12月1日(水)
律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ローマ3:20
クリスチャンになると正しく生きようと決意するものです。その決意は本物で、生き方そのものを変えようとするぐらい強いものです。では、正しく生きるとはどういうことでしょうか。罪を犯さないということでしょうか。では、罪とはなんでしょう。正しいこととはどんなことなのでしょう。その答えが律法なのです。最初に律法を神様から授けられた人はモーセです。そこで、モーセと律法は結び付けられています。有名な十戒を授けられたモーセは、イスラエルの民に律法を朗読させ、彼らに律法を守り行うと誓約させます。これが旧契約です。それから、イエス様が登場するまでイスラエルの民は、律法を守ろうとしながら罪を犯し続けてしまいました。罪は、律法違反で明らかになったのです。
私たちもともすれば、真面目に律法を守らなければならないと考えることがあります。そのこと自体は、正しいことなのですが、問題は罪を理解していないことです。例えば、リトマス試験紙は赤くなれば酸性、青くなればアルカリ性と判別するものですが、酸性のものにリトマス試験紙をつけて青くなれと命じても赤くしかならないように、律法はリトマス試験紙のようなものなのです。罪人を律法で試験してみれば、罪の自覚が生じるだけなのです。罪人は自己中心なので、自分は正しいと思い込みやすいのです。そうなると、律法を守って義と認めてもらおうとします。罪人はどんなに頑張っても義にはならないのですから、愚かなことなのです。問題は罪人の罪をどうやって取り去るかということです。罪がなくなれば、律法を守ることも行うことも可能です。ここが問題の焦点なのです。パウロは、「わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(7:23)と言っていますから、肉の内に罪が宿っているのです。この罪を処理しなければ、どんなに律法が正しく立派でも、罪を明らかなものにして人を裁いてしまうだけです。だから、罪の問題を解決するのは自分ではできないので、救い主が必要だったのです。そして、イエス様は罪を贖ってくださったのです。これは、恵みによって義としてくださったということですから、私たちにとって福音なのです。私たちに求められたのは、信じる信仰でした。
12月2日(木)
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマ3:23、24
テレビ東京の「あなたの家について行っていいですか」という番組があります。この番組で68歳の男性が北海道の留萌の近くの人で、50年間実家に帰っていないということから、テレビ局の人と一緒に故郷を訪ねて行く内容でした。彼の父は戦争でシベリアに抑留されていた人です。帰国後、払い下げられた北海道の山谷を開墾して農業を営んでいましたが、政府が米が余ったので町長に農家に農業をやめるようにと説得させたそうです。彼は、高校を卒業して農業をしようと父を手伝い3年目だったそうです。それで、東京に出て日産に勤め結婚したのですが、友人に騙されて多額の借金を負うことになりました。それが原因で離婚し、一家は離散し、家も失いました。そして、バブルが弾けて、人生を転落して行ったのです。彼は、望郷の思いがありながら、親に負い目があって帰れず、両親の葬式にも出れませんでした。50年ぶりに帰郷すると、故郷は廃れ、人もいなくなり、家も学校も無くなっていました。私も生まれたのは北海道の札幌です。育ったのは東京ですが、北海道に行くと何とも不思議な郷愁があります。ですから、この男性の気持ちが少しは分かるのです。今日の聖句は、「人は皆、罪を犯して栄光を受けられなくなっています」と言います。確かに、そうだなぁ、と思います。68歳の男性は、農業を続けていたかったと語ります。東京は憧れだったが、今は北海道に住みたいと思う、と言っていた言葉が胸に響きます。68歳といえば、あらかた人生を生きてしまったわけですが、人を幸せにさせない力が働いていて、頑張ったのに、結局報われないと思わせる原因が罪なのです。罪といっても犯罪という意味ではありません。この罪という人を苦しめる力が人生に影を落とすのです。人間が罪を克服しようとしても、あらがうことを許さない力こそが、罪そのものなのです。ですから、希望が無くなり、しかたなく死を待つように生きるのです。ところが、このような人間の悲惨な苦しみの原因である罪を贖って救おうと、天から降りてきた方がイエス・キリストです。しかも、無力であることを知っておられるので、ただで、恵みによって義としてくださるのです。義は罪がもう無いことを意味しています。これが人間にとって唯一の救いの希望なのです。だから、この知らせを福音と言うのです。
12月3日(金)
弱い人の叫びに耳を閉ざす者は
自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。
箴言21:13
人間はどう生きるかを自分で決めることができます。損得勘定で人間関係を考える人は、自分も同じように扱われる日が待っています。クリスチャンは、イエス様から学んでいますから、小さき者に敏感です。弱い者を無視することもできません。このことを考えて、心の負担になる人は考え過ぎです。つまり、自分ができることをすればいいのであって、人助けだからと大げさに考え過ぎてはいけないのです。イエス様のお言葉は、一杯の水でした。これぐらいなら、何の負担も感じないで助けることができます。ただ、今日の聖句は、「叫びに耳を閉ざす」とありましたから、聞くことを第一に考えなければいけません。取るに足りない人と侮ることなく、ちゃんと真摯に耳を傾けて聞いてあげましょう。人に聞いてもらうことが助けになることが人間には実に多いのです。弱い人とは、聞いてもらえる人がいない人のことです。そんな人があなたのことを思い出して、声をかけてきたなら、優しく耳を傾けてみましょう。そんな心がけがあれば、きっと聖霊はあなたを通して弱い人の声を聞くことができます。その意味するところは、神様の助けが期待できると言うことです。そんな場に自分が置かれているなら、とても嬉しいことですね。そんな人はいつか、自分が叫び求める時が来るかもしれませんが、その時に答えが得られることでしょう。聖書の知恵は、実効性がありますから、すぐに忘れてしまう愚者にならないようにしましょう。
12月4日(土)
主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。
彼はとこしえに記憶される。
彼は悪評を立てられても恐れない。
その心は、固く主に信頼している。
彼の心は堅固で恐れることなく
ついに彼は敵を支配する。
詩篇112:6~8
