2021年11月ディボーション

11月1日(月)

かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。

申命記23:5

 

私たちは呪いという言葉を忌み嫌っています。少なくとも自分は呪われていないと考えています。そのような心当たりも無いからです。しかし、家系のことで考えると心配になる人はいるでしょうし、3代、4代前に遡れば、もう先祖の名前すらわからなくなっているかもしれません。そうなれば、罪人のこと何があってもおかしくありませんから、呪いも他人事では無いかもしれません。ガラテヤ書には、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」(3:13)とあります。律法は良いものですが、私たちにとっては罪を自覚させるもので義とはしないものなのです。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20)。つまり、律法を知らないときは平気でいたのに、律法を知ると自分のしていることが罪だと分かってしまうのです。まるで呪いとなって自分を苦しめるものとなるのですです。聖書には、このほかにも呪いがいくつも書かれていますから、何か先祖が呪われることをしていて、子孫がその呪いを受けているという場合もあるのです。ですから、キリストは十字架に架かる必要があったのです。それ以外に人を救うことができなかったからです。神様のお約束は、さらに驚くべきものです。「呪いを祝福に変えられた」と断言していることです。主を信じて救われた者は、すでに祝福に入っているのです。その理由は、主があなたを愛しているからです。このことをいつも覚えていましょう。主の愛の中に生かされているのです。そして、あなたは祝福されています。だから、何も恐れずに、恵みの中を歩めます。主を信じ、賛美いたしましょう。

 

11月2日(火)

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

イザヤ63:9

 

主がこの小さき者と言われた時には、それは自分のことだと思うべきです。なぜなら、実際に私たちは弱く小さき者なのです。ですから、些細なことですぐに悩み、不安になって不信仰を表してしまうのです。おかしくなるほど、同じことで悩み、同じ失敗を繰り返すのです。悪魔は、私たちのことを気にして罠を仕掛けたり、脅したり、誘惑したりと攻撃をやめません。そして、本当はその全てに勝つことができるのですが、油断しているからか、敵の嘘のささやきを信じて動揺したり、弱さを露呈してばかりなのです。では、クリスチャンである私たちはどうやって敵に勝利し、主によって義とされるのにふさわしくいられるのでしょう。それは、主を信頼して、ゆだねることが一番です。今日の聖句をよく読んでください。主は、私たちと一緒に苦しんでくださるのです。ですから、ご自身の問題として解決されるのです。あまりにも私たちが憐れに見える時には、御使を送られ緊急避難や敵の手から果敢に救い出してくださいます。主の愛と憐れみは、あなたを贖い、そして、あなたを背負い、抱き、あなたが滅びることのないように愛を尽くすのです。ですから、心細くなっても大丈夫です。あなたの主は本当にあなたを守り抜いてくださるからです。 

 

11月3日(水)

神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。

Ⅰテサロニケ5:9、10

「主の日は、盗人がよる来るように来るということを、あなたがた自身よく知っている」(5:2)と、あるように聖書を読む人たちは主の再臨が突然来ることを知っています。そこで、ある人たちはクリスチャンを恐れさせるように恐怖のシナリオを描きます。主の怒りがどれほど恐ろしいかと震え上がらせるのです。しかし、聖書をちゃんと読めば、「きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」(5:4)と書いてありますから、いたずらに再臨やその直前の混乱を恐れることはないのです。悪人や闇の中にいると言われた人たちは、確かに恐ろしい経験をすることになります。私たちは、主イエスによって救われることが定めなのです。その絶対的な保証が、主イエスが十字架で死なれたことです。これは、私たち信じる者を救うためでした。そして、信じた者は、決して古い人のまま生きるのではありません。新しく生まれたのですから、新しい人の生き方をします。それが、どんな時も主イエスと共に生きるという意味です。

 

11月4日(木)

信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが・・・・。

Ⅱコリント13:5

 

パウロの言葉は厳しいでしょうか。私たちが最も気を付けていなければならないことは、自分が信仰によって生きているかどうかです。時々、自己点検をしないと、信仰で生きていたはずなのに、いつの間にか信仰を忘れて自力で生きていることがあります。それでは、せっかくの救われた恵みが失われてしまいます。ですから、今日は自己反省してみましょう。私たちは、忙し過ぎないだろうか。祈りの時間やディボーションをうまくやっているだろうか。何よりも自分の内に主イエス・キリストがおられると信じているだろうか。神様を賛美して、霊的な喜びに満たされる経験をしているだろうか。日々の生活で信仰を働かせているだろうか。聖書を読んでいるだろうか。静まって、主は自分に何を望んでおられるか聞いてみましょう。私たちは失格者にはなりたくありません。ですから、信仰によって生きているかどうか、忙しくても立ち止まって点検することを怠ってはいけないのです。なぜなら、心が清められ、主の臨在に触れることすら可能だからです。いつでも晴れやかな気持ちで平安のうちに主を身近に感じて生きて行きたいですね。信仰によって生きる恵みの生活を大事にしたいと思います。

 

11月5日(金)

あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。

ルカ12:25、26

 

クリスチャンになると、まず、思い煩うなと教えられます。それほど大切な教えです。ところが、何度もこの言葉を聞くことになります。それは、まるでバカになったのではないかと心配になるぐらい、この教えを守れないからです。何度も反省し、悔い改めて、神様に謝るのですが、すぐに忘れて思い煩っているのです。特に、若いうちは思い煩うことが多いのかもしれません。会社に何を着ていこうか、お昼は何を食べようか、と次々に思い煩いは出てきます。興味深いのはイエス様は、寿命のことを言い出しました。寿命をわずかでも延ばすことができるか?と語られました。そして、それをこんな小さな事と言われたのです。ビックリですね。それよりも私たちが毎日悩んでいることは、本当に大したことではないのですね。なぜなら、神様は私たちの必要を知っていて、それをちゃんと用意され、ちょうど良い時に与えてくださるからです。感謝です。このことを知っているのは、聖書を読んで学んでいるクリスチャンです。ですから、私たちは神様を信じているので、思い煩う必要がないのです。必要なものはなんでも必ず与えられるからです。聖書で確かめてみると、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(30、31)と書いてあります。そこで、クリスチャンは、思い煩わないためにも、まず神の国を求めるのです。それは、神様があなたを支配することを許可し、認めて、服従することです。心配することはありません。神様は間違わないし、愛のお方ですから、憐れみをもって、あなたの必要を完全に満たし、あなたに人を助けるチャンスを与えてくださいます。あなたは豊かにされるので、その富を施すのです。それが天に宝を積むことになります。これがキリストの教えです。

