12月1日(日)
あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
Ⅱテサロニケ2:13
クリスチャンの悩みは、自分が聖なる者になれていないのではないかというものです。それで、なんとかしなければと無用な努力をする人たちがいるのです。しかし、聖書には、「あなたがたを聖なる者とする”霊”の力」とはっきり書いてありますから、聖なる者とするのはあなたではなく、聖霊の力によるのです。どうしてか、これだけで聖霊と突っ走って行く人がいますが、実はもう一つ大切な教えがあります。それは、「真理に対するあなたがたの信仰とによって」とあることです。ですから、聖霊だけでもだめだし、真理に対する信仰だけでもだめなのです。実に、聖書は「聖霊の力」と「真理に対する信仰」の二つを両輪のように必要であると明らかにしているのです。ですから、真理は、イエス・キリストを知ること、そして聖書を知ることですから、聖書を通してイエス・キリストを知り、聖書から真理を知るということで、信仰が機能するようになっています。現代の教会は、こちらばかりを強調して、あたかも「真理に対する信仰」一つで救われると思っているようです。ところが、「聖霊の力」という私たちを変える動的な面も必要なのです。ですから、この両方をバランスよく理解していることが大切なのです。どちらかに偏ると、途端にバランスを崩して、何かしらおかしくなってきます。そうならないように、いつでもバランスを取っているかどうかを吟味してみましょう。
12月2日(月)
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイ1:23
12月に入り、今年もクリスマスがやってきます。クリスチャンになってから、何度もこの聖句を読まれたと思います。そして、イエス様のことをインマヌエルと呼ぶことを知ったのです。その名の意味も聖書に書かれていたので、イエス様の意味を驚きと共に知ったのです。それは、クリスチャン人生で何度も思い出す必要のある名前でした。「神は我々と共におられる」。なんと素晴らしいことでしょう。この名から何を学べるかといえば、「我々」と言っていることです。「私」ではないのです。クリスチャンになるというのは、教会の一員となり、キリストの体になるという意味です。ですから、これからは一人ではないのです。この世では、家族がいても、友人がいても、「私」として生きていたのですが、イエスに救われて、私には兄弟姉妹が与えられ、「我々」として生きるようになったのです。それは、神様は教会と共にあるという意味でもあります。人間的に見れば、教会には欠けがあるように見えるかもしれませんが、キリストの十字架によって罪贖われ、信仰によって義とされ、召し出された聖徒の群れと共におられるというのです。「私が」と言って自我に翻弄されて生きてきたものが、自我もろともにキリストの十字架にかかり死にました。ですから、「私」とはもう言わないで、「我々」と言うのです。主の祈りもそうなっていますよね。古い人は「私が」と言って生きてきましたが、新しい人として生きることになって、「神は我々と共におられる」と言えるようになったのです。謙遜にならなければ、決して言えない言葉なのです。
12月3日(火)
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかに優っている。
マタイ10:29~31
私は田舎に住んでいますが、朝早くから雀たちがおしゃべりをしてるのかうるさいぐらいに騒がしいので、何を話しているのか聞いてみたくなります。この雀の価値はいくらでしょうか。たいしたことはないと思われるでしょう。では、人間と比べたらどうでしょう。人間と雀を比べるような人はいないでしょう。比べものにならないくらい人間の方が価値があるからです。イエス様は、誰も雀が死んでも気にも留めないだろうが、天の神様はそうではない、たった一羽の雀さえ、お許しなしには地に落ちないと断言されたのです。これは、あなたの価値がどんなに高く、あなたの一生を神様が支えているということを教えています。初めに創造して後は放っておかれるのではないのです。あなたが産まれてから今日に至るまで、あなたを支え、助けてこられたのは神様です。あなたは、それを認めることなく、自分の力で生きていると思っていたでしょう。そして、だんだん、社会の荒波に揉まれて、自己価値を下げていったのではないでしょうか。神様は変わらないので、あなたの価値は高いままです。このギャップが、あなたの信仰にも悪い影響を与えます。信仰は神様への信頼です。この世界でどんな酷いことが起こっても、恥ずかしいぐらい酷い失敗をしても、神様にとってはあなたは愛すべき人で、大事な大事な人なのです。あなた以上にあなたのことを神様は知っています。あなたの髪の毛の数を神様はすぐ言えます。だから、神様はあなたに関心があります。あなたを祝福したいのです。「神様、私は幸せです」というあなたの声が聞きたいのです。自分なんてダメだと思う日に、あなたはたくさんの雀よりもはるかに優っていると思い出してください。
12月4日(水)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
ルカ6:36
私たちは、聖書でイエスの教えを知ると驚くことになります。この世の人間の常識は、罪人の常識に過ぎなかったということに気がつくだからです。ですから、イエスが「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(6:27)と言われると、そんなことはできないとすぐに反応してしまうのです。それから、クリスチャンはこんな難しいことを本当に守れるのだろうかと首をかしげてしまいます。このような人間が神様のことなどわかるはずはありません。実は、天の父はこの通りに実行しているのです。少し言い換えるとわかります。「神の敵である罪人たちを愛し、神を憎む罪人に親切にし」と神は実際にやっているのです。それがわかったのは、イエスが天の父の意思を人間たちに実際にやってみせるからです。今日の御言葉は、クリスチャンになって、神を知るようになった人に信仰の極意を伝えています。それは、「あなたがたの父が憐れみ深いように」とは、あなたが経験した真実です。それを体験したので、罪人であったのに救われました。天の父が憐れみ深いことを知ったあなたはその父に倣う者となる必要があります。その時、律法を成就する者となっているのです。神の愛は神の憐れみでもあるということです。
