2020年10月ディボーション

10月1日(木)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る

天地を造られた主のもとから。

 

なぜ、私たちは日々の思い煩いの中で悩むのだろうか。詩人は、この地から目を上げて見た。そこには人を遥かに凌駕する山々がそびえていた。その山に登ってみれば、下界のなんと小さなことか。さらに、詩人は考えた。「わたしの助けはどこから来るのか」と。そして、さらに山よりも高い天を仰げば、そこには宇宙が広がっている。宇宙から見た私や人々は何と小さな存在であるか。毎日毎日、忙しく、目まぐるしく変化する世界に身を置いて喘いでいたのに、宇宙の広さで見れば、実は何も変わらない。月の満ち欠けがあったとしても、月は変わらない。そして、自分のいる世界が大きなものなら、自分の存在はもっと遥かに小さなものになる。さらに、その小さな自分の心となれば、とるに足りないほど小さなものなのだ。それほど小さなものを宇宙から見れば、何も見えないだろう。だから、この世で悩んだり、感情に振り回されるのはバカバカしい。小さくなって自分ばかり見ていると、本当につまらないことで苦しむだけだ。だから、目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けは来る。天地を造られた主のもとから。そう、宇宙から見れば、地球も天の星の一つにしか見えない。その地球の上で私がどれほど小さな存在か、地球がかろうじて見えるなら、私などまったく見えないだろう。それなのに、私をちゃんと見ていてくださる方がいる。だから、助けを求めれば、速やかに助けが来るのだ。それは、確実である。なぜなら、その助けは、天地を造られた主のもとから来るからだ。だから、今日も下を向かない。目をあげよう。今まで悩んできたことなど忘れよう。あなたがどうであろうと、主はあなたを必ず助けてくださるから。大きな主の摂理に身を任せていればいい。

 

10月2日(金)

どのような苦労にも利益がある。

口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

まだ私が青年の頃、東京の教会に九州から一人の青年がやって来た。ひと目で真面目とわかる好青年だ。彼は、司法試験を目指してすでに何回か受験したが未だ合格していなかった。今回、彼は必勝を期して上京したのである。私はその後、牧師になるために神学校に入るため、その教会を離れたが、彼はそれまでに合格することはなかった。もう試験勉強をやめるかもしれないと思っていたが、その後、彼が九州に帰り見事司法試験に合格したことを風の便りに知った。長い間の苦労が報われてよかったと喜んだ。実際、私たちは何かしら生きていくために苦労している。たとえ、その苦労が報われなくても嘆くことはない。聖書は、どのような苦労にも利益がある、と真理を教えている。努力せずに、口先だけの言葉は、結局欠乏をもたらす。そこで、一つ気になることは、言葉だけで、結局何もしない人だ。苦労をしたくないと考えるのは普通のことかもしれないが、そうでない人もいる。特に若い人は、苦労はした方がいい。どういうわけか、私はそう考えていた。成長する気で満々だったと思う。そのために、苦労した方が自分のためになると思っていたので、何事にも積極的になれたし、多少のことではへこたれなくなった。大変なことも乗り越えることができると知った。能力の問題でいい加減な人もいるし、性格でそうなる人もいた。困難を避ける人もいれば、愚痴ばかり言う人もいる。しかし、どんな人にも苦労した分の利益があることは変わらない。ただ、自分を壊すほど苦労してはいけない。誰でも限界があるのだから、人と比べずに自分を正しく守ることも重要だ。最近は、買い物するだけでポイントが貯まる、という時代になったが、苦労すると利益が貯まる、ということも真理なので、苦労したら、実はこれは利益ポイントを稼いでいるのだと思うと良い。誰でも、こうして意味ある人生を味わうことができるはずだから、口先だけで誤魔化すようなことはやめよう。

 

10月3日(土)

人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。

Ⅰコリント7:7

 

