2024年7月ディボーション

7月1日(月)

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

ヨハネ36:26

 

わたしたちの希望はイエス・キリストにあります。この地上で、日々の生活はそれほど楽ではないでしょう。時には、自分が見捨てられたと思いたくなるような経験もするかもしれません。主の御名を呼んでも、応えてもらえない日があれば、なおさら、孤立して孤児のような気持ちになるかもしれません。キリストが天に帰る時、弟子たちを地上に残してこなければなりませんでした。彼らには大変なことが待ち受けています。キリストを信じているゆえに迫害され、苦労するのがわかっていたのです。それでも、そうするしかなかったのです。弟子たちは、孤軍奮闘よくやりました。彼らの力は、天から降ってきた聖霊でした。つまり、約束の聖霊を本当に送ってくださったのです。そして、聖霊はキリストと同じもう一人の救い主でした。ですから、キリストを信じている人には、聖霊がいつでも一緒にいて、決して一人にはしないのです。ですから、不思議な助けがあり、自分が諦めなければ、道はいつでも開けて、困難を乗り越えることができます。聖霊はあなたに誠実で、信頼できる愛のお方です。ですから、あなたの助けはすでにあなたのもとに来ているのです。

 

7月2日(火)

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

Ⅰペトロ1:5

 

私たちは、自分の非力を感じている者です。それでも、この世で起こるどんなことにも耐えられると知っています。それは、主イエスへの信仰によります。事実、これまでも人から見れば、大変と思われるようなことも無事に乗り越えてきてきます。もう少し言えば、大変なはずのことが大変と思わずにやってきたのです。それは、全て主イエスのおかげなのです。私たちは、「神の御力によって守られて」います。その中で信仰生活を送り、いつも主に助けを求めてきたのですが、実際に助けられて今があるのです。ですから、主への感謝が心にあります。この先も、信仰によって、私たちは生きていきます。そして、聖書に記された終わりの日を向けるでしょう。それは、生きてか、眠りについてかはわかりませんが、はっきりしていることは、救われるということです。終わりの時に、その救いの意味を知ることになります。神様が用意しておかれた救いです。それが現れるのです。あなたは今も主を信じています。その信仰が最後の救いをいただける理由なのです。主イエスは、必ずもう一度現れます。救いを実現するためにです。ですから、地上の試練もきっと主に助けていただきながら、無事に乗り切っていけます。主を信じることの喜びは、最後の救いが現れた時に爆発するでしょう。これ以上の喜びはないという歓喜が待っているのです。そのことを楽しみに、信仰生活を明るく過ごして行きましょう。 

 

7月3日(水)

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

Ⅰコリント13:12、13

 

昔の鏡は、今と違ってぼんやりしか映りませんでした。まさに「おぼろに映ったもの」にしか見えなかったのです。クリスチャンも、神様を信じ、イエス様を信じていると言いますが、直に見たことはありません。しかし、いつでも主のことを考え、祈り、信じて生きています。そのために、聖書を通して神様を知り、イエス様を想像して見ているのです。しかし、それは、実物を自分の目で見たこととは違います。それこそ、見ないでも信じているのです。しかし、預言者は顔と顔とを合わせて見ることになる、と言っています。つまり、再臨の主と会えるということです。ですから、クリスチャンには、信仰と、希望と、愛、この三つがいつまでも残るのです。再臨の時に、キリストと共に新エルサレムへ入るのです。それは、この地上生涯がどのようなものとなろうと、信仰と希望と愛があれば、乗り切ることができるという意味です。信仰だけでは厳しいのですが、希望があれば試練でも乗り切れます。さらに、キリストのように生きたいのなら愛が必要です。信仰が弱った時も、希望が消えかけた時も、愛があれば持ち堪えることができます。愛は奇跡を生むからです。ですから、この三つが揃っていれば、天国の入場券を手に入れたようなものです。このことを覚えて、クリスチャンとして堂々と生きて行きましょう。

 

7月4日(木)

しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

Ⅰテサロニケ5:4~6

 

「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」。その通り、わたしたちは突然やって来ると知っています。しかも、その日は教えられていません。人々が油断している時に、突然やって来るのです。その油断している状態を寝ていると表現しています。そして、クリスチャンは光の子なので、暗闇ではなく、光に属する者なので、寝ることがないと言っています。目を覚ましているようにと昔から、言われてきました。再臨はクリスチャンにとっての最大の希望なのです。人間的には、一体いつ来るのか少しでも知りたいと思うでしょう。確かに、時のしるしをイエスは教えました。また、ダニエル書や黙示録なども世の終わりのタイムスケジュールを大まかに記しています。しかし、その日時はわからないのです。そこで、眠った信仰ではなく、目を覚ました信仰を意識する必要があります。さらに、「身を慎んでいましょう」と聖書に書かれているので、油断なく再臨を待望していることが望ましいのです。

