2020年11月ディボーション

11月1日(日)

あなたがたが信じて求めるものなら、何でも与えられます。

マタイ21:22

 

とてもわかりやすいですね。まず、第一に「信じて求めるなら」とありますから、信仰にかかっています。ヨハネの15章7節には、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とあります。そこで、自分がイエス様にとどまっているかを吟味してみましょう。それから、イエス様のお言葉があなたにとどまっているかどうかも吟味してみましょう。それでもなお願いが出てきたのなら、願いが何でもかなうということです。やみくもに信じていると言ってもあまり意味がありません。イエス様を信じるというのなら、イエス様にとどまっているはずです。そうなら、イエス様の御心がわかります。そうなれば、御心がなるようにと願うでしょう。だから、願いはかなうのです。御言葉にとどまれば、真理が自分の判断を確かにするでしょう。ですから、何を求めるか的確に判断できるのです。かくして、何でも与えられるのです。

 

11月2日(月)

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

ローマ8:15 

 

クリスチャンが神の子と呼ばれるのは、根拠があります。それが今日の聖句です。聖霊を受けることはもっぱらキリストにより、信仰によるのです。洗礼を受けて清めを受けた人が新しい命として聖霊を送られるのです。聖霊は人の内側に入り、生き続けます。その聖霊によって人は新しく内側から変えられて、キリストのようになるのです。私たちが意識していた自分という外側の自分が同じ聖霊の働きによって死んでいくのです。この聖霊が信仰者の助けであるばかりか、霊的に新生した人が神の子であることを実現させているのです。そこで、霊的に覚醒されていれば、キリストがそうしたように、「天の父よ」と呼ぶのです。もし、まだ霊的に覚醒していなければ、聖霊のよって「アバ、父」とやはり呼ぶことができるのです。それが、救いの驚くべき秘密です。

 

11月3日(火)

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸を閉めて、隠れたところにおられる父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

マタイ6:6

 

クリスチャンになると祈ることを覚えます。それは何にも替えがたい恵です。なぜなら、神様へ直接お話ができるからです。主の祈りでも、お題目のように祈っているだけなら、気休めの呪文のようになってしまうでしょう。たとえ、毎日主の祈りを唱えても、その言葉に集中するなら、心がこもります。まして、祈りの奥義のように教えられたこの箇所は、文字通りよりももう少し深いものがありそうです。問題は、「自分の奥まった部屋」です。そのような部屋があるという人もいるでしょうが、そんな部屋は無いという人だって多くいるでしょう。一間で家族全員が暮らしている人も日本でも世界でもは珍しくありません。そうであるなら、霊的な意味に取る方がいいでしょう。心の部屋です。自分の奥まった部屋とは、自分の心の中の部屋です。私たちには、聖霊が内住しているのです。その部屋のことです。私たちの神様は三位一体の神様ですから、聖霊がおられるなら父なる神様がおられると言えるのです。その父が見ていてくださるのです。その父に祈ることを考えてみなさいと教えているわけです。「戸を閉める」というのは、文字通りです。父の部屋の中に入り、戸を閉めるのです。とても深い神様との交わりです。この神様があなたに報いてくださるのです。静まって心の部屋に入っていくイメージを持って戸もちゃんと閉めて、父に祈ってみましょう。

 

11月4日(水)

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子の姿に似た者にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

ローマ7 28、29

 

