6月1日(土)
主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。
詩篇25:12
「主を恐れる人は、だれか」と問われて、「はい!私です」と答えてしまった人もいるでしょう。このディボーションを読むぐらいの方は、信心深い人たちです。ですから、神様もそのことを知っています。人は外から見てもわからないのですが、信仰においては、「主を恐れる人」という一つの基準があるのです。この人は、主によって特別の約束があります。それは、「その人に選ぶべき道を教えられる」というものです。人生とは、実に選択の連続なのです。何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、何をするか、右の道か左の道か、と選択ばかりが迫ってくるのです。仕事の役職に就いたりすれば、責任が増しますが、それは難しい選択をしなければならなくなったことを意味しています。その選択が大きな責任を伴えば、重すぎて負いきれなくなってしまいます。ところが、主を恐れる人は、選ぶべき道を主が教えてくださると言うのです。これなら、失敗しなくてすみます。これ以上大きな助けはありません。ですから、人生が喜び多いものになるのです。ただ、せっかく教えていただいていても、それに従うかどうかは本人が決めることなのです。正しい道がわかっても、不思議なことに人間はその道を選ぶとはかぎっていないのです。主の教えられた道を選ばないと言うことは、ある意味恐ろしいことですが、間違った道を選ぶことも起こるのです。当然、結果は最悪なもので、後々、後悔がつきまといます。そうならないために、信仰の訓練があります。聖書を学ぶことです。聖書は教えてくれます。大切なことは、主への従順であると。主に従順であれば、教えられた道を選ぶことができます。当然、幸福な最高の人生を生きることができるのです。罪は不従順でしたから、そこから、救われた人は、従順なものとなれるようにリハビリのようなことをして、変わることになります。その時の助けが聖霊なのです。それは、面白いことに、聖霊に対して従順であることを学ぶことでもあるのです。聖霊は強制しないのです。とても優しく、控えめに接してきますから、強烈な肉をまだ捨て切らない人には、肉の方が強く働きます。それは罪に直結しますから危険です。そのために、試練や鍛錬が課せられてくることがあるのです。砕かれるという一番人間いは厳しい経験も避けられないでしょう。ですから、主への従順が私たちの課題なのです。
6月2日(日)
いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
「わたしの避けどころ、砦
わたしの神、依り頼む方」と。
詩篇91:1、2
詩篇の素晴らしさは、自分の信仰がいかなるものであるかを言語化してくれていることです。それは、グルメの食リポのようなもので、神と自分の関係がいかなるものか、信仰の力は確かにそこにあること、そして、いつも全能の神を頼り、助けられていること、こうしたことを詩人の言葉で言い表してくれているのです。それは、信仰の初心者への手引書であり、神を知る手がかりであり、自分が神とどのように関わっていけば良いのかを教える教科書になっているのです。しかも、詩の形式をとっているので、心情が伝わることから、直感的に共感でき、知らずに神を知り、信仰者のあり方を知ることになるのです。それは、自分が神へ信仰を言語化する祈りにも影響します。もし、あなたが素直であれば、「わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」と自分の声で語ったでしょう。聖書が命じているのだから、何か意味があるはずだと考えて、言葉にしたなら、だんだんと御言葉の意味がわかって行くはずです。それは、聖書の教える信仰を会得したということにも繋がります。自分の考えや感情までもが、聖書の御言葉に染まって行くなら、一体どのようになるのでしょう。クリスチャンとして、神の御目に正しく映るようになるのです。そうなりたいですね。
6月3日(月)
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。
Ⅰコリント13:8
現代の教会では、この預言の通りになっています。今や、教会で預言をしようものなら、狂信者扱いされるでしょう。異言を語れば、危険人物になり、教会の知識は廃れてしまいました。それでも、教会が成立しているのは、愛のおかげです。「愛は決して滅びない」と神様が約束してくださっているからこそ、教会では愛の大切さを語り、「互いに愛し合う」という掟が尊ばれ、愛ではないことをするはずの人間が愛を実践するから素晴らしいのです。クリスチャンは、いつでも希望を持ちます。それは、どのような世の中になろうとも、愛が残ると知っているからです。イエス・キリストが示された愛は、犠牲愛でした。ですから、愛してくれたら愛してあげる、というのではなく、たとえ愛してくれなくても無条件に愛するのです。そのためには、赦すことが先にあるのです。私たちが赦せるのは、イエスが主の祈りを教えてくれたからです。その祈りを毎日唱えているから、私たちが赦したから、主も赦してくださる、という信仰を持っている日です。素晴らしいことです。愛することができれば、人を救うことだってできます。慰め励まし、愛を知ってもらうのです。これは、最後まで続きます。
6月4日(火)
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
ガラテヤ2:16