自分自身が神様からの賜物であると知っていましたか。自然界を観るとその多様性に驚きます。実に個性的で同じでは無いのに調和が保たれているのです。創造主のデザインであり、創造性が現れているのです。ですから、人間も同じように見えても個性が際立って違っています。そこで、私たちもその多様性を受け入れ、尊重していかなければなりません。生き方も違って良いわけです。自分の個性が受け入れてもらえないと思う人は、少なからずいるはずですが、そのような人ほど自己肯定感を引き上げなければいけません。自分が人様に迷惑をかけていないのなら、もう少し堂々とすべきです。謙遜も度を越すと、自己肯定感を下げてしまいよくありません。周りの人たちを見まわせば、個性的な人が目に入るでしょう。生き生きとして自分に自信を持って生きてるなら、素敵な人だとうつります。しかし、わざわざコンプレックスを持てば、魅力がしぼんでしまいます。どう生きても、自分を変えることはできないのなら、堂々と自分の個性で勝負すべきです。その代わり、受け入れる人と拒絶する人が出て来ますが、それも自由です。そもそも皆んなに受け入れてもらおうとすること自体、無理なことをしているのです。私の周りには個性的な魅力のある人ばかりが集まってくる気がします。自分の個性を尊重している人は一緒にいても楽しいものです。ですから、ご自分の個性を神様からいただいた賜物であると再確認して、毎日、笑顔で生きていただきたいと思います。

 

10月4日(日)

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

マタイ6:8

 

イエス様のお言葉は力強い。そして、希望に満ちている。私たちは、クリスチャンになって、祈りを覚えました。人前で祈ることができなかった頃が嘘のように、今では平気でクリスチャンの先輩たちの前でも祈れるようになりました。この間に祈りについて何らかの学びをしたはずです。祈りの本も読んだからもしれません。一番は、自分の牧師の祈りから学んだ人が多いと思います。それで、その人の牧師に似た祈りをする人たちがいます。例えば、祈り出しを「主よ」と言ったり、抑揚が独特だったり、祈りの中に教師の影響が少なからずあるものです。イエス様の弟子たちもイエス様の祈りから学んだと思いますが、祈り手が覚えておくべきことを今日の聖句は教えています。父なる神様があなたが願う前から、あなたの必要を知っていてくださるのです。だった、何も悩むことはありません。上手に祈れないと嘆く必要もありません。素直に、天の父に心を開いてみれば良いのです。言葉数が多ければ聞かれるというわけではありません。ただ、賢明な親は子供の必要を知っていても、子供が言うまで待っていることがあります。その子供の自主性や意思を尊重しているのです。天の父も、あなたに必要なものを毎日与えていますが、時にはあなたのために祈るまで待つこともあるのです。また、主の時があるので、祈っても待たされることもあります。祈る人は、忍耐を学ぶことになります。そして、祈りの中で信仰の人へと成長して行くのです。神様はあなたを愛しているし、あなたの必要を満たしたいと思っていてくださるのですから、信頼していれば良いのです。万が一、欠乏するようなことが起こっても、主はあなたの祈りを待っているのだから、少しも疑わずに、誠実に心を込めて祈り始めましょう。

 

10月5日(月)

わたしたちとあなたがたをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました。

Ⅱコリント1:21、22

 

クリスチャンになりたての頃は、この世の常識で考えるクセが残っていましたから、キリストと固く結び付けなくてはならないと聖なる努力をしていました。今考えると滑稽ですが、青年でしたから情熱だけは有り余っていたので、何でも頑張るわけです。しかし、それだけに早く、失敗するわけです。それでも悟ることができずに、いつまでもキリストに固く結び付けなければと無駄な努力をするわけです。聖書をまともに読めれば、キリストと結び付けてくださるのは神様のなさることだったのです。それは、神様でなければできないということです。それを非力な青年が何とかしようと頑張るのですが、全く見当違いなことをしていたわけです。このみ言葉のとおりになるまでは、無駄な空を打つような拳闘をしていたわけです。聖霊を求めることすら誰も教えてくませんでした。実は、神様は教えてくれていたのだと思うのですが、それに気づくほど謙虚ではなかったのでしょう。ようやく牧師の召命を受けて、そこからこのみ言葉のとおりになりました。神様は皆さんに証印を押しておられます。目に見えないので気がつかない人もいるでしょうが、イエス様を信じて洗礼を受けた人には、保証として心に聖霊を与えてくださったのです。その聖霊があなたの命となるように生きることです。初めに言ったとおり、自力でキリストに結ばれようとしていた信仰は、むなしいだけです。でも、聖霊が自分にも与えられていると信じるなら、神様に任せて、神様の方法ですべてをやってもらうのです。そうすれば、自分の力に頼って生きることをやめることができるでしょう。油を注がれ、キリストに結ばれていることを知るようになります。

 

10月6日(火)

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。

ルカ16:10

 

