4月1日(土)
神を畏れる生き方が、あなたの頼みではなかったのか。
完全な道を歩むことが、あなたの希望ではなかったのか。
ヨブ4:6
私たちは、神の召命に応えてクリスチャンになりました。それぞれ、個人的な事情があったのでしょう。そして、信仰の道を歩み始めました。浮き沈みがあったとしても、信仰から離れることなく歩んで来られた方がほとんどでしょう。なかには、教会につまずき、また人につまずき、教会から離れてしまった人もいたでしょう。そこから、もう一度教会へ戻ったなら、幸いでありました。このように、信仰生活はそれほど簡単ではありません。自分の弱さがさらけ出され、砕かれなければならない時もあります。しかし、信仰の初めに、あなたは今日の聖句のように考えなかったでしょうか。敬虔な信仰者となることは、理想だからです。そして、自分自身を正しく理解していないなら、このような考えは危険なのです。なぜなら、意志の強さで頑張ってみたとこで、古い自分に死ぬことを要求するような宗教なのです。イエスご自身も、快適な生活をしていたようには見えません。それどころか枕するところも無かったのです。ですから、弟子になりたいのなら、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従え」と言われたのです。ヨブ記の言葉は、信仰初心者には良いのかもしれませんが、長い年月を過ぎても同じように言っているとしたら、その人は嘘をついているのです。砕かれて、ありのままの自分を認め、誇るべきものが何一つ無いことを悟り、キリストの十字架によらなければ、罪深い汚れた自分は死ぬことすらできないのです。それだから、ただキリストの憐れみによって生かされているのです。聖霊の御恵みにあずかることができたとしても、自分を捨て去っていなければ、聖霊はいないも同然なのです。罪人が完全になれるなど決して無いのですから、罪の問題を最後まで解決するために、キリストの十字架は既にありますが、肝心の自分が十字架に信仰によって掛かって死んでいるのかどうかが重要なのです。そして、肉の問題が残りますが、聖霊によって体の働きを殺していただかなければならないのです。そういうわけで、ヨブに友人が語った言葉にも意味がありました。宗教者にとって、今日の聖句のように考えることは自然なのです。でも、さらにキリストを必要とすることの方が重要だったのです。悪魔は人間をよく知っているので、ヨブのように真面目に神を畏れ、完全な道を歩もうとする者が、結局、自分の義によって救われることは無いとわかっていたのです。ですから、ヨブも最後に神が現れて、自分の思い上がりを知ったのです。神の憐れみによって救われるのです。それは、イエス・キリストを信じて義とされるからです。「される」のですから、自分で勝手に頑張るのではなく、謙遜にへりくだって(自分を捨てること)、聖霊に服従することが、安全で確実な神に義を与えられる道なのです。このために、聖書を学び、信仰を学び、祈りを学ぶわけです。
4月2日(日)
悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
詩篇32:10
一時、ミッション・バラバという、元ヤクザからクリスチャンになった人たちがマスコミに取り上げられ、話題となりました。その中から牧師になった人たちも出て、わざわざその教会へ見に行ったと自慢する信者さんもいました。そのバラバのメンバーが証をしたのも評判を呼びました。それは、元幹部だった人が、どんなに怖く辛かったかを証されていました。聖書の通りに、心の痛みが多かったというのです。それが、クリスチャンの奥様の忍耐強い祈りによって、彼らが回心し、救われたのです。彼らの顔は穏やかで、まさに「主に信頼する者」の顔でした。そして、その信仰は裏切られることなく、「恵みが、その人を取り囲む」となったのです。クリスチャンでも、主に信頼できない人がいて、その人は心の痛みが多いのです。悪者と同じなので驚きます。クリスチャンが最も幸福な道を歩むには、なんといっても「主に信頼する」ことです。もし、私は「恵みが、その人を取り囲む」という経験をしたことがない、という人がいたなら、「主に信頼する」ということの意味を考えてみましょう。そして、信頼しきっていなかったなら、悔い改めましょう。これは、クリスチャンの特権なのですから、主を信頼して生きましょう。天に召されるまで、恵みに取り囲まれて生きることができます。
4月3日(月)
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
ローマ10:17、18
私たちは、何も知らずにこの世界に生まれてきました。必ずしも理想的とは言えなかったかもしれませんが、罪の世界なので仕方がありません。それでも、良いことはあったし、自分なりの人生を歩めたのです。そして、ある日、福音を聞いたのです。確かに、誰かが良い知らせを教えてくれたのです。同じ話を聞いても、それで信仰を持った人と持たなかった人に分かれます。私は牧師なので、信徒の方よりは多くの人に福音を伝える機会あります。私の場合、キリストの話は、初め「偉大なる生涯の物語」という映画を観て理解しました。聖書をちゃんと読んだことがなかったのです。その時、神学校にいましたが、誰もちゃんと話してくれませんでした。すると、牧師になろうと勉強していた先輩が、聖書研究をしようと誘ってくれました。それは、ローマ書の研究でした。教科書まで買ってくれて、しかし、まだ難しいことを勉強するまでに至っていませんでした。ですから、すぐに終わってしまいました。それから、キリスト教の本を下さった先輩もいました。礼拝に出て説教も聞きました。しかし、まだキリストの言葉を聞いていなかったのです。私は、児童伝道に誘われて、子供と遊ぶことだけを条件に参加しましたが、慣れた頃にお話を頼まれたのです。困ってしまいましたが、なんとか童話のような話をしました。すると、責任者の奥様に呼ばれて、優しく諭されました。それは、「動物は言葉を話さないでしょう」という思いがけない考え方でした。子供にも擬人化して話してはいけないというのです。ここでは、子供向けの伝道用のお話を聞くことになりました。こんなところからでなかれば、素直に聞こうとしなかったのかもしれません。そして、自分でも聖書を読み、だんだんキリストの言葉を聞けるようになってきたのです。でも、高慢だったので、神様は直接私を打って目を開かせました。それで、ようやく自分の罪がはっきり分かりました。それは同時に、イエス・キリストの十字架によらなければ、この罪の問題は解決しないと理解することでした。自分の救いのために色々なクリスチャンが関わっていたことに驚きます。おそらく、私たちも知らない内に誰かの救いのために何かしら関わっているのだと思います。こうして、クリスチャンがいることでキリストの言葉は鳴り響いているのです。世界のどこにでもクリスチャンがいて、生きた福音は世界の果てにまで及ぶのです。
4月4日(火)
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
Ⅰコリント10:23、24