この有名な聖句をクリスチャンは、いとも簡単に忘れるようです。それは、律法を実行しようとし始めるからです。それは、一人でよりも、教会で起こるようです。誰かが律法の全てではなく、何か目につくものを強調して、しかも実行するように圧をかけるのです。その圧とは、それを守ることが正しい、という圧です。未熟な信仰者では残念ながら簡単に起こります。輸血拒否などは分かりやすいと思います。聖書に血を食べてはいけないと書いてあるからだ、と言われると、不思議に思います。自分たちは、文字通りに血抜きした肉を食べていないのに、つまり、口で血を食べているのに、輸血拒否とは理解ができません。このようなものでなくても、断食や祈り、伝道、安息日、テレビを観てはいけない、小説を読んではいけない、服装は地味でなければならない、化粧はしてはいけない、食べ物に関してはタブーは多い。パウロは、こうしたことで影響をすぐに受ける人を弱い人と言っているが、彼らを気遣っていて、強い人がつまずかせないように配慮している。では、どうして、今日の聖句があるのに、正反対のことが教会で普通に行われてしまうのでしょう。それは、一つには人間の傾向なのだと思います。もう一つは、「キリストへの信仰によって義とされる」という意味がよく理解されていないことが原因です。「信仰」の信じる力が圧倒的に足りないのです。実は、キリスト教の誕生はペンテコステの体験でした。聖霊が降ってきて、それを受けて弟子たちは生まれ変わったのです。それは、使徒言行録を読めば明らかです。今日の世界は世俗化が進み、聖霊を認めなくなってしまいました。それが教会へも影響しているのです。ですから、聖霊のバプテスマを受けることが教会でできなくなってしまいました。聖霊が信じる人の内に入り、その人を覚醒するのです。聖霊の内住が明確で、その影響力を強く受けられます。そのために、聖書がよくわかるようになり、信仰そのものが変えられるのです。それが、「キリストへの信仰によって義としていただく」ことにつながるわけです。
6月5日(水)
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでに叶えられたと知るのです。
Ⅰヨハネ5:14、15
祈りの極意があるかと問われれば、あると言わなければなりません。それは、今日の聖句を読めば明らかです。必ず聞かれる祈りです。それだけに、これは慎重に熟慮して使う祈りなのです。利己的な思いで祈ろうとしてはいないか。神の御心にかなう祈りと言えるだろうか。このように、祈る前に吟味する必要があるのです。先輩牧師も、滅多なことではこの祈りを使ってはいけないと戒めていました。そこで、考える必要があるのは、では「神の御心にかなう願い」とは如何なるものか、ということです。クリスチャンの皆さんこそが知ることができるものだと思います。先の先輩牧師は、この祈りを使う時の例として次の話をしてくれました。全日本青年大会が北海道で開かれることになったのですが、その期間中雨が降ると天気予報が告げていました。北海道ということで、ほとんどのプログラムが野外で行われることになっていたので、雨なら台無しになります。そこで、この祈りをしたそうです。不思議なことに、この大会中は晴天が続き、全てが終わって参加者が帰りのバスに乗って出発した途端に雨が降ってきたのです。他にも、札幌の北教会があった時のことです。外壁塗装を冬の時期にすることになって、いよいよ塗装をする日の朝、天気予報は雪になると告げています。雪の中で塗装をすれば、良い塗装ができません。教会で業者にそのことを言うと、今日の予定を変えることはできないので、塗装をします、と言うことでした。そこで、仕方なく南の教会へ帰り、牧師室でこの祈りをしたのです。すると、しばらくして、業者から電話があり、今日はやはり塗装しないで、別の日にするということでした。祈りは聞かれるのです。クリスチャンは、祈りを研究をするべきです。祈りの秘密を探って、信仰の祈りを体得することを目指すのです。祈りの力は最強です。神の御心にかなう祈りを献げる人として主に覚えられたいですね。
6月6日(木)
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を 喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
詩篇19:7、8
主から直接おしえていただければ、私たちの信仰は整い、聖化が進みます。そのように考えるのなら、聖書こそが「主からの直接の教え」そのものなのです。誰でも、聖書を持っている人なら、自由に主の教えを学ぶことができます。考古学に興味のある人なら、古代の石碑などの書かれた古代の文字に、一体何が書かれているのか知りたくなるでしょう。それが読めたなら、ワクワクするのではないでしょうか。聖書は、人類が所有する古代文書の一つですが、多くの時代を経ても、また数多の写本が書き続けられても、奇跡的に正確に届いた神様の御教えなのです。それが言語を学ぶ苦労もなしに、日本語で簡単にいつでも読めるというのは奇跡です。しかし、皆さんはその特権をすでに味わっているのです。罪に沈み死んでいた魂を生き返らせる力があるので、聖書を読み続けます。そして、今日の聖句には、聖書を学ぶ者への励ましがあります。心の窓と例えられた目は、明るくするとあります。このような宗教体験は、信仰に欠かせません。これらが、今日もあなたの特権として備えられています。
6月7日(金)
あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰られる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」
イザヤ48:17
皆さんが信仰を持っているのは、主のお恵みです。主は、あなたを贖いました。信仰は、それをわからせてくれます。贖われた者の生き方は、この世の人たちとは異なっています。なぜなら神を第一にするからです。そして、御言葉によって教えられた生き方を選びます。そのようなあなたに、主は益となることを教えるというのです。この世には、いろいろ魅力に富んでいるように見えるものがたくさんありますが、それらが皆益となるとは限りません。ですから、この世の人たちは、苦労しているのです。しかし、あなたが目を開かれたので、何が真理で何が価値あることか、見分けるようになりました。聖書によって見分けているので、確信があります。そして、益となることの意味がわかってきます。ですから、益となる事を教えてくださるというだけで、どれほど祝福されているのかが理解されます。こうして、信仰が増し、クリスチャンとして生きることを誇りに思えるようになると、人生を迷わなくなれるのです。それは、「あなたの歩むべき道にあなたを導く」と約束されているからです。この世の人は、朽ちていくだけの宝にこだわり、空しく生きていますが、クリスチャンは意味ある人生へと導かれます。この世の人のような価値観からは解放されているので、偉くなるとか富んだ者になるというような基準ではなく、もっと永遠に耐えるような価値観を身につけて、主の導きに服従することができるようになるのです。どんなにつまらないと思える仕事でも、主のために働くならば、そこにも栄光が現れるのです。ですから、自分の人生を早く手に明け渡し、主のお導きに服することが肝心なのです。あなたは、祝福された方なので、今日の御言葉を信じて、よりよく生きていけます。
