2018年10月ディボーション

10月1日(月)

次いで、もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らが手を羊の頭に置く。あなたがそれを屠り、血を取ってその一部をアロンとその子らの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指とに付け、血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。

出エジプト29:19、20

 

祭司の聖別が必要でした。それは、祭司らが定められた服を着た後に、雄羊が屠られ、その血が聖別のために使われました。右の耳たぶ、右手の親指と右足の親指に、血が付けられたのです。祭司たちは、聞くこと、奉仕、歩みが全て神に献げられていることを象徴しています。そして、このれらのことは、新約以降のクリスチャンにも適用されるのです。つまり、雄羊なるキリストの十字架の血によって清められ、聖別され、神の御声を聞き、神に仕え、神の道を歩む者とされるからです。さらに、祭司たちは血を付けられた後、祭壇の血と聖別の油を衣服に振りかけられます。キリストの血によって清められた者は、神の祭司としてキリストと共に働くために、聖霊のバプテスマを受ける必要があるのです。キリストの血を信じなさい。あなたを全ての罪から清めることができるからです。そして、聖霊の油注ぎを求めるのです。聖なる霊があなたを覚醒し、キリストの働きへと導かれます。それは、素晴らしいことなのです。大いなる主の御業があなたの上になされますように。(佐久間)

 

10月2日(火)

アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れに、ともしびをともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香の献げ物を絶やさぬようにする。

出エジプト30:7、8

 

30章では、まず香壇を作ることが指示されています。香料についても詳細な指示が書かれています。重要なことは、香は祈りを象徴していることです。「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし」(詩篇104:2)とダビデは語りました。黙示録では、「別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った」(8:3、4)。香壇自体は、アカシヤ材で造られたものを金で覆っていますから、イエス・キリストの人性と神性を象徴していることに気がつきます。ですから、祈りはキリストから学ぶものであり、キリストは祈りの手本となり、また天の聖所で大祭司として私たちのために執り成して祈っておられることを示しています。神に近づく最も良い方法が祈りであり、祈りはキリストを通してなされるのです。また、香壇の寸法が書かれていますが、高さが縦横の二倍になっています。これは聖所のすべての備品の中で一番高さが高いのです。そこから、クリスチャンにとって最も重要な働きが祈りであることを教えています。そして、2アンマで使われる2という数字は、聖霊の働きが祈りの上にあることを暗示している。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)。私たちがどう祈ればいいかわからない時でも聖霊が共にいて神の御前に届く祈りを助けてくださるのです。イエスがいつでも神と一致していたように、私たちも聖霊の助けてを受けて祈りで神と一致することができるのです。今日の御言葉でも明らかですが、朝に夕に、祈りは度々献げられるものであることも覚えておきましょう。(佐久間)

 

10月3日(水)

彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。

出エジプト31:3、4

 

人々はクイズが好きなようで、テレビでもクイズ番組は人気がある。芸術家として名を残すような偉人は、やはり才能があるからこそ、いつの時代の人をも感動させるのだろう。聖書を読んでみると聖所の備品がことごとくただ寸法を守って作られただけではなく、工芸品であったことがわかる。しかも、それはただの工芸品ではなかった。芸術作品であり、人知を超えた最高のものだった。それが、「神の霊を満たし」たことによるものであることがわかる。私たちは人間そのものが素晴らしいことを知っている。才能があればなおいいだろうが、何の才能も無いとしてもそれでも神にとって最高の価値があることを覚えなければいけない。そして、皆が天才的工芸家になる必要はない。皆が天才的工芸家になれば逆に困るだろう。仕事は、聖所で使うものを作るだけだし、一つ聖所が完成すれば、もう仕事は無くなるのだから、一人いれば十分だし、彼に助手を一人つければよいほどの仕事量だったのだ。さて、知恵遅れの男の子が18歳になって就職した。いつまで続くのだろうと心配していたが、それから20年以上の年月が過ぎ、もう40歳になったのだが、まだ同じところで働いていた。それを聞いてとても感動した。すごいことだと思った。この地上では誰でも生きていくために何かしら仕事をしている。それが天才でなければできない仕事というのはほんの一握りだろう。仕事は誰かの役に立っているのだから尊い。自分に与えられた仕事が天職だと思えれば幸せだろうが、必ずしもそうはいかない。自分にあった仕事を探せるならそうしたらいいし、それが無理ならば、主のために働いていることを信じよう。どんな仕事であろうと、イヤイヤ働くのは自分のためにも人のためにもならない。そこで、まず祈ろう。主の御用にために自分に最適の仕事を与えてください、と。すでに心に願いがあるのなら、そのために祈ろう。人にどう思われるかといったことは仕事選びには関係ない。主のために自分が働けていると実感できれば、それは楽しいだろうし、給料をいただけることが申し訳なく感じるだろう。そうそう、給料をもらう仕事だけではなく、たとえ何もできなくて、ただそこに存在することだけしかできなくても、人に幸せを与えることができるのが人間の偉大さなのだ。このことを覚えていよう。(サクマ)