 

7月5日(金)

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

ガラテヤ6:7、8

 

私たちは、自分の「蒔いた種を刈り取る」と聖書と同じような言葉を使います。大抵は、何か失敗してしまったような時に、自業自得と同じような意味で使います。自分がそもそも原因を作ってしまったので、その悪い結果の責任を取らなければならないといった時に使います。クリスチャンは、神が生きておられることを知っています。しかし、人が神を信じているのなら神はその人と共にいます。ですから、神を信じているのにこんな悪い結果になった、という考えはおかしいのです。「人は自分の肉に蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」と書いてある通りなのです。それを神のせいにしてはいけません。よく考えてみましょう。「自分の肉に蒔くのか、霊に蒔くのか」どちらが正しいでしょう。聖書は、「肉から滅びを刈り取り」、「霊から永遠の命を刈り取ります」と書いてあります。つまり、私たちの生き方は、「肉に蒔く」か「霊に蒔く」かのどちらかになるから、気をつけるように促しているのです。そのようなことを考えずに生きていれば、「肉に蒔く」結果になりやすいのです。最後に裁きがありますが、それは自分が肉に蒔いたのか霊に蒔いたのか、そのことが反映されるのです。クリスチャンになっても、そのことの意味を理解していない人がいます。肉の自分を十字架にかけなさいと言われているのは、滅びを刈り取らないためなのです。

 

 7月6日(土)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

人の救いをこれほど明確に教えている箇所はないでしょう。教会でも「信仰による義」という言葉を使って人の救いを教えます。ですから、信仰が大切であると思っているでしょう。ところが、今日の聖句を読むと誰もが驚くことになります。それは、立派な信仰がなければ救われないと勘違いしている人にも目からウロコが落ちるような驚きがあります。「何の働きもない」というのは、律法を正しく守れないというほどの意味です。そして、驚くのは次です「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら」とあるからです。律法学者やファリサイ派の人がいかに見当違いであったかがわかります。また、クリスチャンでも真面目に律法を守ろうと努力する人たちにとっても目が開かれる言葉なのです。クリスチャンになっても、自分が義人になったとは到底思えずに、不安を覚える人は少なくないはずです。ところが、ここでは、「不敬虔な者を義と認めてくださる」と言われていますから、自分はダメだと思っているクリスチャンは、ハッと胸が突かれます。こんなダメな自分を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるというのです。クリスチャンは、救われたので、これからは正しい人として生きようとしています。しかし、義人と呼ぶには、いかにも未熟なのです。人間的にも小さくて、およそ敬虔な人とは言えないのです。それでも、そんな自分を主が義と認めてくだると信じられるか、と問われているのです。それで、「信じます」と信じるなら、その信仰が義とみなされるというわけです。なんとありがたいことでしょうか。疑わずに、信じて、この恵みによる救いを感謝しましょう。

 

7月7日(日)

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

詩篇103:3~5

 

人間を苦しませ、悩ませ、悲しませるものは、咎と病と死です。私たちは色々なことを我慢したり、耐えてきました。忍耐が大切だと知るまでに、すでに忍耐してきたのです。しかし、罪や咎は私たちの大切な深いところをむしばみ腐らせます。病は生活を簡単に破綻させます。その苦しみは二度と味わいたくないと心に刻まれます。そして、人として何も成し遂げることもできずに死を迎えるなら、むなしいものです。ところが、ある日、救い主がいることを知ります。その名はイエス・キリストです。イエスは、今日の聖句に書かれた通りにしてくださいました。つまり、咎、病、死から救われたのです。その方法は、神の愛でした。福音を聞くまで知らなかった愛です。それは、驚くことに十字架に現れた愛なのです。十字架に磔になったイエスのことは知っていましたが、それが私のためであるとは知りませんでした。関係が無いと思っていたのです。しかし、そんな恩知らずの者のために主は十字架で苦しまれ、卑しめられて死んだのです。それが、私を救う唯一の方法だったからです。神の愛を知りました。神は、あなたを愛しておられ、罪があるうちはできなかったことを、イエスの十字架によってまず罪を贖い、そして、信仰を与え、「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる」のです。神は愛なり。あなたは、この神の恵みを知ったのです。では、あなたは、神にどうやって報いるのでしょう。神のため、イエス・キリストのために生きるのです。それは、神を愛することなのです。

 

7月8日(月)

忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。

箴言25:13

 

戦国時代、籠城した敵に使者を遣わすことがありました。今も、イスラエルがハマスとの戦いで、使者が遣わされ、停戦交渉が続いています。使者を遣わす者は、行き詰まりを打破したいと思っていたり、停戦を実現したいと思っていたり、何かしらの難しい交渉を成功させるように、使者を遣わしているのですから、それがうまく行けば、遣わした者の喜びは大変大きかったのです。同じように、クリスチャンである私たちも神の使者なのです。一人一人にそれぞれの使命があります。それは、信仰生活の中でだんだんわかってきます。主に導かれてきっと悟るでしょう。そして、それはあなたにしかできない使命なのです。あなたは忠実な使者になれます。罪深い人間の世界では、人間の愚かさばかりが目につきますが、今年の夏も猛暑となると言われているように、その原因が人間であることを度々報道されています。しかし、それを認めないで地球温暖化を防ぐことをしないばかりか、加速させる人もいるのです。このような愚かな人間がいることで、今までの生活が送れなくなり、水や食べ物が枯渇し、奪い合いによる戦争が起こると予言する専門家もいます。世の終わりは近づいていると誰でも考えるでしょう。そのような時に、神はどうしているのでしょう。忠実な使者を遣わしたのです。さて、私たちは、箴言のように主の心を生き返らせることができるでしょうか。「夏の暑い日の冷たい雪のようだ」と言われるのでしょうか、奇跡を起こすことを期待されているのでしょう。地球人口の三分の一のクリスチャンがそれぞれ主に忠実な使者になれば、大きな奇跡を生むことができるのです。そのことを覚えて、自分の使命は何か主に祈って聞いてみましょう。

 

7月9日(火)

主の使いは主を恐れる者のまわりに陣を張り、彼らを助け出される。

詩篇34:7

 

主の使いは霊なので、目には見えません。しかし、霊の目が開かれれば確かに見ることができます。終末のクライマックスで、迫害や暴動が起こります。その時、生かされているクリスチャンは、逃げ惑うかもしれませんが、神の保護はあります。さらには、追い詰められて逃げ場を失った時には、今日の御言葉を思い出してください。その通りに、天の軍勢があなたを取り囲み、陣を張り巡らせるのです。主の御使によって、あなたは最後まで守られ、助け出されるのです。このことは、何も終末の最悪な場面だけのことではありません。あなたが酷い目に遭うことはないと思いますが、万が一、あなたに攻撃を仕掛けてくる者があれば、天使たちは、あなたを囲んで守ってくださるでしょう。ですから、あなたは心配しないでください。いつでも、主を信じて平和に暮らしてください。あと、どれぐらいで再臨が来るかは誰もしりません。それが明日なのか、10年後なのか、30年後なのか、誰も知らないのです。それなので、イタズラに恐れてはいけません。自分は、主イエスを信じているので、大丈夫だという信仰を持っていてください。天の万軍があなたを力づくで守ってくれますから。

 

7月10日(水)

恵みと慈しみを追い求める人は

命と恵みと名誉を得る。

箴言21:21

 

人間の願い求めるものは、まずは命です。命がなければ何を得てもむなしいからです。さて、健康で命の心配がなければ、豊かな生活を求めるのです。つまり、何をやっても成功するとか、出世するとか、良縁に恵まれ幸せな家庭を築き、家庭も平和であること、健康や経済的にも恵まれるなどです。さらに、人間の欲は尽きませんから、一番手に入りにくい名誉を得たいと願うのです。このために、世の人々は思い煩い、競争し、ライバルを蹴落とし、時には悪に手を染めるのです。愚かなことです。彼らの得たものは墓まで持って行けませんし、気苦労が重く背中にのしかかってきます。一見幸せそうですが、破綻の予感はいつも消えません。自分の力を過信すればすぐにつまずくからです。では、クリスチャンは、どうでしょうか。聖書が教えるのは、まず、「恵みと慈しみを追い求める人」と条件を示しています。その人は、「命と恵みと名誉を得る」というのです。大変興味深いことです。ここでの「命」は「永遠の命」です。「恵み」とは、信仰を持って神を礼拝し、天からくる平安の内に生きることです。神を愛しているので、この人には恵みがとどまるのです。この人は、自分だけ良ければいいという利己的な考えを決してしません。それよりも、恵みと慈しみを追い求める人なのですから、隣人への愛を忘れない人です。この世の人々は皆罪人で滅びに向かっているので、イエスの救いを伝えたいと願っています。そのためには、忍耐深く、神の愛とイエスの恵みを自分の存在で表そうとします。それは、聖霊が自分の内にいて、そのように促すからです。貧しい人や困っている人にも優しく手を差し伸べます。自分に与えられた才能や賜物を使うように、聖霊に導かれますから、奉仕は苦になりません。人との関わりで一番喜びを得るので、誰かのために奉仕することも楽しいことになります。このようにして、クリスチャンは、最後には名誉を得るのです。クリスチャンの人生は、「恵みと慈しみを追い求める人」と覚えていましょう。素晴らしい人生になります。