6月9日(日)
あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。
ユダ24、25
礼拝式次第を見ると、「頌栄」と書かれた箇所があります。その意味はと一般の方々に聞いてもわからないと言われるでしょう。これは、礼拝に中に置かれ、神の栄光を褒め称えるための讃美歌です。そして、今日のユダ書に書かれたものは、頌栄の形式をとって荘厳な礼拝文で書かれているものです。この聖句をあなたが信仰を持って読むことには意義があります。あなたは、一体自分がどのようになるのか確かな見通しがあるでしょうか。漫然と救われると言ってみても、何かでつまずくことはありますし、自分の弱さを思い知らされたり、試練に遭うだけで信仰がぐらつくかも知れません。何年も何十年も信仰を守ってきても、いまだに聖人になっていないと焦るかもしれません。こうしたことは、福音が十分に理解されていない証拠です。いまだに、自分の力で正しい者になろうとしているのではないでしょうか。ですから、何をすれば良いのかと考えることはあっても、信じるという信仰のことはあまり気にしていないのです。今日の聖句と自分の考えを比べてみてください。罪に陥らないように守ってくださるのは神様です。あなたに頑張れなどと言われていません。あなたが一番願っている「非のうちどころのない者として」くださるのも神様です。あなたではありません。勝利のゴールは天国へ入ることだと思っているでしょうが、それは栄光の神様の御前に立つことなのです。それも、神様だけが果たせることなのです。私たちの救い主はすごいお方です。とてつもなく大きな栄光の神様なのです。その愛と憐れみは、尽きることがありません。子供に美味しそうなリンゴを下さるように、私たちに恵みを味わってみなさいと言われるお方です。そうです、私たちの救い主は唯一の神なのです。教会の主である、イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が過去・現在・未来永遠にいつまでもありますように。アーメン。これが私たちの信仰です。
6月10日(月)
主に従う人の救いは主のもとから来る
災いがふりかかるとき
砦となってくださる方のもとから。
主は彼を助け、逃れさせてくださる。
主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。
詩篇37:39、40
この御言葉は真実です。私もこの御言葉通りに救われました。長い人生を生きていけば、誰でも災いが襲ってくることもあります。神の民は、そんな時に神に頼ることができます。そして、いつでも最悪と思ったところから見事に救われます。ですから、人に頼ったり、自分の力で切り抜けようとすれば、痛い目に遭うものです。それは、主を避けどころとしないからです。いざとなれば、どんなに大きな災いをも防ぐことのできる強力な砦となって神自らが救ってくださいます。あなたが、神を信じて従うなら、水戸黄門の印籠よりもはるかに力のあるものを見ることになります。聖書にも匿ってもらい、逃してくれるお話があります。あなたにもこのことは適用されるのです。いざとなれば、神が直接か、人を通してか、とにかく、あなたをかくまい、逃してくれるはずです。あなたは保険以上の保証を得て、これからも雄々しく生きていけます。
6月11日(火)
天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
マタイ13:44
パレスチナで古代の人たちは、宝をどうしたかと言えば、地面の中に隠したそうです。彼らの銀行は地下にあったということです。お金を安全に保管するには、地面の下に埋めることが一番だったのです。戦争になって、逃げる時も、地中にお金を埋めておき、やがて平和が訪れた時に、戻ってきて掘り返そうと考えていたのです。ですから、イエス様が譬え話をされた時、聴衆はすぐに理解できたのです。さて、ここで言わんとしていることは何でしょう。イエス様は「天の国は次のようにたとえられる」と、おっしゃいましたので、天国に入る方法を教えているととれば、この世の自分の所有物や財産を売り払う覚悟があるかどうか。実際にそうしなくても、この世のものを全て投げ出す覚悟があるかないかを問われているのです。価値の転換があって、今まで価値あるものと信じていたのに、キリストに出会い、聖書を学び、礼拝するようになると、自分のこれまでの価値観が価値の無いむなしいに思えてくるのです。それに比べ、信仰を持つことで何が価値あるものかを考えるようになります。その結果、明確に天の国を買えるような生き方に変わります。天の国を得るための代価を払うために、生き方も、考え方もすっかり変えてしまいます。私たちも、クリスチャンになって、神の国を手に入れようと、生活も生き方も何もかもを変えてしまいました。それを邪魔されないように、正しく知ろうと聖書をよく学ぶようになります。このように、「その畑を買う」のです。
6月13日(木)
弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
イザヤ35:3、4
