2018年8月ディボーション

8月1日(水)

「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。

創世記39:19、20

 

ヨセフが気の毒になります。ヨセフの例のごとくに悪いことをしていないのにひどい目にあうことがクリスチャンにも起こり得るということです。ヨセフは、奴隷として売られましたが、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまくことを運んだ」(2節)のです。それで、主人はヨセフに全幅の信頼を置くようになります。ところが、主人の妻が悪女でした。確かに、「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた」(6節)ので、彼女はヨセフに目をつけたのでしょう。主人の妻の方からヨセフに言いよるようになりますが、ヨセフは頑なに拒み続けます。それが、主人の妻の心を一変させるのです。自分の思いがかなわないとみると、手のひらを返したように、ヨセフに悪意を向けます。主人に嘘をついてヨセフを陥れ、ヨセフに復讐するのです。このような時に神様が助けたらいいのにと思いますが、決してそうしません。もっと思慮深い神様は先の先まで見通してヨセフがどうするか試験をしているかのようです。ヨセフは、王の囚人をつなぐ監獄に入れらます。これが「王の囚人をつなぐ監獄」であることに神様の意図が感じられます。神様がヨセフを見捨てていない証拠は、またしても「主がヨセフと共におられ、恵みを施し」(21節)と書かれていることからわかります。普通の人なら、監獄に無実の罪で入れらただけで、絶望してしまうでしょう。しかし、そうはならなかったのです。あり得ないことが起こりました。監守長がヨセフを信頼して、監獄の一切をヨセフの手にゆだねるようになりました。「ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからで」(23節)す。神様を信じる人には、このようなことが起こるのです。神様には大きなご計画があって、ヨセフが考えてもみないことを実現しようとされています。創世記の最後までヨセフ物語が語られるのですが、ヨセフが夢でみたことが成就するのです。このような物語を知っている信仰者は、何が起ころうが、それがたとえひどい目にあうことであったとしても、その先に目を向けることができます。それも、希望を持ってです。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:11)。ヨセフの秘訣は、主が共にいてくださるといつでも信じていたことです。自分に頼る必要はないのですね。そんなことをすればすぐに絶望に陥るだけです。主が共にいてくだされば、監獄ですら、自由が与えられ、支配されるのではなく、支配する方に回ることができるのです。この事実を心に留めておきましょう。(さくま)

 

8月2日(木)

「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。

創世記40:8

 

人は夢を見るのですが、朝になっても忘れることのできない夢を見ることがあります。それが良い夢でも悪い夢でも気になるわけです。夢の意味がわからないからです。創世記四十章を読むと、ヨセフが夢を解き明かす人であることがわかります。そして、重要なことですが、「解き明かしは神がなさること」とヨセフを通して語られています。そこで、時には夢を用いて神が預言されることがあることがわかります。ダニエル書などにも夢の解き明かしが重要な意味を持っている箇所があります。人間が毎日見る夢が全部、神の預言とは思いませんが、クリスチャンのように信仰を持っている人には、夢の啓示がある可能性は否定できません。朝になって夢を覚えていない人は、夢を見ないと言いますが、脳の仕組みで前日の出来事が寝ている間に脳で整理される過程で夢を見ているようですから、自分の顕在意識ではさほど気にも留めていないようなことでも、潜在意識では大きな問題になっていることがあるのです。それが、夢で現れているために、正夢を見たとか、夢を気にする人が出て来るわけです。しかし、神からの啓示は明らかに将来に意味を持っています。今日の聖書箇所では、ヨセフが王の監獄に入れられているところからいかにして脱出できるのか、それが夢の解き明かしと関係がありそうなことが感じ取れれば良いのです。それにしても、面白いストーリーが展開しています。(佐久間)

 

8月3日(金)

ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。

創世記41:32

 

幻を見たという人はほとんどいないでしょうが、夢を見たという人は大勢います。そのような誰にでも起こる夢を通して、神が人に語りかけてもファラオの見たような夢ならば、夢の解き明かしが必要になります。夢を見た本人でも意味がわからないということがあるわけです。ファラオの見た二つの夢はヨセフの解き明かしによって、一つの同じ意味であることが明らかになります。しかし、二度も重ねて見せられたということから、ヨセフは神が既に決定していることだと断定します。「神が間も無く実行されようとしておられる」。その内容は、七年間の豊作とそれに続いて起こる七年間の飢饉でした。その対策をヨセフが見事に語ると、ファラオは即決でヨセフをファラオの次の位につけます。そして、この非常事態の対応を全てヨセフに任せました。これほどの立身出世は世界中のどこにもないでしょう。半遊牧民のヘブライ人ヤコブの十一番目の息子で、父に特別に愛されたために兄たちの嫉妬をかい、それがもとで奴隷としてエジプトに連れて来られ、そこでもヨセフが主人に気に入られたのに、主人の妻の誘惑を拒み続けたことで故意に罪に落とされ、王の監獄に入れら、そこで夢の解き明かしをしたことから、ついにファラオの夢の解き明かしをして実質国を動かす王の次の者になれたのです。そのことが次の奇跡に繋がっています。神は偉大な舞台監督のようです。あなたの人生にも深く関わり、自由意志を保証して、あなたを神の国にふさわしい者へと造り変えられておられるのです。ですから、あなたの人生で主への誠実さはいつでも求められていますので、主にお仕えして生きて行くことです。それは、あなたにとってワクワクするような感動体験へと繋がっているでしょう。ヨセフをご覧なさい。奴隷でしかも冤罪で囚人というどん底から、世界一の大国の実質トップに一日で上りつめたのです。それも、神のなされる業なのです。だから、神を知らない人のように否定的に考えて生きてはいけません。何でもできる全能の神があなたの主なので、どんな時も主が共にいてくださり、あなたのすることをことごとく祝福されるのです。だから、何が起こっても肯定的に考えましょう。最悪と思ったことを主が最善に変えてくださる、と大胆に告白しましょう。自分が信じていることが心から出てくるので、自然と肯定的な言葉が口から出てくるように、主を信じましょう。(佐久間)