 

11月6日(土)

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

命を墓から贖い出してくださる。

慈しみと憐れみの冠を授け

長らえる限り良いものに満ち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

詩篇103:3~5

 

神様は、私たちを愛しておられるので、その態度はいつでも慈しみと恵みに溢れています。ただ、人間が罪深いので、問題が後を絶ちません。もし、主イエス・キリストが人間を助けに来られなかったなら、何の希望もありませんでした。この世の中に良い人間と悪い人間がいても、そのどちらをも主は救おうとされたのです。そのためには、人間の表面ではなく、心の中を知り、その生い立ちを知り、その人の本質を見分けたのです。罪には厳しいですが、人には優しいので、誰でも主に心を開くことができるのです。主の力は絶大で、天地万物を創造するほどの御力を持っておられます。それゆえに、人を完全に救うことができます。その主の救いの方法は、全宇宙が納得できるものでなくてはなりませんから、罪をいい加減にして救うようなことはできません。罪を罰して裁く必要がありました。そうなると罪びとはもう墓に降るしかありません。そこで、主はご自分の命を犠牲にして罪を贖ったのです。驚きですね。それほどまでして、救われたのがあなたです。あなたは、主を信じました。その信仰で救われたのです、と言われても、あなたは自分の信仰がどれほどのものであったか知っていますから、不安になるでしょう。今日の聖句を読むと、「慈しみと憐れみの冠を授け」と書かれています。実に不思議ですが、こんなに弱い信仰なのに救われたのは、主の慈しみと憐れみによるのです。あなたもいつか主の愛を完全い理解するでしょう。圧倒されるほどの愛です。その愛に応えることのできる存在があなたなのです。それに気がついて、目覚めるべきです。聖霊はその手助けをするために来られました。霊的覚醒があなたに起こる日がリバイバルの日です。聖霊に満たされて、リニューアルされるのです。こうして、あなたの一生は良いものに満ちたりて、若さまで与えられ、最高の人生を送ることができるようにと主は願っているのです。ハレルヤと賛美したくなりますね。この保証書は聖書なので、祝福の約束を調べてみましょう。

 

11月7日(日)

未熟な者は何事も信じこむ。

熟慮ある人は行く道を見分けようとする。

箴言14:15

 

最近よく耳にするのは、偽りの情報に振り回される人のことです。何かの悪意や作意があって、偽情報を流す人はモラルの問題がありますが、それが大量にいつまでも流れるのは、それを受ける側にも問題があるのです。今日の箴言を読むと、「未熟な者は何事も信じこむ」とあります。なるほど、未熟な者かと反省することがあるかもしれません。それは、「何事も信じこむ」と書かれているからです。それに対して良い方は、「熟慮ある人は行く道を見分けようとする」とあります。自分の行動をよく考えずには決めないで、ちゃんと良い方を見分けようとするのです。誰でも、そうだと言いたいのですが、実際には違っていて、聖書に書いてある通りなのです。「未熟」と「熟慮」が対比されています。何でも信じこむために、損をしたり、ひどい目に遭うのは、未熟だからだというのです。未熟であるということは、まだ可能性があることなので、早く成熟するように熟慮する人になることを心がければいいのです。テレビのドッキリ番組で、同じタレントさんが何度も落とし穴に落ちているのを見たことがあります。今日の聖句を教えてあげたくなりました。笑って済むうちはいいのですが、泣くことなると大変です。私たちも考えることもなく何でも信じる人にはなりたくありませんね。人生の行く道を見分けたいですよね。熟慮ある人を目指しましょう。

 

11月8日(月)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

人間は忘れやすいものですね。というのは、思い煩うなと何度も教えられているのに、すぐに思い煩うからです。困ったものです。さて、家内が意を決して写真を整理しはじめました。長く生きたので写真もたくさんあります。子供の写真が一番多いのですが、古い写真になると、どこで撮ったのか、横に映っている人は誰なのか、と思い出せないものも少なくありません。牧師をして転勤ばかりしていたので、会ったことのある人の数はとても多いのです。懐かしく思い出す写真も、思わず笑ってしまう写真もあります。それにしても多すぎて、どれを捨てればいいのか考えてしまいます。写真の断捨離は難しいですね。それでも、家内は、工夫して年代順に分けたり、子供ごとの写真を分けたり、とかなりの時間をかけて写真を活かそうとしていることがわかります。デジタルだと写すだけで、見返すことがあまりありませんが、紙だと見やすいので、容易に見ることができるように工夫するといいのですね。私は一枚の写真でも捨てるべきか残すべきかと思い煩ってしまいますから、それならいっその事全部捨ててしまえと思慮のないことを言い出します。後で、きっと後悔するでしょうね。古い写真を一枚捨てるかどうかですら思い煩うのなら、もっと多くのことで思い煩うことは避けられません。今日の御言葉は、心に響きます。神様がちゃんと心にかけていてくださるのです。自分の弱さや足りなさを全部ご存知なのに、主は黙って思い煩いを何とか最善になるように考えていてくださるのですね。どこまでも主の慈しみと恵みは尽きません。ですから、何か思い煩っている事があれば、今、この聖句を読んで、祈りましょう。そして、神様にお任せしましょう。

 

11月9日(火)

わたしの魂は主によって喜び踊り

御救いを喜びます。

詩篇35:9

 