自分に救いが必要だと思うことから救いが始まります。私たちは、弱って衰弱した人のように、罪に翻弄され、サタンに苦しめられたかもしれません。自分の力で何とかしようと思っても何ともならず、そのうちにどうすれば良いのか、何をすればいいのかすら分からなくなるのです。罪との戦いは、自力では負け戦になります。そして、罪の呪いのように、負い目が残り、何かに頼りたくなるでしょう。そこに偶像が拝まれる理由があります。それは、欲望が原因であることもしばしばあるのです。悪魔は誘惑してきますから、罪を簡単に犯すわけです。このような、仕組みが聖書に書かれています。その結果、罰を受けるかもしれません。重い試練に見舞われることもあるかもしれません。思い煩いから抜けることができずに、気を病み、病気になってしまうかもしれないのです。しかし、神は、いつまでもこのような人間の憐れさを放置しません。救い主が来てくださるからです。イザヤ書に預言されたように、メシアは救うために来られました。そのしるしは、イザヤ書の続きに書いてある通りのものでした。メシアは神でした。神が自ら救いに来られたのです。それは時を超えて、あなたの元へもやって来られたのです。ですから、あなたはイエスを信じて救われたのです。その救いは完全で、あなたはキリストへ全幅の信頼を寄せることができます。そして、信じることを覚え、信仰によって生きているのです。霊の戦いは、この信仰の戦いです。ですから、どんな時でも救い主イエスを信じて、その信仰で勝利を重ねるのです。「見よ」とあるのは、誰を信じるのか明確にして、信じることです。あなたを苦しめていた敵を打ち、悪に報いてくださる神、イエスが来てくださったのです。イエスは来て、あなたを救われるのです。
6月14日(金)
主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
箴言1:7
「愚者」という言葉が箴言では目につきます。もちろん、反対は「賢人」ですが、人はたいてい、愚者と賢人の間のどこかにいるわけです。聖書を読むような人は、賢く生きることを願っているはずです。決して、自分が愚者になることのないようにと願っているでしょう。そこで、今日の聖句は、賢人への道を歩みたければ、秘訣があり、それは「主を畏れることだ」と言うのです。興味深いのは、「主を畏れることは知恵の初め」と言っていることです。しかし、「知恵」を「知識」と訳しているものもありますから、「知恵」や「知識」のことと思って良いのです。「主」とは「ヤハウェ」のことです。つまり、あなたの創造主です。あなたが主を信仰しているということは、聖なる主への畏怖と畏敬があなたの心の中にあるということです。主があなたに教えるのは、知恵と知識です。正しい知恵と知識は、あなたがこの世で罪に堕落して行くことを防ぎ、あらゆる災いから守られ、主の御目にかなう者へと成長できるということです。下句は、別訳では「愚者だけが、知恵と知識を侮る」とあります。つまり、知恵と知識を軽視して、深く考えずに、また祈り求めずに自分の考えで進めば、行き詰まったり、困難に自ら突っ込んで行ったり、不確かなストレスの多く日々を過ごし、最後には破滅に向かうことになるのです。箴言にはその実例が示されています。そこで、深く考えることなく生きてきた人は、この機会に今日の聖句の意味を考えてみましょう。
6月15日(土)
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソ2:10
新約聖書に書かれていることを読んでみると、人間はキリスト・イエスにおいて造られたのです。それは、神が事前に準備してくださった善い業のために創造されたというのです。しかも、神の救済は、「恵みにより」「信仰を通じて」「行いによらず」義とされるのです。つまり、救いは神の賜物であることに尽きるのです。ですから、救われた者には、初めに備えた善い業を行って生きて行くという定めがあるのです。では、「善い業」とは何でしょう? 神は完全なので、私たちはどんなに頑張っても完全になれないので、神を満足させるような行いによって義となろうと努力しても、完全でないというところで不可能なことをしていたのです。しかし、神の救いは完全なので、救われた人は神の愛を知ることになります。ところが、罪人であったということは、罪を犯したのですが、それは神の律法に対してということ以上に、神のお心を傷つけたということの問題なのです。ですから、律法には罪の贖い方法として犠牲制度が決められていたので、律法に対してはその罪をイエス・キリストが十字架で贖ったのです。では、神のお心を傷つけたことへの償いはどうすればいいのでしょう。それは、「善い業を行って歩む」と書かれたことによるのです。つまり、救いが神の賜物であったので、私たちはそれを受け取ったのですが、それは、神の愛を知ることでもあったのです。そして、この神が愛してくださったことへ、私たちが応えて愛し返すことが善い業を行うという意味なのです。あなたが生きて行くことが全て愛になることで、神のお心を癒すことになるのです。
6月16日(日)
子らよ、わたしに聞き従え。
主を畏れることを教えよう。
喜びを持って生き
長生きして幸いを見ようと望む者は
舌を悪から
唇を偽りの言葉から遠ざけ
悪を避け、善を行い
平和を尋ね求め、追い求めよ。
詩篇34:12~15
信仰の道に入ると、「主を畏れよ」という言葉を聞くようになります。何となくわかるのですが、それ以上ではありません。しかし、信仰を重ねると、さらに深く真理を知りたいと願うようになり、信仰者の自分を省みることになります。そこで、「主を畏れる」こともうわべだけで、意味を深くは理解していなかったと気づくのです。では、その意味は? 聖書を読む人は、こうした答えを聖書から教えてもらうのです。今日の箇所もそうです。「主を畏れることを教えよう」とはっきり書いてあります。そして、その先に答えがあるはずなので、聖書を読みます。すると、語る時には、何を語るかを気をつけなければならないと。つまり、悪を語ってはいけないし、偽りを語ってもいけない、と教えています。もちろん、私たちはクリスチャンなので、悪い言葉にも注意を払っています。後で恥ずかしくなるような言葉は決して語らないように気をつけているのです。腹立ち紛れに、暴言を吐くこともしません。それができないなら、神を畏れていないことになるからです。感情に任せて口をひらけば、ろくなことにはならないのです。人を傷つけるに刃物はいりません。悪意のこもった言葉は人を殺すこともできるのです。人を傷つけても、自分には痛みはないので、その人の苦しみを理解できません。そして、人は自分を傷つけた人を決して忘れないのです。困ったことに、言葉で傷つけた人は相手の気持ちがわからないので、たいして悪いとも思っていないのです。なぜか、自分がしたことは赦されていると思っているようで、忘れてしまいます。しかし、神様は忘れません。そして、傷つけられた人も忘れません。ですから、恐ろしいのです。