2月1日(月)
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土のみのりを主のもとに献げ物として持ってきた。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。
創世記4:2~5
これはアベルとカインの物語である。色々な解釈があるだろうが一つの解釈を考えてみよう。それは、創世記3章で人間が罪を犯す物語が語られたことから、その罪を犯した人間を神様はどうしようとされるのか気になる。罪からの救済はあるのだろうか。そして4章となる。キリスト教との私たちは、罪人の救いは、イエス・キリストの十字架による贖いによると信じている。そうであれば、エデンの園から追放された人間の物語に救済の予型が何かしら示されるのではないだろうか。そこで、カインは自力で罪を克服し義となる人のモデルとし、アベルをキリストの十字架の贖いによって義となる人のモデルとして考えてみよう。カインは農夫であったので、自分で作った農作物を献げ物とした。アベルは羊飼いなので、その群れの肥えた初子を献げ物にした。羊はキリストの象徴であるのでわかりやすい。その羊が血を流して犠牲となり献げ物となる。明らかに十字架で血を流したキリストをイメージしやすい。そこで、農産物を作った方は、行いによる義を意味していて、羊の初子を犠牲にした献げ物は、自分の功績ではなくキリストの十字架の贖いを信じた、信仰による義を意味していると理解しやすい。つまり、人間は、二通りの選択肢があって、自己中心になってあくまでも行いによる義に固執する者と、他にキリストの十字架の贖いによって罪の解決をはかる信仰による義を選ぶ者とに別れるという暗示だと言える。もちろん、正しい選択は「信仰による義」の方だ。創世記の9章5節には「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。・・・人間の命を賠償として要求する」とある。キリストは、人間となって十字架で命の賠償を支払ってくださった。ただし、ご自分のためではなく私たちの罪の賠償としてだ。だから、イエスを信じた人は、既に命の賠償を支払い済みになっている。さて、カインは殺されなかったが、荒野をさすらう者とされた。これは、罪人の生きる有様そのものに思える。私たちに希望があるのは、アベルを通して正しい献げ物が示され、それがキリストであると信じることができたことだ。しかし、行いによる義を主張する者には信仰による義を実践する者は殺したくなる者となるようだ。決して相容れない関係なのだ。
2月2日(火)
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
Ⅰヨハネ4:7
クリスチャンは愛について考える人たちです。愛することが大切であると知っています。しかし、人間の悲しさで愛することができないで悲しい思いをすることもしばしばなのです。ちょっとしたことで腹をたて、怒りを爆発させれば、後で自己嫌悪に陥ることになります。だから、とても大変です。しかし、聖書には今日の御言葉のように書いてあるのです。ですから、愛さなければと思うのですが、愛せないことが起こるので困ってしまうわけです。そこで、聖書をよく読んでみると、「愛は神から出るもの」と書いてあります。人間から出るものではないのですね。人間から出る愛は、ヒューマニズムの愛で自己中心的な利己的なものです。だから、いつでも、誰でも愛するなどできません。ですから、イエスは「敵を愛」せと命じ、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」と言っています(マタイ6:44、46)。聖書の語る愛は、「神から生まれ、神を知っている」人の経験するものなのです。それは、まずキリストを抜きにしては語れません。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」(Ⅰヨハネ4:9)とあるので、十字架で罪を贖ってくださったイエス・キリストを信じて救われることを意味しているのです。このキリストの救いに神の愛が示されているのです。ですから、クリスチャンは神の愛を知った人たちのことなのです。そのことで、人生が変わったのです。心も回心しました。聖霊が新しく吹き込まれて生きるようになりました。だから、愛が流れ出すはずです。もし、まだよくわからないと思っている人は、内住の聖霊と互いに愛し合うことを試みてみたらどうでしょうか。霊的に覚醒が与えられて、神の愛が流れ出す器になれるといいですね。
2月3日(水)
主はカインに言われた。
「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
創世記4:9
隣人愛はキリスト教の特徴の一つですが、ここでは隣人への無関心が問題となります。人を思いやることは美しいことです。それは甘やかしではなく愛の現れです。ですから、いつでも心にかけ、気遣いを怠りません。過干渉になることは良いことではありませんから、相手を最大に尊重しています。それだけに、思いやりのある言葉が出てきます。道を一緒にけば、自分を盾にして全ての災いから守ろうとするでしょう。たとえ、行き違いがあってひどい言葉を浴びせられても、赦す気持ちの方が勝るので耐えることができるでしょう。ただ、そばにいるだけで幸せに思い、笑顔を向けるのです。しかし、今日のカインはどうでしょうか。「知りません」「わたしは弟の番人でしょうか」とたてつづけに関係が切れてしまったと思わせる言葉を発します。もし、あなたが愛する人から「知りません」と言われたらどうでしょう。悲しいですよね。そして、「番人でしょうか」という言葉は、愛の関係が既に破綻しています。ですから、絶った位に使ってはならない言葉なのです。愛は、相手を拘束しません。信頼しているので自由を保障します。自分の思い通りにならないことなどいくらでもあるでしょうが、そのことで嫌いにはなりません。相手を束縛しないことが重要なのです。しかも、愛は相手が褒められたり、自分以上に成績がよかったりしても、喜べるのです。自分が惨めだと嫉妬する必要がありません。神様は、そのようなことで優劣をつけたり、愛の量を変えたりしません。世界でたった一人のあなたを想像もできないほど深く愛しておられるのです。その愛を味わえばいいのです。神様に愛されていることを味わい知ることが人間に必要なことです。カインは、弟を愛することなく、嫉妬して殺してしまいました。彼にとって弟は愛する存在ではなかったのです。私たちは、今ではキリストにならって隣人愛を実現できる者とされていることを覚えましょう。