 

7月11日(木)

あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また”霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。

コロサイ1:7、8

 

キリスト教会の原型である、初代教会の様子が聖書からうかがい知ることができます。それは、教会にとって何が大切なことなのか、もちろん教会とはキリストを信じる人の群れのことです。人が救われる時、大概は人から福音を聞き、学ぶことによるのです。福音を伝えるものは、求道者のために働くのですが、それは、求道者のために「キリストに忠実に仕える者」であり、「”霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人」と言われています。このことは、私たちにも大切なことです。私たちも福音を伝える者だからです。その人は、二つの特質があるのです。一つは、伝道することが「キリストに忠実に仕える」こととなっている。二つ目は、「”霊”に基づく愛を知らせる」ことです。つまり、キリスト教は愛の宗教だとよく言われますが、それはヒューマニズムではありません。人間の愛ではなく、神の愛が人を癒し、慰め、救うのです。その神の愛がクリスチャンに聖霊が内住することによって現れるのです。ヒューマニズムの愛では人を罪から救うことができません。十字架でキリストが表した愛だけが罪人を救いへと導くのです。その同じ愛が、福音を伝える人から流れ出てくるのです。

 

7月12日(金)

人の霊は病にも耐える力があるが

沈み込んだ霊を誰が支えることができよう。

箴言18:14

 

「霊」とは、私たちの霊のことです。それなのに、私たちは自分の霊を良く理解していません。体のことなら良く知っています。目に見えるから、実感があるのです。それでは、霊はどうかといえば、目に見えませんから普段は考えることも意識することもありません。しかし、人間には心があると言っても誰も否定しません。つまり、目には見えないのに実感できるものがあるのです。ですから、霊もあります。聖書によれば、アダムを生かしたのはチリで体を造り、その鼻から神の息(霊)を吹き入れたのです。ですから、霊は

私たちにとって創造主と結びつくものなのです。ここから創造力が出てきます。ところが、罪が入ってきて悪いことが起こりました。それは、罪は霊を覆って閉じ込めようとするからです。罪を犯せば犯すほど、何十にも霊を覆っていくので、外側の覆いは硬くなってしまうのです。それでも、霊は生きていますが弱ってきます。肝心なことは、霊には「病にも耐える力」があるということです。そこで、悪魔は人の霊を落ち込ませようと攻撃してきます。一旦、深く落ち込むとなかなか自力では上がってこれません。それは、とても苦しいことなのです。しかし、聖霊は天から降ってきて、霊を閉じ込めている硬くなった覆いを砕きます。そうなれば、聖霊と人の霊は、同質なので、一つに交わることができます。このことも重要なことなのです。人間にはできなくとも神にはできるのです。

 

 7月13日(土)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

エフェソ1:3

 

私たちは、福音を聞いて信じて救われました。それは、恵みに満ちていました。罪を悟り、悔い改めへと導かれ、イエス・キリストの十字架に出会えたのです。このように、自力で救われることのない罪人であると分からせ、回心させてくださったのは、主イエス・キリストの恵み、父である神の愛によるのです。そして、クリスチャンになることができました。主は、あなたのために、「天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」。

この事実を、どうしてかクリスチャンはすぐに忘れるのです。そのために、あらゆる霊的な祝福を認めないので、損をしているのです。この世で、あなたは不安や恐れを感じる必要がありません。なぜなら、天の霊的な祝福で満たしていただいているからです。天の霊的な祝福が地上では無効になるとでも思っているのでしょうか。そんなことはありません。それよりも、地上のどんな祝福よりも遥かに優れた祝福なのです。ですから、あなたは、いつでも主を讃美したくなるはずです。あなたが否定的に考えなければ、あなたに願いが生じ、かつ実現に至るのです。あなたの手の業はことごとく成功します。あなたの思いは天と結び合い、正しい良い思いが湧いてきます。あなた自身、神様をまだまだ理解していないので、この世の力に迷いやすいのですが、神は忍耐して、あなたを聖なる者にしようと働いておられます。今日の御言葉を信じましょう。そして、この世で何か不足があると信じないように、いつでも必要なものは全て満たされると信じましょう。