1月1日(日)
昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
ローマ15:4
聖書は私たちにとって大切なものです。天の知恵がそこにあり、私たちが学ぶ気があれば人間に必要なことの全てが学べます。特に信仰によって生きる義人には、欠かせないものなのです。なぜならば、罪の世界に置かれているのですから、神様の御心に反するものがあふれているのです。ですから、忍耐が必要になります。その忍耐を聖書から学ぶことができるのです。さらに、信仰者は主を信じる信仰のゆえに理不尽な扱いを受けたり、迫害されることすらあるのです。ですから、天からの励ましが必要なのです。それをすぐに得るようにと聖書が与えられているのです。このようにして、主は私たちに希望を持たせるのです。この世が天国になることはありません。ですから、私たちは天国に憧れるのです。そして、主が再臨されることが慰めと希望になっています。今年も主に忠実に生きることが私たちの喜びとなりますように。聖霊の親しき交わりを経験できますように。主の御用に用いていただけますように。
1月2日(月)
人は見識のゆえに賞賛される。心がいじけている者は侮られる。
箴言12:8
箴言は簡単そうで実は簡単ではない。考えるのが苦手だという人がいるが、箴言は考えた方が良い。なぜならば、この土地の中に宝が埋まっていると教えられたようなものだからだ。土地の広さは、掘り返すのにそれほど広くはない。ならば、さっそく掘って探そう。今日の箴言は、上の句と下句が対応しているように見えるが、少しわかりにくい。上の句は、クイズ番組で好成績をあげる人をイメージするとわかりやすい。実際には、人としてどのように生きていけば良いのか理解し、いつでも物事を正しく考え、処理することができる人だ。これに対して、下の句は人生があまりうまくいっていない人のことだ。私たちが絶対してはいけないことは、心がいじけることだ。それで、何かうまくいくと期待しても何もない。どのような人でも、大人になれば立派に生きていけるのに、見識のなさで人生を台無しにしている人がいる。つまらないことにこだわって、大人の対応ができないのだ。相手からも子供っぽいと呆れられてしまう。そうなると、何をやってもうまくいかないので、心がいじけてしまうのだ。そうなると、ますます人生は暗くなるばかりだ。周りの人から侮られるので、辛さが身に染みるだろう。特に男性が陥りやすいので気をつけなければならない。人間として立派に成長することは、意識的に努力しなければできない。器が小さいとどうでも良いようなことにこだわる。しかも頑固なので、簡単に自分を窮地に追い込みやすい。その上、自分が正しいと思えば、その意志を貫けばまだマシなのだが、追い詰められると頑張れない弱さがある。これでは、どんな人でも人生が嫌になるだろう。しかし、聖書に正反対の二つのことが書かれているということは、下の句のような者でも上の句のような人になれるということなのだ。心がいじけている者の反対は、見識のある者だ。つまり、自分中心に物事を考えるのをやめて、相手の気持ちや考えを理解できように考えてみることだ。どうして、この人はこの意見を主張しているのだろう。以前は、その言葉通りに受け取って、正論で反対してしまった。しかし、よく考えると、顧客から無理な注文を受けたからではないか、あるいは、当初の目論見がはずれて大幅な修正を施さなければならないのに、社員んモチベーションを下げることを恐れて、本当のことを言っていないのではないか。このように、いろいろ考えて、相手の言動の本当の意味を探るなら、ムキになって反論したり、怒ったりはしなかっただろう。相手の立場もメンツもあるのだから配慮するべきだった、と反省できる。しかし、心を頑なにして対立すれば、悪い結果が待っている。一旦、しくじっても反省できればいいのだが、そうしないでさらに、愚かな選択をするので、自信もなくなり、しまいには心がいじけるのだ。そうならないために、勉強することも良い。人としての正しい考え方や人としてのあるべき姿を学ぶことも必要だ。それに、信仰と同じように、自信も身につける必要がある。これは、信念と言えるほどのもののことだ。物事に対する情熱と信念があれば、大抵のことは成功する。同じ人が、このように人生を良くも悪くもできるのだから、やはり聖書から学ぶべきだ。あなたも、人から賞賛される人生を選ぶことができるのだ。そして、何歳からでもやり直しはできる。だから、いじけた心をまず捨て去ろう。そして、見識ある者になろうと決めよう。
1月3日(火)
主は私に関わるすべてのことを、成し遂げてくださいます。
主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手の業を捨てないでください。
詩篇138:8
クリスチャンになると、驚くほどの特典があります。言い方はおかしいですが、まさにそう言いたくなるほどの素晴らしことだからです。それは、今日の聖句を読めば明らかです。「主は私に関わるすべてのことを、成し遂げてくださいます」とあります。つまり、文字通りに私に関わるすべてのことをです。すべてなのです。それを主が成し遂げてくださるというのです。これほどの凄いことがあるでしょうか。神様は全知全能なのです。主に不可能なことはないのです。ですから、どんなことでも完璧にやり遂げることができます。そして、私たちは、不完全で得意なことはわずかしかなく、ほとんどは不得意なことばかりなのです。それが、主が成し遂げてくださるのです。もちろん、その人の益となることしか主はなさりませんから、あなたが見当違いの目標を持って始めても主があなたの駅とならないと認めれば、それを助けることはありません。ですから、あなたは、自分にとってやるべきこと、主の御心にかなったことは何かを知る必要があります。信仰の面白さは、長い年月をかけて、結局主の御心に従う道を歩むようになるということです。それは、平安を得て暮らしていることでわかります。私たちは主の恵みの中を生きていけるのです。信仰を働かせて、主を知ることを求めましょう。そして、今日の御言葉を覚え、勇気を持って自分の人生を生きましょう。
1月4日(水)
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
Ⅰヨハネ4:9、10
キリスト教を知るまでは、神が私たちを愛するという発想自体がありませんでした。愛は神と結びついていなかったのです。そもそも私たち日本人は、愛は恋愛の愛と同一視していました。確かに母の愛というのは誰もが思いつくでしょうが、私たちの罪を赦すために御子を犠牲にすることが神の愛なのだと言われても、すぐにはピンと来なかったのです。それが、いつの間にか圧倒的な神の愛として心に迫ってきたのです。理屈で神の愛を説明する人はいますが、そのようなことではなく、愛が迫ってきた、というのがピッタリなのだと思います。もちろん、劇的に救われた人もいれば、劇的なことなど何もなくなんとなく救われたという人もいるのです。それでも、どこかで神の愛が働いているので誰でもがイエス様の十字架に涙し、讃美歌を歌っては涙し、心が回心した、という状態を経験するものです。小学生や中学生で洗礼を受けた人もいるでしょうが、その時に神の愛に感動したり、涙した人もいたでしょうが、ただ緊張したというだけで、特に神の愛が迫ってくるようなことはなかったと思っている人は多いでしょう。しかし、時いたって、聖霊の雨が降ってくると、心の中に愛の泉が湧き出てきたように、神の愛が満ちて溢れ出すのです。キリストの受難の意味がわかってきます。主の愛が圧倒的なので、愛に打ち倒されるほどです。このような神の愛が知識だけでなく、霊的にも理解できると、人生の生き方にまで良い影響が現れるのです。それは、「私たちが神を愛したのではなく」という意味がよく分かる日が来るからです。「神が私たちを愛し」という意味がよくわかるようになるのです。
