2018年12月ディボーション

12月1日(土)

毎年アダルの月の十四日と十五日を祝うように定めた。ユダヤ人が敵をなくして安らぎを得た日として、悩みが喜びに、嘆きが祭りに変わった月として、この月の両日を宴会と祝祭の日とし、贈り物を交換し、貧しい人に施しをすることとした。

エステル記9:21、22

 

 

一つの民族が、長い歴史を通して何度も殺戮されるというような事があるだろうか。それがユダヤ人には起こったのだ。まことに不思議な民族だと言わずにはおられない。紀元70年には国もローマに滅ぼされ、生き残った者たちは難民となって離散した。それでも、1948年にはイスラエルという国を復興した。このような奇跡が他にあるだろうか。普通なら、とっくに民族としては無くなっているはずだ。それが、残った理由は旧約聖書とタルムードのおかげだ。別の言い方をすれば、律法がユダヤ人を生き残らせたと言える。安息日一つとっても、キリスト教のそれとはずいぶん違っている。彼らがパンだけで生きる者ではないことを実践できたのは、仕事を七日毎に必ず休んだからだ。肉体の疲れを癒すだけではなかった。他の動物とは明らかに違う、神にかたどられた者として生きるためだった。彼らの収入の約10パーセントは慈善のために使わなければならない。これは、善行ではなく義務なのだ。このような民は律法によって独特な存在となっている。ユダヤ人は、敵を愛さない。その事が良くわかるのが今日の箇所だろう。逆転勝利と言っても良い、この日をユダヤ人は祭として今も守っているのだ。ちょうど、クリスマスを祝うように、プリムの祭に贈り物を交換し、貧しい人に施しをするのだ。キリスト教がヒューマニズムに流されていないか、神を第一にしているか反省するのにユダヤ人から学ぶことは多い。(サクマ)

 

12月2日(日)

ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。

エステル記10:3

 

これがエステル記の最後です。ハッピーエンドですが、肝心のエステルのことは何も触れられていません。彼女の勇気ある行動抜きにしてはこのような結果はなかったはずです。それに、モルデカイは確かに優れた人物でしたが、多民族国家のナンバー2に出世してやったことといえば、ユダヤ民族への貢献であったというわけです。ルターでなくても、このように民族主義の色が濃い文書を聖書に載せるのはいかなるものかと疑問が湧いてくるかもしれません。このエステル記が聖書に含めるか否かは過去に何度も問題になりましたが、依然として聖書から削除されることはありませんでした。そもそも神様が出てきていません。そこでよく考えてみると、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の民とされた」(申命記7:6)と、主がイスラエルの民に話しているのです。これは、人類救済計画の一環なのです。罪人を救うことは簡単ではありません。大きな力のある民族を選べば、自らを誇り、簡単に神に背いたでしょう。ですから、一番貧弱な民族を選んだのです。神がご自身を彼らに啓示され、大きな愛を注いだのにもかかわらず、彼らは律法を守り行うという契約を守れなかったのです。それでも、まるで実験のようにこの民は神の慈愛を受けながら罪の世界で信仰を試されます。そして、悪の力によってイスラエルの民が殺戮される危機の時にも、神の御力で逆転する奇跡を経験したのです。彼らは、神を信じ、祈ることによって、救われることを証明しました。そして、この神だけが生きて働き、信じる者を救うことのできる全能者であることを明らかにしたのです。この神を私たちも信じています。ですから、私たちは困った事が起こっても、決して行き詰まることはありません。自分の力ではどうすることもできない危機が襲ってきても、神に頼れば驚くような助けが与えられます。くよくよと無力な自分に目を向けてはいけません。そうではなく、主イエス・キリストに目を向けるのです。この方があなたの救い主です。この方があなたのできないことを全てやり遂げてくださいますから、あなたは良い結果だけを期待していればいいのです。ありがたいですね。(佐久間)

 

12月3日(月)

知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。

コヘレト1:18

 

