2020年1月ディボーション

1月1日(火)

神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。

列王記上3:11、12

 

神がソロモンに「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた時、ソロモンは「善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えました。さて、私たちだったら神に何を求めるでしょう。御心にかなう願いはかなうと新約聖書は教えているのですが、肉の欲は聖霊と相容れない関係なので、人間の欲を満たそうとする願いは御心にかなわないと思って間違いありません。だからといって、ソロモンを真似して知恵をくださいと言っても、本当の願いでなければこれまた難しいでしょう。しかし、主の御心を知ることは重要ですから、御心を知ることのできる心を願うのは良いことです。今年は主の御心を知って、それを実現できる信仰を訓練して行きたいですね。そうすれば、とても生きやすくなるはずです。小さな恵みを発見しては楽しく喜べる一年となりますように。

 

1月2日(木)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

ローマ8:31

 

答えは、もちろんだれも私たちに敵対できないのです。考えたことがありますか。悪魔さえ、敵対できないということです。神様に勝てる者など存在しないのです。その神様が味方なのですから、敵対することのできるものはいないということです。それなら、何を恐れるのでしょう。人に脅かされることがあっても、その人は知らないのです。実際に脅かそうとしている相手が神様であることを。それがわかっていれば、決してそんな馬鹿なことをしません。恐ろしくてできるはずがないのです。しかし、世の中の人々は、神様を知らないために、あなたを普通の人だと思って敵対することが確かにあるのですが、あなたと共にいてくださる神様はそれを賢明に対処されます。つまり、あなたは恐れるだけ疲れるし、意味がないのです。独り相撲にならないように、もっと神様を信頼しましょう。神様は人間ではないので、あなたが考えもしないような最善の方法で解決を図ってくださいます。だから、あなたが信じた神様のおかげで、あなたは勝手に最悪なことを考えて恐れてはいけません。主があなたに代わって勝利を速やかにおさめてくださることを考え、讃美しましょう。

 

1月3日(金)

神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。

列王記上5:9

 

国家にとって一番重要なことは、だれが統治するかということです。聖書からわかることは、知恵と洞察力、そして広い心が人並外れて豊かに与えられている人です。それを授けることのできる方は主のみです。つまり、神様が立てた人こそが王のように国を統治するのが良いのです。ソロモンのような人が国家元首となれば、国民は安らかに生活できます。イスラエルでは、理想的な生活を「自分のブドウの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした」という言い方をします。賢明な統治者のもとでは国民が幸せに暮らせるわけです。そして、平和を実現したソロモンは、いよいよ神殿建築を決意します。今、その神殿が残っていれば、間違いなく世界遺産となっていました。ソロモンでなければ実現できなかった歴史的大事業です。さて、そのような偉大なソロモン王ですが、父のダビデ以上に人気があるかというとそうではありません。ダビデは問題も多いし、失敗もします、戦争に明け暮れ、国家から命を狙われたこともありました。それなのに、ダビデの魅力は人々の心を引きつけます。つまり、完璧な人ソロモンより、波乱万丈の人生を送ったダビデの方が人々はヒーローと感じるのです。多分、私たちも人間はちょとどこか欠けがあるぐらいでちょうどいいと思っているのかもしれません。そのような人が、一生懸命神様を信じて生きるところに共感するのかもしれません。ピンチでも自分に弱さがあっても、たとえ大失敗しても、主を信じていれば、なんとかなるのです。そのなんとかなるというゆるい生き方でも、けっこう幸福に生きていけるものなのです。

 

1月4日(土)

神に従う人はどのような災難にも遭わない。

箴言12:21

 

ある人が新年早々に、自分の父親が如何にダメで、自分も父のためにダメな人生になってしまっていると、訴えてきました。このような人は実に多いのです。ところが、本当にダメな人生を送り続ける人と、どこかでそんな人生を断ち切り、自分の人生を勝ち取る人に分かれます。自分の境遇が悪いから自分はかわいそうな人間なのです、と言い続ける人は絶対に人生は変わることはないし、良くなる事も期待できないでしょう。しかし、ひどい貧乏な家に育ったとか、親が育児放棄したとか、親にDVを受けいていたといった人でも、立派に活躍している人たちが少なくないのです。どうして、これらの人たちが明暗を分けるのか理由があるはずです。それは、その人自身の決心(選択)です。自分はこんなひどい親のようにはならないとか、絶対この境遇から抜け出してみせるとか、自分を甘やかすことをしないで、自分に厳しくして運命を変えてしまうのです。自分の不幸を人のせいにしているうちは、希望がありません。例えば、親を代えることができないのですから、遺伝的な傾向も変えられないかもしれません。それでも、親とは違う選択をすることが可能なのです。不幸を口にする人が親がこんなことをしてひどいと言って訴えるのですが、その人が親と同じことを今していることには気が付きません。だから、変わることは期待できないのです。これらの人たちは、かわいそうだねと言って欲しいのですが、それは、運命に立ち向かわなくて良いんだと言い聞かせているようなものです。嫌だと思うことが実に人の人生を良くする動機になり、そのエネルギーになるものなのです。例えば、大酒飲みの親に苦労すれば、その子は成人しても酒を飲まないようになる傾向があります。しかし、人生を平和に恵みの中を進んでいきたいのなら、今日の聖句を暗唱することです。そして、神に従いましょう。自分の意思と努力以上の良い効果があります。