1月5日(木)
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられる事です。
Ⅰテサロニケ5:18
今日の聖句を読むと、「すべての事について」とことわりがあるので、人生とは感謝する事なのだと、気がつきます。これは非常に楽観的な生き方です。皆様もお分かりのとおり、人生には決して感謝できないようなことが溢れています。私たちは、少しのことで腹を立て、簡単に怒ってしまうような者なのです。そのことに疑問を持つ人はいないでしょう。つまり、この世の常識では、すべてのことを感謝することはできない、ということでしょう。それなのに、聖書では正反対の命令が書かれています。「すべての事について、感謝しなさい」。これは、神様があなたがたに望んでおられる事なのです。これにも、前書きがあって、「キリスト・イエスにあって」とあります。ですから。クリスチャンの人に向けた神様の御心がこれなのです。まず、自分のことを反省してみて、よく感謝している方だと思いますか。それもと、感謝が足りないと思いますか。いずれにしても足りません。神様は「すべての事を」とおっしゃったからです。これは、謙った人でなければできません。自分中心に考えていれば、なかなか感謝などできません。いつでも、満足しないでしょう。しかし、期待通りの結果でなかった時でもクリスチャンは感謝するのです。神様にです。これだけで、実は人生は楽しくなり、幸福が押し寄せてきます。失敗しても、くよくよしません。なぜなら、失敗したことも感謝なのですから。人からひどいことをされて傷ついた時だって、感謝します。これは、神様の支配が完全であることを認めている言葉です。神様は失敗しません。そのことを信じているのなら、我が身に起こった事はすべて良いことのはずです。そこで、神様に感謝するのです。感謝は心でするものですから、口先だけの感謝ではいけません。心から感謝できるまで感謝は本物になりません。ですから、葛藤が生まれるかもしれませんが、聖書に書かれているのですから、頑張って守りましょう。それにしても、感謝してどうなるかは実際にやり始めるとわかります。神様への圧倒的な信頼なのですから、悪いことは良いことへ変わります。悲しい涙は、笑顔に変わります。とにかく、今日から感謝があなたのすることです。なんでもかんでも感謝していれば、祝福が押し寄せてきます。これは、やってみた人しかわからない真理なのです。そうそう、キリストにあってとは、自分の力だけでは感謝できないからです。イエス様があなたが感謝しようとすると助けてくださいます。だから、感謝なんかできないとは言えないのです。さて、やる気になってきたら、実践あるのみです。どんなことが起こるでしょうか。楽しみです。
1月6日(金)
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたことを喜ばれる。
ゼパニヤ3:17
神様との関係について誤解している人たちがいます。神様を厳しいお方として距離を置いて見ているのです。ところが、今日の聖句をよく読んでみて欲しい。どうだろう、神様のことを再認識したのではないだろうか。まず、一番大切なところは、「主はあなたのただ中におられる」という信仰です。主が自分の中におられるとしたら、悪い事はもちろん、肉を喜ばせることはしないようにしようと決意するはずです。それ以上に、人生は良くなり、何をしても良い結果が期待できます。何より、人生の旅路をいつも運命共同体のように一緒に生きてくれる主が自分の内に生きておられるという事です。しかも、裁くためではなく、「救いの勇者」としていてくださるのです。なんと心強い事でしょう。そして、主が共にいてくださる理由は、あなたの事を楽しみ、喜んでおられるからなのです。あなたは信仰がまだ弱くて、自分の感情に振り回されているからもしれませんが、今の状況はあなたが自分で作ってしまったのです。主はあなたのことを楽しんでおられるのに、あなたはどうでしょう。一体である主をなぜ楽しんではいないのでしょう。主を喜べるはずなのに、そのことを忘れ、自分の不満が先立ちます。なんのために信仰を持っているのか考えてみましょう。主は「その愛によって安らぎを与える」とおっしゃっているのだから、そのまま安らぎを受け取ればいいだけです。それが主の愛なのだと気づけるはずです。ところがそうなっていないのは、信仰の問題です。悔い改めて、誠実な主に感謝して、この身言葉の通りに主があなたにしてくださると信じて、あなたも同じように主を愛し、喜び、楽しむのです。安らぎを確かめてみましょう。「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と書かれている通りに信じましょう。私たちは主を賛美するのは私たちだと決めつけていましたが、主もまた歌って、あなたのことを喜ばれると理解してください。主は、圧倒的にあなたを愛しているのです。それは、あなたが信じてこそ形に現れてくるのです。主に栄光。
1月7日(土)
私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
ハバクク3:19
預言者は、苦難の中を生きてきました。この世の悲惨な状況を見てきたのです。それは、預言者であるが故に知る苦しみです。ところが、この締めくくりの言葉はどうでしょう。信仰による美しい讃美となっています。信仰とは、これほどまでに人に希望を与え、神への信頼を最高の形で実現するものなのです。信仰者にとって、「私の主」は、私の力なのです。どんなに疲れても、どんなに大変であっても、力が残っていればまた立ち上がることができるのです。しかし、主が私の力になるというのは、それ以上のことなのです。岩山の急な斜面を雌鹿が器用に歩いているのを見たことがあるでしょうか。敵に襲われないように、そのような危険なところを登って行くのです。まるで、この雌鹿のように、私たちも、どのような困難があっても、必ず乗り越えて行ける力が与えられています。それは、主が力になって乗り越えさせるのです。私たちがどのような者であっても、自信を失ってすっかり弱ってしまっても、それでも何とかなるのは、主が私たちの力となるからです。これは信仰によるのです。
1月8日(日)
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、すべてが新しくなりました。
Ⅱコリント5:17