終末預言に世の終わりの時代には知識が増す、というものがある。その通り、驚くほどの知識が増して、世界は激変した。ちょっと前まで、電話を持ち歩くことなど考えられなかった。SF小説で読んだ未来の世界が、本当に実現してきている。個人がコンピューターを持ち歩き、インターネットに繋げれば、なんでもたちどころに知識を得る事ができるようになった。SNSも便利なものだが、例えばLINEで傷ついたり、いじめに使われることもある。テレビ番組もクイズ番組が人気でどの局も知識を情報として伝える番組をゴールデンタイムに持ってくる。学校の教科書も書き換えられ、昔習った知識が陳腐なものになっている世の中に今生きているのだ。多くの人が農業や工業労働者であった時代は、知恵も知識も今とは比べ物にならないほど与えられなかった。いまでは、人間のゲノム編集がニュースになる。ついに神の領域に手を出しているのでは、と心配する時代になった。神なら間違わないが、人間は間違う。ましてや罪人が神を恐れず、何でもやっていいのだろうか。バベルの塔の話を思い出せば、神が許さないことがあり、人類の大きな災厄になる可能性があるのだ。歴史に名を残すほどの知恵者であったソロモン王も、「空しい」という現実に行き当たった。そして、今日の聖句を残したのだ。人間が無知であることは良くない、いや悪と言ってもいい。しかし、知恵や知識が増しても、それで幸福になるわけではない。良い事と同じぐらいに悪い事がついてくるからだ。例えば、タンカーが座礁して重油が海に流れ出し、海洋汚染が起こる。この重大な被害を食い止めるとめに、遺伝子操作をして、重油を食べてしまうバクテリアを作って、海に流したら良いと考えた科学者がいた。しかし、彼はもっと重大な事には気がついていなかった。それは、そのバクテリアは、流れ出た重油だけを食べてしまうのではなく、地球上の全ての石油を食べてしまう可能性があるという事だ。同じようなことを人間はしてしまうのだ。人間の空しさの問題は、結局は罪の問題と言える。だから、罪の問題が解決しなければ、空しい、という結論にたどり着くことになってしまう。しかし、イエス・キリストがお生まれになった。それで、全てが変わった。イエス・キリストを信じる人は、この空しさを克服する事ができるのだ。(サクマ)

 

12月4日(火)

人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。

コヘレト2:24

 

悲観的に物事を見る人にとって、コヘレトの言葉は、響くものがあるだろう。一般的に、感受性の優れている人ほど、悲観的になりやすい。それは、他人の内面がわかると感じるからだ。つまり、どんな人か、自分に立ちしてどのような感情を抱いているか、悪意や敵意は敏感に感じ取るので、それだけもストレスになる。そして、自分の感情は人に近づくとすぐにアラームが鳴り出し、避けたくなったり逃げ出したくなったりする。自分を傷つけずに、共感したり、親切にして欲しい。特に、自分を否定しないで欲しい。自分のダメなところは良く知っているが、それにダメ出しをされるとどうしていいかわからなくなる。だから、黙ってそばにいて欲しいのだ。しかし、そのような人はいない。何かを願えば、その見返りを求められる。だから、自分を無条件に認め、愛してくれる人を求めるのだが、そのような人には決して出会えない。このように感じて生きている人は意外なほど多い。だから、コヘレトの言葉は悲観主義の教科書のように受け取られると困るのだ。本当に空しくなってしまうだろう。ここに書かれていることは、実は、とても興味深い。「この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せようと心に定めた」(2節)。普通の人は、このようには考えない。「幸福になるには、酒に溺れないように気をつけ、決して愚行に走らないようにしなければならない、これらは不真面目だから、真面目に生きなければ」と考える。そして、自分は幸福でないと思っている。その上、酒を飲み、愚行を行うのだから、どうしたいのか、と言いたくなる。コヘレトは、こうあるべきである、というような人間の既成概念を取り去った。日本では絶対的に正しいと思っていた事が外国に行ってみるとそうではなかったりする事があるように、多くのことが絶対的ではなく相対的なのだ。だから、これは人間にとっては幸福なことかそれとも不幸なことか、やってみなければ見極められない。もっとも知恵がなければ、見極めることなどできないから、自分より賢い人が教えることに従うようにして人間はやってきた。それを無視してひどい目にあっている人を愚者と言ってもいい。しかし、知恵ある者が、あらゆることを試してみても、空しさだけが残る、とコヘレトは語る。せいぜい、「飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」だ、と言う。これは、私たちが普通にしていることだ。賢者が悟りを開いたような目新しい良い知識ではない。誰でもが毎日していることなのだ。しかも、それは「神の手からいただくもの」だと言う。それを聞いてどう思うかだ。結局、神無しの人生を生きるか、神ありの人生を生きるか、のどちらかを選択して生きるのだが、前者は空しく、後者は少なくとも魂の満足がある、ということだ。(サクマ)