 

1月5日(日)

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

ローマ8:3、4

 

私たちは罪人でしたから、「肉の弱さ」を知っています。それは、律法が良いものであることを理解できても、完全に守ることができないことからわかります。律法がいくら良くても、私たちがそれを守って義人になるということが起こらないのです。それをなんとかしようとすれば、偽善者になってしまいます。だから、イエス様が律法学者やファリサイ派の人たちに不幸だと嘆かれたことの意味がわかります。キリスト教でも、同じ過ちを犯してしまうことがありますから注意が必要です。人間的に考えれば律法を頑張って遵守することが正しいと教えたくなります。しかし、それができないことを聖書が証明しています。守ることをができない人に守れというのはおかしなことです。多分、霊的なことを理解していないのでしょう。パウロの説明ははっきりしています。キリストが肉をまとって私たちと同じになってこの地上にこられ、十字架につかれたのです。十字架は私たちの罪を贖うための唯一の方法だったのです。そして、クリスチャンには今までとは違って、肉ではなく霊にしたがって歩むことが可能になりました。このように聖霊にしたがって歩むことができるようになれば、律法の要求も満たすことができるようになります。霊に従って歩むとは、心の中心にイエス・キリストが生きてとどまっているということです。そのキリストに任せる生き方のことを言っています。自分でがんばったり、自分で考えて良いと思ったことを決めるだけだと、いずれ失敗します。自由な意思が主に保障されていますが、その自由を使って、聖霊に導きを求める生き方です。肉は聖霊には相談しないので、危険です。そして、クリスチャンはこの肉と霊の間で信仰が試されています。私たちは、「霊によって体の仕業を絶つ」(13節)ならば、永遠の命の道へと進めます。散々苦しめられてきた肉の問題に決着をつけるには、聖霊によって肉の働きを殺していただくしか方法がありません。これも信仰によって可能です。十字架で罪が贖われたのも、信じる信仰によって、自分に適用されるわけです。主に愛され、義とされる事も、同じように信じることで実現するのです。

 

1月6日(月)

わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

エフェソ2:10

 

わたしたちは神様に創造された者です。あなたを神様が愛しておられるのは、神様がお造りになったからです。しかし、罪が人間に入ってきてからは、神様とも断絶し、そのため神様のことがわからなくなってきました。そんな人間の救済は、御子イエス・キリストによって成し遂げられました。罪人であったのですから、神様は厳しい罰を与えたり、滅ぼしてしまっても良かったのです。とことがイエス様は自ら犠牲を払って、私たちのために十字架にかかられ、罪を贖う死を選ばれました。それだけでなく、信じて救われた人たちが、善い業を行って生きていくことを意図して、すべての計画をおたてになられたのです。ですから、救われたクリスチャンは善い業を行って生きていくことができます。この世の人のように、ただ雑事に忙しくしているだけでは、良くありません。主の御心はあなたが善い業を行って歩んでいくことです。そのことを考え、主に祈ってみましょう。善い業が何であるかきっとわかると思います。このように生きる人は幸せです。まだ知らない楽しみが待っているはずです。主に期待しましょう。

 

1月7日(火)

律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。

マタイ23:13

 

これはいったいどういう事でしょう。律法学者は律法の専門家で資格試験にも合格している聖書に通じている人たちです。ファリサイ派は、「分離する」ことを意味します。聖書に書かれた「聖なる者になりなさい」を達成するために、世俗の汚れから分離し、ひたすら律法を遵守した人たちです。それが、天の国を閉ざすと言われたのです。宗教を考えてみれば、聖書を勉強し断食や祈祷、施しや律法を守るために、より厳格に規則を作って実行するというのは良いことのように思えます。ところが実際にやってみると、人間そのものの問題が出てきます。人間は罪人なのです。罪のないまっさらな人間が律法を守ろうとすれば、期待した結果が実現したかもしれません。しかし、罪人は律法を完全に守れない人のことですから、初めから矛盾があります。私たちは、罪の問題を十字架の贖いによってキリストが解決されたと理解されているはずですが、クリスチャンの中には律法遵守のような聖なる者になる努力をしなければならないと考える人たちがいます。一方では、そそのような努力をしても聖なる者にはなれない、ただ神のみが私たちを義としてくださるのだ、と考える人がいます。それは、神が義とされることを信じる信仰によって義とされるのだとする考えになります。前者の方が敬虔に見えるし、一見正しく良さそうに見えるのですが実際には、こちらは今日の偽善者コースに近いのです。どこの教会でも行いによる義ではなく信仰による義なのだと教えているはずですが、信仰による義が良く理解できずに、結局行いによる義になってしまっている場合が少なくありません。これは、明らかに今日の聖句のような偽善者とキリストに嘆かれる可能性がある方になります。それでは、聖書が教えているように神が義とする、という方はもう少し具体的にはどう理解すれば良いのでしょう。それは、聖霊が私たちを義とするために一人一人に送られてきて、人間の中に入り込みます。そして、聖霊は人を義とするために働くことになります。しかし、霊的覚醒のようなことがなければ、人は実感することができません。そのために、今までの自分の生き方を変えようとしないので、罪の問題が生じてきます。そうなると、聖なる者になるために、やはり何かをしようと安息日を守ったり、食事を菜食にしたり、善行を始めたりと結局、ファリサイ派のようなことを試みるようになります。ただ、これらの人たちは熱心な人たちと呼ばれているはずです。そのような宗教的な努力をしないで、ただ週に一度礼拝に出れることや聖書を読むことぐらいで、今までと同じように生活する人もいます。人間の常で、易しい方を選ぶ人が多いわけです。このどちらもが、聖書の教えている道を歩んでいるとは言えません。聖霊が自分を義とするために働くことを信じるために、信仰を使うことが肝心です。また、イエス・キリストを自分の中心に置くことで、道を逸れることがなくなります。信仰者の意識としては、いつでもキリストを見ていること、キリストと一緒に歩んでいること、キリストに仕えること、この三つを守っていれば何とかなります。それは、キリストを意識することです。聖霊が内にいてくださることを意識してみましょう。天の父に愛されていることを認めて感謝してみましょう。これらは、「神に近づきなさい」との御言葉を守ることになります。そうすれば「神も近づいてくださいます」。

