2024年11月ディボーション

11月1日(金)

あなたたちは、わたしに

ひどい言葉を語っている、と主は言われる。

ところが、あなたたちは言う

どんなことをあなたに言いましたか、と。

あなたたちは言っている。

「神に仕えることはむなしい。

たとえ、その戒めを守っても

万軍の主の御前を

喪に服している人のように歩いても

何の益があろうか。

むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。

彼らは悪事を行なっても栄え

神を試みても罰を免れているからだ。」

マラキ3:13~15

 

人間はどこまでも愚かなのだろうか。神様が忍耐して私たちを自由にされているのをいいことに、自分勝手にものごとを考えて、他人のことなど分からないのに、富を手に入れた悪人をすら羨ましいと思うのだからあきれる。情報化時代と言われて久しいが、SNSが日常生活に入り込んで、昔からの社会秩序が保てなくなってきた。匿名で人を誹謗中傷していいはずがない。匿名であれば、心の闇が噴き出てくる。罪がその人の中にはっきりあると証明しているのだ。大昔に書かれた聖書が、現代人にも当てはまることをあらためて思う。終末になれば、神に仕える者とそうでない者がはっきり分かれてくると言うが、そうなのだろう。ふるい分けのための試みは今日の聖句に書かれている通りだ。この語られた言葉に対して、あなたはどう思うか、という試みなのだ。そのことは、続きにはっきり書かれている。あなたが主に忠実に仕える者であることをあなたは最後まで示さなければならない。あなたの口から出る言葉も記録される。正しい方を選びたい。人に影響されない信仰者の生き方をしたいものだ。

 

11月2日(土)

そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。

 

わたしが備えているその日に

彼らはわたしにとって宝となると

万軍の主は言われる。

人が自分に仕える子を憐れむように

わたしは彼らを憐れむ。

そのとき、あなたたちはもう一度

正しい人と神に逆らう人

神に仕える者と仕えない者との

区別を見るであろう。

マラキ3:16~18

 

神様に忠実でありたいと思う信仰は正しい。周りを見回して、信仰を持っていない人の方が幸せそうだと言ってはならない。主の戒めを守らなくてよければどんない良いだろうと思ってはならない。主は、あなたの天の父だから、あなたを子として憐れまれる。だから、あなたはこの世で幸福を得ることができる。日々の生活は、偶然ではない。神の支配の中にあるから、神の摂理と呼んでいる。そのような中で、あなたは幸いにもイエス・キリストに出会い、信じた。そして、主にお仕えしようと決心した。それがどれほどの奇跡であるか、最善の選択であったか、あなたは知っているだろうか。世の終わりになれば、誰が救われ、誰が救われないのかが決まって行く。当然と言えば当然だが、私たちはどこかで甘く考えているかもしれない。いよいよとなったら、聖なる生活をすればいいとたかを括っているかもしれない。しかし、それは賢明ではない。主は、遠くにいるお方ではないからだ。毎日、一緒にあなたと歩まれる頼もしいお方なのだ。あなたが弱ったり、困ればすぐに助けてくださる助け主なのだ。あなたがお仕えしている主は、愛と呼ばれる神なのだ。だから、あなたが最後まで信仰を持ち続け、主にお仕えする者であれば、想像以上の報いを受けるのだ。救いの時はどんどん近づいている。あなたのことをわたしの宝と言ってくださる主に喜んでお仕えしよう。

 

11月3日(日)

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ9:16

 

この聖句は、決して人間が何か良いことを願ってはいけないと言う意味ではないし、何かをやり遂げようと努力することも意味がないと言っているわけではないことをはじめに理解しておきましょう。ただ、私たちも長く生きてみると、この聖句が本当であると理解できるようになります。私たちの神様は幸いにも憐んでくださる神様なのです。私たちは、自分一人で生きているように感じているかもしれませんが、実はそうではありません。あなたのことを愛しておられると公言される神様と共に生きているのです。特にクリスチャンは、聖霊が天から遣わされて、まるでキリストが自分のためにいつも一緒にいてくださっているかのように、働かれてくださいます。そして、天国へ帰るための訓練をしてくださいます。その中で、信仰を学びます。信仰無しには天に入ることが難しいのです。そこで、あなたのための家庭教師かトレーナーのように、聖霊があなたを整えて信仰に成長するように助けておられるのです。そして、信仰に成長してくると、あなたの益となるように、大切な事は神様が成し遂げてくださるのです。それがわかると、全てのことを主にゆだねようと自然に思えるようになります。そして、神様への感謝も心から自然と湧き上がるようになります。

 