信仰のことをよく理解していない人は決して少なくありません。確かに、信じること、と教わっていても、信じること自体が現代人にとっては難しいことなのです。そして、信じることを理解した人は聖書の御言葉を使って、より確実に願いを実現しています。しかし、信じることが不十分な人は、何も変わっていないので、不確かな人生を送っているのです。例えば、今日の聖句をあなたは、どう思いますか。信じる事ができるのなら、この通りになります。しかし、信じる事が不十分な人は、ただ読んだだけに留まります。この差はとても大きいのです。例えば、同じ35篇の3節に「どうか、わたしの魂に言ってください『お前を救おう』と」とあります。この御言葉を信仰者は使うことができます。信仰を働かせて、この通りになると信じるのです。そして、それは具体的に答えられるので、今日の身言葉の通りになります。この秘訣が理解できれば、信じることをためらわせるいかなる否定的な考えも無視してください。また、子供時代に親から、あるいは影響力の強い人から、例えば学校の先生かもしれませんが、否定的な考えを刷り込まれている可能性があります。しつけと考えて、古い何の根拠もないネガティブな考え方を押し付けられて育ったことが、信じることを妨げている可能性があるのです。親のことを覚えているのなら、自分が親と同じようなことを自分の子供に言ったりしていることに気がついて驚くことがありませんか。自分で考えていると思いながら、実はそのように親が自分の心に潜んでいるのです。ですから、クリスチャンになったときに、新しく生まれるという経験をしているのです。過去のいかなるものにも縛られないで自由にしていただいたのです。それは、信仰によって正しくなるためです。それなのに、相変わらず、信仰を働かせていないのでは残念です。本当に、自分は古い人に死んで、キリストによって新しい命に生かされていると信じることから始めるのです。そして、ポジティブに良いことを信じるのです。聖書は信じる事が書いてあるので、役に立てる事ができます。早速、良いことを信じる訓練を始めてください。神様への感謝が増すはずです。

 

11月10日(水)

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず

常に主を覚えてあなたの道を歩け。

そうすれば

主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

箴言3:5、6

 

成功する人生の秘訣は、ここに書かれている通りにすればいいだけです。ところが、これだけ単純なのに、うまくやれない人が続出するのです。その理由は、「自分の分別に頼らず」という点です。「心を尽くして」とは何が何でも主に信頼する、と決めて実際にその通りにすることです。そこには、人間の考えは出てはならないのです。ところが、まず、自分の分別でどうするか決めようとするのです。面白いことに、そのような時には神様は忘れて出てきません。それでは御言葉の通りとは言えませんからうまくいかなくなるわけです。では、どうしたらいいかといえば 、「常に主を覚えて」生きて行けというのです。ここがポイントです。主を忘れると自分が出てきてしまい、失敗のリスクが急激に増しますから危険なのです。信仰の道は、単純ですから誰でもできるはずです。言葉を変えれば、古い自分に死ぬ、ということです。神様が自分の人生の道をまっすぐにしてくだされば、これ以上良い人生はありませんから、ぜひ、今日の御言葉を実現させるように心がけてみましょう。

 

11月11日(木)

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

ローマ5:17

 

罪と死は関係しています。アダムがその罪の起源です。そして、人間は罪と死に支配されて生きているのです。この罪人は死ななければならないという恐ろしい呪いは、人間のいかなる義となろうとする努力も無効にしてしまうのです。ですから、律法を与えられて人間の罪は明確になり、律法遵守のいかなる努力も無駄に終わり、人間には自分自身を救う可能性がないことが分かったのです。しかし、罪の自己中心性は、恐ろしいことに律法遵守をすれば義となれると言わせてしまうのです。このような空しい事が長い時間続きました。しかし、時満ちてイエス・キリストが現れ、神を正しく理解できるように人間となってみせました。しかし、キリストが成そうとされたことは、ご自分の正しい行為によって、全ての人が義とされて命を得ることでした。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(ローマ5:19、21より)。私たちは、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けています。このことをハレルヤ!と喜べるなら、大丈夫ですが、もし、一瞬でも否定的な気持ちになったり、信じられないと不安になるなら、そのままにしてはいけません。不信仰になるような否定的な古い考え方がまだ身についたままなのです。自己イメージが悪いかもしれません。何でも、一旦は否定したくなるような心の癖は直す必要があります。例えば、すぐに人を批判したくなるのは、古いこの世の考え方で罪人の特徴です。それでは、神様の恵みを受けることができません。ですから、生活も良くなりません。聖句をよく読めば、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」とありますから、ここを正しく理解する必要があります。豊かに、とあれば少なく受けている人もいるし、全く受けていない人もいるのです。そこで、あなたは、豊かに受けている人になるように、信仰の見直しをして下さい。それは、難しくありません。信じることを見直すことです。まずは小さなことから信じる事が簡単です。自分にとって恵みであると思えることを主に願っていただくことです。いきなり、山を動かすような大きな信仰を考えれば、うまくいかないでしょう。ですから、自分が納得できる小さなことを考えてみるのです。例えば、誰かの役に立つ祈りをしたいと思えば、神様にそのまま祈ります。そして、待つと誰かの必要を知ることができますから、すぐに祈ります。その結果も、聞くことができます。仕事を探す時も、自分にとって良い仕事をイメージします。なるべく具体的である方がいいと思いますが、仕事をあまり知らないなら、自分が毎日楽しく働いているイメージをしてみることです。そして、それが実現することを信じて祈ります。このように、神様はキリストの故に何でも与えてくださることを信じるのです。まずは、自分に対して神様が良くしてくださると恵みを強く信じてみましょう。その後で義についても信じていくのですが、順番にやれてみましょう。

 

11月12日(金)

何事も神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。

Ⅰヨハネ5:14、15

 

