11月1日(火)
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
マルコ11:24
クリスチャンは、天国までの巡礼者です。行く道は信仰の旅路です。ですから、初心者の時から私たちは「信仰」と言われ続けてきました。それは、今日の聖句を読むと意味がわかります。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」と書かれた「信じなさい」の部分のことです。すごいのは、「そうすれば、そのとおりになります」と断言されていることです。ただ、「すでに受けたと信じ」たから、「そのとおりになります」と言っているのです。それほどの信仰がどのようなものなのか私たちはチャレンジしてみて、そのとおりにならないと、信仰が足りないのかと、もっと信じようと努力してきたのです。しかし、それでもダメだと、すぐにあきらめてしまったかもしれません。そのうちに、御心に敵わないことを祈り求めたから敵わなかったのだと、言い訳がましく納得してしまうのです。さて、私たちの信仰が未熟だとか、不完全だということはありません。子供の信仰ですら主は認めてくださるのですから、真面目に信仰生活を送ってきた人の信仰を主がダメだとは言わないと思います。では、なぜ、今日の御言葉の通りにならないのでしょうか。一番の問題は、心のブレーキがかかっているのではないかということです。信じることを妨げる心のブレーキがあるのです。それは、自分のこだわりや常識に縛られているからです。「こんなことを願ってもダメに決まっている」とか、「信じることができない」と否定的な感情がすぐに頭をもたげてくる人も難しいですね。また、自分が本当に求めていることではなく、「このように祈った方が良いだろう」と建前に縛られて、心で願っていないことを祈っている人もいます。これでは、主は祈りを聞かれるはずがありません。アブラハムのように、主に最愛のイサクを犠牲とせよと言われてそのようにしようと本当に行動に移す人もいるのです。ここには、信仰者の主に対する完全な従順が見られます。このように非常識と言われそうな常識を超えた考えや行動が信仰にはあるのです。ところが、普通の人には信仰の妨げになるものが自分の内側にあるので、主は長い年月をかけてそれらを壊して、取り除け、主の御言葉を信じられて、従順に信じる通りに行動できる人に作り上げて行かれるのです。もちろん自分でも主を信じることを意識して行かなければなりません。神の鍛錬を乗り越えると、気がつけば何のためらいもなく信じることができるようになります。病気が癒やされる、奇跡が起こる、人の魂が救われる、と信仰には良いことを起こす力があるのです。今日から、信じる練習をしてみましょう。信じることを意識してみるのです。自分の祈りが聞かれるといった経験も信仰に益となります。
11月2日(水)
私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主は慈しみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
哀歌3:21~25
朝が待ち遠しい時があります。韓国の夜の街で大きな事故が起こり、多数の死傷者が出ました。楽しみに出かけていったのに、そこで死ぬことになるとは誰も思わなかったでしょう。その中には日本人留学生もいました。人間の命はいかにはかないものでしょう。人間は死ぬ存在なのです。事故現場で救命のために必死になっていた医師が助からないと判断した女性を離れようとした時に、隣の男性が「私の妻です」と言ったそうです。それで、その医師は、助からないと分かっていながらその女性を離れらなかったそうです。近くには助けられる人たがたくさんいたのにです。その医師は泣いていました。哀歌は、まるで、戦火に苦しむウクライナで街が破壊され、死人が大勢でた悲惨な状況で今なお生きている人の嘆きのような歌です。聖書でも特異な書です。彼れらが主を知っていたのに、偶像を拝み、罪を重ねて、預言者が警告していたのにもかかわらず、悔い改めることはなかったのです。その結果は、まさに自業自得なのですが、罪の罰がいかに悲惨なものであるか、出エジプトの経験をしていたのに、その記憶を祭りとして忘れないようにしていたのに、彼らの神こそが力ある真の神であったのに、その主に頼らずに、主の忌み嫌うことばかりして裏切ったのですから、本来なら滅び失せても仕方がなかったのです。それなのに、まだ生かされています。残りの者たちは、「主の憐れみは尽きないからだ」と心が震えたでしょう。そして、私たちに真理を残しました。「それは朝ごとに新しい」という言葉です。私たちは、ありがたいことに平和な世界で信仰を持ち、迫害もされずに恵まれています。それでも、生きていれば、いろいろな苦難も悩みもあるのです。それだけではなく、神様をガッカリさせることもしますし、不信仰となじられても仕方のないことだって言ってしまうことがあるのです。欲を捨てなさいと、言われていても、欲はいつでも頭をもたげ、欲があるから誘惑されると罪を犯すのです。聖書に書いてある通りです。その結果、行き詰まりひどい目に遭っても文句が言えません。そのような弱い人間が、信仰だけは守って何年も生きてきました。試練も越え、イエス様と何遍も祈り、困れば聖書を開き、御言葉むさぼりました。そして、ようやく今日の御言葉の意味が分かってきたのです。私たちができることは、ただ、主を待ち望むことだ、と。
11月3日(木)
神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。
Ⅱテサロニケ12:14
あなたがクリスチャンであるのなら、今日の聖書箇所は意味があります。パウロたちの伝道により、救われた人たちがキリスト教を形あるものにして行きます。この救われた人たちは異邦人と呼ばれ、ユダヤ人から見れば汚れた者でした。ところが、主イエス・キリストは、これらの異邦人の救いに道を開きました。ですから、ユダヤ人に独占されていた救いは、本来の全世界のすべての人の前に開かれていったのです。では、異邦人をどうやって救ったのかといえば、それは福音によってでした。福音を通してあなたがたを招かれたのです。その目的もはっきりしていて、「わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるため」でした。クリスチャンは、罪人であったのに主イエス・キリストを信じて救われたと言いますが、罪人が罪を犯さなくなったので義とされたとは言いません。おかしなことに罪人のまま、ありのままに救われたのです。では、どうやって義となるのでしょう。昔から教会は、「キリストを着る」と表現してきました。キリストは義なので、神は私たちではなく、私たちの上に着ているキリストの義を見て私たちを義と認めているのだ、というのです。確かに、その行いが全て義である義人となったので、救われたわけではありません。洗礼を受けたからといって、急に義人になるということではなかったのです。そうではなくて、まるでキリストを着て自分がキリストのようになったと信じているので、その信仰のゆえに義と認められているのです。実際には、あなたを聖なる者とする聖霊の力と、真理に対するあなたの信仰によって、キリストの栄光にあずからせてくださるのです。これは、人間の知恵では到底およびもしないことなのです。ですから、古い自分にこだわらずに前を向いて、聖霊によって自由にしていただき、聖霊のお導きを求めて主の御心を実現するように信仰によって生きてまいりましょう。
