2020年5月ディボーション

5月1日(金)

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのために執り成してくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のために執り成してくださるからです。

ローマ8:26、27 

 

どう祈ったらいいのかわからない、と訴える人が少なくありません。確かに、個人的な事情から祈る事が必要なのに、どう祈ればいいのかわからない、という事があるものです。しかし、心配することはありません。クリスチャンであれば、聖霊が内側にいるのですから、それも個人的な助け主としておられるので、助けてくださいます。興味深いのは、言葉で執り成すのかと思えば、言いようもない深いうめきによって執り成してくださるというのです。祈っていて、どうしても言葉にできない場合に、あきらめて祈りを止めるのではなく、聖霊に任せてみるのです。何より、どう祈れば良いのかわからない時に、無闇に何か言えば良いというわけではないという事です。それよりも、自分の思いを聖霊が理解してくださり、神様の御心にかなった執り成しをしていただけると信頼することです。しばらく、黙って静まり、主の御前にとどまることも良いことです。あなたのことをいつも気遣い、心配していてくださる聖霊があなたの個人的な弁護者なのですから心強いですね。

 

 

5月2日(土)

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

Ⅰコリンと10:13

 

確かに、今回の新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言など、人と会うな、外出を自粛しろ、と普通の生活ができなくなって長い期間我慢を強いられてきました。そして、もうすぐその期間が終わると思っていたら、期間の延長をするというのだから、明らかにこれらは試練に違いありません。感染してもいい人などいませんから、万が一命を失っては後悔しかないでしょう。そこで、文句の一つでも言いたくなるのはわかります。しかし、クリスチャンは別の見方をしています。今日の聖句のように考えることもその一つです。もともと、試練は良い意味があります。試練があって初めて、罪の温床となっていた古い人を砕く事ができます。理性だけでは変えられなかった罪人の生き方が、死んだように取り除かれるのです。ただ、信仰者の成長に欠かせないからと言っても、本当に倒れてしまったり、起き上がれなくなってしまっては意味がないのです。かたくなな心が砕かれ、主に従順になれるなら、どれほど信仰の恵みの素晴らしさを味わい知る事ができるでしょう。そこで、ただ厳しいだけではいけないし、本当に辛くて耐えられないというのでもいけないのです。それは、人の心は耐えられなくなるといじけてしまうからです。心がしっかりしていなければ、信仰を育むことなどできないのです。そこで、聖徒らが、試練に遭うと、すぐに逃れる道も備えられるます。だから、辛い思いをする時には、絶望してはいけないし、やけになってもいけません。落ち着いて、主に祈るのです。そして、自分に何が問題でこのような試練に遭っているのか考えてみましょう。聖霊は答えにたどりつくように導いてくださいます。そして、危険だと思えば、すぐに逃れ道を示します。ただ、試練によってその人が大きく成長し、信仰の階段を駆け上がることはしばしばみられることなのです。ですから、今も、私たちは何か悟る必要があります。聖書を調べ、考えてみましょう。信仰を働かせれば、この時期も決して悪くはないかもしれません。きっと、主は思わぬ喜びさえ用意されていると思います。

 

5月3日(日)

どうか 、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる良い業を行って実を結び、神をますます知るように。

コロサイ1:9、10 

 

神の御心を知る事は、私たちの大きな願いです。それは、私たちの考えや行いの全てで主に喜んでいただきたいからです。聖書を読むとわかる事は、なんと多くの人間が神の御心を知ろうとしないで失敗を犯すかという事です。もちろん、人間が神の御心を全て理解する事は難しいです。しかし、聖霊は、神の御心を理解し、それを人間に伝え悟らす事ができるのです。私たちも過去を振り返ると、神の御心を知ろうとは考えないで自分勝手に生きてひどい目に遭ってしまう事が多いのです。信仰が正常に成長すると、主の御心を聞くようになります。そして、聖霊に頼るのです。自分の悟りに頼るな、という言葉は、聖霊に聞かず、神の御心を無視して自分勝手な判断で生きてはならないという知恵です。人間は、主に従順にならないと、真実ではなく勝手な妄想で人の思いを図ったり、人間の意図を判断してしまう事があるのです。しかし、それが何と不確かで当てにならないか、なかなか理解できずに、失敗を繰り返す危険があるのです。自分の利益にはなっていないので、多くの場合悪魔からの誘惑にあっていたと反省すると良いのです。何を求めるか、方向を誤ってはいけません。正しい判断は、今日の身言葉の通りです。クリスチャンの幸せは主に喜ばれる事です。そのために、主に従って歩む事を心がけましょう。聖霊が聖句の通りに働いてくださる事を実際に体験しましょう。人生は好転します。クリスチャンの幸福を実現しましょう。

 

5月4日(月)

 

そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びを持って、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。

コロサイ1:11、12

 

クリスチャンの特権の一つは、「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ」ている事です。おそらく、信仰を試されるような状況になった時に、あなたはこの力を体験しているはずです。まだ、気がついていないのなら、今日、御言葉を信じてこの不思議な主から来るあらゆる力によって強められている事を知ってください。この使い道は、自分を高めたり、人を踏みつけるためのものではありません。もっと素晴らしい事です。それは、今のコロナウイルス騒動のような時に、根気強く耐え忍ぶ事ができる力です。その不思議な力を既に、あなたはいただいていますから、ぜひ主を信頼して、あらゆる力によって強められてください。それから、そのような特権にあずかっているだけではありません。政府は十万円くださるそうですでが、神様は、聖なる者たちの相続分に、あなたもあずかれるようにしてくださったのです。お金などに換算する事ができないほど超越した永遠の富です。相続できるのは家族ですから、あなたも神様の家族になったという事です。それは、この地上のどんな喜びよりもはるかにすごい事なのです。ですから、天の父なる神様に感謝しましょう。いつもいつも感謝しましょう。そして、喜んでください。やがて、その素晴らしさをあなたは満喫することになります。それは、決して遠くはありません。でも、先取りして、喜んでいましょう。主を賛美いたしましょう。

 

5月5日(火)

聖書にも「主を信じる者は、だれも失望する事がない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられます。ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

ローマ10:11~13

 