 

10月4日(木)

モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうしてご自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。・・・どうか燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。

出エジプト32:11、12

 

モーセがシナイ山で神と対面している時に、麓では民がアロンに詰め寄り、モーセが帰ってな来ないので、神々を造るようにと言いだした。すると、アロンは金で子牛を造ってしまった。それは、神の怒りに触れた。せっかく結んだシナイ契約をいきなり踏みにじったからだ。十戒の第一と第二の戒めがイスラエルの民によって破られた。山を下ったモーセはその事実を目の当たりにすると、怒り、神の造られた契約が書かれた石の板をその場で砕いた。どれほど罪が重いか彼らは思い知らされることになる。神は罪の重大さに民を滅ぼすと言い出すが、モーセがそこで懸命に執り成した。命がけの執り成しだった。彼らを赦すように取り成す祈りは、神によって聞かれた。これらから私たちが学ぶ教訓は、基本的には罪を犯してはならないという事だ。律法に照らし合わせれば、罪は明確にわかる仕組みだ。そして、罪の罰があることを忘れてはならない。しかし、神と罪人の間に立つ仲保者がいれば、罪人は生きることができる。それをモーセが実際に行なっている場面がここなのだ。そして、このモーセの姿こそ、来るべき主イエス・キリストの預型であった。さらに、私たちが霊的に祭司であるのなら、私たちこそ執り成し手として奉仕すべき存在なのである。祈ることはクリスチャンにとっては難しいことではないだろう。しかし、罪の赦しを伴う執り成しの祈りは、簡単ではない。イエス・キリストの助けなしにはできないことだ。それでも、あなたは罪を犯した者に怒るのではなく、罪の赦しと取り成すことが求められている。なぜなら、あなたも罪人であり、そのあなたの罪を赦すためにイエス・キリストは罪の罰を引き受けて十字架にかかられ、罪を贖ってくださった。その主が執り成してくださったのだ。だから、私たちは、キリストの道を辿り、執り成す祈りの務めを果たすことを選ぼうとするのだ。信仰がなければ人には到底できない。それでも、キリストの愛が迫ってくるので、私たちは主にならうことだけを考えるようになり、自分が正しいという思いすら放棄してしまい、ただへりくだって罪の執り成しを神に祈るようになる。不思議なことに私たちのような何の功績もない者の祈りでさえ、神は聞いてくださるのだ。(サクマ)

 

10月5日(金)

わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。

出エジプト33:19

 

クリスチャンになった人たちは幸せな人たちです。神様の選び無しにはクリスチャンになっていないからです。そのクリスチャンが不幸であるはずがありません。それでも、未熟なうちは不平不満が口から出たでしょうから、この世の人たちと変わらなく見えたかもしれません。手本であるモーセを見ていると、自分のためではなくいつもイスラエルの民のために命がけで執り成し、神様の御旨を伝え、指導しています。彼の生きる姿勢が、自分を捨てて、いつでも神様に従順に従うというものであったからこそ、彼は主に愛され、恵まれたのです。クリスチャンとしてより良い人生を生きたいのなら、主に従順に従うことです。それが正しい信仰者の姿なので、それを邪魔するものを排除する過程が生じます。それを試練だと言う人がいます。確かに主に試みられることはあります。天国に入るためには避けることができません。自分に甘い人や、自己中心な人というのは罪人の特徴としてあげられますが、そのような人が神様の恵みで救われるのですから、クリスチャンになっても、そのままでは問題が次々に生じてきます。そして、罪を犯すという最悪の道をたどることも珍しくないのです。しかし、それをいつまでも見逃しておくわけにはいきません。ましてや心の中に悪意があるのを放置していると最後には滅びてしまうかもしれません。だからこそ、いつでも神様に忠実に仕え、全てのことが神様の御言葉で吟味され、主イエス様への信仰によって生きる選択が必要なのです。それを人間の力だけで頑張ろうとすれば、すぐに反動が出て失敗します。そうではなくて、モーセのように謙遜になって、まるで自分を捨て去ったかのようなへりくだりを持って主に従順になることが信仰の秘訣なのです。その時、あなたは主の恵みを知り、主がいつでも自分を憐れんでいてくださることを知ることになります。モーセのような偉大な人にはなれなくても、主イエス様を愛してただ忠実にお従いする小さな者にはなれるのです。道端に小さく可憐に咲いている野の花でも目にとまり、美しいと思うことがあるでしょう。主もあなたをご覧になって、同じように心を動かしてくださるのです。だから、あなたは恵まれた人なのです。(さくま)