キリスト教というと、イメージとして禁欲という言葉が浮かぶかもしれません。確かに、世俗という言葉を普通に使いますから、世俗に染まらずに聖なる生活を求めている人たちということになります。そうであれば、当然のように「禁欲」が出てくるわけです。事実、アメリカのキリスト教はピューリタンの流れなので、禁欲的な宗教です。無神論を公言するような人の書いた本は読んではいけない、ハリウッド映画は観てはいけない、盛場には行ってはいけない、酒は飲んではいけない、賭け事はしてはいけない、今日ではテレビを観てはいけない、世俗の音楽を聞いてはいけない、等、これらは悪魔の好むもので堕落の道だというわけです。今日でも、根本主義の教派や一部の福音派では、こうしたことが奨励されています。さて、今日の聖句です。「すべてのことが許されている」と聖書に書かれているのです。しかし、すべてのことが益になるわけではない。これも納得できます。そして、次に聖句です。「すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」とあるのです。つまり、クリスチャンは、ただ生きているわけではないのです。日々の生活を通して、私たちを聖霊がキリストの御姿に似た者に造り上げているのです。そうであれば、神様の好むものとそうではないものに分かれるのは当然です。罪人はキリストの十字架の功績によって、信仰により罪を赦されています。そして、古い人に死に、新しい命を授かって神の子として生かされているのです。かつては罪の奴隷、死の奴隷、悪魔の奴隷だったのに、キリストは十字架でそれらに勝利され、私たちを呪いから解き放ってくださったのです。あなたは主によって自由にしていただきました。(ガラテヤ5:1、13参照)。だから、選ぶ必要が生まれたのです。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(同5:16)。それはどのようなことかと言えば、「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」とあるようなことです。自分はどうしているか少し考えてみましょう。
4月5日(水)
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
詩篇37:4
私たち人間の不思議は、できないことをできないとはなかなか認めないということです。例えば、積極思考が良い結果を導くと教えられると、すぐにやってみようと思うでしょうが、実際にやるのは大変で、ついついネガティブになることがあるのです。そすると、ダメ出しが出てきます。「自分は本当にダメだな」と自己否定してしまうのです。でも、完璧に、全てを肯定的に考えるというのは、どんな人でも難しいことです。ですから、すぐに失敗してしまうのです。その時に、自己否定しないことが肝心なのですが、そううまくはいかないもので、「あっ!またネガティブなことを言っている」と気がつき、その後で、「自分はダメだな」と続いてしまいます。その時、「あ~あ、自己否定しちゃった」と軽く流すのです。完全にネガティブなことを言わない人はいません。ですから、たいていの人は、ポジティブ寄りか、ネガティブ寄りか、の違いです。そこで、今日の聖句をご覧ください。信仰の極意を使って、あなたの心の願いをかなえる方法です。あなたが意識することは、「主をおのれの喜び」とすることです。ここに意識を集中して、言葉にも表しましょう。思い出したら、いつでも主を喜んでみるのです。すると、ネガティブなことは消えてしまいます。信仰が大きくなったように感じるかもしれません。肯定的思考が満ちてきます。主を喜ぶことは力なのです。これは、主を愛する、と言い換えても同じ意味ですから、喜びが心に満ちます。あなたにかなえたい願いがあるなら、人間的にはそれをかなえるには難しいと感じるハードルがあるかもしれませんが、主を喜ぶことで、心が強められ、ポジティブになって行きます。こうなれば、しめたものです。もちろん、正しくない願いはかなえられません。しかし、信仰者は聖書に慣れしたんでいるので、主の御心にかなった願いが起こります。疑うこともなく、主のお力で願いをかなえてくださるのです。それを受けて、また主をおのれの喜びとするようになるので、好循環が始まります。こうして、クリスチャンは主の愛の体現者となるのです。
4月6日(木)
神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3:4~6
ここには、知恵が書かれています。自分の人生を実りある豊かなものにしたければ、今日の箴言を覚えることです。神様とも、人間とも、良好な関係を築くことが大切なのです。人間には、気を遣い、贈り物までするのに、神様には、人間と同じように、あるいはそれ以上に良好な関係を築こうと意図しないのは、おかしなことです。神様を信じているのなら、神様を愛し、敬い、従順に従い、信心し、喜んでいただこうとすることは当然なことなのです。そうすれば、「心を尽くして主に拠り頼め」という御言葉も謙虚に受け入れることができます。ですから、自分の悟りに頼って、自分勝手に生きようとすることを戒めることができます。なぜなら、神様は全知全能なので、間違うことがありません。でも、目先のことばかり考えて行動するので、簡単に間違うことがあります。しかも、何度も繰り返し同じ失敗をすることも人間の特徴なのです。神様を信仰するということは、どこにあなたがいても、神様への信仰が変わらないということです。それは、そこに神様がいることを認めるということで、神様を忘れて欲望のままに生きることはしないということです。そうすれば、主はあなたに人生に深く関わってくださり、主の御心に適った正しい道を歩むことができるのです。
4月7日(金)
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
ローマ8:31、32
今日の聖句は、力強く私たちを励ましてくれます。そして、まず覚えるべきは、神様は私たちの味方である、ということです。これは大変心強いことですね。神様より強い者はいません、悪魔ですら神様を恐れているのです。無敵の勝利者である主は、あなたの信仰をよしとされ、あなたを愛し、あなたを祝福してくださいます。自分の信仰が弱いと嘆く人も、心配いりません。その信仰で十分神様の保護を受けることができます。聖書の教えでは、この神様があなたのために与えてくださったもので一番のものは、なんと御子イエス様だったのです。イエス様は、あなたを救うためにご自身の命を犠牲とされました。それを神様は許されたのです。それほどまでに、神様はあなたを愛しておられるということです。ということは、あなたには想像できないほどの価値があるということです。その自覚があれば、もう少し気高く生きていくはずです。そして、あなたが一番理解していないことは、御子イエス様を神様が死に渡すほどの愛を受けたのに、あなたが天国へ入るために必要なものはすべて与えられるということです。ですから、心配せずに、堂々と生きていくことが肝心です。神様の愛に応えることができますから、あなたも神様を愛してください。それが、どのような良いことを引き起こすから見てみましょう。全力で神様を愛しましょう。また、すべてのものをわたしたちに賜らないはずがありません。ですから、あなたは行き詰まることはありません。必要なものはすべてすでに与えられているということなので、それらを手に入れるためにも、信仰を表しましょう。いつでも、祈り、神様のお恵みに感謝していましょう。さらに、すべてのことに感謝するのです。これで、いつでも神様の光の内を歩めます。クリスチャンになって、本当によかったです。