 

8月4日(土)

「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」

創世記42:21

 

嫉妬やねたみは、不信仰の代表的なものです。信仰は神の国を見ることですが、不信仰はこの世を見るものです。そして、厄介なことにこの世は滅びる定めなのです。その世界だけを見ているのなら、この世の人間と変わることはありません。人間の心の中で醜いものが頭をもたげてくると、正しい判断ができなくなります。嫉妬やねたみの恐ろしさは、人間としてやってはいけないことを感情に任せてやってしまうことです。しかし、その報いは決して小さなものではありません。後悔先に立たずと言いますが、まさにその通りになります。この物語には、そのことが明確に出ています。さて、被害者であったヨセフは、夢に見た通りに、兄たちが自分にひれ伏す姿を見たのです。複雑な感情が湧いてきたはずです。懐かしさとひどい目にあわされた恨みです。しかし、ヨセフは彼らを懲らしめることにしますが、家族への情愛の方が優っていたのです。そして、同じ母の弟であるベニヤミンに会いたいと願ったのです。負い目のある人は何年経ってもその負い目に苦しめられることになるのです。ところが、未熟なうちはそれがわからないのです。不信仰の感情のままに行動するほど危険なことはありません。まさに、悪魔にスキを作ることになります。このようなことになれば、どんなひどい結果が待っているかわかりません。そこで、そうならないために、主に信仰を育てていただくことが肝心なのです。信仰は目に見えないものを見ることです。ヨセフは、その信仰でここに至りました。(佐久間)

 

8月5日(日)

ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、「前に話していた末の弟はこれか」と尋ね、「わたしの子よ、神の恵みがお前にあるように」と言うと、ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた。

創世記43:29、30

 

昔、離れ離れになった親子が感動的な対面をするテレビ番組がありました。どうして離れ離れになったのか、どんな苦労をしてきたのか、親に一目会いたい、と丹念にいきさつを見せます。そうやって、この対面のお膳立てをするのです。そして、ようやく会うことができた時に、必ず二人は抱き合って泣くのです。一方は「会いたかった」と、そして、もう一方は「ごめんね」と謝るのです。さて、ヨセフの気持ちを想像して見ましょう。自分の弟を眼の前にした時、自分が兄であることを告げて抱き合って泣きたかったでしょう。しかし、自分をひどい目に合わせた兄たちが一緒にいたのです。それで、ヨセフはまだ身分を明かしませんでした。彼は頭がいいですから、兄たちが当然受けなければいけない罰を考えていたのです。そうしなければ、完全な和解ができないからです。しかし、ヨセフは弟に対する感情の高まりに抑えきれなくなって、急いでその場を離れます。そして、一人になって泣いたのです。肉親の情というものは、深くて離れがたいものがあります。それだけに、一旦こじれると深い溝ができることもあります。ヨセフが17歳ぐらいの時に、奴隷として売られ、それからエジプトの高官に出世したのが30歳ですから、その間、家族の誰とも会うことができなかったのです。それが、今眼の前に兄弟が揃ったのです。ヨセフの複雑な気持ちがわかるでしょうか。あなたがヨセフの立場なら兄弟をどうしたでしょうか。それにしても、人間は何歳になっても親兄弟にこだわりを感じ、時に競争相手になり、嫉妬したり、振り回されたり、憎んだり、そして愛するのです。肉親の難しさです。(佐久間)

 

8月6日(月)

ベニヤミンの袋の中から杯が見つかった。

創世記44:12

 

人生に思いがけない不幸が起こることがあります。ベニヤミンだけではなく、他の兄たちにとってもこの度の出来事はそれにつきます。自分たちは無罪であっても、証拠が出てきたのです。どう言い訳しても証拠を消すことはできません。たとえそれが仕組まれたものであっても、エジプトのファラオの次の権力者に勝てるはずがありません。その時、ヨセフはどんなことを考えていたのでしょうか。実の弟であるベニヤミンだけを残したいとただ思ったのでしょうか。それだけでなく、兄たちへの恨みを晴らそうとしたのでしょうか。彼らがヨセフの前に連れてこられたときに、思いがけないことが起こりました。ユダが進み出て、ヨセフに正直にヤコブとのやりとりを話し、末の子であるベニヤミンを連れ帰らなかった年老いた父は死んでしまうだろうと訴えたのです。そして、ユダはベニヤミンの代わりに奴隷となるからベニヤミンを父の元へ帰らせて欲しいと嘆願したのです。ユダは、ヨセフを奴隷に売ろうと言い出した人でした。しかし、年月が経ちユダも変わったのです。この何の覚えもない突然の不幸と思ったことは、実は不幸ではなかったのです。ヨセフに酷いことをした兄たちがヨセフを殺そうと相談し、奴隷に売ってしまおうと言ったまま、何にも変わっていないのか、それとも後悔し、反省して変わったのか。そのテストになっていたのです。私たちにとっても、思いがけないことが起こって途方にくれるようなことがあっても、これは自分を試しているのだ、ならば誠実に主に向かおう、と思う方が良いのです。神の民に起こることは、ことごとく益となり、信仰で乗り越えられるからです。だから、クリスチャンであることは素晴らしいことなのです。(佐久間)