 

1月8日(水)

聖書にも「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。

ローマ10:11

 

今の自分の姿は、自分がやってきた事の結果です。子供の頃はいろいろな事が分からず、知識もなく、賢明な決断ができなかった事でしょう。しかし、大人になれば、いやでも責任が生まれ、人間として評価されます。徳のある人間になりたいと願うことは聖書に一致しますし、御霊の実を結んで素晴らしい品性を身につける事も御心にかなっているのです。それでは、この先どうすれば良いのでしょう。聖書を読む人は、主に仕えるとか、へりくだる事の大切さを学んでいるはずですから、その通りに生きる事が肝心です。そして、ことごとく信仰によって生きることを実践するのです。それは、決して難しいことではありません。今日の聖句にあるように、「主を信じる者は、だれも失望することない」という体験をすればよいのです。そすれば、信仰によって生きるという事がわかりますし、困った事が起こっても、乗り越える事ができます。「ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」と聖書に書いてあります。ですから、信仰によって生きるということは、主の恵みを豊かに受けることなのです。そのことを体験していけば、自ずから謙遜になり、主に従順になるはずです。そうすれば、聖霊の導きに従う事ができるので、御霊の実を結ぶことになるでしょう。主を信じましょう。

 

1月9日(木)

わたしが天から降って来たのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりに日に復活させることである。

ヨハネ6:38、39

 

あなたがクリスチャンであれば、今日の聖句は喜ばしい知らせとなります。イエス様はあなたのことを終わりの日に復活させてくださいます。あなたの人生はいろいろな事があって、決して信仰を守るのに容易いものではないかもしれません。もしかすると大きな困難が信仰を阻もうとしているかもしれません。また、自分の弱さが信仰に不安をもたらしているかもしれません。それで、あなたが自分はダメだと思っているのなら、今日のイエス様の御言葉を良く考えてください。あなたは、自分の力でクリスチャンになったわけではありません。天の父なる神様があなたを選んで召し出したのです。あなたは、その召命に応えたのです。それで、主に恵みで救っていただきました。それだから、今日の御言葉はあなたにも適用されます。あなたが失われないように、主はあなたのために働いておられるのです。だから、不信仰な言葉は言わないように気をつけて、主がわたしを守り、導き、義としてくださると告白しましょう。事実、主が語られた通りに、終わりの日にあなたは復活するのです。それがどれほど素晴らしい事であるか理解できるといいのですが。

 

1月10日(金)

喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈み込んでいると骨まで枯れる。

箴言17:22

 

聖書に出てくる健康法則の一つが今日の聖句です。信仰を持っている人が喜びを抱くのは当たり前のような気がしますが、現実にはこの世で生きているのですからいろいろな事で悩まされます。そして、そのまま悩みに飲み込まれてしまうなら、何のための信仰だろうかとなってしまうでしょう。骨粗しょう症の原因にもなっていると言えば、笑われるかもしれませんが、霊が沈み込むと書かれたような状態が続けば骨まで枯れるのは本当だと思います。ストレスがカルシウムを消費するというのを聞いた事があります。ですから、時間をかけてでも、神様との関係を深くする事が大切です。神様を信じているかどうか自信がないようなことを言う人がいますが、それは、神様との関係の持ち方がわかっていない人の言葉です。多分、感謝できないのです。言葉だけの感謝など意味があまりないのです。肝心なことは、1日が始まる時に、まず神様に感謝することから始めるのです。感謝することを考えればいくらでもあります。そして、本心から感謝すると、内側から喜びが湧いて来ます。これが体によいのです。祈っていても、不安やストレスで沈みがちなら気をつけたほうがいいのです。どんな時でも、感謝し、喜びを感じるまで祈る事が奇跡を起こすのです。今は、骨量を計ることのできる体重計などがありますから、自分の骨量が多いのか少ないのか簡単に知る事ができます。神様を信じるということは、喜びを抱く心を持つことと覚えておけば、健康までよくなります。