11月4日(金)
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
ガラテヤ3:26
クリスチャンにとって大切なことは、神の子どもである自覚です。私たちは、自分の弱さにガッカリしたり、落ち込んでしまうことがあるものです。それは、まさに私は神の子どもではないと思わせるには十分なことなのです。でも、逆に神の子どもであるということが霊的に満たされた生き方を実現させる力にもなるのです。信仰は決して難しいことではありません。カルトや異教徒も信仰があって、何かしら信じているのです。これは、無神論者でも同じです。皆、何かを信じているのです。科学とか論理的に正しいと思えることなどを信じている人もいます。中には論理的に正しくなくても信じる人はいますから、人間はどうなっているのだろうと不思議になります。また、全く信じられないという人の空しさは深く、希望を持ちにくい傾向があります。ユダヤ教とキリスト教の説明をしようと書かれた本が、実際には、一方的にユダヤ教の側に立って、キリスト教に怒りをぶつけている内容のものがあります。この人は、ユダヤ人が不当な扱いを受け、ホロコーストのような悲劇をキリスト教のせいにして怒っていました。しかし、一方的な攻撃で、聖書に書かれたことも公平には扱わずに、自分の論理に都合の良い使い方をしています。この人もユダヤ人の言い分を信じたのでしょう。このように、人間は何かを信じるようになっています。その信じる力を正しく使うなら、素晴らしい御言葉の力を体験することになります。今日の聖句なら、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子供になれるのです。善行を積んだからでも、聖書や神学の学位を取ったからでもありません。ただ、信じたから神の子どもとなれるのです。神の子どもになることなしに天国へ入れるでしょうか。それは難しいです。みなさんは、神の子どもになっていると信じてください。神の子どもであれば、この世のことには惹きつけられないはずです。悪魔の誘惑にも勝てるでしょう。それどころか、悪霊の働きを封じてしまうでしょう。神の子どもなのですから、イエス・キリストの兄弟姉妹になっています。神の用意された天国の贈り物もあなたのものです。神の子の模範はイエス・キリストでした。ですから、私たちは道に迷いません。勝利の栄冠まで備えられています。この世でも、光の子として歩めます。そして、何より、天の父に近づくことができることです。聖霊も自由に働けるので、真理を理解できるようになります。良いことづくめです。
11月5日(土)
わたしの救いと栄とは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。
詩篇62:8、9
私たちは思い込みがあって、自分の救いのためには、良い行いや自力である程度は頑張らなければならない、と信じているようです。しかし、聖書は明確に「わたしの救いと栄とは神にかかっている」と書いてあります。つまり、神様によらなければ救われないのです。「力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある」とは、イエス・キリストのことを説明しています。この地上で私たちは何か困ったことがあると、すぐにイエス・キリストに助けを求め、何をするにもキリストに祈って頼るのです。いざとなれば逃げたり、隠れたりできる避けどころは、岩のように不動で確実なイエス・キリストにあるのです。信仰の極意は、「どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ」とある通りです。神が私たちの避けどころなので、私たちは恐れることがありません。そのことを知っているのは、神に信頼を置いているからです。みなさんは、このように大変頼りになる神を信じているので、いつでも主を信頼して頼ってください。
11月6日(日)
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
申命記30:14
恵まれた人生の秘訣は、今日の御言葉にあります。私たちは幸いなことに、イエス・キリストと出会い、信じて救われました。ですから、聖書を神様の御言葉であると知りました。そして、信仰はそのことが真実であることを教えてくださました。人の救いと幸福は聖書に書かれています。そして、今日の聖句は真実なのです。「聖書を持っているか」と問われえば、「持っている」と答えることができます。では、「聖書を読んでいるか」と問われれば、なんと答えるでしょう。聖書を毎日読んでいる人とあまり読んでいない人がいます。大切なことは、価値がわかっているかどうかです。私たちの場合は、御言葉がごく近くにあります。聖書を暗唱したり、暗記したりしましたし、讃美歌でも歌っています。ですから、口と心にあります。これで、条件を満たしていますから、それを行うことができます。そして、行うことまでできれば、あなたは神様の祝福を受けて幸福に暮らせるのです。行うことが一番難しいことですが、それも聖霊の助けを得て信仰によってできることを知っています。神様の喜ばれることだけを選んで行けるように、祈ることもできるのです。主を信じる、という言葉の中に今日の聖句も含まれていることを覚えましょう。
11月7日(月)
恵み深くあなたの僕の保証人となってください。
傲慢な者がわたしを虐げませんように。
詩篇119:122
詩篇には驚かされます。神様に自分の保証人になって欲しいと言う発想はありませんでした。しかし、この世では「保証人」が必要になることがあります。それが神様であれば、なんとすごいことでしょう。誰が拒むことができるでしょう。これほどの最強の保証が私たちにはあるのです。もし、不安になるようなことがあるのなら、この聖句を思い出してください。この世の中には、確かに傲慢な者がいてあなたを虐げるようなことが起こる可能性があります。そのような時には、この詩篇のように祈るのです。その結果は、主の恵み深さを知ることでしょう。嫌な人が身近にいて、困らせられている人は、「あの人を退けてください」などと祈ってしまうかもしれません。このような祈りは聞かれない可能性が高いですが、この詩篇のように祈れば良いのです。要は、あなたがひどい目に遭わなければ良いのですから。何事にも祈り方があるのです。詩篇は良い教科書です。
