2025年9月ディボーション

9月1日(月)

人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉になるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実のそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

第一ペテロ2:19~23

 

あなたは、クリスチャンとしてこの世に生きています。その事自体が奇跡なのですが、つまり神が働かなければ誰一人救われることがないからです。そして、あなたは神に救われた奇跡の人なのです。それでは、どんなに恵まれた人生を送れるかと期待が高まりますが、実際にはこの世の中で普通に生きていくことになります。あなたは、その中でクリスチャンとして生きるとはどのようなことなのかと考えたことでしょう。聖書も読んでみて聖なる生活を夢見たことでしょう。しかし、現実は厳しく、自分の弱さばかりが目につきます。それでも、時々クリスチャンの自覚が問われるようなことが起こるのです。例えば、今日の聖句のようなことです。「不当な苦しみ」を受けることがあるということです。「悲しみをこらえる」と書かれたような日もあるのです。私たちは、自己正当化という性質を持っていて、自分は正しいと言い張りたいのです。しかし、それは罪人の特徴であって、決してクリスチャンの特質ではありません。「不当な苦しみ」とは文字通りで、真面目に頑張っているにの、誤解されたり、逆恨みされたり、思い通りにならないので苦しめてやろうと悪意を持たれたり、勝手な思い込みで自分が酷い目に遭っているのはあいつのせいだと恨まれることから陥れらるようなこともあるのです。特に、クリスチャンだからということで正しいことをしよとするだけで、嫌われることもあります。この世の弱い人たちは、心が小さく、小心なので、広い心で正しく生きている人を理解することができません。そのために、自分が安心するためにクリスチャンをやり込めてしまいたいと思うことだってあるのです。ただ、そうしたことは仕返しをしたり、自己弁明のために相手をひどく言ったりというようなことはしてはいけないのです。それは、私たちの模範であるイエス・キリストが辿った生き方とは違っているからです。クリスチャンとはキリストに似た者なのですから、自分に言い聞かせなければなりません。私たちは、キリストにならって、「正しく裁かれる天の神」に任せればいいのです。心が折れそうにあったら、イエス様と頼れば良いのです。あなたの報いは天の報いです。品性も磨かれ、やがてキリストの身丈に届くようになるでしょう。

 

9月2日(火)

神の国はことばにはなく、力にあるのです。

第一コリント4:20

 

キリストは「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と語られました。つまり、キリストの到来と共に、「神の国」が出現したのです。世の終わりに再臨があることを私たちは知っていますが、その時に救われた人々は天に挙げられ、文字通り神の国へ入るのです。しかし、目に見える形ではなく、信仰によって、この地上にまだ生きているうちに神の国に生きることができるのです。それは、ナザレのイエスが誰であるかを知ってメシヤとして信じることで、目の前のイエスというユダヤ人が旧約預言の成就としてキリストとして実際に現れるのと同じです。ですから、神の国はこうだああだと議論するようなものではありません。それは、現実なので、信仰のあるなしに関わらず見ることができるのです。ただ、不信心な者には、分からないのです。イエスが奇跡をおこなったり、病人を癒したり、死人をよみがえらせたり しても、不思議とイエスが誰であるを理解せずに、キリストを否定した人たちもいたのです。反対にイエスを信じた人たちは、神が支配していることを自分の目の前に見たのです。ですから、「神の国はことばにはなく、力にあるのです」と聖書に書いてあるのです。神の国のうちに生きていけるように信仰を大切に、奇跡を見ることのできる者となりたいですね。

 

9月3日(水)

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

第一コリント1:30

 

神の国はここにある、あそこにあるというものでは無い、とイエスは言われました。それは、あなた方のただなかにあるのです。これはどういう意味でしょう。今日の御言葉によると、「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」とありますから、このことが神の国に私たちがすでに入っていることを意味しているのです。ですから、あなたは、そのことを理解してキリストのうちにあることを意識して生きていくことが神の国を現実にするために意味があるのです。キリストのうちにあるということなので、キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、義と聖めと、贖いとになっているのです。つまり、あなたが神の子と呼ばれている理由がここにあります。キリストなしには、神の子にはなれないということです。そのように、神の子の意味を理解して、この世に生きるなら、神の御心をきっと実現できます。その上、大いに祝福されますから、何があっても喜んで生きていけます。苦難が来ても信仰があるので、キリストのうちにいることを信じて、神の知恵と助けで乗り切れます。あなたの心はだんだん地上から天へと向けられて行くのです。キリストのうちにいれば、あなたがどんなに弱くても強いのです。そして、すでにあなたはキリストのうちにいるのです。だから、安心してください。