人の心に苦痛を伴う重しを乗せていながら、それを忘れて平気でいるからです。しかし、せっかく聖書を読んでいるのですから、反省するチャンスを得ることができます。生き方を変えることもできます。怒りやすい人は、怒りをコントロールする方法を学びます。それは「悪を避け」ということにつながります。「善を行い」は、自分がして欲しいことを隣人に行なうことです。あるいは、自分がして欲しくないことを隣人に行わないということです。「平和を尋ね求め、追い求めよ」とは、神様を怒らせないということです。それは、自分が言葉で失敗して人を傷つけると、神様は傷ついた人のために怒らなければならなくなります。あなたを誰かが傷つければ、神様は怒ります。それと同じです。ですから、どんなに難しくても聖霊に助けていただいて、やり遂げなければなりません。また、神様と愛の関係に入ることです。これは、神様が望む正常な状態のことです。唇は、神様を賛美するためのものなのです。その同じ唇でひどい言葉を語るのは赦されていることではないのです。感情がいつでも変わらず、穏やかであるなら、平和です。その平和を生み出すのは、神様と正しい関係に入ることです。信仰生活はその目標のためにあります。こうして考えてみると、「神を畏れる」ということの意味がわかってきます。ですから、普段から気をつけるようにしましょう。神様にできないことはないので、神様に祈りましょう。
6月17日(月)
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
Ⅰテモテ2:1~3
ここには、クリスチャンにとって大切な教えがあります。それは、祈りについてです。ここでは、祈りを四つに分けています。願い、祈り、執り成し、感謝の四つです。初めの「願い」はデエーシスの訳です。「要求」という意味もあります。この祈りは、何かの欠乏がある時に生じます。二番目に「祈り」はプロスエウケーの訳です。デエーシスは神にも人間にも使えますが、プロスエウケーは神に語りかける時に使います。ですから、人間ではなくて、神にしか満たすことのできない欠乏がある時に使われる言葉です。それは、赦しであっても、癒しであっても、力であることもあります。神にしかできないことを求めるのです。三番目の「執り成し」はエントエウクシスであり、「哀願」と訳されることもあります。クリスチャンの祈りの中で、この執り成しは王である神のもとに進み出て、特別の赦しを求めることです。罪の赦しも祈り求めるでしょう。第四番目には「感謝」でエウカリステイアです。祈りの特徴を表しています。この四種類の祈りがあることを覚えて、実際に使うことです。そして、日本の首相や大臣、政治家、高官、実業界のトップなど、祈りを必要としている人たちのためにも祈りましょう。この祈りが必要なのは、「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」とあるからです。日本の権力者、指導者、政治家がすべてクリスチャンであったらどうでしょう。良いアイディアであることがわかるでしょう。祈りができないという人は、四種類の祈りと権威ある人たちのための執り成しが大切だと覚えれば、祈りが楽しくなります。
6月18日(火)
主は人の一歩一歩を定め
御旨にかなう道を備えてくださる。
詩篇37:23
どんな時でも信仰によって生きる、これはクリスチャンの成功法則です。例えば、今日の聖句を読んでみると、神様が私たちの人生をちゃんと考えていてくださり、主を信じてゆだねる人は、まさに人生の一歩一歩が主によって定められるのです。それは、間違いのない人生を意味し、失敗したり、困難に陥るようなことがない確かな人生を送れるということです。もちろん、自分の好きなように生きることもできます。例えば、受験勉強を怠り、好きに遊んで過ごせば、当然の報いで受験に失敗するでしょう。しかし、神様は勉強のチャンスを作ってくださり、必要ならば予備校のパンフレットを校門前で手渡してくれるかもしれません。また、もっと分かりやすく、神様に従うか従わないのか、という状況を作って、試みられるかもしれません。私も、若い時には何度もそのようなことを試されました。それは、主を信頼していれば、自分にとって幸いな道を歩み続けられるということを教えたかったからです。神様は決して意地悪ではありません。私たちの自由意志も尊ばれますが、それ以上に主を信じて欲しいと願っておられるし、そもそも神様はあなたのために御旨にかなう道を備えてくださるのです。それは、あなたにとって幸せで、優しい道なのです。あなたに相応しい人生があります。どのように生きてもかまわないというわけではありません。選択を誤れば、とんでもなく不幸な人生を送ることになります。愚かにも、そのことを理解せずに、無駄な時間を過ごしたとしても、どこからでも人生はやり直せます。それは、人間の常識ではなく、神様の恵みなのです。良い人生は、主がすでにあなたのために備えてくださっています。ですから、主に従順に従って、良い人生が備えられていると信じてください。一歩一歩、ちゃんと良い道が定められていますから、安心して、その道を歩もうと決心してください。決して難しくありません。
6月19日(水)
では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによて達っせられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
ローマ9:30~30~32
クリスチャンの方々と話してみると、基礎教理とか聖書の基礎知識が欠落していることがあります。これらは、信仰生活で非常に重要なことだと思います。信仰の基礎がしっかりしていなければ、試練が来れば、たちまちガタガタと信仰が崩れ落ちてしまうかもしれません。また、クリスチャンとしての恵みを受け損なうかもしれません。古い人間的な考えや価値観に縛られて、クリスチャンの生き方から離れて行くかもしれません。どうしてそうなるのかと不思議に思いますが、今日の聖句を読むと少し納得が行きます。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました」とあるように、異邦人である私たちが、救いを得るには、信仰によらなかったら律法を知らないので、ユダヤ人と同じ失敗を繰り返したでしょう。しかし、主を信じ、聖書を学び、神の愛に応えて生きることが示されて、主の招きに応えたのです。私たちにとって、救い主イエスは、つまずきとはならなかったのです。ただ、一途にイエスを信じることが義となったのです。クリスチャンは、自分の信仰を説明できるように、聖書を学び、何を信じているのか言葉で言えるようにすると信仰が深まります。そのことが、主の恵みを理解して、平安の中にいることができるのです。