牧師をしていて分かることは、人は恐れたり不安になると揺らぎ出すと言うことです。聖書の約束では、「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない」と書かれています。信仰によって生きている人たちは、すべて主に従う人です。ですから、本来揺らぐことがないのです。ところが、クリスチャンでもしばしば、恐れや不安に悩まされることがあるのです。それは、時々、「主に従う人」であることを忘れていないかテストされているようにも見えます。使徒言行録を読むと、ペンテコステまでの弟子たちは、揺らぐことがしばしばありました。しかし、ペンテコステで聖霊が降ってから、彼らは恐れを知らない勇姿のように揺らぐことがありませんでした。私たちも、クリスチャンになりたての時には、すぐに揺らぐような者であったと思います。それから、長い時間をかけてだんだんと信仰が強められ、聖霊の助けを受けて成長し、主に従うことを学んできたのです。揺るがない人の恩典は、「彼はとこしえに記憶される」とあります。つまり、来るべき次の世、天国に入ることができるということです。人間は人の目を気にし、評判を気にするものです。ですから、悪評を立てられることが特に怖いのです。しかし、主に従う人は恐れません。嫌なことではありますが、主を信頼しているので耐えることができるのです。なぜ、聖書が恐れるなと言っているかは、敵に打ち勝つ方法だからです。サタンは敵という意味です。残念ながらあなたにも敵がいるのです。クリスチャンになる前は、あなたを奴隷として支配いましたが、今はキリストによって解放され、ついには敵を支配するようになるのです。時間はかかりますが、着実に聖霊が働き、私たちは主に従う人として揺らぐことのない者になれるのです。
12月5日(日)
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。
ローマ8:10
キリストは今もあなたのために働いています。天においては、あなたを執り成し、地においては、あなたの内に宿りあなたを新しく生きる者としてくださいます。あなたにとって、重要なことは主への従順です。自分勝手に生きるなら、肉の支配に逆戻りです。肉の思いは死であり、神に敵対するのです。それは、神の律法に従えないからです。聖霊に従うなら、律法に調和できます。そして、聖霊があなたの命となっているのです。聖書は、あなたの体は罪によって死んでいると言います。これは良い状態ではないですね。人は体と魂と霊によってできているとパウロは言っています(Ⅰテサロニケ5:23参照)。そして、そのどれをもキリストは損なわずに、非のうちどころのない者にしてくださるのです。ですから、あなたの死ぬはずの体もあなたの内におられる聖霊によって生かしてくださるでしょう。このように、信仰によってあなたは生きることで、聖書の神秘を体験することになります。この世の情報に振り回されてはいけません。聖書に書かれた真実によって、信仰を働かせ、大いに祝福された人生を歩めるのです。全ては天の父の御心で、御子イエス・キリストが私たちを救われたことで、奇跡はすでに始まっているのです。あなたが生きる時間をすべて使って、キリストはあなたを義とし、聖霊は天国の住人にふさわしくなるようにあなたを再創造されているのです。日々の生活で、あなたは自分の足りなさを悲しく思うかもしれませんが、正常な反応です。自分を認めてもらおうといまだ頑張っているのではありませんか。主がすでにあなたを認めておられるのですから、安心して人に認めてもらおうとする大変さから解放されてもいいのです。人を愛するもう一人のキリストがあなたの内におられます。そのキリストが働けるようにすればいいのです。人の本質が見えるようになり、心の声が聞こえるようになるので、同情や憐れみの心が溢れて出てくるようになります。そのような不思議があなたにすでに備わっていることを覚えましょう。
12月6日(月)
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入り、揺すり入れ。あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量りかえされる。からである。
ルカ6:38
金銭感覚は人それぞれで違っているものです。日本人は、比較的金銭には慎重で貯金する人が多いのが特徴です。しかし、寄附とか寄贈などの習慣があまり無く弱いのです。キリスト教国のアメリカでは、献金も多いのですが、寄附も多いのが特徴です。そして、貯金するのではなく投資をします。国や民族によってお金のことでも大きく異なっているのです。しかし、お金の原則は一つあります。「与えなさい」との主のご命令があったように、与えることが経済を良くする秘訣なのです。これは決して無駄遣いすることと同じ意味ではありません。私たちはクリスチャンなので、この世の人たちのような投資をしないかもしれませんが、天国への投資や、主への投資はします。貧しい者や弱い者、小さき者に、施しや慈善のようなことはするのです。与えると、減ってしまい、損すると思っている人もいますが、それは人間の常識ではそうなるのでしょうが、実際は違っています。与えるなら、あなたにも与えると主はおっしゃったのです。それも、過分に量りを多くして与えられるというのです。それが、神様の原則であるなら、「あなたがたの量る秤で量りかえされる」ことになるということは、与える能力のことだとわかります。さて、自分の秤はどうでしょう。
12月7日(火)
だから、天の召にあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
ヘブル3:1
良く考えてください。あなたが主と信じるイエス・キリストは、使者であり、大祭司です。この使者と大祭司の違いは何でしょう。使者は、キリストの生涯に現れた通り、神の言葉を伝える者であり、人が救われて祝福された命に生きるようにと神を正しく認識させる働きをなさる方です。大祭司は、信仰者が神を礼拝する時に聖なる神の御前に立ち執り成す務めをする方です。このように、使者の働きは福音書に記されたキリストの公生涯に明確に見る事ができます。しかし、キリストが大祭司であることはこの地上では見ることができませんでした。では、どこで大祭司として務めているのかといえば、昇天されて天国の聖所で奉仕されているのです。罪人は神の怒りに耐えらませんが、福音を信じてクリスチャンになった者には、大祭司キリストの取り成しが期待できます。だから、罪を犯したなら悔い改めて祈るのです。使者であるキリストは、この地上に遣わされて来た時に、神をあらわしたのです。私たちにも、そのことは必要なので福音書にキリストの言動が記録されました。私たちは、何回も聖書を読み返し、神を知ろうとしているのです。神を知るためには、キリストを知らなければなりません。キリストは人となられた神ですから、私たちにも理解できるのです。ですから、キリストのことをもっと学び、考えることが私たちの務めなのです。その報いは祝福された生涯となってはっきり知ることができます。
12月8日(水)
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ちあけなさい。そうすれば、、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピ4:6、7