11月8日(火)
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ローマ4:5
私たちは皆、この御言葉で救われています。神様に誇れるような働きが何かあるでしょうか。天国へ入れる資格のような働きです。とてもあるとは思えません。もっと不思議になるのが、私たちの生活がこの世の人と違って正しかったとは思えないのに神様に義と認められるというのはどうしてでしょう。王様の子供が特別なのは、次の王様になれることです。しかし、私たちは天の王様の子供ではなかったのです。ところが、聖書によれば、私たちは神の子にしていただいたのです。ですから、神様のおられる天に連れていかれることになっているのです。こうしたことが、どうして自分の身に起こっているのか、それが信仰によるというのです。その信仰は、「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じる」信仰のことです。この世でどんな職業についていようが、どのような身分であろうが、その信仰が義とみなされている人は、やがて時が満ちれば、天からキリストが再臨され、空中に引き上げられ、義と認められたことが明らかに証明され、神の子として新天新地に入れるのです。この奇跡が実現するのは、神様が慈しみに富み、憐れみ深いからです。そして、その人本人が主を信じたからです。誰が何と言おうとも、主イエス・キリストを信じたのです。それは、生き方を変え、その人の全てを変えることになったのですが、何といっても、主に従順にお仕えする者となったのです。それは、強いられたのではなく、主の愛が心に届いたからです。主に愛され、主を愛することが、その人の信仰になったのです。クリスチャンが弱そうなのに強いのは、この主の愛と信じる信仰があるからです。
11月9日(水)
わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
Ⅱテサロニケ2:16、17
イエス様を主と呼ぶ私たちは、主にお仕えする者です。そのことが私たちの喜びです。私たちは過分な恵みをいただき、信仰から逸脱しないようにイエス様が道となり牧者となってくださっています。私たちは、決して天才や芸術家のような才能を持っていないかもしれませんが、それぞれの与えられたもので幸せに生きていけるように主のご配慮があります。誰かと比べてがっかりしたり、逆に優越感に浸ることも、愚かなことであると理解しています。それでも、自分に自信を持てなくなるような状況に追いやられると、必ず天の父である神様が心を励まし、強めてくださいます。クリスチャンとして生きることは、自分の弱さや罪深さを主の愛と慰めが癒し、新しい命に生かす信仰を授けて、鍛錬してくださることです。ですから、私たちは、「いつも善い働きをし、善い言葉を語る者」とされるのです。だから、振り返ると善い人生だったと思えるようになるのです。
11月10日(木)
神の道は完全
主の仰せは火で練り清められている。
すべて御もとに身を寄せる人に
主は盾となってくださる。
詩編18:31
この世界に完全は無いと言う人がいるが、それは間違っている。なぜなら、その人も夜には眠り朝には起きて来る。一日は規則正しく完全に運行している。自然科学者は、ミクロの世界にもマクロの世界にも完全があることを知っている。この世界は神の完全な創造の傑作なのだ。人間も被造物なので、本来は完全であった。しかし、聖書物語の通りにエデンの園で問題が発生した。それは、「罪」と呼ばれるようになる。この罪は、人間を不完全にしている。病気になり、死ぬからだ。神は、アダムが罪を犯すことを知っていたのだろうか。それとも、アダムを愛していたから信頼していて、禁断の木の実を「食べてはならぬ」と言えば、それで安全だと思ったのだろうか。ところがアダムはいとも簡単に食べてしまった。だから、罪とは神の愛を裏切る事だ、と言われてしまった。しかし、希望はある。イエス・キリストが神の愛とはどれほどすごいものか示してくれた。その熱情の神に愛されて救われたクリスチャンは、今日の御言葉を理解できる。残念なことに人間の道は不完全だ。人間は、世界が豊かになり、平和が続き、誰もが幸福になると思っていたのに、戦争が起こり、貧富の差が大きくなり、疫病が流行り、二酸化炭素が止められず異常気象は猛威をふるい、先行きに不安を抱える人が世界に満ちてきた。私たちは、知っている。すぐに悔い改めて、主イエス・キリストを信じることで、神の完全な道に立つことができることを。どのような世界になろうが、主の御もとに身を寄せれば、主は盾となってくださるのだ。これ以上の保障はない。罪の無い世界に生きる道はすでに開かれている。しかし、主の福音を届けるのは私たちに任されている。聖書に書かれた通りになるので、この罪にまみれた不完全な世界は消え去る。そして、神の完全な新天新地が待っている。
11月11日(金)
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
ヨハネ17:15~17
私たちが洗礼を受けてもこの世に残っているのは、少なくともイエス様がそう望んでいないからです。もちろん、洗礼を受けただけでは完全ではなく、まだまだ未熟なので鍛錬が必要であるからこの世に残しておかなければならないという理由はわかります。それだけではなく、十二使徒のようにイエス様から遣わされることが決まっているからです。つまり、私たちは主からの使命を全うしなければならないのです。それは、聖書から知ることができます。そして、真理の霊が天からあなたのもとへとやってきます。この真理の霊が全て教えてくださいます。さらに、イエス様は、私たちを悪い者から守ってくださるように天の父に願ってくださいます。悪魔は、私たちが主の使命を果たそうとすることを妨害したいのです。でも、守られるので心配はありません。私たちが考えるべきは、今日の御言葉の通り、私たちは世に属していないのです。これは、決定的に大きなことです。悪魔の罠に満ちている世に属していないことは大変ありがたいことです。さらに、御言葉は真理であり、その真理によって皆さんは聖なる者とされるのです。ここまで、わかることはやはり、主への従順、服従です。救いの道筋は明確に決められているのです。ですから、信仰が大切なのです。
11月12日(土)
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
テトス2:11~13