2月4日(木)
モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。
出エジプト17:11~13
これはアマレクとの戦いを記録したものです。このアマレクについては、申命記に「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。・・・・忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない」(25:17~19)とあります。これほどの敵は他にありません。そこで、アマレクはサタンの象徴として描かれていると言われることがあります。ですから、今日の箇所は、そのように読むと、モーセは牧師や指導者を表していて、アロンとフルは霊的戦いをサポートする執り成し手として描かれているのです。つまり、悪魔と神の軍勢の戦いにおいて、モーセが手を挙げていると優勢になるのは、祈っている時です。ただ、霊的戦いでは疲れてくるのです。それで、アロンとフルの役をする祈り手が必要になります。指導者を祈りで支える係です。そうすれば、疲れて手を下ろすことで敵が優勢になることを防ぐことができ、最後には霊的勝利をあげることができるのです。このようなことに気がついている教会は、教勢が伸びて、霊的な勝利を実感できるのです。目に見えない世界は、実に不思議です。誰かのために祈ることの尊さを聖書は教えています。このようにして、霊的に戦う方法が聖書に記録されていることを覚えておきましょう。
2月5日(金)
不法を行う者をうらやむな、その道を選ぶな。主は曲がった者をいとい、まっすぐな人と交わってくださる。
箴言3:31、32
この世の中にいると、世俗の人たちが賢く見えてくるかもしれません。何かうまいことをして儲けたとか聞くと、自分が損をしているように感じるかもしれません。テレビにセレブのことが報じられると、羨ましいと思ってしまう人がいます。そして、お金儲けをするにはきっと悪いこともしているのだろうと想像します。一旦、お金にみいられると蛇に睨まれたカエルのようになって、身動きができなくなるのです。つまり、金持ちが悪いことをして間違っていても見なくなるのです。いや、自分に都合の悪いことは考えないようにしているのです。それ以上に富に目がくらむからです。クリスチャンが覚えていなければいけないのは、お金は主のもので、管理しているだけだということです。恐ろしいことに、自分の能力を越えると途端に管理ができなくなります。そしてある日、天の主人は精算を求めるのです。だから、お金に執着すると危険なのです。ところが、この世には神様を畏れない人たちがいますから、曲がったことをします。それが意味することは恐ろしいことで、私たちが決して近づいてはいけないことです。私たちがまっすぐ勤勉に生きるのは、神様に近くいられるからです。聖書にも「まっすぐな人と交わってくださる」と書いてある通りです。ですから、主の良き管理者となるために、自分にちょうどよく天の富を与えていただくことです。「不法を行う者」は悪魔の奴隷です。それなのに、なぜうらやむのでしょう。この世界では大勢の貧しい人たちが叫んでいます。一握りの富める者の責任はいかばかりでしょう。富には、能力や才能に賜物もありますし、健康も富に入ります。天の知恵をいただき、自分の与えられた富を上手に管理したいですね。
2月6日(土)
高い天には
わたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友
神を仰いでわたしの目は涙を流す。
ヨブ16:19、20
この地上では、実にいろいろなことが起こります。いつも正しいことが起こるとは限りません。理不尽なことも起こるし、ひどい目に遭うこともあります。神様を信じているのですから、いつでも順風満帆といけばいいのですが、時には嵐の海に飲み込まれそうになる小舟のように、ピンチに陥る日もあるのです。噂好きの人間は、悪い噂ほど好きで真実などどうでもよく、無責任に人の噂を言いふらします。そのように足元を救われるようなことだって起こるものです。でも、私たちにはイエス様がいます。皆から悪く言われても、天で見ておられるイエス様があなたの弁護士です。そして、あなたが失敗して罪を犯したとしても、まだ執り成してくださるイエス様がいるのです。あなたを信じていてくださる友です。ですから、あなたに辛い日々が巡ってきたとしても、元気を出してください。あなたには心強い味方であるイエス様がいてくださいます。誰からも理解されなくても、イエス様がわかっていてくださるのなら大丈夫です。最後にはイエス様が良くしてくださるので平安が待っています。
2月7日(日)
イスラエルの聖なる神
あなたを贖う主はこう言われる。
わたしは主、あなたの神
わたしはあなたを教えて力をもたせ
あなたを導いて道を行かせる。
イザヤ48:17
クリスチャンのあなたは主に贖われたと言います。その自覚が重要です。あなたの主は、イスラエルの聖なる神です。あなたは聖書を開き、この神を知ることが許されています。難しいと思うなら、祈れば良いのです。聖霊はあなたへ解き明かしを教えるでしょう。この神が聖書を与えているということは、あなたに語る神であるということです。特に主があなたに知って欲しいことは、あなたの信じている主こそがあなたの神であるということです。あなたは、ただイエス・キリストを信じて救われました。あなたには何の功績もありません。ですから、恵みで救われたのです。神は決してバプテスマで救いを終わらせていません。あなたが実際に天国に入って救いは完了です。だから、まだ途中なのです。そこで、主はあなたを教えて力をもたせます。力がないと、すぐに不信仰にはしり、道をそれてしまう可能性があるからです。そして、人間は急には成長しないことをご存知なので、忍耐強く時間をかけて教育します。時には鍛錬を受けることもあります。私たちは、試練と呼んでいますが、弱すぎるので良い面を全く見ていないのです。だから、知識を与えます。聖書から多く与えられるでしょう。神様はあなたを確実に導きたいと願われます。ただ、あなたに力がないと耐えられないので、力をもたせることを優先します。そして、準備が整えば、あなたを導いて道を行かせるのです。もちろん、キリストが私は道であるとおっしゃっているので、キリストの内に歩むことになります。ですから、いい加減な気持ちでクリスチャンとして生きることはできないのです。キリストを第一にして生きるということは、真実なことなのです。この素晴らしい救いの道は、恵みから恵みへと続く愛の道であることも真実です。