 

12月5日(水)

人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。

コヘレト3:22

 

自分がどのような者であるか知りたかったら、自分が何をしてきたか振り返ってみればいい。後悔ばかりだと言う人は、随分否定的な考えに苦しめられている人だろう。どんな人でも、良いことが必ず人生に訪れるものだ。それも一回というわけではない。もし、今日はついていなかった、とひどい一日の終わりに思ったとしても、それの何倍も良い日があったのだ。問題は、物事の見方、考え方だ。万が一、自分を傷つけ踏みにじられるようなことがあったとしても、それで一生を台無しにしてはいけない。人は成長できるし、自己を肯定することもできる。それどころか、自分を変えることだってできる。もっとすごいのは、過去を克服できることだろう。聖書を見ても明らかだが、イエス様と出会った人たちは、ことごとく変わった。人生を好転することができたのだ。それはイエス様がその人を認めてくださったからだ。この絶対的存在が自分を肯定してくれることが私たちには必要なのだ。今日も御言葉も、あなたは実現することができる。それは、人生を楽しんで良いということだ。仕事でも、奉仕でも、子育てでも、趣味でも、家事でも、宗教でも、平凡なことでもいいから、自分で一生懸命にやってみることだ。そのとき重要なことは、楽しみを得ることだ。律法主義者は楽しいと思っていない人のことだ。狂信的な人たちは、それすら判断できない。聖書を学んでわかることは、神様を信じて生きることは、人間にとって楽しいことなんだということだ。「そんなことをしていたら、死後の裁きで地獄に行く」といったようなことは、本当のところ人間にはわからないのだ。何しろ、イエス様が罪人の代わりに十字架で処刑されたのだから。そして、死後三日目には復活してみせたのだから、私たちは死後じゃなくて、復活したらと、イエス様のおかげで超越しているのだ。さて、あなたが幸福になることは、神様の御心にかなっている。だから、あなたが何かしてそれが楽しいと思って生きることができる。つまり、あなたは、最も幸福に生きることができるということだ。アーメン。(さくま)

 

12月6日(木)

人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これもまた空しく、風を追うようなことだ。

コヘレト4:4

 

ある時、知り合った男は、いきなり身長を聞いてきた。そして、私の身長を教えると「勝った!」と言ったのだ。競争心とは面白いもので隠すことができないらしい。バカバカしいのだが、何でも競争したくなる。誰かが正月にお餅を何枚食べたと自慢すれば、私はそれ以上食べた、と言わないではいられない。また、誰かが、どんなバカなことをしたか自慢すると、大笑いした後に、でも私の方がもっとすごいバカなことをしたと言わないでは気がすまない。万事がそうなる。しかし、バレンタインデーのチョコを何個もらったかというような話しには急に無関心になり、数を誇る者をバカにする。それどころか、そもそもバレンタインデーは無かったことにする。ここにも難しい深層心理学の力を借りなくても競争心理が働いていたと言える。また、その人のこだわりが何であるかもあらわになる。高校生の時、数学のテストを返された時に、どういうわけか先生が褒めてくれた。その時、最前列にいた友人はそれが聞こえたようで、横を通った時に皮肉を言った。「100点を取ったのか?嬉しそうだな」。実際に嬉しそうな顔をしていたのかもしれないが、この一言で彼の競争心が伝わってきた。しかし、彼は正直だっただけだ。神学校の時でも競争心を隠さない人もいた。牧師になっても、競争心を燃やしている人はいたから、聖書に書かれた通りなのだ、とあらためて思わされる。もちろん、良きライバル、と言った言葉が存在するのだから、仲間同士で切磋琢磨することは良いこととみなされている。ところが、これが嫉妬に変わると良くないことになる。もとより、仲間に競争心を持たない人もいるが、それはその人が仲間をライバルと思っていないか、自分のことだけを考えているからだ。そこで、誰かが仲間同士の競争心を煽ると、たちまち火がつくことになる。やれやれ・・だ。・・・一枚の白黒写真がある。私が幼稚園の時の運動会でかけっこのスタートシーンだ。一人は、不安そうにかけっこの構えをしている。もう一人は、誰にも負けないぞ、という顔を私に向けている。そして、私は一人ニコニコと嬉しそうだ。何と緊張感のないことか。振り返ってみれば、私はそうやって生きてきたように思う。やはり個性の違いは大きいのだろう。しかし、競争心を燃やして、労苦することにはどのような意味があるのだろう。聖書に書いてあるように空しさが残り、その労苦が風を追うようなことであるならば、やはり、「互いに愛し合いなさい」というキリストの掟が空しさからの救いとなっていることがわかる。(サクマ)