クリスチャンは総じて真面目な人が多いが、それが自分の仕事に忠実である事につながっている。人が見ていてもそうでなくても、手抜きをしないでちゃんと仕事をする。それは、神様の御用を任された時にも同じように忠実に果たすはずだ。人間のことを見分けたいと思うなら、仕事をさせてみれば良い。どんな仕事でもかまわない。必ず、よく働く人と、そうでない人に別れる。面白いほどはっきりしている。何が違っているのか考えてみると、性格や能力を別にすれば、今日の聖句にはっきり書いてある。忠実であるかないかということだ。この聖句箇所はイエス様の譬え話なので、小さな事とは、この世の事です。それに対して大きな事は神の国のことです。救われてクリスチャンになった人たちは、この世の富を神様からの預かり物で管理者でしかないと考えるのです。それを自分の物だと言い始めると、マモンの霊に支配されてしまいます。それがこの世の富なのです。でも、この世で主の良き管理者となって、人助けをしたり、施しをしたり、伝道のためにこの世の富を使うなら、天国の門を誰かと一緒に潜ることができるでしょう。これが小事です。天国に入ってからあなたに与えられる富こそが大きな事なのです。小事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。

 

10月7日(水)

信仰の道をわたしは選び取りました、あなたの裁きにかなうものとなりますように。

詩篇119:30

 

人間には最後に神様の裁きがあります。すべての人が裁かれるのです。ですから、どのように生きるかが大切です。人は皆罪人であると言われているので、そのままで裁きに耐えられる人はいません。しかし、救いの道が主イエス・キリストによって示されました。唯一の道です。罪人ゆえにできない自己救済を、主は憐れみ、結局すべてをお一人でなさったのです。十字架のことも三日目に墓から復活されたことも昇天も、すべて私たちの救いのためでした。では、人はどうやって救われるか、その答えは信仰です。そして、自由な選びの中で、あなたは信仰の道を選んだのです。ですから、別の道を歩んではいけません。信仰の道だけが、神様の裁きに耐えられるのです。キリストの功績がすべて信仰によって、あなたの救いとなるからです。これは、主の恵みによります。信仰の道は、初めは大変だと思うこともあるかもしれません。しかし、だんだん、信仰の道の意味がわかってくるのです。敵を赦したり、自分の思い通りではなく主の御心を求めるようになり、自分が弱るので、すがりつく主によって生きるようになるのです。いろいろなものの価値観が気付くとすっかり変わってしまうでしょう。あなたにとって最も価値あるのはイエス様になるのです。それは、イエス様のゆえに自分を捨ててしまう事になります。主が愛してくださるので、その愛に答えようと生きているのです。聖霊との関係が親密になり、聖霊を感じることができます。上よりの力に満たされて、神様の愛があふれてくるでしょう。自分の弱さの中に主の強さが現れるでしょう。このような日々はたとえ試練が一時あっても楽しいものです。これが信仰の道です。この道を選べるのはあなたの意思です。あなたのゴールは、このみ言葉のとおりになりでしょう。その時、本当に喜ぶのです。

 

10月8日(木)

あなたの定めはわたしの楽しみです。

わたしに良い考えを与えてくれます。

詩篇119:24

 

聖書を読む人は、一生読み続ける人です。そして、御言葉は私たちにいろいろ教えてくれます。聖書は難しいという人もいます。簡単にわかるようなものはすぐに飽きてしまいますが、この不思議な本は、人生が進むに従って、その時々に必要なことを適切に教えてくれるのです。そして、私たちは主の定めがあることを理解します。それは、主が諭してくださることなので、そのことが喜びとなるのです。この世には、いろいろな正しいといわれることがあって、真理がいくつもあるように見えます。だから、どうすれば良いのかわからなくなって迷うのです。そんな時に、私たちは主に助言を求めることができます。それは、主の定めに従うことなのですが、迷いは消え、良い考えが与えられるのです。ですから、思い煩う必要はありません。これは、詩篇詩人の時代から変わらない真理です。

 

10月10日(土)

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

Ⅱコリント5:14、15 

 