今日の聖句をよく読んで考えてみましょう。特に、自分を振り返って考えて見ましょう。これらは、すべて信じることで実現できることばかりです。信仰はまるで生き物のようです。なぜなら、クリスチャンが要求されている愛は、信仰から出てくるからです。もっと、正確には「きよいこころと正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛」(Ⅰテモテ1:5)です。信仰は成長します。あなたの信じた通りになる力があります。ですから、信仰は正しく使わなければなりません。これらは、各自が聖霊の導きの中で日々学んでいるはずです。そこで、まず「キリストのうちにあるなら」です。キリストの内にある自分を想像できますか。自分の心に振り回されている人がキリストの内にいることはありませんね。よく、キリスト教では、キリストに従順にならなければならない、とか、キリストに服従しなさい、と言われます。人間を動かしているのは心なので、心がキリストに服従しているかどうかが問題です。そうでなければ「キリストの内にある」などと言えないからです。自分の心のままに生きているのなら、キリストの外にいることが明らかです。人間は良心であろうが、心であろうが、汚れることがあります。ですから、自分の最もマシなものでも、当てにならないのなら、そのままではキリストの内にいられないのです。「悔い改め」は、クリスチャンなら誰でも知っています。この悔い改めには霊的な力もあって、キリストにあって清めることができるのです。ですから、私たちは悔い改めを重く見て、日々悔い改めることを躊躇しません。それは、信じる力を増し、キリストの内にあることを可能にします。これだけで、新しく造られた者と慣れます。そうです、古い者は過ぎ去ったのです。すべてが新しくなりました。この意味するところは、信仰によってキリストの内にあることができるように、つまり、罪の問題、心の問題、信じる問題、等を信仰によって解決してきた結果です。もっと、難しいことを要求されていないのは、誰でもキリストの内にある状態に招かれているからです。最も、それ以外に過去に縛られずに自由になる方法がありません。「新しく造る」と書かれているのですから、神様がその人を再創造されるということです。自分の努力はまったく関係ありません。「古い者は過ぎ去って、すべてが新しくなりました」と、信仰で言えるようにしましょう。
1月9日(月)
万軍の主はこう言われる。
「ぶどうの残りを摘むように
イスラエルの残りの者を摘み取れ。
ぶどうを摘む者がするように
お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」
エレミヤ6:9
これは、イスラエルの民に、エルサレムの住民に告げられた預言者エレミヤの言葉です。イスラエルの罪深さ、それは神殿のあるエルサレムも例外ではありませんでした。あまりの腐敗に神の警告と裁きが預言者を通して告げられたのですが、彼らは一向に悔い改めずに預言者をも脅かしたのです。そこで、北より強敵が攻めてきてエルサレムも蹂躙されると神の怒りが預言されます。それなのに、万軍の主は「イスラエルの残りのものを摘み取れ」と語られました。こうした箇所を読むたびに、やはり神は愛なのだと痛感します。神を怒らせるのは当たり前のイスラエルの民の中に、それでも信心のある者が残されているのではないかと怒りよりも愛が優って出てくるのです。しかし、この聖句をよく考えてみると、もう一つの意味が隠れていることに気が付きます。それは、キリストの登場によって、福音はイスラエルから出て世界へと広がりました。そこには異邦人であるのにイエス・キリストを信じる者が大勢いたのです。つまり、クリスチャンが福音の担い手になったのです。ところが、救われてクリスチャンになった異邦人にも、罪深い者が現れます。本来なら、そこで滅ぶ者と決められても仕方がないのですが、ここでも主の愛の方が優っていて、「お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ」と主は命じられたのです。こうして、本来ならばただ滅んでいくだけの罪人に主イエス・キリストを信じる信仰があることを見通して、主は葉の裏側に隠れていないかと注意深く探させたのです。そして、私たちは救われてクリスチャンになりました。その恩寵がいかに深く大きいか、私たちは学んでいる最中なのです。
1月10日(火)
主は私を、全ての悪いわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。
Ⅱテモテ4;18
地球上におびただしい人が生きていますが、皆同じようで実はずいぶん違った生活をしています。なにしろ、ヨハネは暗闇と言いますし、サタンは主イエスを試みて、自分を拝んだらこの世の全ての富を与えようと豪語したように、この世を支配していると思っているのです。ですから、どこにでも悪がはびこり、病気も貧しさもなくなりません。そのような世界で、今日の御言葉はありがたいと神様に感謝せずにはいられません。そして、あなたも主を信じているのですから、この聖句の通りになります。自分の力でできると思っている人は、まだ何も知らないのです。しかし、クリスチャンの人は天国への旅路を歩んでいると言われていますから、この世のことに惑わされないように気をつけて、主の鍛錬を受け、信仰によって義となれるように鍛えていただくのです。このように、「天の御国に救い入れてくださる」というみ言葉は、とても力強く主が働いてくださるということですから、感謝を込めて主を讃美するわけです。この讃美が自分の心から出てくることを願います。主のよって救われる者は幸いです。
1月11日(水)
あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わり、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。
ネヘミヤ9:20
荒野は人の住む所ではありませんでした。その荒野に導かれた者は、主の試みに遭うのですが、主は彼らを愛し、主が彼らを養いました。では、なぜ荒野に導かれたかといえば、その道を通らなければ、約束の地カナンに入ることができなかったからです。これと同じように、私たちもクリスチャンになって荒野の旅に出ました。それは、天国に入るためです。イスラエルの民は、エジプトで奴隷でした。その奴隷根性を取り去り、主に従順な信心深い者にするための訓練場が荒野だったのです。クリスチャンもイエス様に連れられて荒野に出て行きます。しかし、今日の御言葉の通りに、クリスチャンになると聖霊が遣わされます。その聖霊は慈しみ深い霊なのです。聖霊はクリスチャンに悟りを与えるようにとの使命を担っています。さらに、イエス様はご自分が天からのパンであることを明言しました。そして、聖霊は別のキリストなのです。ですから、聖霊はマナの働きも担っています。さらに聖霊は、霊的飢え乾きを覚える時の水の役割をも帯びているのです。こうして、荒野をただ通るだけではなく、罪と死と悪魔の奴隷であった者を神の子と変えるための特別な行程を、肉にある者のようにではなく、霊にある者として生きるように、聖霊が遣わされたのです。そして、霊的に支えられるようにと聖霊が羊飼いの役割を続けてくださいます。ですから、この世のことばかり見てはいけません。この世のものを欲しいと願えば、道に迷ってしまうでしょう。それよりも、羊飼いの声を聞くべきです。その声の後について行けば、天の楽園にたどり着くからです。
1月12日(木)
わたしに聞け、ヤコブの家よ
イスラエルの家の残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
イザヤ46:3、4