  

8月7日(火)

神がわたしをあなたたりより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。

創世記45:7、8

 

ついにヨセフは兄弟たちに自分の素性を明らかにしました。兄弟たちの驚きは、混乱と恐怖すら覚えたことでしょう。そこで、ヨセフは安心させようとして、今日の聖書箇所のように言いました。兄弟たちのせいでエジプトに奴隷として売られたとは言わなかったのです。そして、ヨセフの言い分では、神が遣わしたのだ、と言うのです。それは、アブラハムとの間に交わした契約がここで途切れることのないように、神がヨセフをエジプトに遣わし、「ファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださった」というのです。ここで、残りの者(レムナント)という言葉が出てきます。これは、旧約聖書に見られる独特の言葉で、レムナントは大きな艱難や悲劇的出来事、あるいは神の裁きを通って、それでも生き残っている者のこです。主の再臨を迎える時には天変地異や無政府状態など、破滅的なことが起こると言われていますし、個々の信仰の吟味や試練などを忍耐して通り抜ける人たちがやはりレムナントなのです。ヤコブから生まれた十二人の息子たちがイスラエルの国家の始まりとなって行くのに、彼らは神の民として問題があったのです。それが、こうした一連の艱難を通して、良い者へと帰られていったのです。その奥義のカナメのように役をヨセフが担ったわけです。私たちも、自分が神のための器であることをよく理解していないかもしれません。自分の人生に楽しいことや恵みばかりがあることを願いますが、自分の中に問題があることも知っているのです。それをどうやって解決するのか、自力では難しそうなので、放っておくのが普通でしょう。ところが、クリスチャンになった人には、まるでインストラクターがついたかのように、色々大変なことが出てくるのです。その度に神に祈って解決するのですが、それ自体に意味があるのです。へりくだって神の御心に服従するようになるまで、この訓練は続くのです。成果を最大にあげるためには、ヨセフのようにどん底に落ちることが早道なのです。肉的なプライドも打ち砕かれ、忍耐を学び、主に服従することを身につけることができるからです。神を自分の思い通りに利用しようとすれば、最悪の結果しか期待できません。自分では理解できなくとも、神を信頼することです。飢饉で死ぬ人も出るのですが、それが七年間続けば、餓死する人たちが増えるでしょう。この時、ヤコブができたことは、エジプトへ食料を少し分けてもらいに息子たちを使わすことだけでした。しかし、その最悪の時に、何年も前から主はちゃんと準備をしておられたのです。だから、ヤコブたちは心配いらなかったのです。それが分かっていればですが。人間お常識ではあり得ないことを、信仰者は何度も経験し、神が備えておられることを知るのです。それも、神レベルの祝福を用意してくださるのです。感謝しかありませんね。今、心配している方は、やがて神の恵みを見ることになるのです。自分のためにこんなに良くしてくださると大喜びするのです。(佐久間)

 

8月8日(水)

ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

創世記46:29、30

 

何歳になっても息子にとって父は特別な存在といえる。特に、可愛がってくれた父と息子は愛で結びついているものだ。ヨセフのように、悲劇が襲って生き別れになってしまった場合、時は止まってしまう。だから、今、父との再会が実現した時に、ヨセフはエジプトを治める者からヤコブの息子に戻ってしまい、子供のように泣いたのだ。年老いた父の愛は深く、死んでいたと思っていたヨセフの顔を見ることができたので、もう死んでもよいと言った。歳をとると人はこの世への未練を失い、物事に執着しなくなる。死期を考えるようになるからだ。ヤコブにとっての心残りは消息を絶ったヨセフのことだった。あれ以来、ヤコブの人生から光が失われたように感じ、寂しさがヤコブの悔いとなった。それが、なんということだろう。主がヤコブに光を戻してくれた。主の祝福は驚くような事実としてヤコブの目の前に開けている。死んだはずのヨセフが生きていて、エジプトを治めるものとなり、今、ヤコブ一族全員を救ってくれた。そして、主もヤコブたちがエジプトへ行くことを認めてくれたのだ。ヤコブが会いたいと願ったヨセフがとうとう目の前に現れ、抱きついてきて泣いている。これは夢ではない、現実だ。主の祝福は完全だった。一人の子供も損なわれずに、ヤコブが祝福された者であることを主によって見せられている。大きな喜びがヤコブを満たした。歳をとってもう喜びなどないと思っていたのに、最後に人生最大の喜びが備えられていたのだ。さて、クリスチャンのことも少し考えてみたい。クリスチャンも神に祝福された者だからだ。その祝福はあまりにも大きなもので、人生という大きな時間全体を通して現されるのだ。一時、あるいはもっと長い年月、辛いことや悲しいことばかりであったとしても、人生全体を通して見れば、大きな祝福が見えて来る。そして、神を信じてきて良かったとつくづく思うはずだ。感謝をもっと多く主に現すべきだったと思うことだろう。晩年になれば主の祝福の意味がわかるからだ。そして、その祝福を味わうことができる。だから、クリスチャンとして一日一日が尊いことを覚えて生きよう。どんな日が来ようとその日も主は祝福されている。それを認めて感謝できれば、幸せはその人のものなのだ。(サクマ)