6月20日(木)
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
Ⅰコリント4:16
クリスチャンになる以前と以後では驚くほど何もかも違っています。ただ、そのことがもっぱら霊的であるので、気が付かない人も多くいるのです。「外なる人」は、生まれたままの人、古い人、など言い方は複数ありますが、意味はほとんど同じです。これは、キリストの十字架上に釘付けにしたいものなのです。一方、生まれながらの私がキリストと出会って、救われたなら、新しい「内なる人」が誕生します。この内なる人は日々新たにされて行くのです。しかし、それと反対に、「外なる人」は衰えて行くのです。確かに、70年も生きれば、歳をとり、肉体的に衰えて行くわけです。それで落胆する人はこの世では多いのですが、クリスチャンは、聖霊が宿り、「内なる人」がいるのですから、落胆する必要はありません。ただ、私たちが求めているのは、キリストのご品性です。それは、聖霊の実であるのです。内なる人とも当然関係があります。クリスチャンの内面は、日々新たにされる「内なる人」が特徴です。信仰を持って変化にも対応していきましょう。
6月21日(金)
自分の口で自分をほめず、他人にはほめてもらえ。
自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。
箴言27:2
日本人はだんだん質が落ちてきたのだろうか。器が小さくなってしまったのか、時々日本人の誇りはどこに行ったのかと、考えさせられる事がある。確かに、いつの時代にも、何を考えて生きているのかと、人の言動に呆れる事があるだろうが、「自分の口で自分をほめず」との箴言は本来の日本人の常識であったように思う。「他人には褒めてもらえ」というのも、他人に褒められるような立派な人になれと教育されたように思う。自画自賛という言葉があるのだから、自分の唇で自分をほめる人はいるのだろう。そんな人が自分の上司になったり、高い地位につくならば不幸だ。その人は、外国人にほめてもらえるような人になるべきだ。利害関係もなく、人物本位で、しかも辛口の採点で評価してもらうのが良い。それでも、ほめられるなら、これは本物で尊敬に値する。ただ、クリスチャンは、ほめられると危険を感じ、居心地が悪くなる。自分が高慢にならないかと不安になるのだ。神様はいつでも見ておられるのだから、自分の心の中に少しでも自分をほこる気持ちやたかぶりが生じてないか。主へのへりくだった思いが、どこかに消えてしまうのではないかと気遣う。良いことをした時には、神様への奉仕だと考えよう。そして、特に、唇には気を付けることだ。
6月22日(土)
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。
民数記6:24~26
これは、礼拝などで使われる祝祷の一つです。もとは、主がモーセに指示してアロンたち祭司がイスラエルの人たちを祝福するようにと教えられた御言葉です。それは、神の民を祝福してくださる神様の祝祷ですから、今日ではキリスト教会で用いられているのです。この御言葉を読むと気になるのが、「御顔」を向けるという記述です。罪人にはそれは恐ろしいことで、死や滅びを意味します。しかし、主イエスによって贖われた人たちにとっては、大きな喜びです。アダムたちが罪を犯した後に、主が来られると身を隠したように、罪人は神様を避けるのですが、罪の赦しを受けると主の御顔を向けられることが祝福と変わります。自分の罪を裁かれると思っていた時には、主の御顔は見ることができない恐怖だったのです。それが、十字架の力で罪を贖われたイエス・キリストによって、本当に罪が赦されたので、恵みは天から来ると知ることができたのです。それは、天の神様をお父さんと呼べるようにしてくださったとあるように、霊的身分まで変えてくださった、完全なる救いを受けたということです。神様との関係が良いものに変えられたことは、感謝しても感謝しきれない。今や、神様が御顔を向けられても恐ろしくないどころか、平安を得るようにまで変わったのです。ですから、この世でも、あなたは何も恐れずに祝福された者として生きていけるのです。
6月23日(日)
雄々しくあれ、心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。
詩篇31:24
人生には、いろいろなことがあって、ある日唐突に落胆するような事が起こるものです。クリスチャンが落ち込むというのは、信仰が弱いからだと責める人もいるかもしれません。しかし、クリスチャンだって人間だと言い返したくなります。「弱くてどこが悪い」と言い返せるぐらいだと、そもそも落ち込むことはないでしょう。脳の専門家なら、ホルモンが正常に出ていないせいだとか、科学的に説明してくれるでしょうが、何の役にも立ちません。「ああ、理屈がわかったので元気になれました」と言えるようには決してならないからです。それよりも、私たちは主に祈るでしょう。あんまりにもひどく落ち込めば、祈ることも難しくなりますから、一刻も早く祈れるうちに祈ることが大切です。牧師インターンの時に、教会幼稚園の園児のお母さんがうつになっているので訪問して欲しいと言われて、すぐに訪ねてみると、そのお母さんは可哀想なことに薬で朦朧としていました。ですから、話すこともできずに直接祈ることも困難な状態になっていました。もっと、早く気づいてあげられていればと思いましたが、少し遅かったのです。ですから、クリスチャンでも、ひどい事があれば、落ち込むし、そうなったら一刻も早くに牧師やクリスチャンのお友達に祈って欲しいと連絡する事です。そして、自分でも祈ります。さらに、今日の聖句を唱えてみましょう。主は、必ずあなたの元へ来てくださいます。もちろん、助けるためにです。この世で、脅かされるような事があった時にも、同じです。この聖句を読んで、声に出して読んで、心に力が戻るまで読み続けます。そして、イエス様を呼んでください。あなたを助ける方は、間違いなくすぐに来てくださいます。主が必ず助けに来てくださると知っているのなら、雄々しくありましょう。心を強くしましょう。それが聖書流の落ち込みから立ち直る方法です。