私たちは、思い煩ってはいけないと教えられています。聖書でイエス様の御言葉も読み知っています。それなのに、普通に生活をしていても思い煩うようなことが起こってくるのです。思い煩うと悪いことを考えて、落ち込んだり、不安になってしまうでしょう。そのような否定的な考えを一旦始めると際限なく続いてしまいます。神様を信じているのに、絶望したり、誰かを恨んだり、自分を責めたりと、必要のない悪いことをし始めるのです。クリスチャンも人間なので仕方がないのですが、せっかく信仰を持っているのに残念なことをしているのはもったいないです。今日の聖句を良く読んで、自分のものにすることが賢明な事です。これは、誰でもすぐに実践できます。ただ、「感謝を込めて」とあるので、ここがポイントです。形だけこのように祈ってもダメなのです。何事が起こっていても感謝を込めて祈るのです。思い煩っているのですから、とても感謝できる状態ではないのです。ですから、感謝することができるかどうかで、この祈りと願いの効果が決まるのです。これは、主を信じることと関係しています。人間の常識では感謝などできるような状況ではないので、思い煩っているのです。それなのに、感謝することから始めることに秘密があるのです。この祈りの効果は、「あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」ことです。心と考えがあなたの信じることになります。思い煩うとこの心ろ考えが不信仰にふれてしまいます。それでは、祈っても信じても、うまくいかないでしょう。思い煩う時は、悪い事や否定的な事を信じているのです。ですから、心と考えを守らなければならないのです。まずは思い煩うことをやめます。それから信仰で感謝するのです。これは心からの感謝です。感謝が本心からできるまで続けます。そして、求めているものを神様に打ち明けるのです。良い結果は既にあなたのものです。
12月9日(木)
人よ、何が善であり
主が何をお前に求めていられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ6:8
クリスチャンは聖徒と呼ばれたりするので、立派に生きなければならないとどこかで気負っているところがあります。それが過ぎると、律法を遵守しなければならないと律法主義にさえなる危険があります。自分がどのようなものであるかは、本人が一番良く知っています。ですから、身丈に合った生き方しかできないことを認めることが肝心です。神様もそんなことはご存じです。ですから、ファリサイ派や律法学者などの失敗例を聖書に記録しているのです。自分の力で頑張っても理想的な聖人にはなれないのです。聖霊の助けなしには何も期待できません。しかし、クリスチャンには聖霊が宿っているのですから、期待できます。今日の聖句を読むと、主があなたに求めていることが明瞭に書かれています。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」です。これだけです。自由意志を用いて、これを実現するのです。自分の弱さが出て来た時には聖霊に助けていただきます。だから、誰でもできるはずです。そして、その報いも大きいのです。素晴らしい人生を喜びを持って生きることを目指しましょう。肉の自信ではなく、新しく神の子とされたあなたの聖なる自信を持ちましょう。肉の自信は高慢ですが、聖なる自信はへりくだって神と共に歩むことです。このようにして一生かかって主イエス・キリストのようになるのです。
12月10日(金)
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。ローマ3:25
キリストがこの世界に現れた理由は、この聖句に書かれている通りです。さて、皆さんはご自分を罪人だと認めたので、今クリスチャンになっているのではないでしょうか。つまり、救われるには、自分が罪人であることを認める必要があるということです。罪人の特徴は自己中心なので、自分を罪人と認めることが本来できないのです。それだから、普通では罪を認めることはしないのです。もし、自分が罪人であるとなれば、普通に生きていくことが困難になります。そこで、ここでも聖霊が人間の外側から働きかけて罪を認めさせようとします。また、クリスチャンが誰か遣わされて、その人が罪人であることを理解させる助けになります。罪に目覚めるといてもたってもいられません。その時に、完全に救う方法と罪をきれいに清める方法を教えます。それが、今日の聖句の上の句です。人の救いはキリストによるのです。キリストから始めなければ救いはありません。ですから、キリストを信じるかどうかがとても重要なのです。そして、十字架を理解する必要があります。そこでキリストが流された血には人を救う「罪を贖う供え物」と「罪の汚れを清める」力があるのです。悪魔もこのキリストの血にはかないません。さて、今日の聖句の下の句には、重要なことが書いてありました。「今まで人が犯した罪を見逃して」ということです。つまり、人が犯した罪は事実存在します。しかし、そのままでは罪のゆえに滅ぼされます。そうならないために、キリストが私たちの身代わりに罪の罰を受けてくださったのです。それが十字架です。神はただ、いい加減に罪を見逃したのではありません。神自身が甚大な犠牲を払って、人の罪を赦したのです。罪の支払う報酬は死である、と聖句があるように、正しいことを神は成し遂げられたのです。それが、神の義です。罪深い私たちが死ぬのは当たり前ですが、罪の無い神の独り子キリストが私たちの罪を負って死んでくださったのです。それほどの犠牲を払う価値があなたにはあるのです。それにふさわしい人生を生きるのがあなたの役目です。あなたはキリストのようなクリスチャンになれます。信仰によってなれるのです。信じてみましょう。
12月11日(土)
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
ヨハネ7:38
心が渇くという言い方があります。人間の心は実に繊細で喜びも悲しみも、怒りや憐れみも驚くほど人を動かします。この心が渇くなら、何によって潤すことができるのでしょう。コヘレトは空しい空しいと繰り返しますが、罪の世界は滅びへと向かいますから、何をしても空しいはずです。正義だって揺らぎます。若い時ならば、自分が何になるのか、何が自分にとって価値あることなのか、と悩みます。でも、そのような世界に、主は救い主として生まれてこられたのです。主イエスの言われることは、実に単純です。「私を信じる者は」、つまり主イエスを信じるなら、罪の世界で心の渇きを覚える人も、心の最も深いところから、生ける水の川が流れ出るようになる、と言われるのです。それまでの宗教家たちは、律法を守れの一点張りでしたが、清く生きろとか立派に生きろと言われてもできないものはできないのです。そもそも、何の欲も無ければできるかもしれませんが、それでは、ロボットのようでつまりません。この個性的な人間がありのままに救われるのですから、もっと別の救いの経験です。ただ、主イエスを信じて、心の奥底から、行ける水の川が流れですような経験は、誰にとっても必要です。それほどの経験をすれば、嫌でも生まれ変わります。これは、実は聖霊体験でもあるのです。人を生かす、生ける水が渇きを癒します。その水はチョロチョロと流れるのではなく、驚くことに川になって溢れ出るのです。このような救いを誰でも、経験できるのです。条件は、主イエスを信じることです。今も、イエス様を信じているでしょうが、もっともっと信じることができます。そのことを考えてください。そして、生ける水の川が流れる出るように祈ってみましょう。
12月12日(日)
命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。
ルカ17:9、10