私たちがクリスチャンになれたのは偶然でしょうか。いや、そうは思えません。初めは何も分からずに、聖書も知らず、自分の神が誰であるかも知りませんでした。しかし、日本でクリスチャンになる人は極端に少ないのですが、あなたは主の召命に自分の意志で応えたのです。あなたは何者なのでしょう。聖書を読み始めた時には、ヤコブの家もイスラエルの家も単純に聖書の中の人たちのことだと思っていました。しかし、時が過ぎて聖霊の諭しを受けて、我々は霊的イスラエルであることを知り、もしかすると文字通りにイスラエルの家の残りの者かもしれないのです。そう思って、今日の聖句の三行目から読んでみてください。どうでしょう。不思議な感覚が起こりませんでしたか。私たちの神は、あなた方は生まれた時から負われ、担われてきたのだと言われます。そう思って、振り返ると確かに大変な時には誰かに背負われて過ぎてきたように思います。信仰を持ってからは尚更です。確実に主が担ってくださっていたと思えます。そして、「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」と主が言われると、感無量なのです。実際に白髪になって、この御言葉の通りであったと今は心からそう思えるのです。毎朝、感謝する時の喜びはこの御言葉が真実であったことの証明です。私たちは主に造られたのです。それだから、主は特別に私たちを救い出すのです。最後の行は、言語では「私が担い、私が背負い、私こそが救い出す」と「私」が強調されているのです。それも動詞を重ねて、私こそがあなたを担って行くんだ。私があなたを背負って行くのだから。私こそがあなたを救い出すのだ」と。あなたの主の思いが溢れていて、あなたが信じているよりもはるかに優って、あなたを愛されていることがわかるはずです。これだけ言われて、まだ疑うのでしょうか。主が本気であることがわかれば、あなたは何を心配し、思い煩っているのでしょう。そんな必要は何もないのです。主を信じましょう。そして、素直に背負われていけばいいのです。もう、この世のことに未練はありません。主に担われて神の国に帰るのです。そして、そこに生きるのです。
1月13日(金)
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
コロサイ3:10
クリスチャンになると、新生したと言われます。罪人の私はキリストと共に十字架にかけられて死んだのだと教えられえます。そして、キリストが三日目に墓から復活したように、同じ復活の命をいただいて新しく生まれたのだと言われ信じたのです。十字架の死も復活もすべてキリストが実際に行ったのであって、私たちはただ信じたのです。信じる信仰がいかにすごいことなのかわかります。さらに、今まで罪人であった者が何もしていないのに義人になると言われてもピンとこないものです。そして、クリスチャンになった時から、このような信仰の戦いが始まります。私たちは新しい人なのです。そして、神にかたどって創造されたと聖書に書かれた通りに、造り主がおられ、神の像として造られた人間は、罪を犯して神の像を失いました。今、キリストによって罪を贖われ、古い人に死に、新しい人に生かされたのは、まさにこの神の像を取り戻すためなのです。それは、どうも一朝一夕には行かないもので、日々の信仰生活が重要なのです。聖霊は休みなく私たちを神の像に造っておられます。クリスチャンは、それをキリストに似た者とされると言ったりします。さらに、このように新しくされて行くだけではなく、そのゴールは、「真の知識」と書かれているのです。それは、神を知るということであり、アダムから始まった人類の歴史の本当の意味でもあります。罪が完全に滅ぼされ、二度と現れることのなくないように、決着がつくのです。それは、この真の知識によるのです。
1月14日(土)
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
ローマ8:38、39
人間にとって一番大切で、重要なことは、愛されることです。それも、無条件に愛されることです。罪はその大切な愛を裏切り、傷つけ、破壊してしまうものです。罪を犯した者は神様と断絶し、無意識のうちに逃げ出してしまうのです。それでも、親子の愛、家族の愛、夫婦の愛、師弟の愛、恋人たちの愛、友人の愛、と色々な愛が存在します。そのような愛によって人間は生きる力をもらっています。ただ、人間は弱過ぎて過ちの多いものですから、愛が無くなったり、愛が憎しみに変わったりすることもあるのです。しかし、神様の存在を知らない人は、人間に変わらぬ愛を求めてしまいます。それは、人間には無理なのですが、この人がダメなら他の人、とむなしく愛を求めます。自分の期待した愛をもらえないと、精神が不安定になります。このように、人間に期待しても愛は不完全で不安定なものであるので、人間に期待しなくなるのです。ところが、イエス様を通して神様の愛は決して立派ではない自分に無条件に与えられ、それも一回だけではなく永遠に与えられ続けることがわかったのです。神様の愛は決して変わりません。神様の愛は出し惜しみしません。溢れるほどいくらでも愛を与え続けてくださるのです。この愛から引き離すことは誰れもできません。ですから、信仰を持ち続けることができるのです。人間は愛されて生きるように創造されたのです。ですから、主に愛され続けることで本来の素晴らしい私が実現するのです。主に愛されていることに意識を集中させましょう。そして、あなたも主を愛しましょう。一方的な愛ではなく、双方が愛し合うことの喜びを味わいましょう。主から十分に愛情を満たしていただくことを毎朝の習慣にしましょう。どんなことがあっても、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
1月15日(日)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
コロサイ3:12~14
クリスチャンの自覚と心構えを聞かれたら、この聖句を思い出してください。誰にとっても簡単ではありません。しかし、この内容が良いことであり、クリスチャンとしては当たり前のことであると認めることができます。この教えを受け入れると、幾つもの試みがあるかもしれません。しかし、信仰によって乗り切ることができるはずです。その過程は厳しいかもしれませんが、聖書に書かれた通りに選んでいけば、心の中に聖句の通りに刻まれて、自然にこの通りになって行きます。それは、この世的には喧嘩もできない情けない者のようにうつるかもしれませんが、それでいいのです。今日の聖句で最後に書かれている「愛を身に着けなさい」という言い方は、奇妙な言い方ですが、よく考えると納得できます。それは、愛を服のように着ると言っているところです。服は着る物ですから、着ると身にフィットして、一体のように見えることがポイントです。つまり、自分の本質のところになかった愛(アガペー)を外から服のように着せられて、その人と一体になっているイメージです。つまり、自分の力ではできないことを求められているのですが、神様は聖霊を送ってくださり、聖霊は私たちの内側に入り、キリストの品性という実を結ばせるのです。その頂点にあるものが愛なのです。この愛があれば、今日の聖句にあるリストが全て身に着くというわけです。「愛は、すべてを完成させるキズナです」。
1月16日(月)
あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
Ⅱコリント3:3
SNSが広く世界に広がり、個人情報が簡単に見ることのできる時代になりました。聖書にも、似たようなことが書いています。それによれば、あなたはキリストが聖書を用いてお書きになった手紙ということになります。もちろん、公開済みです。より正確に言えば、初代教会の時には、パウロが伝導して、キリスト信仰を求道者の心に書きつけたということでしょう。今日では、伝道者がパウロの役を引き受けているわけです。ですから、あなたを導いた先生がいると思いますが、それはあくまでも道具であって、実際には聖霊がまるで人の心の板に手紙を書きつけたのです。あなた自身にも効果があるように、あなたを通して誰でも心に書かれた手紙を読むことができるようになっているというわけです。そういえば、新約聖書も手紙が数多く入っています。あなたは、苦労して新約聖書を読み、理解に努めたと思います。究極的には、聖霊が御言葉を解き明かしてくださるのです。同じように、あなたに書かれた手紙も聖霊が働き、出会った人が読むことになります。あなたが立派な人になったので、あなたを見た人がそこにキリストを好意的に感じると言ったようなことではありません。そのようなこともあるかもしれませんが、あなたが手紙なので、あなたは読んで貰えばいいのです。聖霊が働かれるので、決して不思議なことではありません。霊的な働きが起こると期待してればいいのです。たいてい、伝道しようと自分で頑張ると結果が良くないでしょう。しかし、あなたはあまり話さなくても、次々に聖句が浮かんできて、そこを開いて読むだけで、何か良いことが相手に起こっていることがあります。創世記で学んだように、主は御言葉で創造されましたから、あなたに書いた言葉がきっと実現します。神様の不思議を疑わなければ、きっとあなたにも良いことが起こるはずです。楽しみですね。