あなたは主の名を呼び求めたので、救われました。聖書に書かれている通りです。主は、人種に関係なく、誰でも主の名を呼び求める者を豊かにお恵みになります。それを私たちが忘れなければ、世の中がどうなろうとも、不安になったり心配する必要はありません。あなたの生活のことを心配されるのは主です。将来のことも見通して良い道を示されます。だから、良い道を選べばいいのです。しかし、人生は選択を自由にできるようになっているのですが、その選択を誤ると、当然その結果もついてきます。ですから、その結果が悪いと、初めの選択が間違っていたと反省すれば良いのですが、そうしないで悪い結果に負けてしまう人も出てきます。そんな事は絶対に避けたいですね。神様が良い道を備えていても、それを選ばない選択もできるのは、神様が私たちを愛しておられるので、私たちを尊重して自由にしてくださるからです。本来は、その神様の愛に答えて神様を愛する存在が私たちなのです。しかし、悪魔の誘惑に負けたり、逆に良い道を選ぶ事が自分にはできないと偽りの考えを悪魔に植え付けられて、選択を誤るのです。ですから、私たちは救いの原点にいつでも立ち戻る事が肝心です。それは、「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」という真理です。私たちはいつでも人生を自分勝手に生きないのです。主を信じているのですから、主の名を慕い、その名を呼び求めて生きて行くのです。そこには、「ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」という約束があります。この中に、あなたが含まれています。ですから、あなたの人生は豊かに恵まれているのです。

 

5月6日(水)

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、・・・

ヘブル5:8

 

キリストは、私たちの模範です。信仰の拠り所であり、慰めであります。どんな時でも希望を与え、暗くなった心を照らす光なのです。このキリストを人生の道として歩む人は、幸いです。そのキリストから私たちは多くを学ぶのですが、教訓もあります。それは、クリスチャンにとって最も大切な課題である神への従順を身に着ける事です。それは、知的に学ぶだけでは達成できません。ですから聖書を読む人は、従順がたせいつである事を知る事はできますが、それを達成する事が難しいのです。では、どうすれば良いのか。その答えは、キリストが人になって実践して見せてくださったのです。それは、「お受けになった多くの苦しみによって従順を学」ばれたのです。そこで、信仰生活を振り返ると、必ずしも順風満帆で嵐の日は無かったとは言えない事に気がつくでしょう。試練があったはずです。祈らないではいられない経験です。その苦しい経験を信仰によって乗り越え、祈りで勝利する中で、神への従順を学んできたのです。自尊心が砕かれ、高い鼻が折られ、「私が、私が」という自己主張が吹き飛んだのです。気づけば、謙遜にする事が自然になるようにと心が変えられました。他人に心を乱されることもまだあるでしょうが、それもやがて無くなり、キリストに似た者ヘと近づいて行くのです。そして、キリストのなされた事の意味をありがたく理解するようになるわけです。主に感謝しましょう。

 

5月7日(木)

私は、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

子供ころ、大人になって今のようになると想像していたでしょうか。誰しも、将来のことは分からないのです。もしかすると外国に移住しているかもしれないし、グローバル化と言われる世界では、外国人と結婚する事だってあり得る事なのです。高齢になってから南極に行ったという女性の信者さんに会ったことがあります。また、良い会社に勤めていても、何か物足りなかったり、何かが違うと思えて、転職を考えている人は少なくありません。それから、以前から憧れていた仕事にどうしても付きたいからと努力して夢を実現させる人もいます。大学教授になった人が牧師になりたいと言ったり、高級官僚になった人が牧師になりたいと言い、医者になった人がやっぱり牧師になりたいと言っていましたが、それはかないませんでした。牧師になりたいと思う人は多いのですが、なれる人は少ないのです。そして、牧師になっても実際はとても大変だからとやめてしまう人もいます。せっかく牧師になったのに、司法試験が受かったから弁護士になった人もいれば、カウンセラーに転職した人もいました。いろいろな人の進路相談を受けてきましたが、何が良いかは人によって違うし、人間的に良いと思っても、神様の御心でなければ意味がありません。収入の多い仕事についても信仰を失えば大変なことです。それよりも、人には神様が定めた天命があるものです。それを知ることが重要だと思います。神様は、私たちに毎日が憂鬱になるような大変な仕事を押し付ける事はありません。その反対です。その人にとっては、楽で楽しいと思えるような仕事を、しかもやりがいがあって、きっと誰かのために役立っている仕事を与えてくださるのです。人生が面白いのは、働かなくても良い人もいることです。でも、神様の御用はそれぞれにあるのです。ですから、今日の御言葉の通りに、行くべき道を教えていただけるように、お祈りすることが必要です。それから、信仰があれば、主の助言も理解できるはずです。主は、あなたを大事にしてくださるので、目を留めていてくださいます。ですから、人生は何歳になっても良いものとなるのです。あなたの行くべき道が何か、主に教えていただきましょう。

 

5月8日(金)

かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。

申命記23:5

 

アダムが罪を犯した後の世界は、いつ呪いを受けるかわからない世界となりました。そもそもアダムとエバが呪いを受けて、それが今日まで続いています。裏の空き地にイバラが茂ってきたのですが、それを見るたびにアダムへの呪いを思い出してしまいます。自分がいくら頑張って正しく生きても、先祖の誰かが罪を犯してのろいを受けていたら、などと考えれば誰にでも呪いの心配があるものです。聖書には呪いのリストまであって、祝福のそれよりも遥かに多いのです。しかも子孫にまで呪いが及ぶのです。ですから、人間はすべて罪ゆえに呪われていると言っても過言ではありません。しかし、ありがたい事に、主イエス・キリストが預言の成就として罪人を救いに来てくださいました。それは罪の赦しのためだけではなかったのです。主は、私たちの呪いからの解放のためにも十字架にかかってくださったのです。それは、呪いのリストが書かれた申命記にすでに約束されていました。そして、「どうして私のような者を助けて、呪いから解放し、さらに祝福まで与えられるのだろう」という素朴な疑問にも答えていました。「あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである」と。

 

5月9日(土)

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によってくるのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

Ⅰコリント15:20~22

 

毎年たくさんの人が亡くなっています。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大で、大勢の方が亡くなりました。人は亡くなれば、それで終わりです。どんなに財産を築いても持っていくことはできません。死んでも持っていけるのは、品性だけです。命の日の限り、私たちは信仰によって生きているのですが、それはまたキリストに似た者へと聖霊に変えていただく期間なのです。そして、その結果として品性を整え身につけるのです。もし、復活がなければ、それも意味が無いことになりますが、キリストは三日目に墓から復活したのです。それがどれほど大きなことであるか、多くの人は知りません。すべての人に関係する重大なことなのに無頓着なのです。人の死が身近に迫れば、途端に死の恐怖におののくのですが、それは死が怖いだけではなく、死後どうなるのか知らないから余計に恐ろしいのです。確かに、すべての人が死ぬように、すべての人が罪人なのです。罪があるから人は死ぬのです。初めの人アダムが死んでから、子孫は死から逃れる事ができません。そして、私たちの順番になりました。私たちは幸い、イエス様を信じて救われましたから、生かされることになりました。たとえ死んでも生きる、とイエス様がおっしゃった通りになります。ですから、救いとは、罪と死に対する勝利である事がよくわかります。あなたも、主を信じているのでキリストによって生かされます。再臨が遅れて、眠りについたとしても、再臨の日に必ず目覚めて復活したあなたは、空中に引き上げられて自分の目で王の王である主イエス・キリストを見るのです。その日のために、今を生きましょう。