この世は損したくない人に満ちています。その割には、ずいぶん損をしているのですが、気づいていない人ばかりです。例えば、何か自分の仕事以外の仕事をしなければならなくなると、損をしたくない病が発症します。自分のしなければならない仕事でもしたく無いのにと文句を言いたくなるのです。それが、誰かのせいで余計な仕事をしなければならないと腹が立ちます。損をしたと思います。誰かの失敗の尻拭いをさせられたりしようものなら大損です。ですからその人を赦せなくなってしまいます。誰かがズルをすれば、そのことが頭から離れません。責めたい気持ちでいっぱいになります。これも大損をしたからです。でも、相手が主イエスならどうでしょう。文句を言うでしょうか。損をしたと思うわないのではないでしょうか。イエス様の譬え話の方がずっと上手ですが、私たちはこのように損得勘定で測る癖があって、余計な仕事はしたくないのです。だから、仕事などで迷惑をかける人を赦せなくなります。クリスチャンなのでまずいなとはちょっとは思うのですが、それ以上に嫌だという感情に負けます。それを補うのが、誉められることです。ですから、これは得することです。何か大変なことをした時には、当然誉められたくなります。誰も誉めてくれないと、すごく損した気持ちになります。このような感情を誰もが持っているのです。ところが、主イエスは、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい、と命じました。ですから、これがクリスチャンのするべきことになります。さて、何かハードルが高いと感じましたか。でも、相手が主イエスならどうでしょう。私たちは御言葉の通りにするでしょう。そして、損したとは思わないのです。そこで、今度は、主イエスに仕えるように、隣人にもしてみようとなります。ただ、相手が問題を持っている人物なら話は別です。その人は何か困っているはずですから、それを見分けるのです。問題行動は、その人が困っていることの赤信号だからです。これは、神様の助けが必要ですから、別のことになります。
12月13日(月)
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
エフェソ1:4
あなたが神様に愛されたのは、最近の話しではありません。それどころか、驚くべきことに天地創造の前に、神はわたしたちを愛してくださったのです。ですから、あなたが教会で洗礼を受けたから愛されているのではないのです。あなたの存在は創造の前に既に知られていました。創造主は、あなたをご自分の前で聖なる者、汚れのないものにしようと決めておられたのです。それは、もちろんイエス様によってですが、神の愛に根ざしています。そうすると、私たちが天国へ入れるように聖なる者になろうとしてもうまくいかないことでわかるように、人間の努力ではできないことなのです。それでは、天国には入れないのではないか、と心配する必要はありません。なにしろ、あなたは選ばれた人なのです。それで、神様が主導して、神様の方法と御力であなたを汚れのない者にしてくださるのです。ところが、人間の努力ではないので、私たちはどうすれば良いのかわからないのです。でも、誰でも救われる方法なので、難しいはずはありません。しかも神が定めたことなので、神の御力と方法で私たちに働きかけてくるのですが、私たちには信仰を要求しています。単純に信じる信仰があればいいのです。子供のように信じましょう。
12月14日(火)
わたしを愛する人をわたしも愛し
わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
わたしのもとには富と名声があり
すぐれた財産と慈善もある。
わたしの与える実りは
どのような金、純金にもまさり
わたしのもたらす収穫は
精選された銀にまさる。
慈善の道をわたしは歩き
正義の道をわたしは進む。
わたしを愛する人は嗣業を得る。
わたしは彼らの倉を満たす。
箴言8:17~21
クリスチャンになってから、「知恵」という言葉をよく耳にすると思います。クリスチャンでなくても、知恵という言葉は使いますから、人間は知恵の重要性を知っているのです。そして、何とか子孫に知恵の継承をしようと工夫して来たのです。さて、現代では知恵の価値はどうでしょう。「知恵」と並んで「知識」と言う言葉もよく使われます。セットで言われることも多いのです。例えば、コロナ禍で人類はどうやって立ち向かうか苦労してきました。このコロナに打ち勝つために人類が用いているのが「知恵」と「知識」です。賢い人は、「知恵」を探し求めます。熟考するという言葉がありますが、誰でも時間を惜しまず問題解決のために考え続けると、突然閃き解決の答えを見つけることがあります。これは「知恵」です。例えば、失敗した時に、自分を責めたり、人のせいにしたり、失敗を悪いことと決めつけて、悪い結果にしてしまうことはままあります。しかし、中には失敗を良いことと捉えて、それをまるで正解を得るためのエネルギーに変えて確実に成功へ向かう人がいます。この人は「知恵」を知っている人です。ですから、「知恵」を探し求めているのです。その結果は、今日の聖句に書かれた通りです。同じ人間でも、成功する人、名声を得る人、富を築く人、がいますが、これらの人は「知恵」を知っている人です。考えるのが苦手だと言って、何も考えなかったり、よく吟味したりしない人がいますが、彼らは「知恵」を知らない人たちです。「知恵」と言う言葉を知っているだけではダメなのです。「知恵」は求めて探すものであり、知恵を愛する人は知恵に愛されるので人生を幸福に暮らすことができるのです。あなたの倉を満たしたいなら、知恵を探し求めるべきです。きっと見いだします。まずは、一人になって静まり、知恵を探し求めてみましょう。人生はここで左右されます。
12月15日(水)
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
ローマ7:6
聖書には、「あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対して死んだ者となっています」(ローマ7:4)、と書かれています。信仰の面白さですが、キリストの救いの御業は、信じて救われた私たちにもキリストの十字架の死の効力がおよぶのです。それは、霊的な意味ですが、律法に対して死んだ者となっているのです。そうであるからこそ、ファリサイ派の人のようになるはずがありません。クリスチャンでも聖書をよく理解していない人たちは、ここで真面目さゆえに間違ってしまうことがあります。律法は肉で生きている人間には死に至る実を結ばせるのです。しかし、キリストの救いは、罪の贖いにとどまらず、律法からの解放をももたらしたのです。そして、聖霊に従う新しい生き方で使えるようになっているのです。残念なことに、人間的に考えて律法を守ことが正しいことだと律法に対して死んでいたのに、わざわざ元に戻して律法を守ろうとする人が出てきます。守ることができればいいのですが、パウロの指摘の通りに、肉で守ろうとすると不思議なことに罪が噴き出てくるのです。一方、聖霊のバプテスマを受けた人は、神様の圧倒的な愛に満たされるために、この愛に先導されるように生きます。そして、律法がこのアガペーの愛で実現することを知るのです。ですから、自分の力で律法の文字に従うようなことはしなくなります。その代わり、聖霊に従うので、全てが愛に根ざすようになります。この神の愛を知らない人は、理解できずに肉の反応をします。それが悪い反応なのです。キリストに対してユダヤ人が憎しみをあらわにしたことを思い出せばわかります。私たちは、この聖霊に従う新しい生き方を選んで主の御心に適う人生を歩んでいくのです。
12月16日(木)
あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
Ⅱテサロニケ2:13b