6月24日(月)
主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。
詩篇34:19~21
心が打ち砕かれるような経験はざらにあるわけではありません。それでも、主が罪人を救う場合には、このようなことが起こることがあります。罪人が罪を自覚することは普通ではできませんが、主が働かれ、その人に罪を示すことがあります。それは、今まで見えなかった自分の真の姿が、つまり罪に汚れている姿をいきなり見せられると、それは、まさに心が打ち砕かれるような経験です。その時に、罪を悔い、キリストの十字架以外には罪から救うことができないと悟るのです。これは理屈ではありません。主がその人の心の近くに居られるからこそこのような事が起こるのです。「悔いる霊」と書かれているのは、罪人は嘘つきなので、いっときの感情で悔いても、次には自分を正当化したり、責任転嫁して逃げようとするので、その人の本質、もっとも深いその人の霊が悔い改めるようにと導かれます。このような改心の経験をしても、その人が即聖人になるわけではありません。信仰が本物で、主に従順になっても、そこから、神の鍛錬が始まります。主が試練に遭わせたとしても不思議ではありません。肉の人としては死に、霊の人としては生きるように。キリストに倣う人として生きられるように、試練はやってきます。それは思いがけいないことではないのです。その人が脅威となれば、悪魔も誘惑したり、攻撃してくるでしょう。ですから、主に従う人には災いが重なることがあります。ただ、心配することはありません。信仰は鍛えられますが、災いのすべてから救われるという神の約束があります。何十年も信仰を持って生きてきましたが、「骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」と書かれていることは本当でした。大変なことに直面していても不思議と助けられてきました。ですから、主を信じて生きていけば、良い経験ができますし、この詩篇記者と同じことが言えるようになるでしょう。
6月25日(火)
イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
Ⅰヨハネ5:1、2
クリスチャンが自分を理解することはとても大切なことなのです。そして、それは聖書に書かれたことと一致するものでなければなりません。今日の聖句をご覧になれば、自分が神から生まれた者であるかどうかがはっきりします。さらに、自分を生んでくださった方を愛する人は、同じ神から生まれた者をも愛します。これが特徴なのです。あなたがクリスチャンと呼ばれる時、それは新しく信仰によって神から生まれた者であることを意味しています。しかし、クリスチャンとして生きていくと、不安もよぎります。それは、自分のように神から生まれた他の者をも愛しているかどうかということが問題なのです。聖霊のバプテスマを受けたという人でも、ここでつまずき、愛せない人がいるということが起こる場合があります。しかし、今日の聖句をよく読めば、「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。」とあるのですから、単純にこの通りであるかないかの問題です。そう考えると、クリスチャンはいつでも隣人を自分のように愛している人のことなのです。それは、自分と同じように神から生まれた子供を愛しているという意味です。
6月26日(水)
なぜ、逆らう者は神を侮り
罰などはない、と心に思うのでしょう。
あなたは必ず御覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
詩篇10:13、14
この世で生きることが大変なのは皆同じです。しかし、人は罪と呪いと自分の弱さのために、何かしら重荷を負うのです。もちろん、人によって貧富の差や身分の差があるように、程度はかなり異なっています。そして、信仰者は、多くを学ばなければなりません。神はいないと言う者が神を侮って、とんでもないことをしでかしたり、神がいないのだから天罰はないから、捕まらなければ何をしても良いと考える人がいるのです。犯罪者がテレビのニュースに映るたびに、なぜ、神を侮るのかと、なぜ、神を恐れないのか、と気になります。それでも、信仰を失わせるようなこの世の中で、主は御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。自分で頑張っても、どんなに努力をしても上手く行かない人もいますが、その人が神にすべてを任せることができれば、道は開かれます。人生を説明することは難しいですが、信仰者は、どのような世の中になろうと、主への信頼は揺るぎません。困れば、祈りが増し、神に感謝できることを探します。賛美の中で平安が訪れることを知っているからです。聖書にある終末の預言では、この世界が悪くなることばかり書いてありますが、それでも聖徒たちは守られるし、喜びもあります。ですから、希望を持って生きることができます。人がなんと言おうとも、主を信じる人は幸いです。
6月27日(木)
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
ガラテヤ3:26、27