11月5日(火)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。

あなたは私の悩みをご覧になり

私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

人間であれば誰でも悩みを経験します。小さなことから大きなことまで、実に様々ですが問題は、この悩みをどうやって処理するかです。誰か、信頼できる人で悩みを聞いてもらえる人がいれば、安全です。しかし、核家族化が進み、都市生活は人間の距離を広げました。干渉される事は少なくなったでしょうが、逆に孤独になる人が増えています。SNSに匿名で個人の悩みを訴える人もいるでしょうが、人間はそのうち、もっと血の通った人に相談したくなります。そこで、イエス様に相談できると良いのですが、神様の御声を聞く事はなかなか難しいので、友達のような相談できる人を求めてしまいます。しかし、聖書を読んでみると、あなたの神様はあなたの悩みをご存知です。神様はあなたのたましいが苦しみうめいているのを知っているのです。ですから、あなたを尊重しながら、あなたを助けようと働かれます。多くの人の悩みは人間関係です。そうすると、相手がいることになります。例えば、A子さんがBさんを好きになります。ところがBさんはA子さんが嫌いです。このような時に、神様がA子さんの願いをかなえるために、BさんがA子さんを好きになるように働くことは、考えにくいのです。ですから、このような相手を神様が操作するような相手の自由意志を侵害するようなことはできません。それよりも、神様がBさんよりもA子さんにふさわしいCさんと出会うようにすることの方が現実的なのです。神様は信じる者を憐れみ、恵みを施すことのできる素晴らしいお方です。神様は、あなたの悩みを凌駕するほどの大きな恵みを与えてくださることで、悩みを消し去ることもできるのです。また、悩みの本質を見極め、根本から解決することも神様にとっては簡単なことです。ただ、あなたのためになるようにと神様はいつでもお考えになるので、人間の思う通りにはいきません。その時でも、主を信じて信頼していれば、主が恵みで解決するということを知ることになります。

 

11月6日(水)

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

エレミヤ29:12、13

 

聖書を読むと面白いことが書いてあることに気づくでしょう。例えば、今日の聖句もそうなのですが、信仰者はいつでも霊的に満たされていたいと思うのですが、その願い通りにはなかなかいきません。それは、すぐにあきらめるからです。信仰している神様を知ることは最も重要なことなのです。そして、個人的に神様を知ることが大事です。宗教体験を軽視する傾向が現代の教会にはありますから、聖霊に満たされることも知らない人がいます。この世の教育は、徹底して神様や霊的なものを否定し、もっと科学的に物事を見る必要があると教えているのです。そうした考え方が教会にも知らず知らずに入ってきます。そうすると、霊的満足を単に感情的に満たされることと勘違いしてしまうのです。そうであれば、ヒューマニズムのお涙ちょうだいみたいな話しで満足しようとします。肉で満足しても意味がありません。霊的満足は、聖霊によってもたらされます。そして、誰でも熱心にならならければなりません。知識だけ聞いても、何も期待できなからです。今日の聖句を読めば明らかですが、神様が私たちを霊的に満たすことができるのです。そのために、神様に近づく必要があります。それは、「心を尽くして神様を捜し求めるなら、神様を見つけるだろう」という約束にあります。祈りは聞かれていますから祈りましょう。真の霊的満足を知ることを求めましょう。

 

11月7日(木)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

Ⅰヨハネ4:9、10

 

キリスト教信仰は素晴らしいものです。私たちがいて、罪がそこにあるのに、神はその私たちを愛してくださいました。神が正義であることは誰でもわかります。正義は罪を裁くのです。その神が罪人を愛してくださるというのには矛盾があります。その矛盾を解決してまで私たちを愛されるという神の愛を私たちは知ろうとしているのです。この神の愛がわからなければ、私たちが罪人から義人になる事はあり得ません。聖書の説明だと、神が御子イエスを遣わされたことが明記されています。その理由も「その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」とはっきりしています。罪人は霊的には死んでいる者なのです。死ぬのは自分の罪のために死にます。恐ろしい事ですが、黙示録を読めば、火の池に投げ込まれることになっているのです。だから、それを回避して、生きることができるようにしようと、神は独り子イエスを私たちの世界へ、しかも神としてではなく人間に身をやつして遣わされました。そこまでして私たちを生かそうとされるのは、神が私たちを愛しておられるからだというのです。極め付けは、「神の愛がわたしたちの内に示されました」とあることです。つまり、みなさんは、神の愛が示されて、その愛がわかった人たちなのです。私たちではなく、神が私たちを愛されたのです。御子イエスの役割は、私たちの罪を償う生贄として遣わされたのです。神は、「ここに愛がある」と教えておられます。この愛が確かに理解されることを私たちに願っているのです。神は示されました。今度は、皆さんがこの神の愛を受け取り、理解し、愛された者の応答をする番なのです。

 

11月8日(金)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ8:37

 

この世の不幸は、罪に起因しています。罪ははなはだ悪性です。エデンの園に罪が入り込み愛が壊されました。人は傷つけてはいけないのですが、罪は情け容赦なく人を傷つけてしまいます。そして、罪は愛を破壊してしまうので困るのです。この罪は、死のウイルスなのです。罪に感染してしまえば、100%死に至ります。罪はかくのごとく恐ろしいものです。しかし、罪人はその自覚がありません。そのような世界で、奇跡的にクリスチャンがいます。クリスチャンは神の愛によって救われた人たちです。ですから、彼らは愛を知っています。そればかりか、愛され続けています。それも、神様に愛されているのです。ですから、この世にあっても、圧倒的な勝利者となると言われているのです。そのことがわかっていれば、罪に翻弄される必要はありません。何に対しても積極的に立ち向かうことができます。悪魔の誘惑にも打ち勝つことができます。人生の勝利者になるようにイエス様が救ってくださいました。ですから、あなたは置かれた所で勝利者となります。そのことが約束されているのに、何を恐れますか。どんな人もあなたを打ち負かすことはできません。酷い目に遭っていたなら、主の力を信じなさい。主に愛されているあなたの大逆転勝利が待っています。それも圧倒的な勝利です。あなたは黙っていても勝利するのです。そう信じていましょう。