2月8日(月)
そのとき、主はわたしに言われた。「あなたは、前と同じように、石を切って板を二枚造り、山に登ってわたしのもとに来なさい。また木の箱を作りなさい。わたしは、あなたが前に砕いた板に書かれていた言葉をその板に書き記す。あなたはそれを箱に納めるがよい。」
申命記10:1、2
モーセはアカシヤの木で箱を作った。アカシヤの木は人性を表す。つまり、主が律法を一回目に与えた時には、彼らは罪を犯したためにモーセによって砕かれてしまった。二回目には、前と違って箱に律法の書かれた石の板を納めるようにと主は命じた。これは、二回目には人間の中に律法を授けることがあらかじめ決まっていたように見える。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(エレミヤ書31:33)。つまり、ユダヤ人は律法を遵守していると言っていたが、そこに愛がないように見えた。愛のない律法の行いは、罪になってしまうことを理解していたなかったのだ。このことは、イエス・キリストが現れたことで明白となった。そして、ペンテコステの出来事がおこり、聖霊のバプテスマがキリスト教のしるしとなった。これは、モーセの二回目の石の板を箱(人間)の中に入れたことと符合する。このようにクリスチャンは、心に律法が記されるのだ。それは、パウロによると、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」となる。つまり、日本人であっても聖霊に内面を変えられて霊的ユダヤ人とみなされるというわけだ。自分のうちに聖霊が生きて働かれていることを信じよう。それは、自分を裁くことではなく、恵みであり、内面からの喜びになる。
2月9日(火)
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
Ⅰコリント15:45
創世記を読んで、アダムが造られたことを読んで知りました。アダムは人間という意味です。そのアダムがエデンの園で罪を犯したために、追放となり、罪の影響とその呪いの下に人間は生きてきました。神様は人間を憐れみ、救済計画を立ててくださいました。そして、最大の救いの業である主イエス・キリストをメシアとしてこの地上にお遣わしになりました。最初のアダムは命ある生き物となりましたが、罪のために死ぬ者となってしまったのです。神様の救済計画は完全でした。ですから、私たちの罪の贖いとなって十字架につかれただけでなく、死を打ち破り、復活されたのです。それは、キリストが最後のアダムとなってキリストを信じる者は全て新しい命に生きることを可能とされたのです。実際、クリスチャンになった方には命を与える霊となって新しい命に生まれさせてくださったのです。この神秘が真実であることは、この世の最後の裁きがなされる再臨の日に明確になります。空中におられる主イエス・キリストに向かって地上から挙げられる時、新しい命に生きていることが明らかになるのです。この信仰に堅く立って、与えられた時間を雄々しく生きたいですね。
2月10日(水)
さて、子らよ、わたしに聞き従え。
わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。
諭しに聞き従って知恵を得よ。
なおざりにしてはならない。
わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい
戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。
わたしを見いだす者は、命を見いだし
主に喜び迎えていただくことができる。
わたしを見失う者は魂をそこなう。
わたしを憎む者は死を愛する者。
箴言8:32~36
箴言は知恵の書ですから、知恵を得るために知るべき本です。知恵という言葉は普通に使うので、誰でも知っています。そして、知恵がある方が良いことも知っています。しかし、知恵を得ようとする人は少ないのです。聖書は、知恵を求めて得るようにと諭しています。聖書を読むことのできる人は、そのことも読んで知っているはずなのに、知恵を求めずに、この世のものをあれこれと求めて苦労しています。実は、知恵があれば、それ以上の良いものを得ることができるのですが、知恵はそれほど大切にされていないのです。後世に名を残すほどの偉人たちは皆知恵がありました。知恵の価値を知っている人は、知恵を大事にして決しておろそかにはしませんでした。はたして、箴言を読んだ何人が真剣に知恵を考え、探求し、求めたでしょうか。経済的に成功したい、富を得たい、名誉を得たいと思うなら、知恵を求めれば得られるのです。慈善も知恵のもとにあります。知恵は純金に勝ります。正義も知恵によって得られます。知恵こそ、あなたの倉を満たすのです。そして、命すら知恵によるのであると覚えておくべきです。なぜ、知恵がかくも優れているかといえば、この世界が創造される前から存在していたからです。天地万物の創造にすら関わっているのです。ソロモン王が知恵を神様に求めたことが聖書に記録されています。それがいかにソロモン王に祝福をもたらしたか、そして皆もソロモン王にならうように勧められているのです。賢いみなさんは、知恵が自分にとってどんなに大切で必要なものか理解されたと思います。これから長い探求の時が待っています。今すでに、困っている人や悩みを抱えている人も知恵を必要としています。そこに、見事な解決があります。ですから、知恵を求め、聖書から学び、知恵を実際に使いましょう。あなたの想像を超えた大きな恵みを知ることになるでしょう。
2月11日(木)
床に就くときもに御名を唱え
あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。
あなたは必ずわたしを助けてくださいます。
あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。
わたしの魂はあなたに付き従い
あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。
詩篇63:7、8、9
平安な日々は恵みです。私たちは神にかたどって造られた者ですから、使命は愛に生き、奉仕することです。もちろん、人それぞれに個別の使命があります。それを果たすことができれば、最上の幸せを得るでしょう。しかし、罪の世界では、必ずしも自分が生まれてきた使命を知ることができないことが多いのです。幸いにもイエス様を信じて救われた人たちは、聖霊が外側だけでなく内側からも働きかけることができるので、罪で損なった神のかたちを回復し、使命を達成できるように導かれるはずです。ただ、悪魔も黙って見ているだけということはないので、妨害があるでしょう。ですから、人生の障害に当たると誰でも不安になり混乱するのです。信仰で解決しようとするのは正しいことです。しかし、古い人を十字架につけていない人は、古い人が間違ったことを考え、実行します。当然、良い結果にはなりません。苦しみを長引かせてしまうのです。人間の力では解決しないので、いずれはあきらめてイエス様に全面降伏し、聖霊によって体の働きを殺していただくので解放が起こります。すると、神様の救いがいかに完全で信頼に足るか知ることになります。自分自身にたとえ欠けがあってもいいのです。性格も体格も生まれ育ちも、この世のあらゆることが、自分の優劣にはならず、劣等感の原因すら益に変わるのです。このように、ありのままの自分を受け入れて愛してくださる神様がいることを理解できると、明るく生きていけるのです。主はあなたを必ず助けてくださいます。主が歩み寄り、手を伸ばして救ってくださいますように。
2月12日(金)
みことばを心に留める者は幸いを見つける。
主に拠り頼む者は幸いである。
箴言16:20
私たちは結局、幸いを見つけ、幸いを享受することを実践しているわけです。誰かが親切に教えてくれるわけではないので、自分で探求しなければなりません。しかし、不思議なことに、いつでも道は二つ用意されているのです。肝心な時にはいつでも岐路に立たされています。善を求めて正しい道を選ぶこともできるし、物質的享楽や権力に腐心する事になる道を選ぶこともできる。自分自身は、自然に振る舞えば、良い人にも悪い人にもなれる。周りの人々を見てどう生きるか決めることもできるし、他人には影響されずに強い意志で生きることができる人もいる。キリストが来られた時に、互いに愛し合いなさいと教えたのは、道徳的・倫理的に素晴らしい教えというよりも、神様が人間を創造した時に、神に象って造られたから、本来全ての人間は隣人を自分のように愛するために造られているはずです。それが罪で歪んでいるだけです。だから、罪の呪いの力からキリストによって解放され、主の血潮で洗い清め、神の息を新しく吹き入れられた者として幸いの道を迷いなく行けるはずです。その秘訣も聖書に隠されていて、探すのは決して難しくありません。例えば、今日の御言葉もその一つです。御言葉に心を留めることと、主により頼むことです。その結果はすぐに現れます。つまり、幸になっている自分を知るのです。みなさんには信仰が与えられているので、これらは難しくはありません。むしろ簡単なのです。今まで、悩んで行きたきた人も、あなたは幸いである、と主に言われるようになります。主に期待して楽しみにしていればいいのです。主の御心が成りますように。
2月13日(土)
神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子の御支配の中に移してくださいました。その御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
コロサイ1:13、14
エデンの園の話が聖書の初めに書かれているので、もともと人間は幸福にパラダイスのような環境で生きるようになっていたのです。それが、罪が入ってきたために、現代の私たちも暗闇の圧制に苦しめられていたのです。しかし、神の救済は主イエス・キリストを通して既に実現しました。罪人も聖霊の働きで悔い改めに導かれ、主イエス・キリストを信じるだけで救われるのです。それは、現在も続く悪魔の支配から、御子イエスの御支配の中に移してくださるという驚くべき救いです。そこで、クリスチャンになった方々は、今日の聖句をよく読んで気がつくことがあるはずです。クリスチャンになっても、さまざまな苦しみの中にまだあって、困っている人がいるということです。その中には、悪霊の攻撃に困惑している人もいるでしょう。では、どうなっているのでしょう。実は、御言葉は真理なので、変わることはありません。そこで、信じて欲しいほのは、御子イエスの御支配の中に移されたことです。そのことを信じて告白してください。「暗闇の圧制から救い出し、愛する御子の御支配の中に移してくださいました」というのは、ホームレスだった人が、いきなり立派な家に住まわせていただくようなことです。そのことに気がつくことが「救われた」ということです。罪責感で責められてきた人は、キリストの贖い、すなわち罪の赦しを得ています。ですから、赦されている事を信じてください。あなたは何もしていないので、悪魔が嘘をついて囁かれると、過去の嫌な思い出に罪を思い出して赦されているのに苦しむという事をしてしまうことがあるのです。このように、悪魔の嘘を受け入れると何度でも同じ事をして不安を煽り支配してしまうのです。ですから、今日の聖句を覚えて、悪魔の攻撃が始まれば、すぐにこの聖句を暗唱して、御子の御支配の中にあること、罪の赦しを得たことを宣言します。効果が無いと分かるまで、攻撃されても、根気よく戦って、完全勝利を果たしましょう。それにしても、驚く恵みです。主に感謝します。
2月14日(日)
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
ヨハネ15:9