神様を愛している人々は、神様のご計画に従って召された人々なのです。普通、この世では神様を信じるか信じないかが問題になりますが、実はそれ以上に神様を愛しているかどうかが大切なのです。その人にとって神様に愛されていると知る何があるなら、その愛によって、その人は神様を愛し始めるのです。そこで、その人は、神様と愛し愛されという関係に入っているのです。その人は、神様によってすべてのことを働かせて益としてくださるので、人生の意味が大きく変わります。もちろん、良いことです。たとえ試練にあっても、病気になったり、災難に遭ったとしても、それすらも益となるのです。だから、神様への信頼がともて大きなものとなります。それが義人は信仰によって生きるということにつながるのです。さらに、このような神様のお働きは、その信仰者を御子の姿に似た者とならせるためなのです。もし、人間的な努力で聖なるイエス様のようになろうとすれば、たちまち挫折することになるでしょう。しかし、神様の方法は間違いがなく、安全で確実に目的を達成するのです。ただ、人間が弱すぎるので、時間を十分かけてゆっくり完成させるのです。だからこそ、主に従順になって、主を信頼してゆだねる信仰が必要です。聖霊のお導きを願い、聖霊の助けを得ましょう。いずれにしても、人生の目的がこのようにはっきりしているので、ゆったり信仰によって楽しく進みましょう。

 

11月5日(木)

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

ローマ10 :17

 

信仰を持っている人は、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。今日の聖句はそう教えています。それでは、キリストの言葉をあなたは聞いたでしょうか。聞いたならどうやって聞いたのでしょう。私たちはこんなことはあまり考えないできたかもしれません。しかし、あらたまって聞かれるとどうゆうことかと考えてしまいます。キリストの御声を聞いたという人はいるでしょうが、直接聞いたという人は少ないでしょう。ですから、ここでは、直接キリストの御声を聞いたということではなさそうです。そうであるなら、聖書を手にとってキリストの御言葉を読んだか、誰かにキリストの御言葉を聞いたかのどちらかになるのではないでしょうか。そして、最も多いのがクリスチャンから聞いた福音です。クリスチャンは黙っていないのです。声を出しているとは限りませんが、行動や考えや存在そのものがキリストを語っているのです。ですから、クリスチャンを見て神様がいると感じる人が出てくるのです。今の時代なら、SNSや人々にメッセージを伝える環境が整い、誰でも簡単に福音を発信できるようになりました。友人などに伝道しようと頑張ってうまくいかずにがっかりした人は、今日の御言葉をよく読むべきです。人を説得しても反発されるだけです。そうではなく、キリストの言葉を聞かせることが伝道なのです。ある日、カーラジオから聖書の朗読が聞こえてきたことがあります。NHKでしたからどれだけ多くの人がキリストの言葉を聞いたことでしょう。最も説得力のあるキリストの言葉はあなた自身であることも覚えていてください。

 

11月6日(金)

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いを持って私たちを救ってくださいました。

テトス3:5

 

クリスチャンが覚えておくべき、大切な教えです。この世の人たちは、人間的な知恵で自分をなんとかしようとしますが、それは空しいことです。なぜなら、それでは救われないからです。人が救われるには人間の力では足りないのです。しかし、人間の悲しさは、頑張って努力すれば自分が救われると根拠もなく信じていることです。それに対して聖書は、今日の聖句の通りに真理を教えています。どんな人も神様の憐れみのゆえに救われるのです。そして、その救いは完全なので、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。どこにも、人が律法を守って義とされて救われるなどということはないのです。新しく生まれた人には、正しい生き方ができるようになります。その具体的な指示も聖書に書かれています。ですから、過去の無力な罪人の自分として考えてはいけないのです。人智を遥かに超えた神様のお力でなければ何一つ達成できないのです。ただ、私たちには信仰が要求されています。それは、必須なので、信仰を発揮することが苦手な人には、訓練がありますし、信仰を表さざるを得ない必然的な状況が起こってくるでしょう。大抵は、試練と思われるようなことです。そうならないためにも、素直な信仰が発揮でればいいのですから、幼子のように信じてみましょう。日毎に信じることを続けてみるのです。それに一番良いのが聖霊のバプテスマを求めて受けることです。深刻にならずに楽しみにして始めましょう。

 

11月7日(土)

あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。

フィリピ1:27、28

 