 

11月9日(土)

兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。

Ⅱテサロニケ1:3

 

クリスチャンは成長することができます。もちろん、信仰においてです。確かに、バプテスマを受けた頃に比べれば、格段の進歩を遂げているはずです。そうした信仰を成長させているのは神様です。ですから、教会の牧師はそうした教会員の信仰を見て神様に感謝しているのです。さらに言えば、信仰の成長は何によって知ることができるかと問えば、その答えは、愛の成長です。キリストの掟は「互いに愛し合いなさい」です。愛することはクリスチャンの専売特許のような者ですが、この世を見てみると、互いに愛し合うことは理想ではありますが、実際には愛じゃないことがあふれています。ですから、クリスチャンとノンクリスチャンを分けているのは、互いに愛しているかどうかです。クリスチャンでも、まだまだ成長する余地があるのですから、愛することの意味を考えなければなりません。時には、忍耐し、赦し合い、期待通りの愛が返ってこなくても変わらない愛で愛し続けることも必要です。自分が好き嫌いが激しい人でも、クリスチャンであれば、そこにイエス様が介在しますから、何かしらの努力はいるでしょうが、その報いはとても大きなものとなります。互いに愛し合うところには、神の国が存在します。足りなさがあってもお互いに支え合い、重荷を互いに負いあえば、愛の力を見ることができます。私たちは、この世にあっても、神の国の住民として生きていきたいですね。

 

11月10日(日)

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

Ⅱテモテ1:7

 

あなたは、自分をどのように理解しているでしょうか。きっと、キリストを愛する個性的で、さらに魅力的な人として理解されているのではないでしょうか。ところが、私たちは、些細なことですぐに心配したり、自信を失ったりする者でもあるのです。ところが、クリスチャンになったのですから、何かが変わっているはずです。それは、神様があなたに「力と愛と思慮分別の霊を」くださったのです。はじめに「力」とあるので、あなたは信仰によって何でもできます。実際にイエス様のためなら何でもできるのです。ですから、自分に自信を持ってください。また、「愛」が出てきましたので、自分の中に「本物のすごい愛」があるということです。それを使わない手はないですね。人生が楽しくなります。そして、「思慮分別の霊」が与えられていると書いてあるので、あなたは賢くなっています。人生の成功に欠かせないことです。ただ、これらは自分の我を通したら、一切無効になります。パウロがよく言うように、「古い人に死んだ」と信じてください。そして、ここに書かれた通りに主が私にしてくださったと信じてください。信仰による義を忘れないでください。そうすれば、あなたは最高の人生を生きることになります。

 

11月11日(月)

どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識をまし加えられますように。

コロサイ1:9、10

 

クリスチャンの素晴らしさは、兄弟姉妹のために祈ることです。心に誰かのことが浮かぶと、すぐにその人のために執り成して祈ることができます。祈りの賜物が無くても、祈ることはできます。こうした祈りに助けられて、私たちは信仰の道を歩めるのです。興味深いことに、聖書自身も私たちのために祈っています。今日の聖句を読めばそれがわかります。ここにある祈りも完全な祈りです。クリスチャンがどのようになれば良いのか、この聖句を読めば分かりますが、どれも神様が助けてくださらなければうまくいかないでしょう。このように、私たちは兄弟姉妹のために祝福を祈り、癒しを祈り、幸福を祈り、悩みの解決を祈り、仕事がうまく行くように祈り、家庭が円満であるように祈れるのです。兄弟姉妹の言葉を思い出してください。何か心配していなかったでしょうか。家族の誰かのことを気に病んでいなかったでしょうか。健康のことを何か言っていなかったでしょうか。私たちは、神様に祈ることができるのです。そして、神様はちゃんと御座から身を乗り出して耳を傾け、聞かれるのです。ありがたいことですね。

 

11月12日(火)

あなたを攻めるために作られた武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責め立てるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。ー主の御告げ。ー

イザヤ54:17

 

私たちはクリスチャンになり、罪の赦しを受けました。それは、主が十字架にかかられて私たちの罪を贖ってくださったからです。あなたは、主を信じました。そして、洗礼を受けたのです。あなたはクリスチャンになって、どんな特典を受けているでしょうか。それは今日の聖句に明らかです。誰も、裁きの時は避けることができません。あなたに悪意を持つ人や、あなたを悪く言いたい人もいるかもしれません。あなたを困らせ、窮地に追い込みたいと悪意を募らせる人だって、いないとは言い切れません。人は外見では分かりません。あなたが気に求めていない人から、裁きの時に、責め立てられるというのです。あなたはうろたえ、反論する気力も失われ、きっと何も言えないのではないかと、不安になるかもしれませんが、そうはなりません。それがたとえ悪魔であっても、心配しないでください。あなたは逆に責め立てる舌を罪に定めることができるのです。そもそも、「あなたを攻め立てるために作られた武器」とは、陰謀、足を引っ張る、嫉妬、偽りの噂、陰口、意地悪、パワハラ等、とあなたを困らせて、葬り去ろうとするような悪意全般のことです。それが「どれも役に立たなくなる」というのですから、あなたへの神様の守りは鉄壁なのです。これがクリスチャンになったあなたに無償で保証されているのです。興味深いのは、「これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である」というのです。「義」とは聞いていましたが、このような意味で使われる神様から受ける義なのです。ですから、あなたは主によって無敵です。安心して、生活できます。

