6月1日(日)
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
エフェソ2:6
クリスチャンであるはずの私たちが、意外なことに劣等感に悩むことがあります。人に言わなければ誰も気づくことはありません。しかし、本人にとってはしつこく悩ませるものなのです。これは、クリスチャンになる前に持っていた劣等感ですから、クリスチャンになった時に、十字架につけてきたはずのものです。生まれたままの人の持っていた劣等感を本当は持っているはずがないのです。なぜなら、洗礼を受けた時に水の墓に古い人共に葬ってきたからです。新しい命をいただいて神の子にしていただいたのですが、それを正しく理解していないようです。本当のあなたの姿は、今日の聖句を読めば明らかです。「キリスト・イエスによって共に復活させ」とあるように、罪人のあなたはキリスト共に死んだのです。それだけではなく、キリストの復活にあずかって、一緒に復活したのです。それだけでも、劣等感を持っていた古い人は死に、新しい人として復活しているのですから、劣等感で悩む必要はありません。さらに、聖句は「共に天の王座に着かせてくださました」と書いてあります。意味が分かりますよね。イエス様は今どこにおられますから、復活後に昇天されて、天の王座に着かれました。そして、あなたも共に天の王座に着かせてくださいました、と書いてあるのです。このような驚くべき特権を与えられた人が一体何を悩む必要があるのでしょうか。ましてや、劣等感を持つはずがありません。どうですか。あなたは悪魔に騙されていたのです。真実はあなたは大きな恵みの中に写されていて、イエス様と共に天の王座に着いている神の子なのです。そのことを信仰で受け止めましょう。
6月2日(月)
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない。
イザヤ43:25
この聖句は、イスラエルが神に罪を犯してきたことが先に書かれていて、それを受けるように贖罪を神ご自身がなされるという感動的な箇所なのです。しかし、この箇所を私たちが普通に読んでみれば、「わたし」という言葉が三連続で出てきた時に、圧倒されます。私は、なぜ人間が犯してきた罪の責任をその人自身に負わせないで、独り子であるイエス・キリストに負わせたのだろうかと疑問に思っていました。もちろん、人間が罪の攻めを受け罰を受けるなら、自業自得であるが滅ぶだけになってしまいます。何の希望もなく、救いが無くなるのです。神が愛であるからこそ理解し難い、罪の無い神の子イエスがなぜ私たちの罪の罰を受けなければならないのだろうか。その罪の贖いによって私たちを救おうとされるのはなぜなのだろう、とどうしても思ってしまうのです。その答えがここにあるかもしれません。「わたし自身のために」とあることは意外です。「哀れな人間のために」とか言われた方が納得できます。しかし、神は人間が罪で苦しむことが看過できないのだろう。創造の時に人間アダムが完全に創造され、この地上を支配し、エデンの園で神との交わりを楽しみ、幸福に暮らすことが決まっていたのです。それが、罪を犯し、楽園を追放されてしまったのです。そこから始まる人間の悲劇と悲惨は、罪のせいであるというのです。さらには、罪の呪いが重く人間にかかっていたのです。そして、神の民イスラエルですら罪を犯し続けるのです。こうした人間の罪を神はどこかで決着をつけることに決め、罪の問題解決を決められたのです。御子イエスが十字架につかれて犠牲を払われたのは、他に罪を犯さない者が一人もいなかったからでしょう。「わたし自身のためにあなたのそむきの罪を拭い去り」と言われた神は、一度罪に落ちた人間は、自力で義となることができないことを見極めたのです。そうなると、ノアの洪水の時のように全人類を滅ぼすか、はたまた神の義と愛が両立する方法で人を救済するか、その場合にも、本人が信じる信仰で義と認められることを条件にしたら神の愛も正義も成立すると思われたのでしょう。罪をいつまでも見続けることは辛いはずですから、すぐにも人間を裁いて終わらせたいのでしょうが、まだ救われる人間がいるのです。そのために、時を伸ばして終わりを遅らせているのです。それも、間もなく終わるでしょう。神の赦しは、「もうあなたの罪を思い出さない」と言われたほど、徹底しているのです。神の愛と恵みがあなたに届いているでしょうか。
6月3日(火)