 

5月10日(日)

わたしはあなたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

Ⅰコリント15:51、52

 

人間の問題は、死んでしまうことです。死ほど残酷なものはありません。何もかも一瞬のうちに無にしてしまうからです。どんなに善い事をしていても、善行を積んだと人に認められても、生きたいと願っていても、死は無情にも人の命を奪ってしまうのです。クリスチャンは、それでも希望が与えれています。死の眠りについても、再臨の日にラッパの音とともに復活するというのです。しかも、それは今の姿ではありません。肉は衰え朽ちてしまいますが、今度は霊の体が与えられるというのです。想像もつかない事ですが、「最後のアダム(イエス・キリストのこと。筆者注)は命を与える霊となったのです」(46節)と書いてありますから、もう歳を取るような、病気になってしまうような、そして衰えるて朽ちるような者に復活するのではなく、永遠に耐えることのできる超越した姿で復活するのです。この地上のクリスチャン生活が何十年と続いたとしても、復活の後ではあっとういう間の出来事に過ぎないのです。ですから、信仰によって祝福された人生を送り、たとえしばしの眠りについても、その後の復活が希望なのです。そのために、イエス・キリストは復活されたのです。なんとありがたいことでしょう。主に感謝いたします。

 

5月11日(月)

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

ガラテヤ5:1

 

私たちは、キリストの物語を福音書を読んで知りました。当時の祭司やファリサイ人や律法学者など、どうみても悪役です。そして、実際にイエスを十字架につけて殺したのです。おかしな話です。宗教家たちは、律法を教え守り義となるための指導者であったのですが、イエスはまるで彼らとは違っていました。宗教家たちが嫌い、差別しているように見える社会の底辺にいるような人たちをも愛し、いたわり、病や障害を癒し、悪霊を追い出し、罪人たちと一緒に食事をしました。どちらが好ましいかは一目瞭然で、イエスの方が断然素晴らしいのです。だから、私たちもイエスの側にいるべきですが、驚くことに当時の宗教家と同じ側に今でもいる人たちが多いのです。どうしてかと言えば、イエスがして見せた癒しや悪霊追い出しや奇跡が起きないからです。使徒言行録などにみられる初代教会では使徒だけではなくステファノなど指導者たちも奇跡を行なっていました。これが教会のオリジナルです。ところが現代では、こうした奇跡は終わってしまったと言ってはばからない宗教家や学者が多くいます。本当でしょうか。パウロに言わせれば、それこそが奴隷だと言われるでしょう。私たちは自由を得たのです。人間の常識に縛られないで、聖書をそのまま本当のことであると信じる自由です。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。」「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行なっていた。」(使徒言行録5:12、6:8)。これは、天の国の力です。聖霊が主を信じる者の上に降り、神の支配が始まったのです。罪や肉はそれらを理解できずに阻んでいたのです。だから、キリストが必要でした。そして、キリストは私たちの救いのためにやってくださったのです。自由にしてくださったのです。だから、疑わずにイエスを信じましょう。そうすれば、人間的には救われないと思っているような人でも、主は救いたいと思っている事が理解できます。誰にでも、神の愛は向けられています。人間のようにはあきらめません。その証拠が十字架に主イエスがつかれたことです。そして、罪深い者たちがたくさん救われたのです。新しく生まれ変わって、新しい命に生きる事ができるのです。それが自由になることです。

 

5月12日(火)

主よ、わたしを見捨てないでください。

わたしの神よ。遠く離れないでください。

わたしの救い、わたしの主よ

すぐにわたしを助けてください。

詩篇38:22、23

 

見捨てられたと感じるような時、つまり、何か困った事が起こり、自分の力ではどうしようもないような事が身に迫る時、あなたは不安を感じ、途方に暮れるかもしれない。でも、あなたには信仰がある。幸いなことに、あなたの神は全能で憐れみに富んでいるお方だ。それで、あなたが一生懸命に祈っている時、主はあなたの祈りを身を乗り出してしっかり聞いておられる。あなたを襲う闇が暗ければ、あなたは「主よ、わたしを見捨てないでください」と言うだろう。それは、自分に自信が無く、主が喜んで救ってくださるかどうかわかないからだ。完全ならいいのだけれど、いたらない事が多いのを知っているから。こんな私では、神は遠く離れて行ってしまうのではないか。それでも、主にすがり、祈る。「わたしの救い、わたしの主よ、すぐにわたしを助けてください」。主は、祈りを聞いて、深く憐まれ、膝をかがめてあなたを助け起こしてくださる。主は、あなたを必ず助けてくださる。あなたが思っている以上に良くしてくださる。完全な助けをあなたは知ることになる。主は力強い。主を賛美せよ。

 

5月13日(水)

兄弟たち、わたし自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピ3:13

 

クリスチャンは、マラソンランナーのような者です。しかも、実際に走るのは嫌いな人も、バプテスマを受けた時からスタートしたのです。こうなれば、なんとしても完走して、賞をいただきたいですね。そのレースの秘訣が描かれているのですが、「なすべきことは一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・目標目指してひたすら走ることです」とパウロは言います。日本人はマラソンや駅伝が好きですが、苦しくても走る事をやめずに、何がなんでもひたすら走る選手の姿に感動するのです。信仰者の人生は、このマラソンレースの選手のようなものだと言うのです。ゴールの競技場は、天国にあります。勝利者には、月桂樹の冠ではなく、本物の宝石が散りばめられた王冠が神様から与えられます。ですから、この世の人のように、後ろを向いてはため息をついたり、後悔するようなことはしません。あくまで前向きなんです。後ばかり向いている競技者なんていません。皆んな前を向いてい、自分の前の人を追いかけて行きます。ですから、私たちも、過去のことでいつまでも未練たらしくクヨクヨしません。過去のトラウマなど全てのことをイエス様が十字架で解決しているから大丈夫と証明してくださっています。ですから、これからのレースの方がずっと重要です。自分のペースがありますから、人と比べてばかりいると失敗します。ありがたいことに聖霊がコーチです。給水場では、自分のためのスペシャルドリンクを飲むように、私たちも必要なところで聖霊を注いでいただきます。「賞を得るために」と励まされていまさから、ひたすら走りましょう。このレースに出場できて光栄なのです。だから、安心して気持ちよく颯爽と走り抜けて行きましょう。