 

10月6日(土)

主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

出エジプト34:6、7

 

神をいたずらに恐れて、懲罰的な神として理解している人たちがいます。それは、そもそも福音に反する考え方です。もし、そのような神であれば、やはりファリサイ人の言う通り、律法を守る功績によって救いを得ることになります。しかし、そんな立派な人はいないのです。罪を犯さないようにしようと言って、すぐに罪を犯してしまうような者が私たち人間です。聖なる清い心の人になろうとしているのに、その心には隣人に対するイライラや怒りや嫉妬や復讐が湧き出てくるのです。心に闇があると言う人もいます。そのような人が、懲罰的な神を信じているというのは馬鹿げています。何の望みもないからです。今はまだまだダメでも、いつかはきっと律法に調和した完全な人になれると努力する人はあとを絶ちません。しかし、いつになれば完全な聖人になれるのでしょうか。律法遵守による義は、一つでも破ればアウトなのです。だから、望みがないのです。パウロもそのことを教えています。しかし、そもそもはじめの神理解が間違っているのです。聖書を読めば誰でもわかります。神は何の功績がなくても人を愛します。それどころか、罪を犯して無力を痛感している人をも何とか赦すことを考えているのです。人を赦して、神の愛の力で義とし、天国へ入ることができるようにしようとされるのが私たちの神なのです。私たちは、できもしないのに完全主義者で、神をちゃんと知ろうとしていないのに、知っていると思っているような者なのです。そして、どういうわけか自分を裁きまくる傾向があるのです。罪人なのに、聖人であると思いたいのでしょうか。私たちの神は驚くほど私たちを愛するお方なのです。その愛がわかれば、自分の命を捨てて神に仕えたいと思えてくるのです。私たちの神は、罪を責めるよりは、何とか清めて聖なる者になれるようにしようとされるお方なのです。一旦、その恵みに預かっているのに、自分の考えを正しいとし、自我を捨て去らない人は、結局、神に背き、罪を犯すことになります。それだけではなく、その人は、家族にも悪い影響を与えますから、彼らもまた神に背く生き方を選ぶようになるのです。それで、その人の家族までもが罰を受けることになるのです。そのことを覚え、自分の考えに固執しないで、聖書をあちらこちら読んで学び、聖霊の導きの中で従順に生きることです。あなたの内に聖霊がおられることを信じましょう。もし、不安があれば、聖霊に満たしていただけるように祈りましょう。(佐久間)

 

10月7日(日)

これは主が命じられた言葉である。あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい。

出エジプト35:4、5

 

主への献げ物は義務ではありませんでした。随意の献げ物だったのです。神の聖所を造るためには、相当の材料が必要でした。それも、驚くほど高価な物が潤沢に使われるのです。ですから、エジプトから脱出して来た奴隷には無理なはずです。それなのに、彼らは惜しむことをしませんでしたし、出発の時にエジプト人から受け取った宝物がここで役に立ちました。こうした材料を集めてもそれを用いて工作する人も必要でした。なんでもいいということはなく、全てに意味があるので、「心に知恵のある者」が集められました。彼らは、「心動かされ、進んで心からする者」でした。これで、わかるように、今日も教会は献金や献身によって支えられ、機能しているのです。それは、主が直接真心の献げ物を受け取ってくださっているのです。主は、そうした心からの献げたものを決して忘れることはありません。このようにして聖所は造られていったように、私たちに与えられた使命も完成へと進んでいけるのです。(佐久間)