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、・・・
ヘブル5:8
この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
ローマ16:25b、26
クリスチャンの大切な目標は、キリストのように従順を学び、信仰による従順に至ることです。それは、福音から始めります。皆さんが福音を聞いて信じたからこそ、クリスチャンになったのです。それは、神への従順が天国へ入るために必要なことだからです。罪人の状態は神への不従順なのです。それは、アダムが罪を犯してしまった時に起こりました。そこで、それ以来人間は罪を犯し続けています。それは別の言い方をすれば、神に不従順でいるということです。ですから、私たちを救うことは、私たちが神に従順になることと言えます。そこを理解していないと、クリスチャンになっても古い生き方から離れられないのです。それでは、救われたか分からなくなります。ただ、教会に通っていれば良いわけではありません。人間は成長した分しか分からないのです。これは、学校に行っている子供と同じです。習わないことは知らないのです。理解力も成長しなければなりません。ですから、小学生が中学生の問題を解くことができないのです。同じように、真理を理解する必要があります。そうしないと、本当に新しい人として生き、霊的に成長することができません。それは、信仰で言えば、神への従順がいつまでもできないということになります。真理は、イエスご自身であり、また神の啓示である聖書のことです。また、聖霊も真理として助けてくださいます。イエスですら、「お受けになった多くの苦しみによって従順を学」ばれたのです。ですから、クリスチャンに試練があってもおかしくありません。この世はパラダイスではないからです。皆さんは、神の導きを受けているはずです。それは、聖書を学ぶことであったり、説教かもしれないし、祈りの中かもしれません。信仰を現すことが必要になったり、神の家族から学ぶかもしれません。神はあなたを決して見捨てませんから、励ましがあります。自分が弱くても、理解力がなくても、今まで不信仰であっても、大丈夫です。これからが重要です。従順になることができるようになっているのですから、聖霊の助けを受けて心をキリストへ向けましょう。神への従順があなたの人生の目標です。
6月4日(水)
すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。あなたは御手を開き、すべてのいけるものの願いを満たされます。
詩篇145:15、16
人間の歴史は、不思議な御手に守られてきました。多くの飢饉があり、大災害に見舞われ、流行病に倒れ、大恐慌で多くの人が貧者になったりと、どうしていまだに人間が生き残っているのか不思議になります。聖書時代にも飢饉でヤコブたち家族は食べる物が無くなりました。でも、彼らはエジプトに逃れ、食べ物を心配しなくても良い備えがあったのです。それは、とても不思議で上手に説明ができません。私たちは、幸いにも聖書を信仰を持って読むクリスチャンなので、目には見えないけれど神様が危機の時に必ず助けを与えてくださることを知っています。結局人間にとって一番大事なものは、食べ物なのです。食べなければ生きていけないからです。ところが、アダムが罪を犯し、呪われてしまったために、苦労しなければ食べることができないことになったのです。それがどれほど恐ろしいものであったか、人類の歴史が証言してくれます。今まさに、日本でも主食の米が高騰し、買えないという誰もが考えもしなかったことが起こりました。日本人は、食べることが当たり前にできることと思い込んでいたのです。でも、過去を見えれば、人間は食べ物をめぐって争い、惨めに飢えてきたのです。人間の驕り高ぶりが、そのことを忘れさせていたのでしょう。しかし、今日の聖句を読んでみてください。人々は食べ物を得るのは、神の恵みであることを知ることになります。ですから、神に期待して待つのです。神は飢饉を起こすことも、豊作にすることもできるのです。私たちは、食物を食べる前に祈ります。それが当たり前のことではなく、神の恵みであることを知っているからです。本当に感謝がそこにあります。神の恵みが与えられているのに、感謝しないことはありえないことなのです。私たちは、主に感謝をする者なので、願いが満たされているのです。主をほめよ。主を賛美せよ。アーメン。