4月8日(土)
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
ピリピ4:13
これはどんなことなのだろう。この聖句を読んだ人は大勢いるのに、どんなことでもできると書かれていたのは本当でしたと証する人を見たことがありません。多分、このまま信じることができなかったのではないでしょか。私たちは、親や教師、影響力を強く持っている人に子供時代から、この世の常識を教え込まれています。それは、信仰の世界とは相容れないものであることが多々あります。確かしに、「どんなことでもできる」というのは言い過ぎで、自分の能力には限界があり、頑張ってもできないことがあるのは当たり前なのだと、教えられているのです。また、大人になると自分でもかなり、ネガティブに思い込んでいるのです。クリスチャンになって、自分が罪人であることを示されて罪を意識しました。これはネガティブ・マインドを刺激します。しかし、イエス様の存在がすべてをひっくり返してしまいます。十字架の話を聞き、不思議な罪の贖いの説明を受けて、罪を悔い改め、イエス様を信じたのです。汚れている自分をイエス様の血潮が洗い清めてくださったのです。これほどのポジティブな考えはありません。つまり、信仰はポジティブ思考なのです。まさに否定的に物事を考える思考から、正反対の肯定的に物事を見ることができる思考へと大転換したわけです。それが、信仰の力です。ところが、悪魔の囁きが誘惑します。「そんな上手い話はないよ」と、不信仰を引き起こそうとするのです。常識人ほど、信仰が萎縮して行きます。ですから、現代の教会で癒しの奇跡を公然と信じないと表明している人も出てくるわけです。これは、私たちが受けきた教育やこの世の常識のせいです。そうなると、今日の聖句をどう読むか微妙になります。「私を強くしてくださる方」は、イエス様です。あなたの信じている主のことです。ですから、私を強くしてくださる主によって、どんなことでもできるのです、と言われているのです。例えば、教会を新たに建てるとすると、かなり広い土地が必要です。それに、何人入るか決めて、教会堂を建築しなければなりません。これだけでも、かなりの大きなお金が必要であることはわかります。では、そのお金はどこから出てくるのか、人間的に考えていけば、教会堂を建築するのは無理だとの結論に、すぐに辿り着くでしょうね。それなのに、全世界に無数の教会が存在しています。世界遺産となるほどの価値のある教会から、ブロックを積み重ねた壁にトタン屋根をくっつけた粗末な教会まで、驚くほどの数の教会が実際に建っています。この一事を見ても、今日の聖句は本当だと確信を持てます。この聖句は、あなたの信仰へのチャレンジでもあります。自我を捨てて、主の御心を邪魔しないようにして、主は私が信じられるように強くしてくださる、と信仰を表明します。そして、目的あるいは目標に焦点を当て続けるのです。こうして準備が整うと、あなたが行動するだけです。それは成功しますから実現します。御言葉の力を体験しましょう。
4月9日(日)
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
ゼパニヤ3:17
もし、あなたが考えたり、思ったり、信じたりすることが、あなたの現実になるとしたら、あなたは、不注意に物事を言葉にしないようになるでしょう。慎重に考えて、そうなれば好ましいと思うように考え、言葉にするようになるでしょう。どうも、自分をダメだと思っている人には、そのような世界で生きるように不思議な力が働くようです。ネガティブマインドがその人を苦しめ続けることになります。ところが、聖書を読むと、今日の聖句のような御言葉が書かれています。確かに、私たちはクリスチャンになったのですから、主が自分の内に内住しておられると信じています。そのこと自体がすごいことなのですが、その価値を理解していない人もいて、大損しています。聖句はさらに、主は救いの勇士だと語ります。主があなたの内に居られるということは、恐れるものがなくなったことを意味しています。あなたは成功することが確約されているのです。何をしてもうまくいくのです。あなたの幸いは、主があなたを楽しむというのです。それも喜んでそうするのです。それだけでなく、主はあなたに愛によって安らぎを与えるのです。主は、あなたが大好きなのです。ですから、あなたが信仰を持っていることで喜んでおられるます。主ご自身の喜びは本物で、あなたのことを喜んでいるから声高らかに歌うというのです。これは、天の父としての喜びです。あなたは、神の子となったのです。ですから、あなたが困ったという必要などありません。自分がしようとすることがことごとくうまくいくので人生が楽しくてしかたなくなります。聖なる自信を持ってください。今日の聖句が実感できるまで、繰り返し読んでみましょう。そして、神様があなたを愛しておられることは間違いないと確信してください。あなたの人生はすでに大きく幸福へと変わって行くでしょう。あなたはこの御言葉の人なのですから。
4月10日(月)
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
Ⅰコリント13:4~7
愛とひと口に言っても、実は私たちはよく理解していないようだ。クリスチャンになって、愛の大切さを学んだと思っていたが、愛と言っていれば気分よく過ごせるだけで、愛の実態を見ないでいたのだ。それは、聖書に書かれていて、何度も満たし、読んだはずだ。しかし、それは、結婚式の式次第の裏に書かれているもので、愛し合う男女の結婚に相応しい花向けの言葉のように思っていたのではないか。あらためて、ゆっくり読んでみよう。日本人の美徳に「忍耐強い」ことが挙げられるが、これは愛だとは考えなかった。人を思う気持ちが忍耐強さを生んで、その真心を聖書は愛と呼ぶのだ。人と人との繋がりは大切なものなのだが、時に情け深い思いが必要になる。その人の情けに触れて、人は人を大切に思うようになるのだ。これも聖書は愛と教えている。また、人の心に自慢したい、自分はこんなに偉いのだと高ぶる思いが潜んでいる。少しでも誇れることがあれば、たちまち周りの人の気持ちなど考えずに自慢している。まだ、幼い孫たちをみているともう自慢している。でも、周りの人の気持ちを考えられるようになれば、不用意に自慢などできなくなるだろう。これも愛の業なのだ。日本人が守ってきた礼儀は、美徳であるはずだ。心のこもらない礼儀作法などは、嫌味でしかない。相手を尊び思いやる気持ちが礼となって現れるからだ。これも愛なのだ。自分の利益を求めない心も愛と読んでいる。打算や損得勘定で人に親切に振る舞うのも、愛を知らない人のやることだ。多分、愛の中で一番難しいことが「いらだたず」だと感じる人は、せっかちな人だろう。ところが、人にはそれぞれ違いがあるので、何をしても遅い人、うまくやれずに迷惑をかける人、など自分とは違っているのが当たり前だ。それにハンディキャップのある人もいる。愛は、その人たちに親切だ。だから、いらだたない。さて、人に裏切れたり、ひどい目に遭わされたりしたことがあるだろうか。それが原因で恨みを抱いたことはないだろうか。目には目だから、恨んでも当然と思うだろうか。愛は、すごい。恨みを抱かないからだ。それは、赦しているからだろう。あるいは、耐えている。いや、愛しているのだ。愛していると言って、不義を働くことはできない、自分にとって得になるからと不義を認めることもできない。不義を喜ぶことができないのだ。それよりも真実を喜ぶ。自分に非があることを認めたり、恥をかいても謝ることができる。これも愛の力だ。キリストの掟は、「互いに愛し合え」だ、だからどうもうまくいかない。それは、愛の意味を理解していないからだ。愛とは、すべてを忍び、信じ、望み、耐える、ことだ。愛とは好きということだと思っていた人には、大きなチャレンジになっている。この愛を自分のものとしよう。