情緒的な人は、初めからイエスの愛に涙を流して反応します。しかし、その反対に何も感じない人もいます。何も感じないからといって、主に愛されていないということではありません。それどころか、どんな人にも主の愛は惜しみなく注がれています。私たちは罪人だったので、愛されることに慣れていません。それで、愛の意味がぼんやりとしか理解していないものです。クリスチャンになって、キリストの十字架は愛を表していると教えられ、そういうものなのかと思っても、よくわからないのです。しかし、自分の罪が分かって、キリストの十字架の前に出ると、どんなに鈍感な人でも主の愛に圧倒されます。罪の赦しはいつでも主に愛されていることを実感する時です。こんな自分を愛してくださるイエス様が十字架の上に居られる。そうしなければ、私を救うことができないから。十字架に主が架かられたからこそ、罪は赦され、病も癒やされるのです。だから、主が初めにあなたを愛したのです。そして、その主の愛の中にとどまりなさい、と今も語られているのです。あなたは、主の愛の中から出てはいけないのです。ただ、感謝して主の愛の中にとどまっていましょう。
2月15日(月)
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
マタイ6:6
祈る時に、あなたはどこへ向かって注意を向けているでしょう?「天の神様」と祈り始めれば、どうしても上に向かって意識を向けているのではないでしょうか。もちろん、意識をどこへ向けるかなど何も考えずに漠然と祈ることもあるでしょう。しかし、イエス様は、面白いことを教えられました。「自分の奥まった部屋」とはどんな意味でしょう。ワンルームに暮らす人はどうすればいいでしょう。これは、物質的な目に見える部屋という意味よりも、心の部屋のことをいっているのではないでしょうか。イエス様は次のように言いました、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)。つまり、クリスチャンの内に父なる神様もイエス様と一緒に住んでいるのです。そのおられるところが、「奥まった部屋」なのです。不思議なことに、神様に直接祈ることが可能なのです。これらは、もっぱら霊的な意味の話しです。しかし、難しく考える必要はありません。神様はあなたのうちに隠れているのです。ですから、外ではなく、内に向かって意識を集中するのです。まるで、内側の部屋を探して、奥まった部屋に入り、戸を閉めて祈るのです。食前の祈りとはちょっと違いますね。深い祈りが期待できます。
2月16日(火)
それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
エペソ2:17
平和は尊いと皆が言いますが、では、平和とは何でしょう。戦争がない状態でしょうか。確かに争いは平和ではありません。しかし、イエス様が平和を宣べられとなれば、それはどのような意味でしょうか。私たちに関係があります。マルコ1章にはイエス様が公生涯に入られる時に、神の国は近づいた、と宣言され、悔い改めて福音を信ぜよ、と福音を語り始めたのです。ですから、聖書で出てきたイエス様が宣べる平和とは、悔い改めて福音を信じることだったのです。なぜならば、罪こそが平和を壊すものだからです。罪がなければ平和となります。罪の特徴は、自己絶対化、自己義人です。このことがあるので、私たちは人を裁き、赦さないのです。だから、公然と批判し、謝りません。この状態を平和とは言わないのです。ですから、キリストが始めた働きが平和を宣べ伝えることであれば、罪の悔い改めが不可欠になるわけです。これは、どこにいようと全ての人にとって必要なことです。幸福な生活は平和の中にあるからです。イエス様を信じている私たちがいつも平和でありますように。
2月17日(水)
「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。ふたりは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。
使徒16:30、31
私たちは、救われるためには、何をしなければならないか、と考えます。ところが聖書には人間の業では救われないと教えているのです。つまり、私たちが救われるためにどんなに頑張ってみたところでとても足りないということです。そうなると、自力で救われないことになります。その事を理解した上で、今日の箇所のやりとりを読むと、「主イエスを信じなさい」という言葉がどんな意味であるかが問題になります。つまり、主イエスを信じるという自分の業によって救われると勘違いしてしまう可能性があります。これでは、自力で救われることになります。そうなら、キリストの十字架はいりません。ですから、信じることを自分の業と理解してしまう人は、「自分の信仰が足りないから」とか「自分の信仰がだめだから」といった言い方をするのです。そこが勘違いです。誰一人、キリストの十字架の贖いによらなければ救われません。それなら、「主イエスを信じなさい」という言葉にはどんな意味があるのでしょう。これは、クリスチャンは本当は知っているはずなのですが、主イエス・キリストを信じた自分の経験を思い出して欲しいのです。うん、うん、うなって努力して信じたのではなかったはずです。突然、見ていないのに、信じられたのです。理屈ではなく、ただ信じられたのです。これは聖霊の働きにあなたが応えたことなのです。だから、自力で救われた気がしないのです。まるで、ポン!と信じられたのです。理屈で説明できなくても、全く確かなのです。神の支配する世界に入れてくださったのです。そのように、主イエスを信じることができるようになる世界に入れてくださった聖霊が「信じなさい」と招くのです。だから、自分の力で信じるのではないのです。まるで、信じる人間を聖霊が創造しているのです。
2月18日(木)
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
マルコ10:43、44
私たち人間の自然に考えることは、人より偉くなりたいとか、人の先に立ちたいといった他者より優位に立ちたいというものです。しかし、キリストは正反対に聞こえることを教えました。そこで、クリスチャンになると「仕える」という言葉を頻繁に耳にするようになります。実際、「仕える」者になろうとして頑張っている人もいるでしょう。そうやって、仕えていると自己満足を得ても、それがキリストの意図することであるとは言えないのです。なぜなら、この世には弱い人がたくさんいます。体の弱い人も、老齢になって動けない人も、生活に追われて仕える余裕がないと思っている人も、さらには人に介護してもらわなければならない人はどうすればいいのでしょう。これらの人たちをキリストが無視ししていたとは思えませんから、「仕える」にはもっと深い意味があります。そもそも、自分が「仕えている」「仕えてやった」という言葉の中に、見えてくるのは優越感であったり、良いことをやったという自己満足です。この業を誇っているのです。それらは、罪に直結しているので危険ですらあります。偉くなりたいと思った人が主に言われて仕える者になろうとすれば、その事を主に評価していただいて弟子たちの中で偉くなる、という思いがやはり残ってしまうのです。実は、そうした自分という価値が罪を生み出してしまうのなら、その自分という価値からの解放が必要なのです。そうであれば、たとえ何もできない無力になっても、執り成して祈ることはできるし、神様にも隣人にも心から感謝することができます。それが「仕える」ことなのです。