 

11月13日(水)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

Ⅰペテロ1:23

 

キリスト教の教えでは、クリスチャンになった人は新しく生まれたのです。パウロは、洗礼を用いて説明しています。「またその死にあずかるために洗礼を受けた」(ローマ6:3)と、さらに、「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(同6:4)と続き、「それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(同6:4)と説明しています。それに対して、ペテロは「神のことばによる」と説明しているのです。クリスチャンは、キリストのように実際には十字架について殺されていません。ただ、霊的な意味でキリストに洗礼によって結ばれているので、キリストの十字架に一緒について古い自分に死に、キリストの復活の新しい命に生きているのです。それだけに、クリスチャンになってから、よく理解できていないと、これらが信仰と御言葉によって成り立っていることを真剣に受け止めていないことが多いので、古い人から新しい人へと変わることができないでいるのです。それでも、悔い改めてキリストに清めていただいたので、その人の内に御言葉が種のように蒔かれると心の畑が良ければ発芽します。さらに聖霊の雨が降れば、やがて実を結ぶのです。行いではなく、信仰による義と繰り返し教えられているのは、このような神の神秘があるからです。

 

11月14日(木)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ3:15

 

聖書に書かれていることは、真理なのだから書かれた通りに受け取ればいいのですが、それにしても「あなたがたも召されて一体となったのです」といった御言葉を読むと、不思議な気持ちになります。教会のメンバーが神様によって選ばれ、召されたのでクリスチャンになり、しかも霊的に「一体」だというのです。時々、親戚よりも近い関係だと思うことがありますが、それ以上なのでしょう。なぜなら、天国でも一緒だからです。それも今度は永遠にです。それが特別な関係でないはずはありません。面白いですね。今日の聖句は、一体の意味を教えています。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と命じられていますが、驚くのはその理由です。「そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです」とあるからです。一般に、平和は神様と私たちの間の関係を表しています。罪のままでは平和はありませんが、罪の赦しが完全にあったために生じることが平和なのです。そして、神様とだけの平和ではなく、兄弟姉妹の間にも平和が期待されています。期待されているというのは、一人一人が努力しなければならないからです。つまり、互いに赦し合い、愛し合う、ことが求められているということです。永遠に一緒になる関係であれば、当然です。それが実現できるように信仰が与えられているのです。聖霊も助けてくださいます。ですから、今日の御言葉を大事にしなければなりません。そうすれば、愛の人間関係が持て、それも一人二人ではなく、多くの信頼できる関係が生まれて、実を結ぶことになります。これは、この世では稀ないことで、感謝せずにはおられません。お互いが感謝の心を持って接するなら、この世にいながら神の国を体験できるのです。

 

11月15日(金)

見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。

コヘレト5:17~19

 

幸福は自分の人生を肯定することです。普通の人が働いて、時には美味しい物を食べたり飲んだりする。そして、真面目に働いていただいた給料の中でうまく生きていく。後悔もなく、これこそ良い人生だと満足することが幸福で良いことなのです。何の将来に対する保証もないのに、このように生きる人は神から受けるべき分をいただいたのです。世の中には、金持ちと言われるような人たちがいますが、その人たちもその富や財宝を享受することができるのです。その人が、自らの分をわきまえて、自分が労苦して得た結果を楽しむように定められているのです。まさに、これは神の賜物なのです。しかし、彼がもっと欲張り、富に貪欲ならば、彼は幸福にはなれないのです。彼が、自分の分をわきまえているからこそ、貪欲の罪にならないでいられるのです。このような人は「人生の日々をあまり思い返すこともない」と書かれているのは、「あの時、もっとこうしていればよかった」などと後悔しないからです。「もっと儲けられたのに」と言った強欲であれば、人生の過去のことを変えることもできないのに、何度も何度も思い返して後悔したり、悔しがるのです。そこには幸福はありません。主の与えられたものに満足する人は、神がその心に喜びを与えられるのです。特に、クリスチャンの皆様は、自分の人生は失敗だったと思わないでください。よく頑張って生きてきました。しかし、頑張り過ぎれば倒れることもあるのです。それでも、人生は失敗でもないし、終わってもいません。何歳からでも自分の人生を取り戻して生きることができます。何しろ、神様があなたを愛しているのですから、良い人生を送れるはずなのです。人間の常識にとらわれずに、神様のお導きに任せて、ゆったりとした心で主に従いましょう。幸福と思えるのは、それほど難しくありません。どんな些細なことでも、感謝して喜ぶことができるはずです。主に感謝することを心がけてみましょう。

 

11月16日(土)

主は私に関わるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩篇138:8

 