 

10月8日(月)

仕事に従事する者のうち、心に知恵のある者はすべて、幕屋に用いる十枚の幕を織った。すなわち、亜麻のより糸、青、紫、緋色の毛糸を使って意匠家の描いたケルビム模様を織り上げた。

出エジプト36:8

 

聖所の造り方から霊的な知恵が与えられています。ルース・スペクター・ラセールの書いた「幕屋」から引用してみます。建築を知っている人は、下から作ることを知っています。つまり、土台から作るのです。幕屋もその手順によるのですが、神は天井と屋根のこと、つまり、おおいの幕から指示されるのです。それは、神は天から地へ降ってこられることを暗示しています。このおおい自体が主イエス・キリストを象徴しているのです。また、壁に使われたおおいの内側の板は教会を象徴しています。幕屋の幕は亜麻のより糸を使いました。これは今日でも複製できないほど、上等のものでエジプト人だけが作っていました。これは、漂白されたものでした。そこから、汚れのないとか、潔白であること、落ち度のないことを表していました。これがキリストを象徴し、その義を示しているのです。さらに、色が書かれていますが、これにも意味があります。青は、天を象徴し、キリストは天から降ってこられたことを示し、青が最初の色だったことから、神が第一であることを示しています。緋色は最後に出てきますが、これは地を象徴する色です。アダムは、「赤い土」が元の意味です。キリストは第二のアダムで、天から来られただけではなく、地(赤)からも出られたお方でした。紫色は、王の色です。そして、紫色は青と赤の混ぜた色です。ですから、神人両性をお持ちのキリストを象徴している色なのです。この幕には、ケルビム模様が織り上げられていたました。これは、刺繍よりも難しく、高度な技術が必要でした。この模様がどれほど素晴らしいものか見てみたいですね。聖霊が働いて意匠を凝らしたものとなっていたのですから。しかし、霊的に幕屋の内側の壁として板が建てられていました。これは、銀の台座で支えられていましたから、キリストの贖いによって立つ者を表しています。つまり、クリスチャンのことです。このクリスチャンのいる場所が幕屋の中であるというところが深い霊的意味を持っているのです。キリストにあって堅く立つ者はこの模様を見ることができるというわけです。幕によって内側は隠されているのです。キリストによって救われた人だけがこの幕の内側に入れら、また、聖霊によって神の作品に作り上げられていきます。それは、キリストの内に織り込まれて行くように、キリストと一つになるように、義と変えられるように、聖霊が働かれるのです。それこそが、聖霊のバプテスマを施す意味であり、父の約束であり、強い願いなのです。だから、幕屋の外に立つ人たちのようになってはいけないのです。(佐久間)

 

10月9日(火)

彼は純金で燭台を作った。燭台は、打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁が一体であった。

出エジプト37:17

 

燭台は、ロウソクではなく、油を使ったランプでしたので、ランプ立てと言えばいいでしょうか。箱やテープルと違って、アカシヤ材が一切使われていません。純金で作られ、付属品も含めて一キカル(34.2kg)でした。時価相場が変動するので現在の金額で、一億六千万円ぐらいでしょうか。大変高価な美術工芸品と言えます。燭台は、神がご自分の民のために光としてキリストを備えられたことを示しています。純金は、イエス・キリストの神としての栄光を象徴しています。また、アーモンドの花の形をした萼と節と花弁がデザインとして用いられています。アーモンドは、アロンの杖が一晩のうちに芽を出して、花が咲き、実まで結んだ話を連想させます。これは、復活したイエス・キリストを象徴していましたから、燭台もイエス・キリストの復活を示しているのです。復活したイエス・キリストこそが私たちの光なのです。また、燭台に使われた油は、聖霊を象徴していますから、クリスチャンに注がれた聖霊はともし火となって私たちを照らすのです。それは、暗闇の中では罪や汚れが隠されていて平気でいられたのが、光の中ではそれが耐えられないのです。ですから、罪を赦され、清められた聖徒たちに聖霊が光を灯し、正しい道を歩めるようにするのです。燭台の油は、燃やせば無くなるものでしたから、油の補充がなされました。同じように、聖霊は一度注がれればいいというわけではなく、補充される必要があるのです。それで、クリスチャンは、聖霊のバプテスマを求めて祈る必要があります。聖霊の火がいつでも燃えているクリスチャンになりたいですね。(佐久間)