 

9月4日(木)

知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き。

箴言10:1

 

まだ牧師になる前の頃、教会の修養会で宿泊先の一室に参加者が集まり、一人一人好きな讃美歌言って、それを皆んなで歌い、その曲を選んだ人がどうして選んだか話すというプログラムを行いました。その時、いつも元気で明るいご婦人が讃美歌510番を選びました。そして、「母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや」という歌詞が好きですと、二人の娘を育てている苦労とクリスチャンとしてどうやって祈っているのか、証されました。それは、今でも覚えているので、感動したのだと思います。この讃美歌の歌詞は、空しくこの世をさまよっている息子のことを母が涙して祈っているという内容です。

 

1番、まぼろしの影を追いて

   うき世にさまよい、

   うつろう花にさそわれゆく

   汝が身のはかなさ、

(おりかえし)

   春は軒の雨、秋は庭の露

   母はなみだ乾くまなく、

   祈ると知らずや。

 

2番 おさなくて罪を知らず、

   むねにまくらして、

   むずかりては手に揺られし

   むかしわすれしか、

(おりかえし)

 

3番 汝が母のたのむかみの  

   みもとにはこずや

   小鳥の巣にかえるごとく、

   こころやすらかに 。

4番 汝がためにいのる母の

   いつまで世にあらん、

   とわに悔ゆる日にこぬまに、

   とく神にかえれ。

 

 9月5日(金)

わたしは、天から降って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

ヨハネ6:51

 

人が生きるためには食べなければなりません。そのことは誰でも知っています。ところが、人は全て罪人なので死に定められているのです。そのような者を生かすためにキリストを天から降りてこらました。キリストが生かすという意味は、罪人の罪を贖い、罪を清めて永遠の命を得させることです。その方法がキリストをパンとして生きるために食べなさいと言うのです。しかも、そのパンは世の人々を救うためのキリストの十字架のことだというわけです。ですから、私たちはキリストを信じて救われました。しかし、もう少し考えると、「わたしは、天から降って来た生けるパンです」というのですから、パンを食べて生きることを考えればいいのです。十字架にかけられたキリストをパンとして食べると考えれば、キリストが私たちのうちで血となり肉となるような、キリストに置き換えられて、しまいにはキリストのようになっている、という意味にとれます。それほどまで、キリストと信仰によって一つになることを目指すことが意図されているのです。霊的な飢え渇きを天からのパンであるキリストを食べて生きる、まるでそのような積極的にキリストを求めて一つになって行くことが救いの道なのです。

 

9月6日(土)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ヘブル4:12

 

この御言葉は有名です。ですから、皆さんもご存知ですね。というのも、聖書で自分の思いや思考を判別できるというので、いろいろなところで引用がなされて来たからです。例えば、魂と霊というのも実際に見ることもできないので、牧師や聖書学者も別々に分けて感がえなくても良い、と一つにして考える人たちもいます。しかし、わざわざ書いてあるのですから、別々のものであるが見分け難いもの、の例えとして書かれているのです。そこで、心のこと、魂のことと言われても自分でもよくわかないのです。しかし、このようなことだと思います。「本当は何を考えているのか」。「言葉ではきれいごとを並べているが、本心は何を考えているのか?」。自分でも正しいと思っていたのに、実は他人に対しての見せびらかしでしかなくて、本当は真逆のことを思っていた、というようなことが人間には起こるのです。ですから、救いに直接関わる信仰にどこか偽りが隠れていないか、本音はどうなのか、と御言葉の剣が深く刺し貫いて峻別してくるのです。この世にいれば、いろいろな情報が耳に入り、気づかないうちに影響されます。ですから、昔は小説を読むな、テレビやラジオを聴くなと厳しく指導していた時代が教会にはあったのです。しかし、SNSの普及ですっかり様変わりしたのです。ですから、日々、静まって聖書に向かい、御言葉で自分の心や思考、あるいは信仰を吟味することが必要なのです。このことは決して聖書の専門家になる必要はありません。普通に聖書を読めばいいだけです。私たちのことをよくご存知の主は、このように私たちを守り助ける方法を与えていてくださるのです。

 

 9月7日(日)

主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。

彼はとこしえに記憶される。

彼は悪評を立てられても恐れない。

その心は、固く主に信頼している。

彼の心は堅固で恐れることなく

ついに彼は敵を支配する。

詩篇112:6~8

 