あなたが神様を信じていると、主はあなたに関わるすべてのことを、成し遂げてくださいます。ですから、あなたの人生は感謝にあふれているのです。もし、そうではないと思うのなら、あなたは何を信じていますか。無意識にあなたは自分の人生を消極的に考えていませんか。もっと、良い人生になると信じて良いのです。年齢は関係ありません。人間的に考えて無理と思えることでも、神様ならできます。しかも、今日の聖句の通りに聖書では、あなたに関わることは、すべて神様が成し遂げてくださるのです。もちろん、信仰は必要です。例えば、家で寝ているうちに大学を卒業し、良い企業に就職、素敵な人と出会い、結婚して子供にも恵まれ、家族仲良く暮らしている、となるわけはありません。これは常識の問題です。あなたは自分の人生を生きています。頑張っているかもしれませんね。その中で、「こうなったらいいな」とか「こうなりたい」と願いがあるかもしれませんが、そのために計画を立て、準備をし、人にも相談し、できる限りのことをするでしょう。それらを神様が成し遂げてくださるのです。自分が何もしなくても良い結果が期待できるというのは、信仰ではありません。それなら、自分がいなくても良いことになります。主の恵みは永遠なのです。だから、あなたは主を信頼して、自分の人生が恵まれていることを感謝するのです。あなたが自分勝手になって、主に背を向けるなら、神様はあなたに何もできなくなります。自分の力でうまくいっていると思っていた人生が、突然すべてうまくいかなくなるのです。その時に気がついても遅いので、信仰者は信仰によって生きることをやめてはいけません。そもそも、恵まれているのですから。

 

11月17日(日)

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

Ⅰコリント1:30

 

クリスチャンはキリストと自分の関係を聖書から学ぶ必要があります。今日の箇所を調べてみましょう。キリスト教の独特の言い方がここでもみられます。それは、「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」と書かれているところです。とても抽象的のように感じるでしょうか。何しろ、この宗教は聖書に書かれたままに信じることが義となる方法なのです。まるで、天国に至る道を聖書で地図のように示しながら、それが信仰によらなければ通過点を通れず、自分の力に頼れば最後まで進めず、信仰のみで正しい道を歩き通さなければならないのです。ところが、そもそも信仰があるのかないのか自信が無いという人だっていますし、自分の信仰は弱いのだ、と公言してはばからない人もいます。しかし、信仰はその人に合わせてキリストが与えるものです。ですから、信仰が弱いとか無いなどと言ってはいけないのです。肝心な点は、救いに関して人間ができないことはすべてキリストがやってくださったのです。その中で、私たちの責任は信仰をあらわすことなのです。さて、自分が罪人であることを知ったのでイエス・キリストを信じて洗礼を受けたのですから、その洗礼を受けた信仰が義なのです。パウロは、洗礼を受けることでキリストと私たちが結び合うことになった、と説明しています。ヨハネは父とイエスが一緒にあなたの内に住むとまで言っています。つまり、罪人のあなたを救うには、神様にしかできない方法で完全に救うことが重要だったのです。そこで、あなたを内側から新しい人として完全にする必要があるということなのです。このように、キリストと私たちは関係が大変密なのです。では、キリストは、私たちの内に住んで何をしているのでしょう。それが、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とある通りなのです。ですから、あなたはこのことを信じなければなりません。あなたが古い人のままではなく、新しい人として生きるためです。

 

11月18日(月)

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。

フィリピ4:8

 

人間は心の中で何を考えているか、思いの中にどんなことを描いているかで、その人が形作られて行きます。誰でもわかるように、それならば、良いことを心や思いの中に入れるべきなのです。内から出てくるもので人は汚されるからです。逆に、今日の聖句にあるように、善いことを内に入れ続ければ、それはその人を形作るように、外に出てきます。それだけではなく、行動が良くなります。自分の考え方で、心が明るくなったり、暗くなったりしますから、それも人生に大きな影響力となります。今日の聖句のようにするのは、そう簡単ではありません。努力しなければならないでしょう。しかし、こうした指針を守れば、その効果は絶大なのです。読んですぐに忘れてしまわないように、心で覚えるようにしたいですね。人間の価値は、心がけで高めることができます。今日の聖句では、「それを心に留めなさい」とあります。日々の生活の中で、心に留めるべきことはたくさんあります。人のさりげない言葉の中にも、街中で見かける人の親切や気配り、優しい慰めの言葉など、心に留めたいことが意外と多くあるものです。

 

11月19日(火)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Ⅰヨハネ4:9、10

 

聖書を読むと「神を愛しなさい」と書かれています。それは、最も重要な戒めです。神を愛している人は、この世でも守られ豊かになり幸いな者となります。問題は、聖書の要求のように神を愛しているかということです。申命記によると「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:5)とあります。ただ、愛しなさい、ではないということです。これは、十戒の1条から4条までの戒めをまとめたものです。ですから、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」というのは、具体的なのです。さらに考察すれば、今日の聖句です。私たちはどうやって神を愛したらいいのかわからないと言う必要はありません。初めに神が愛してくださっているからです。それも具体的にです。それが理解できれば、私たちも神を愛することができるのです。それは、神の独り子であるイエス・キリストを世に遣わしてくださったことにあらわれていました。イエスは十字架に架けられ私たちの罪の贖いとなってくださいました。ここに神の愛があると言うのです。私たちの罪のために、御子は犠牲となられました。これが神の愛なのです。そうであれば、かなりシリアスな話です。楽しそうに、私も神様を愛していますと何も考えずに言えることなのだろうか、と不安になります。しかし、キリストの十字架に神の愛を見ることができれば、その人は間違いなく救われます。それは、その後の生き方が変わるからです。神を愛して生きるという人生になるのです。ただ生きていて、時々思い出したら「神を愛しています」と言う、と言うようなことではありません。そうなると、十字架のイエスに向かい合わなければなりません。神の愛がわかるまで。神の愛がわかると、もはや今までのようには生きていけません。クリスチャンの凄さの秘密はここにあります。今日の聖句を読んで瞑想してみましょう。