 

8月9日(木)

「ご主君には、何もかも隠さずに申し上げます。銀はすっかりなくなり、家畜の群れもご主君のものとなって、御覧のように残っているのは、わたしどもの体と農地だけです。どうしてあなたさまの前で、わたしどもと農地が滅んでしまってよいでしょうか。食料と引き換えに、わたしどもと土地を買い上げてください。わたしどもは農地とともに、ファラオの奴隷になります。・・・」

創世記47:18、19

 

飢饉が激しさを増してきました。「世界中に食料がなくなった」のです。ヨセフから食料を買うために、銀を支払い、家畜を支払い、とうとう最後に残ったのは、体と農地だけになりました。それが、今日の聖句です。人間は、奴隷になっても生きようとすることがわかります。ですから、銀も家畜も自分自身も農地もみなファラオのものとなったのです。ファラオがヨセフを囚人からエジプトを治める者に指名したのは、ファラオにとって正しかったことになります。そして、ヨセフの年貢の定めは民から感謝されました。生きる希望をもてたからです。自然災害のように自分の力ではどうしようもないことがあるのです。人口が増え続け異常気象も重なって、いずれ食料危機が来るとも警鐘が鳴らされていますから、遠い昔の他人事などと考え、自分とは無関係と思っていてはいけないのです。現在の豊かさを享受できるときに、備えることも忘れてはなりません。子供が飢えない世界を作ることが大人たちの責任です。飽くなき利益を貪るだけの世界は、貧富の差を生み出します。全員で分け合って食べることを忘れると、必要ないのに誰かの食べる分も奪ってしまうかもしれないのです。現在もヨセフのような信心深い賢明な人を指導者に立てて、神様がこの世界を支配してくださることが人間にとって最も良いことなのです。物事を神様の目を通して見る者のようになりたいですね。(さくま)

 

8月10日(金)

そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。

創世記48:15、16

 

七十人訳聖書では、「彼は彼ら(エフライムとマナセ)を祝福した」としています。この読み方の方が15、16節の文脈と祝福の内容に合っています。ヘブル語本文では、今日の聖句のように「ヨセフを祝福して」となります。そうであれば、ヨセフへの祝福は、その子たちへの祝福を意味していたことになります。さて、祝福の内容です。初めに信仰の父であるアブラハムが出てきますから私たちとも関係があります。「アブラハム・・・がその御前に歩んだ神」。私たちの信仰生活が、アブラハムやイサクが神の御前に歩んだように歩むことが必要です。「牧者なる神」、私の羊飼いとしての神。ヤコブが自分の人生を振り返った時の実感がこの言葉に現れています。私たちも羊として牧者が必要です。私たちはイエス・キリストを私の牧者と理解しています。至れり尽くせりで私たちをお世話してくださるイエス・キリストを知っています。もう一つは、「あらゆる苦しみから贖われた御使」あるいは、「私のゴーエールとして働かれた」神あるいは御使です。ゴーエールというヘブル語は、もっとも近い親類の男子を意味します。彼の責務は、①レヴィラート婚(38章参照)と②負債のゆえに奴隷となった兄弟の自由を買い戻すことです。そしてそれは、エジプトでの奴隷状態から民を解放して救った神の行為を書き記す時に使われた言葉なのです。「あらゆる苦しみ」は「すべての困窮から」私を解放したと訳すことができます。これらのことがクリスチャンにも反映しているのです。そして、出エジプトの出来事が救いの青写真となっていると見ることができることから、クリスチャンも自分の神を知るために、今日の聖句は人ごとではないのです。神は族長たちにされた恵みと祝福を今も信じて救われた者たちへ同じように惜しまないのです。私たちは勝手に自由気ままに生きているのではありません。神に導かれて生きているのです。牧者であるイエスは、あなたが困らないように全てを面倒見てくださいます。その導きに従う限り、間違うことなく御国の門にたどり着くでしょう。どんな困難でも、あらゆる苦しみでも、主は贖ってくださいます。あなたを罪と死と悪魔の奴隷からイエスの命を代価として支払って、買い戻し、自由にしてくださったのです。その御恩に報いて生きる者が私たちなのです。(佐久間)

 

8月11日(土)

どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。

創世記49:25

 