アメリカの大統領選挙は毎日ニュースになる程その混乱ぶりに驚かされます。それぞれの陣営の極端な支持者たちが対立し銃まで持ち出しているのですからあきれます。新約聖書時代にもユダヤ教と新しく起こったキリスト教が激しく対立し、キリスト者は反対者から脅されていました。私たちは、信教の自由が保証されている国にいて、平和であると思いがちですが、実はキリスト教には二つの流れがあって対立しています。それは、教派や教団、あるいはカトリックとプロテスタントというようなものとは違います。単純に言えば、新約聖書の教会をそのまま信じる教会と現代的な世俗化した教会の対立です。もっと簡単に言えば、聖霊のバプテスマが今日でも文字通りにあるし、聖霊の賜物も種々あり、それが癒しや預言、異言といったように信仰者に与えられているとする教会が一方にある。そういうことは初代教会までのことで、医療が進み、諸科学が発展してきた現代にはそのような霊の賜物の現れは無い、聖霊のバプテスマも水のバプテスマの時に自動的に受けているのであって、異言などは伴わない、とする教会が他方にあるのです。残念なことに、聖書通りの教会であると言いながら、実際には聖霊の現れは信じていないで異言を極端に嫌悪する人たちが多くいることです。これは、不思議ですが、パウロがユダヤ人に脅され攻撃を受けたように、明確にわかる聖霊のバプテスマを今も受けることができるとする者に対して律法の遵守を強調する者たちの反対があるということです。聖霊を強調する者と立法を強調する者の対立は、まさしくパウロとユダヤ人迫害者の対立にぴったり符号するのです。大統領選挙の報道を見ていると、明らかにおかしいと思うことでも、支持者はそれを正しいとするのです。それゆえに対立候補やその支持者と戦うのです。私たちは、聖書の書かれたとおりに今も全てが成就すると知っています。それは、聖霊の助けのおかげです。ただ、私たちは誰とも戦いたいと思っているわけではありません。信仰を挫くような脅しがあっても、悪者扱いされても、誹謗中傷されても、赦し、キリストを信じて、聖霊の導きのままに生きていくのです。決して、脅しにたじろぐことはありません。全て神様に委ねているので、自分の分を尽くせば良いのです。結果は明らかになります。寛大な心を神様に与えていただきましょう。小さな心では息苦しくなるでしょう。だから、大きな広い心を主に与えていただくのです。この世のことなど大したことではないのです。イエス様が救ってくださったのですから、大丈夫です。

 

11月8日(日)

わたしは主の御名を唱える。御力をわたしたちの神に帰せよ。主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。

申命記32:3、4

 

 これはモーセの歌です。それゆえに重々しい歌です。モーセは神様が誠実で岩のように変わらずにイスラエルの民に接していたのに、イスラエルの民は不誠実に足元も定まらぬ者のように神の戒めからも逸脱し、神を裏切ることすらしたと後の世代に戒めておこうとこの歌を残したようです。それゆえに、神様の不動、不変を岩に模して神様の正しさを示します。私たちもこのモーセの歌に耳を傾ける必要があります。おそらく、神の民が歌にすれば覚えているだろうと工夫して残したのです。それで、私たちの時代にまで残ったのですが、もはやどのように歌っていたのかはわかりません。その代わり、自分の不安定さや信仰の弱さが不幸な結果を招かないように、主の正しさに目を向けるように働いています。ですから、私たちは神様から目を離すなと言われても何をすれば良いのかわからない時、このモーセの歌を思い出して唱えてみると背筋を伸ばしたくなるようなシャンとした気持ちになれます。このような「岩」という言葉が詩篇にも多く出てきます。私たちがこの岩の上に足を置いていることが信仰の安定につながっているのです。

 

11月9日(月)

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼れらを贖い、昔から、彼らを背負い、抱いて来られた。

イザヤ63:9

 