 

12月7日(金)

見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。

コヘレト5:17、18

 

人間がこの地上で生きることは肯定されている。職業が色々あるように、生計のために実にいろいろなことを人間は考えた。頑張りたい人もいれば、そうでない人もいる。多様性を認めない限り、自分の思う正しいことのせいで誰かが苦しむことになる。一番良いことは、自分の選んだ人生を後悔しないことだ。神様を知らない時ならば、後悔の連続だったかもしれないが、神様を知って新しく生まれ変わったのなら、喜びは外から来ることを知るだろう。そして、いつでも自分の中にその喜びはとどまっている。しかし、見当違いなことを考え、心配や不幸に支配されると、その喜びは消えてしまう。聖書は、禁欲主義ではない。人間の自然な欲求は満たされるようになっているのだが、それを感謝するかどうかでものの見え方が違ってしまう。富や財宝は悪ではない。人間の心の問題で悪にも前にもなる。神様から与えられたものを享受することは許されているのだから、満たされ、満足すればいい。分をわきまえ、欲張ってはいけない。そして、自分の人生を人と比べずに生きることができると、楽で満足できる。律法主義や禁欲主義を警戒し、寄せ付けてはいけない。食べて行くために働き、そこには何かしらの苦労や困難もあるだろうが、それすらも良いことに変えられる。神様から与えられたもので満足することは幸せなことだ。このように、神様に与えられた人生を感謝して喜んで生きれば、過去を振り返って後悔したり、昔は良かったなどと言わなくなる。私たちは、労苦の結果を楽しむように定められている。これが神の賜物である、と聖書が教えている。(さくま)

 

12月8日(土)

言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。

コヘレト6:11

 

コヘレトを読んでいると厭世的な気分になり、嫌になると思うかもしれません。ここに書いていることは極端で、反発を覚えるという人もいるでしょう。それでは、どのように反論するのでしょうか。やってみると人の不思議が見えてくるでしょう。そして、厄介なことに、コヘレトの言葉の意味に気がつくかもしれません。それは、自分に戻ってくるということです。自分と関わる誰かが心に浮かんでくるかもしれません。少なくとも実例を知っているのです。それが自分にどのような気持ちを引き起こすか、「空しい」。どんな人でも、自分は誠実に生きていると思っているものです。周りの人が正反対の評価をしていてもです。そして、言葉の問題が出てきます。自分をなんとか良い人と評価されるために言葉が多くなってしまうのです。実際の自分は相手に見えているのですが、自分には見えていないので、自分が相手にこう見て欲しいという良い自分を言葉で表現しようとするのですが思うほどにはうまく生きません。特に、相手が自分を低く評価していると感じると、それを変えるために言葉が多くなるか、相手を遠ざけるようになります。また、相手が批判してくると、話も大きくなりがちです。つまり、逆転満塁ホームランを打って、評価を回復したいのです。これも、空しさを増します。また、夢のような話をすることも信用問題になります。いつかはお城のような豪邸を建てるとか、世界で数台の超高級車をいつか買う、と言った話は夢物語でいいのですが、これも言葉数が多くなれば空しさが増します。ペトロが変貌の山でイエスとモーセとエリヤに家を建てますと言った話も、意味のないことでした。言葉の問題は、自分の心から溢れて出てくる時に明らかになります。心が満ち足りて、平安であることが望ましいですね。(佐久間)

 

12月9日(日)

一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる。

コヘレト7:18

 