 

1月11日(土)

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。

コロサイ3:12

 

クリスチャンになるということは、素晴らしいことを意味しています。それは、今日の聖句にもはっきり現れています。古い私たちは罪人でしたから、誇るようなことは何一つありませんでした。それどころか、死の奴隷となって、何をやり遂げたとしても結局は無になる最悪なものでした。そこから、主イエス・キリストの働きで私たちは救われました。それだけでなく、神の力で聖なる者とされ、神に愛されているのです。それは、納得いくまで確かめればいいのです。直接祈る事も許されているのですから、率直に祈ればいいと思います。そして、納得がいけば、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につける事もできるはずです。あなたのために助け主である聖霊が遣わされて来たはずですから、聖霊に助けていただく事ができますし、それ以上の働きが毎日なされて、あなたは御言葉の通りになれるのです。それは、あなた自身がどれほど主に愛されているかを明確に証明しているのです。あなたの考え方も、感じ方も、心から出てくるものも、主イエス・キリストのように変えられるのです。信仰を持っているのですから、自分の自由な意志を御言葉に従うことに向ける事ができます。今日の聖句のようになれることを信じて、主に祈りましょう。これらの愛が自分の中から出てくるように願うのです。すると、チャンスが次々と到来します。自分の力では到底対処できません。主に任せる事がきっと多くなると思います。自然に良い事が起こって来ます。

 

1月12日(日)

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

エフェソ1:4、5

 

あなたが救われたのは、なんと天地創造の前に神様がお選びになったためでした。しかも、神様はあなたを愛しておられたために、神様から見ても聖なる者、つまり汚れのない者にしようと選んだのです。つまりあなたの力や努力で聖なる者になることを期待されていたのではありません。神様がなさるのです。それには、キリストお助けが必要でした。そこで、キリストにおいてお選びになったというわけです。もう一度確かめますが、私たちは確かに神様に創造された被造物です。それなのに、神様は愛され、神の子にしようとお定めになりました。ただ、それは被造物を神の子にするという奇跡ですから、それなりの条件が必要だったようです。つまり、主イエス・キリストによって達成するということだったのです。創造の時も人間は特別で、神様に似せて形造られたのです。それもそのはずで、神の子にしようと前もって定めておられたからです。神様が定めたのですから、必ず成就します。そこで、クリスチャンがあれこれ複雑に考えるのではなく、神様の定めに従順に従う事が肝心なのです。そうと分かれば、クリスチャン人生は楽しいものです。何が起こっても、それは神の子とされている証拠です。ですから、明るく生きることです。キリストのしてくださったことを忘れずに、いつでもキリストの恵みを心に持っている事が大切なのです。今日も、主がどのような恵みを見せてくださるのか楽しみにしていましょう。

 

1月13日(月)

わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

Ⅰテモテ6:17

 

私たちは、目に見えるものに頼りがちです。その極みが偶像なのです。ですから、目に見えない神様を信じることはそう容易いことではありません。幸い、クリスチャンとなれた私たちは、「不確かな富に望みを置くのではなく」、目には見えないけれど、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様を信じています。それだけに、よく祈り、信仰生活を楽しんでいただきたいのです。そうすれば、何もかも、「ちょうどいい」と言いたくなるでしょう。これが神様から離れず、罪を犯さないようにと神様が働いてくださった証拠です。クリスチャン・ライフは実に良い!

 

1月14日(火)

敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずていても心を躍らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう。

箴言24:17、18

 

クリスチャンになると、今までの考えが変わるだけでなく、感情も思考も行動も変わって行くことになる。主がそのように指導し導いておられるからだ。その中で、最も単純でわかりやすい事が、自分にひどいことをしたり、言ったり、憎しみをあらわにする、いわゆる敵に対しての対応だ。最も子供のような対応は、やられたらやり返す、というものだが、これは流石に大人になるとリスクが大きい。それだからといって、蛇のように策略を持って敵を倒すようなやり方は、陰険で邪悪な心と結びついているものだ。だからといって、自分だけが正しいということは第三者から見るとないものだ。交通事故と同じで何パーセントかは自分にも過失があるはずだ。私たちが聖書から学んだ好例がダビデがサウル王に命を狙われて逃亡生活を余儀なくされていた時のダビデの対応だ。敵を討つ事ができるチャンスが来ても、決して敵を殺さなかった。主が油注がれた人だったからだ。これは、戦国時代のことで、平和の時の話ではないから、ダビデの行動は異常に見えたはずだ。さらに、新約時代になると、イエス様は「なんじの敵を愛せよ」と教えた。クリスチャンの正しい考え方は、この世の常識では捉えられない。それだけ、大きく変わらなければイエス様の教えに従い得ないという事なのだ。しかし、どうやって変われば良いのかは、秘密があって、自力で立派に主の教えを実践しようとすれば、ファリサイ派の二のまえになることは明らかだ。そうではなく、やはり主が私たちを変えてくださるのだ。それは、実際に適役が現れるかもしれないし、長い時間を必要とする事で、実物教訓なのである。心の葛藤を覚え、何度も祈り、何度も怒り、苦しむかもしれないが、信仰で乗り切ることを覚えると様子が変わってくる。そして、相手の罪を赦すという事が鍵となっていることに気付かされるだろう。そういえば、主の祈りでも、相手の罪を私たちが赦すように私たちの罪をも主が赦してくだるように、と人を赦すことと自分が主に赦される事が連動していることに気がつくだろう。自分の古いプライドが消えていけば、赦すことも難しくはなくなるはずだ。どんな人にも憐れみの心を持つ事ができれば、クリスチャンとしての生き方が身についてきたという事だ。