私たちには順境の日もあれば、逆境の日もあるものです。いつも全てがうまくいけば一番良いのですが、予想もしなかったことが待ち構えているのです。また、人間の常ですが後ろを振り返っては後悔し、苦しみを反芻するのです。それが信仰者であってもあまり変わりないのなら、信仰は対して意味がありません。しかし、実際には今日の聖句のように、主はあなたをあわれみ、最善を尽くしてくださいます。あなたがここまで来ることができたのは、イエス様が背負い、抱いて運んでくれたからです。私たちは何でもかんでも忘れてしまうのですが、主の愛と憐れみの深さは忘れてはいけないのです。たとえ、辛い試練が来たとしても乗り越えることができます。たとえ倒れても、イエス様が背負ってくださるでしょう。ですから、安心して生きていけばいいのです。最後には最も良いことが待っています。今日も主の愛と憐みがあなたの上にありますように。

 

11月10日(火)

主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和の内に贖い出してくださる。私と争う者が多いから。

詩篇55:18

 

牧師をしていると悪霊との戦いが身近にあることに気がつかされます。多くの人々は、悪魔の存在すらいないものと考えています。そのために、この世で起こることは偶然だと思い、ついているとかついていないとか、運が良かった、悪かったと不確かなことでやり過ごしているのです。しかし、悪魔は聖書に書かれているとおりに存在し、聖徒たちを敵とみて挑戦してくることがしばしばなのです。もっとも、漫画のお化けのようには出てこなくて、普通はいないかのように存在を隠して、そっと囁いたり、誘惑したり、心をざわつかせたり、急に誰かが嫌いになったり、経済的にうまくいかなくなったり、偶像を拝ませて、信じた人が出てくると苦しませたり、災いにあわせたりと、長い人類の歴史の中でまさに悪魔的働きを続けてきました。しかし、聖書の預言通りに、最後には永遠に消えることのない火の池に投げ込まれます。神様の恐ろしい裁きが悪魔と手下の悪霊たちに下されるのです。しかし、それまでの間、善悪の大争闘は続きます。そして、今も主は戦い続けておられます。今日の聖句を読んでみると、この世の人間が敵になることもありますが、本来は目に見えない悪魔が敵なのです。主は、それゆえに私たちを救われるのです。悪魔は罪を犯す人間をまるで奴隷のように支配していると考えているので、この世の王だと思っているのですが、キリストが来られて、私たちの身代金を命で支払われて、私たちをご自分のものとしてくださったのです。ですから、私たちが頑張ったわけではなく、恵みで救われたのです。クリスチャンはそれを味わったので、敵の攻撃があっても、平和の内に主が贖い出してくださるのです。敵がいくら多くても勝利は主のものです。主をほめたたえ、主に感謝をすることをあなたが続ければ、悪魔はそばにいられなくなり去っていきます。でも、あなたが中途半端に戦うと悪魔は怒って脅かしてくるかもしれません。だから、いつも喜んでいること、すべてのことに感謝すること、絶えず祈ることが勝利の秘訣なのです。主イエス・キリストを信じていることだけがあなたの勝利を保証しているのです。

  

11月11日(水)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

詩篇16:11

 

この御言葉は本当です。そして、あなたはこのいのちの道を知らされ、キリストを信じてこの道を選んだのです。ですからあなたは最高の選択をしました。それは、喜びと楽しみが約束されているからです。神様と共にいることは、喜びに満たされ、楽しみがとこしえに続くことなのです。この世では、苦しみも悲しみも避けることができないかもしれません。しかし、それら全てに主は勝利してくださいます。私たちも、子供のような考えから大人の考え方へと成長しますが、信仰の道でも同じです。信仰で苦難を乗り越えることができれば喜びが待っています。人を赦し、祝福することができるようになるとさらに楽しみが始まります。ものごとは大変だと思えば、落ち込みますが、あとは上がるのみだと思えば、気が楽になります。主を信頼していると、喜びが満ちる結果になります。クリスチャンは真面目な人が多いですが、それでも楽しむことができます。楽しみはいけないと考えているなら、それは間違いです。主の右には楽しみがとこしえにあることを信じてください。聖書を読むことも楽しみ、礼拝することも楽しみ、祈ることだって楽しみなのです。自分の人生が喜びと楽しみに満ちていることは良いことです。そして、それは主のもとにあります。いのちの道が良いものであることを信じていましょう。パウロがいつも喜んでいなさい、と言ったのは、主の御前には喜びが満ちているので主の御前に行きなさい、という意味なのです。私はこちらの道を選びます。