4月11日(火)
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
イザヤ63:9
神様は父親のように私たちに接するお方です。クリスチャンは、神様をイエス様と同じように天の父と呼びます。神様の救いは完全で私たちを神の子としてくださったからです。でも、今はこの世にとどまっていますから、クリスチャンでも苦労があり、時には辛い思いもすることがあるのです。神様は、お父さんが可愛い子供が辛い目に遭っていれば、自分のことのように心を痛め、子供が苦難を受けていてもそれを乗り越えなければならないとなれば、耐えて一緒に苦しんでくださるお方です。非常事態に陥れば、すぐにでも御使を遣わして救ってくださいます。神様の本質が愛なので、その眼差しは優しく、憐れみの心で人を赦し、救うために贖うことができるのです。そんな神様があなたによくしてくださるのは当然なのです。聖書の民である、イスラエル人は、あきれるほど神様を裏切り、罪を犯してきました。それでも、あきらめずに預言者を通して語り、悔い改めるように訴え、忍耐して導きました。その民が人生に行き詰まって歩けなくなれば彼らを背負い、孤独に涙すれば抱いてくださいました。それが私たちの神様なのです。ですから、あなたが困れば放ってはおきません。あなたが悩めば問題の解決のために働かれます。あなたが愛情不足になれば、神様がお父さんとして抱きしめ、一緒にいてくださいます。あなたが、天のお父さんと呼べば、すぐそばに来てくださいます。あなたは頼り甲斐のある天のお父さんを知っています。もっと、近づきなさい。甘えても大丈夫です。心の中のモヤモヤをきれいに吹き飛ばして、聖なる自信に満たしていただけるのです。いつでも頼りになるイエス様と無条件に愛してくださる天のお父さんは、あなたの支えです。まずは、神様に感謝することから祈り始めてみたらどうでしょう。きっと、今日も良い一日となります。
4月12日(水)
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇37:5
先日、惜しまれながらお亡くなりになった坂本龍一さんは、ご自身が作曲された名曲のことを聞かれ、「あれはピアノの前で寝てしまって、目覚めたら書き上がっていたんです」と笑ていました。私たちクリスチャンも、今日の聖句を実践する日が来ます。どうも、神様に自分の人生をゆだねなければならない時が来るのです。その時、主に信頼できるからどうか。もし、主に信頼し、自分の道を主にゆだねるなら、結果が伴います。どんなに困難なことであっても、主が成し遂げてくださるのです。これは、何でもかんでも、努力もせずに、大変なことは全て主に丸投げで、責任から逃れようとすることではありません。義人は信仰によって生きる、と聖書にもあるように、主の御目に正しいと映る生き方は、信仰によるのです。その信仰を別の言い方で説明すれば、今日の御言葉になるのです。自分はダメだと言う人は、気の毒になるほど大変な目に遭います。この人は、決して自分の道を主にゆだねることはありません。いつでも自分の思い通りに生きているのですが、うまくいかないので、神様のせいにしたり、自分がダメだから、と決まり文句を言うのです。この人は、自分の信じた通りになっているだけなのに、そのことをまったく理解しません。こうならないためにも、神様に全てのことを感謝し、いつでも喜ぶことです。祈ることも忘れてはいけません。御言葉を体験することは良いことなのです。ですから、今日の聖句をぜひ実践してみましょう。
4月13日(木)
わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。体は安心して憩います。
詩篇16:7~9
クリスチャンの良い状態は、上記の聖句のようです。重要なことは、主を賛美することから始めています。クリスチャンが身につけたいことですが、新約聖書でも全てのことに感謝しなさい、とあるように、心からの感謝が口から言葉となってでてくようなことを習慣にします。もっと、砕けた言い方では、「神様、ありがとうございます」「天のお父さん、ありがとう」など、自分の心から素直に出てくる感謝がどうすれば一番しっくりくるか確かめてみましょう。もちろん、「イエス様、ありがとうございます」でも、いいですね。肝心なことは、「主はわたしの思いを励まし」てくださるということです。主は、あなたに対してもそうしたいのです。この世で信仰をもって生きていくことは大変なことだからです。それに、あなたに成功してほしいのです。一日が終わり、眠りにつく時に、「わたしの心を夜ごとに諭してくださいます」。一日一日に意味があります。嫌なことが起こるかもしれないし、職場の人間関係でトラブルこともあります。毎日、同じように頑張っているのに、うまくいく日とそうでない日があるのです。何が悪かったのでしょう。そのことが後をひかないように、その日の内に主が諭してくださるのです。決してこれを一人でやってはいけません。恨みや、否定的感情に飲み込まれてしまうからです。クリスチャンであることを忘れてしまっては、意味がありません。どうしたら、このように主の諭しを受けられるかと言えば、「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいます」。右とは、王の位置、自分の支配者の位置です。最も近い場所ですが、主の好意を得ていて、一緒に物事を考え進めようとする特別な位置でもあります。当然、このような信仰を身につければ「わたしは揺らぐことがありません」。人生に意味が出てくるのは、このような心境に達した時です。「わたしの心は喜び、魂は踊ります」。クリスチャンの本来の状態はこのようなものなのです。主を知っていれば、肯定的に楽観的に生きていけます。信仰に生きることは、実に喜び多いものなのです。「体は安心して憩います」。ストレスが無い生き方になるので、体も健康になるのです。この世に流されると、これらを全て失いますから、お気をつけください。
4月14日(金)
願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
ヨハネ16:24b
あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
マタイ7:11b
