名前です。まるで、アダムの後のすべての人間がアダムの中にあるようです。そして、アダムが罪を犯したために、すべての人が罪人となったというのです。なんとなく理不尽な気がしますね。自分が初めから罪人であるというのはいかにも残念なことです。さて、神様の人間救済はどのような方法でなされるかと言えば、それはまた奇妙な方法なのですが、第二のアダムを通してすべての人を救おうとするというものです。その第二のアダムこそがイエス・キリストだったのです。罪の性質の問題もありますが、人間は罪を自分の力だけでは克服できないのです。イスラエルの民で長い時間をかけてやってみた結果は旧約聖書に出ています。つまり、決定的に敗北です。そこで、新約聖書では行いによる義は無い、信仰による義によらなければ人は救われない、となっているのです。それでも、いつまでも律法を守らなければ救われないと言い続けて、自分自身守れない人が後を断ちません。パウロが教えていることがそんなにわかりにくいのかと驚きますが、それは、罪人を救うことが人間が思いもつかないような驚くような方法でなければならなかったことだったからです。つまり、神様でなければできない創造的な救済なのです。それほど驚くような方法なので、それを信じなければその人に効力が及ばないので、信仰による義をなんとか理解させようとされたのです。例えば、イエス・キリストが人間となってこの世に来られた事や、そのキリストが十字架で死ぬ事、そして三日目に復活する事など、どれも信じることがたやすくはありません。そして、さらにキリストが人間になって罪を犯さず、水と霊で洗礼を受け、荒野の試みに勝利し、預言をことごとく成就した公生涯。そして人間の罪を負って十字架で死んだこと。しかし、その十字架こそが罪に勝利することであったこと。さらに復活によって死にも勝利したのです。それは、父なる神から新しい霊を吹き込まれて復活の命を得た事、そのことから神の子であることを確定したこと。これらが、なんとすべて私たちを父なる神が義とするためであったことを福音と言っているのです。そして、それは、イエスを信じる信仰によるのです。だから、今日の御言葉は真実です。私たちも、キリストが道を作られた通りに進めば良いのです。それは、信じることから始まり、信じることで完成するのです。
3月28日(土)
あなたはわたしの右の手をとってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。あなたは御計らいに従ってわたしを導き、後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。
詩篇73:23~25
私たちが信仰を持ち続けられるのは、私たちが偉いからではありません。主が私たちの右の手を取られているからです。それだから、常に主の御もとにとどまれるのです。それがどんなに幸いなことか、もっと明確に理解できたらいいのにと思います。私たちの人生の歩みは偶然とかついている、ついていない、と行ったような不確かなものではありません。全能の主があなたのことをちゃんと考えてくださり、あなたにとって最善の道が何であるか吟味して導かれているのです。そして、この人生の目的をはたしたら、ちょうど良い時に天に召されるのです。私たちはこの地上生涯の間、信仰の道を進みます。失敗も多いでしょうが、自分を見るのではなくイエス様を見上げることを覚え、そのために主に愛されていることを知ったのです。そうなると、信仰は楽しいものとなります。そして、主を愛することも喜びとなります。歳と共に主が良くしてくださることがはっきりわかるようになるので、自然と感謝が湧いてくるのです。この地上でも自分を愛してくれる者を好きになるように、私たちは主が大好きです。主を慕って愛しているので、天におられる主も私たちを特別に大切にして助けてくださるのです。嬉しいことですね。
3月29日(日)
憐れんでください、神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし、災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします。いと高き神を呼びます、わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。
詩篇57:2、3
賛美歌に「わが主のつばさのかげに」という曲があります。その歌詞は、
わが主のつばさのかげに 安けくわれは憩わん
嵐吹く暗き夜も つねに守りたまえば
みつばさのかげに 逃れて憩わん
心はとこしえに 主にありて安し
私たちは、この世にある限り、日々不安が忍び寄って来るような状況に置かれています。ですから、確かなことが予測できないのです。今も、人類は生き延びるために新型コロナウイルスと戦っています。このようなことは今までもあって、これからもあるでしょう。その時、人々は不安になり、食べ物やトイレットベーパーやマスクなど、買わずにはいられなくなるのです。そのような報道を見れば、全く必要のない人まで買いに走ります。その異常さに恐れ、疲れ切ってしまうのです。私たちもそのような社会に生きているので、不安が怒るかもしれませんが、今日の聖句こそ、私たちの祈りなのです。そして、賛美すれば、心に平安が戻ります。私たちは神様知っているので、呼ぶことができるのです。その神様を私たちは詩篇詩人と同じように知っています。「わたしのために何事も成し遂げてくださる神を」。だから、忍耐することもできるし、心を落ち着かせて喜びすら感じて災いの過ぎ去るまで、主の御翼の陰を避けどころとすることができるのです。