わたしたちはキリスト者と呼ばれています。キリストの名を背負って生きているのです。できればキリストのようだからそう呼ばれることが理想ですが、簡単ではありません。ただ、欠けのある弱い私でもキリスト者の末席に置いていただいているのは、キリストの愛によるのです。パウロが「キリストの愛が私たちを駆り立てている」と言うのがわかります。それ以外で信仰を持ち続けることはできなかったかもしれません。今日の聖句は、大事なことを教えています。イエス様の死はすべての人のためだったので、すべての人も死んだことになるのです。罪から救われるにはそれ以外に方法がありませんでした。幸い、私たちは苦しむこともなく、イエス様だけが酷い苦しみを負われたのです。アダムという一人の人の罪が呪いとなって、私たちまで罪の連鎖がつながったのです。だから、一人で始まったのなら、一人で終わらなくてはなりません。それがイエス様だったのです。この一人のうちにすべての人間が含まれたのです。そして、その目的は生きている人たちが、自分のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活されたイエス様のために生きることなのです。ここに、焦点をおかなければなりません。このことをよく考えて、理解することです。自分の全てをここに集中するのです。長いクリスチャン生活は、このことを理解して、キリストのため、神のために生きることを悟るためなのです。それ以外のことは、肉が朽ちていくように、朽ちていくだけです。自分のために生きると、神様を利用してしまいます。それでは、いつまでも古い自分が生きてしまうので、キリストの十字架は無駄になります。ですから、キリストを自分のために死んで復活してくださった方と理解することです。そのことがよくわかれば、キリストのために生きるはずです。自分のために生きないということは、古い自分が死んだことを意味しています。楽な生き方ですね。

 

10月11日(日)

主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び踊ります。歌をささげて感謝いたします。

詩篇28:7

 

自分の人生を満足することが正しいと思っても、不満足な気持ちが強くなってしまうことがあります。理由はいろいろあるでしょうが、自分に力が無いことが大きな理由になることが多々あるのです。クリスチャンの恵まれているところは、この力を主からいただくことができる点です。実際に主の力を実感した人も珍しくありません。信仰においては、主そのものが自分の力になっていると信じることが良いのですが、試練に遭う時には誰でも主がわたしの力と言えたらどんなに良いかと思うでしょう。そして、そのような時には、何かしらの攻撃を受けている時なので、自分を守る盾が必要になります。それも、主が盾となってくださると詩篇記者は告白しています。さらに、主に依り頼むことが重要なのですが、試練のような厳しい状況下で、ただ主にすがるような状態になっていると、「わたしの心は」と書かれているように、信仰が心から発動するのです。私たちクリスチャンは、信仰生活の中で何度も主の助けを経験します。その時の喜びは経験しなければわかりません。「心は喜び踊る」という表現の通りになります。そして、主を讃美して歌を歌うのです。だから、形式的に歌う讃美歌ではありません。賛美しているうちに不思議なことが起こるような経験です。神様との交わりを経験し、癒され、喜びに満ち溢れ、神様を愛していることが嬉しくてならなくなるのです。このように、キリストを信じている人には、説明するのが難しいほど、霊的な恵みが起こるのです。

 

10月12日(月)

主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

詩篇121:7、8

 

コロナがあったために、皆さんは自粛し精神的にも辛い時期を過ごさなければなりませんでした。どんなにストレスになったことでしょう。誰もが考えもしなかった災難が襲ってきたのです。しかし、聖書を読んでみると、今日の聖句のように書いてありました。とてもありがたい祈りです。聖書の中に、あなたのことを気遣って、このように祈ってくださっていることに気付けるといいですね。自分のことを上手に祈るのは意外と難しいものです。自分の状態がどうなっているのかも時には解らないでいるのです。ですから、イエス様のいたわりや励ましが必要です。そして、長い人生にはいろいろなことが待ち構えているのです。それが良いことばかりではなく、嫌なことも辛いこともあるものです。しかし、詩篇の執り成しの祈りは、あなたから主がすべての災いを遠ざてくださるようにと祈られているのです。主が見守っていてくださるのは、魂まで見守っていてくださるのです。これ以上の安全はないし、自分の人生は大丈夫だと安心できます。これは、全人生を通しての保証です。だから、コロナで世間が騒がしくても、主の見守りを信じていましょう。もちろん、危険をわざわざ犯すことはいけません。自分のできることはちゃんとやりましょう。しかし、心はいつでも主のお守りがあることを確信していてください。今日も主が見守っていてくださるので、笑顔で過ごしたいですね。

 

10月13日(火)

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

Ⅰペトロ3:9

 