ヨセフの祝福は際立っていました。他の兄弟と比べれば破格の祝福です。物語を読んで来た読者は、その祝福の理由を理解できるでしょう。そこで、このように考えてみました。これは人間の個性や人格をイスラエルの十二人兄弟をモデルに十二のパターンに分けているように見えます。あなたなら、どの人を選びますか。勿論、ヨセフでしょうか。ユダと言う人もいるかもしれません。他の兄弟はどうも選びたくありません。そこで、ヨセフですが、その詩は宗教的です。クリスチャンの理想像かもしれません。神の御前に忠実で正しい者として生きるためには、生まれたままの人ではダメだったのです。彼は、大きな試練の中で精錬された金や銀のようです。金や銀は純粋なものとなるように、火で精錬されるのです。クリスチャンもそのように試練を通して不純物を焼いてしまう必要があります。ヨセフも神に頼らなければ、一日もやっていけないような状況に追い込まれたのです。それでも自我を通そうとする人もいれば、自分の余計なものを捨てて焼き払い、神に従順になって主の御心を実現できる人になるヨセフのような人もいるのです。辛いことや試練があれば、自分が神の子に整えられていると理解しましょう。自分が捨てなければいけないことは意外なほど多いのです。そうやって身軽になっていけば、聖霊がその人に賜物としてキリストの品性を分け与えてくださるのです。この品性を身につけた人が神の人と呼ばれるのです。当然、祝福を受けて生きることになります。(佐久間)

 

8月12日(日)

ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。その時にはわたしの骨をここから携え上ってください。」

創世記50:25

 

日本人は骨にこだわる国民だと思います。そして、またヨセフも同じよう骨を約束の地カナンへ持ち帰って欲しい願い、家族に誓わせたのです。ヨセフの意識はアブラハム、イサク、そしてヤコブと続く族長との間にパレスチナの土地を与えるという神の約束にあります。言葉を変えれば神との契約があるということです。エジプトは緊急避難の場所であって、定住する場所ではありません。どんなに快適で住みやすくても、それはあくまでも人間的な判断であって、何の意味もないのです。しかし、ヨセフはエジプトに住み続けることはないと知っていました。やがて主がヤコブの家族をカナンへ連れ帰ると信じていたのです。その時に、骨をエジプトに置いてはいけないと考えていました。アブラハム、イサク、ヤコブと同じ墓に葬られたいと願ったのです。死んでもまだ居るべき場所があるとすれば、それこそがカナンであったのです。さて、我々はどうでしょうか。最近の日本で少子化で墓を守れないという厄介な問題が出て来ました。死んだら海に遺骨をまいて欲しいという人も出て来ました。高額の墓を買っても誰が守るのか、といった深刻な問題を抱えている時代に私たちは生きているのです。2024年には3人に1人が65歳以上の超高齢者大国になると言われています。2039年には深刻な火葬場不足に陥ると推計されていて、さらに墓を守る人がいない、いわゆる「無縁墓」が大量に出ることが予想されています。実は、東京圏ではすでに、火葬場が取れずに1週間や10日ぐらい待たされることが生じているのです。そうなると、遺体を預かる「遺体ホテル」と呼ばれるサービスも登場して来ました。当然、葬儀費用も値上がりします。その中で、東京圏の人たちは斎場も火葬場も満員なら、いっそ個人の故郷で葬儀をしてはどうかということで、「お葬式は故郷で」と呼びかける自治体まで出ているそうです。これなどは、ヨセフやヤコブの例と似ています。日本に住む私たちにとっては、骨の問題はどうでもよさそうですが、外地で客死した教会員が遺骨となって帰国し、教会でお葬式を取り行ったことがありました。何か、死ぬことも簡単ではなくなって来た感じがします。できることなら生きたまま再臨を迎えたいものです。(佐久間)

 

8月13日(月)

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵の上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

ヨハネ1:16、17

 

わたしたちが受ける恵みは、イエス様からいただく恵みです。それは、一回だけの限りある恵みはありません。恵みを受けたら、更にその上に恵みを受けるというものなのです。この世のはかない限りある恵みとはわけが違います。この世のどんな欲しい物でも、手にした時から色あせて欲しい物ではなくなるのです。だから次に欲しい物を見つけて満たされようとしますが、空しくなるだけです。イエス様はそのようなものを与えようとはしません。生きて行く時に感謝が生まれるような恵みを与えるのです。それは、住む家があると気がつく時に生まれる感謝だったり、お金に不安を覚えるような時に予期せぬお金が与えられたりする時に感じる感謝です。また、自分がちっぽけな存在だと思えて自信がなくなる時に誰から認められたり、褒められたり、感謝されるようなことが起こる時です。また、祈りに明確に応えが与えられる時、イエス様が自分だけがわかる小さな喜びを与えてくださる時、そして、讃美歌のように恵みを数えた時に心が震えるような感動を覚える時にです。自分の罪のためにイエス様が黙って十字架にかかってくださったことが恵みだとわかった時に、私たちは救われました。そして、聖書を読み、調べ、宝が真理のことであるとわかり、その真理がわかると、今まで自分を縛っていた意味のない事や苦しめていたことから自由になるのです。こうした喜びの生活は、イエス様を抜きにしてはありえないのです。クリスチャンは特にイエス様中心に生きることを知ると、素晴らしい人生を歩めるようになります。特別な人だけがなるのではなく、誰でもイエス様を中心にするならこの恵の世界を生きることができるのです。(さくま)

 

8月14日(火)

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

ヨハネ2:4

 

