🔸説教題:私が世の光だ!
🔸説教者:佐久間典臣
🔸聖 句:ヨハネ8:12〜20
イエスは「私が世の光だ」と言われた。ファリサイ派はすぐに怒りを含んで詰問する。それは、イエス以外には光が無いと宣言したように聞こえた宗教家の驚きと怒りが強い言葉になってイエスにぶつけられたのだ。それに対してイエスは、子と父の二人による証によりこのことは正しいと語る。暗闇に輝く光が見えないとヨハネがプロローグで書いたことが目の前に展開している。さて、その先は。
🔸説教題:わたしはある
🔸説教者:佐久間典臣
🔸聖 句:ヨハネ8:21〜30
イエスは「わたしはある」とご自分を認めた。そこには敵対する者たちがいた。イエスはご自分が去ることを告げ、そのことの意味を悟らせようとされた。しかし、彼らはそとることなく、イエスを侮った。そこから、イエスはご自分が上から来た者であり、この世に属さないことを告げる。そして、イエスがあげられることを預言者のように語り、イエスによらなければ救いがないことを悟らせようとされた。
🔸説教題:真理・自由
🔸説教者:佐久間典臣
🔸聖 句:ヨハネ8:31〜38
イエスの弟子であることを考え、真理と自由の問題を考えます。人間がどんなに科学を学んで賢くなろうとも、それで人間となるのではありません。エデンの園で善悪の木の実を食べたのは、神のように賢くなると唆されたからです。そこに人間の問題があります。神に背いたことの罪だけではなく、罪人の姿は神のごとくに賢くなろうとすることの問題です。ですから、科学万能で賢くなろうとすれば、人は人間ではいられなくなります。人間であるには、神への敬虔が不可欠だからです。そのことが見えるように、キリストは来られたのです。それは、人々に己の罪の姿が見えるようになり、その汚れからの清めが自己努力ではできないことを悟らせ、神の憐れみである主イエス・キリストの十字架による罪からの贖いを信仰で受けて救われるように神の救済が現れたのです。
🔸説教題:
🔸説教者:佐久間典臣
🔸聖 句:ヨハネ8:44〜59
ユダヤ人とイエスの間に緊張が走る問答が続きます。そして、決定的に隔たりがあることが明らかになります。目の前にメシアがおられるに、ユダヤ人たちは気づくことができないのです。それどころか、キリストを異端者とし、さらに悪霊つきと罵るのです。どうして、こうなるのか呆れます。ただ、キリストが人の試金石となって人生を分けることだけは確かです。その問答から学びましょう。
🔸説教題:
🔸説教者:佐久間典臣
🔸聖 句:ヨハネ9:1−12
生まれつき目が見えない物乞いは誰の罪のせいなのか、と弟子たちはイエスに問いかけた。それに対してイエスの答えは意外なものだった。イエスを見ても見えない者との問答の後に、この話が出てくるので、さらに深い意味があるのだろうと読者は考える。目の前のイエスは、創造主であった。人間を地のちりで像造られ、息を吹き入れたら生きたものとなった、と創世記に記されている。だから、土をこねて像造られた体を肉と言う。この肉に罪が宿っているのだ。それゆえに、人の救いは洗礼で肉が水ですすがれることも意味されている。そこで、イエスが目に塗られた土を池で洗い流すのは、まさに洗礼を意味していたように思える。ご一緒に考えてみよう。