 

1月15日(水)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

クリスチャンはこのような約束をいただいていますから、この御言葉は忘れてはいけません。私たちは、この世で生きる限り何かしら思い煩うものだからです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と書かれているのですから、この練習をすると良いのです。つまり、何でも良いから実際にやってみることです。そして、心の態度ですが、神様がいつでも自分のことを心にかけていてくださる、と信じることです。これができなければ、意味がありません。それなので、うまくできない人は、練習する必要があります。神様に何もかも任せる事ができないと、結局は自分で何とかしなければならくなりますが、きっとうまくいきません。あなたが悩んでいるので、悪い結果しか予測していないからです。そして、神様が具体的に何か助けを与えてくださるなど信じられないからです。今までそうでも、今日からは聖書に書かれた通りに信じて、実行してください。うまくできなくても、練習を繰り返してください。そのうち、上手になります。それがどれほど大きな財産となるか驚くほどです。ぜひ、この聖句は自分のものにしてください。きっと、うまくいきます。

 

1月16日(木)

主はわたしの運命を支える方。

詩篇16:5

 

私たちは自分らしく生きてきたと思います。人並みにいろいろなことを経験し、失敗や挫折さえも経験して来たでしょう。そして、それ以上に楽しいことや嬉しいこともあったはずです。人生の節目には、迷ったりしながらでも自分で選択し決めて来ました。そして、決して悪くない人生を歩んできたのです。将来のことが不安だと言う人もいますが、今日の詩篇の聖句の通りです。つまり、あなたの運命を支える方が主なのです。そうであれば、良い人生を歩めるはずです。主がわたしの人生を支えていてくださるので良い人生を歩めると信じることが私たちのなすべき事です。これは、良い結果をもたらしますから、歳をとった時に明確にわかります。悪魔は嘘をついて、あなたに否定的なことを何とか信じ込ませようとして誘惑して来ました。これからもしようとするでしょうが、今日の御言葉を信じたなら、否定的な思いが湧いて来た時に、悪魔が誘惑しているとすぐに反応してください。そして、「主はわたしの運命を支える方」と唱えましょう。だから、この否定的な思いはありえない、消え去れ、と宣言しましょう。そして、主を賛美するのです。本当に心から喜びや感謝が湧いてくるまで賛美してください。賛美歌でもかまいません。このようにして、強い心、強い信仰を形成して行くのです。御言葉は真理なので、安心して信じましょう。

 

1月17日(金)

恵みと慈しみを追い求める人は、命と恵みと名誉を得る。

箴言21:21

 

幸福な生き方を求めているなら、今日の聖句を暗唱するのがいいでしょう。生きていなければ幸福を手に入れることはできませんから、命は大切です。真理としては、命は主が生きよと命じて生かされることです。ただ生きているだけではダメです。罪の問題があるので、解決しなければ生きていると思っても死んでいることになります。ですから、悔い改めて福音を信じることが生きることになりますし、新しく聖霊を受けて生きることを命と言います。人生は選択なので、「恵みと慈しみを追い求める」とは、それらを選択すると考えても良いのです。毎日の生活で「恵み」と「慈しみ」を意識してみましょう。これはどちらかと考えるようになれば、良い方を選ぶようになります。それは、また、自分の言動が恵みとなり、慈しみとなるということです。そのようになれば、当然名誉がついてくることになります。良い人生も悪い人生も、自分で選べることを覚えてください。どんなものにも光と影があるように、良い面と悪い面があるのです。ですから良い方を選び続けるように意識するわけです。優しい気持ちで思いやり深く生きることがきっとできます。主がそう望んでいるからです。イエス様が共にいれば、そうなります。主が働けるように少し心にゆとりを持ちましょう。

 

1月18日(土)

この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブライ7:25

 

あなたが信じるべきは、あなたを救ってくださったお方は、完全に救うことができると言うことです。ドラマなどで崖から落ちそうになっている人を腕一本でつかまえて危なっかしくぶら下がっているシーンを思い出してください。あなたは今にも高い崖から落ちそうになっている人です。落ちたら死にます。そのあなたの手をしっかり握って離さないでいるの人がいるのです。あなたを引き揚げてくれれば助かるのですが、それには信じられないような強い力が必要です。何しろ、あなたの体重を腕一本で引き揚げなければならないのです。さて、あなたの運命を誰が握っているのでしょうか。ひ弱な感じの男なら、まず助かる望みはないでしょう。よほどの力自慢でも人一人の体重を引き上げるとなれば、相当難しいはずです。しかし、その相手がイエス様ならどうでしょうか。確実に救うことができると思いませんか。聖書は、あなたが信じたイエス様こそが、確実に完全に救うことができると教えているのです。ですから、たとえ自分の弱さが出て失敗したとしても、それすら執り成してくださり、完全に救うことができるのです。もっと、リラックスして、イエス様を信じることに集中しましょう。そして、神様に近づきましょう。完全に救われます。だから感謝しましょう。