 

5月14日(木)

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

ハバクク1:3

 

聖書の中には不思議な言葉が出てきますが、これもその一つです。神様は時に、聖書の中から答えてくださる事があります。今日の聖句も、ある人には分かる特別な言葉です。テレビで人気のタレントたちが、自分がいかにせっかちか競うように話していました。確かに、日本人はせっかちです。のんびりしている南国のフィリピンでしばらく暮らしていた時のこと、日本からビジネスマンのクリスチャンのためのセミナーに参加するために、十数名の団体がやって来ました。その中の引率の先輩牧師の一人が、セミナーに飽きて、お土産を買いたいと言い出し、案内することになりました。タクシーに乗るとすぐに渋滞が始まり、ノロノロ運転になりました。すると日本から来た先輩牧師がイライラし始めて、文句を言い出したのです。タクシー運転手も呆れる始末で、今にも飛び降りて走り出しそうでした。もう、デパートが見えているので、すぐに着く距離なのに、我慢できないのです。このような時に、今日の聖句を言えば、どうなっていたでしょう。せっかちな人にとって、忍耐を要求される信仰の道はさぞや大変でしょう。ただ、今、ちょうど待っている人にとっては、これは神様からのお答えではないでしょうか。私も、今まで困った事がなかったとは言いませんが、それらをすっかり忘れるぐらい、神様の助けはちょうど良い時に来ました。私が遅いと思っていても、後で振り返れば、それは遅れることはなかったのです。ですから、それは必ず来ることを忘れないでください。遅くなることはありません。

 

5月15日(金)

なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の”霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

ヘブライ9:13、14

 

旧約聖書が好きと言う人がいます。その反対に旧約聖書の神様は恐ろしいので、新約聖書が好きと言う人もいます。クリスチャンでも聖所の働きを良く知らない人は少なくありません。特にレビ記のような献げ物の規定などつまらないと思う人は多いはずです。ところが、聖書は罪人の罪をどのように解決するか、つまり、罪人を救うにはどのように罪を贖うか、という説明が書かれています。もちろん、それは、イスラエルの歴史の中で実際に本体の影のように、聖所で定められた清い動物を犠牲とすることで罪の贖いを理解させました。メシアはやがて預言の成就として現れ、雄山羊や雄牛の血の本体として十字架で血を流しました。雌牛の灰も清めのために使いましたが、汚れた者たちを聖なる者にするとされていたのです。それならば、本体であるキリストの血こそが、私たちを清め、聖なる者とする事ができるはずです。イスラエルの民の問題は、宗教儀式を守る事や律法を守る事で義となると思っていた事です。そのために、良心まで麻痺してしまったのです。雄山羊や雄牛の血で人が救われるはずもなく、キリストの血によらなければならなかったのです。そして、キリストの十字架と血は、信じる者に清めを与えるだけでなく、ようやく生ける神様を礼拝するようにさせたのです。儀式を守る満足ではなく、神様が身近に、しかも祭司を通さず直接に交わる事ができることを可能にしたのです。それなので、一人で神様を礼拝することを覚える事が大きな祝福となります。今のように、皆んなで揃って礼拝する事ができなくなってくると、個人礼拝の習慣がなかった人たちは困ったわけです。個人礼拝も習慣なので、自分のやり方で良いので、神様を礼拝する時を持つならば、霊的な恵みを実感できます。短い時間でも良いので、神様を礼拝しましょう。

 

5月16日(土)

主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神。

詩篇68:20、21

 

子供が幼い頃、公園のアスレチックのような危険な遊具で遊ぶ時に、親は子供が高い所から落下しないように、下から支えたり、落下しないように待ち受けたり、子供と一緒に高い所まで登って行ったり、と子供の安全を第一に考えていつでも助ける事ができるようにしています。子供は自由気ままに、自分のやりたい放題するのですが、親はそれを無理やりやめさせたりはしないのです。神様と私たちの関係は、まさにこのような関係です。私たちの神様は、毎日、休みなく私たちを担っているのです。困っている時には助けてくださる神様です。その姿は、子供のためなら、恥も外聞も気にせずに、遊具に上り、子供の後について行き、ハラハラしながらも優しく見守っていて、危険なところでは、そっと後ろから手を差し伸べて支えてくれる父親のようです。そして、何よりもすごいのは、「死から解き放つ神」様なのです。たとえ死んでも死なないという事です。人間は、「罪と死」が本当に恐ろしいのですが、普段は全くその意味がわかりません。しかし、医師に「余命三ヶ月」などと言われると、途端に恐ろしくなります。「罪」も全く同じです。しかし、罪も死も、普通の時には実感が全くないのです。そして、リアルに実感する時には、もう手遅れとなるのですから、残酷です。ところが、私たちの神様は、罪からの解放、そして死からも解放してくださったのです。これが私たちの救いです。

 

5月17日(日)

しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である神を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。

ヤコブ3:8~10 

 

私たちは舌の恐ろしさを理解しなければなりません。もともと罪の特徴である自己中心性が長い間自分を支配していたので、クリスチャンになってもそれが信仰の妨げになっています。例えば、食事中に醤油をかけている時に、減塩のために少しだけにしようと注意しながなら数滴たらしてやめた途端に、醤油をかけすぎてはダメ!と強く言われると、どうでしょう。日常の些細な事です。自分は正しいことを見つけて、相手のことを思って言ってあげたんだ、と思っていても、言われた相手は、素直にありがとうとは思えないのです。こんなことを繰り返すと、言われた方が怒りだすかもしれません。問題は、正しいことだからと何でも思ったことを言ってはいけないといことです。舌の怖さは長く生きていれば、何度も痛い目にあって知っているのですが、なかなかうまくいかないのです。本当に相手のことを思いやったら、多分言わないはずですが、気を抜いて自分の内側から言ってはいけない事を簡単に出してしまうのが人間の愚かさなのです。「自分の口と舌を守る人は、苦難から自分を守る人」(箴言21:23)なのです。何で相手が怒っているのか、それはほとんどの場合、自分が何も考えずに舌で相手を傷つけているからです。気づけない理由は、自分は正しいと思っているからです。何でも考えずに言っていいとは限らないのです。「人は口の結ぶ実によって腹を満たし、唇のもたらすものによって飽き足りる」(箴言18:20)と聖書は教訓を与えています。今、巷では皆マスクをしていますが、まさに舌を制御しなさいと啓示を受けているかのようです。「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」(箴言12:18)。癒す舌の人になりたいですね。