クリスチャンは不思議なものです。この世の人が当たり前と思うことと反対のことをするからです。この世の人たちは、ひどい目に遭ったと思えば、同じようにやり返そうとします。悪には悪、侮辱には侮辱という具合にです。でも、それで本当に幸せになれるかと言えばその逆です。後を引くのです。いつまでも後味が悪いのです。しかし、クリスチャンは悩みながらも御言葉を思い出して、祝福しようと努力します。初めは口先だけですが、心に聖霊が働いて葛藤が始まります。最後には自分の傲慢を砕かれ、自分が正しいというこだわりが消えてしまうのです。そして、キリストの働きだと思うのですが相手を本当に祝福できるのです。そして、自分の中の何かが確実に良くなったと思えるようになります。何より、楽になります。自分を悩ます者がいなくなるのです。祝福の効果は想像以上です。そして、聖書の言う通り、私たちは祝福を受け継ぐために召された者なので、出てくるものも当然祝福なのです。神様の祝福係りになったと思えば、楽しくなります。

 

10月14日(水)

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

どうすれば祈りがかなえられるでしょう?このように聞く人は、今日の聖句を良く考えてみましょう。主を自分の喜びとすることは、幸せなことです。そもそも主を知らなければ、喜ぶこともできません。そこで、主を知ろうとすることから始めても良いと思います。クリスチャンとなってからだいぶ経ったという人は、主を喜ぶことを考えるべきです。主を喜ぶには、自分から意識を主へと移す必要があります。そして、主を呼んでみるのです。焦って祈りの言葉を出してはいけません。ゆっくり言葉を選んで主に語りかけてみるのです。自分に意識が残っていると雑念が生じてうまく祈れなくなりますから、主が目の前にいるように祈るのです。多くの人が主に確信を持って祈れないのは、主を知らないことによります。福音書を読むと、初めてイエス様と出会う人たちが出てきます。その人たちが初めてイエス様に出会ったのにもかかわらず、癒しを求めてすぐにその願いがかなう話しを読んで知っているはずです。これは、聞かれる祈りの典型です。盲目の物乞いは、イエス様が近づいたと聞けば、大声でイエス様を呼びます。イエス様とお会いできるまでやめません。そして、イエス様の憐れみに接すると、願いを大胆に伝えます。その時に、信仰を試されます。聞かれる祈りには信仰が重要なのだと気づかされます。そして、聖書では短いやりとりがあって、すぐに癒されています。その後、イエス様に従っています。この癒された人は、どれほど喜んだでしょう。その喜びがイエス様への感謝となり、自分のコンプレックスを癒してくださった主をはっきり見ることができるようになったのです。主が自分にしてくださったことは決して忘れません。それが生きる力となるのです。そして、主に従うと自分の思い通りに生きる古い生き方ができなくなってきます。この世に倣わなくなるからです。そして、主に従って歩むので自分の間違った生き方や考え方、悪い思い込みなど、ことごとく消えていくのです。それはすぐではないのですが、弟子たちが十字架の後、復活のイエス様と出会ってから変わったように、私たちも復活のイエス様に出会い、すっかり思いも感情も考えも価値観すら変えていただくのです。そのようにして、主を自分の喜びとしていくのです。そうすれば、あなたの心の願いは主によってかなえられていくのです。

 

10月15日(木)

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

イザヤ41:13

 

あなたがイエス様を信じているなら、恐れることはありません。実際、今のようなコロナで不安や自由が制限されている時には、だんだん疲れ果て、気持ちもおちこみがちになりやすいのです。クリスチャンだから例外というわけではありません。それだけに、霊性を点検してみる必要があります。形式的には祈ったり、聖書を読んだりする人はいるでしょうが、聖霊との交わりを意識する人は少ないものです。そこで、静まって聖霊に祈りましょう。自分の霊性を点検していただくのです。焦って言葉を探す必要なありません。何も言わなくてもいいので、ただ主の御前に静まるのです。そして、今日の御言葉が聴こえてくる事を願うのです。主は、このようにあなたに対して近い存在であり、あなたが思っている以上にあなたのことを思っていてくださるのです。主が助けてくださると約束されているのなら、世界がどうなろうと心強いです。将来のこともいたずらに心配しないことです。主は、あなたの右の手を堅く握ってくださるのですから、ありがたいし心強いですね。今日の良い日です。元気に過ごしましょう。

 

10月16日(金)

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

ヨハネ14:27

 