1月17日(火)
神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられてように、互いに愛し合うことです。
Ⅰヨハネ3:22、23
私たちは、何かしら願い事が生じてきます。他人から見れば小さなことかもしれませんが、本人にとっては大切な願いであるものです。時には、他人には理解できないような願いもあるでしょう。自分の力では難しいことに挑戦して結果を残したいと思っているかもしれません。単純にお金が欲しいということもあるでしょう。家や自動車のように高価なものでも必要なら欲しいと思うでしょう。自分の夢を実現させようと資金を貯めて、必要な努力を重ね、それでも遠く届かないこともあります。信仰のことでも願いは起こります。山をも動かすほどの信仰が欲しいと、願うことは聖書的です。では、今日の聖句を考えてください。「神に願うことは何でもかなえられます」というのは、驚きです。「何でも」と書いてあるからです。この破格の約束の条件は、二つです。一つは、神の掟を守こと。二つ目は、御心に適うことを行っていることです。一つ目の「掟」とは、イエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合うことです。どう考えても、難しくありません。誰でもできます。そうなら、なぜ、多くのクリスチャンが願いがかなわないと思っているのでしょう。どう考えても真剣に取り組んでいないからではないでしょうか。信じる、互いに愛し合う、これらに集中してみましょう。必要ならば、キリスト教書籍で役に立ちそうなもの選び、読んでみましょう。祈りの時間や回数を増やしてみましょう。信じることに集中してみましょう。願うことをよく吟味してみましょう。御心にかなっているかどうかをよく考えてみましょう。熱心という言葉を聞きますが、この一連のことを熱心にやってみましょう。聖霊のバプテスマを求めて祈るのに似ています。願いがかなえば、それがどんなに神聖なことであるのか気がつくでしょう。そして、やはり、神様は聖句に書かれた通りに働くことを知ることができます。何か、楽しみになりますね。
1月18日(水)
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
詩篇103:11
よく晴れ上がった日に天を仰いでみよう。どこまでも高く、無限に吸い込まれて行きそうです。そのように天は非常に高い。主の御恵みは、それと同じようにあなたの上に大きい、と聖書は教えているのです。昔、「あなたの神は小さい」という言葉を聞きました。それは、実際の神様はもっとずっと大きい偉大な神様であるのに、あなたの信仰が小さくて、神様まで小さくしているというのです。あなたは自分を振り返ってどうでしょうか。あなたの神様は大きいですか、それとも小さいですか。信仰は自分の心の反映でもあります。ですから、神様は神経質ですぐに私を裁くので、失敗しないように気をつけようと思う、などと考えている人は、自分の神経質がそのまま神様に投影されてしまっているわけです。健全な信仰者は、今日の御言葉の通りに信じています。ですから、主の御恵みを味わっているのです。同じクリスチャンでも違いが生まれるのです。ちなみに私の神様はとても良い神様です。いつでも良くしてくださるからです。神様がしてくださった良きことを後になって理解が深まれば深まるほど、とてつもない大きな御恵みであると驚きます。今住んでいる所も、寒さが弱い私には特別な所で、天気予報を見ているとシベリアからの寒気が日本列島を覆ってくるコンピューター予想でも、日本中が冷気に覆われて行くのに、自分の住んでいる所の手間で止まるのです。「神様、ありがとうございます!」と嬉しくなりますが、今日の聖句の通りだと感謝が湧いてきます。私の神様は大きい、と言いたくなります。皆さんの神様も大きいのです。ですから、否定的にならずに、楽観的に考えて、今日も良い日だと喜んでスタートしましょう。
1月19日(木)
あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。ー主の御告げ。ー
イザヤ54:17
世の中には、いじめがあるように、誰かを攻撃する人たちがいます。また、悪人は善人を攻撃するし、クリスチャンだって迫害されることは歴史が証明しています。そうでなくても、誰かに不当に攻撃を受けることがあるのなら、今日の聖句を思い出してください。悪人は、あの手この手で攻めてくるでしょうが、その攻撃のための武器がことごとく役に立たなくなる、という約束があるのですから、どんな手を使ってもあなたを悪人が攻撃して酷い目に遭わせることはできないものです。この世の中では、あなたを責め立てる人が出てくるかもしれません。しかも、故意に悪意を持って陥れようと責め立てるのです。そのために、酷い目に遭うことがあっても、主に全てをお任せしていれば、やがて裁きの時に、あなたは相手の悪意を罪に定めることが決まっています。これが、「主のしもべたちの受け継ぐ分」なのです。このように聖書に書かれているので、あなたは自分勝手に戦ったり、復讐したりするべきではありません。主により頼み、祈ることです。たとえ、すぐに結果が出なくても、世の終わりの捌きの時に明らかに相手が悪いと罪に定められる。このようにあなたは神様に守られているので、勇気を持って正しく生きましょう。
1月20日(金)
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ローマ4:5
私たちはクリスチャンですから、聖なる者です。聖書にも聖なる者になれ、とか完全になれと書かれていますから、戸惑います。それは、自分が聖なる者と思えないからです。ましてや完全な者とはほど遠いと言わざるを得ないからです。それでも、信仰生活は止まることなく続きます。そして、何がしかの期待をしながら、不完全な自分がどうすれば完全になれるのか、聖なる者と本当になりたいが、自分の力では難しい、と考えるとがっかりするのです。そこで、真面目な人は努力をします。ところが、努力するとたちまち自分の足りなさを発見することになります。こうなると、だんだんニヒルになってしまいます。この方法ではダメです。では、聖書に一致するにはどうすればいいのでしょう。まず、大前提を理解していなければうまく行きません。それは、今日の聖句に書かれています。「何の働きもない者」とは、今出てきた通りに努力してもうまくいかない者のことです。ですから、これは私たちのことを言っています。「不敬虔な者を義と認めてくださる方」不敬虔な者とは、神様が義と認めることができる事を行えずに、その反対の事ばかりしている人のことです。つまり、一向に「聖なる者、完全なる者」になれないと信じている人たちのことです。この人たちは、完全になる努力を十分していないと思っています。聖なる者にもどうすればなれるのか皆目見当もついていない人たちです。その人たちがかけているのは、「信じる」ことです。このような聖句を読めば、ピンと来なければいけません。