 

11月12日(木)

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

ヨハネ8:31、32

 

「わたしは真理である」とキリストは言いました。ですから、キリストが真理なのです。そうすると、キリストが弟子たちを自由にできると言っているわけです。では、弟子とはどうすればなれるかといえば、キリストが「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」と教えたのですから、キリストの言葉にとどまることを考えればいいわけです。クリスチャンがいろいろ問題を訴える中に、霊的成長、あるいは信仰に成長できないと嘆くことがあります。そして、聖書通読や祈りや礼拝など、基本的なことがちゃんとできないと思っている人たちがいます。そこで、心機一転がんばってみるのですが、ある程度の満足で終わってしまいます。例えば、1時間祈れるようになるセミナーなどをやってみると、本当に長続きする人は一人ぐらいしか残りません。これらは、人間的な努力では限界があることを証明しています。そこで、もう一度、キリストの言葉を見てみると、「わたしのことばにとどまるなら」と条件が一つであることに気がつきます。そこで、キリストのことばだけを注意深く読んでみるのです。すると、すぐに心に響く言葉が出てきます。読み飛ばすと、何も残らないのですが、このようにゆっくり何度もキリストがなんと言っているのか注意深く読むとチャレンジが出てくるのです。そこでも、自力でまだ頑張る人がいますが、それはすぐに挫折するだけなので、賢明ではありません。そうではなく、ここで祈るのです。そして、自分ではできないとか、守れないとか、正直に祈ります。では、どうすれば良いのか正しく教えてくださいと祈るのです。それから、動機を考えます。キリストを畏敬の思いで接している人は、キリストのありがたさがわかる人です。また、キリストに愛されていることを知ることも重要です。聖なるいと高き方に親しく、憐れみをかけていただいている、と思えたなら十分な動機になります。つまり、真理であるキリストを知ることなのです。例えば、天地万物の創造はキリストによってなったのです。ですから、この地上に存在するすべてのものも原理や法則も何もかもがキリストによって支えられているのです。それが真理です。私たちたちにとって重要なことは、人間が神にかたどって造られたことです。神の息が人の内に吹き込まれたときに生きたものとなったのです。そして、アダムが罪を犯し、エデンの園から追放されました。その罪の問題の解決、その方法、それが問題となります。そして、人間が神に愛され、人間も神を愛し、愛し愛される関係であったのですが、それが罪によって断絶したのです。そうであるから、罪の問題の最終的解決は、再び神と人が愛し愛され、という関係を回復することなのです。それらが全てが真理に中にあるのです。ですから、人間のような不確かな話ではありません。完全なキリストによって愛は回復されるのです。このようなわけで、真理はあなたを自由にします。

 

11月13日(金)

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。

詩篇37:3

 