クリスチャンは普通の人たちではありません。洗礼を受けているのなら、あなたはそれ以前のあなたではありません。あなたは、新しく生まれたのです。それでも、姿形は変わらず光の天使のようになるわけではありません。そのために、古い生まれたままの自分であると錯覚します。本当は、古いものは過ぎ去ったのです。全てが新しくなりました。しかし、そのことを信じて生活を変えようとする人は意外と少ないのです。もったいないことです。それでも、洗礼を受けた事実がありますから、信仰によってより良い本来の姿に変わることができます。そして、主はそのために働いています。ただ、悪魔は徹底的に妨害しています。私たちに過去の問題を思い出させて不信仰になるようにすることや、罪へと誘惑することをやめません。そのような敵もいますが、神様は救われた者に悪魔に打ち勝つ権威を授けてくださいました。これは、イエス様のお弟子たちが、神の権威を授けられて伝道に遣わされた時に、悪霊を追い出し、病を癒していたことでも理解できます。では、私たちはどうすればいいのでしょうか。神様が私たちに教えたことは、聖書から学ぶことと祈りです。そして、祈りが重要なことであると知っていながら、あまり祈りがうまくいっていないかもしれません。そこで、今日は、祈りの第一の「願い」を覚えましょう。皆様は、祈りの中身を考えるときに、ほとんどが「〇〇をお願いします」と願い事ばかりの祈りをしていないでしょうか。それは、かなっていますか。祈りのノートをつけている人は、ほとんど祈りが聞かれて願い事がかなっていることを知るでしょう。100%ではなくても、特に問題はありません。時が来なていないか、別の祈り方が必要なのか、見当違いの祈りをしているのかもしれません。理解してほしいのは、今日の聖句を見ればわかるように、願うことは御心で、与えられて喜びに満たされると書いてあるのです。さらに、天の父は、求める者に良い物をくださる、というのです。信仰により、神の子どもにしていただいたことが分かれば、当たり前のことなのです。問題は、聖書に書いてあるのに、信じられない人がいるということです。もちろん、信仰がなければ、肉の要求を満たすような願いをするでしょうが、信仰があるので、あまり心配することはありません。生活の中で必要が生じれば、願ってもいいのです。良い物をいただいて、天の父に感謝することは、楽しい経験です。自分には無理だと思わないでください。あなたは、イエス様が探し出した特別な人です。天の父があなたを愛しています。やがて、天国へ連れて行っていただきます。天の父のそばにいることができるのです。
4月15日(土)
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
Ⅰコリント5:7、8
クリスチャンは、イエス・キリストを信じました。彼らには、十字架が見せられ、意味の説明も聞かされたのです。それは、キリストの死によって、私たちの罪が赦される真実です。そのために、彼らは悔い改めて、洗礼を受けました。パン種、つまり「罪」を十字架につけて、清め、救いの全貌も体験してきたのです。そのような経験を通った、クリスチャンが教会でどうであるか、天国に入ったようであるかと言えば、そうでもなく、人間の弱さが目につくかもしれません。ここで、私たちは、過去の罪人ではなくなり、新しい人であることを自覚しないければなりません。古いパン種やパウロの言うように、「悪意と邪悪のパン種を用いないで」とあるのは、悪魔の誘惑に乗せられて、失敗することがあるからです。ですから、キリストの救いを無にしないためにも、「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」となっていることを信じて、主を礼拝する者となりましょう。クリスチャンは、まさにキリストによって理想の人にしていただいたのです。それは、神様に愛され、神様を愛している私です。悪い考えは、パン種と同じ働きをするので、自分を害し、隣人を害する危険があります。それなら、良い考えは、罪がないので、安全です。神様を礼拝するのにふさわしい者となれます。あなたがキリストを信じているのなら、キリストが古いパン種を取り除いてくださったことを信じなさい。あなたは、すでに「パン種の入っていない者なのです」。キリストの十字架の犠牲が、あなたを罪から清め、解放したからです。ですから、主への礼拝は、お祝いでもあるのです。主に感謝して、自分がパン種の入っていない者と認めましょう。
4月16日(日)
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
ローマ14:17
パウロも頭を痛めたように、食べ物のことは厄介な問題となりました。ユダヤ教では、食べてもよい清い食べ物と食べてはならない汚れた食べ物が律法で定められていました。ところが、キリスト教が異邦人に広がって行った結果、市場で売っているものは良心の問題とせずに何でも食べてよろしいと異邦人クリスチャンたちにパウロは教えたのです。ところが、初期のキリスト教会は、ユダヤ人と異邦人が混じっていたので、いろいろな問題が起こりました。そして、食べ物のことは恐ろしい問題に発展するのです。律法は、「隣人を愛せよ」で表すことができるので、愛の実践の問題として食べ物問題も考えるべきだということをパウロは教えました。そして、クリスチャンが信仰によって、神の国に入ることができるので、それは飲み食いではないと明言しています。神の国に生きるクリスチャンが、飲み食いの問題で揉めているなら、神の国に留まることはできないのです。せっかく、霊的に覚醒し、霊的な意味がわかるようになって、神の支配に服従することができるようになった人が、最も肉的な欲求の象徴である飲み食いでつまづくことは最悪なことなのです。そもそも、神の国に生きようとするのなら、それは、「聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。人間の肉の欲望を満たすことではないのです。聖霊を求め、知ることが理解を深めるので、聖霊の満たしを祈り求めてみましょう。
4月17日(月)
主において常に喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。
フィリピ4:4、5
この手紙の受け手は、クリスチャンです。ですから、聖書に残り、今日のわたしたちにも読むように主が備えられたのです。すると、今日の聖句を読むと、面白いことがわかります。「あなたがたの広い心」と書かれているのです。つまり、クリスチャンとは、広い心を持っている人たちのことなのです。では、自分はどうだろう。狭い心ではないのかと心配する必要はありません。神様は間違わないからからです。聖書に書かれているのですから、あなたの心は広いのです。これは、日本でも古くから美徳の一つです。それでも、広い心と言われると自信がない人はいるでしょう。そこで、聖書には抜かりなく、広い心を身につける方法が書かれているのです。それが、「主において常に喜びなさい」という御言葉を守ることで広い心ができるのです。狭い心を考えてみると、小さなことでめくじらを立て、人の失敗を赦せずに叱責したり、どうでも良いようなことをこだわったり、人に寛容ではなく、謙遜ではなく、時に高慢で、自分の失敗は責任転嫁して、責任を取る度量がない。狭量(きょうりょう)という言葉がぴったりかもしれません。しかし、どんな人もいきなり広い心を持つわけではありません。普通は人生経験の中で学び、鍛錬されて、人の器が造られていくのですが、クリスチャンの場合は、キリストから学び、愛を知り、愛に生きることを学び、その中で、主において喜ぶ、ということを悟るのです。これは、積極的に実践することによって、効能があります。その最大のものが「広い心」を造ることなのです。聖書をよく読む人なら、今日の聖句は知っているでしょう。しかも、説教でも、ことあるごとに喜びなさいと言われています。問題は、それを実践しているかどうかです。難しく考える必要はありません。なぜなら、喜ぶことは誰にとっても楽しいことですから、いつも喜ぶ人になることは幸せなことなのです。喜んでいれば、悲しむことも、怒ることも、意地悪になることもできません。喜んでいれば、精神的に楽になります。喜びは、人にも伝染するので、自分の周りの環境が良くなります。喜んでいれば、美しい顔になります。好印象を与えあるので、仕事も人間関係もうまくいきます。喜んでいれば、ストレスがかかりません。喜んでいれば、周りの人から好かれ、信頼されます。人生が好転するのです。そして、その人は広い心になって行きます。聖書は、その広い心がすべての人に知られるようにしなさい、と命じています。主に命じられてペトロは七の七十倍人を赦そうとしたでしょう。これは、広い心ですよね。自分ばかり、損して赦すのなら嫌になりそうです。しかし、主に言われたからと逆に喜んだのです。これは、主によらなければできないことです。でも、クリスチャンは誰でもできます。それは、主において常に喜んでいる人は、主と共にいる人のことだからです。