キリスト教の素晴らしさは、洗礼に終わらないことです。確かに洗礼の感動や喜びは誰にとっても大きな神の恵みとなりました。しかし、私たちはクリスチャンとしてどうやって生きていけばいいのか、すぐに問われることになります。しかし、神様は圧倒的な知恵ですでに完全な救いを計画してくださったのです。ですから、私たちは、恵みで救われたことを思い出し、洗礼以後は「神の恩恵が教え育てる」ことを体験することになります。テトスの2章を初めから読めば、クリスチャンは新しい生命に生まれ、その新しい生命の現れこそが、この世に証しするのです。クリスチャンの日常にこそ、神様の恵みの現実の表れがあります。また、教会を通して神様はクリスチャンを教育するのです。これらがこの世界に向けられた神様の宣教です。例えば、礼拝時間を聖別し、神様を第一にするならば、その信仰により恩恵は必ず受けることができます。この恩恵が日常生活に現れてくるのです。神様よりも他のもの(この世の都合)を第一にするならば、恩恵は受けることができません。旧約聖書でさんざん、神様を第一にしない人たちがどのような目にあったか示されています。それらの人々の不信仰をあざわらっていたのに、自分がそうなっているなら危険なことです。偶像の正体は人間の欲望だからです。神様の恵みは、欲望を満たすためのものではありません。そうではなく、「その恵みは、私たちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」るのです。私たちは洗礼以後天国に入る準備をしているのです。そして、それは私たちの救い主であるイエス・キリストの再臨を待ち望むように教えているからなのです。これが、私たちの祝福に満ちた希望なのです。
11月13日(日)
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
Ⅱコリント5:15
クリスチャンになっても、この聖句の意味を理解していない人がいます。確かに、難しいことを言っていますから仕方がないのですが、しかし、聖書に書かれているので、この通りになるわけです。ただ、多くの人が意味が理解できずに、結果、体験としてこの真理の通りになるように導かれることになります。それは、クリスチャンになったのに、苦難があり、試練があるのも、その人がいまだに自分のために生きていて、キリストのために生きようとしないからです。よく、「砕かれる」という言葉を聞くことがありますが、まさに、自分のために生きようとする自我が砕かれることを言っています。この真理の重要な点は、自分のために生きる人は、神様を偶像のように自分のご利益と見ていることに問題があるのです。このような人は、困った時の神頼みと言われても仕方がないような自分中心の生き方をしています。クリスチャンとして成長する過程にいる人にも、厳しい試練が課せられることがあります。その人は、まだキリストのために生きるという意味が理解できません。信仰はあるのですが、自分のために生きているのです。そこで、自分の力で生きることが困難になるように試練を課します。過去の経験も地縁や人の助けも得られないようにして、神様にしか頼れないように導くのです。追い込まれて、神様だけが唯一の希望となるまで徹底します。そこで、初めて神様だけが全てだと悟ります。聖書に書かれた通りに、聖霊が自分に降ることを求めます。弟子たちが聖霊が降って力を受けるまで、エルサレムに留まるように命じられたのと同じように、自分の力に頼らずに、神様の力に満たされて真理を悟る時、自分が今日の聖句の通りに生きるのが摂理だと悟ることができるのです。これで、ようやく本物の水と霊から生まれたクリスチャンになります。聖霊が圧倒的でしかも愛と喜びに満たされるので、今まで悩んでいた悩みなどどうでも良くなってしまいます。事実、勝手に問題が自分の力ではなく神様の御力で解決していくのを見ることになります。自分のためではなく、キリストのために生きると言われて、心配していた人が、キリストのために生きることの方が正しく、自分のためになり、幸福になる秘訣だと悟ります。だから、今日の御言葉を読んで、自分はどちらだろう、キリストのために生きているだろうかと吟味してみましょう。もし、残念なことに自分のために生きていると思えるなら、早速祈り始めましょう。今日の御言葉を読んでこの通りになるように祈るのです。実は、古い自分を捨てる方が楽になるので、喜ばしい結果になります。
11月14日(月)
主こそ王。
諸国の民よ、おののけ。
主はケルビムの上に御座を置かれる。
地よ、震えよ。
主はシオンにいまし、大いなる方。
すべての民の上に高くいます。
御名の大いなること、恐るべきことを告白せよ。
主は聖なる方。
詩篇99:1~3
私たちが信じている神様は、どれほど素晴らしいお方か、考えてみたことがあるだろうか。詩篇99篇は、「主こそ王」と言っている。つまり、私たちが信じている神様は、王様なのだ。それも地上のどんな王様とも違い、生ける神様であるから、不可能が無い。栄華は極めることができず、その力はこの世界を言葉だけで創造したことでわかる。つまり、人間を地のちりから造り、生きたものにすることができるのだ。私たちは幸いにも、この真の神様に召され、信仰により神様に近づける者としていただいたのだ。どれぐらいこの神様がすごいかといえば、神様が降りてきたシナイ山は鳴動し、地は震え、全山煙り、山の麓で遠巻きにして見ていたイスラエル人は、恐ろしさのあまり生きた心地がしなかったのです。いにしえの昔、この神様はエルサレム神殿の契約の箱の蓋、つまり贖罪所に降り立ちました。エルサレムの古名はシオンです。大いなる方はシオンにおられました。今は天の御座から全ての民を見下ろし、時を待っておられる。黙示録に預言されたことがことごとく成就するのを見ておられた。主の御再臨は近い。なぜなら、預言がことごとく成就しているから。いよいよ終末の時が刻まれ、主を信じる者と敵対し信じない者と分かれていく。最後まで主に忠実な者は誰か。御名の大いなること、恐るべきことを告白する者は誰か。ハレルヤ、主は聖なる方。
11月15日(火)
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
イザヤ63:9
私たちと共に苦しむ神。このような神が世界のどこにいるだろう。血の通っていない偶像にはできないことだ。アダム、エバの時代から、聖書時代にこのイザヤの言葉の通りに、御使が彼らを救ったのである。でも、彼らは裏切り、それも何度も酷い裏切りを繰り返した。そのために、裁きがくだったことも事実だった。しかし、彼らが悔い改めると主はすぐに赦された。それほど愛が深かった。彼らが神によって背負われ、抱かれてきたことは昔から変わらない。そのように、聖書に証しされている。だから、聖書が私たちのもとにあることは、彼らのように、私たちクリスチャンも同じように愛され、時に憐れまれ、助けられてきたのだ。今、悩みの中にある人、苦しんでいる人、そのような人は必ず助けられるはずだ。もしかすると御使が送られて、知らない人に助けられたと言うようなことが起こるかもしれない。つまり、あなたは主に愛されているので、必ず助けられると言うことだ。それは、愛情深い父親が子供を見守り、必要な時には全力で助けるのに似ている。私たちは、そのような特別な存在であることを覚えていなければならない。そして、父なる神を、救い主なるイエス・キリストを信じて、「私は大丈夫」と言葉に出して奮い立とう。どんなに一生懸命やっても、うまくいかないこともある。努力したのに報われない時もある。人に足を引っ張られることだってあるだろう。悩みの中に入り込み抜け出せなくなることもあるかもしれない。それでも、「大丈夫。主がいてくださるから」と告白しよう。主は傷ついたあなたを背負い、抱いて、暗い道を通り抜けてくださるから。だから、苦しんでいる人は、主も苦しんでくださから、自分は一人ではない、と勇気を出そう。こうして、どんな時にも主を信じる人には、大きな報いが待っていて、主と共に喜ぶことができるのだ。