ある注解者は、16、17節のことを意味していると言う。善人すぎるな、義人すぎるな、という一つのことともう一つは悪事をすごすな、愚かすぎるな、ということの意だと言う。どこまでも中道でバランスを欠くなということだろうか。日本語のことわざにも「二兎を追う者は一兎をも得ず」というのがあるから、普通は欲張って二つを求めてはいけない、結局二つとも失うことになるといけないから、と日本人の賢者は格言を残したわけだ。新共同訳聖書の書き方だと、どうしても注解者の言っていることではなく、文字通りの意味で、日本人の賢者の逆を言っているので面白いと思えてしまう。普通、同時に二つのことをしようとすれば、両方とも成功しない、と戒めていることは正しいことだと思える。しかし、信仰を持っている人の場合はちょっと違う。秘訣は、「神を畏れ敬えば」だ!そうすれば、「どちらをも成し遂げることができる」。ちょっと、お得な感じがしないだろうか。二つに手をかけてつかむことが、神様がご覧になっても大丈夫であると思えることなら、簡単にどちらかを諦めてはいけない。私は、働きながら博士課程を学び、論文まで書いて博士を取得した。普通なら、休職するのだろうが、どちらも成し遂げることができた。その後、アメリカで働くことになったが、採用される時に博士が役に立ったので、このために神があらかじめ用意されたことだったとわかった。私たちは、将来のことなど全くわからないが、神を畏れ敬っているなら、ちゃんとするべきことへと導かれるものだ。信仰は、必ず報われるから、神から目を離さないことが成功への近道なのだ。(サクマ)

 

12月10日(月)

罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が、なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない。

コヘレト8:12、13

 

テレビのニュース・ショーに出演している解説者は大変な仕事をしている。何しろ、歴史上一番賢い賢者が昼も夜も眠らずに地上に起こることを見極めようとしても、結局悟ることができなかったと告白しているからだ。「賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない」(17節)と聖書に書いてあるので、その賢者の役をテレビでやり遂げることがどんなに困難なことかと思う。事実、自分の知らないことや考えたこともない出来事に何かコメントを求められると思慮の足りないことを言ってしまうことになる。それでも、毎日良くやっているのでやはり現代の賢者なのだろう。それでは、聖書を読む賢者の皆さん、今日の聖句はどうなっているのだろう。「罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が、なお、長生きしている」「悪人は神を畏れないから、長生きできず」これらは、矛盾していないのだろうか。いったい、悪人は長生きできるのか、できないのか。つまり、神を畏れない人が悪人で長生きできないが、罪を犯し百度も悪事を働いていても神を畏れていれば長生きできる、と言っているのだろうか。これは、どうもおかしい、いわゆるパラドックスになっている。ということは、作者の意図があることになる。そこで、いろいろな解釈がなされてきた。私たちは、単純に読むことにしよう。人は、悪人を見て思う。悪事を働けば神の怒りに触れ、すぐにでも殺されてしまうはずなのに、悪事を働いている者を神が見逃したかのように、彼はまだ生きているじゃないか。しかし聖書によると、神を畏れる人は幸福になれるが、悪人は神を畏れない者なので何度も悪事を成功させたと言っても、幸福になれない。幸福でないのだから、悪人の人生は影のようなもので、それだからこそ、その人にとって人生は長いとは言えなくなってしまう。つまり、悪事を働く人の精神は不幸なので、信仰を持っている人のように幸福な日々を送ることができない。たとえ、百度も悪事を働けたとしても、不幸なので影のような人生しか生きられない、と言っているのだ。神を畏れる人の幸福は、神が共にいてくださるので大丈夫だという平安のことだ。神を畏れる者を神は幸福にしてくださる、ということが知恵なのだ。(サクマ)

 

12月11日(火)

知恵があるといってパンにありつくのでも、聡明だからといって富を得るのでも、知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにでも臨むが、人間がその時を知らないだけだ。

コヘレト9:11、12

 