カナの婚礼の話しで、婚宴でぶどう酒がなくなるという緊急事態が起こりました。おそらく、イエスが連れて行った弟子たち五人分が予定になかったためと思われます。ユダヤ人の祝宴にはぶどう酒は不可欠なものでした。そして、婚宴で飲食が足りなくなることは新郎新婦にとって大変恥ずかしいことで、面目を失うことになるわけで、絶対に避けなければいけない事態に陥ったのです。そこで、マリアはそうした緊急事態を仕切る役であったようで、イエスに頼みました。その時の答えが今日の聖句です。ヨハネの福音書は読んですぐにわかる物語と、もっと深い意味が隠されていて、それらを読み解くと真理が見えて来るというような文書なのです。さて、イエスはこの時、どんな語調で話したかで様子が変わります。怒ったようにきつい調子で言われたのなら、本当にマリアを非難していて拒否しているとなるのでしょう。しかし、イエスは穏やかに話していたのなら、だいぶニュアンスが変わります。バークレーは次のように訳しています。「心配しないで下さい。あなたは、どんな成り行きかよくおわかりにならないのです。この事態を私に任せて下さい。そうすれば、私のやり方でそれを収拾しましょう」。「婦人よ」これは、古代の用例を見ると尊称であり、丁重な言い方なのです。さて、もう少し、別の見方をしてみましょう。イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃいました。福音書でイエスの時とは、①メシヤとしての顕現と②十字架と死のことです。私たちは、聖餐式でパンとぶどう酒がキリストの十字架で裂かれたお体と流された血を象徴すると考えます。すると、今ぶどう酒が無くなった、と言われてイエスが大勢の人の贖いとして血を流すことをお考えになられたことは想像できます。イエスは婚礼の花婿としてご自身を理解していました(マタイ9:15等参照)、ですからマリアが婚礼のぶどう酒が無くなったとイエスに言われた時に、イエスが罪びとの救いのために血を流す時はまだ来ていないという意味でここに書かれたと理解してもいいだろう。また、ぶどう酒を作るために水をかめに満たし、それがぶどう酒になったことも、血と結びつけると、「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」(Ⅰヨハネ5:6)に繋がります。いろいろ考えてみて下さい。(佐久間)

 

 8月15日(水)

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

ヨハネ3:3、4

 

ヨハネは学ぶべきことが多すぎる。ニコデモがファリサイ人であったことはどんな意味があるかを知ることはクリスチャンにとっても大切なことだ。律法をどのように守っていたかを知ることもこれからキリストが語ることを理解する上では必要だろう。ファリサイ派の考えていたこと、そして実際に実践していたことは、おそらく人間が考え得る自力で義を勝ち取る最良の方法なのだろう。しかし、彼らは罪人の意味を軽く考えていた。神の独り子が死ななければならいほどの事とはわかっていなかったのだ。人間が宗教的な努力で神に義と認められ天国へ行けるということはできないことなのだ。それは、ニコデモがおそらく感じていたであろう、努力して律法を遵守していても満たされない心の渇望感だ。そして、イエスの語られた、「もう一度」と訳された言葉、アノーテン(ギリシャ語)が三つの意味を持っている事もニコデモがすぐに理解できかった理由だったろう。三つの意味とは、①初めから、完全に、根本的に。②第二回という意味でのふたたび、もう一度。③上から、つまり神からという意味。イエスは、人の救いは神の国へ入ることであり、神の国へ入ることは、新しく生まれることだと教えている。福音が意味するところは、神が人を義とする、ということだ。それは、人がどんなに頑張っても罪を犯し続ける存在だから、義とはなり得ないからだ。そこで、罪の問題を根源的に解決することが必要で、罪を贖う必要があった。それは、スピード違反した人が罰金を支払うことで赦されるようなことだ。罪の支払う罰金は死だ。罪を犯したことのない人が罪を犯した人の身代わりに死ぬことで罰金を支払い、赦されるということなのだ。罪は汚れでもある。神は聖である。人間の本来の罪のない姿は聖であって、神との自由な交わりができるのだ。そして、イエスはこれらのことを全てできる唯一の人だった。イエスは、罪人が救われる唯一の道なのだ。他には何もない。イエスを信じるということは、イエスの語った言葉を全て信じるということだ。そして、罪を赦され清められたなら、新しく生まれるために神の息である聖霊を求めて受けなさいと教えている。それは、まるで新しく生まれ変わることなのだ。その時、神の支配する世界に生きることができると言いたいのだ。この真理を理解できるように、ヨハネはこのような問答形式で考えぬき、自ら解決して真理に到達できるように教えているのだ。あなたの知りたい重要な真理は本書に書かれている。聖書をあちこち開いて調べてみよう。(サクマ)

 

8月16日(木)

目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。

ヨハネ4:35、36

 