2月19日(金)
わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。
ヘブル13:5
順境の日には、読み飛ばしてしまうかもしれません。しかし、逆境の日にあなたが目にしたこの御言葉は、不思議なことに自分の中から「主よ、信じます」と大胆な言葉となって
出てくるのです。自分が誇れるような時であれば、主が自分を捨てないということは受け入れやすいものです。しかし、失敗して惨めな時、人生が挫折していて心が折れている時、誘惑に負けて罪を犯して自責の念にかられている時には、信じられるでしょうか。聖書に親しんでいるなら、イエス様がどのようなお方か知っています。罪人の友となられたお方です。どんなにみじめでも蔑むことなく、優しく接してくださるのがイエス様です。だから、イエス様のことを知っている者は、主が自分のことを受けれてくださり、憐んでくださると信じることができるはずです。自分はダメだとか、不安に負けていたとしても、主はあなたを見捨てていないと思い出してください。死にたいと言うことは簡単ですが、主はわたしを捨てないと言うべきです。主が見捨てないのなら、人生は大丈夫です。きっとうまくいきます。主は決してあなたを離れないのです。あなたが孤独だと思う時だって、主はあなたを離れず、あなたを捨てないのです。だから、自分で主を遠ざける事をしないで、大胆に今日の御言葉を信じるのです。この時の信仰こそが、聖書に書かれた信仰なのです。
2月20日(土)
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐とを軽んじているのですか。
ローマ2:4
もう何十年も、繰り返し、同じことを質問してくる人がいます。その人の悲しみや辛さがわかるので、今に至りました。それでも、いい加減に自分では助けられないとあきらめそうになるのですが、イエス様のことを考えるとハッとさせられるのです。もちろん、自分の力では誰一人救うことも助けることもできません。自分のことすらイエス様に全面的に助けていただかなければ無理なのです。そのイエス様は、この歳になるまで、わたしのためにその豊かな慈愛と忍耐であきらめることなく、愛し続けてこられたのです。いつも変わらずに慈愛で接してきてくださったから、心が溶けて素直に悔い改めに導かれたのです。イエス様が見えない人には、見える誰かが必要なのです。その誰かを通してイエス様はいつまでも慈愛と忍耐をもって接しておられるのです。だから、あなたの周りには家族や隣人がいるのです。自分の力で善いことをしようなどと思っていると、がっかりすることになって、イエス様が自分を通して働いていることを忘れていたことを悲しく思うのです。
2021年2月21日(日)
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ピリピ4:7
信仰がどんなにか人を助け、力があるかクリスチャンでも正しく理解していない人がいます。人間の悲しさで、自分の言動で良いと思っていたことが他人の目から見ると愚かに見えたり、悪いものに映っている事があるのです。それは信仰のない人にはよく見受けられることなのですが、信仰者にだって残念なことですがあるのです。ちょっとしたことで腹を立てたり、意地悪な心を放っておいたり、利害が絡むと憎しみすら湧いてくるのです。これらは、舵の壊れた船のようなものです。自分の感情をコントロールすることができなくさせるので、とても危ういのです。当然、そのような人には平安がありません。今は良くても、この先いつ心に嵐が起こるかわからないのです。これでは、幸せになれませんね。信仰者は、信仰を与えられています。ですから、その人の信仰がダメだとは言えません。ただ、その人がキリストの価値をまだ十分に理解していないのです。自分が主で、キリストは従になっているのではないでしょうか。キリストが主であり、自分が従であれば、不思議なことですが、心を恐れさせたり、不安にさせたり、怒らせたことが、いつの間にか感謝に変えられるのです。キリストがその人に働いて、すべてを感謝に変えるのです。すると、心に平安が満ちてきます。今日の御言葉は本当なのです。この御言葉の通りになるように祈ってみましょう。幸せの第一歩です。
2月22日(月)
神の栄光の勢いに従って賜るすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、光のうちにある。聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。
コロサイ1:11、12
最近、レトロブームで昭和という言葉をやたら耳にします。その昭和にクリスチャンになったのですが、その当時に使っていた聖書が口語訳でした。それまでの書き言葉である文語から話し言葉と同じように書く口語を苦労して作り上げたのですが、やはり、文語調の名残がありました。それだけに、聖書らしく?格調高く、奥行きを感じる言葉となりました。それが、やがて古めかしい文章となり、意味がわからないとの苦情まで出るようになったのです。現代のSNSによって日本語は極限まで短くなり、もはや格調の高さも気品も情緒も無用のものになったようです。まるで記号そのものに近づくことが求められているようにさえ見えます。そこで、今日の口語訳聖書の一文を読んでみましょう。意味がすぐに伝わったでしょうか。口語訳聖書で育ったクリスチャンは、「何事にも喜んで耐えかつ忍び」というような信仰感を持っていたように思います。今時は、耐えるとか忍ぶというような言葉は流行りません。しかし、それだけキリスト教信仰の真髄に近づきにくくなってしまったように思うのです。今日の聖句も、キリストに出会うことによって、自力で生きてきた人が、神の力で生きるようになるということなのです。