3月30日(月)
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マルコ2:17
「なるほど、それで自分は救われたのか」こう思った人は、私ばかりではないだろう。イエス様の周りには実にいろいろな人がいて、どの人もみな嬉しそうだった。差別されない嬉しさというのがある。世界は不公平に満ちていて、至る所に不満があるが、その中でも人間の尊厳に関わるような差別はもっとも人を傷つけるものだ。特にイエスのことで驚くのは、宗教家であるのに、罪人と一緒に食卓につくことだった。当時のイエスラエルでは、それは禁じられていたことだった。しかし、イエスの言葉を聞くとなるほどと納得できる。そこで、急に聖人の真似事をしてもうまくいくわけはないのだが、クリスチャンらしく振る舞おうとするあまり、勘違いを起こす人も出て来てしまう。ファリサイ派の人の律法主義を笑いながら、実は自分も同じような過ちを犯すことがあるのだ。そうならないために、イエスの言葉を考えてみると、「罪人を招くために」とあるのだから、自分が罪人であることを認めたことを思い出す必要がある。そして、病人の話も出て来たから、病人でもあると認めることだ。そうすれば、医者となってイエスが治してくださる。そういう存在であると理解できれば、クリスチャンだからと気負うこともないし、失敗しても、治療中と思えるし、イエスが自分の主治医なので神の手で癒してくださるはずだ。罪人だったので、多く赦していただき、大きな恵みをいただいている。だから、人と比べないで生きていける。自分でできることは一生懸命やるけれど、できないこともあるので、素直に認めよう。愛を学ぶことが一番の課題だから、毎日授業があるはずだ。自分がやっていることがことごとく愛の訓練であることを覚えていよう。どんなことでも愛で見てみよう。それは楽しいことだ。聖人ではないかもしれないが、主が聖なる者としてくださる。だから、恐れ多くてへりくだざるをえないのだ。しかし、毎日リラックスして、愛の訓練を受けていると思って生活しよう。元罪人仲間達も元気だといいなぁ。
3月31日(火)
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という希望があるからです。
ピリピ3:9
今日の聖句を読めば、驚くしかないことが書かれています。「律法による自分の義ではなくて」と書いてあるからです。つまり、自分が律法を頑張って守り、義となるのではないということです。クリスチャンは、「キリストを信じる信仰による義」という言葉を聞かされて来たのですが、正しく理解しているかどうかは怪しいのです。というのも、相変わらず自分の行いによる義にこだわっているからです。これはもう無意識のうちにそうなっていると言いたくなるほどです。ですから、「信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」と聞いてもピンとこないようです。どこまでも、立派にならなければいけないと思い込んでいるのです。神様の御目で見て合格と言われるようなことであれば良いのですが、我々は思っている以上に罪深いのです。心のどこかでは、義になれないことを認めないわけにはいかないのですが、クリスチャンになったのだから、なんとか清く正しく生きなければならない、と思い込んでしまっているのです。ところが、聖書は「神から与えられる義を持つことができる」と書いてあるのですから、何か変です。もっとも、「信仰に基づいて」とあるために、この信仰が問題になってきます。残念ですが、人間はあまりにも不信仰であるから、そこから脱却しなければなりません。不信仰と言っている意味は、今日の聖句のはじめにあります。「キリストの中にある者と認められ」という箇所です。これはパウロによれば、この世の人間的な誇り、つまり家柄や地位や名声に学歴や熱心さ、律法の義など、まさに肉の誇りですが、それらが主イエス・キリストを知る素晴らしさの故に、「一切を損失とみています」と激変しています。肉的に正しい価値あるものと思っていたものが、すべて塵芥のように見なしているのです。その理由は、「キリストの内にいる者と認められるためです」とパウロは言います。ここがわかりにくいので、多くの人は、どうしても肉の内にとどまってしまい、そのために肉で聖なる者になろうとすることになります。結局、自分の力で義になろうとしているのです。それはダメだと知っているのにです。パウロから学べることは、クリスチャンが焦点を当てるべきは、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められる」ことです。これが信仰によって達成することです。ではどうするか、ピリピをもう一度読んで研究してみましょう。