クリスチャンは、たった一つ心がけることがあります。それは、「主に従う人」になることです。そうすれば、社会の中でいろいろな難問にぶつかっても、揺らぐことがない人になれるのです。人間の難しさがあって、時に敵が現れることすらあるのです。どうしてか自分のことを嫌って困らせようとするのです。そんな時に、普通の人は動揺して、大抵は間違った対応をします。そのために、たいそう苦しむことになるのです。しかし、悪意を持った人が攻撃してきても、主に従う人は揺らぐことがないのです。例えば、悪口を言われます。人間の愚かさは、SNSでデマ情報が流されても、その真偽を確かめたり、慎重に吟味したりしないで、軽率にその偽情報を広めてしまったりします。ですから、クリスチャンが悪評を立てられると教会とか会社などの狭いコミュニティーの中で大変困ることになります。しかし、今日の御言葉にあるように、「悪評を立てられても恐れない」というのです。その理由は、「その心は、固く主に信頼している」というものです。恐れることは不信仰であると、皆さんは教わっているはずです。ですから、主を信じている人は主を信頼しているので恐れないのです。これは、簡単なことではありませんが、正しいことをするしかクリスチャンが救われる道はないのです。このように実践できるクリスチャンは心の堅固な者なのです。だから、恐れないのです。この人の信仰は義と認められますね。主をどんな状況でも信じて信頼しているからです。そうしていれば、「ついに彼は敵を支配する」という結果になるのです。クリスチャンは信仰で勝利するというと簡単そうですが、実際には辛く、試されることになります。それでも、主を信頼している人は、勝利者になれます。

 

9月8日(月)

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

イザヤ26:3

 

人間にとって幸せの条件の第一は、心に不安や恐れ、心配がなく、また後悔もないことです。夜、眠りにつこうとした時に、気になることがあって悪いことを考え出すと眠ることはできません。ですから、1日の終わりに平安のうちに主に守られて眠りにつきたいのです。そうなるには、どうすればいいのか、今日の御言葉は大きなヒントを与えています。それは、「志の堅固な者」であることです。ただ生きているということでは、満足も少ないし、人生に空しさも感じるでしょう。でも、御言葉の「志の堅固な者」は、主に信頼しているのです。私たちも、平和な日を重ねて行きたいと願うなら、主に信頼を堅く置くことです。信仰は皆等しく持っているとしても、どんな時にも主に信頼を置いている人は違うのです。自分を攻撃してくる人がいたり、悪意を向けられたり、理不尽な扱いを受けたとしても、主を信頼していれば、問題は解決して行きます。主が働いてくださるからです。あなたに残るものは、主からくる平安です。そして、自分が主に信頼していたので、守られたと理解するでしょう。これがクリスチャンの特権なのです。主は、あなたを見守っていますから、あなたがいざとなったらどうするか主への信頼を見ているのです。あなたが問題と格闘しなくても良いのです。主があなたに変わって戦ってくださいます。あなたが、主を信頼していなければ、あなたは自分で何とかしようと手に負えないことを引き受けることになります。主を信頼することは勇気もいるし、正しいことを選ぶことも必要です。これらを信仰と言っているのです。誰でも、このような試みがあることを覚えていましょう。

 

9月9日(火)

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

ローマ15:2

 

クリスチャンの存在意義はとても大きいものです。つまり皆様が神に期待されているということです。この世界が滅びないのは、神の憐れみによるものですが、それは、クリスチャンが世界中にいるからという意味でもあるのです。クリスチャンがいれば、彼らは、聖書を学び、その教えを守り実行するからです。今日の聖句もその良い例です。ここでは、「ひとりひとり」と書いてあるので、私たち全員がということになります。では、私は何をすれば良いのか、自分だけで考えれば何も思い浮かばないかもしれません。しかし、御言葉でしっかり書かれていれば、さすがに気がつきます。そこで、「隣人を喜ばせること」「その徳を高めること」そして、「その人の益となるようにすること」、この三つを守り、実行するのです。そのために、どうすればこの要求を満たすことになるのかを各自が考える必要があります。こうしたことは、主体性が大切なのです。人に強いられても大した意味がありません。自分が自発的に、聖書の指示があるので、これをなんとか実行したいと考えるところから始めれば良いのです。例えば、隣人に親切にすれば、喜んでいただけるだろう、とか、困っている事があれば、何かしら助けられる事があるのではないか考えてみる、とか、これはいろいろアイディアが出てきそうです。「その徳を高める」というのは難しそうですね。でも向上することが目的ですから、互いに向上することを考えてみるのです。「益となるように」というのも、小さな善を行うことから考えてみればできそうです。こうしたことは、自分の目線で考えるよりも、相手の目線で考えてみることです。クリスチャンは親切なので、人から受け入れられるのです。