結局、私たちが一番欲しいのは平安です。世の中は刻々と変わり、想像も予測もつかないことが起こるのです。コロナもそうでした、それは多くの人を不安に陥れましたが、そのような時でも主は約束通りに平安を与えてくださるのです。そうすると、このような自体に陥っても、肯定的に物事を見ようと思えてくるのです。人類にとって重要なことは、神様の御心を知ることです。このような不安の時代だから自国ファーストと叫ぶ人が現れても、グローバル化は止められないし、地球問題は全地球レベルで考え対処しなければならないことは自明です。キリストの新しい掟の通りに互いに愛し合うことが全人類に必要なのです。コロナ後に果たして人間は何を選択して生きていくのか、見ている主がおられます。しかし、ありがたいことに私たちには主が与えてくださる平安があるのです。この平安を持っている人だけが、正しい道を選べるのです。簡単に間違った方向へと流されるような危険から守るためには、不安ではいけないのです。ですから、私たちに与えられている平安を見出して、どんな時も平安であり続けましょう。そこから、良いことが始まるでしょう。

 

10月17日(土)

わたしはあなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

あなたはこれから先どうしたら良いかと道を求めて悩んだことがあるだろうか。もしそうであれば、聖書に今日の御言葉が答えとして書かれている。これは、若い人にも年配の人にも道を求める人全てに当てはまる。積極的な人は、自分が良いと思った道へ躊躇なく進んでいくだろう。たとえ、それが間違っていても考えずに進むだろう。消極的な人は、悩むだけで、決して道を決めることはできないだろう。このように、人は誰でもどう生きれば良いのか悩む時があるものだ。そんな時に、このみ言葉を思い出して、声を出して読んでみて欲しい。神様を信じる者には、悟りが与えられるというのだ。それは、行くべき道を教えてくれるということだ。神様はあなたをちゃんと見ていてくださるので、どうすれば良いのか助言を与えてくれる。これほど、心強いことはない。だから、歳を重ねて老人になった時、自分の人生に満足することができる。たとえ、人並み以上に苦労したとしても、後悔することもなく、最後に良い人生だったと神様に感謝するだろう。それは、神様に道を求めて生きてきたからだ。しんな人生に対してこの世の人の評価は低いかもしれない。しかし、神様は笑顔で良い人生だったと認めてくれるだろう。だから、信仰を持って生きている人は希望を持って生きてほしい。

 

10月18日(日)

神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。

歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。

神は、全地の王、ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。

詩篇47:6~8

 

私たちは神様を賛美したい者たちです。賛美歌を歌っている時に神様の臨在を感じたことは何度もあります。私たちは、イエス様を知ることで、目が開かれたのです。本当に価値あるものはただ一つ、イエス様であるとわかったのです。この世の人たちは、神様が王になるとは考えもしないでしょう。しかし、王の王、主の主、真の王はイエス・キリストなのです。そのイエス様が二千年前にイスラエルに来た時には、エルサレム入場の時に歓呼の中、子ロバに乗って上られましたが、それは十字架への道でした。本当は、腰辺の通りに神の民であるイスラエルはイエス様を王としてお迎えするはずだったのです。残念なことに、そうはならなかったのです。しかし、私たちは再臨の時に歓呼の声をあげ、イエス様に歌います。私たちを迎えに来てくださったイエス様を賛美でお迎えするのです。とうとう、この世のすべてが終わるのです。そして、イエス様を信じ、待望していた聖徒たちは、空中に引き上げられて永遠の御国へと凱旋するのです。主は勝利し、歓呼の中を進みます。角笛が鳴り響き、天使たちは竪琴をかき鳴らし、天の聖歌隊と一緒に救われた聖徒たちは主にほめ歌を歌います。もはや、罪も死も無く、涙も暗い夜も無いのです。聖徒たちは、歓喜し、イエス様に目を注ぎます。空中を飛ぶように進み、やがて新エルサレムが見えてきます。誰も不思議に思いません。自分たちが天の住民であることを知っていたからです。これらは、やがて確実に起こります。その日はすぐにやって来ます。

 

10月19日(月)

実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。

マルコ2:15

 