12月5日(木)
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対して無頓着でいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、さらに神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。
ヘブライ2:1~4
一行目からクリスチャン全員に対する注意が出てきます。福音は複雑ではありません。そして、聖書も同様に神の啓示なので信仰があれば、聖霊の解き明かしが期待できます。つまり、誰でも信仰を持っている人は神様に聞くことができるということです。そして、神様は何かの方法であなたがたへ語りました。物覚えが悪いというのなら、聖書を読むことです。以前よりはよくわかるようになったはずです。神様と悪魔の善悪の大闘争はまだ終わっていません。クリスチャンだから大丈夫という考えでは危険です。「私たちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません」と言われ、さらに「そうでないと、押し流されてしまいます」と警告されています。青年の時から信仰を持ち、牧師となり、人生の後半まで来て、それまでに、押し流されてしまった人たちが何人いたことか。長老であろうと牧師であろうと関係ありません。余計なことに耳を傾けてはいけないのです。新約聖書を読むとわかりますが、初代教会に異端が入り込みました。すぐにです。しかも、それは霊的な真理を装っていました。パウロにも挑戦してくるような危険な思想でした。キリスト教のように装っていながら、他の宗教なのです。今は、インターネットを通じて、異端思想や間違った教えが溢れています。聖書に耳を傾けて聞いたことにいっそう注意を払わなねばなりません。特に気をつけなければならないのは、「しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物」はイエス・キリストを証ししているのです。福音宣伝のために与えられているものなのですが、こうした力を自分が超能力者になる、自分を高めるものとして求める人たちが少なからずいるということです。このようなことがあるので、現代には霊的な現れは起こらなくなってきたのです。どうして、霊的な力の現れをイエス・キリストを知ることに用いないのか不思議です。聖書に書かれたことに注意を払いつつ、神様に近づいてまいりましょう。
12月7日(土)
神の言われることはすべて清い。
身を寄せればそれは盾となる。
御言葉に付け加えようとするな。
責められて
偽る者と断罪されることのないように。
箴言30:5、6
聖書を読むようになって、「清い」ということを意識するようになりました。清いの反対は汚れているなので、自分のことが気になるのです。現代では、神の御声を聞く人は極端に少なくなりました。それでも、聖書があるので御言葉をいつでも知ることができます。そして、自分に聖書を通して神様がお語りになることを知るようになります。初めは、これは素晴らしい言葉だ、とか、何か諭されたり、真理を発見した、ということが起こってきます。そうなると、自分の考えや思いではなく、聖書の御言葉の真理が自分を守り、まるで盾のようになるのです。そのために、聖書を読む習慣をつけることが大切ですし、何かが心に分かったなら、その御言葉を生活に適用したり、その分かった真理を盾にしてこの世の様々な誘惑や誤謬から身を守ることができます。中には、聖書は難しいからと読まない人がいますが、聖書ほど不思議なものはなく、すべて神の言葉をして信じて大丈夫です。この世には、真理のように見えてその反対に危険なものが溢れています。ですから、聖書を第一にする必要があります。そうでないと、知らない人の書いたものや語ったものを安易に受け入れて、「御言葉に付け加えようとするな」と責められて、偽る者と断罪される危険があるというのです。聖書に警告されているので、私たちは気をつけなければなりません。神の御言葉が清いのは、その御言葉を受け入れ、御言葉を信じる者を清めることができるという意味です。
12月8日(日)
いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
「わたしの避けどころ、砦
わたしの神、依り頼む方」と。
神はあなたを救い出してくださる。
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。
神のまことは大盾、小盾。
夜、脅かすものをも
昼、飛んでくる矢をも、恐れることはない。
暗黒の中を行く、疫病も
真昼に襲う病魔も
あなたの傍らに一千の人
あなたの右に一万の人が倒れるときすら
あなたを襲うことはない。
あなたの目が、それを眺めるのみ。
神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。
あなたは主を避けどころとし、
いと高き神を宿るところとした。
あなたには災難も降りかかることがなく
天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて
あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