11月16日(水)
心配は人をうなだれさせる。
親切な言葉は人を喜ばせる。
箴言12:25
いわゆる心配の種はそこいら中にあるものです。心配性の人は、気の毒なぐらい何でも心配に結びつけることができます。心配しても始まらない、と前向きに考えようとする人もいるので、人間はそれぞれなのです。ただ、誰でも心配すれば、うなだれてくるのは道理です。有名な話にアメリカの二人の靴のセールスマンがアフリカに行った時に、一人は、アフリカ人は誰も靴を履いていません。これでは靴は売れませんと、うなだれたのですが、もう一人は、誰も靴を履いていないので、大量に靴が売れます!と喜んでみせたのです。同じ状況を見て、二人の反応は正反対だったのです。当然喜んだ人がたくさんの靴を売ったのです。万事がこの調子で、世の中は進んで行きます。ですから心配は、いいことがありません。心配性の人に、そんなことを心配してもしょうがありません、と言っても意味がありません。「あなたはすぐにそう言う」と叱られてしまうからです。そうやって、心配することを否定するよりも効果があるのは、親切な言葉です。聖書に書かれた通り、親切な言葉は人を喜ばせるのです。喜んでいる人は心配していません。ですから、心配性の人を否定したり、批判してもいけないのです。そうではなく、親切な言葉をかけることです。その人はきっと喜んで、心配することを忘れることができるでしょう。聖書の知恵は、人を傷つけず、相手を否定しないで、喜ばせ、肯定して認めることが良いとしているのです。私たちも忘れないようにしましょう。
11月17日(木)
悪に報いたい、と言ってはならない。
主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。
箴言20:22
クリスチャンは特別だと言う人はいますが、そう信じている人はどれだけいるでしょう。今日の御言葉をご覧ください。この世で出会う悪はそこかしこにありますが、たとい自分に向けられた悪であっても、報復しようとか考えてはいけません。ろくなことにはなりません。自分の感情が許さないと思うこともあるでしょうが、あえて赦してしまいましょう。後が楽になります。しかし、「悪に報いたい」と言えば、自分の力で復讐して恨みを晴らしたいとなります。それは、信仰を持った者にはふさわしくありません。たとえ、悪をそのままにしておけば、さらに自分に被害が出るとか、窮地に陥ってしまう、というような状況でも、「主に望みをおけ」と命じています。そうすれば、「主があなたを救ってくださる」というのです。そして、この御言葉の通りになったという証しは多くあります。自分で復讐すれば、やり過ぎてしまうかもしれません。そうなれば、主からの裁きを恐れなければならなくなります。ですから、早々と主に望みを置くことが大切です。もし、あなたが救いを必要としているのなら、主はあなたの益となるようにすべてを計らってくださいます。
11月18日(金)
そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。
同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。
箴言17:9
失敗しないで成長する人はいません。誰でも何もしない時には自信があるものですが、実際に仕事をしてみれば、途端に自信を失うかもしれません。その上、失敗はつきものなので、思いもかなけない失敗をすると大きな痛手を受けて落ち込むものです。しかし、その時に、その失敗を何とかしてくれる頼れる人がいれば、その人は挫折せずにすむのです。クリスチャンは、愛を追い求める人です。ですから、赦すことを知っています。時には、ひどい裏切りを経験するかもしれませんが、それでも信仰で耐え忍び、赦すことに努めます。それが、全部裏切った人に通じるわけではありませんが、神様は全部ご覧になっていますから神様が働かれます。その結果、相手の人が悔い改めることになれば一番なのですが、たとえそうならなくても、その人が味わったことのない無条件に愛される経験がその人を変える可能性が出てきます。報いが少ないと思いますか。クリスチャンは、イエス様の後を継いでいるのです。今日の聖句の下句は、あなたに何を思い出させるでしょう。たとえば、一度助けてもらったことを何度も繰り返し恩着せがましく言う人は、相手に去られてしまうでしょう。人間は、自分の隣人に良くしてあげたことを恩着せがましくいつまでも覚えていることはしてはいけないのです。その反対に良くしてもらったことは覚えておくべきです。人間は時々、おかしな事をしているのに気がつかないことがあります。それは、時には友を失うことだってあるのです。そこで、それを防ぐ秘策があるのですが、それは「愛」です。イエス様に倣って愛することをいつも意識することで、自分を愚か者にしなくて済むのです。愛の報いは大きいので、ぜひお試しください。
11月19日(土)
あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。
あなたは私の悩みをご覧になり
私のたましいの苦しみを知っておられました。
詩篇31:7
私たちは将来が予測できません。毎日同じことの繰り返しのように思っていても、実は予測不能なことが起こるのも珍しくはないのです。それでも、人間は計画を立て、その通りになることを願います。しかし、神様には別の御計画があることがしばしばあります。もちろん、良い御計画です。ただ、それが私たちの益となる鍛錬や試練であることもあります。神様のお導きは完全なので、私たちはそれを拒否することはできません。ですから、クリスチャンは人生が冒険のようにワクワクするのです。祈ることが少なければ、祈らざるをえないような、問題が起こったりします。クリスチャンも長く生きてきたなら、多少のことでは動じなくなります。神様のやり方がわかってきたからです。それで、信仰で解決しなければならないことをすぐに悟ります。自分の努力や力では何ともし難いことがあるからです。このようにして、クリスチャンは人生という長い時間を使って、天国に入れるように準備されていきます。その内容は、悩み事が何かしら起こります。それが簡単には解決しない深刻な問題で悩み、またただの苦しみではなく、魂の苦しみといった深い苦しみを経験するのです。当然、神様にすがり祈ります。神様はそんなあなたのことをご覧になり、どれほどの苦しみであるかを知ってくださいます。ですから、励ましたり、助けたりしますが、その人が神様をだけを第一にしているかどうかを確かめます。それが確かめられると、恵みを与えます。課題を見事クリアーしたからです。それが主の恵みであることがわかるので、その恵みを楽しみます。神様への感謝が溢れ、賛美となり、感謝することの喜びを味わうことになります。このようにして、信仰者は信仰を成長させて行きます。