 

9月10日(水)

わたしは主をたたえます。

主はわたしの思いを励まし

わたしの心を夜ごとに諭してくださいます。

わたしは絶えず主に相対しいます。

主は右にいまし

わたしは揺らぐことがありません。

わたしの心は喜び、魂は踊ります。

からだは安心して憩います。

詩篇16:7~9

 

現代人の悩みの一つに睡眠があります。夜に良い睡眠を取ることは、健康生活に欠かすことができません。ところが、ストレスの多い社会で生きていれば、睡眠にまで悪い影響が出てきます。最近は、睡眠の科学が注目されて、睡眠指導がなされるようになってきました。そこで、クリスチャンも睡眠のことで心配があるならば、今日の聖句を読んで学びましょう。夜は、体の疲れを癒すだけでなく、疲れ切った心をも癒してくださる時間なのです。昼間、嫌なことがあればその事が気になって、なかなか寝付けないということはあるかもしれません。不思議なことに、「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごとに諭してくださいます」とある通り、正常であれば、主が夜に体も心も全て癒してくださるのです。自分の頭の中で色々悪い妄想が出てくるのを防いで、クヨクヨしなくても済むように主が諭してくださいます。これが信仰者の普通なのです。ですから、快眠できるのです。ところが、現代では社会は忙しく皆がイライラして、ゆとりがなくなり、ストレスの原因が増えていくばかりなのです。ですから、油断していると悪魔は否定的な思いを吹き込んでくるのです。それは、寝る時が一番効率が良いことを悪魔は知っているので、クリスチャンでもうかうかできません。夜の祈りが大事になります。悪魔は、昼間にあったことで心を悩ませるようなことを主に祈って解決していないと、その人の心にマイナス思考を吹き込み、今日の嫌なことだけでなく、昔のことやもう過ぎてしまった事まで思い出させて、悩ませるのです。そうなるとなかなか寝つけないことになります。そのような時には、一回起き上がり、布団から出て、祈ることにしてください。短い祈りで大丈夫です。

たとえ、自分が悪くても、悔い改めればよいのです。主は、ちゃんとあなたを守ってくださり、いつでも祈りを聞けるように側にいてくださいます。しかも、肯定的な思考の側、右側にいるのです。ですから、悪魔は否定的な思考になるように働いてくるのです。でも、その手に乗らないぞ、とすぐに右側にいてくださる主に祈るのです。そうすると、信仰者は揺らがなくなります。不思議なことに心は喜び、魂は踊ります。そして、体は安心して憩うのです。これが安眠の秘訣です。

 

9月11日(木)

義に飢え渇いている者は幸いです。

その人は満ち足りるからです。

マタイ5:6

 

そもそも誰が義に飢え渇いているのでしょう。この世の人たちは、考えたこともないでしょう。私もクリスチャンになる前に義など考えたこともありませんでした。ですから、義に飢え渇いている人は稀なのです。そのことに気がついて、思い至っただけでもすごいことなのです。さすがに、クリスチャンになるとローマ書などを読んで義を突きつけられます。教会でも説教者は、義という言葉を普通に使います。しかし、専門に学んだこともない人にとって、「義」の意味を理解するのは容易ではありません。それでも、長くクリスチャンをやっていると、さすがにわかってきます。人間は皆罪人であること。その罪が「不義」を意味していること。つまり、生まれながらの人間は義では無いということです。義は正しいということですが、それは神の目から見て正しいということです。また、神との関係が正しいことを義と言います。そのような関係を「愛」と表現するのです。それから、その人を義人と呼びます。この人が天国に入るのです。では、どうやって罪人が義人になれるのでしょうか。そうです、主イエス・キリストが十字架にかかって、命を持って私たちの罪を贖ってくださったからです。そのことを知って、悔い改め、主イエス・キリストを信じて救われ、義と認められたのです。ですから、今日の聖句は、自分が罪人と知って、なんとか罪の赦しを得て汚れを清められ、義と認められたいという、飢え渇きということです。そのような人は誰でも、満たされると主は約束してくださったのです。皆さんは、まさにこの御言葉の体現者なのです。ですから、「満ち足りている」と信じてください。