 

 

 5月18日(月)

わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

ヨハネ6:40

 

イエス様を信じるという事がどれほど、すごい事か、今日の御言葉を読むと改めて驚きます。若い頃は、自分を信じてもっと大変な努力をして、ようやく上手くいけば永遠の命を得られると思っていました。そのために、安息日を守って、いろいろ大変な事もみんなやって、それでもまだまだ足りないからと、きりの無いことをしていました。さらに聖書を勉強すればどうにかなるかもしれないと、神学校も卒業しましたが、ちっとも悟った気がしませんでした。でも、その分、神学や聖書学が少しはわかってきたと思ったものです。しかし、極めるには気の遠くなるような努力と学びが必要であるとも分かったのです。それでも、若かったので、向こう見ずにも学び続けようと思ったのです。ところが、神様は私を牧師にしました。そして、神学校では教えることのできない事を直接教え始めたのです。まさに鍛錬でしたが、それで、目が開かれました。神様が愛であると知識で知っていたのが、愛されて直接知りました。聖霊によって、真理がわかるようになってきました。奇跡も起こり、神の国に生きている事を実感したのです。そして、それからも長い年月をかけて、学びは続きました。それで何もかも全部わかったというような事は言えませんが、もっと重要な事がわかってきました。それは、今日の御言葉が真実であるという事です。福音は、悔い改めて、イエス様を信じる事で救われる、というものですが、もっと突き詰めると、私たちの側に救いにふさわしいものを何も求めていないという事です。救いの根拠は、私たちの功績ではありません。救いはただ一つ、御子イエス様を見て信じる事です。今日の聖句では、当時の人たちがイエス様を見て、信じる事が言われていたと思いますが、現代ではクリスチャンを通してイエス様を信じる、という事です。つまり、あなたを見て、イエス様を見るという事です。それは、イエス様を信じただけで永遠の命をいただいたあなたなら可能だという事です。このイエス様の御言葉は、真実です。ですから、たとえ信じた後、亡くなったとしても、イエス様が終わりの日に復活させてくださるのです。これが、天の父の御心です。すごい事ですね。ハレルヤ! こんなに簡単な事を神学校では教えてくれませんでした。でも、クリスチャンならこの救いの恵みを知っているのです。聖書に書いてあり、聖霊が理解させてくださるからです。あなたは、素直に信じるでしょう。そして、永遠の命を喜ぶのです。

 

5月19日(火)

諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。

詩篇47:9、10 

 

「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラテヤ3:29)。パウロはこのようにクリスチャン に手紙を書いたのです。ですから、現在でもクリスチャンになった方々はアブラハムの子孫なのです。さらに、「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あの時、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』」(ガラテヤ4:28~30)と言うわけです。これは、当時のキリスト教会にユダヤ教の名残のように割礼にこだわる者、つまり律法を守ることを強要した者たちがいたのです。今日、私たちはキリストが言われた通り、水と霊から新しく生まれました。聖霊によって新しく生まれたのです。だから、肉によって救いを成し遂げようとしている人にはない、自由があるのです。詩篇にもその預言はなされていました。それが今日の聖句です。そして、私たちこそが地の盾となる者なのです。その者は神のものです。その喜びを信仰で味わいましょう。

 

5月20日(水)

しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

ヨハネ8:7~

 

今の世界は住みやすいだろうか。1960年代の映画を今観ると、古くさく感じる。昔観た007ことジェームス・ボンドも今や色あせて昔のようなかっこよさよりも、古くてこんなだったのかと驚いてしまう。それだけ、文明は発展し、便利になり、快適な生活が当たり前になり、当時夢見た未来が目の前に実現しているということなのだろう。しかし、昔ののんびりしていて、人間の関係の温かさや、誰もが同じように生活していた事がとても懐かしく感じた。おばあさんが駅に行って、窓口で駅員にどこに行きたいか告げると、硬券と呼ばれる今より立派な切符を出してくれる。それを駅員さんがパチパチとハサミを入れる。ところが、今は、券売機の前でおばあさんが途方に暮れている。どうすれば切符を買えるか、いくら考えてもわからない。聞こうにも駅員もいない。飲み物の自動販売機ほどの簡単さもないのだから、一生券売機の前に立ち尽くしそうだ。このような世界には、コミュニケーションの新しい仕組みがあり、若い人ほど有利にそのツールを活用できるので、この早い変化についていけない人は、ひと昔前の時代に取り残されてしまう。そして、便利さは新しい知識と技術を習得する事を強いるわけだ。この世界で、人々は、いとも簡単に批判を広げる事ができる。よく知らない人のことも平気で非難する。家で一人文句を言っている分には影響は少ないだろうが、全世界に根拠の曖昧な批判をあっという間に発信できるのだ。相手が傷ついたかどうか知る術もなく、垂れ流してしまう。あ~あ!さて、今日の聖句だが、結局、誰一人、他人の罪を裁く事ができない事がイエス様によって明確になったという事だ。もちろん、相手は罪の現行犯だったから、裁かれてもしかたがなかった。ところが、イエス様は、罪を犯したことのない者からこの女に石を投げなさい、と言われた。そして、地面に書いている。多分、その場にいた人の罪を書き出していたのだろう。さすがに平気な顔をしてその場にいる事ができなかったのだろう。年長者から立ち去っていった。そして誰もいなくなった。イエス様しか残らなかったのだから、罪を犯したことのない者は他にいなかったわけだ。そして、裁くことのできる唯一のイエス様もこの女を罪に定めなかった。ここにも、福音が響いている。イエス様以外裁く権利がないのだから、誰のことも裁いてはいけないという事だ。これは相当難しい事だろう。裁こうとするのは、自分は正しいと思っているからだ。しかし、イエス様の前では、自分が罪を犯していて、裁く権利がない事がわかる。そして、唯一裁く事のできるはずのイエス様が「罪に定めない」と言われている事を重く受け止めなければならない。もっと、人に優しく、人間らしく安心して生きる事ができると良いのに、そう思うのは私ばかりではないだろう。

 

5月21日(木)

主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。

哀歌3:31~33

 