これが祈りの極意です。ですから、読み飛ばすことなく、じっくり御言葉に向かってみましょう。良いことが分かるはずです。肉の欲望を満たすことは罪に繋がり、罪は裁きを受けて死につながります。ですから、願い事は肉の欲望を満たすものではありません。神様の御心に適うことは、たくさんあります。あなたが信仰を持って生きているならば、あなたは聖霊によって訓練を受けているはずです。人間的にみても良くわからないでしょうが、実は、祈りで成長具合がわかるのです。自分が神様に聞き届けていただけることは何かを無意識に考えています。初めは、いかにも人間的な祈りであったはずです。しかし、祈りを重要と考えている人は、祈りを大切にしていますから、必ず祈りが成長します。祈りと信仰は一つなので、信仰が口をついて出てくるわけです。そして、信仰は、神様との関係を表しているので、神様との関係が愛の関係であることを理解することです。例えば、神様を天の父と呼びます。この世の親は、子供が間違ったことや危険なことをしないようにと、「それは危ないからしてはいけない」といったようなことを繰り返し言ってきたのです。それで、危険を犯すようなことはしてはいけないと、チャレンジする気持ちまで抑制することになりました。それでは、人は大きく成長することができなくなります。天の父は、その人がどうすべきか知っています。また、自分の古いからを破って、キリストの身丈まで成長することを願っています。ですから、積極的にチャレンジすることも認めるのです。失敗を恐れずに、失敗こそ学ぶ絶好の教科書だと励ますのです。ですから、祈りが積極的になりますし、願いも大きくなります。そして、「願ったことは既にかなえられている」と、これはもう信仰でしか説明できない領域に入ります。これは、御心に適っているのならかなえられていると積極的に捉えて、すぐに行動に出て行くことを教えています。もう成功は目の前にあります。

 

11月13日(土)

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

Ⅰコリンと2:9

 

昔、骨董品店にエデンの園のエバがしていたヘアピンなるものが売っているのを見たことがあります。ユーモアで作ったものなのでしょうが、人間の想像の限界を感じます。ところが、神様を愛している人たちには、朽ち果てて行くだけのこの地上のものではなく、人間が見たこともない、そして、想像することすらできないもの、つまり、天上の宝物が与えられるのです。それは、必ずしも形ある物でなくても良いのです。思いがけず、聖霊によって自分が罪人であると悟らされて、どうしていいかわからなくなりそうな時に、聖霊が十字架の意味を教えてくださり、イエス様を信じたことも、イエス様に救われたことも、聖霊のバプテスマも、神様の愛も、イエス様の恵みも、聖霊がいつも一緒にいてくださって交わってくださることも、神様の備えてくださったものなのです。神様が備えているものは、まだまだあります。あなたの人生でこらから必要なものがすべて備えられているのです。信仰があるから、必ず受け取ります。あなたは、それでますます神様を愛するようになるでしょう。そういえば、昔の人は舶来品(はくらいひん)と言って、外国製品を高価なもの、特別なもの、珍しいものとして珍重しました。まさに、見たこの、心に思い浮かんだことのないものだったのです。ですから、もらったらどれほど嬉しかったかしれません。ましてや、神様の備えてくださったものならばなおさらです。ですから、この世のことで思い煩うことなく、神様に期待していましょう。あなたは、キリストの故に恵まれているのですから。

 

11月14日(日)

わたしを愛する人をわたしも愛し

わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

箴言8:17

 

神様を知る方法は、実に単純です。アダムが罪を犯してエデンの園を追放された後、その子孫は一度ノアの大洪水で罪の裁きを受けています。ノアとその家族が生き残り、その子孫が現在の人類なのですが、罪の問題は結局キリストの救済を得なければ変わることはありませんでした。しかし、キリストがそのような罪深い人間を救おうとしてご自分を犠牲にして人となって現れたので、神様が私たち人間を愛していることがわかりました。しかも、恵みのみで救われる道は既に開かれたのです。そのおかげで、神様との関係をどうすれば良いのかわかりました。それは、初めに神様が愛されたのですから、それに私たちが応えて神様を愛することが正しい答えなのです。クリスチャンになって神様との距離を感じている人は、罪人の時の名残でセルフイメージが低いままなのかもしれません。でも心配は入りません。聖霊が助けてくださり、日々の生活を通してあなたの全人格を成長させ、キリストの高さまで引き上げようと働いておられるからです。あなたには、手ごたがないかもしれません。あるいは、逆に低くされていると感じているかもしれません。それは正常な反応です。自分を高くすることは、高慢になることではありません。へりくだることを奨励されたことがあると思いますが、キリストがへりくだって人間になられたように、私たちは自分よりも低いところでキリストに出会うのです。あなたは、キリストを捜し求める必要があります。そして、今日の御言葉の約束を信じて捜し求めるなら、きっとキリストを見出します。そのことがどれほどの恵みであるか、あなたは知ることになります。そして、キリストの憐れみ深い御心に触れて癒されるのです。あなたの心にキリストのお優しい愛がずっと残るでしょう。

 

11月15日(月)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神の言葉によるのです。

Ⅰペトロ1:23

 

今日の御言葉は不思議です。新しく生まれたのは、朽ちない種からであって、それは生ける神の言葉によるのだ、と書いてあるからです。つまり、クリスチャンになって、新生したのは、新しい聖霊を受けたからであって、神の息を吹き入れられたからだと言われてきたはずですが、ここでは違っています。と言うよりは、聖霊を吹き入れられて、霊的な刷新があって、新生したのです。ところが、新しい人はどのように生きていけばいいのでしょうか。それは、聖書を神の言葉として考えれば、それは種のようなもので、心の畑に撒くと発芽してやがて実りを得るというわけです。そして、この神の生ける言葉は、種として撒かれ、そこから得られるのは、新生した人の霊的成長です。それは、聖霊が御言葉の内に秘めている霊と命を引き出し、働かせるのです。それは、自分自身がリニューアル(刷新)されていく聖化と言えることが起こるのです。まさに新しく生まれた人が古い生まれたままの人に対して優勢になって行くのです。聖書を読む意味がわかりますね。

 

11月16日(火)

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

マルコ11:24

 