 

10月10日(水)

それらは、庭の門の両側においた。

出エジプト38:15

 

幕屋を囲む庭がありました。それは、定められた幔幕で囲まれていました。「幕屋」A・J・ポロック著から引用します。庭の正面には、十五アンマの幔幕と三本の柱が庭の門の両側におかれました。庭の門は二十アンマの幕で四本の柱と四個の台座で作られていました。幔幕の寸法は北側と南側はそれぞれ百アンマ、西側は五十アンマ、東側は三十アンマの総計二百八十アンマでした。これらの寸法には五の倍数が使われています。ところが入り口に当たる門は、四本の柱になっているのです。これは、救いが特定の人や民族のためではなく、万民に開かれていることを示しています。ここに門が出てきたときに、「わたしは門である」(ヨハネ10:9)と語られたイエス・キリストを象徴していることに気がつきます。「神は唯一である、神と人の間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(Ⅰテモテ2:5)、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)、「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。庭の門にはケルビムは織り出されませんでした。それは、入口には、脅かすものや裁きを示すものがなかったということです。ここには恵みが最高の形で示されていたのです。キリストの十字架の贖いがいかに恵みに富んでいたか、静かに瞑想してみましょう。(佐久間)

 

10月11日(木)

付け帯は、主がモーセに命じられたとおり、エフォドと同じように、金、青、紫、緋色の毛糸、および亜麻の撚り糸を使って作った。

出エジプト39:5

 

大祭司が着るエフォドには付け帯がありました。この帯は、聖所の内側の幕と同じ色が使われていますが、それに金色が加えられているのです。この帯は、奉仕を象徴しています。新約聖書にも「腰に帯を締め、ともしびを灯していなさい。」(ルカ12:35)とありますように、主の再臨を待つ信徒の姿を戒めています。また、同じ箇所に、「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(同12:37)、とありますから、再臨の時に眠った信仰ではなく、主を忠実に待ち続けた聖徒に主イエス・キリストが自らが帯を締め、給仕してくださると言うのです。キリストは、私たちがこの世で失敗したり、罪を犯した時に、天の聖所で執り成しの奉仕をしてくださるのです。その主の奉仕があるので、私たちは救われることを覚えておきましょう。そして、私たちも暗い夜の間も主を待ち、主のために奉仕する者であり続けたいものです。(佐久間)

 

10月12日(金)

旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。

出エジプト40:38

 

クリスチャンは天に国籍を持つ者です。そのために、この地上の生活は天国へ帰るまでの旅路となっています。ですから出エジプト記は私たちにとっても象徴的な信仰の物語として意義深いものだったのです。出エジプトを果たした民は主の指示に従い荒野で臨在の幕屋を建設し、それが主の指示通りであったので、雲が幕屋を覆いました。それは、主が幕屋に来られことを現していました。そして、今日のみ言葉の通りにこの荒野の旅路の間、主はイスラエルの民の只中にいてくださり、進むべき道を示されたのです。全てに時があるので、出発もその地に留まることも主が決めました。私たちの信仰生活も、主の時に従うことが肝心ですが、進むべきか、それとも止まるべきかは主が決めてしるしをくださることがあります。そこで、主に祈って聞くことが大切なのです。重要な決断を迫られる時にはいつでも主に祈り、答えを待ちます。すぐに答えが欲しいのに待たされることもあります。その間に信仰が試されていることを考慮に入れておくべきです。どちらでも良い時には明確なしるしは無いでしょうが、祈り抜いたので自分で選ぶことができます。また、牧師や兄弟姉妹に一週間とか期間を決めて祈って主に聞いていただき、その時が満ちたら、どうであったか確かめる方法があります。これも、その時に主が導いてくださいます。主は、あなたを一人ぼっちにしません。この旅路を一人旅にはしないのです。主ご自身があなたと一緒に旅してくださるのです。ですから、イスラエルの民のように不平や文句を言わないように気をつけましょう。主に不従順な民はカナンには入ることができませんでした。荒野で死んでしまいました。これは私たちに教訓となっています。ですから、どんな時も主に感謝し讃美するのです。その効果はてきめんです。(佐久間)