11月20日(日)
心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りに頼るな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3:5、6
信仰の極意は、主への従順です。いつでも、主に服従する者は信仰の達人なのです。私たちの課題は、それをいかに自分のものとするかです。では、私たちはどうやって「主に依り頼む者」になれるのでしょうか。気がつけば、自分の悟りに頼り、自分で勝手に頑張り始める傾向があります。そこで、神様はその人が困った状況に置かれるとどうするかをご覧になります。皆さんがすぐに気がつくように、そのような状況で、私たちは神様よりも自力でなんとかしようと必死になります。まさに、自分の悟りに頼ろうとするのです。しかし、それはすぐに無理だと気が付きます。自分の悟りや力ではなんとも解決しないからです。でも、自力で何としようとする気持ちが強すぎて、なかなか神様にゆだねます、とはなりません。そこで、さらに深刻な状態に置かれることになります。これは、自分の悟りに頼っている限り続くのです。本当にその人が主を認めるまで、苦しい状況が続きます。例えば、この人が逃げ出して遠くに引っ越しても同じです。なぜなら、この人はクリスチャンだからです。本当に信仰によって義と認められるまで信仰の鍛錬は続きます。言葉で「主を信じます」とは言えても、困難な状況で自分の力で何とかしようと努力しないで、主を認めるのは簡単ではないのです。でも、主がその人を愛しているので天国へ入れるように中途半端な信仰では無理なので、主への信仰を正常に保つことができるようにこのような信仰の特別訓練があるのです。そして、その人がついに自分を捨てて、主を認めるなら、その人の人生に明確にわかるように、主はあなたの道をまっすぐにされるのです。
11月21日(月)
神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
ローマ9:15、16
なぜ、私たちはクリスチャンになったのか不思議に思う時があるでしょう。なぜなら、見事な聖人であれば、救われるのも納得ですが、そうではなく罪人であったのに救われました。ですから、何も誇ることができません。何代も続くクリスチャン家系に生まれてくる人もいますが、それよりも圧倒的に多くの人が初代のクリスチャンです。つまり、自分が初めてのクリスチャンで、家族、縁者にはクリスチャンは誰もいないのです。日本のような国で、クリスチャンは総人口の0.6%程しかいません。それも名簿の数ですから、実数はもう少し下がります。それほど少ないクリスチャンになった理由は、神様の憐れみによると言うのです。確かに義人を救うなら当然と思いますが、自分が罪人であることを考えると、「憐れみ」という言葉が本当であると思えてきます。救われようと意志を強固にし、それだけの努力をして、それで救われたと言う人はクリスチャンにはいません。私たちは、「主の憐れみと恵みによる」と言うでしょう。ですから、「私は救われた」と誇って傲慢になることはできません。それでも、なぜ自分が救われたのだろうと言う人は、聖霊を通して天の父の慈しみを悟らせてくださるでしょう。神様の愛の深さ大きさは、スケールが驚くほど大きく、もし、霊的な目が開かれれば、主の愛に圧倒されるでしょう。このように、神様の召があったのですから、あなたこそアブラハムの子孫であり、神の子です。何物も恐れず、胸を張って堂々と生きましょう。
11月22日(日)
あなたは主を避けどころとし
いと高き神を宿るところとした。
あなたには災難もふりかかることがなく
天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて
あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
彼らはあなたをその手にのせて運び
足が石に当たらないように守る。
詩篇91:9~12
神様を信じるということは、ここに書かれたように生きることを意味しています。つまり、神様のお守りは徹底しているのです。しかし、実際には災難にあったり、疫病に罹ったと言う人もいるでしょう。ところが、実際にはそこにも主の助けはあり、信仰を持った人を最善に支えていてくださっています。ただ、91篇の初めは、「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ」と、あります。つまり、神様の御そばに身を寄せて隠れている人のことであって、そうでなければここに書かれた通りにはなりません。この信仰者は、主に向かってこう言っています「私の避けどころ、砦、私の神、依り頼む方」と。これほどしっかり、神様に依り頼んでいることが特徴です。平和に暮らしていると、ここまでの真剣さがどうしても欠けているものです。神様に近づき、御もとに隠れようとするのは、困っている時です。何か大変なことが起こっていたり、災難に遭遇していたり、疫病が流行ってしまい危険な状況になっていたりと、逃げて、避難し、隠れたい時です。そのような時は滅多にきません。でも、そこまで追い込まれれば、信仰者はこの詩篇91篇を思い出して、朗読し、この通りに祈るのです。そして、災難から救い出していただくことです。ただ、鍛錬である場合には、そうもいきませんから、その時には、主への従順を示し、信じる信仰で忍耐して乗り越えるしかありません。いずれにしろ祈りで解決するわけです。しかし、信仰の鍛錬を受けた人たちは、今日の聖句を体験することになるでしょう。これではエコひいきだと言う人もいるでしょうが、まさにその通りになります。神様のことを理解しない人は、神様は何もしないと言ったりしますが、それは、間違いです。神様は生きておられます。ですから、忙しく懸命に働かれているのです。それは、人を愛し、罪から救済するためです。しかも、人間はどの人もかなり癖があって、難しいのです。それを、主に従順な人に造り上げなければならないのですから、大変です。でも、主に忠誠を尽くす十二使徒たちやパウロのような人たちが模範としていてくれるので、私たちは闇雲に信仰しているわけではないのです。聖霊のコーチに従って、素直に信じることです。結果は驚くほど良いので、安心して主を信じましょう。