アルバート・エリスという心理学者は、『性格は変えられない、それでも人生は変えられる』という題の本を書いた。まったく、この題の通りなのだ。過去のトラウマに縛られて生きなければならないなら人生は変えられない。しかし、それを克服することができるのだ。そのために難しい心理学を学ばなくてもいいし、アルバート・エリスにカウンセリングを受けなくてもいい。ただ自力だけでは難しいことも知っている。それでも、幸いなるかな、主イエス・キリストが信じる者を救い、その人生を変えることができるのだ。コヘレトが言う通り、この世では、知恵や知識があっても、ましてや聡明であっても、うまくいくとは限らない。確かに人生は長いから「時と機会は誰にでも臨む」だろう。それなのに、順番を待っていれば誰でも人生が好転し、勝利の栄冠が手に入るというようにはなっていないのだ。成功のチャンスを待ちくたびれてとうとう死んでしまう人は、不公平だ、と嘆くしかない。では、どうしてそうなるかと言えば、コヘレトは「人間がその時を知らないだけだ」と告げる。では、トラウマから抜け出すことに成功した人や、人生を好転させたという人はどうしたのだろう。凡人の私のわずかな見聞ですら、うまくいっていない人の特徴はわかる。「性格は変えられない」という点に焦点を当てて、頑固にしがみついてなんとか性格を変えようと頑張り続けているのだ。私たちは、クリスチャンなので、福音を聞いた。それは画期的で、古い自分を十字架につけて死ぬことができること、そして、新しい命に生きることができることを告げている。その方法も簡単で、誰にでもできるものだ。なぜならキリストを信じるだけで、あとは神が義としてくださるからだ。教会にいれば「新生」という言葉を何度も聞いただろう。この世で悩んでいたのは、過去の深く傷ついた経験がトラウマになっていることが大きい。そして、自分の性格がそれによってマイナスの面が強く現れるようになってしまった。ところが、その古い人が十字架で霊的に死んでしまえば、そして、新しい人として生まれることができれば、リセットして、人生を変えることができるということなのだ。そのことを牧師から説明を受けて洗礼を受けたはずだが、一時の喜びで終わってしまったのなら、福音は中途半端になっている。新約聖書には聖霊のバプテスマのことが書かれている。この聖霊のバプテスマを受けることにより、その人は刷新することができる。自分の生まれ変わりを体験できると言えばわかるだろうか。使徒言行録を読めば、キリストの十字架、復活の後に弟子としてとどまったのは、わずか120名ほどだった。その人たちがしたことは、約束の聖霊が降るまで、毎日祈り続けたことだった。いつ聖霊のバプテスマがあるのか日時を知っていたら、その直前にだけ祈ったかもしれないが、彼らも時を知らなかったのだ。しかし、毎日祈り求めれば、必ずその時に遭遇することになる。だから、聖書で調べ、確信を信仰にして祈ればいいわけだ。ちょっとやっただけで、すぐにやめてしまう人が実に多い。それでも、三ヶ月も祈ってついに受けた人もいるのだから、あきらめるべきではないと思う。(佐久間)

 

12月12日(水)

愚者は道行くときすら愚かで、だれにでも自分は愚者だと言いふらす。

コヘレト10:3

 

愚者とは言われたくないものです。聖書は、人間は賢者か愚者のどちらかになって生きていることを示します。だれも愚者になりたいとは思わないでしょう。だから賢者になればいいのですが、それすらも難しいのではないかと何処かで尻込みしています。愚者ならば、多少の馬鹿なことをしても構わないし、気楽に生きることができるから、いつも立派にとか考えずに、寝たい時に寝て、食べたいものを食べ、ほどほどに生きればいい、と考えるのです。自分の心の中にあることを黙っていることができません。口数が多いのです。それで、余計なことを話してしまうのです。そのために、痛い目にあうのですが、反省して次に活かすということができません。だから同じ失敗を繰り返します。懲りないのです。人からは良く思われたいので、気を使いますが、周りがよく見えていません。人前に出ると、緊張するし、はじめはおとなしくしていますが、すぐに場になれると、余計なことを言ってしまいます。稀に上手く立ち回ったと思って気を良くしていると、悪い噂が流れていと教えてくれる人がいて、結局、調子に乗って失敗したことを知るのです。こうなると、悪いのは周りの人たちで自分ではないと開き直ります。どうして、愚者は賢者になれないのでしょう。そもそも「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」と正反対なのです。よく、クリスチャンになる時に、コンバージョン、回心すると言いますが、愚者から賢者へと心を回転するようなものなのです。価値観が百八十度変わるのです。愚かな自分のために生きようとしていたのが、神のために生きようと変わるのです。だから、神が望む通りに生きようとするので、賢者になれるのです。しかし、クリスチャンにも自由意志がありますから、選ぶことができます。自分の思い通りに生きようとし始めると、愚者に逆戻りしているかもしれません。くれぐれもご注意ください。(佐久間)

 

12月13日(木)

あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。

コヘレト11:1

 