 

10月13日(土)

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。

ヤコブ1:19、20

 

人の個性はそれぞれ異なり、人から褒められる良いものから、人から嫌われる悪いものまで色々あります。今日の聖句を読むと、怒りやすい人は、本当に困るでしょう。自分でそうしようと思っているわけではないからです。しかし、聖書に書いてあるということは、怒りやすい性質を変えることができるということです。努力してもできないようなことが書いてあることはないから、自分は短気だからとか、遺伝だからとか、何かしらの言い訳をするよりは、祈って「神様、怒るのに遅い人になれるように助けてください」と願った方がいいのです。それともう一つ大切なことがあります。聖書は注意深く読むように教えられていると思いますが、実は、三点セットになっていることです。「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅い」この三点です。どれか一つを努力してやってみるというのではなく、この三つを同時に行うとうまく行くようになるのです。怒りやすい人は、人の話をよく聞かないために相手の言いたいことを理解できずに、勝手に否定的なことを言われていると脳がパニックになって怒っているのです。さらに、相手の言葉を半分も聞かないうちに、相手の話しを遮ってすぐに自分が話し始めてしまうのです。だから、聖書に書いた通りにしようと決めて、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」(21)。そのためには、先にすることがあります。「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去」(21)るのです。これは、クリスチャン全員の課題です。私たちはキリストに倣う者になりたいのに、この世の批判的な精神に倣うと自分をいつまでも変えることができないのです。「人の怒りは神の義を実現しない」と書かれていることを忘れてはいけません。悲しいかな、神が私たちを義とするという福音を知っているのに、それを台無しにしてしまうのが「怒り」なのです。今まで、しかたないと放置してきた人は、聖霊の助けをいただいて、三つの原則を実践することに努めましょう。それから、不安などのストレスをイエス様に解消していただけるように祈りましょう。何しろ、あなたはすでに救われて神の子なのですから、うまく行くはずです。頑張りすぎずに、イエス様が付いているから大丈夫と自分に言い聞かせることです。怒りから解放されて、自由になりましょう。(さくま)

 

10月14日(日)

もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」というだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

ヤコブ2:15~17

 

クリスチャンとは何だろうと改めて思います。教会に毎週通って礼拝に参加していればそれでクリスチャンと言えるのだろうか。私たちは、日々の生活の中でいつもクリスチャンとして生きているかどうか問われているのではないだろうか。教会にいると必ずホームレスの人が施しを求めてやってきます。対応する人それぞれの考えがあって、対応もまちまちです。また、ホームレスの人も本当に色々なのです。詐欺師まで来ますから、人の良い牧師は騙されてお金を巻き上げられてしまいます。私は、自分が逆にこの人の立場だったらどうだろうと考えてしまいます。だから、何か助けようと思います。ある人は、この人がもしかするとイエス様で姿を変えて来ているのではないか、と思うようです。知らずにイエス様を助けていたということがあるのかもしれません。ヤコブは、クリスチャンになっても、愛の行いが伴わない人のことを懸念していたのです。確かに信仰で救われるのですが、救いには人を変える力があるのです。それは、約束の聖霊がその人の内に宿るからです。そのため、内側からキリストと同じ愛があふれ出てくるのです。それを止めることもできるので、自分の気持ちや考えを優先するか、聖霊の促しに従うかで結果が異なって来ます。車が故障して、バスに乗りました。するとバス停でおばあさんが手押しの買い物カートを持ち上げてバスに乗ろうとするのですが、カートが重いようでバスに乗れずにいます。それが私の目の前で起こるのです。そこで、席を立ってステップを降りて買い物カートを引っ張り上げました。次にバスに乗ると、今度は体のちょっと不自由な初老の男性が乗って来ました。そして、椅子に座れたのですが、どうしたことか整理券を足下に落としてしまいました。それを何とか取ろうとするのですが、体が不自由なのでうまくいきません。それで、私は席を立ってその人の足元の整理券を拾って手渡しました。こんなことが起こると、あのおばあさんも、初老の男性もイエス様だったのではないかと後で思えてくるのです。見て見ぬ振りをするかどうかテストされていたようにちょっと考えてしまうわけです。こんなことを考えるのは、クリスチャンだからだと思います。それにしても、外に出て行くと誰かが困っていて、それに遭遇する確率が高いのはどうしてだろうと思うのですが、みんなが優しくちょっと小さな親切ができれば社会は住みやすくなるでしょうね。そのために、クリスチャンがあちらこちらに配置されているのかもしれません。(さくま)