11月23日(水)
しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
ルカ8:15
クリスチャンの方なら、今日の御言葉は難しく感じないでしょう。当たり前のことと思えるはずです。そうであれば、実を結ぶ恵みにあずかることは決して難しくありません。ところが、実を結んでいる実感がなかったりします。何が問題かといえば、あまりに常識的過ぎて、一つ一つを良く考えていないことが考えられます。そこで、もう一度読み直してみると、まず、「正しい、良い心」でひっかかります。自分は大丈夫だろうかと少し不安になるかもしれません。実は、クリスチャンの皆さんならば何ら問題はないはずです。それよりも、その後です。「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて」というところをよく考える必要があります。そもそも、聖書を読むとは言っても、聞くとはなかなか言いません。この差が何か考えてみることです。「読む」とはどちらかといえば、アウトプット(出力)です。一方、「聞く」はインプット(入力)です。ですから、心の畑に実言葉の種を蒔くには、インプット、つまり聞くことが肝心なのです。心にいかに御言葉を入れているかを考えればいいのです。そのためには、御言葉の意味がわからなければなりません。真理の御霊が助けてくださるという約束を実現するために祈る必要が出てきます。そして、知識として聖書辞典や聖書地図、それに聖書注解書も役に立ちます。もちろん、牧師に聞いてみることもいいですね。こうやって、一旦、心に入ると、今度は、しっかり守ることが重要です。これも信仰によらなければ難しいです。実際に守ろうとすると、忍耐が必要になります。「よく耐えて」という言葉が書かれているのですから、御言葉の実現に障害があってもよく耐えていけば、実を結ぶことができるのです。
11月24日(木)
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
ガラテヤ6:9
情報化社会になってから、今までの常識がどんどん変わっています。しかも、男女平等が進んできたために、男の役割であったことが、どうやら女性に移っているようで、これが常識だと思っていたことが今や常識ではなくなっているかもしれないのです。そのように価値観の急激な変化は、世代間で常識が異なっているという形で現れてきています。そうなると、「善を行う」というのにも当然変化が起こっているはずです。そのように色々なことが分かりにくくなっている時代が今なのです。では、クリスチャンはどうすればいいのかといえば、ブレることなく、聖書に書かれた通りにすることが最善となります。人間は風に揺れる葦と言ったパスカルではありませんが、世の風に簡単に揺れて定まらないものなのです。ですから、クリスチャンのように、神の言葉に信頼を置いて、その通りに生きようとする人は貴重な存在となります。今時はやらないとけなされたとがっかりすることなく、信仰を貫けば、やがて時期が来て、実りを刈り取ることになるのです。実り豊かな人生こそがクリスチャンの生き方なのです。
11月25日(金)
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
詩篇103:5
神様を信じていれば何か良いことがあるのですか?と聞く人がいます。その答えは、今日の御言葉です。「あなたの一生を良いもので満たされる」神様を信じたのです。ただ、人間は弱さを持っていて、信じることが簡単なのに、それを難しくしてしまったり、不安に負けたりして不信仰になることがあるのです。悪魔は、そんな人間を観察して理解しましたから、昔から同じような誘惑を試みて人間を不信仰にしてきたのです。ですから、私たちが頑張ればよいのですが、それが簡単にはいかないのです。そこで、神様は今日のような恵みに満ちた命を与えて人間が喜んで信じるようにされるのです。それでも、人間は疑い、単純には信じません。そこで、神様は人間を鍛錬することにされました。どんな時にも主を信じるような人になれるように鍛えるのです。ですから、今、試練に中にある人は信仰を持ち続けることができるようにしていただいていると理解してください。なぜなら、今日の御言葉を信じれば、書かれた通りになるからです。一生信じてよいもので満たされた人生を過ごして欲しいのです。
11月26日(土)
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
Ⅰヨハネ4:9、10
私たちが喜ぶべきは、神に愛されている事実です。私たちも愛という言葉を使いますが、あまり深くは考えていないかもしれません。神が愛と言われる時には、私たちの考える愛よりもはるかに大きな意味があります。何しろ、罪人を救うからです。ここで言う罪とは、神の愛を裏切ることです。愛はこの世の中で一番美しいものです。それを裏切るのですから最悪です。私たちは、自分を裏切る者を赦すことができません。特に、自分が愛し信頼ている者に裏切られると、深く傷つきますから、その裏切り者とは縁を切りたくなります。それなのに、神は本質が愛なので、人間の裏切りに対してすぐに救済計画をお立てになりました。神は全能ですから、一旦罪を犯した人間がどうなるのか将来を見ることができました。悲惨で悲しく残酷な未来です。この罪を人間が悔い改めるなら、赦す方法がありました。しかし、罪人が簡単に悔い改めるでしょうか。自分の罪を人のせいにして責任転嫁するような者が、どうして悔い改めるでしょうか。ただ一つだけ、人間を救う方法がありました。それは、神の独り子を私たちの罪を赦すための犠牲とすることです。人間の罪がイエスという何の罪もない神の独り子を十字架で殺し、血を流すことで罪の贖いとするという計画です。この時、自分のせいでイエス・キリストを十字架で残酷に殺してしまった、と悟った時に、私たちは自分の罪を認めて悔い改めざるを得ないのです。そして、御子イエスが犠牲になってくださったことも、天の父なる神がどんな思いで、御子イエスを犠牲にされたのか、私たちにはとても理解できませんが、ただ、それが私たちに対する神の愛であったのです。私たちは、神を愛していると言いますが、最初に愛してくださったのは神だったのです。ですから、救われたあなたは、神に愛されていることを片時も忘れてはいけません。罪人の時ですら愛されていたのに、今はなおさらです。自分に自信を持って、私は神に愛されていると胸を張って生きてください。そうすれば、あなたからできてくるものはいつでも愛になります。あなたは愛の人となるように主に召されたのです。
11月27日(日)
そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
ヘブル13:6