子供の頃、読んだ冒険物語やテレビで見た西部劇では、主人公がインディアンを助けると、やがて困った時にあのインディアンから恩返しを受けるという内容のものがいくつかあった。今日の聖句も、そのような話しに見える。だからと言って、恩返しを期待して何か善行をしようというのはおかしなことになる。善行は見返りを期待しないからこそよいのだ。イエス様も「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6:3)と教えられた。漫才師なら突っ込まれそうだが、この話の深みがわからないのはさらに悲しいことだ。大昔には、商船が金銀、象牙、猿、孔雀、等の商品を大量に積んで、航海に出た。商人たちは、かなりの長期間、この船が戻ってくるのを待たねばならなかった。まさに、神様に委ねるごとく商船に委ねたのだった。彼らの報い、つまり利益が出るまで忍耐して待っていたことになる。このように、あなたが今、何か神様に委ねようとしているなら、その結果が出るまで気長に待つことだ。また、あなたが善意の人であるのなら、小さな親切や、善行を惜しんではならない。周りの人たちに良いことをするように心がけると良い。そして、慈善のために惜しまずにお金を用意しておこう。あなたの愛の行為は、巡り巡ってあなたの元へと帰ってくるだろう。それも、あなたが助けを必要とする日にちょうど届くはずだ。不思議だが、聖書に書いてあるのだから、本当にそのようなことが起こるのだ。(さくま)

 

12月14日(金)

すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。コヘレト12:13

 

古代のユダヤ人は、詩篇119篇に書かれたように思っていた。「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は。彼らは決して不正を行わず、主の道を歩みます。あなたは仰せになりました。あなたの命令を固く守るように、と。わたしの道が確かになることを願います、あなたの掟を守るために。そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても恥じ入ることがないでしょう。あなたの正しい裁きを学び、まっすぐな心であなたに感謝します。あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください」(1~8節)。つまり、幸福になるには神の戒めを守ることだ、と。ところが、彼らは罪人なのだ。だから、律法を守ることは簡単ではなかった。努力すれば守れるというものではない。罪とは、律法違反のことだ。だから、いかに矛盾しているかわかるはずだ。そこまでの想像力がなければ、自分自身を省みてみればわかるはずだ。そして、古代のユダヤ人が、律法を守ることの厳しさを体験し、神が守れと言っていることを守りきれない悲しさが、「どうか、お見捨てにならないでください」との言葉に現れている。彼らにとって本当に必要なことは、罪人である自分を贖って、神を愛し、隣人を自分のように愛する者に造り変えて欲しかったはずだ。パウロは、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(ガラテヤ2:16)と言っている。また、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)とも言っている。それでは、私たちは律法を守りたくないのだろうか。いや、そうではなくて、神の戒めを守りたいのだ。忠実に守りたいのだ。ところが、残念なことに、簡単にできないのだ。例えば、感情的になってしまえば、たちどころに罪を犯してしまうだろう。外面的には守れても、内心はどうだろう、と心配しなければならない。だから、主イエス・キリストを信じる信仰によらなければ、義とはならないのだ。しかし、重要なことは、人間が知恵と知識を尽くして本を書いてもきりがない、真の知識、真の知恵は、律法にあるということだ。そして、それを戒めとして守って生きることが幸福である。それを罪人は、自分の行為では得ることができず、神の恵みで義としていただくだけだった。それは、主イエス・キリストの犠牲により成り立っている。だから、キリストは、ロゴスと言われている。真の知識、真の知恵とはキリストのことだったのだ。キリストとの信仰の関係によって、初めて義とせられ、神との愛の関係に回復させられるということだ。古い人は死に、神の息を吹き入れられた新しい人が愛の律法に生きることになる。(サクマ)

 

12月15日(土)

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

マタイ1:23

 

今年もクリスマスの季節が巡ってきました。そして、私たちは聖書を開き、イエス様がお生まれになった箇所を読むのです。この書かれたことが私たちの救いのことを保証しているのです。罪人は罪に囚われているので希望がないのです。この世界のすべての人々が罪人なのです。ですからこの世界は暗黒の世界なのです。その暗闇に光が灯りました。ついに光が来たのです。それがイエス様のお誕生です。この方が、私たちを罪から解放してくださるのです。イエス様は、「神は我々と共におられる」ということを証明されました。そして、今も私たちのために働かれています。この方が私たちに「神は愛である」ことを教えてくださったのです。私たちは、いつどうなるかわからないような不安定な者ですが、困難な時にも、困って途方にくれるような時にも、病の時にも、どんな時にも共にいてくださるのです。ですから、恐れることはありません。悪魔さえも、イエス様に恐れおののきます。イエス様はすでに悪魔にも勝利されましたから、イエス様が共におられるということは、本当に大丈夫であるということなのです。そして、何より、あなたがイエス様に愛されているということです。無条件の愛ですから、頑張る必要もありません。ありのままで、受け入れてくださるのです。あなたはこのようにイエス様を知っているのです。(さくま)