つまり、自分の思い込みが邪魔して信じられないのです。不敬虔の者を神様は義と認めない、と信じています。でも、聖書は「不敬虔な者を義と認めてくださる」と明確に書いてあるのです。不敬虔な者が聖なる者となれないで完全な者ですらない人のことです。つまり、自分を含めた普通の人、どこにでもいる人のことです。ですから、そのこと自体は問題ではないのです。なぜなら、神様は不敬虔なものを義と認めてくださると言っておられるのです。問題は、私たちの責任です。それは、信じることなのです。「その信仰が義とみなされるのです」。イスラエルの律法学者やファリサイ派の人たちとは大違いです。もちろん、「不敬虔な者を義と認めてくださる」とためには、人間の想像をはるかに超えた、神様の犠牲があります。キリストの十字架はその象徴です。復活もまた然りです。神様にはちゃんと救いの裏付けがあるということです。そして、私たちがありのままで救われるのは、キリストのおかげであるし、天の父なる神様の愛があるからです。義となるどんな働きも私たちにはできないでしょう。でも、主の愛を受け止めて、へりくだり、今日の御言葉を信じるなら、その人はその信仰が義と認められているのです。主に自分を投げ出して信じましょう。
1月21日(土)
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
Ⅰペトロ5:10
私たちは、主イエス・キリストを信じて救われました。洗礼を受けてクリスチャンになりました。その恵みは体験してみなければわからないでしょう。教会まで世俗化してしまった現代では、救いの神秘まで体験した人は少ないでしょうが、それでも喜び、平安、恵みと大いに霊的覚醒を受けたものです。それが、日が経つに従って惰性になり、この世の生活の方が重要になって、信仰もマンネリになりがちになってしまうことがあります。人によって差が生まれるところですが、それでも主は誠実に私たちの霊的成長を願って問題の本質に迫ります。それは、私たち自身の問題です。神様に向かっていたはずなのに、気がつくと背を向けて逃げ出している者まで出てくるのです。そこで、神様ならの方法で、クリスチャンを苦しみの中に置くことがあります。それによって、神様の御心を通して信仰者の目を覚まし、高慢、傲慢であることを打ち砕き、へりくだらせ、完全な者としてくださるのです。そればかりか、信仰によって生きる義人とし、その人を不動の者としてくださいます。ですから、女性であっても強くしていただけます。何があっても主に堅くたっていることができれば、道は必ず開かれます。そのような強い信仰に立てないと思っていた人が、主の取り扱いで、苦境に立たされ悩み、不安に押しつぶされそうになって、自分の力に頼れなくなり、他人に頼ることも無力にされて、ようやく神様だけに頼ることを知るのです。その教訓を学べば、主による苦しみに閉じ込められる期間は過ぎるのです。本物の信仰によってこの世に居ながらにして神様の国に入ることができるのです。
1月22日(日)
強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
申命記31:6
聖書に励まされることは、しばしばあります。この聖句もその一つです。私たちが信じた神様は他の偶像の神とは違って、憐れみ深い神様です。それに、偶像のように動けない神ではありません。私たちと共におられる神様です。ありがたいことに、私たちの人生に深く関わり、困難が立ちはだかるなら、一緒にいると励まし、困難を乗り切れるように助ける神様なのです。そして、私たちは平和主義者ですが、霊的にも現実でも戦うべき時があります。それは、まさに信仰の戦いです。私たちの武器は、イエス様を信じる信仰なのです。ところが、強くなければ、信仰など吹き飛んでしまいます。ですから、雄々しくあれ、と信仰を鼓舞しているのです。自分を脅かすいかなる者に対しても、恐れてはいけません。おののいてはならないのです。信仰で勝つためです。主を信じていると言いながら、敵を恐れていては嘘つきになってしまいます。ですから、困難な問題が立ち塞がっていようと、強敵が脅かしてこようと、恐れないことが自分の信仰となればいいのです。私たちが心強いのは、神様が味方で、神様はあなたを見放さず、あなたを見捨てないからです。つまり、雄々しく強くあれば、主のゆえに、すでに勝利が約束されているということです。あなたの主に勝てる者など、誰一人いません。ですから、あなたは主を信じて、困ったことが起こっていても不安に思う必要はありません。勝利は主のものです。主をどんな時にも信じて勝利者になりましょう。
1月23日(月)
御恵みはいかに豊かなことでしょう。
あなたを畏れる人のためにそれを蓄え
人の子らの目の前で
あなたに身を寄せる人に、お与えになります。
御もとに彼らをかくまって
人間の謀から守ってくださいます。
仮庵の中に隠し
争いを挑む舌を免れさせてくださいます。
詩篇31:20、21
クリスチャンは神様を信頼していますが、それでも、何か酷い目にあったり、心が傷つけられたりすると、人並みに落ち込むこともあります。それでも、祈ることを知っていますから、すぐに神様に祈り、自分に降りかかった災難からすぐに救い出してほしいと願うのです。その時に、神様はその祈りにすぐに応えて「御もとに彼をかくまってくださいます
」。昨今の陰湿なイジメも、パワハラなどのハラスメントからも、不当な差別からも、たとえ御自身の用意した緊急避難場所に隠してでも救出してくださいます。特に、悪質な誹謗中傷や悪質なはかりごとのような場合には、完全に切り離して安全な場所に移してくださいます。人間の常識とは違って、神様のやり方は、救助された者にしかわからない恵み深い者なのです。信仰を全うすると、人から理解されなかったり、誤解されて避難を受けたりすることもありますが、それでも、神様は全てをご存じですから恵みとしか表現のしようのない救いを与えてくださいます。ですから、くれぐれもこの世の人たちに対抗しないで、悪に悪で報いないように注意が必要です。いつでも、正しいことをするのには信仰が必要です。そして、完全な神様の救助があることがなければ、悪に負けてしまいますが、神様は期待を裏切らずに、想像以上に圧倒的な助けを恵みとして実現してくださいます。主をほめたたえずにはいられません。
1月24日(火)
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
ローマ15:13
希望があれば人間はやっていけます。それも、確かな希望です。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」イザヤの預言の通りになるのです。主イエスは、異邦人の間でキリスト教として信じられ、世界中にその信仰が広がりました。それに対して、イスラエルが偶像の神々を拝んで主を顧みることなく、預言者まで殺した事実があります。もともと、偶像を拝んでいたのは異邦人の方でしたが、彼らはイエス・キリストを信じ偶像を捨てたのです。私たちも、クリスチャン一世であれば、正月には神社に初詣に出かけた記憶があるでしょう。家には神棚や仏壇があって、それに手を合わせたこともあったでしょう。その時と今では、同じ人間とは思えません。信じるものが変わって、人間まで変わってしまったからです。私たちがわかったのは、神様は生きておられ、私たちを愛してくださり、慈しみに溢れ、絶えず希望の源であることです。さらに、信仰によって救われ、信仰によって多くの奇跡の中に生きていたのです。ですから、そこには喜びがあり、平和があります。この世は暗闇でも、私たちは主が光であり、その光の中を歩むことができるように光の子にしていただいたのです。神様に対しても罪を犯してきたことを知り、罪の悔い改めに導かれました。それは、真の清めの経験でもあったのです。なぜなら、聖霊が本当に私たちの内に入ってきて、住んでくださったからです。こんなことは、清められなかったら起こり得ないからです。聖霊が別の助け主として、優しく私たちを導いています。私たちの理解を遥かに超えて、聖霊が私たちを成長させ、信仰によって生きるように促し、見えるところによらず、希望に満ちあふれさせてくださいます。見えることばかり、祈っているのではなく、肉ではなく霊に従って生きているのですから、聖霊に集中して祈ることも大切なのです。そこにこそ、希望があるからです。