辛いな、と思うことがあるかもしれません。なぜこうなるのかと心を悩ませる日もあるものです。多くの場合、人間関係で悩み苦しむのが人の常です。その程度が重くなれば、誰れも耐えられません。信仰を持っていれば、なぜこのような目に遭うのかと考え始めます。当然、祈り、主に助けを求めるでしょう。しかし、願った通りになりません。さらに、考えます。何らかの罪を犯したのか、主に怒られるような事をしただろうか、悔い改めることは何だろう。このように、クリスチャンは思い悩み、また、実際に苦しめる人の事を思い出しては辛くなるのです。このような期間に入ると、すぐに抜け出せません。そのために、聖書を読んだり、祈ったり、祈り方が悪いかもしれないと祈り方の本も読み、また祈るのです。そして、今日の聖句を見つけるのです。主の憐れみは尽きません。何より、あなたのことを主は見捨てたりはしませんから、何か良いお考えがあって、この苦しみがあるのです。それに信仰で応える必要がありますが、それは主へのヘリくだりに現れてきます。その証拠に、人への対応が変わるし、思いも変わっているはずです。信仰は強められ、主の憐れみにすがることができます。ここで、人は主の御目にかなう者へと変えられるのです。勉強したからと、理屈だけでは人は変わりませんが、主によって砕かれた魂は人格まで変えるのです。主に愛されているからこそ経験する試練は終わりがあり、捨て置かれることはありません。だかた、主イエス様を信じて、苦難を勝利に変えましょう。

 

5月22日(金)

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしが彼らの繁栄を回復するとき、ユダとその町町で人々は、再びこの言葉を言うであろう。「正義の住うところ、聖所の山よ、主があなたを祝福されるように。」・・・わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

エレミヤ31:23、25

 

緊急事態宣言が関西圏で解除されました。日本中が普通の生活ができなくなって、長い間自粛を強いられていました。事業者はいつまでもつだろうかと心配を口にしていました。そして、自粛が解かれた人々はこわごわと街へ出て行きました。私たちの祈りも日々変わり、今はコロナが安心できるまで終息する事を願うだけではなく、経済活動がなんとか回復して、人々の生活が破綻しないようにと願うばかりです。聖書の中にも、今日の聖句のような箇所があります。万軍の主が言われます、「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」と。この御言葉のようになり神様の御力が現れ、世界中に癒しと回復が起こりますように。クリスチャンは世界人口の三分の一もいるというのです。クリスチャンたちが声を上げて主を讃美しますように。主の憐れみの御業をこの目で見ますように。そして、ニコニコしながら喜びを持って祝福の挨拶を交わしますように。

 

5月23日(土)

シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

ルカ5:4、5

 

この光景を実際その場にいて見てみたかった。どんなにかドキドキしたことだろう。人間の本能なのか、魚をとっている人がいると、つい足を止めて見入ってしまう。どんなものがとれたのか見たくなるのだ。中学生の時に親友と釣りに出かけた。目指す池では散々な釣果で何も釣れなかった。あきらめて大きな川の土手を歩いて行くと、支流の小川が大きな川に流れ込む場所に水門があって、その水門が開いていた。水門から大きな川へ流れるところは広いコンクリートのスロープになっていて、よく見ると魚が小川から流れて来て、スロープを跳ねながら転がってくるのだ。そこで、友人と流れ落ちてくる魚を捕まえようと駆け下りた。ビニール袋を持って待っているとフナやどじょうや小魚がどんどん流れてくるので釣りよりもよっぽど面白かった。シモンはプロの漁師なので、一晩中漁をしてもとれないとなれば、昼間はよけいに無理だと知っていた。昼間なら水が透明なので魚から見えてしまい、警戒して、とるのは難しくなるわけだ。夜間に漁をしているのはそのためで、イエスに言われても魚はとれるはずがない無駄な事だと思ったはずだ。それなのに、沖に漕ぎ出して網を降ろした。これは、シモンたち召された弟子たちの生涯の記憶となり、伝道者として人を救いへ導く時の教訓となったはずだ。主のお言葉の通りにするなら、常識を超えてその通りに成るということだ。だから、私たちは、時には、常識に縛られることなく信仰によって常識をも超えてしまう。それを奇跡と言う。私たち主に召された者たちには、主の御業を見る時がある。その秘訣は、シモンがやって見せてくれたが、自分の常識でムダだとかダメだとか考えずに、主の御言葉を優先して、やってみるということだ。私は魚釣りはものにならなかったが、あの転がり落ちてくる魚を待っていて、拾い上げるということがシモンのときのように自分の生涯の仕事になった。主が召した人たちを待っていればいい。さて、あなたは自分の常識でブレーキをかけてしまって、前に進めないことはないだろうか。聖書を開き、主のお言葉を求めればいい。祈って、主に尋ねれば、きっと聖書から答えてくださるだろう。それを聞いたなら、「お言葉ですから」と心のブレーキを外してみよう。

 

5月24日(日)

彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

ルカ10:27~29

 

私たちは、たいてい正しい答えを知っています。ちょうどここに出てくる律法の専門家のようにです。イエス様が律法の専門家に質問で返すと、見事に正解を答えました。しかし、イエス様が「それを実行しなさい」と言われた途端に、律法の専門家は内心で困ったのです。律法を解釈できるのに、つまり、律法が何を要求しているか知っているのですが、その神様の要求が自分にはできないのです。彼にとっては、答えを立派に答えられるぐらいには勉強したが、それは建前であって、本音では嫌いな人もいるし、愛せない人は多いと思っていたようです。それなのに、イエス様はそれを見通したように、答えを知っているなら実行しなさいと、言われたのです。だから、彼はつい正直な気持ちを言葉にしてしまいました。「私の隣人とは誰れのことですか」と。自分が愛せる人が隣人であれば問題はありません。でも、もっと広く自分の嫌いな人や苦手な人まで愛しなさいと言われたら、「それは無理です!」と言ってしまうでしょう。私たちの場合はどうでしょうか。「もちろん無理です」とは、イエス様には言いたくありません。では、どうしたらいいのでしょう。その答えは、この後の善いサマリア人の譬え話に書いてあります。自分で考えることが大切です。無理と言ってしまえば、それ以上の成長はありません。だから、もう一度聖書を読んで考えてみましょう。ヒントは、25節の「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょう」という質問から始まっていることです。第二ヒントは、イエス様が「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたことです。たまには、時間をかけて考えてみるのも大切です。 

 

5月25日(月)

しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

マタイ12:28

 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)とイエス様は言われ、宣教が始まったのです。イエス様の到来は、神の定めた時が満ちた事を表しています。そして、「神の国は近づいた」とは、神の国が神の支配を意味していたことから、この世界に神の支配が始まった事を教えているのです。神の支配とは、この地上を支配していると実力行使に出ていた悪魔、それは、エフェソ6:12に書かれているように、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」のことですが、これらがキリストの到来によって打ち破られ、人間は解放されるという事です。イエス様が神の霊で悪霊を追い出すのです。それが起こったことがわかれば、神が支配しているのでそのようなことが起こっていると理解することができます。それだけで、神の国が来た事を知るのです。恐ろしいことに、人間がいくら頑張っているても、目に見えない悪い力が働き、苦しめていたのです。それがどうしてなのか、人間には理由がわからなかったのです。そのことで人間には希望がありませんでした。まるで奴隷のようでした。目に見えない悪の力と戦う術を知らなかったからです。しかし、イエス様が救い主として来てくださり、神様の支配が始まった事を告げられたのです。だから、悪霊たちは人から出て行ったわけです。しかし、この戦いはいまだに続いていて、クリスチャンはその戦いの只中に生きています。それで、悪霊たちはクリスチャンが目に見えない悪霊を信じないように、長い時間をかけて働いて来ました。ある時から、教会の世俗化という言葉が言われだし、教会の中にも悪霊を無いもののように考える人たちが増えていったのです。しかし、聖書に書かれたことは今でも起こっていて、誰れに助けを求めればいいのかわからずに苦しんている人たちが世界中にいるのです。イエス様は私たちに模範を示されて、神の霊で悪霊を追い出していると教えています。だから、聖霊のバプテスマを受けて、聖霊が自由に働くように私たち自身を覚醒させていただき、神の支配が広がるようにしたいのです。このような霊の戦いは最後まで続きます。しかし、時がないことも悪霊たちは知っています。だから、終末に生きるクリスチャンは、目を覚まして、神の武具で身を固め、主の御心にゆだねて生きたいのです。

 

5月26日(火)

五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。

ルカ12:6

 

自分が取るに足りない者だと思っている人がいます。自分に自信が持てなくて、引っ込み思案になり、友達も作れないというのです。それでも、時間は止まらないので年齢だけが増えていきます。子供ならよかったのに、すでに大人になっているのです。でも、自分が嫌いで、自分の顔も声も嫌い。何もかもネガティブにしか捉えることができないで、不安しかありません。そんな人が私たちの周りにいます。放っておけば、そのまま歳をとってしまうでしょう。私たちは、天国に生まれてきたのではないので、恵まれた境遇の人もいれば、そうでない人もいます。人前に出ても平気な人もいれば、そうでない人もいるのです。自由の問題にも関わりますが、今の世界のように自由であれば、積極的な人たちが経済で成功し、消極的な人たちが、置いてきぼりになってしまい、気がついたら貧富の格差がひどくなって、テレビでも平気で格差社会などと言っています。罪の世界で、自己中心になれば、格差社会が当たり前になります。でも、それでいいのでしょうか。弱い者も強い者も、思いやりながら一緒に生きることは可能でしょうか。聖書は、私たちの共同体を一つの体と表現しています。そこには、人がそれぞれ違うことの意味が教えられています。体の部分でいらないところなどないのです。キリストがそうしてくださったのです。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって「お前は要らない」とも言えません」(Ⅰコリント12:21)。つまり、一人一人に固有の役目があって、その能力が備わっているのです。それを「各部分が互いに配慮し合っています」(25節)とあるように、互いを尊重し合い、思いやることが必要なのです。人が心にも留めないような、雀でも、神様はちゃんと覚えていて、お忘れにはならないというのなら、それよりもはるかに素晴らしい人間のことを誰一人、神様がお忘れになるわけがないのです。だから、いつでもチャンスはあります。自信を持てるように、ちょっとだけ誰かが手助けしてあげればいいのです。本人が自分の価値を理解し、人生は楽しいものだとわかればいいだけです。イエス様は、それを教えています。勇気を出して一歩踏み出そう。

 

5月27日(水)

イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。

出エジプト記12:37

 

コロナの影響で自粛が続き、旅行に行きたいと願っている人は少なくないでしょう。不思議な事に、人間は旅行したい衝動を持っているようです。私のような出不精であっても、実にあちらこちら旅をする事になったのです。ほとんどが仕事でしたが、それでも自分の知らない場所に行くだけで高揚感があります。旅情という言葉通りの所もあれば、早く帰りたくなるような場所もあるものです。イスラエルの人々は、神様の働きでいよいよ奴隷であったエジプトを出て主の示されたカナンを目指す事になりました。これは、大勢の人が一気に旅行するという歴史始まって以来の大イベントでした。何しろ、壮年男子だけで六十万人もいたというのです。それに、妻子たちが加わり、一緒にエジプトを脱出した、種々雑多な人々も加わったのです。単純に男子六十万人の五倍と考える旧訳学者もいて、なんと三百万人がエジプトを出発したというわけです。物好きな人がシナイ山まで一列で行ったらどうなるか計算すると、先頭の人がシナイ山に着いた時に、最後の人がエジプトを出る事になる、というのです。想像を絶する大団体旅行です。これから、イスラエルの人々は、荒野で試みられるわけですが、これらの物語は、クリスチャンにも当てはまり、神様によって救われた人が天国を目指す旅の予型になっていたのです。私は転勤族でしたが、何年かするとまた引っ越しと繰り返す事により、同じ場所に何年かいればソワソワしてきます。またどこかへ引っ越さなければ、と変な習性が身についてしまったようです。イスラエルの人々は、荒野で罪を犯し続け、それが原因で第一世代は誰もカナンへ入る事ができなっかのです。カナンへ入ったのは次の世代の人たちでした。実に四十年もの長旅だったのです。私たちは、神の民の一員としてこの世の旅路を進んでいます。それは、旅行なんだと考えると、結構楽しいものに思えてきます。パウロも私たちは寄留者なんだと言っています。本国は天国だからです。天国に帰るまで、後しばらくこの世界での旅は続きますが、ワクワクして楽しく過ごしたいものですね。

 

5月28日(木)