4月18日(火)
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
詩篇4:8
現代人は、眠ることで悩んでいる人が多くいます。それだけ、ストレスがかかる日々なのです。聖書の中で「平安」という言葉がたびたび出てきますが、平和で心配することがない、という意味で使われているのが、今日の聖句です。布団に入ると、すぐに眠ってしまいます、という人は幸せです。悩み事があれば、決して眠れぬ夜を耐えなければなりません。しかし、信仰者は、聖書から学び、信仰の鍛錬を日々経験していくと、夜、すぐに心地良い眠りにつけるようになります。つまり、クリスチャンは聖書の通りにしていけば、幸せな眠りが待っているのです。それは、毎日が平安であるからです。それを主が、与え、支えておられるのです。ただ、眠れないからダメだという意味ではありません。聖書の中の聖者たちでさえ、眠れぬ日々があったことは明らかです。しかし、神様が天国へ入るための準備を整えておられるので、信仰者たちには、いずれ安らかに住まうことができるようにしてくださいます。主を信じましょう。
4月19日(水)
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守ようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
詩篇91:11、12
あなたの天国への旅路は、一人旅ではありません。主は、あなたを見守り、必要な時には御使いに命じて、あなたを守ることになっているのです。アメリカの大統領を守るシークレットサービスのように、いや、それ以上の最強のボディーガードが守っていてくれるわけです。ですから、クリスチャンは能天気と言われても、「主を信頼しているので大丈夫です」と、どんな日も安心して道を進めるのです。ところで、御使いはどんなことを守ってくれるのでしょう。詩篇の説明は、思わず顔がほころびます。「あなたの足が石に打ち当たることのないようにする」というのです。舗装されていない荒野の道を歩けば、地面に石が埋まっていることもあるでしょう。その石に足が当たって痛がることのないように、御使いはあなたの足を守るというのです。そんな小さなことまで御使いが守ってくださると思うと、ありがたいですね。実際の自分の生活で考えれば、些細なことまで御使いは身をていして守ってくれるのです。そこまで、主は私たちのことを考えてくださっているのですから、自分勝手に道を逸れない限り、天国への道は楽しいものになるのです。どこかの国の王子様やお姫様のように、主が派遣される天のシークレットサービスが鉄壁の安全をあなたのために実現していてくださるのです。ですから、心配するだけ無駄になるので、安心して今日を元気に生きていきましょう。
4月20日(木)
実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
伝道5:19
私たちには、思い込みがあります。キリスト教は禁欲主義だと信じている人は少なくありませんが、聖書をよく読めば禁欲主義ではありません。ですから聖書から正しい知識を学ぶ必要があります。今日の聖句をどのように考えるでしょうか。「すべての人間に」とあるので、クリスチャンだけではなく、世界中の人間のことを語っています。「神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し」たのです。ですから、富や財宝を悪いものと決めつけてはならないし、自分に与えられた分を主に感謝すべきです。そして、楽しむことを悪いことだと思い込まないで、楽しめばいいのです。神が許しているからです。また、「自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた」とあることも忘れてはいけません。「自分の受ける分」は富や財宝だけではありません。今の生活そのものも自分の受ける分になるでしょう。信仰のある人には肯定的に受け止めていただきたいのですが、「自分の労苦を喜ぶようにされた」とあるので、仕事の大変さも、人間関係の大変さも、自分の運命の大変さも、喜んでみるのです。本心から喜ばなければなりません。そうした時に、労苦でさえ、喜ぶことによって変えられて行くのです。「大変だ!嫌だ!」と否定的なことを言っているとただ大変で苦しいことになってしまいます。信仰を持って、大変だなと思ったら、すぐに喜ぶのです。こうしたことが神の賜物となるのです。生きるに必要な富も主が与えると聖書にあるので、思い煩わないことにしましょう。そして、自分の人生に起こることを喜ぶようにします。特に労苦を喜ぶのです。どうなるか楽しみです。
4月21日(金)
私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。
詩篇101:2
クリスチャンでいるということは、とても恵まれていることです。幸せな人は、心の正しい生活を送れる人です。「心の正しい」と言っても難しいことを意味しません。イエス様を単純に信じていることを意味します。そうすると、どんなことでも良い意味があるはずだと楽に受け止めることができます。それに、神様は完全で全知全能なので、世界のどこにでも同時にいることができます。それどころか、時間にも縛られないので、過去、現在、未来にいることができます。そして、何よりも完全なので罪を犯しません。その神様があなたを救うと決めたのです。ですから、あなたは恵まれているのです。この救いの保障はイエス様です。自ら十字架におかかりになり、罪の問題を解決し、死にも悪魔にも勝利されました。ですから、イエス様にお従いすれば、悪魔にも打ち勝てます。イエス様はあなたを救うという天の父なる神様の御心を実現するために、全力を尽くされます。確かに、私たちの側にも救われる者の務めがあるはずです。それは、救い主であるイエス様を信じることです。イエス様は私は道であるとおっしゃっているので、キリストという道を歩まなければなりません。それは、今日の聖句の初めに出てきます。「私は、全き道に心を留めます」。つまり、あなたは、イエス様を信じるだけで、精神的に楽になり、心身共に健康になります。また、あなたが手がける仕事はことごとく祝福されます。それでも、人間関係で疲れたり、時には失敗したり、体調を崩すことも起こります。ここが難しいところです。そこで、まだ、完全ではなく発展途上にあることを自覚します。この時に、自分を責める必要は全くありません。ただ、イエス様が来てくださることを信じて待ちましょう。悪魔は、クリスチャンの隙をついてきます。誘惑をするだけではなく、思いを吹き込み、自分の過去の恥じや傷ついた心のかさぶたを取るような攻撃をしてきます。それが、クリスチャンにダメージを負わせないようにしなければなりません。そこで、悪魔に隙を作らないために、「正しい心で」、これはイエス様を信頼している心です。「自分の家の中を歩みます」は、一番素の自分でいられる状態です。そこでは、気をゆるめることができます。それでも、悪魔の誘惑に負けないのは、イエス様の生涯が書かれている福音書に心を留めているからです。ここにクリスチャンが気がつくと人生は良くなります。