 

10月15日(月)

わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしたちの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。

ヤコブ3:9、10

 

これはクリスチャンの悩みです。正しいことが何か知っていますが、感情の波にいつでも簡単に揺れ動いてしまいます。そこで、同じ口から賛美と呪いの言葉が出てくることになります。美しい言葉を語れるようにと思っていても、汚い言葉も出て来ます。少なくともクリスチャン同士では悪くは言わないだろうと思っていると、がっかりすることになります。モーセが口が重かったと聞けば、口だけでもモーセのようであればよかったのに、と思うのですが、口下手だという人も例外ではないのです。聖書の主張は、泉が同じ穴から甘い水と苦い水を出すことはないと比喩で諭します。つまり、私たちも神様を賛美する者であれば、その神様にかたどって造られた人間を呪うことはできないはずだ、ということです。これは、もっともな話ですね。それにしても、舌は勝手に動くのでしょうか。考える前にもうペラペラと喋り出すものですから困ります。特に、ゴシップが厄介です。その場にいない人のことを話すときが要注意です。悪気はないと言いながら、辛辣なことをつい言ってしまうのです。それが、何人かで話しているとどんどんヒートアップしてしまいます。きっと後で後悔するようなことになるでしょう。反省すると、クリスチャンは人のことを中傷したり、悪くいう人とは距離を持つようになります。自分の弱さを自覚して、気にしているのです。そのような人はヤコブ書の3章は嫌いな箇所です。舌で失敗した経験のある人は、「舌は火です」(6節)と書かれた箇所を読むと、ぞっとするはずです。その通りだからです。クリスチャンで未だ何を言っても大丈夫と思っている人は、危険な断崖絶壁のふちに立っているのです。悪魔の巧妙な誘惑で一番成功しているのが、舌の災いです。そこで、舌問題の対処法として、次の二つをあげておきます。①聖霊の助けを求める、②「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という御言葉を守り行うこと。とにかく、「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(8節)と書いてありますから、ゆめゆめ自分の言葉の責任を軽く考えずに、愛に溢れた良い言葉が出てくるように心に言い聞かせましょう。(さくま)

 

10月16日(火)

神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。 

ヤコブ4:7、8

 

ヤコブ書には、クリスチャンとして恵みを受ける方法や、願い求めて得る方法や、悪魔の攻撃に勝利する方法や、主に高めていただく方法、そして、なすべき善を知りながら、それを行わないなら罪となる、という覚えていなければならないことがどんどん出て来ます。この世の人は、クリスチャンの反対を行うので、悪魔に服従し、神に反抗しています。そのような世界に住んでいたので、私たちはその後遺症が残っているようで、聖書に書かれていることを実践しないため、大いに損をしていることがあるのです。神に服従していないのに、悪魔に反抗しようとすれば、うまく行きません。ひどい目にあう危険があります。ですから、クリスチャンとしては当然のことを、つまり神に服従することを第一にすることです。そして、神に近づくのです。驚くことに、ここには法則があって、神に近づくと神も近づく、という法則です。キリスト教の聖人たちの伝記にはこのような実例があります。ですから、人生を一変するほどの霊的体験をあなたもできるのです。主があなたを祝福し恵みに満たしたいとお考えであることを信じましょう。その恵みを受けることは難しくありません。単純に聖書のみ言葉をそのまま実践することです。(佐久間)

 

10月17日(水)

忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

ヤコブ5:11

 