 

11月20日(水)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ3:15

 

 

放っておくと、私たちは勝手に心配したり、取り越し苦労をする傾向があります。実際に、困ったことになっても、うまく乗り切るにはどうしたらいいでしょう。そのヒントは今日の聖句にあると思います。私たちの心を支配しているのは、何かと考えます。最悪のことを考えて心配している自分の思考が心を支配していれば、いい結果は期待できませんし、大体精神的にもまいってしまいます。それに対して、聖書のアドバイスは、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」と、いたって明快です。そんなこと無理に決まっています、と言う前に、「そのためにこそあなたがたも召されて」とあります。ですから、実は、ここに書かれた通りにできるのです。そうであれば、確実に勝利者になれます。さらに、おまけがあって、「感謝の心を持つ人になりなさい」とあります。このことを心がけると、人から尊敬されるようになります。そして、自分の人生が良くなっていると手応えを感じられるようになります。

 

11月21日(木)

実にすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。

伝道5:19

 

あなたは、この聖句を読まれてどう思っただろうか。これは何かの間違いではないのかと思われただろうか。現実に貧富の格差が社会問題になり、物価高に給料が追いつかないと連日、マスコミは報道している。「すべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し」とあるのに、富も財宝も縁がないと嘆く人が大勢いるだろう。実は、神様は今日の聖句の通りにお考えになり、それを許されているのだ。しかし、誰かが、あるいは罪の原因で、この御言葉の通りに行かなくなっている。つまり、罪がいよいよ本性を発揮して、地球規模の悪となっているのだ。悪魔は、その先導者となっている。黙示録の預言の通りなのだ。よく聞くだろうが、「企業は利益を上げているのに、それを社員に還元しないで、社内留保に回している」と。聖書には、「自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた」とあるのだから、現実は神様の意図に反する力が働いているのだ。自分の受ける分を受けられないで、神様の賜物を妨害している力が地球上にあると言うことだ。これをなんとかしなければならない。クリスチャンは、率先して、この御言葉の通りになるように祈る必要がある。地球上の誰もが、貧困に落とされてはならない。神様の賜物を感謝できる世界になるように、祈ろうではないか。

 

11月22日(金)

どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる良い業を行なって実を結び、神をますます深く知るように。

コロサイ1:9、10

 

聖霊との関係は、クリスチャンにとって大変重要です。ちょうど、スポーツ選手とコーチのような関係です。さらに、信仰が進めば、イエスと弟子たちの師弟関係のようになります。聖書でも知恵は尊いものとして出てきますが、人間が生まれ持っている知恵ではありません。聖霊によっていただける知恵です。その知恵の最高の状態と最高の理解によって、知ることのできる神の御心を十分悟るようにと促せいています。もちろん、クリスチャンの目指すところは、「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩」むことです。霊性と信仰によって目指しているところが、主への従順であり、それは具体的には「あらゆる良い業を行なって実を結」ぶことです。その意味するところは、「神をますます深く知る」ことなのです。良い業は、一見関係ないように見えますが、それは、自己の義を求めてしまうから違ってしまうのです。そうではなく、神の良い業に近づこうとしているのです。そのために、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩むことが必要になるのです。これらは、意識的にしないければ、なかなか達成できません。人は自分のために生きるからです。しかし、キリストは、ここに書かれた通りに実践してみせた道なのです。

 

11月23日(土)

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが

我らは、我らの神、主の御名を唱える。

彼れは力を失って倒れるが

我らは力に満ちて立ち上がる。

 

主よ、王に勝利を与え

呼び求める我らに答えてください。

 

詩篇20:8~10

 

ウクライナへロシアが攻め込んだ時に、テレビのニュースはロシアの戦車が何台もウクライナへ侵攻する光景を映していた。ウクライナに勝る武器を誇り、戦争の恐ろしさをまざまざと見せつけられたのだ。今日の聖句は、その光景を思い出させる。聖書時代の大昔から、戦争は武器の優劣が勝敗を分けるものだ。イスラエルは、青銅器時代の武器を使って、ギリシャから海を渡って来たペリシテ人の鉄の武器と戦わなければならなかった。それだけではなく、ペリシテ人は戦車を持っていた。これは恐ろしい武器で、一気に勝敗を決める威力を持っていた。つまり、常識ではダビデのいるイスラエル軍は、戦う前から負けていたのだ。しかし、歴史はその常識を覆し、ダビデがペリシテ人に勝利したことを伝えている。何がこの奇跡的な勝利をダビデにイスラエルに与えたのだろう。その答えは、今日の聖句を読めば明らからだ。ペリシテ人は、戦車や馬を誇っていたが、ダビデたちは、神、主の御名を唱えていた。そして、信じていた。敵は力を失って倒れ、我らは力に満ちて立ち上がると。そして、彼らは信仰によって一致団結していた。信仰はいつの時代でも裏切らない。戦争でなくても、どこにでも戦いはある。しかし、勝利の法則は一つだ。それは、信仰なのだ。自分の信じた通りになると信仰を表そう。

 

11月24日(日)

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ヨハネ5:24

 