4月22日(土)
主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け
あなたを避けどころとします。
わたしの魂をうつろにしないでください。
どうか、わたしをお守りください。
わたしに対して仕掛けられた罠に
悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。
主に逆らう者が皆、主の網にかかり
わたしは免れることができますように。
詩篇141:8~10
信仰者の悩みは、霊的な敵が存在することです。悪魔、悪霊です。ただし、あまり意識しすぎるのは良くありません。かといって全く無視して良いかといえば、そうはいきません。クリスチャンは、マルコ16章に「信じる者には次のようなしるしが伴う」とあって、「わたしの名によって悪霊を追い出し」と明確に書かれています。ですから、本来は悪霊に勝てるのですが、そのことを知ってノコノコと現れることはないのです。それよりも、まるで悪霊は存在しないものとして人間に認識させようとしているのです。ですから、クリスチャンでも、悪霊がいないものとして生活している人が多くいます。しかし、クリスチャンにも色々な災難や悪いことが起こります。その中には、悪霊が原因のこともあるのです。人を通してか、悪霊が自ら悪を行うかはその時々ですが、油断大敵です。そして、特に弱い者イジメが好きなので、人生につまずいた人や、失敗して自信を失ったような人には、何度も攻撃します。その人の精神面に働きかけて、自己否定、自信の喪失、悪魔ではなく神に嫌われている、といった誤った認識、また、その人特有の過去の心の傷に何度も攻撃を仕掛けてきます。特に、今日の聖句に書かれているように、「仕掛けられた罠」「悪を行う者が掘った落とし穴」と表現しているようなことがこうした人たちに起こります。気の毒なぐらい、罠にかかり、落とし穴に落ちるのです。これを打ち破るまでは、何度でも繰り返します。そうやって、悪霊は笑っているのです。これが、クリスチャンでなければ、そうだろうと思えますが、クリスチャンに敵意を向ける悪霊は、自分の時が短いので、焦ったように攻撃しています。ですから、今日の聖句を読んでみると、初めに神様との関係の見直しがあって、「神様を避けどころとします」と明確にしています。それまでは、自分の力でなんとかしようとしていたのです。その結果が、何度も同じ酷い目に遭うということなのです。ですから、神様を緊急非な場所にしますと確実に実行してください。敵の攻撃にさらされると、魂がやられてしまうのです。敵の攻撃というのも、多様で、多くは自分の頭の中、あるいは心の中で否定的な考えに囚われてしまうことです。大抵は、過去の悪い記憶で、嫌な場面や特定の人が登場します。これは、多分に子供時代まで遡ります。実は、子供時代の記憶は正確ではないのですが、それが敵には好都合なのです。脚色し、苦しめるのに効果的な演出までして、本人がその状況から抜け出せないように働きます。ですから、いつまでもぐるぐると同じことで何度も苦しめられます。イエス・キリストは、そのような人を助け出せるのです。悪霊は嘘つきですから、あなたがもっと正しくなければ、キリストは救うことができないと思わせます。しかし、聖書は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)と書いてあります。ですから、イエス様はすぐに助けてくれます。私たちの願いは、最後の二行にあります。敵の悪霊たちが皆、主の網にかかって、捉えられることです。そうやって、苦しめてきた者から救っていただくのです。
4月23日(日)
実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
伝道5:19
人間は神様によって創造され、この世でも幸せに生きるようにされたのです。でも、障害がありました。それが罪です。自分さえ良ければ良い、という考えを人間は持っています。それが良い人でも何かの拍子にひょこり顔を出すのです。ですから、人間関係がおかしくなることもあります。そんな人間に神様は、賜物を与えました。それは、人間の思っていることとは違っています。「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し」とありますが、私はもらっていないと言う人は多いと思います。その人たちの考えは、「神は富と財宝を人間に与えはしない、それは悪いものであるから与えないのだ。ましてや、人間が富や財宝で楽しむことなど、神が許すはずがない」というものなのです。これでは、もらえるものも、もらえません。なぜ、富やお金に否定的なのでしょう。小さな頃から、お金は汚いもの、富に執着すれば身を滅ぼすことになる、など、散々否定的なことを聞かされたのかもしれません。今日の聖句を読めば、そのような常識は聖書では反対で、神様は「自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた」とあるように、富も財宝も神様が与えるものなので、自分の受ける分をちゃんと受けなさい、とおっしゃっているのです。その上で、自分の労苦を嘆くなのではなく、喜ぶようにされているのです。ですから、頑張って苦労して働くことにも報いがあって、それに見合う富を得ることができます。それを使って楽しみ喜ぶことも神様は許しているのです。ですから、私たちは神様に感謝するのです。こうして、神様の賜物を受け取る者は幸いです。
4月24日(月)
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネ1:12
幸運と聞くと、何か人ごとのような気がするもので、自分の番が来るとは思えないと何となく思っている人は多いのです。しかし、すでに幸運をつかんでいるのに気がつかない人もいます。例えば、あなたです。クリスチャンになれたのは、どれほどの幸いであるか、本当は驚くべき奇跡なのですが、気がつかずにいるものです。今日の聖句を読むと、まず「この方」はイエス様のことです。つまり、イエス様を受け入れた人のことです。それは、イエス様のお名前を信じた人のことです。次が驚くべきことに、「神の子どもとされる特権をお与えになった」と書かれているのです。ですから、あなたは神の子どもなのです。人間は皆、神様に造られた被造物です。ところが、イエス様を信じた人は神の子どもとされるのです。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ3:26)とも書かれていますし、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)とも書かれているのです。聖書を読んで知識が増します。イエス様によって義とされた人たちは、信仰によって生きるようになります。いつも喜び、全てのことに感謝し、絶えず祈る、ことを常とし、愛することを戒めとしているのです。それは、自分が神の子どもであるからです。ですから、天のお父さんと呼び、明るく元気に生きるのです。この世の人と歩調を合わせることはしません。あくまで、神の子どもとして生きるのです。その結果は、あなたご自身で確かめてください。