誰かと戦う時、一人で戦うのは心もとないと心配になるでしょう。しかし、私たちはクリスチャンなので、主がついていてくださいます。普段は遠く天国にいると思うぐらい主は遠くに感じているかもしれませんが、実は、主はあなたの内におられます。ですから、あなたを苦しめる者は、知らずに主を苦しめようとしていることになります。それでは、相手が悪過ぎます。神様を相手に戦っても勝てるはずがありません。よって、あなたは弱くても、主が強いので人間があなたに対して何ができるでしょうか。あなたは必ず主によって勝利します。それがわかっているので、「私は恐れません」と言いましょう。恐れは、不信仰の元ですから、不信仰ではさずがに勝てません。ですから、決して人間を恐れてはいけないのです。あなたは、信仰で鼓舞して、「主は私の助け手です。私は恐れません」と覚えていて、必要な時には、口に出して何回も言えばいいのです。ヘブル書によれば、これは確信に満ちて断言できることなのです。ですから、あなたを苦しめる人は不幸なのです。神様に喧嘩を売っているようなものだからです。そのことが気になる時には、相手のために祝福を祈りましょう。決して呪ってはいけません。この御言葉を信じて実行する人は、本当であったと喜ぶでしょう。
11月28日(月)
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。ふるいものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。
Ⅱコリント5:17
クリスチャンは過去に縛られる必要はありません。信仰をもって理解しなければなりませんが、罪人の忌まわしい過去は全て古い人と共にキリストの十字架の上で死んでしまいました。人生に失敗した人にとっても、やり直しがきくのです。誰でもと書いてあるので、例外はありません。クリスチャンになったら今日の御言葉が当てはまるのです。さて、信仰の話は、「キリストの内にあるなら」と書かれた御言葉です。何しろ、「その人は新しく造られた者です」とあるのが救われた人にとって重要なことなのですが、つまり、罪人ではなくなっているということです。今日の御言葉は、「キリストのうちにあるなら」と書いてあるので、その意味が気になります。よくキリスト教は、キリストを信じるなら救われるという言い方をしますが、それとは明らかに言い方が違っています。ただ、信じるだけでは足りないのでしょうか。信仰のことを階段に例えることができますが、一段登っても信仰だし、百段登っても信仰なのですが、明らかに違いがあります。このように、信仰初心者であっても、信仰の達人であっても、同じ信仰なのです。しかし、内容はずいぶん違っています。そして、ある一定のところまで到達しなければなりません。それが、今日の御言葉の「キリストのうちにある」ところまでです。つまり、信仰者は、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった」と言えるところまで信仰に成長する必要があるということです。自分の考えに固執する人は、キリストの外にいます。でも、試練を信仰で超えていくうちに主への従順を学ぶのです。主に服従する者は、キリストのうちにある者と呼ばれます。ただ、自分の信仰が心配になる必要はありません。聖霊がコーチのように、その人の信仰を成長させてくださるからです。皆さんができることは、後戻りしないことです。せっかく、信仰を使って成長するように、配慮されているのに(大抵は試練ですが)逃げ出したり、文句を言ったりすると信仰に後退してしまうのです。下手をすれば聖霊の火を消してしまうかもしれません。困ったら、信仰を使うのです。自分が捨てられない人も、それは古いものなので過ぎ去っていくものなのだとあきらめてください。信仰によって生きる決心をすれば、すべてが新しくなります。この神様のお定めになった方法に無条件で従うことが良いことなのです。信仰のベテランの方は、今日の御言葉を信じてください。その通りになります。
11月29日(火)
イスラエルの聖なる神
あなたを贖う主はこう言われる。
わたしは主、あなたの神
わたしはあなたを教えて力をもたせ
あなたを導いて道を行かせる。
わたしの戒めに耳を傾けるなら
あなたの平和は大河のように
恵みは海の波のようになる。
イザヤ48:17、18
神様を信じる者には、良いことがあります。それは、報いがあるからです。今日の聖句を読めば分かる通り、あなたの神はイスラエルの聖なる神であって、あなたはクリスチャンになったので、霊的なイスラエルなのです。ですから、あなたはイザヤの預言を自分のこととして読めばいいのです。あなたの神様は、「あなたを教えて力をもたせ」ると言っています。ですから、あなたは良く変わります。力がある無しで人生は大きく変わります。そして、あなたの神様は、あなたを導いてくださり、人生という長い道を迷わずに歩ませてくださるのです。あなたは聖書を学び、神様の戒めを知っています。ですから、それに従うべきです。そうすれば、あなたの平和は大河のように揺るぎないものとなります。そして、恵みは海の波のように、次々と押し寄せ、決して尽きることがありません。イスラエルの民は、失敗しましたが、あなたには別の助け主である聖霊が共にいますから、よく信心し、祈り、聖霊の導きに従順になることが肝心です。さらに信心深い者となって、より良い人生を過ごしてください。
11月30日(水)
兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
Ⅰテサロニケ5:14
クリスチャンは、人間関係で真価を発揮します。もともと、イエス様が「互いに愛し合いなさい」と新しい掟を定めましたから、人間関係でクリスチャンは愛を意識しないではいられません。ところが、愛するとはどういうことか考えると意外と難しいのです。そこで、今日の聖句がきっと役に立ちます。愛は甘やかすことではないので、「気ままな者を戒め」と書かれています。時には叱ることも愛の表れなのです。「小心なものを励まし」というのはどうしてか、と思う人もいるでしょう。もともと小心な者を見下したり、馬鹿にする傾向があるので、注意が必要です。小心な者は傷つきやすいので愛が必要です。それは、励ますことによって表すことができます。励まして、その人の持っている良さを引き出すこともクリスチャンの仕事なのです。また、「弱いものを助け」と書かれているのは、クリスチャンには一番わかりやすいでしょう。そして、すでに実践していることでしょう。愛は弱い者を助けることで表されます。さて、最後に一番重要なことが出てきました。「すべての人に対して寛容でありなさい」。人間の器の大きさは、どれほど寛容であるかというところで測られます。これは、誤魔化せません。ですから簡単ではありません。でも、イエス様の愛は寛容を通しても表されました。その愛で今も愛されているので、私たちも寛容になれるはずです。つまり、人を愛することですね。