私の住んでいる所の稲の刈り入れが既に始まっています。稲の穂が重そうに垂れています。農夫はいつ刈り入れをするか稲の様子をよく見ていて、その時を見逃しません。今日のイエスの話しも、刈り入れのことです。もっともそれは、人の魂の刈り入れのことです。私が牧師二年目に札幌から東京に転勤になりました。そこで、毎年たくさんの青年たちがバプテスマを受けました。ある時、前任者が私にボヤいて、「自分はいつでも種まきばかりで、他の人が刈り入れをしている」と言いました。確かに、伝道して求道者を見つけ、聖書研究を授け、バプテスマへと導くのですが、その最後のバプテスマが数として評価される傾向があるのです。牧師会でも教会・牧師毎のバプテスマ数が表として配られ、成績が一目瞭然となるのです。しかし、伝道の難しいと言われる東北や北陸などの牧師は毎年バプテスマ0名が続くことがありました。それに、イエスが語られた通り、刈る人だけではなく、蒔く人も必要なのです。ある新興宗教の幹部を務めた信者がキリスト教に改宗したことがありました。その人は、積極的に種を蒔く人だったのです。ちょっとマネできない才能の持ち主でした。人を集めてくるのが得意なのです。そのような人は滅多にいませんが、新興宗教で急激に発展しているところには必ずそのような人がいるものです。また、伝道資金を集めてくる達人も必ずいます。そうでなければ、発展することはできないからです。戦後の日本伝道もアメリカの教会が大きな犠牲を払って献金を献げてくれたことが大きかったのです。そして、異国に福音を伝えることを志して日本へ来られた宣教師たちが献身的に種を蒔き、刈り入れたのです。アメリカの教会の凄さは、世界中に宣教師を遣わすことを自分たちの使命と思っていることです。私たちは種を蒔くのが好きか、刈り入れることが好きか、分かれるかもしれません。両方ともできる人もいるでしょう。しかし、イエスの弟子として召されたのですから、主に祈って種蒔きか刈り取りか両方かできるように願ってみることは御心にかなっています。自分にはできないと決めつけることをしないで、主に願ってみることです。きっと心踊る感動の経験へと導かれるでしょう。(佐久間)

 

8月17日(金)

この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

ヨハネ5:15、16

 

イエスはベトザタの池で病人を癒しました。その男は38年も病気で苦しんでいたのです。その人をイエスは癒しました。彼の喜びはどれほど大きなものだったでしょう。ところが、その日は安息日だったのです。だから、病気を癒したイエスはすごい、とはならないで、逆に安息日を破ったと非難されたのです。そればかりか、イエスを殺そうと狙われるようになりました。イエスは大勢の病人を癒していたのです。今日の教会はどうでしょうか。病人が奇跡的に癒されたということはなかなか聞かなくなりました。それどころか、教会で、癒しの祈りをして本当に癒された、ということが起こると、そのことを信じないばかりか、避難し、その奇跡を否定してしまうようなことが実際に起こっています。私も教区に呼び出されて事情聴取を受けて、牧師たちがいかに癒しの奇跡を信じないのかを見せられました。その時、教区長が問い詰めたのは、「あなたは本当に癒しを行なっているのか」ということでした。教会で病人のために癒しの祈りをすることはどこでもやっているでしょうが、実際に奇跡的に癒されると問題になるのです。祈っても癒されないと問題にはなりません。本来は、逆でなければいけないでしょう。昔も今も変わらないことを見せられてきました。安息日は十戒に出てくるのですから、当然守るものです。しかし、今日、安息日を文字通りに守ろうとしている教会はほとんどありません。日曜日に礼拝をしている教会がほとんどです。逆に安息日を守ると、律法主義かユダヤ教のようにみなされて非難を受けることがあるのです。確かに、安息日遵守者にとって、今日のイエスの行動は安息日を破ることと映る可能性があります。しかし、律法は自分を愛するように隣人を愛する、ということを実践することなのです。そうであれば、目の前の憐れむべき病人をすぐに癒すことは律法を守ったことになります。そのことが否定されることは、愛することを否定することになるのです。人間的に考えすぎてしまうと、本来の目的を逸脱することがあるのです。形式的になりやすいことは特に注意が必要です。(佐久間)

 

8月18日(土)

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63、64

 

「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(35節)。私たちはイエスが飢えと渇きを癒すお方であることを知っている。それはイエスこそがメシアであるからだ。一方、ユダヤ人たちはイエスが本物のメシアであるか試した。それは、メシアは偉大なモーセ以上の者であるはずだという考えから始まる。モーセの最大の業は、マナを降らせたことだった。だから、イエスが地上のパンではなく、天からのマナを降らせることを求めていたのだ。それに対して、イエスはモーセがマナを与えたのではなく神が与えたことに気づかせ、マナは神のパンの象徴に過ぎないことを示した。それは、肉体の飢え渇きを満足させる以上のことが人間に必要だからだ。そして、イエスこそが人間に命を与え、豊かに満たすことのできるお方なのだ。イエスはそのことを話した。イエスを信じる者が命を得ることができることを教えたかったのだ。だが、イエスの言葉を聞いて信じた者と信じなかった者に別れた。メシアを待望し、永遠の命を得ようとしていた人たちが、今、メシアの言葉を聞いている。人間の勝手な思い込みから来る感情やちっぽけな狭い心で考えた同しようもないこと、そして、つまらないプライドや自己中心な理屈は人間に害こそあっても何の救いもならない。人間の心は気をつけないとすぐに曲がってしまう。愛とか喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、こうした品性はまっすぐな心にしか実を結べない。多くの場合、無力な子供時代に心を傷つけられ、愛されずに、失望させられ、罪を見せつけられ、心を曲げさせられてしまう危機があるものだ。不思議なことに、同じような恵まれない環境に育っても、本人次第で良くも悪くもなる。だが、だれかがその人に愛情をかけて入れば、それだけで立派に生きていける。そうしたことを私たちは見聞きして来たはずだ。そして、ここにイエスがおられる。どんなに惨めで飢え渇いていても、イエスこそが探し出してくださり、慈愛の眼差しを向けて、いたわり、優しく癒してくださいるのだ。それで、死にそうになっていた魂が一気に命に溢れ、癒されるのだ。イエスは私たちが何者かを気づかせてくださる。生きることができるようにと聖霊を満たしてくださる。汚れた心が清められ、イエスこそが命のパンであることを知る。人はパン無しに生きることができないように、イエス無しには生きられない、新しい命を与えられるのだ。そこに救いがある。イエスを信じると言うのなら、イエスによって自分が変わるはずだ。それはイエスを仰ぎ続ける中で起こる。肉の行いにはよらない。肉は何の役にもたたない。私たちは、聖霊によって自分の義ではなく、主イエスの義が自分のうちにある者へと変えられる。間抜けなユダヤ人のようにはなりたくない。イエスの言葉を信じよう。(サクマ)