私たちを聖なる者とするのは聖霊の力によるのです。人間の力ではできないことです。「真理に対する」と出てくるとわかったようなわからなかったような、曖昧なままになってしまう傾向があります。そこで読み替えをします。真理をイエス・キリストと読み替えてみると、キリストに対するあなたがたの信仰、となります。また、真理を真実と訳すことができるので、神の真実に対するあなたがたの信仰と言い換えてみると、私たちには分かりやすくなります。結局、聖霊によって聖なる者とされ、神の真実に対するあなたがたの信仰とによって、救われるべき者となれるのです。補足しておくと、神の真実とは、罪人を見捨てることなく、神自らが犠牲を払って救われる道筋を立ててくださったことを意味します。天の御父にはキリストによって罪人を救う恵みのご計画があるのです。そして、あなたはこのご計画によって恵みで救われるように神に選ばれた人なのです。
12月17日(金)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
ヘブライ10:39
クリスチャンにとって信仰は大切なことなのですが、あらためて信仰と言われると、何か漠然としていてよく分かっているのか心配になります。でも、あなたの信仰は十分に認められています。その証拠に、救われてクリスチャンになっている事実があります。なんとなく、自分の信仰は弱いとか小さいと言いたくなる時があるかもしれません。さらに自分は不信仰だと言い出す人も出てきます。もし不信仰であれば、とうにクリスチャンではなくなっています。信仰すら主に与えられているのです。自分の器にふさわしく信仰を与えてくださるので負担にはなりません。どうして、自分の信仰に自信がなくなるかといえば、信仰を使っていないからかもしれません。「キリスト・イエスに結ばれていれば、・・・愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)、とあるので愛の実践が問題になっています。「信仰と愛を胸当てとして着け」(Ⅰテサロニケ5:8)とありますから、愛だけでなく、信仰も心に置くことが大切なのです。つまり、信仰と愛がペアーになっているのです。ですから、愛のある心で望んでいる事柄を確信することは、容易いのです。愛ぬきに望んでいる事柄など、御心に沿わない肉の欲望であるかもしれません。信仰はまた、「信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる」(エフェソ6:16)とあります。ですから、悪意ある言葉や、中傷誹謗など、傷つけることが悪魔から火の矢のように放たれることがあるのですが、それを傷つかずに防ぐのものが「信仰」なのだと教えているのです。さて、今日の聖句は、文字通りに受け止めて良いのです。この実践こそが信仰を強める結果となります。この聖句は覚えておきたいです。
12月18日(土)
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
テトス3:4、5
主イエス・キリストの登場は、今日の聖句の初めの部分のことです。「神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに」、実にキリストは神の慈しみと愛の表れだったのです。ですから、キリストを信じ、知るなら、このことに気がつくはずです。私たちは、それぞれ自分で考えてどう生きるか決めています。愚かな生き方をする人もいますが、堅実に頑張る人もいます。ここで、救いに焦点を当てると、救われるためには義の業が、つまりは正しい行いや徳を積むようなことですが、これらの実践が必要と思っていたのです。そうなると、そのように正しい行いにこだわって頑張る人は少数派になります。多くの人は、そんなことを考えずに生きているのですが、ありがたいことに、神の救いの実際は人間の正しい行いではなく、ご自分の憐れみによったのです。ですから、誰でもイエスを信じた者は救われるのです。では、救われるとはどんなことなのでしょう。聖書には正しい人は一人もいない、と断定しているので全人類が罪人なのです。なぜ、人間の正しい行いでは救われないかと言えば、罪は甚だ悪性で、良い行いぐらいではどうにもならないのです。罪は死ぬ以外に解決が無かったのです。そこで、聖霊によって新しく生まれさせることになったのです。新しく生まれるということは、元々の古い自分は罪のために死ななければなリませんでした。そこで、霊的に解決がなされました。それがキリストの十字架です。十字架でキリストが死んだのは、わたしたちのためです。そこで、信仰でキリストと結ばれ一緒に死んだのです。死んだので、新しく生まれなければならなかったのです。それは、もう人間ではどうしようもないことなので、聖霊が働きました。さらに、罪人のまま新しく生まれても仕方がないので、聖なる者になる必要があります。それは、新たに作りかえる洗いを通して実現したのです。つまり、霊と水から新しく生まれたのです。こうやって救われました。
12月19日(日)
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
ローマ15:13
キリスト教は希望の宗教です。ありのままで愛され、恵みで救われるからです。そして、どんな状況になっても、神様にできないことはないと信じることができます。それどころか、どう祈って良いのかすらわからないほど弱り果てた時に、聖霊が執り成して助けてくださるのです。孤独を訴える人がいますが、クリスチャンには主イエスが共にいてくださるという約束があります。主イエスが天に帰られた時も、父にお願いして約束の聖霊(もう一人のキリスト)を私たちに送ってくださるのです。私たちは人間関係の難しさを知っていますから、聖霊との関係は理想的です。わたしたちの自由意志を尊重してくださり、必要な時には必ず助けてくださいます。さらに、クリスチャンにとっての聖書は特別重要なのですが、ただ読むとわからないことが多くあります。そこで、聖霊は祈り求めると解き明かしをしてくださいます。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」(Ⅱペトロ1:20)、と書かれているので、聖書を自分に都合よく解釈する危険があり、このような危険からも聖霊は守ってくださるのです。信仰を誰も奪うことはできませんから、信仰を発揮することをお勧めいたします。あなたは、信仰によって得られるあらゆる喜びをご存知ですか。そして、平和を味わっているでしょうか。聖霊はあなたの信仰をも強めてくださいます。この聖霊によって希望に満ちあふれさせてくださるのですから、自分ばかり見ないで聖霊に心を向けてみましょう。自分がいかに恵まれているかを日々味わいましょう。
12月20日(月)
神にできないことは何一つない。
ルカ1:37