彼らはあなたをその手にのせて運び
足が石に当たらないように守る。
詩篇91:1~12
これがあなたの人生です。この御言葉の通りに信じましょう。
12月9日(月)
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐もって走り続けようではありませんか。
ヘブル12:1
結局、クリスチャンは競争を走り抜くしかないのです。この世で、人間的に生きていけばどんなに上手に生きていこうとしても、気がつけば重荷が圧迫しています。この世のしがらみです。不思議なことに、それを大事に手放さないでいるのです。人間の常識と非常識が信仰に悪い影響を及ぼしているのです。私たちにとって、お手本になるような立派な人は、聖書に出てくる聖徒たちです。彼らのことを学び、考え、見習い、その信仰姿勢に共感して、同じように信仰の勝利者になろうとするのです。世俗の中には、私たちの模範となるような人はいません。世俗の競争に足を踏み入れれば、気が付かぬ間に飲み込まれてしまいます。私たちは、いつも危ない状態にいることを忘れてはいけません。悪魔の誘惑に耳を貸せば、取り返しのつかないことをするか、あっという間に転落してしまいます。ですから、クリスチャンになった日から、私たちは信仰を持って走り出したのです。これは競争であると聖書は教えています。勝利の栄冠を受けることができるように走るのです。これは、実際にマラソンをするわけではありません。競技に集中しなければ勝てないと教えているのです。それは、この世に目を奪われて脱落してしまわないようにという警告です。どうすれば正しい信仰者になれるのか、信仰に成長しキリストの身丈へと成長でするにはどうすればいいのか、麻の衣を着るにはどうすればいいのか、新エルサレムに入るにはどうすればいいのか、こうしたことに集中して、信仰の道へと進むことを競争と言っているのです。ですから、この競技に勝つ秘訣を聖書に求めると、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けよう」とありました。互いに励まし合い、支え合って見事にゴールしたいものです。
12月10日(火)
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
ルカ11:13
クリスチャンが神の子と呼ばれているのは、ただの気休めではありません。神様のご計画にあることなのです。そこで、今日の聖句の意味が見えてきます。人間の中で悪い者でさえ、自分の子どもには良い物を与えることは理解できます。ましてや良い父なら、なおさら良い物を子どもに与えるでしょう。では、天の父と子に当てはめてみると、やはり、父は子に良い物を与えるのです。この前提で、クリスチャンが聖霊を求めると、聖霊が与えられることになります。それなのに、なざ、現在の教会でクリスチャンが聖霊を求めても与えられないと言うのでしょうか。とても、不思議です。聖書に、「どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と書かれていれば、なおさらです。ここだけ見ますと、聖霊を受ける条件は、「求める人たち」です。善行を積み重ねたわけでもなく、義人と認められたからでもなく、断食祈祷を続けたからでもないのです。聖霊をいただけるのは、ただ求めたからです。そうなると、どこかで現代人は疑いの心が働いているのでしょうか。聖霊を求めながら、心のどこかで求めても聖霊をいただけないと思っているのでしょうか。この聖句からだけ考えれば、あとは天の父と親子であると言うことでしょうか。「天のお父さん、聖霊をください」と心から願えばいいのでしょうか。早速、試してみる価値はあります。天の父から良い物をいただけると理解していることが大切です。自分には何かもらえるなどと考えてはいけない、そんな資格はないから、と自然に思っていないでしょうか。子供の心を取り戻して、お父さんから聖霊を願っていただきましょう。
12月11日(水)
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。
詩篇5:12
「正しい者」とは、どのような人のことでしょう。クリスチャンは正しい者でしょうか。私たちは、クリスチャンになってから、正しく生きようと強く心に思いました。今までとは違う、清い生き方をしなければと意気込んだでしょう。しかし、問題は、「正しい者」になろうとしたのに、果たして自分は正しい者になれたのだろうか、と不安になることです。さすがに、長くクリスチャンでいれば、聖書の知識もいろいろと身についてきます。そうなると、「肉」とパウロが指摘する私は死ななければならない、とストレートに言われます。しかし、イエスの十字架は、私たちの肉を一緒に釘付けにすることができると言うのです。これ以上ないありがたい話です。自分に罪を犯させ、汚れていく根源なのですから、イエス様に願って肉を十字架に取って欲しいのです。そうすれば、楽勝と思っていたのですが、ガラテヤ書には、自由にしたことが示され、呪いからも自由になり、今度はその自由をどうするか選びを間違わないように教えています。そこに肉が出てきます。そうです。未だ肉は生きて働いているのです。そのために、肉をまた選んでしまう愚かな選択をしてしまわないようにと警告されています。それは、聖霊に従うことで回避できるのです。以前はできなかった、聖霊に従うことがイエスの十字架のおかげで自由にされて選べるようになったのです。このように、聖書に書かれた通りに信じていけば、「正しい者」となれると言うことです。これは、信じる信仰によるのですから、イエス・キリストを信じていけば良いのです。あなたの受ける報いは、主が祝福してくださること、そして、主の愛であなたを囲みます。これこそ愛の盾です。これは、大盾で囲むように、あなたを守ります。このように、信仰を持っているあなたに主の約束は成就します。