4月26日(水)
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
ヤコブ1:3、4
クリスチャンでも、忍耐しなくても良いと思っている人たちは少なくありません。ですから、今日の聖句を知る必要があります。そうでないと、せっかくの試練が何の役にも立たなくなるからです。子どもから大人へと移り変わる時にも、同じように忍耐を学びます。それが人間として成熟するにはどうしても忍耐が必要だと歴史の中の賢人たちは知っていました。そして、クリスチャンも忍耐は必須です。それは、聖霊によって新しく造り変えられている過程で、忍耐がどうしても必要になります。すぐ感情的になる人にとっては、なかなか厳しい課題です。ただ、忍耐を身につけて完全に働かせると、何一つ欠けたところのない完全な者となるのです。この地上生涯をこの完全な者になるために忍耐を身につければ、勝利の栄冠も見えてきます。皆様の上に神様の救済計画がなされていけば、真っ先に信仰がためされる経験へと導かれて行きます。その時も聖霊の助けはありますから、心配は入りません。
4月27日(木)
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
詩篇119:130
人としての道理を知っている人をわきまえのある人と言います。クリスチャンなら善悪を区別することができ、人生に迷わなくなります。しかし、実社会は複雑で、悪意のある者もいて、故意に人を騙す人もいます。こうなると犯罪になりますが、そこまでは行かなくても、商売で駆け引きをすると、どうしてもウソが混じることがあります。心理的な駆け引きで自分に有利に相手を操作しようとする人も普通にいます。人がいいから、そんな人を騙すようなことから身を守ることもできない、というのでは時間の問題で被害者になってしまうかもしれません。では、どうやって身を守るのか? 幸い、今日の聖句を読むと、聖書を読むことで問題解決が図れそうです。しかし、ただ読めばいいというのではありません。「みことばの戸が開くと」とあります。そうなら、そのまま祈ればいいのです。「みことばの戸を開き、悟りを与えてください」と祈ればいいのです。あるいは、今日の聖句を音読して、「このようにしてください」と祈るのも良いですね。大体、このような体験をしてみたいと思いませんか。同じ聖書が違ったものに感じるでしょう。せっかく信仰を持っているのに、人生がうまく行かないと嘆いている人は、すぐに祈ることをお勧めします。きっと、良い結果が得られるはずです。
4月28日(金)
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
ローマ15:13
私たちの神様は、「望みの神」と呼ばれます。つまり、神様を信じるあなたにとって良い神様なのです。あなたは、どのような境遇にあっても、望みを持ち続けることができます。そして、あなたの信仰はすべての喜びと平和につながっています。ですから、あなたはいつでも満たされることができます。どうやって、と聞かなくても、聖霊があなたの益となるように働かれて、望みにあふれさてくださるのです。ですから、たとえいろいろな嫌なことがあっても、クヨクヨすることはありません。心配するようなことが起こっても、あなたがクリスチャンであることを思い出してください。そして、「イエス様」と呼びかけましょう。たちまち、あなたの救い主が飛んできます。あなたの重荷を全て下ろし、休みを与え、心を変えて望みにあふれさえてくださいます。ですから、あなたは必ず幸せになれます。今日も、希望の主があなたと共にいてくださいますように。
4月29日(土)
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」
エレミヤ31:3
預言者は、神様の誠実を知っています。私たちは、預言者として召されていなければ、主から直接語りかけられる経験がないかもしれません。それで、神様が自分に対してどのように思っておられるのかよくわかっていません。それで、神様に愛されているのに、愛を疑ってしまったり、もっと愛して欲しいと思ってしまうことがあったかもしれません。実際は、今日の聖句がよく表しているように、神様は「永遠の愛」で、あなたを愛しているのです。つまり、人間のように心変わりがありません。その愛は永遠なのです。そのような愛で人間は愛することができません。私たちが罪人であった時などは、自己中心的な愛でしか愛せなかったのです。クリスチャンになって、キリストの自己犠牲的な愛を知りました。私たちを罪から救い、生かそうとするために十字架にかかられたイエス様の愛は、私たちの心に届きました。それで、悔い改めて、人生がすっかり変わったのです。その私たちが、この世で生き続けるのは、神様が愛し続けてくださるからです。その愛が、私たちに神様の誠実を教えているのです。神様はあなたを天国まで導いています。私たちがすぐに義人となって、信仰によって生きるなら、もっと早くに完全になって、神様の愛に日々応えられるのですが、なかなか、そうはなりません。すぐに右や左にそれて、キリストという道をまっすぐに歩んでいるとは言い難いのです。それでも、私たちが何とかクリスチャンとして生きていけるのは、神様の永遠の愛のおかげなのです。「わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」と主は、今日もあなたに語っておられます。
4月30日(日)
御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。
詩篇9:10
私たちの信じる神様は頼りになります。あなたは幸いなことにイエス・キリストを信じています。そして、主と崇め、忠実な者であろうとしています。困った時には、まずイエス様に祈るでしょう。毎日の祈りは欠かすことなく、祈りの中で主との交わりを楽しんでいるでしょう。人生には不確実なことが多いので、心配したり、迷ったり、悩んだりすることもあるのです。その度に、あなたは主に祈ります。そして、あなたはただ願いを述べるだけの祈りから脱して、拠り頼むことを覚えました。その意味がわからないというのなら、下句の「あなたを尋ね求める」というみことばの意味を考えてみてください。そういえば、ヤコブ書にも「神に近づきなさい、そうすれば神も近づいてくださる」とありました。神様との関わり方、その距離、近づくのは自分から、と、他の神々とは違っています。そして、神様への真心を示せば、神様はあなたをお見捨てにはならないのです。これほど、心強いことはありません。あなたの人生はすでに勝利者に決まっているのです。