ガラテヤ書を読むと、罪人が信仰で救われることがよくわかります。そうであれば、その信仰のことが知りたくなります。「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」(同3:22)と書いてあるので、律法を守って救われるようなことを言えないのです。ここでの「聖書」は律法の意味です。そして、人の救いはイエス・キリストへの信仰によって、神の約束が与えられることだったのです。そこで、イエス・キリストへの信仰こそ、私たちが求め極めるものなのです。そして、「神の約束」が気になりますが、それは、「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」とあるので、わかります。さらに、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と書いてありますから、救いが善い行いによる義ではあり得なくなり、「キリストを着」るような外からの義を着せかけるような救いなのです。ですから、自分で立派な善行を積むような人になることで義となるわけではなかったのです。義そのものを着せてもらえるという事です。それだけに、信仰が最重要になるのです。そこで、信仰とは何か、考えることには益があるのです。そして、イエス・キリストへの信仰をいつも忘れない事です。キリストを着ていると信じてください。
6月28日(金)
そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。
箴言17:9
人に酷い目に遭うと、私たちは赦せない気持ちに支配されてしまいます。しかし、クリスチャンはここが少し違っています。その人を赦そうと心の中で葛藤するからです。初めは、怒ったり、復讐心で自分を見失い、すでに心のうちで罪を犯しているのです。それが、キリストは7の70倍赦せとまで命じ、結局、何度でも赦すことの大切さを教えました。そのために、「赦しないさい」という小さな声が心に聞こえてくるのです。そこで、赦さなければならない、いや、赦せない、と葛藤が起こるわけです。しかし、相手のした酷いことのために、傷つき、心がダメージを負って悲鳴をあげているのです。それを恨んでも楽にはなりません。復習してやると息巻いても、苦しさから少しも楽にならないのです。ところが、無理やりにも赦そうと努めると不思議なことに楽になります。キリストの言われた通りだと、納得できます。そこで、もっと積極的に赦すことに努力を傾けます。そうやって、結局、ダメージを受けずに済むようになります。悪魔は、面白くないのか、再び、その嫌なことを思い出させて、恨め、復習しろ、とそそのかしてきますが、その度に、イエス様に赦しますと言い続け、勝利するまで続けます。このようなことから、だんだんクリスチャンは、これは愛の業であって、自分は愛を追い求めているのだと悟るようになります。また、「あの時にあなたは酷いことを言ったよね」とか、「あなたのしたことは決して忘れない」とか、繰り返し、繰り返し、言う人がいます。相手が謝っていても、しばらくすると、また責めるのです。これは、相手を赦していないから、起こる現象です。愛の逆です。相手を赦すことがいかに大切か、クリスチャンは、何よりもこのことを学び、マスターしなければなりません。そうでないと、どんないい友達でも去って行きます。あなたが赦さなかったから、とでもなく大切な人を失ったのです。そうならないために、愛を追い求める人、何度も赦せる人になりましょう。
6月29日(土)
だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執りなしてくださるのです。
ローマ8:33、34
私たちが勘違いしていたのは、私たちが自分を義とするのではなく、神が私たちを義としてくださるのです。そのことは、このように聖書にはっきり書かれているのです。そして、あなたはご自分が神に選ばれていることを明確に認めるべきです。人間の理屈ではなく、神の恩寵で今クリスチャンでいられるのです。あなたが自分を見れば、失望するかもしれませんが、神がアブラハムを義と認めたのは神に対して「忠実なその心を認め」(ネヘミヤ9:7)とあるように、あなたにも神は心からの忠実を求めているのです。それが義と認められるのです。それは、とても深い心なので信仰と呼ばれています。あなたには、その信仰があります。だから、神はあなたを義と認めています。ですから、だれもあなたを罪に定めることができません。それでも、未だ弱い自分を嘆いているなら、そのあなたのために、「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執りなしてくださるのです」。ありがたいですね。あなたは、その愛を知るべきです。イエスがあなたを愛しているということが、あなたを聖なる者に変えるからです。イエスの愛が具体的であるように、あなたのイエスへの愛も具体的であるはずです。少し、瞑想してみましょう。
6月30日(日)
わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
Ⅰテモテ1:5
クリスチャンが一番大切にしていることは、愛する生き方です。この世の人でも愛することを知っていますが、条件付きの愛であることが多いのです。そもそもその愛はどこから生じたのか、と問われると肉欲からかもしれないし、損得勘定や打算かもしれません。あるいは、自分を愛する思いの延長線でしかないこともあります。ところが、今日の聖句を読むと、クリスチャンの愛がどこから生じるかがわかります。決して世俗の人と同じではありません。まず、この世の人がもはや大切に思わなくなった、「清い心と正しい良心」が愛の源泉であると言い切ります。この世は黙示録に預言されたバビロンに飲み込まれて、「清い心と正しい良心」とかけ離れた価値観に蝕まれています。この二つの目標すら手の届かないぐらい高いものとなっているのに、聖書はさらに要求します。それは「純真な信仰」です。教会も世俗化が危惧され、警告されていたのに、無防備にもあっという間に飲み込まれてしまいました。さて、このような終末の様相が色こく現れてきた現在、私たちは、「清い心と正しい両親と純真な信仰」を身につけなければなりません。信仰が大切だとは知っていても、それが「純真な信仰」であることを正しく認識していたでしょうか。この三つから生じる愛を目指すというのですから、自分がどこから自分を見直すかわかると思います。どれも、修行するような困難な目標ではありません。それどころか、今日から意識して、心がけるだけで、達成できそうな目標なのです。しかし、それだけに、他のことに目が向くと、たちまち達成できない困難な目標になります。最後には、この愛が試されます。そして、この愛が天国の入場券となります。単純なことなので、今から始めましょう。