祈りの極意を教えてと言われれば、今日の聖句をあげるでしょう。もちろん、信仰があればと言うことですが。その信仰は、偉大な聖人のようなイメージを持つと誤ります。なぜなら、あなたの信仰で十分だからです。ですから、普通に祈ればいいのですが、自分の祈りは聞かれない、とか言い出すと心配になります。なぜ、そんなことを言う人が結構いるかといえば、人間の仕組みに原因がありそうです。それは、私たちが真面目であるので、自分を変えられないという問題です。人間には現状維持を保とうとする機能が備わっているようです。ですから、信じて祈ればその通りになる、などと聞くと、無意識にそんなの自分には無理だ、と否定してしまうのです。それは信じないということですから、当然、この聖句に反しますから、この約束が無効になってしまうのです。「信じなさい」と言われれば、「はい」という素直さがあっても、自分の潜在意識は「祈って求めるものが何でも受けられたと信じるのは無理がある。そんなに簡単なことではない」と今までの状態のままでいようとします。ですから、せっかく信じようと思ったのに、どこかで信じられないと否定しているのです。これを変えるために潜在意識に肯定的なことをたくさん蓄える必要があります。祈りの本や信仰書を読むのも役に立つのです。聖書を読む習慣をつけて、思い出すたびにこれは神の御言葉で真実です、と自分に言い聞かせます。それから、聖書に書かれた御言葉は信じても安全です、と言いましょう。聖書に書かれた神様の約束は、すべて信頼して自分のものとしたい、と強く思うのです。そのために、聖書に書かれた神様の約束を探してみるのです。まず手始めに、今日の聖句を自分の聖書から探してみるのです。訳はいろいろありますが、比べてみてもいいですね。そして、潜在意識に今日の御言葉を自分のものにして実現したいと伝えてみるのです。強く思うだけで大丈夫です。祈ることが楽しくなりますように。

 

11月17日(水)

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼れらは死に至るまでも命を惜しまなかった。」

黙示録12:10、11

 

この世界がどうなっているのか、私たちは聖書から学びました。そして、その預言から私たちは終末に生きていていることを知りました。今や霊の戦いが激しさを増し、そして聖徒たちは忍耐して信仰を守り抜き、キリストの生きた証人として世に福音を伝えることになっています。クリスチャンになった頃は、悪魔がなぜ存在するのか疑問でした。しかし、それから何十年と年月が過ぎて行きました。そして、この世界で悪魔に苦しめられている人が多数いることを知りました。そして、クリスチャンでも霊的戦いに参加している人もいることが分かりました。今や、クリスチャンは霊的なことを理解して、何かしらの悪霊たちとの戦いを避けることが難しくなってきました。しかし、万軍の主も黙って見ているわけではありません。圧倒的な力で悪に勝利しています。主は聖徒たちを守り、盾となり砦となって、支えてくださっています。今日の聖句から、悪魔は神様の御前で訴えています。もちろん、私たちのことをです。聖書にある通り悪魔は告発者なのです。そこで、私たちも気を抜くわけには行かないのです。ただ、聖書に書かれた通りになるので、悪魔は地に投げ落とされた、とある通りなのです。肝心な勝利の必勝法も書いてありました。「小羊の血と、自分たちのあかしの言葉のゆえに彼らに打ち勝った」とあります。このことも心に留めておきましょう。主に死に至るまで忠実でありたいですね。でも、この戦争は初めから勝ち戦なのですね。後悔のないように、キリストの証人として生きて、勝利したいと思います。

 

11月18日(木)

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。

イザヤ48:10

 

私たちは自分を鍛える必要があるということを知っています。それは、例えば甲子園を目指す高校生たちが野球の練習を感心するほど続けるのを知っています。決して皆が甲子園に行けるわけでもないのに、それでも鍛えることをやめません。私たちは信仰者として、鍛える必要があるのは高校球児と同じです。ただ、体を鍛えるのとは違って、信仰を成長させようとしているのです。信仰には驚くほどの力があります。また、クリスチャン品性も身に付けなければなりません。そして、神様の御力によるのですが、聖化も大きな課題です。クリスチャンですという人が、この世の人と何ら変わらないというのではおかしなことです。そもそも、主は私たちを天国へ連れ帰ることまで含んで救われるのですから、当然、主に練られることは想定しておくべきです。それは、時には悩みの炉に入れられるような厳しいものになることがありますが、一時のことですから、そこで、祈りを学び、忍耐を身につけ、信仰を揺るがないものにするのです。知恵と知識を身につけ、キリストに近づくことができるようにするのです。このような試みは、主に愛された者には通るべき道なのです。そうでなければ、良く変われないからです。あなたも、きっと信仰で生きる者となるでしょう。愛の業は身近にあります。恵みもあなたのものです。あなたは銀よりも価値があるのです。

 

11月19日(金)

人間を豊にするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。

箴言10:22

 

箴言の難しさは、翻訳の難しさにあります。例えば、今日の聖句を他の訳で見ると、「主の祝福は富をもたらし、主はそれらと共に悲しみを送ることがない」とか、「ヤハウェの祝福、それが人を富ませ、彼とならんで苦労が何かを与えるということはない」など、なんとか原語の意味を取ろうと翻訳者が苦労しているのが分かります。では、あなたの聖書で読んだ時に、ここからどんなことを知恵として受け取ることができるでしょうか。ここの言いたいことは、主の祝福は人間の努力なしに与えられるものだ、ということです。そして、主の祝福は、人を富ませることであったのです。古代の聖書の世界の人たちにとって、富は義の正当な報酬だったのです。私たちは、よく人を祝福しますが、それも意味があるのです。私たちが主によって既に祝福された者だから、私たちが祝福すると本当に相手も祝福されるのです。必要な時には富も文字通り与えられます。主の祝福と人間の苦労は結び付いてはいません。この世で、苦労して富を得たという人はいるでしょう。また、悪いことをして、富を得たとうそぶく者だっています。しかし、富の性格が違っています。主からくる富は純粋なのです。そこで、クリスチャンは、肉の性質に振り回されて富を追い求めると苦労が絶えなくなります。たとえそこで富を得ても、油断すればすぐに消えていくような心配が伴う富です。一方、神様の祝福は、その人を豊かにするのです。人間的にも成長します。富を管理できるためには高い能力が必要だからです。そして、何よりも主への信仰が大きくなるように訓練されます。そうしないと、神様の祝福で富を得ても、自分の力で得たと勘違いするからです。それこそ、自分が苦労して貯めた富だと主を侮ってしまうのです。そうならないように、箴言から知恵を得ておきたいですね。あなたを豊かにするのは主の祝福であると、心に刻みつけたなら、知恵を得たことになります。