1月25日(水)
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ピリピ4:6、7
神様を信じることができる人は幸いです。どうも人間にはふた通りの人がいて、神様を信じられる人と、証拠を見なければ信じられないという人とに分かれるのです。どちらが得かと言えば、圧倒的に神様を信じることができる人です。人間生きていけば、いろいろな問題が次々に起こります。それにうまく対処しなければなりませんが、自分の力ではどうしようもないことだって起こることがあります。そうなると、誰でも思い煩うことになります。この「思い煩う」と言うことが人間にとって一番負担が大きいのです。「思い煩い」の中には問題解決はありません。不安が増すばかりで、誰かに頼りたくなります。しかし、誰も助けることができないとわかったなら、どうしますか。自分でもどうすることもできずに、目の前に大変なことが口を開けて待っているのです。この時に、神様を信じることができる人は、今日の聖句の通りにすればいいのです。ここで、目を引くのは「感謝をもって」という言葉です。人生が破綻するかもしれない大ピンチの時に、「感謝をもって」と言われても感謝できるものではありません。しかし、この感謝に秘訣があるのです。原則は、「信仰による義」です。つまり、人間の常識では感謝できない状況で、それでも感謝するのは、神様が必ず助けてくださることを確信しているので感謝します、と感謝の先取りなのです。このような大胆な信仰に、神様は応えてくだいます。神様にできないことはないので、どんなに困難な問題が発生したと言っても、神様にとっては全く問題ありません。すぐに問題を解決してくださいます。しかし、クリスチャンの特権の素晴らしさは、まだ問題が解決したのを見ていないのに、「神の平安」が与えられることです。この不思議を経験すれば、実際に問題は本人の知らぬところで神様が働かれて、絶妙な解決を見ることができます。イエス様は、あなたの思い患いまで面倒見てくださるのですね。
1月26日(木)
主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせ、一時は悪魔に捕えられてその思うままになっていた人々でも、目ざめて、そのわなをのがれることができるでしょう。
Ⅱテモテ2:24-26
聖書はクリスチャンの教科書ですから、いつも手元に置いて何度も繰り返し読む神様のお恵みなのです。聖書には不思議な力があることを証しする人は多いのです。ですから、私たちも積極的に聖書を読んで書かれた通りに身につけたいのです。今日の箇所も、心して読まなければなりません。決して読み飛ばして忘れてしまってもよいという箇所ではありません。私たちも気がつけば、クリスチャンになって10年ぐらいはすぐに経ちます。それでは、10年分の成果は何かと問われると答えに困ります。しかし、聖書をよく読んで考えて主に解き明かしを求めた人は、キリストによって確かに聖書に書かれたように変わってくるのです。「主のしもべが争ってはいけません」と書かれると、男性でも女性でも、争うことはしなくなります。そのために信仰の試みがあるでしょうが、それを生かして主の教えに従おうとするのです。私たちが争うということは、教会の中や教会員の中に何かしら問題を発見したからでしょう。それが深刻な問題であれば、つい争ってしまうという状況も考えられます。しかし、争うことでは問題解決はできないし、わだかまりが残り、争いがさらにエスカレートしてしまうかもしれません。そうなると苦境に立たされるかもしれません。相手も黙っていないからです。ですから、争うことには何の役もないのです。それでは、どうすればよいのか、その答えがここに書かれています。私たちの心得です。「すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい」。これを忘れないことです。そして、実践する人になるのです。もし、相手が悪魔に捕えられているのなら、神様が彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるかもしれません。そのようにして悪魔から解放されるように主は働かれます。私たちの力だけでは難しいですが、私たちの主は共に働いてくださいます。ですから、困難な立場に立たされても、驚くような良い結果を期待できるのです。信仰は主への信頼ですから、前向きな気持ちになれますね。
1月27日(金)
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
Ⅰヨハネ4:18
キリスト教と言っても、実にいろいろな考えがあって、教派や教団の種類がキリスト教辞典を見ないければ分からないほど多いのです。しかし、宗教として見ると二種類の人に分けることができます。一つは、律法を守らなければ、あるいはこのような悪を行ったなら、それらは罪なので神の罰を受けたり、死んでから地獄へ落とされると信じているのでそうなるまいと頑張っている人がいます。このような人ほど、自分が忠実な信仰を守っているという自負心があります。しかし、本当は彼らは恐怖心に支配されて生きているだけなのです。もう一つは、神は愛であると知った人です。自分では払いきれない大変重い罪をイエス様がご自分の命という尊い代価を支払って救って下さったのです。なぜそのような犠牲を払われたのでしょう。それは、驚くことに主が私を愛しておられるからです。その愛が心に届いているので、その愛に報いて私も自分の命を捨てるほどの愛で主を愛して生きようと決心したのです。その愛が恐れを締め出したのです。さて、あなたはどちらのクリスチャンでしょうか。今日の御言葉をよく考えてみましょう。
1月28日(土)
わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
マタイ12:28
全てに原因と結果があるように、旧約聖書で偶像の神々を拝んだ者たちは、結局アブラハム、イサク、ヤコブの神を捨てたということだ。日本人の多くは、何でも神と名がつけば拝むし、道端の地蔵にも、小さな祠にでも、すぐに手を合わせる。もし、その正体が悪霊だと知ったならどうだろう。ある時、信者さんのご主人が洗礼を受ける決心をしたいのに一つ問題があった。それは、結婚する時に父親からもらった神棚を捨てられないという問題だった。そこで、すぐに捨てなくても良いが、拝まないようにしましょう、時期が来て自分の気持ちの整理がついたらその時に処分するか決めればいいと言うと、ご主人はようやく安心して、洗礼の決心ができた。面白いもので、そうなると、今度はやっぱり処分したいと気持ちが変わり、神社で処分でしてもらったと報告された。ところが、その家に問題があると言い出し、どうも悪霊がいるのではないかと言うのだ。ちょうど、その時、悪霊追い出しの訓練を受けた外国人のS先生が教会で伝道の手伝いをしていたのだが、俄然張り切って悪霊を追い出しましょう、と言い出し、一緒に行くという信者さんを連れてその家に向かった。玄関を入ると、すぐに奥の部屋へ案内されてS先生は入って行った。その後を一緒についてきた信者さんが入ろうとすると、目の前を何かがスーッと通ったのを見た。それはトイレに入って行ったように見えた。なんと、彼女は悪霊を見たのだ。このように、霊が見える賜物を持っている人もいるのだ。その後、S先生が家中を祈って悪霊追い出しを行い、それ以来、悪霊騒動は無くなった。世の中には、神を信じないように、悪霊を信じない者もいる。しかし、私は悪霊つきの人を何人も会った事がある。運悪く交通事故に遭った人のように、不運にも悪霊つきになってしまったのだ。もし、キリストがおいでにならなかったなら、悪霊の支配に苦しむ人たちが増える一方だっただろう。クリスチャンでも油断大敵だ。忠実な信仰は霊的な安全を保つ力にもなっているということだ。良い方法は、いつでもイエス・キリストを愛していることだ。愛することは楽しいことだし、少しも苦にならない。だから、喜んでキリストを愛するとしよう。