 

1月19日(日)

慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。

箴言3:3、4

 

人生相談で一番感じることは、自分に自信が無い人が多いということです。初めから自信があるという人はまれで、幼少期のどこかで些細なことがきっかけとなって、自信を身につけていくのです。それは、誰かに褒められたり、認められたり、といった小さなきっかけです。しかし、成長期になれば、自信を持つ機会は飛躍的に多くなるはずです。ですから、放っておいても問題はないのですが、中には自信を持つきっかけを活かせないでいる人も珍しくありません。自信は誰にとっても必要です。自分らしく生きるには自信は不可欠ですし、自信がある人の方が成功のチャンスが断然多いのです。クリスチャンも自信を持っている方が良いのですが、これは人の優劣を意味してはいません。すべての人が自分に自信を持っているわけでもありませんから、クリスチャンと言えども自信が無いと言う人がいてもおかしくありません。そこで、自信が無い人でも成功することができるかどうか考えてみましょう。今日の聖句は大変興味深いのです。慈しみもまことも確実に持っている方は、私たちではなく、ただイエス様のみです。そうであれば、自分自身は自信が無くても、イエス様と共にいれば、今日の御言葉を成就できそうです。少なくとも、慈しみとまことを心に書き記すというのですから、いつもいつも慈しみとまことを思っている状態です。そのぐらいになれば、自分の言動がその通りになってくるでしょう。そうすれば、周りの人たちの目が変わってきます。好意的になるのは当たり前です。神様も祝福することができます。そこまで行けば、何をしても成功間違いなしです。そして、成功できるのですから当然自分に自信を持つことができるのです。

 

1月20日(月)

どのような苦労にも利益がある。

箴言14:23

 

誰にとっても、生きていれば苦労はつきものです。もちろん、人によって同じことでも苦労と感じるかどうかは個人差があるでしょう。強い人は、大抵のことを苦労とは認めないかもしれません。しかし、弱い人にとっては、何でも苦労と感じるかもしれません。私たちは、そんな苦労を嫌なものと思っているでしょう。ところが聖書は、そうでは無く、どのような苦労にも利益があると諭すのです。例えば、健康のために筋トレを始めると翌日には筋肉痛で悲鳴を上げるかもしれません。しかし、そのまま頑張り続けると筋力がつき、健康増進につながるでしょう。どのようなものでもマイナス面があればプラス面もあると言うことです。それがわかれば、利益を得るために苦労はした方が良いという事になります。人が大変だと文句を言っている時に、自分に言い聞かせましょう、「どのような苦労にも利益がある」と。その利益が人生をより良くしていくのです。

 

1月21日(火)

しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされています。

Ⅰコリント6:11

 

聖書には、人の救いについて私たちの考えのおよばない神の恵みが書いてあります。今日の聖句もその事を明瞭に書いてあります。この聖句の前には、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」と書かれています。そして、その正しくない者こそが私たち罪人のことだったのです。それなのに、主は私たちを見捨てる事はしないで、憐れんでくださったのです。ですから、十字架の道を歩まれ、私たちのために苦しまれ、罪の罰を受けてくださったのです。そのことを知った私たちは、悔い改めて、主イエス・キリストを信じたのです。神様の救いは完全ですから、罪によって汚れていた私たちを聖なる者とするために更に清めを良いしておられたのです。それが、主イエス・キリストの名と聖霊によって洗うということでした。これは、人間にはできないことなので、もっぱら神様の恵みなのです。そこで、信仰者は、信仰によって生きることが重要となったのです。つまり、これらは、信じる者に成就することであり、聖なる者として生きる方法は、信仰によって生きることだからです。この世の雑音に邪魔されることなく、聖書の神様の御言葉に励まされ、主イエス様を信じる喜びに、ただ生きていけば良いのです。

 

1月23日(木)

主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵み深くお計らいください。

詩篇119:65

 