 

 11月20日(土)

主をたたえよ

日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神

主、死から解き放つ神。

詩篇68:20、21

 

朝、目を覚まし一日が始まります。その日には、その日にしなければならないことがあります。いつも順調というわけではないでしょう。困ったことも起こります。しかし、私たちの目には見えないかもしれませんが、私たちを担い、救われる神がいるのです。私たちの粗末な祈りもちゃんと聞いておられます。そして、私たちが自由に人生を送れるように見守るのです。残念なことに私たちは「義人は信仰によって生きる」と聞いて知っています。そして、主イエス・キリストは私たちが義となるように十字架で死んでくださいました。その罪の贖いは現在も有効で、私たちの罪を清めてくださいました。ですから、信仰によって生きればいいだけにしてくださったのです。この信仰は万能の力と言えます。クリスチャンにはこの力が既に与えられています。ところが、意外なことにクリスチャンは十分には信仰を知らないのです。それが証拠に教会で奇跡がほとんど起こりません。日本でも洗礼も少ないので、余計に信仰の力を見ていないのです。この信仰の力に目が開けると、常識が変わります。神様の救いが半端ないものだと良く理解できます。それは大きな喜びとなります。このように目の前に大きな恵みが与えられているのですから、なんとかあなたのものにして欲しいのです。そのために、今日の聖句を良く考えてみてください。あなたは、小さな子供が疲れて歩けなくなった時にお父さんが背中におんぶしてくれる情景を思い浮かべることができると思います。これと同じように天の神様は、あなたを背負って歩かれるお方なのです。完全にあなたを救うことができる神様があなたの主なのです。それは、天国まで連れ帰るという意味です。ですから、この世でも、あなたは主の恵みに恩恵に預かっているのです。それをご自分のものとするために信仰があるのです。自分を根拠にすると否定的になりやすくても、背負われているので背負っている神様を根拠にすれば、肯定的に何でもうまくいくと信じることはやさしいのです。これを信仰と言います。

 

11月21日(日)

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。

主は平和を宣言されます

御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に

彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

主を畏れる人に救いは近く

栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。

詩篇85:9、10

 

神様を礼拝する人たちがいます。その形式は様々ですが、霊と真をもって礼拝する人たちがいるのです。神様を第一にすることがどれほど重要なことであるか、クリスチャンなら知っています。ですから、毎週礼拝を欠かすことはありませんからそれは習慣となります。今は便利になってリモートやビデオを使って自分の事情に合わせて礼拝できます。こうして長い人生を通して主を礼拝するのです。さて、詩篇85篇の2節から8節までは礼拝に使われていたようです。そして、9節以下は多分礼拝中に霊感された預言者が語ったのだと思われます。それは、主の救いの言葉です。大変感動的な預言の言葉は、私たちにまで響きます。過去には、罪の中に生きていた私たちを主は探し出し、十字架の元へと連れて行ってくださったのです。そして、恵みの中で悔い改めへと導かれ、罪の赦しを得ました。私たちの過去の過ちと汚れを全て洗い流し、良心まですすがれたのです。神の息が新たに吹き入れられ、新生しました。もはや、罪による神との断絶は回復され、平和が宣言されました。主の救いがいかに神の愛に溢れていたか、知ったクリスチャンは、主の慈しみに生きるようになります。それゆえ、愚かなふるまいに戻らないように注意が勧告されているのです。それは、主を畏れることを知るという意味です。それは特に礼拝に現れます。礼拝の時を聖別することは、神を第一にすることの意思表示になります。「主を畏れる人に救いは近く」と書かれた通りです。そして、あなたこそが主を畏れる人です。ですから、あなたの住んでいる地に栄光はとどまります。あなたがそこで主を礼拝しているからです。

 

11月22日(月)

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。・・・あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

ルカ6:31、36

 

有名な主イエスのお言葉です。クリスチャンなら誰でも知っています。しかし、すぐに忘れてしまうことができるのです。なぜなら、納得できないからです。それは、このお言葉が語られる前に「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。・・・と、まだまだ続きます。とても立派なことでしょうが、実際に敵の顔が浮かべば、感情は納得できないとざわつきます。そこで、自分はできないからダメだとガッカリするかもしれません。そうでなければ、無駄な努力をする人がやってみてすぐに挫折すると、この命令を無視するようになります。何が問題かは明からで罪人の考えでは納得いかないのです。少なくとも、目には目、歯には歯、ぐらいのことを言っていただかないと納得がいかないのです。では、主イエスは人間が守れらないことを命じたのでしょうか。今日の聖句を良く見てみると、だんだん理解できるようになります。それは、自分も誰かの敵になってしまうことがあり得る、ということです。今までは、敵を赦すのか!と納得いかなかったのですが、今度は逆転して、自分が誰かの敵になってしまった場合に、もし相手が主のご命令の通りにしてくれたなら、なんと有難いでしょうか。そして、相手に主の言われた通りにして欲しいと思うのです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。ここで、またしてもチャレンジが自分に戻ってきます。結局、自分のことばかり考えているとできないが、相手のことも考えるようになると、何かできることがあるのです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。この黄金律は、もともと、天の父が憐れみ深いから出てきた原則なのです。ですから、私たちが天の父の憐れみ深さに助けれているのであれば、それがどんなに良いものであるか知っているのです。それをあなたも実行しなさいということなのですね。