1月29日(日)
主よ、あなたの道をわたしに示し
あなたに従う道を教えてください。
あなたのまことにわたしを導いてください。
教えてください
あなたはわたしを救ってくださる神。
絶えることなくあなたに望みをおいています。
詩篇25:4、5
クリスチャンが知るべきは、今日の詩篇の祈りです。私たちの願いは、クリスチャンとしての生き方です。日々のありふれた生活の中で主の御目にかなう生き方を実現したいという思いは誰にでもあります。あまりにも深刻に考えすぎれば、自分も献身して聖職者になるべきではないかと考える人が出てきても不思議ではありません。しかし、聖職者は神様の召命がありますから、選ばれた人の道です。それでは、一般信徒はどうすればいいのでしょう。祈ることが許されるのなら、今日の詩篇の初めの三行のように祈ることです。私たちは、信仰があって、主を愛する思いがあり、願わくば聖なる生活をしたいと願っていますが、実際にはごく普通の生活を送っているのです。有名な信仰の人の書いた本には、家庭礼拝を行っている理想的な姿が描かれていて、自分にはどうして同じことができないかと考えてしまうのです。家庭礼拝を毎朝続けることは誰にとっても難しいのですが、習慣化してしまえば、また誰にでもできるものなのです。自分の好きな讃美歌を歌い、聖書を読み、祈り、主の祈りを唱えて終わる、といったことなら一人ですぐに始められます。でも、それが形骸化したものとならないで続けるには、やはり、初めの三行の祈りが必要となります。主の道、主に従う道を教えていただくのです。主を知り、主の望まれることを知るのです。主のまことへと導かれることこそ、私たちの願いです。これが第一の祈りになりますように。
1月30日(月)
どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
Ⅱテサロニケ3:16
朝起きた時に、心配事がなければ、いつもと同じ生活が始まります。忙しい朝は、ローテーションのようにやるべきことを順番にこなして行きます。ホッと一息ついて、祈りの時を持つと、平和であることのありがたさが口をつき、感謝の祈りになりますが、とめどもなく感謝することが溢れてきます。それは、特別なことではなく、何か良いことが起こったのでもなく、願い事がかなったからというわけでもないのです。家の中で朝ごはんが食べられること、いつものように雨戸を開けて変わりなく静かな朝であること、家族が目覚めて今日も命が与えられていること、自由であること、神様に祈れること、不思議なぐらい感謝する事があり、感謝するほど喜びが湧き起こり、神様の愛を感じられるのです。そして、教会のこと、教会員のこと、家族のこと、親戚のこと、全国の教会のこと、牧師や宣教師とご家族のこと、世界の平和と伝道が進むことと祈ります。さらに、病気の教会員や悩みのある教会員や祈りを必要としている人のことを祈ります。神様は多過ぎると文句を決して言いません。むしろ、祈りを楽しんでいるのではないでしょうか。この人は何て祈るのだろうと興味津々で聞き耳を立てていると思います。主の御心にかなった祈りの時には、天使のブラスバンドが派手なファンファーレを鳴らし、悲しい祈りの時には、天使の竪琴が美しい慰めの音色となって地に降りて行きます。しかし、感謝の祈りの時には、天国のオーケストラが荘厳な喜びを奏でるのです。平和の主は、どんなばあいにも、いつも、私たちに平和を与えてくださいます。神様がいるから大丈夫だと思えるのです。それは、大ピンチの時でも同じです。もうダメだと思った時にも、あなたは主よと祈るでしょう。だから、主は平和を与えてくださいます。心の中は不安でいっぱいのはずなのに、不思議と平和があるのです。それこそが、主があなたの祈りに応えてくださっている証拠です。だから、大丈夫。主が一緒にいてくださるので、何とかなるのです。だから、勝手に悲観しないでください。あなたがダメでも主が何とかしてくださるから大丈夫です。
1月31日(火)
主は憐れみ深く、正義を行なわれる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
詩篇116:5~7
信仰を試されない人はいない。それは、信仰が目に見えないもので、受験生のように偏差値で測れないからです。信仰は知識を試されるものではありません。聖書の知識や歴史の知識なら未信者の学者の方が優っているでしょう。ダビデ王がどれぐらい知識があったかはわかりませんが、信仰はピカイチであったことは聖書が証言しています。それも、神様ご自身が認めているのです。ですから、神様にどれだけ忠実に服従しているかが大事だとわかります。私たちが果たして誇れるほどの信仰を持っていると胸を張れるかと言えば、そうでもなく、うつむいしてしまうかもしれません。では、どこで私たちは主に認められているのでしょうか。それは、主の側にあります。何度も言って覚えるべきは、「主は憐れみ深く、正義をおこなわる。わたしたちの神は情け深い。」ということです。クリスチャンの人生にも信仰が試される時があって、その試験に合格しなければなりません。それは、はっきりしていて、思いがけない大変なことが起こります。自分の人生が揺さぶられて、それまでの安定した人生がずっと続くと思っていたのに、突然、破滅するかと思わされるような深刻な事態に陥るのです。そこで、自分が何か悪いことをしていたのかと心配になります。できる限りの悔い改めをして、主に助けを求めます。それでも。悪夢は去りません。パニックに陥り、正常な判断もできなくなり、人間的な解決に走りますが、何の効果もありません。そのうち、背後に悪魔が働いていることに気がつくかもしれません。主が許されているのです。ここで、その人の本心、本当に主を信じているのかどうかがわかります。人生が不幸になる恐れが心を圧倒してきます。しかし、信仰とは、聖書に書かれた御言葉は神のお言葉であると信じられることであり、そこに書かれたことが信じられることです。聖書には、「哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる」と書かれています。そうです。「哀れな人」とは自分のことです。驚くことに、主はその人を守ってくださるのです。そして、気づかないうちに自分が弱り果てているのですが、主はちゃんと救ってくださるのです。ですから、人生最大のピンチと思う事態に陥っても、主がちゃんと救ってくださいます。それは、信仰によるのです。この信仰が眠っていないか、ちゃんと目を覚ましているか、確かめられたのです。信仰が覚醒すれば、主はいつも働かれておられることがはっきりわかるでしょう。試練は通り過ぎれば、大変だった分、その報いもあります。