クリスチャンは、聖書をよく読むことが勧められています。しかし、聖書はそれほど簡単に読める本ではありません。そこで、本を読むように聖書を読むこと以外に、今日の御言葉の通りにしてみるのです。それは、イエス様の御言葉を聞いて、つまり、読むのですが、それを聞くのです。それは、真理を理解する方法です。その結果、イエス様を遣わした方である父なる神様を信じるようになることで、救われるのです。ここでは、イエス様が約束されているので、絶対確かな事です。永遠の命を持つことができます。裁きにあいません。罪人であたのだから、死に定められていたのですが、命へと移りました。人が救われる方法が説明されている箇所なので、覚えておきましょう。

 

11月25日(月)

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペテロ5:7

 

生きていれば、思い煩うことは避けられません。何かが起こり、それを自分でどうにかしなければならなくなるからです。なかには、深刻なことだって起こるでしょう。それに、心配性な人にはいつでも心配することがいくらでもあるのです。たとえ、クリスチャンになっても、思い煩いは勝手に心に生じてきます。問題は、その時です。そのまま、思い煩いに取り込まれてしまうか、立ち止まって、今日の御言葉を思い出すかです。皆さんは、問題が起これば、すぐにお祈りをするでしょう。このお祈りが、神様にこうして欲しい、と具体的に指示するような祈りは今日の御言葉と合っていません。御言葉は、「いっさい、神にゆだねなさい」と命じています。つまり、自分の問題としないで、はじめから神様に任せてしまいなさい、と教えているのです。この考えは難しいですか。でも、気を揉んでも何にも解決しません。自分で解決できればいいですが、手に負えなければどうするのですか。信仰を奮い立たせて、神様に委ねるのです。覚悟しなければなりません。この覚悟が神様に要求されているのです。

 

11月26日(火)

馬は戦いの日のために備えられる。

しかし救いは主による。

箴言21:31

 

常識や思い込みは、人間を救いません。それどころか、苦しませたり、困らせることすらあるのです。東日本大震災の時に、ちゃんと震災グッズや非常食を備えていなかった人たちは、困ったと思いますから、非常持ち出しや水や非常食など災害時を想定してある程度の準備が必要です。よく、三日分の備えをと言われますが、実際には一週間ぐらいは困難が続くと思っていた方がいいですね。さて、ここまでが常識の範囲です。では、クリスチャンはどうかというと、人によりました。私は教会にいて避難してくる人を教会や自宅に泊めたりしましたが、食事も何も困りませんでした。教会に泊まっている人たちが会社に出かけて行って、帰りには何かしら食べ物を買ってきました。ちょうど売りに来たとか、一軒だけ昔の市場みたいなのが開いていた、とか言って刺身を買ってきた人までいましたから、ありえないことでした。実際にはどこの店も閉まっていたのです。コンビニも大きな店やスーパーも閉まっていました。ガソリンは無くなり、道路が壊れて輸送車がどれも市内に入れなくなっていたのです。しかし、私たちは何一つ不自由することなく神様のお助けが本当にあることを知りました。ガソリンでも灯油でも、運ばれてきたので困りませんでした。電気も水もすぐに復旧しました。震災前に、市が震災対応の水道管に変える工事をしていたのですが、まさにそれで水もすぐに出たのです。教会はプロパンガスだったので、ガスも止まることはありませんでした。今日の聖句の通りです。主は生きておられます。主に救われました。ハレルヤ!

 

11月27日(水)

あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は波のようになるであろうに。

イザヤ48:18

 

人生の不思議があります。例えば、悪人がいて善人がいます。どうしてそうなるのか考えてみても、簡単には答えが出ないでしょう。クリスチャンになって幸せだという人もいれば、そうでない人もいます。その違いは何だろう、と気になります。このように、富む者と貧しい者がいるのはなぜか、コヘレトの言葉を読むまでもなく、この世の不条理を感じることは誰にでもあるでしょう。しかし、今日の聖句を読むとどうでしょうか。幸せになるように神様は初めから方法を示しているのです。神様の「命令に耳を傾けさえすれば」と教えています。そうすれば、「幸せは川のように、あなたの正義は波のようになる」と主は教えています。これなら、誰でもできるので、難しくありません。もし難しいというのなら、それは自分の思い通りに生きようとするからです。神様の命令に従うことは、喜びなのです。あなたには信仰があるので、できるはずです。それもすぐにです。人間が考えるようなちっぽけな幸せではありません。川のようにダイナミックに押し寄せて止まらない幸せです。あなたが正義に生きようとして難しいと感じたことがあったとしても、今度は違います。あなたの力に頼っていないからです。波の力を理解してるのなら、神様が保証している正義が圧倒的に力あるものであることを疑わないでしょう。神様を信じているというのは、これほどありがたいことなのです。

 

11月28日(木)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

Ⅰペトロ1:3~5

 