神に不可能は無いのです。何でもできます。主が奇跡を起こすことも聖書にいくつも実例があります。さて、箴言を読むと知恵がいかに大切かくどいくらいに書かれています。そして、何となく知恵がある方がいいだろう、とよくわからないままに納得してしまうものです。ですから、実際に知恵がどれほど役に立つかもわかっていないのです。今日の聖句は、「神にできないことは何一つない」と重要なことを教えています。そこで、ちょっと想像力を働かせて考えてみましょう。一人の貧しいシングルマザーがいます。子供は小学一年生です。仕事は子供のことを考えてパートです。ですから、生活が苦しいのです。もしあなたが神様ならこの人に何か良いことをしてあげますか?してあげるとしたら、どんなことをしますか?ここで、考えもなくお金を与えるとどうなるでしょう?難しいですよね。良かれと思ってしたことがその人にとって悪い結果をもたらすかもしれません。でも、このシングルマザーと子供を助けたいですよね。では間違いなく最善の助けを与えるには何が必要でしょう?もうお分かりですね。知恵が必要なんです。人を助けたいと思って関わると、文句を言われたり、怒られたり、傷つくことを言われたりすることがあります。どうしてそうなるかと考えると、知恵がないからだと気付かされます。一番苦しんでいる人、助けを求めている人がイエス様に触れることを願っているのなら、その通路になれるように余計なことをしなければいいのですが、知恵がないとすぐに失敗してしまうのです。そんな時に、自分ではなくキリスト、と言い聞かせて、キリストと相手の方がお話しできればいいのに、と思います。クリスチャンになってよく聞いた不思議な言葉に、「通り良き管(くだ)」という言葉があります。神様の愛が自分が管になって相手に流れていくように、と言ったような場合に使われます。この「通り良き管」も知恵なのでしょう。隣人を愛することも、自分が通り良き管になって、主の愛が流れて行くなら、どんな人にも可能です。それがつい忘れてしまうのは、知恵がない証拠です。今日は、知恵を求めてみましょう。
12月21日(火)
その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
マタイ24:29~31
この預言は必ず成就します。それも、それほど遅くならずに起こるはずです。この預言は主の再臨を描いています。この人間の歴史の最後は苦難が預言されています。その後に、再臨です。それも、圧倒的な終わり方です。太陽が暗くなるなど誰も考えていません。当然、月も光らなくなります。星は空から落ちるとか、天体は揺り動かされる、というのですから、宇宙規模の大異変が起こるのです。このようなことが起これば、人間は生きた心地がしないでしょう。恐怖に恐れ慄いていると、キリストが再臨されたことが初めにわかる徴が天に現れるのです。キリストを否定し、拒否した人たち、バビロンの精神に従った民族は悲しむことでしょう。キリストが栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを人々は見ることになります。古代のイスラエルの角笛のように、大きなラッパの音が合図になっていて、天使たちが一斉に世界中のキリストに選ばれた聖徒たちを呼び集めるために出て行きます。このようにして、あなたを天使が迎えに来ます。この時が、あなたにとって勝利した瞬間です。天国へ入れるのです。東日本大震災も乗り越えたので、天変地異が起こってこの世界が滅茶苦茶になっても、きっと信仰で乗り切ることができると思えます。あなたの信仰は、最後に勝利の栄冠を与えてくれます。それまで、忍耐して主の再臨を待ちましょう。
12月22日(水)
主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ぺオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力も失せてはいなかった。
申命記34:5~7
聖書の主要登場人物の中で、一段と輝いているのはやはりモーセだろう。モーセの功績は大きい。私たちにも霊的貢献をしてくれた偉人である。さて、そのモーセがエジプトのファラオと語った時、モーセは八十歳であった。つまり、八十歳から人生最大の働きが始まったのである。それは、百二十歳まで続いたのである。これを読むと、歳をとったからもう働けないとは言えなくなる。そして、モーセの一生のように、神を信じる人たちは、生涯現役でいられるのだろう。今日、長く使っていたメガネが壊れて買い替えに眼鏡屋に行った。そこで、検眼をして調べると、数年前に買った時と視力や目の状態が変わっていないことがわかった。おお~、モーセのようだ!と内心喜んだが、モーセは死ぬまで目はかすまなかったのだから、モーセと同じだと喜ぶにはまだまだ先は長い。ところで、モーセは最後まで元気であったことがわかるが、それでもカナンに入ることを主は許さなかった。イスラエルの民が水がないと不平を言った時に、モーセは何かしら罪を犯した。それは聖書に記されていないので(民数記20:1~13、出エジプト記17:1~7参照)、詳しくはわからないが、その結果、遠くから約束の地を遠望するしか許されなかったのである。厳しい気がするが荒野の試みはモーセにも及んだということだ。私たちが伝道する時にも、決していつも良い具合に伝道がうまく行くとは限らない。強烈な拒否にあったり、がっかりすることは避けられない。そこで、腹を立ててしまうと、モーセの二の舞になりかねないから注意が必要だ。それにしても、モーセはすごい。「死ぬまで活力も失せてはなかった」と書かれた通りだったのだろう。そのように、死ぬまで元気に生きていたいものだ。
12月23日(木)
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、・・・・・
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
ルカ18:1、7、8
今日の聖句は、「やもめと裁判官」のたとえ、という箇所です。長いので譬え話の部分は省略していますから、興味のある方は聖書からお読みください。さて、私たちは祈りが大切であることは知っています。しかし、祈りの難しさも知っています。毎日の決まりきった祈りではなく、心配事や悩みを抱えたときの祈りや、自分の力では解決できない問題のための祈り、人間関係で困難を覚えた時の祈り、失望落胆するようなことがあった時の祈りなど、祈る気力すら失うようなことが起こるかもしれません。イエス様は、それでも絶えず祈らなければならいと教えます。そこで、聖句をよく読むと、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と出てきます。つまり、昼も夜も祈っているか、と問われているのです。本当に神様になんとかしてほしいと願うのなら、絶えず祈り続けるのではないかと言われているように感じるところです。そして、あなたは幸いなことに「選ばれた人」なのです。その証拠はクリスチャンになっているからです。その選ばれたあなたの祈りは、神様にきかれ、速やかに裁いてくださると約束されているのです。ですから、祈りを信頼して、神様に自分の正直な思いを伝えましょう。「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)。
12月24日(土)
口の言葉が結ぶ実によって
人は良いものに飽き足りる。
人は手の働きに応じて報いられる。
箴言12:14