クリスチャンの人生は主の恵みに満ちています。ただ、古い人がまだ生きていると主の恵みがよく理解できないのです。そのような状態では、聖書がよくわかりません。古い人は自分の思い通りに生きているので、主の恵みが見えないのです。しかし、聖書に書かれた通りに新しい人として生きているのなら、今日の御言葉の通りになります。決して難しいことを言っているわけではありません。新しい人は、主イエス・キリストを信じた人のことなのですから。問題があるとすれば、それは信じきらないことです。古い人が死ななければならないと思うような経験に追い込まれていないのでしょう。ただ、そのような大変な経験をしなくても信じられる人もいるのですが、自分の力でがんばってきた人には、キリストと共に十字架で死ぬ必然性が感じられないのです。古い人が死ななかければならないのは、罪人であったからです。罪人は自力で義となれないのです。義でなければ天国へは行けません。そこで、神様が義としてくださるという救いの道が開かれたのですが、それは、自力で義となれないので、その人に代わって神様が義としてくださるということなのです。古い人というのは、自力で義となろうとするができない人のことです。ですから、神様が義としてくださるのを古い人は邪魔してしまうのです。そこで、古い人が死ぬ必要があります。そして、神様が義としてくださるのですから、今までのやり方とは全く違うわけです。それが新しい人である必要がある理由です。そうなると、自力で頑張らないことが大切になりますが、主が自分を義とすることを信じていることがとても大切です。そして、キリストの内に自分がいると信じると、この世の信仰を妨げるものから守られます。こうしたことはすべて聖書に書かれているのです。ですから、今日の聖句の祈りをあなたのものとしてください。

 

1月24日(金)

味わい、見よ、主の恵み深さを。

いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

詩篇34:9

 

クリスチャン人生を長く生きてきて、今日の御言葉が本当であることを知る人は多いのです。お金持ちになるとか、有名人になるとか、そのようなこととは違うかもしれませんが、主の恵み深さを知る人にはなれます。決して難しいことではありません。どんな時にも主を信じて頼る人であれば良いのです。主はあなたのことを誰よりも知っておられます。そして、あなたが主を信じて、自分の人生を主にゆだねたことを喜んでいるはずです。主との交わりを楽しみましょう。主が来たことがわかるようになった、と語った方は

 

祈りが変わりました。この御言葉があるので、御もとに身を寄せるように導かれるのです。自分の思った通りに豊かであれば、主を忘れているかもしれません。人間に頼ってもどうしようもない状況に陥って、ようやく主のもとへと向かうのが私たちなのです。しかし、それでも主は憐れみ深く助けてくださるでしょう。そして、主の恵み深さを知る事になるのです。しかも、それを楽しんで味わうことが許されているのです。なんと幸せな人なのでしょう。信仰者にはこのような幸があるのです。

 

1月25日(土)

万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

Ⅰペトロ4:7、8

 

私たちはいつ何時、死が訪れるか知りません。しかし、ニュースを見ていると、保育園児の列に自動車が突っ込んで死傷者が出た、といった痛ましい事故を聞くのです。そして、年齢に関係なく突然死が訪れることを知るのです。私の友人たちも何人か既に亡くなりました。いつ何時、死の順番が巡ってくるかはわかりません。実はわからないので平気でいられるのです。ガンの告知をされたりすれば、たちまち尋常ではいられなくなります。それが人間です。そこで、今日の御言葉は右から左に聞き流しておしまいになる傾向のある御言葉と言えます。それは、万物の終わりがいつか明確には書いていないからです。そのために終末で儲けている人たちは、いつ世が終わるのかを言う場合があるのです。少なくても、その偽預言者の読者、信者、聴衆が生きているうちに来ると恐怖心を煽るわけです。現代においては、SNS があるので簡単に世界中の人に情報を拡散させることができます。そうなると、情報に踊らされる危険があります。そこで、クリスチャン が取るべき事は、少なくとも今日の御言葉を実践する事です。冷静になって、神様に頼り、祈りなどで神様と交わり、その上で愛することに心を砕く事です。愛することができれば、罪を赦すこともできます。また、人の心を変えて罪を犯させないようにすることだってできるのです。このように、シンプルな教えであるから誰でも実践できるのです。「愛は多くの罪を覆う」、良い言葉ですね。

 

1月26日(日)

あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

詩篇25:5

 

私がわかった事は、詩篇記者のように神様に対してちゃんと自分の言葉で語る事です。何を一番神様に対して願っているのか考えてみて、それが肉の欲望を満足させるものであるか、そうでないかをまずは確かめてみましょう。肉を満足させることの恐ろしさは聖書にちゃんと書いてあります。ですから、肉を喜ばせようとしていると気がついたら、その願いは却下してください。重要な事は、自分の救いのことです。聖霊に従うようにと聖書に記されているのに、実際は聖霊を忘れて自分の思うままに生きていることが多いのです。それでは、いつも自分の救いに自信が持てません。不満足なクリスチャン であると自分で思っているのなら、そのことを放って置いては行けません。人生の時間は限りがあるのです。いつか主の御目に敵う人になれると漠然と思っているだけでは厳しいのです。だからといって、難しい聖書研究をしたり難行苦行をするようなことも現実的ではありません。普通の人間が頑張れる事は意外に少ないものです。このように人間的に考えすぎると失敗しやすくなります。それよりも、聖書に書いてある通りにするのです。例えば、今日の聖句ですが、信仰告白になっています。それでいて、神様との関係において正しい状態になるために、はじめに願いを書いているのです。それが実は、私たちの信仰における一番の願いになっているのです。ですから、この詩篇の通りに祈れば私たちの問題の解決に近づけるのです。この聖句と自分の思いが一つになるように同調できれば、大いに期待できます。

 

1月27日(月)

悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののき、たちまち退いて、恥に落とされる。

詩篇6:9~11

 

クリスチャンでも敵に苦しめられることがあります。忍耐していても相手は変わらず、ひどいことを平気でしてきます。悪を働く事は人間にとってストレスになりますから、自分のしている悪が自分に跳ね返ってくる事を恐れなければならなくなります。しかし、結局、神様に罰せられるまではやめようとしません。その間、クリスチャンでも苦しむ事になりますが、ただいたずらに苦しめられているわけではありません。敵をどう考えれば良いのか、どう祈れば良いのか、赦すべきか、それとも戦うべきか、いろいろな事を考え、祈り、聖書を調べ、忍耐し、信仰を鍛えられるのです。これは、平和な時にはできない鍛錬です。ただ、クリスチャンをひどい目に遭わせた者は、ただではすみません。自分で復讐した場合は別ですが、最終的に自分の思いも含めて主に全てゆだねることができれば、物事は見事に良い結果に変わります。この間、敵を赦そうと努力したり、祝福までしようと頑張ったり、聖書に答えを得ようとしたりするでしょう。気がつけば、敵はいた場所から消え去り、相応の報いを受ける事になります。問題は、このような試練の期間でも、罪を犯さないようにしなければいけないので、祈りを学ばなければなりません。聖霊は何から何まで教え導き、信仰に答えて助けてくださいます。つまり、今日の聖句の通りになるのです。

 

1月28日(火)

どのような苦労にも利益がある。

口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言11:8

 

誰でも苦労はしたくないでしょう。しかし、嫌だといっても避けられるものではありません。ところが苦労の不思議があります。同じ事をしているのに、一人は苦労ばかりと不平を言い、他の人はやりがいを感じていると言うのです。また、全く似たような経験をしているのに、一方が嫌だ嫌だと文句ばかり言っているのに、もう片方の人は不平も言わずに黙々と仕事をこなし、楽しいと言うのです。このような極端な違いが本当に起こるのです。嫌な事は自分のためになる事なのだと、自分に言い聞かせて積極的にしていました。まだ若く青年会の頃、教会で訪問伝道をする事になりましたが、そんな事はしたくないと嫌でしがたが、出かけて行きました。その時は、婦人伝道師と一緒でした。その人について行くと、不思議な事に訪ねて行く家で歓迎されて、楽しいのです。それからしばらくして、今度は後輩を連れて知らない場所に出かけました。今度は自分が婦人伝道師の役をして話さなければなりません。どういうわけか、セールスマンになったら成功間違いなしと思えるぐらい、スラスラと初めて会う人と話しているのです。でも、楽しくはありませんでした。婦人伝道師と一緒に訪問伝道をした時は、親しい人の家に遊びに行ったような楽しさがあったのに、今回は義務で訪問したような感じで、そつなくこなしましたが何かが違うのです。それから、牧師の召命を受けて、文書伝道を一夏する事になったのですが、それは大変でした。毎日、朝出かけるのが大変なのです。それは、訪問する家で歓迎されずに断られるからです。それなのに、本を売らなければなりません。そこで、文書伝道者の先生方がどうしているのかいろいろ教えてくださったのです。結局、自分の方法を見つけなければならないと悟りましたが、やはり主に頼って祈る事で活路を開こうと考えたのです。それで、不思議な経験もしましたが、朝に家を出る前、祈って今日どこへ行けば売れるか、考えると場所が見えてくるのです。どの道のどこにある会社だ、とわかるのです。それで、行ってみるとちゃんと売れるのです。結局、その年の文書伝道に挑戦した神学生の中で一番の成績をあげる事ができました。おかげで奨学金も貰えたのです。これで、牧師になっても人の家を訪問することが苦ではなくなりました。信仰も鍛えられて、苦労の分利益があったわけです。このように、大変な事や嫌な事が避けられないなら、祈って立ち向かう方が道が開けるものです。人間は可能性を秘めていますが、何もしなければ可能性で終わってしまうのです。それは残念な事ですから、口先だけではなく、苦労しても立ち向かう勇気が自分の可能性を引き出し、その先の人生の力となるのです。

 

1月29日(水)

わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

フィリピ4:19

 

 

神様の約束を信じる事は正しいとクリスチャンなら誰でもが認めるでしょう。それなのに、時々将来の事や経済の事、健康の事など不安になることがあるでしょう。これらは実に信仰の事なのです。聖書には今日の聖句のように「あなたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と書かれているのですから、本当は心配する必要がありません。クリスチャンはそもそも正しく生きる事を決意しているので、怠けることもしないし、真面目に生きているのです。ですから、困るような事は起こらないはずなのです。それでも、悩みが生じるのは、信仰が試されているからかもしれません。ですから、悩んで神様に祈る事は必要です。その中で、弱い心は強められ、自力ではなく神様に頼る信仰も身につけるでしょう。そして、何より、神様が今日の御言葉の通りに自分にもしてくださると体験できるのです。そうとわかれば、いたずらに不安に思う必要はありません。主の御心を求めて生き生きと生きていけるはずです。主に与えられた人生を豊かに生きて行きましょう。