この世に生きることは、クリスチャンにとっても大変です。どのような条件で生まれてくるのかは神様がお決めになったので、人によって随分と違いがあります。それでも、どんな境遇でも正しく生きる人と悪に傾いていく人に分かれるのです。もちろん、それは人間の責任です。弱いのは仕方がありませんが、信仰を持つかどうかで弱さも強さに変えることができます。クリスチャンになれたなら、それは神様の憐れみによります。そうした神様の恵みによって人は救われます。そして、聖書に書かれていることから真理を学ぶことができます。学ぶのが好きな人もいれば、嫌いな人もいます。それは、仕方がありませんが、学ぶことが好きなら、聖書を上手に学ぶ方法を探して身につけることです。学ぶことが嫌いでも、心配ありません。教会の奉仕ができます。神様のために働くのです。どんなにつまらない働きでも、一生懸命神様のために頑張ることができます。私は、五反田の駅で夕方、講演会のハガキ兼用のチラシを配っていました。気がつくと、床が青一色になっていました。大勢の人に配ることに気を取られて、チラシをもらった人たちが捨てて行ったことに気が付かなかったのです。それを全部一人で拾いました。綺麗に拭いて、また配りました。その様子を見ていた人が講演会場までついてきました。何でも一生懸命にやってみるものですね。私たちには天に財産が用意されているというのですが、それは、神様が天のお父さんになってくださったからです。イエス様のお力で神の子にしていただいたのです。これからの生活も心配いりません。信仰によって守られているからです。それは、最後に救いを受け継ぐことになっているからです。ですから、神様はあなたを最後まで守っていてくださいます。

 

11月29日(金)

心に湧き出る美しい言葉

わたしの作る詩を、王の前で歌おう。

わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。

あなたは人の子らのだれよりも美しく

あなたの唇は優雅に語る。

あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。

詩篇45:2、3

 

これは「愛の歌」と呼ばれる詩で、たいそう美しい詩です。聖書の中に美しいものを探すと出てくるのです。言葉に注意を払うことの少なくなった現代人たちは、今日の詩篇から人間に与えられた才能や、言葉の神秘を考えてみる機会としてみたらどうでしょう。詩編45篇が好きになるかもしれません。物語のようで、登場人物もカッコいいですね。人間は、このように美しくなれるのですね。自分の中に可能性があるということです。クリスチャンになって、新しく生まれたのなら、それはどんな人でしょう。もちろん、美しい人なのです。詩心がないとか、文才がないという人がいますが、どんな人にも美しい心があって、そこから良いものが出てきます。それを恥ずかしがらずに素直に現せば、そこに愛があることに気が付きます。今日は、あなたの主への賛美を愛の歌として口を開き、心から溢れるままに言葉にしてみましょう。あなたは、主にどのような言葉で賛美しますか。自分の主への気持ちを表してみましょう。主に近づけるはずです。

 

11月30日(土)

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

マタイ5:4

山上の説教と言われる箇所は、多くの読者が分かるようでわからないと悩むところです。例えば、今日の聖句は一見すると当たり前のように感じるのです。もし、あなたの家族や友人知人が悲しんでいれば、放ってはおけないでしょう。きっと、クリスチャンのあなたは慰めるはずです。でも、それはあなたが「悲しむ人」ではない時の話です。今度は、入れ替わって、あなたが「悲しむ人」であったなら、誰かがあなたを慰めてくれるでしょうか。もしかすると、そうなるかもしれませんが、あなたは悲しみを悟られまいと頑張って我慢してしまうかもしれません。その悲しみはずっと心に残るでしょう。忘れることがなかなかできずに苦しむでしょう。誰にも話せない苦しみというのは、意外とその人に精神的ダメージを与えるのです。でも、誰があなたを慰めてくれるのだろうか。もしかすると誰もいないかもしれません。では、イエス様はなぜこのようにお語りになったのでしょう。それは、イエス様の保証なのです。イエス様があなたを慰めてくださいます。直接慰めてくださる時もあれば、教会の兄弟姉妹を使ってあなたを慰めることもあります。また、時には天使が慰めてくれることだってあるのです。私たちは、イエス様を信じて救われた身です。ですから、人にはやせ我慢するかもしれませんが、イエス様には甘えることができます。イエス様こそが、あなたの味方で、理解者で、慰め主なのです。イエス様の愛と恵みはいつでもあなたの心を満たします。ですから、この世のことで悲しまなくても良いのです。安心して、今日も元気に始めましょう。

 

12月1日(日)

あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

Ⅱテサロニケ2:13

 

クリスチャンの悩みは、自分が聖なる者になれていないのではないかというものです。それで、なんとかしなければと無用な努力をする人たちがいるのです。しかし、聖書には、「あなたがたを聖なる者とする”霊”の力」とはっきり書いてありますから、聖なる者とするのはあなたではなく、聖霊の力によるのです。どうしてか、これだけで聖霊と突っ走って行く人がいますが、実はもう一つ大切な教えがあります。それは、「真理に対するあなたがたの信仰とによって」とあることです。ですから、聖霊だけでもだめだし、真理に対する信仰だけでもだめなのです。実に、聖書は「聖霊の力」と「真理に対する信仰」の二つを両輪のように必要であると明らかにしているのです。ですから、真理は、イエス・キリストを知ること、そして聖書を知ることですから、聖書を通してイエス・キリストを知り、聖書から真理を知るということで、信仰が機能するようになっています。現代の教会は、こちらばかりを強調して、あたかも「真理に対する信仰」一つで救われると思っているようです。ところが、「聖霊の力」という私たちを変える動的な面も必要なのです。ですから、この両方をバランスよく理解していることが大切なのです。どちらかに偏ると、途端にバランスを崩して、何かしらおかしくなってきます。そうならないように、いつでもバランスを取っているかどうかを吟味してみましょう。