例えば、「もっと信仰を頑張りたいと思います」などという人がいます。これは、勘違いで、「自分の力」で信仰を頑張ると力んでいるだけのことです。それではダメなのです。「神の力」でなければダメだからです。神の力で何事も喜んで耐えかつ忍ぶのです。それは自力とはまったく違います。自力では誇ってしまい、自己の功績にしてしまいます。しかし、神の力によっていれば、謙遜しか生まれないのです。もともと、罪しかない者なのです。そんな者が神様のお役に立つなど考えられません。自分では誇れても、神様には迷惑しかかけていない者なのです。それなのに、キリストはそんな者のために十字架にかかられたのです。そこから、すべてが新しくなり、始まったのです。ですから、神様からの賜物に圧倒され、へりくだればへりくだるほど、何事も喜んで耐えかつ忍び、そして、驚くことに光のうちにあるのです。そのことが分かれば、父なる神様に感謝しかないないですよね。
2月23日(火)
だれでもキリストのうちにあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、全てが新しくなりました。
Ⅱコリント5:17
「キリストの内にある」とはいったいどのようなことでしょう。今日の聖句のような言い方は、教会では普通に使う言葉かもしれませんが、一般の人が聞けば、どのようなことかと首を傾げるでしょう。これは、キリストを信じたということ以上のことを言っているのです。自分が罪人であると気づかせてくださったキリストは、その重い罪の解決のために十字架にかかって死なれたのです。死ぬ以外に罪の解決がないからです。それで、私たちは自分で罪の罰として死ぬことはしなかったのに、罪が赦されました。そこで、キリストの内にある者となって罪に死にたいのです。それは、自分で罪を犯さないのように頑張るようなことではありません。そもそも、そんなことができるならキリストは十字架にかからなくても、罪からの解放は自分の力でできたはずです。それが不可能なので、キリストは十字架にかかられたのです。そうであるならば、キリストの功績に頼ればいいのですが、実は、自分の罪がどれほど重いか、そして自力では解決できない絶望的な問題であることをしっかり理解しないと、クリスチャンになっても罪からの自由を実感できないような中途半端な者になってしまうのです。自分を捨てなければならない、自分を捨てないと罪が消えないから。このようなことを知ると、まるで自分を脱ぎ捨てて、キリストを着るようなことを考えるのです。本当はそれ以上で、キリストは生きておられるので、自分を捨てて、キリストの内に存在する者とすれば、キリストの命に生きることができるのです。それは、新しく造られた者なのです。今までの自分は古いものとして過ぎ去っていくのです。これは、真にキリストに出会った時に、実現するのです。キリストと出会って、全てが新しくなるのです。
2月24日(水)
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
コロサイ2:12
人を分ける方法はいろいろありますが、バプテスマを受けた人とそうでない人に分けることができます。バプテスマを受けるかどうかは、本人の自由な意思で決まります。最も幼児洗礼をする教会では、後に堅信礼を受けて補っています。いずれにしろ、バプテスマを受けたことは、人間が想像するよりもはるかに偉大な奇跡なのです。なぜなら、聖書に書いてあるからです。今日の聖書箇所を読んでみれば、いかに大きな奇跡が起こっているか明らかです。しかし、人間は自分の努力で達成したことなら誇りとなって忘れることはないのですが、神様の恵みであれば、実感が伴わないので忘れてしまうのです。洗礼を受けた時は、感動したはずです。その時に、今日の聖句が実現しています。ただ、死者の中からのよみがえりは、神の力を信じる信仰によるのです。だから、上の句に焦点が集まりやすいのですが、下の句にもっと集中して欲しいのです。そのことがクリスチャン人生を大きく左右します。ファリサイ派のように厳しい律法を遵守しなさいと言っているわけではありません。信仰まで与えられています。あとは、何を信じるかだけです。この聖句をそのまま読めばいいのです。そして、自分はこのように信じているので、キリストと共によみがえらされたのだと認めましょう。よりよい祝福された人生を歩んでください。
2月25日(木)
神の道は完全
主の仰せは火で練り清められている。
すべて御もとに身を寄せる人に
主は盾となってくださる。
詩篇18:31
私たちは完全ではないので、時々失敗もしてしまいます。人間関係で楽しいこともあるのですが、つまずくこともあれば傷つくことだってあるし、その逆に自分が人を困らせることだって起こり得るのです。それは、だれも望まないことですが、いろいろな人が集まるところでは避けることが難しいのです。それに、自分の性格や個性があるので、こうすればいい、ああすればいいというようなものでもありません。天国のように互いに愛し合う関係が成立していればいいのですが、この世では罪があるので、時にはひどい目に遭うこともあるのです。そこで、クリスチャンは、今日の聖句からヒントを得て欲しいのです。「神の道は完全」とあります。この完全に助けていただくのです。主が盾となれば、誰も自分を傷つけることはできません。たとえ、相手が悪意を持って攻撃してきても、主が盾となれば、自分にダメージを与えることがないのです。このように身を守るために、「御もとに身を寄せる人」となる必要があります。これは、その前の句に関係しています。「主の仰せは火で練り清められている」とあるので、主の御言葉のことです。この御言葉が示している道があるのです。それは、生き方とか考え方と言ってもよいのです。悩んだり、苦しんでいる人の特徴は、自分の考えに縛られ、自分の思い込みに固定され、そこから抜け出せずに苦しみの堂々巡りに陥っているのです。そうなると、人の助言も役に立ちません。人の言葉は完全ではないからです。火で練り清められた主の御言葉は完全なので、なんでも切ることのできる刀のようなものです。そこで、自分の思いや考えを縛っている鎖をこの刀で斬りつけ砕いてしまう必要があります。このようにして、解放して、さらにその人を主が保護することで、古い自分を裁き続ける恐ろしい攻撃から主が盾になって守ってくださるのです。ですから、今日の御言葉を読んで、主にこの通りにして欲しいと祈るのです。