 

12月16日(日)

イエスは、ヘロデ王の時代にベツレヘムでお生まれになった、そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

マタイ2:1、2

 

占いの類は聖書的ではありません。クリスチャンが占いをしていれば、呪われるかもしれません。それほどに占いが忌み嫌われているのです。それなのに、ここでは占星術の学者が登場します。現代の私たちは宇宙の存在を知っています。地球がどうなっているかも科学的に知識があります。そして、天体も同様です。それにもかかわらず、私たちは夜空に星を見つけるといっぺんに心がこの世の煩いから解放され、その神秘性に魅了されるのです。イエス様のご降誕物語は、とてもロマンチックに想像されて来ました。何しろ、東方から来た謎の占星術の学者たちが登場します。本来なら、メシアのことを預言者が預言し、その預言の成就を待っているはずのユダヤの人たちが知らないのです。そして、外国人のマギたちが長旅をしてエルサレムへ到着します。「天にメシアの生まれたことを告げる星が現れた」と、言って、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王に聞きます。まったく、こっけいな話しになっています。ユダヤ人の迂闊さ、不信仰、聖書の専門家の怠慢、メシアを待望していたと言えないような状態がすべてこの物語の中で暴露されているのです。さて、イエス・キリストはもう一度、この世界に来られると預言されています。そして、その時も初めの時と同じように、神の民は無関心でいるかもしれません。主人の帰りが遅いからと寝ている僕であるか、いつ帰って来てもいいようにちゃんと待っている僕と、再臨の直前にも二つに分かれるのです。クリスチャンじゃない人の中に、メシアを拝みに来る人が現れるかもしれません。いつ再臨があっても良いように備えておきたいものです。

 

12月17日(月)

ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。

マタイ3:7、8

 

 

今日の箇所は、洗礼者ヨハネが当時の宗教家を裁いた場面です。彼らが現代のクリスチャンよりも厳格に律法を遵守していたことは明らかです。クリスチャンはそれほど厳しく宗教規則を守るように指導されていません。しかし、今日の教訓は宗教を普通のユダヤ人以上の頑張ってやっていた人たちが叱られていることです。それが、ちょうどバプテスマのヨハネの悔い改めの洗礼とイエス・キリストの聖霊による洗礼の二本立てになっていること同じ箇所に出て来ることです。救われるためには、悔い改めと聖霊のバプテスマが必要でした。宗教家たちは、ヨハネに「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言われています。つまり、二種類の人が出て来るのです。悔い改めにふさわしい実を結ぶ人とそう出ない人です。宗教的に熱心で歩かないではありません。悔い改めは、聖霊の外からの働きかけによって起こります。問題はその後です。教会の規則や聖書の律法を守って行っています、と言うのも、ファリサイ派の人たちにヨハネが辛辣なことを言っていることから、あてになりません。問題は、その結果、実を結んでいるかということです。教会に通っていても、実を結べなかったら残念な結果になるということです。それで、当てにならない弱い人間には、聖霊の個人的な助けが必要になるのです。聖霊に働いていただければ、実を結ぶこともできます。聖霊に助けていただくためには、祈ること、聖書を読み学ぶこと、賛美すること、こうしたことが必要です。でも、どれも難しいことではありません。だから、誰でもできるし、希望があるのです。自力だけでと言われても厳しいですが、自力でやれば偽善者になる危険があるのです。そして、ファリサイ派の人たちはイエス・キリストに対して敵対し、憎みました。ですから、イエス・キリストに対する自分の心を見張っておくことです。これは、イエス・キリストの教えと一致している人のことも同じように、嫌ったり、憎んだりしていないか自省することも必要になります。「悔い改めにふさわしい実」について考えてみましょう(ガラテヤ5:22、23参照)。