聖書を読むと不思議な気持ちに囚われてしまうことがあります。イエス様を信じてクリスチャンになると、今までのような生活ではなく、いわゆるクリスチャンらしく生きようと決心するのです。では、クリスチャンらしくとはどんな生活のことでしょうか。パウロのように使徒になることでしょうか。到底現実的ではありません。イエス様は全世界に福音を宣べ伝えるように命じましたが、ジャングルの奥地どころか近所の人にすら何も言えません。では、質素に修道士や修道女のように生きるかと言えば、それも出来そうにありません。それでは、せめて罪を犯さないで生きていこうと決心すると、その日のうちに罪を犯すのです。心から悔い改めて、再度挑戦するのですが驚くことに真面目に何度挑戦しても結果は同じなのです。ある教会に行くと、何か不自然なものを感じました。教会員が皆同じように見えるからです。言葉遣いも、服装も、考え方も何もかも指導者の言う通りにしているのです。その教会は、やがて指導者の暴力事件が起こり、大変な結果となりました。どうして、このようにおかしなことなるかと言えば、福音が正しく理解できていないからです。昨日まで、罪人であった人が、洗礼を受けた途端に内面まで立派な人に変わるということはあり得ません。今日の御言葉を読めば、自分らしく普通で良いことがわかります。問題は、イエス様に従っているかどうかです。イエス様には実に大勢の人がいたのです。その大勢の中に、私たちもいるのです。周りを見回して罪人とすぐにわかるあの人よりはマシだとか、弱々しいあの人よりは上だとか、言っていたらイエス様から目を離している証拠です。それではイエス様に従えないのです。どんな姿でも良いのです。私は、かなり問題があると自分で自分を裁いている人もイエス様を見て従って行けばいいのです。イエス様に従っていれば、気が楽になるので、笑顔になって行きます。クヨクヨしていたことが馬鹿らしくなります。今までは無意識に人と比べていたのに、主に従うとそんなことも忘れてしまいます。どうでもいいことです。イエス様が救い主であるという意味がわかって来ます。だから、クリスチャンらしく生きようなんて思わなくなります。私は主によって本物のクリスチャンにしていただいたのです。だから、あるがままに自分をさらけ出して生きていいのです。ほら、人を裁かなくなった自分がいます。イエス様も笑っています。なんと楽しいことでしょう。

 

10月20日(火)

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

イザヤ40:29-31

 

クリスチャンの秘密です。クリスチャンは一見弱そうに見えるのですが、いざとなると驚くほど強いのです。その力の源は、主を待ち望む信仰です。主は、生きておられます。ですから、主を信じる者を何もしないで放っておくことはありません。たとえ、試練をくぐらなければならなくとも、逃れ道を備え、いつでも助けてくださいます。コロナ疲れの人もたくさんいるでしょうが、クリスチャンは、このような時でも新しく力を得ることができます。それは、自分で何とかしようと思っている人にではなく、ただ主を待ち望んでいる人にくる約束なのです。ですから、主を信じる人は誰でも元気になれます。不安も払拭できます。たとえ家の中に留まっていても、大丈夫です。多少、太ることはあるかもしれませんが、必要なものは主から来ます。ですから、安心してください。先取りして、主に感謝することもまた楽しいものです。

 

10月21日(水)

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

ガラテヤ6:9

 

クリスチャンになれば、自ずと善を行うようになります。神様を正しく知ったからです。神様を信じる生き方は、とても楽な生き方です。善を行って生きることができれば幸せになります。この世は罪人の世界ですし、悪魔が支配しています。ですから、善を潰そうとする力が働くでしょう。それでも、クリスチャンは善を行うのです。それ以外に生きることが難しくなるのです。自分が信じたように生きているからです。聖書を読むことも善であれば、理解できたからと生活にそのことを適用することも善です。無理をすることはありません。イエス様を信じて、わかったのです。主はありのままに愛されることを。ですから、イエス様を慕い、愛するようになりました。それが善を行うということです。そこには、無理も嘘もありませんから、楽に生きられるのです。それなのに、さらに報いが先に用意されているのですから、クリスチャンは何と幸せなのでしょう。「ありがたい、ありがたい」と言って生きるのです。

 

10月22日(木)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

エレミヤ15:16

 