人よ、何が善であり、主が何をお前に求めていられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

クリスチャンの生き方は、どのようなものでしょう。幸福を追求する事でしょうか。事業に成功する事でしょうか。慈善を行い、正しいことを行う事でしょうか。それとも伝道する事ですか。どれも、私たちはその時の状況で主に祈り求める事でしょう。人間の歴史を見てみると、幸福を追求した人た違いました。功利主義という考えを提唱してきました。幸福を追い求めるのはおとぎ話だけではありません。ところが、よい考えだと思う事にも問題があって、それを誰かが発見するのです。ですから、そもそも幸福の実現自体が分からなくなってしまいます。人間にとって一見正しいと思う事が実はそうでもないということはいくらでもあるのです。それは、イエス様が現れた時のイスラエル人たちの反応でわかります。自分たちが正しいと信じている事が絶対ではない、となかなか認められないものです。ファリサイ派とサドカイ派の争いは誰もが知るところでした。イエス様がなさる事、話される事、すべてに彼らは間違っている、危険だと思ったのです。私たちはイエス様が教えられた通りに生きたいのですが、どうも難しくて出来そうもないと思うような事があるのです。それで、もっと簡単にわかる方法はないかと思っている人は、今日の聖句を覚える事です。これを聖霊に助けられ、指導されて、いつしか身につけていけるように神様にお祈りしましょう。

 

5月29日(金)

あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

Ⅰコリント6:19、20

 

神様を信じない世界は恐ろしいものです。何をしても良いと考える事ができるからです。どんな悪い事でも平気で行う事ができます。だから、宗教は大切なのですが、キリスト教だけが宗教とは限りません。もし、生ける神様の宗教でなければ、ヒューマニズムや悪魔のコントロールが心配になります。それでも、様々な伝統的な宗教が人間の良心に従い正しいことを行おうと教えるのであれば、それは良いものと世間から評価されるでしょう。問題は、残念ながら良心も当てにならない事です。人間の罪の問題の難しさがあります。教会の中でも、争いが起こったり、それが深刻になると裁判沙汰にだってなり得るのです。それは、コリントの教会でも起こりました。現代でも時々耳にします。教会内の争いも珍しくありません。それだけでなく、クリスチャンでありながら、この世の人たちと同じように快楽を追求する人たちが出てきます。古くからある功利主義は、「すべての人々の最大幸福を、人間の行為の唯一の正しい目的である」と主張します。ここで出てくる幸福とは、「苦痛が少なく快楽が多い状態」のことをいいます。だから、このような幸福では、クリスチャンも快楽を追求する事になります。そこでは、幸福のみが価値を持つので、人権・平等・民主主義などはそれ自体が価値を持たないという事になります。だから、そのような幸福の理解ではダメですよね。ところでキリスト教の幸福とはどんなものなのでしょう。それは罪からの解放だと声が聞こえそうです。パウロは、クリスチャンであるあなたがたは代価を払って買い取られたので、自分のものではないと言います。それどころか、あなたがたの体は聖霊が住んでいる神殿になっているとも言うのです。もう罪に苦しむ古い自分ではなくなっていますね。そのパウロの手紙には「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸い(幸福)である」(ローマ4:7)とあります。つまり、幸福とは不法が赦され、罪を覆い隠される事となります。快楽を放置しておくと、滅んでしまうので、それはちょうど滅びへの案内人である娼婦と一つになるようなものだというのです。そうではなくて、天国へと導くキリストと一つになっているのがクリスチャンなのだから、その違いを正しく理解して、生き方の変容を促しているのです。変容なんて、ちょっとコロナのニュースの影響を受けていますね。

 

5月30日(土)

定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世のことにかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。

Ⅰコリント7:29~32

 

パウロは、とても重大なことに気がつきました。そして、それは分かる人と分からない人に二分されます。学識のある人だからわかるというようなものではありません。皆さんは、アイオーンというギリシャ語を聞いたことがありますか。「世」とか「時代」と訳されることがあります。例えば、皆さんはクリスチャンになる前の人生観とその後の人生観では大きく変わったのではないでしょうか。この世の流れに遅れまいとして、皆が認めることを認め、皆がするようにしていたはずです。「時代の流れ」と言えばいいでしょうか。これがアイーンです。キリストが皆さんにしてくださったことの中にもこのアイオーンが出てきます。「新しい世」をもたらしたことです。そもそも、私たちは罪の世界に生きていました。そして、自らも罪人でした。ですから肉の欲望に無力でした。行動原理は、損しないように生きる、です。この世の流れの中で貪り尽くして生きなければ損なんだと言っているように、生きてきました。それが良い人生とは言い難いですが、皆んながそうなら、特におかしいとも思わなかったのです。しかし、キリストが来てくださって、罪の恐ろしさを理解させてくださり、そこから購出してくださいました。罪の世界の呪縛から解放してくださったのです。それも、神の恩寵でです。そして、キリストは今までの呪縛のような時代を古いアイオーンにしました。そして、新しいアイオーン(時代)へ私たちを移してくださったのです。それは、間もなく主の再臨によって明らかになります。だから、パウロは、信仰で救われた者は、古いアイオーンの呪縛から解放されて、新しいアイオーンの幸福な生き方を始めなさいと言っているのです。

 

5月31日(日)

見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で苦労した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。

コヘレト5:17

 

幸福の秘訣は、自分なりに苦労しながらも楽しく生きることで、その結果に満足することなんだと教えています。人生が長いか短いかは人の感じ方で違っているでしょうが、聖書は短いと言っているのです。私たちは赤ちゃんで生まれ、成長し大人になって、だんだん歳をとり、老人になって行くのですが、この変化があるので短いというのです。初めから一番良い状態でスタートし、最後まで最良の状態でいられるわけではありません。人生で一番良い時は、と聞かれるとほんの一時だと気がつく人もいるわけです。今回のコロナで外出自粛が長く続くと、何処かへ行きたいと思い、だんだん長引くと近くでいいから外食がしたいと思い、コヘレトがいう通りに「飲み食い」することの意味がわかってきます。さらに、幸福な人は、今までの人生で苦労ばかりしていたと嘆かない人です。それどころか苦労も含めてすべてに満足することこそ、幸福で良いことだと諭しています。これなら、誰でも幸福になれます。でも、人生を不平で満たし、満足しない人はやはり、不幸になってしまうわけです。自分は自分なりに頑張って生きてきたから苦労も含めて満足だと言ってみましょう。小さな楽しみだってたくさんあったのです。禁欲ばかりではつまらない人生でしょう。真理を求めて勉強ばかりしても幸福とは感じないでしょう。人それぞれの人生を満足するかしないかは自分で決めることができます。ただ、その結果が分かれるだけです。だから、私は聖書の教えの通りに、満足することを選びます。その結果は、甚だ幸せです。だから、聖書の教えの通りだと思えます。