 

8月19日(日)

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスはご自分を信じる者が受けようとしている“霊”について言われたのである。

ヨハネ7:37~39

 

イエスはメシアとして来られたのです。救世主ということです。人を清めて再生するには、神の創造の力によらなければできません。創世記1章2章に書かれた人間の創造のようなことをしなければ、人は新生することはできません。それと重要なことは、イエスのもとに来ること、自分が渇いていると自覚していること、そして、イエスに信仰を現すことです。イエスはどうやって人を新生させるのでしょうか。それは、水に浸ける洗礼のように聖霊にその人を浸けてしまうことです。その人から川のように聖霊があふれるようになるほど聖霊漬けにするわけです。肉が文句を言えないように、肉の常識を持ち出して神に対抗しないように、聖霊が圧倒するわけです。せっかく渇いていることを認めたのです。それを癒すことのできるのはイエスだけだと信じたのです。ならば、自分の考えを放棄して、素直に命の水を飲めばいいのです。でも、とか「たら、れば」を言っているようでは信じたことにはならないし、渇いているのに自分で何とかすると言っているようなものです。聖書はいつでも、イエスを信じた人と信じなかった人を描き出します。イエスに出会うということは、信じるか信じないかのどちらかに分かれてしまうのです。その結果は、大違いです。生きた水が川となって自分の内から流れ出る経験を期待したいですね。(佐久間)

 

8月20日(月)

イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

ヨハネ8:7

 

 

SNSの普及によって、今日のイエスの言葉は十分考慮しなければならない。人を誹謗中傷してはいけないことを知っているのに、匿名性があると人は平気で人を裁く傾向がある。その人がどのような経緯があり、動機がどうして生まれたのか、一体本当はどうであったのか、など正確な情報も確かめずに、みんなで寄ってたかって言いたい放題に一方的に書き立てというのは、どうしてだろう。そんなひどい言葉を目にするとそれだけで気持ちが暗くなる。当事者はどれほど傷ついているだろうかと心が重くなる。気をつけなければいけないのは、私たちは、面白半分に人を裁くことがある。それほどの罪の意識はない。だから、反省することがないのだ。さて、今日の場合はどうだろう。姦通の現場で捕まった女がイエスのもとへ連れてこられた。連れて来たのは、イエスを陥れようとする、律法学者やファリサイ派の人々だ。彼らの意図は、イエスを窮地に追い込むことだった。ユダヤ人の律法では姦淫は重い罪だった。律法の三大犯罪は、偶像礼拝、殺人、姦淫だ。石打ちによる処刑は、婚約しているにもかかわらず姦淫を犯した女に行われる刑であった(申命記22:23、24)。さて、どうしてイエスがここで窮地に陥るかと言えば、もし、イエスが石打の刑を認めれば、イエスは愛と憐れみの方という信頼を失い、罪人の友とは二度と思われなかっただろう。そして、死刑を指示したのだから、当時の支配者であったローマ人のローマ法に抵触した。つまり、ユダヤ人には死刑を宣告したり執行する権限が無かったのだ。また、逆にこの女を赦せと言えば、イエスは律法を破るように教え、このような不義に甘く、姦淫を助長しているとさえ言われただろう。私たちは、人を裁こうとする時に、この聖句を思い出さなければならない。自分がしようとする事は石打の刑と同じことではないと言えるかどうか、そもそも「罪を犯したことのない者」と言われれば誰が石を投げることができるだろう。イエスは全てを知っているから、人の罪も知っている。それを書き出して示さなければ、まるで罪を犯したことのない人のように高ぶって他人に石を投げようとするのだろうか。皆んなで裁けば怖くないというのが一番恐ろしい。ちゃんと自分で考えられる人になりたい。私たちが求められていることは、罪を犯した人を殺すことではなく、その人が悔い改めて罪を犯さなくなるように働きかけることだ。何もしないで見過ごせと言っているのではない。イエスは、「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。罪の問題は根が深い。イエスから学ばなければならない。(サクマ)