 

11月23日(火)

イスラエルの聖なる神

あなたを贖う主はこう言われる。

わたしは主、あなたの神

わたしはあなたを教えて力をもたせ

あなたを導いて道を行かせる。

イザヤ48:17

 

私たちの人生は主よって特別なものとなっています。一見すると他の人たちとどう違うのか分からないかもしれません。しかし、決定的に違っています。まず、罪人であったのに主によって贖われました。それだけではなく、罪人であった古い人はキリストの十字架に釘付けにされ死んだのですが、神の息を吹き入れられて新しく生まれ、神の子にされました。クリスチャンは、ただ生きているわけではありません。主はあなたを教えて力を持たせるのです。自分の人生の全てがそのためにあります。悪いことが起こったと落ち込むことはありません。それすら、主が教え力を持たせようとされているから起こっているのです。その上であなたの歩むべき最良の道、まさしく幸福な人生の道を歩むようにと導いて行かれるのです。ですから、クリスチャンは主を信じて祈り、聖書に学び、信仰で行くべき道を決めるのです。ありがたいことに、私たちの頑張りや努力とは関係なく、主の憐れみによって、導かれるのです。ですから、主を第一にしましょう。

 

11月24日(水)

茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の煩いや富の誘惑が御言葉をふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。

マタイ13:22、23

 

クリスチャンなら、この種を蒔く人のたとえ話を知っているでしょう。譬え話には珍しくイエス様の解き明かしまで書かれています。弟子たちは、このように主から特別に解き明かしを聞いていたのです。さて、解き明かしを読んでも、まだ考えなければなりません。それは例えば、「世の煩いや富の誘惑が御言葉をふさいで、実らない人」です。「実らない人」とありますが、何が実らない?と言いたくなります。でも、聖書の秘密が書かれていることは間違いありません。聖書の御言葉は何か不思議な力があって、人に実を結ばせるような、大きな力があるのです。それが、妨げられるのことが大問題なのです。なぜなら天国へ行けなくなるからです。このままの自分で天国へ行くと思える人は幸せですが、普通は、このままの自分では天国へ行けるのか不安だと思っている人が多いのです。では、いつどうやって天国行きが確定するような自分になれるのでしょうか。答えるのが難しいかもしれません。なぜなら、自分の努力では無理なような気がするからです。では、どうやって自分を完全な聖なる者とすることができるかといえば、御言葉の力が必要なのです。それは、「御言葉を聞いて悟る人」とあるように、悟ると三十倍から百倍の実を結ぶことになります。さて、他に「実を結ぶ」と書かれているのは、ガラテヤ書の5:22に「霊の結ぶ実は」とあります。ここでは聖霊が結ぶ実として「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」があげられています。つまり、キリストの品性のリストですが、これらの品性が聖霊と御言葉によって結ばれるということになります。天国に持って行けるのはこの品性だけなのです。キリストに似た者となる、というのはこのような仕組みで品性を実らせることだったのです。種すら蒔かない人もいるでしょうが、それでどうやって聖霊の実を結ぼうとしているのでしょう。まずは、聖書を祈りながら読んで、「悟る」という経験をしてみましょう。きっと、良いことが起こります。

 

11月25日(木)

ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。

使徒言行録9:40~42

 

これはキリストの女弟子が亡くなった時の出来事です。このタビタと呼ばれた女弟子が、どれほど弱い者たちを助けていたか、やもめたちが泣きながらタビタの作ってくれたものを見せたことからわかります。ペトロは、この時深く感動したことでしょう。そして、タビタはもっと生きて、頼りにしている人たちのために愛情をかけ、励ますべきだと思ったのではないでしょうか。その結果が、今日の聖句にある通りです。死人をよみがえらせる賜物は、奇跡の賜物とか力ある業の賜物と呼ばれるものです。これほどの大きな力を神様はクリスチャンの中でこの奉仕にふさわしい人に授けます。聖書によると、タビタが生き返ったことは、奇跡としてヤッファ中に知れ渡ったのです。その結果、多くの人が主を信じた、とあります。今日の日本で伝道が進まない理由の一つが、教会で奇跡が起こらない、いや少な過ぎることが問題なのです。奇跡が全く無いということはありません。聖書は契約書なので、神様の約束が書かれているのです。それを履行する方法が信仰によるのです。信仰と言っても、偉人の秀でた信仰のような意味ではありません。誰でも、心から信じるだけで良いのです。それでも、無理だと言うのなら、切羽詰まって、どうしても主に助けていただきたいと思って祈るような時には信仰は十分に発揮されています。それは、自分の内に聖霊が宿っているからです。聖霊が一緒に居られるという奇跡を体験できます。ぜひ、あなたも聖霊に満たされて、神様体験しましょう。

 

 11月26日(金)

イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

ルカ20:35、36

 

復活することを考えたことがあるでしょうか。初代教会から2000年が経ち、その間にもたくさんのクリスチャンは眠りにつきました。そして、私たちも再臨を待っていますが、その前に眠りにつくことだって大いにあり得ます。そのことは、あまり話されることがないので、詳しくは知らないでしょう。死ぬことを話すこと自体がはばかられるので、余計に復活とその後のことは考えていないのではないでしょうか。しかし、クリスチャンは心配することはありません。この世は、確かに悪い世でしたが、来る世はまさに天国なのです。その天国で私たちはどのような姿なのか、パウロの語るように、肉の体は脱ぎ捨てて、新しく霊の体が与えられるとのことでした。それがどのようなものなのかは分かりません。しかし、良いものであることは間違いありません。肉体は残念ながら病気にもかかるし、怪我もする、そして、残念ながら死んでしまうのです。ところが霊の体をまとった人は、永遠に生きます。病気や死が無い世界に連れて行っていただくのです。私たち自身の自覚ですが、まず天国に結婚はないので、その点は大きな違いとなります。天国なのですから死ぬこともありません。天使に等しい存在になるのです。これは、神の子として天国に入れていただいたということです。地上の延長と考えると間違えるでしょう。とにかく、今まで考えてみたこともない世界で、その主である神様と一緒に生きるのです。