これは、人は良い言葉と良い行いの両方から報いを受けるという意味の箴言です。さて、では自分の場合はどうでしょうか。そもそも「良い言葉と良い行い」を意識しているでしょうか。何にも考えずに無防備だと、ひどい言葉を平気で口にするかもしれません。感情のままに言葉を発してしまえば、後で後悔することになります。自分の振る舞いも見えないために、不注意になることがあります。残念なことに他人から自分が行っていることは丸見えなのです。そして、大切なことは、「口の言葉が結ぶ実によって人は良いものに飽き足りる」と書いてあるので、自分の言葉は実を結ぶことを覚えておくことです。良い実であれば良いもの飽き足りるのですが、それが悪い実であれば悪いものに悩まされるのです。つまり、良い生活を送りたいのなら、法則があって口で良い実を結びなさい。何も考えずに口を開いてはいけないのです。良い行いも同じ法則によって二つの報いがあります。良い行いには、良い報い。悪い行いには、悪い報いがあるのです。つまり、人生は自分が作り上げているのです。自分次第で良くも悪くもできるのです。私たちの口は神様をほめたたえるためのものですし、愛が言葉となって出てくる仕組みだったのです。私たちの手は主のための働きをするもので、愛の業を行うためのものです。ですから、主は私たちを創造する時に、良い報いを受けて生きていくように造られたのです。罪のために一旦は汚されましたが、主の救いにより清められ、今は創造されたアダムの時のように、良い言葉と良い行いの両方から報いを受けることができるようになっているのです。だから、あなたは幸福に生きることができるのです。
12月25日(日)
主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ。おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイ1:20~23
私たちは誰でも夢を見るものですが、不思議なことにヨセフの夢の中に天使が現れて重大なことを告げます。ヨセフは立場上、生まれてくる男の子の秘密を知る必要がありました。しかし、それはヨセフの理解の能力をはるかにこえた内容でした。私たちは人ごとでまるで物語を読むように興味本位に読んでいます。ヨセフにとっては、神への畏れと、マリアに起こった妊娠が聖霊によるものであると初めて知った経験でした。この物語は、クリスマスの度に聞いてきたお話しですが、何度読んでも感動します。それは、イエスはインマヌエルであり、それは「神は我々と共におられる」という意味であるからです。これは、神はあなたの味方で、どんな時にも一緒にいてくださるという保証なのです。この世界では、いつ孤立するかわからないし、孤独になってしまった人が大勢います。渋谷や新宿のような街に若者たちが集まってきますが、彼らの多くが孤独でいる場所もなくて集まってくるのです。孤独は若者だけではありません。どの世代の人たちの中にも孤独を感じている人たちはいるのです。でも、クリスチャンは知っています。神は我々と共におられる、と。そして、それは主イエス・キリストによって実現したと理解しているのです。私たちは、すぐに自分は愛されていないのではないか、自分には価値がないから、と簡単に思い込む傾向があるのです。無条件に愛された経験がないからです。ところが、主イエスは、無条件に愛したのです。あなたを!主はあなたを愛しているので、共におられるのです。誰でも、愛している人のそばにいつでもいたいですよね。だから、神様があなたを愛していることを証明するために、主イエスはあなたと共におられるのです。どうしたら、そのことが本当だとわかるのか、とあなたは聞きますか。それは、簡単です。主の名を呼んで、主が私と共にいると信じるだけです。奇跡はあなたのものです。信仰の力をよく知らない人は、信仰で喜ぶ、と言って喜んでみましょう。喜びに満たされるはずです。あなたに信仰が与えられているからです。ですから、あなたは信じて奇跡を体験できるのです。良いクリマスをお迎えください。
12月26日(日)
わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに道ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。
詩篇103:2~5
面白いことを言う人がいます。「魂は人間心理のことしか理解できません。同様に霊は霊のことのみを理解します」(H・A・マクスウェル・ホワイト)。ですから、魂が主をほめたたえことはできますし、それは自分が主に良くしていただいたことを知っているからなのです。主が自分に対して何をしてくださったか、その場で喜ぶだけではいけません。「何ひとつ忘れてはならない」とあります。罪を赦していただいたこと、病を癒していただいたこと、復活の希望を与えてくださったこと、弱い自分を慈しみと憐れみで見てくださること、この世に生きている限り良いものに満ち足らせて下さること、若さすら新たにして下さるというのです。このように良くして下さるのですから、主をほめたたえるのは当然です。さて、問題は霊の問題があります。クリスチャンなのに、悪魔の声を聞いてしまう人が出てくることです。それは、前出のホワイトによれば、「人が魂の代わりに霊を用いる秘訣を得ると、人は自分に話しかける、また自分と交わりを持つ霊の存在にドアーを開けたのです」(「悪霊に対する勝利」19頁)。キリストに救われた時に、私たちは新しい命に生きるように励まされました。それは、過去の罪人の生き方をやめて、キリストのように生きることです。もちろん、人間の力ではできないことですから、聖霊の助けによるのです。しかし、神様に対して誠実で正しくないのなら、その人の魂を獲得しようとしている堕落した天使である悪霊に、たやすく誘惑されるとホワイトは言うのです。そこで、苦い根を断ち切る必要があります。表面上はうまくやれても、敵は弱点を知っていてそこから攻めてきます。過去の辛い経験や精神的に受けたダメージ、決して赦せない出来事、こうした不幸なことをキリストに癒していただき、問題の完全な解決をしていただくことです。主はいつでも全力で助けてくださいます。そのために信仰を持ったのです。もう苦しむ必要はありません。実は、すでに完全な癒しを受けているからです。そのために主は尊い血を流しました。キリストの血潮が傷を癒やし、清めるのです。悪魔は嘘をついて、何度も同じことで苦しめようとするでしょうが、悪魔の声を信じるのではなく、イエス・キリストの御声を信じるのです。キリストの血潮を頼ることです。キリストは悪魔に勝利されたのです。そして、キリストはわたしたちをご自分のものとしてくださったのです。そして、この地上でもわたしたちを幸福に暮らせるようにと働いてくださっているのです。
12月27日(月)
サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。
サムエル上18:28、29