聖書を読むことは良いことであると思っている人は多くいますが、どのように読むかはその人によって違っているのです。研究者のように読む必要はないでしょうが、読むことが得意な人はたくさんの量を読むことができます。一方、読者は苦手と思っている人は、聖書をたくさん読むことはとても難しいことになるでしょう。ところが、今日の聖句を読むと、もっと違った読み方をしている人がいることに気がつきます。つまり、御言葉を食べる人です。私たちにとって、食べるとは生きていくエネルギーや栄養を摂取することです。しかも、美味い、不味いと味の良し悪しまで重要なこととなります。つまりは、食べることは人間が生きていく上で最も重要なことなのです。しかし、聖書の御言葉を食べるという言い方を普通はしません。つまり、聖書はもっと深い読み方があるということです。それは、人間が生きていく上で、食事と同じぐらい重要なことなのです。そこで、御言葉を見つけ出し、それを食べる読み方を会得したいですね。まず、聖書を読む前に祈り、そして聖書を読むときには探すのです。神様があなたに語りかけている御言葉を見つけることが大切です。そして、見つけたら、食べることを考えてください。霊的糧をいただいていると考えるとわかるでしょうか。その御言葉に集中し、聖霊の解き明かしを求め、神様が何を自分に語りかけているのか聞くのです。わかれば、それが自分の身に成就するように願います。そして、味わうわけです。それがうまくいくと、楽しみになります。心の喜びになるのです。このような不思議が起こるのは、あなたがクリスチャンと主の名がつけられているからです。

 

10月23日(金)

神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。・・・暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない。

詩篇91:4、6、7

 

私たちは、神様に守られて生きています。この世に生きている限り、災いも病気も恐ろしいものが襲ってくることだってありうるでしょう。しかし、私たちの幸いは、力ある神様がいつだって守ってくださることです。常識では説明できないような不思議な守りがあるのです。だから、恐れることはありません。イエス様を信じて生きている人は、主に守られていることを知る日があるでしょう。そして、「神のまことは大盾、小盾」と唱えるでしょう。あなたに害をなそうと悪の力が働いたとしても、あなたの主は御翼を広げて、あなたのをヒナのようにかばい、自分の身を犠牲にして投げ出して守ってくださるのです。だから、私たちは勇気を出して生きることができるのです。今日も、神様があなたを守ってくださいますように。

 

10月24日(土)

神に従う人のためには光を

心のまっすぐな人のためには喜びを

種撒いてくださる。

97:11

 

イエス様を信じて、人生が変わりました。自分自身が変わっていくのです。長い時間をかけて、神様に従うことを身に付けます。それは、神様によって光が種として撒かれる経験になります。種の面白さは、初めは小さなものでも、やがて成長し、葉をつけ花を咲かせ、とうとう実を結ぶのです。それは、どんな時でも落ち込まなくなり、失望落胆しなくなることです。どんな時にも前向きに、へこたれなくなります。心が明るいので、元気でいられるのです。また、イエス様によって、心のまっすぐな人へと指導されます。それは、一番楽な生き方です。この世の人から見れば、損な生き方に見えるかもしれませんが、人のことを邪推しないので、悪く考えることが無くなります。それで、いつも喜んでいることができます。喜びの種は大きく成長します。この世の不安を弾き飛ばすぐらい大きくなるのです。これがすべて、イエス様の恵みなのです。自分の力に頼らず、無力でもなく、主を信じる心が愛となって、不思議なことが起こるのです。これが、あなたのクリスチャンとしての人生です。

 

10月25日(日)

 

主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください、あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

詩篇25:4、5

 

毎日、同じことの繰り返しであれば、そのことに慣れて、心配することも悩むこともありません。しかし、ある日、困ったことが起こったり、ひどい目にあったり、仕事をやめなければならなくなったり、と思いがけない心配事が起こることがあるのです。その時に、どうするか人によって対応が違います。我慢してやり過ごそうとする人もいれば、感情的になって立ち向かう人もいます。冷静に考えて最善と思うことを選ぶ人もいます。何もせずに一番悪い道を選ぶ人もいます。ところが、このピンチと思った出来事を益に変え、大きく成長するきっかけにしてしまう人もいるのです。さて、クリスチャンといえども人間に違いないので、自分の度量が測られることになります。強い人もいれば弱い人もいます。しかし、強ければ良いというわけではないし、弱ければ悪いというわけでもないのです。たとえ、一番弱い人間であっても、今日の聖句のように信仰で乗り越えようとする人は、良い結果を得るのです。自分の強さに頼らず、また自分の弱さにさえ負けずに、「絶えることなくあなたに望みをおいています」と言えることがクリスチャンの勝利の秘訣です。この先どうすれば良いのかと迷う時には、この聖句を何度も唱えてみるのです。そうすれば、自分には救ってくださる神様がいて、その救いとは、道を示してくださることであり、主に従う道を教えていただくことであると悟らせてくださるのです。だから、心配しすぎてはいけません。たとえ敵がいても、良い結果になります。