2月26日(金)
弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天国では、だれが一番偉いのでしょうか」
マタイ18:1
若い人が「あの人は天然だ」と言ったりしますが、ここに出てくるイエスのお弟子たちの何と天然なことか。ただ、彼らを私が笑えないのは、天国を理解していないところが人間にはあるからです。天国もこの世と同じならば、それは天国ではありません。だから、この世の価値観で「だれが一番偉いのか」という質問は、的はずれな質問なのです。それに、天国でもし一番偉いという言い方ができるのなら、それは神様に決まっています。それなのに、「だれが一番偉いのか」と聞くのは、あくまでも自分が考慮されているからです。平たく言えば、天国でも偉くなりたいということでしょうか。ここで、聖書を読んでいる人なら、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43、44)とイエスがおっしゃったことを覚えているでしょう。弟子たちは理解するのに時間がかかりました。ですから、皆さんも時間をかけて考えればいいのです。天国に行ったら、皆がニコニコと人に仕えている姿を見るはずです。それが実に楽しそうなのです。自分が劣っていると劣等感を持っていた人も元気はつらつとして、何の憂いもありません。弱い者が尊ばれ、強い者がへりくだって謙遜に振る舞っているのです。だれもが愛が動機となって行動しているので、愛が溢れている世界です。病気もないし、争いもありません。真の豊かさの中で、笑い声があちらこちらで聞こえてきます。光に溢れ、主の臨済の喜びがあります。主の愛に感動して、すぐに讃美の歌声が聴こえると、次々に讃美の歌声が上がり、素晴らしいハーモニーに包まれます。主が近づけば、栄光が輝き、まばゆいばかりです。このような世界では、偉いの意味が違っているのです。地上のようなことはもう過ぎ去ったのです。ただ、ありがたいことに、主イエスが来臨されたので、宣言通りに神の国は既に来ています。そこで、神の支配に服すなら、神の国に入ることが今でもできるのです。あなたは、その良い知らせを信じたのです。ですから、目に見えるこの世ではなく、目に見えないけれど既にある神の国に生きることができます。主イエスを信じなさい。霊の目が開け、神の国が見えてきますように。
2月27日(土)
見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。
ルカ24:49
キリスト教の秘密は、人に現代でも聖霊が降るということです。そして、その聖霊が約束にもとづくものであるので、だれも誇ることができません。さらに言えば、聖霊は上からの力です。神様に授けられるものです。ですから、人間的な常識を超越しています。そのために、疑って聖霊を受けられない人もいるのですが、それは宗教家や学者、指導者にも責任があります。ちょうどキリストが二千年前にユダヤに来た時と同じです。しかし、そのような聖霊を授けられることに否定的な環境にあっても、実際に聖書に書かれたように聖霊を授けられるクリスチャンは存在します。聖書的に言えば、この人こそがキリスト者ということです。つまり、このような聖霊に満たされたクリスチャンがいれば、その人は主イエス・キリストの証人となるからです。上からの力がその証拠です。それが安全なのは、キリストに従順に従うことができるからです。聖霊は、あなたを生かします。あなたの善いところを引き出して、信仰を強めます。人の救いのために上よりの力が出てきます。利己心が消え、主の御心を知ることができます。祈りも変わり、平安を知ることになります。主を讃美すれば、喜びと力が出てきます。聖なる臨済を見分けます。そのようなキリスト者がいれば、その場の空気が清まったように感じるでしょう。これは、主イエス・キリストを信じて、聖書から聖霊を理解して求めたらどのような人にも実現するでしょう。人間の高慢、貪欲が聖霊に吹き払われて、この世の常識すら一掃して、偏見なしに御言葉の約束を信じることができようになりますように。
2月28日(日)
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。
コロサイ3:12、13
聖書を学ぶことはクリスチャンにとって有益なことです。学者のように学ぶ必要はありませんが、信仰者として霊的なことを学ぶ意義は大きいのです。確かに、勉強は大変ですから、好まない方もいますし、その反対に貪欲に学ぶ方もいます。そこで、神様はそれぞれに霊的指導をすることができますので、違った方法で整えてくださるのです。しかし、今日のような聖書箇所は、どちらの人にとっても耳を傾ける必要のあるところなのです。つまり、クリスチャンになって、ある程度の期間が経てば、今日の聖句のようなところを祈りのうちに考えて心に深く留める必要があります。「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」とあるので、後から自分の徳として自分のものとすることが求められています。人間関係の中では不満はつきものです。しかし、この時こそ、クリスチャンとしての対応が見られているのです。主のご命令は明確で、「互いに赦し合いなさい」です。日本語の漢字は面白くて、「互いに赦し愛なさい」とも書けるのです。これは、赦しあっているうちに、それが愛に変わって行くという意味に受け取るとよいのです。ある老齢になった夫婦にインタビューをした時に奥様が、「初めはお見合いで結婚したので、主人を好きではなかったのですが、長い年月を一緒に暮らしてきて、今は主人を愛しています」とおっしゃったのです。聞いていても、心が温かくなりました。このように、人への不満が簡単に赦せないのは仕方がありませんが、それはお互い様なのです。ですから、クリスチャンとしては、互いに忍び合うということを意識し、互いに赦し合いなさい、との主のお言葉も自分の成長と主にある喜びを得るためと心に戒めるわけです。しかし、私たちは、自分一人が忍び、赦してばかりでは不公平だと思いがちなのですが、実は、自分のことを不満に思われていることに気がついていないだけなのかもしれないと考えていないのです。本当は、自分のことを忍び、赦していてくれていたのに、自分は気がつかなったということだって、大いにあり得るのです。今日は、この聖句をよく考えてみましょう。