あなたが今日、なんでこんな目にあっているのだろう、最悪な人生だ、と思っているなら、喜んでください。旧約聖書にヨブ記があることをご存知ですね。ヨブは何一つ落ち度のない信心深い人だったのです。だからこそ祝福されて豊かな人生を送れたのです。ところが、そのヨブが子供達も財産も何もかも失い自分自身も重い皮膚病で苦しみに突き落とされます。ここまで読んで、ヨブ以上に自分は不運だと言える人はおそらくいないでしょう。そのヨブがテストされていたことを読者ははじめから知っています。それで、ヨブの忍耐をとことん見せられます。そして、最後にヨブは以前よりももっと大きな祝福を受けることになります。そのヨブの忍耐がヤコブ書に出てきたのです。ですから、クリスチャンも忍耐が必要であることを学ばなければなりません。「忍耐」は私たちが一番嫌いなものかもしれません。だから避けたいのですが、信仰生活を振り返ると忍耐があってこそ信仰が成長し、その信仰によって大いに祝福を受けたと言えます。つまり、忍耐だけで終わる、ということはありません。大きな試練で、神様に見捨てられたと感じた時にも、それでも主を信じる、という信仰があるか無いか、そこが分かれ目です。聖書の偉人たちは皆その忍耐を通ってきたのです。では、忍耐を続けたならどうなるのでしょう。もちろん、その先には大きな喜びが待っています。ですから、気落ちすることなく、この試練の先に主の大きな恵みが待っていると自分に言い聞かせましょう。その保証は、あなたの「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」。(さくま)

 

10月18日(木)

万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。

ハガイ1:7、8

 

イスラエルの悲劇はバビロン捕囚に一番現れている。しかし、バビロンはペルシャに敗れ、クロス王はイスラエルの民が神殿復興するために帰還することを許した。それは良いことのはずであったが、新しい困難が待ち構えていた。帰還した人たちは、荒れ果てて放置されていた畑をなんとか元に戻さなければならなかったが、悪いことに土地があれて収穫は非常に少なかった、それだけではなく、旱魃が起こり、生きていくことすら困難を覚える状況になった。その時、預言者ハガイが主の預言を語り出したのだ。それは、神殿を復興することを命じるものだった。民は自分の生活のことを神殿復興よりも優先させた。しかし、主は神殿の再建を先にすることを求めた。神のことを第一に優先することこそが神の民が覚えるべきことだった。それは現代でも同じことだ。祝福された人生を送りたい人は、まず、神のことを優先することだ、そのために時間をとって祈り、主に聞き、考えることだ。自分のやるべきことは決まっているから、それを知ることも大切なことなのだ。神を後回しにすると、ろくなことがない。危険とすら言える。逆に、神に栄光を帰すことができれば、驚くほどの恵みに満たされて生きるだろう。問題を抱えている人は特にこのことを忘れずに考えてみよう。私たちは本来祝福された人生を喜んで生きて行くことになっているのだから、問題がある時には、主が何かを教えようとしているかもしれないので、静まって心を主に向けてみよう。(サクマ)

 

10月19日(金)

働け、わたしはお前たちと共にいると、万軍の主は言われる。

ハガイ2:4

 

 

クリスチャンは、普通の人とは違っています。ですから、この世の人と同じになる必要はありません。信仰のことで誰かを恐れる必要もありません。どんな人も、あなたを脅かすことはできません。主は、あなたが揺るがされることを許さないからです。あなたは祝福を受けて、恵みを味わい、いつも喜んでいることができます。親切な正しい人として生きることができます。悪魔はあなたを誘惑してくるでしょうが、あなたはイエス・キリストと共にその誘惑を退けることができます。それどころか、悪魔に立ち向かうことで追い返すこともできます。祈ることを楽しみにし、自分が何者であるか知ることができます。さて、このように素晴らしいあなたは、主が「働け」と言われた時に、何を思うでしょうか。今日の聖句の前には、「皆、勇気を出せ」と主が言われました。勇気を出して、働くこととは何でしょう。ハガイの時代には、荒廃した神殿を再建することが、勇気を出して働くことの内容でした。では、現代人の私たちは何をするのでしょうか。パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Ⅰコリント3:16、17)と言っています。ですから、自分が神殿であることをわきまえ、神殿を完成させるために働くのです。働くと言っても、自力で聖なる者になるのではありません。聖霊が建て上げるのを協力します。それはあなたの想像をはるかに超えています。日々の生活に聖霊の働きがあるからです。あなたが何をしても意味が出てくるのです。だから、うまくやるには、いつも喜び、全てのことを感謝し、絶えず祈る、これに尽きます。不平を言ったり、怒っていては、聖霊の働きを妨げてしまい、悪魔にすきを与えてしまいますから、ひどい目にあう危険があります。そうならないためにも、聖書を学びましょう。神を侮ると、後悔することになりますから、謙遜に、信心深く、明るく、楽しく、積極的に生きましょう。(佐久間)