 

9月12日(金)

わたしはあなたを目覚めさせ

行くべき道を教えよう。

あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

詩篇32:8

 

人生は、決まったレールの上をただ進むだけのものではありません。どこに、挫折が待ち伏せているか、どこにチャンスが待っているのか、私たちはには見えないから、明日も今日と同じだと漠然と思って電車のように走っているのです。しかし、あなたの人生を振り返ってみて、何かやり残したことや、もっとああすればよかった、などと後悔がないでしょうか。人生を一からやり直すことは難しいですが、こんな人生で良かったのかと心が騒ぐなら、今日の御言葉を読んで考えてみましょう。また、今の人生が結局良いと思えるなら、そのまま進めば良いのです。ただ、ある日、進むべき人生に迷いが生じたら、今日の御言葉を思い出し、神に頼ってみましょう。私たちは、クリスチャンなので、聖書の御言葉をそのまま信じて受けることができます。ですから、思い煩わずに主を信頼していましょう。私の人生を振り返ると、この御言葉の通りだと思うのです。初めから牧師ではなく、途中から牧師になりました。青年の時に牧師になりたかったのですが、すぐにはなれませんでした。また、神学や聖書学などキリスト教の勉強は許され、気がつけが博士課程まで学ばせていただきました。それから、大学院の教授にもなりました。しかし、他の法律とか神様と関係のないものを学ぼうとしても、一切道が閉ざされてしまうので、聖書だけ牧師だけが主の御心で、「行くべき道を教えよう」と御言葉の通りになりました。ですから、「行くべき道」なので外国に行ってもどこに行っても、困ることはなかったのです。主は、「あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」とお語りになりました。ですから、心が迷うような時には、静まって主の御前に出てみましょう。きっと、「わたしはあなたを目覚めさせ」とあるように、道が見えてくるはずです。主のお導きを信じましょう。

 

 9月13日(土)

主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り

聖なる山に住むことができるのでしょうか。

それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。

心には真実の言葉があり

舌には中傷を持たない人。

友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。

主の目に敵わないものは退け

主を畏れる人を尊び

悪事をしないとの誓いを守る人。

金を貸しても利息を取らず

賄賂を受けても無実の人を陥れたりしない人。

これらのことを守る人は

とこしえに揺らぐことがないでしょう。

詩篇15:1~5

 

あなたはこの詩篇を読んでどのように思ったでしょうか。この通りに生きてみようと思ったでしょうか。あるいは、この通りに生きていると胸をそらしたでしょか。それとも、このように生きたいのにうまくいかないと俯いてしまうでしょうか。もちろん、私たちの理想とするクリスチャンの姿がここには描かれています。意志の強い人や頑張ることができる人は、この通りに生きていると言うかもしれませんね。しかし、よく考えてみてください。キリストは、この後に登場するのです。しかも、十字架にかかりました。パウロは、「正しいものはいない。一人もいない」(ロマ3:10)と断定します。そこが問題なのです。私たちは、意識して今日の御言葉の通りに生きようとするでしょう。しかし、この社会はなかなかそれを許してくれません。そこで、クリスチャンには鍛錬が長い期間必要となるのです。ですから、この世で辛い思いをしても神様のせいにしないでください。自分で自分がダメだと思っているのに、責任転嫁して神様のせいにするのも人間なのです。それでは、希望が無くなってしまいます。イエス様がなぜ来てくださったか、その理由がわかりますね。私たちは、いくら頑張ってみてもしれているのです。肉に罪が宿っている者だから、外見を綺麗に装うことができますが、内面は汚れているのです。だから、イエス様が探しに来てくださって、優しく諭してくださったのです。十字架を見上げなさい、と。自分を正しい人と思い込んで、この詩篇の通りに実行しても空しいのです。できたと自分を誇ってみても、偽善に過ぎないことが示されるからです。しかし、私たちは、イエス様に出会い、自分が罪人にすぎないと分かったのです。それだけでなく、救いの道も示されました。ですから、十字架に辿り着き血を流して苦しむイエス様を見せられたのです。そして、イエス様を信じました。ですから、今は神様との平和を味わい、信仰で生きることを学んでいるのです。あるがままに救われたので、自分をよく見せようと思わなくて済みます。聖霊の導きと助けを受けて生きていけば大丈夫です。元気に生きて行きましょう。