2月1日(土)
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。ー 万軍の主は仰せられる。 ー わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
マラキ3:10
富の問題は、クリスチャンにとって大きな課題です。幸い、古代世界に生きているわけではありませんが、それでも現代ならではの問題もあります。私がクリスチャンになった頃は、富んではいけないと思っていました。大金持ちになりたいと願ってはいけない、それは罪だと思っていたのです。また、そのように話す人もいます。なんとなく、貧しいぐらいが偉くて、ちょっと豊かになれば、それは悪いことのように感じていました。しかし、周りを見ていると、金持ちに敬意を払っていることがよくわかりました。実際、金持ちが悪人とも見えませんでした。それよりも貧しい方が問題が大きく、付き合いたいのは豊かな人の方であることが、見て取れました。何か、キリスト教の本音と建前のようなものを感じました。聖書に書かれたことよりも、世俗の世界の価値観が教会にも生きているのです。それは、自分が聖書に書かれた通りに考えて行動しているのに、上司に裁かれるのが、聖書に書かれたことによってではなく、世俗の価値観によることが明らかなことがあるからです。つまり、富の問題は、簡単ではないと言うことです。聖書をよく学ばなければなりません。お金の学びで一番確かなことは、今日の聖句です。これ以上に神様から富のことを学べる方法は知りません。誰も見ていません。自分がどうしようと、人間は誰も何も言わないのです。しかし、神様は見ておられます。聖書を読めば、神様が私たちを生かしてくださり、神様を愛している者を富ませておられることを知ることができます。自分の自由にできるお金をどうするか、信仰を持って決める人は、神様に献げるわけですから、当然祝福されます。しかも、神様は十分の一で良いと言うのです。本当は全部神様のものなのですが、そのことを承知している印に、十分の一を献げるように教えておられるのです。この世にも不思議な十分の一献金は、世界中のクリスチャンがその恵みの大きさに驚き、畏怖の念を抱くようになります。信仰が伴えば、神様の愛を知ることができます。形式にならないように気をつけ、毎回、神様の物をお返ししますと感謝を表すことが大切です。私たちを天の富で豊かに富ませてくださる神様に感謝を献げましょう。
2月2日(日)
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
ヨハネ6:35
あなたはイエス様を「いのちのパン」だと思っていますか。考えただけで楽しくなりますが、私たちは、いのちのパンを知っているのです。それどころか、そのいのちのパンのおかげで、この地上にいながらにして、永遠の命を頂いた天国のことを考えているのです。「あなたの体は何でできているの?」と聞かれたら、あなたは「イエス・キリストでできています」と言うでしょうか。相手がクリスチャンでなければ、理解はしてくれないでしょうが、言っている本人は、ウキウキしてくるような嬉しさがあるでしょう。この世の人たちは知らない食べ物があるのです。ですから、私たちは飢えることがありません。さらに、驚くことに、イエス様を「信じる者は、どんなときにも、決して渇くことがありません」と聖書に書かれていることです。イエス様の元へ行き、イエス様を信じる者の特点のように、この世の人間が一番求めているものが、しかも、苦労してもなかなか手に入らないようなものなのに、イエス様に行き、イエス様を信じる者には、必ず与えられるのです。それは、アダムの呪いと関係あります。アダムが罪を犯したので、呪いとして、食物を得るのに苦労することになったのです。それがイエス様を信じるなら、その呪いから解放されるとわかるしるしがイエス様の御言葉を通して知らされたのです。ありがたいですね。
2月3日(月)
まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるからです。
マタイ18:19、20
これほどの約束が聖書に書かれていることに驚きます。これで、クリスチャンは何の心配もありません。日本のようなクリスチャン人口が少ない国でも、さすがに二人は集まれます。おそらく教会の最低会員数は、二人なのだろうと思う方もいるでしょう。これは、私たちにとっては大きな励ましです。それで、何か大きなことが起これば、すぐに自分で祈るだけではなく、信仰の共にも祈ってもらおうとします。確かに、教会で祈りのくみという祈り方があります。二人か三人1組になって、挙げられた祈りの課題を祈ります。代表で祈ることもありますが、ほとんどの場合はそこにいる人が全員祈ります。また、場所が離れている時に、時間を決めて祈ることがあります。それでも、主が共にいてくださると思います。イエス様との距離ができてしまったと思う方がいれば、電話でもいいので二人で祈ることです。その時もイエス様がおられるはずです。このように、イエス様と一緒に祈りの場にいることができるのなら、そのようなチャンスを多くすることも大切です。教会員はこのような祈りの組で祈りを覚え、その力を味わい知るのです。複数人で祈ることは、教会の恵みです。そこにイエス様がいてくださるとお約束してくださったからです。
2月4日(火)
未熟な者は何事も信じこむ。
熟慮ある人は行く道を見分けようとする。
箴言14:15
自分が人間であるのに、さっぱり人間のことがわかっていない。そう思ったことはないでしょうか。今日の聖句は、立ち止まって考える価値があります。この御言葉を読んで、あなたはどう考えましたか。あるいは、自分を未熟な者と思ったでしょうか、それとも、熟慮ある人の方でしょうか。「未熟な者」と聞けば、私たちはすぐに若者と思ってしまいます。しかし、焼き物などの陶工で人間国宝である人が言う、「未熟な者」の年齢は決して若者だけを指すことはありません。何歳になっても、ダメなものはダメだからです。こうした一般論ではなく、クリスチャンが今日の御言葉を考えるとどうなるでしょうか。私は聖書を読んでもわからない人のことではないかと考えます。聖書が決して言っていない意味を勝手に読み取って信じこむ、となれば、よくないことと理解できます。一方、御言葉を読んで考え、その意味を取ろうとする人は、聖書全体から考えたり、同じ言葉を他ではどのように使っているかを調べたり、深く意味を考えようとします。それは、行く道を見分けようとする人に似ています。あなたはどうでしょうか。