ダビデは、サウル王に心から忠誠を尽くしていました。それでも、サウル王はダビデを恐れ、敵意を抱き続けたのです。人の心の不思議を聖書は淡々と語ります。人間にとっての最も注意するべきことは、「恐れること」です。キリストは、「人々を恐れてはならない」(マタイ10:26)と戒めています。ところが、人間はたびたび人を恐れるのです。恐れるとろくなことがありません。まず、正常な考えができなくなります。心の考えることがことごとくネガティブ思考になり、悪ことばかり考えてしまうのです。そして、食欲もなくなり、体調まで崩します。そうなると、過去の嫌な記憶まで思い出してきます。また、人の善意が信じられなくなります。サウルの最悪なことは、主がダビデと共におられることを知って、いっそう恐れたことです。それは、自分に負い目があったからです。恐れの発端は、いつでも自分の罪にあります。それだから、悪魔はそこに漬け込んで責めてくるのです。サウルは、主に服従することをしないで、自分勝手に神様を利用しようとしました。再度、主にチャンスを与えられても、結果は同じでした。本人の言い分はあったと思いますが、信仰ではなく自分の考えに従ったことが最悪の結果を招いたのです。こうした、教訓が書かれているのは、人間なら誰しも陥る危険だからです。神様に忠実であれば、恐れることはありません。たとえ、過去に過ちがあっても、悔い改めて主イエス・キリストの罪の赦しを受けることができます。サウルにとって誤算は、娘ミカルでした。ミカルは父よりもダビデを愛したのです。それは、サウルにとって、家族すらダビデの味方なのだと恐ろしくなったのです。サムエル記を読むと、サウルが頑なにダビデを憎み、殺そうとすることが不思議に思えるのですが、すべてはダビデに対する恐れが原因でした。私たちは、キリストを信じて救われましたから、恐れは無いはずです。それなのに、クリスチャンも恐れを抱くことがあるのです。そして、それは、不信仰につながる危険があるのです。恐れの原因は、キリストによって解決すべきです。キリストの十字架で流された血は、すべてを清めることができる神の力です。ですから、キリストの血を仰ぎ、キリストの血で心を苦しめる原因を取り除いていただき、清めていただくことが大切です。単純に祈り求めればいいので、難しくありません。キリストは、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10:28)と言っています。だから、殺されて死ぬことを恐れるなということなので、これ以上にひどいことはできないので、信仰で覚悟してしまえば、何にも恐ろしくありません。死んでも復活できますし、この世は一時です。でも、私たちの国籍は天にあり、永遠なのです。勇気を出しなさい。つまらないことでくよくよしてはいけません。神様の祝福を信じて、主の導きに任せることです。赦すことで、忘れることができます。明日の希望を見る者になりましょう。
12月29日(水)
憎しみはいさかいを引き起こす。
愛はすべての罪を覆う。
箴言10:12
人間は感情の動物だと言う人がいます。その説によれば、いさかいは避けることができなくなります。憎しみは、理由があってのことです。理由があるだけに簡単に忘れるわけにはいかないのです。でも、憎しみは自分のためになりません。憎しみを放っておけば、自分の心に罪が生じます。ですから、憎んだ相手を赦して罪を犯さないようにしなければなりません。でも、憎んでいるのですから簡単ではありません。しかし、信仰を与えられているので赦すことも、キリストから来ます。聖霊も赦すために助けてくださいます。さらに天の父は励ますために愛してくださいます。愛されると私たちは自分の最も良い面が現れてきます。寛容な心です。そもそも、人の犯した罪をキリストは赦そうとされました。罪を赦すためには、十字架でイエス様が死ぬ事が必要でした。善行のために死ぬのではなく、罪を犯した人のために主は十字架で死なれました。それ以外に罪を許す方法がなかったからです。そのキリストが私たちに働いているのですから、赦すこともできるわけです。ですから、私たちは「愛はすべての罪を覆う」という御言葉を心に記憶しているのです。
12月30日(木)
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
詩篇103:11
まだワープロなどない時代に、いつかは達筆になって綺麗な字で年賀状を書こうと思っていました。ところが、今では簡単にワープロ文字が印刷できる時代になって、年賀状もスマホで済ませるような時代になってきましたから、ますます達筆が必要なくなってきました。世の中がどんどん進歩していくのは怖いほどです。それほど便利な時代になっても、人間の心はそれについていっているかどうかわかりません。現に、信仰者ですら、主の御恵みを過小評価しているように思います。聖書には、今日の聖句のようにはっきり書いてありますが、どれぐらい大きいかと言えば、天と地ほどの圧倒的な大きさだと言うのです。よく子供が両腕をいっぱいに広げてこれぐらい大きい、と言うことがありますが、大人も同じぐらいにしか主の御恵みの大きさを考えていないのかもしれません。でも、クリスチャンの中には、今日の聖句のように無限大の御恵みと信じている人もいるのです。当然、その人は想像を遥かに超えた御恵みを享受しているのです。よく、自分の信仰は小さいと言う人がいますが、確かに、私たちは主の御恵みを過小評価しているのだと思います。ただ、現状を感謝しているのなら、それも立派な信仰告白になっていると思います。いずれにしろ、暗い顔をしていてはいけません。文句を言うのも損です。なぜなら、地上に立って、天を見上げれば遥かに高く空が広がっています。これほどの御恵みをいただいていることを信じた方がいいに決まっているからです。今日の聖句で見逃せないのが、「主を恐れる者」です。これは、皆さんのことです。普通に主を信じていれば大丈夫です。ですから、ぜひ主の御恵みを豊かに受けて、日々感謝を献げて喜んでいたいですね。
12月31日(金)
イスラエルの王である主
イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。
わたしは初めであり、終わりである。
わたしを置いて神はない。
恐れるな、おびえるな。
すでにわたしはあなたに聞かせ
告げてきたではないか。
あなたたちはわたしの証人ではないか。
わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。
わたしはそれを知らない。
イザヤ44:6、8
一年が早くも過ぎて行こうとしています。私たちはここに書かれた神様を主を崇め、信じています。神様はこの世界を支配しています。ですから、「初めであり、終わりである」と語られると、この世界も終わりがあると知るのです。昨今の世界はコロナ禍ですっかり様子が変わり、社会も会社も学校も何もかもが大きく変わろうとしているように見えます。世界中に不安が満ちていますが、主は「恐れるな、おびえるな」と告げます。そこで、私たちは落ち着きを取り戻し、自分が何者であるか気が付きます。私たちは主の証人なのです。この世の人々は、真の神様を知らない人だらけです。ですから、主の証人の役割は大きいのです。それはまず、神様が自分にとってどういうお方であるかを知ることです。自分に主がどれほど恵み豊かであるか、どれほどの恩寵を受けているか、そして、主の慰めと励ましが自分の人生を支えてきたことに気がつけるかが肝心です。主の祈りに応えるかのように神様は私たちに良くしてくださるのです。朝目覚めた時に、まだ生きているという感謝があるだろうか。何が起こっても、耐えられないようなことはなかったし、主の助けがいつでもあったこと、主へ思いを向けると、ちゃんと愛の応答があること、それこそ書ききれないほどの恵みを受けているし、主が生きて働いておられることなど、自然に証人となっているのです。「恐れるな、おびえるな」とあるのは、悪魔の攻撃を受けないためです。恐れもおびえも不信仰に繋がるので、避けなければなりません。それでも、不安の霊、恐れの霊、おびえの霊、と悪霊たちは情け容赦なく攻撃を仕掛けてくるかもしれません。その時は、信仰で戦うべきです。主は、援軍を与えてくださるので、忍耐強く祈って必ず勝利することです。今年一年の締めくくりに、一年の感謝を主に献げましょう。そして、自分が主を知っていること、信じていること、仕えていることを喜びましょう。一年また、主に助けられ無事に過ごせました。主に栄光がありますように。