 

11月27日(土)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:6、7

 

「キリストに結ばれて歩みなさい」とは、どのようなことでしょう。結婚した人たちのことも二人は結ばれて、ということがあります。ですから、同じような意味で理解することができます。キリストと結婚したように生きなさい、と命じられたわけです。実は、それ以上の関係になるのは相手が人間ではなく、キリストであることからわかります。しかも、「あなたがたの内におられるキリスト」(1:27)とありますから、霊的に文字通り結ばれているのです。聖書に書かれたままにそのことを信じて、ただ自分の内にキリストがいるというだけではなく、この「キリストに根を下ろして造り上げられ」ることを目指すのです。それは、あなたが主導するのではなく、あなたは内住のキリストが主導することを認めて、あなたの意思で主に任せることが大切です。色々考え過ぎて、難しくする必要はありません。聖書に書いてあるのですから、主が導かれます。それに従順に従うことを信仰と考えていればうまく行きます。そして、聖書に書いてあるので実践して欲しいことが、「あふれるばかりに感謝しなさい」との命令に従うことです。毎日、あなたが行うことで意識的に実行することが、この「あふれるばかりに感謝」することです。これは、意図的に行えば、それだけでも大きな恵みとなります。神様の不思議にを体験でしてみてください。

 

11月28日(日)

神に従う人は頭に祝福を受ける。

神に逆らう者は口に不法を隠す。

神に従う人の名は祝福され

神に逆らう者の名は朽ちる。

箴言10:6、7

 

よく老舗の店の店主が何代目〇〇ですと、同じ名前を何代も継いでいるのを聞くことがあります。聖書では同じ名前が何度も出てきます。よく考えると人の名前は不思議なものです。生まれた時に自分で自分の名前をつけることができないのです。人は悪事を働く時には偽名を使うものです。名前など、何でもいいのでしょうか。イスラエルの古代人は、自分が成した善行によって覚えられること、それは名前なのですが、つまり、自分の良い評判が永遠に覚えられることがイスラエル人の願いだったのです。人の名が後世にも覚えられるということは、その人の生命の延長を意味していました。そうすると、「名は朽ちる」がどれほど恐ろしいことかわかりますね。このように、名前にはこだわったのです。前後しますが、6節の別訳では、「祝福は義人の上に雨のように注がれる」とあります。「義人」というと固くて、多くの読者は自分とは違う人だと引いてしまいます。しかし、「神に従う人」なら、自分もそうなりたいと素直に思えるので不思議です。6節の下句も別訳では「悪人は自分自身の暴虐によって窒息させられる」とあります。これは、何となく言わんとすることが分かってくるでしょう。どちらの人生が幸せか、良いか、と問われれば、神に従う人ですと答えたくなります。神様の祝福が雨のように注がれる人生が良いと考えるのは正しいことです。クリスチャンは、「神に従う人」の意味です。

 

11月29日(月)

どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。

コロサイ1:9b、10

 

聖霊は私たち信仰のある者にとっては、別のキリストであり、私たちの内に住み、実を結ばせる力があり、キリストの御言葉を解き明かし、私たちと交わることのできるお方です。その聖霊によるあらゆる知恵と理解があれば、神の御心を十分悟れるわけです。それが重要なことであるのは間違いありませんが、そのようなことを人から教えられることは無いかもしれません。しかし、聖書にははっきり書かれていますから、まずは、ここに心を向けるべきです。御心を知るなら、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩むことも可能です。そうなると、あらゆる善い業を行って実を結ぶ、ということも実現するでしょう。その結果、神をますます深く知ることができるのです。気をつけないと、私たちは目的も目標も無いまま、クリスチャンとしてただ生きているということになりかねないのです。それは、主から何を求められているか知らないからです。今日の聖句だけからでも、神を深く知ることが私たちにとって大切なことであるのです。それは、人間的には到底できないことなのですが、聖霊が遣わされてきたので、聖霊の助けを受けることができるのです。それは、今日の聖句で学んだ通り、聖霊による知恵と理解によって、神の御心を悟り、主に従って歩み、聖霊によって善い業を行って実を結び、その結果神を深く知るようになることが、クリスチャンが目指すことなのです。そして、聖書に書いてあるのですから誰でも可能です。この聖句を忘れないようにしましょう。

 

11月30日(火)

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

ゼパニヤ3:17

 

この世の中で無条件にあなたを受け入れ、愛してくれる人は誰だろう。思いつかないなら、イエス様のことを考えよう。今日の御言葉はあなたのことを語っている。あなたには、神がいる。とても個人的な関係なので主と呼んでいる。この神があなたを救ってくださった方だ。その救いも人間の想像を遥かに超えている。何しろ、あなたのただ中におられるのだから。あなたは、自分のことを知っているはずだ。どんな人間であるか。人には自慢することがあっても、神にはとてもできないと思っている。心理学者は、肯定的に考えろと言うが、それがなかなか難しい。自分がいかに否定的な思考の人間なのかといいかげんうんざりする。それなのに、神はそんな私を非難しない。驚くことに、自分が嫌になっている間に、神は救いの勇士としてあなたのために戦っているのだ。それどころか、主はあなたのことを喜んでいるし、楽しみにしているのだ。ビックリだ!そして、あなたが信仰を思い出して、主に心を向けると、主は愛によってあなたに安らぎを与えてくれる。不安が消えていく。何も心配しなくても大丈夫だと思えるだろう。あなたは感謝するはずだ。ちょっと讃美するかもしれない。すると、主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。これがあなたの信じている神、主である。あなたは主に無条件に愛されている。これはいつまでも変わることはない。主があなたを愛していれば大丈夫だ。あなたは、きっと勇気を出して前に進むだろう。そして、きっとすべてうまく行く。