2月5日(水)
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。もっといる人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
マルコ4:24、25
これはイエス様がお語りになった、有名な御言葉です。「自分の量る秤ではかり与えられ」ると言うのです。自分の心の中の秤のことです。意地悪なら、意地悪く量ることになります。親切なら、親切に量るでしょう。自己中心なら他人のことなどどうでもいいので、そのように量るでしょう。愛が宿っていれば、愛で量ることになります。さて、あなたはどんな心を持っているでしょか。人からよく思われたいと思う人は、自分がよく思われるように量ります。この秤の問題は、自分が量ったよりも、自分に返ってくる時には量が多くなっているという点です。良いことなら、もっと良いことが自分が跳ね返ってくるのです。しかし、悪いなら、もっと悪いことが自分に跳ね返ってくるのです。人の失敗に厳しいと、自分が失敗した時には、もっと厳しくなるというのです。これは、真実です。ですから、クリスチャンの看板を掲げているだけではなく、実際にキリストのように愛の業を実践できる者になることを目指しましょう。その方法は、心から始まるのです。秤を愛の秤に変えることから始めるのです。人に向けた親切が自分に返ってきます。そこには穏やかで幸せな日々が待っています。
2月6日(木)
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
ゼパニヤ3:17
主に喜ばれる人は、幸いです。そのような人になりたいものです。イエス様は、私たちを知っておられます。生まれる前からです。私たちが産まれる二千年も前に、私たちの救いの道をつくられ、罪の解決のために十字架につかれました。私たちは、福音を聞き、イエス様を信じました。何の功績もなく、罪から救っていただきました。それから、長い月日をかけて、主の愛をだんだん深く理解してきたのです。そして、驚くことに、主は私たちのことを喜びをもって楽しんでおられると知りました。私たちが主に愛されていると聞いた言葉は、今では心に安らぎを与える現実となりました。私たちは、主の愛に結ばれているのです。ですから、主から離れることはありません。私たちは、そのことを喜んでいます。しかし、主の方こそさらに喜んでいてくださるのです。ですから、今日も明るく、元気に過ごしましょう。主を信じて、賛美しましょう。主から来る平和を感謝しましょう。
2月7日(金)
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
イザヤ12:2、3
私たちは神様を知っています。そして、信頼しているのです。残念なことに、この世の多くの人たちが、私たちの神様を知りません。それは、私たちにも責任があるでしょう。本当に救われた人は、救ってくださった方のことを人々に話すはずです。それができなくても、神様を信頼しているので恐れない生き方をしていることで、証しすることはできるでしょう。神様への真剣度が信仰の真剣度となり、「ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌」と心から溢れ出る言葉となるのです。神様が自分を救ってくださった、と言うだけで十分感謝なのですが、神様は「私のための救いとなられた」と言うのです。つまり、御子イエス様を犠牲にしてまで私たちを救ってくださったのです。御父がどれほど苦しまれたか、想像力を働かせなければ、救ってくださった意味がわかったとは言えません。神様が犠牲を払って人間を救ってくださる神々がこの世界にいるでしょうか。いるわけがありません。しかし、私たちの主は、驚くべき愛によって、本当に死んでくださったのです。この主の愛に応えて、私たちは生きているのです。
2月8日(土)
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
詩篇23:6
あなたがクリスチャンであるのなら、この御言葉を受け止めてください。そして、あなたのものとしてください。信仰とは、そのようなものです。つまり、あなたの一生はいつくしみと恵みが追って来るようなものです。ですから、人生は良いもので楽しいと喜ぶこともできます。敵がどんなにあなたを踏み倒したくても、それはできません。万が一、最悪なことが起こったとしても、そこで終わることはありません。逆に信仰が倍増して、聖霊のバプテスマを受けることができます。そうなれば、敵は敗北し、全ての問題が嘘のように解決して行きます。それは、全て神様の御手の業ですから、あなたは自分から解決しようとしなくても良いのです。必要な助け手は向こうから近づいてきます。そこで、信仰の意味が分かりはじめます。御言葉を信じることの力も体験し始めるでしょう。霊的な賜物が現れるでしょう。それらを人助けに使うなら、感動するような人の救いを目撃できます。さらに、「主の家に住まいましょう」という御言葉は、あなたがキリストを信じて洗礼を受け、クリスチャンになって、あなたの体が聖霊の宮となったことを知っているでしょう。聖霊は三位一体の神なので、神の家となったと言う意味です。そこにいつまでも住まいましょう、と言っているのです。その意味が分かりますか。エルサレム神殿は紀元70年にローマに破壊されてそのままです。ですから、「いつまでも」とは行きません。しかし、あなたが宮となっていたならどうでしょうか。このような奥義に達することができますように。