人を基準として考えると善を行うことすら難しくなります。それどころか、何が善であるかすらわからなくなり、確かなものが自分に無いことを悟るでしょう。一時の感情に左右される生き方を放っておけば、人生は苦くなります。ひどい目に遭っても主を信頼していれば、恨まずに仕返しをすることもなく、驚くことにひどいことをした人を祝福することだってできるのです。それが善であることは聖書に書いてあるから間違いありません。しかし、イエス様の命令は、時にできないことばかり言っていると結局無視してしまい、誰もできない難しい事だからと背を向けてしまうこともあるのです。不思議ですが、イエス様の言われたことを守ってみようと始めからあきらめてやらない人が多いのです。でも、ある人は、イエス様の言われたことを悩みつつもやってみるのです。すると、思いもかけない結果が待っているのです。つまり、常識を超越した良いことが起こるのです。ここで、教訓です。聖書に書かれたことは、何でもやってみることです。もちろん、ファリサイ派のように人にほめられようと見せびらかしでやるのはダメです。主に信頼するところから始まるのです。私が幼稚園児の頃に高い所に登って、怖くなって降りられなくなった時に、父におろして欲しいと泣きべそをかいたのです。こんな時、ユダヤ人なら、父は両手を広げて「さあお父さんの腕の中に飛び込んでおいで」と言います。そして、子供が信頼して飛び込むとサッと手を引っ込めて子供が床に叩きつけられるのを見ているのです。そして、教訓を言います。「人は親でも信じるな」と。これがユダヤ人の教育だというのです。私たちは、主を信頼して善を行います。決して床に叩きつけられるような目には会いません。この地上生涯の間、私たちは誠実に生きようとするでしょう。人間の心にはずるい部分が潜んでいます。誠実に生きようとすれば、損をしたり、ひどい目に遭ったりもするかもしれません。泣くような目に遭えば、誰でも誠実を捨てたくなるのですが、ここから信仰の世界が始まるのです。ヤコブの相撲のように、神様との葛藤の中で人は誠実を養うのです。他人が聞けばバカバカしいことで悩むし、勝手に思い煩うのが人間なのです。だから、聖書を開いては、何かいいことが書いてないかと探し、今の苦境を乗り越える手立てを見つけようとするのです。そして、たびたび祈り、嘆願し、試練の中からでも光を見出そうとするのです。こうして、信仰が鍛えられ、主に依り頼む人になって行きます。そのような人を見ると誠実に生きようとしていることがわかるのです。

  

11月14日(土)

欲望は絶えることなく欲し続ける。神に従う人は与え、惜しむことはない。

箴言21:26

 

人間にとって厄介なことは、欲望があるということです。欲望をなんとかコントロールしようと昔から人間は試みてきたのです。しかし、それは簡単なことではありません。例えば、断食する人は世界中にいます。苦行・難行を行う人も少なくありません。もし欲望が簡単に抑えられるのならそんな大変なことをする必要はありません。また、欲望に負けて失敗することは誰にでも覚えがあるでしょう。人によって欲望の傾向が異なっています。欲望は人生に悪い影響を及ぼすので危険です。特に、十戒にも「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(創世記20:17)とあります。欲しい物を手に入れても満足せずに、すぐに次の物が欲しくなり、決してこれで十分とは言わないのが欲望です。それなのに、神に従う人は与える人になるのです。惜しむことがなくなるのです。つまり欲望を打ち破る秘訣は与えることなのです。それは、信仰によって可能になります。神様を信じる人にこそできることだからです。与えることができる人は幸いです。

 

11月15日(日)

主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。

申命記31:8

 

神様を信じる者には、想像以上の恵みがあります。しかし、恵みに慣れていない人は、その恵みを受け取ろうとはしないものです。恵みなのに、何か自分でそれに見合うことをしなければ受け取る資格がないと思っているかのように簡単には受け取らないのです。それは、神様に対する理解を歪めてしまい、必要以上に厳しい方として距離を置くようになるのです。しかし、主イエス・キリストを通して神様がいかに憐れみ深く、優しいお方であるかを理解することができると、肩の力が抜けます。信仰が神様に見せるものではなく、信頼することであるとわかると、人は神様に近づいて行くのです。すると、今日の聖句の意味が実感できるようになります。ですからいたずらに恐れなくなります。不安を寄せつけなくなるのです。何しろ、聖書からお語になる主が「あなたを見放すことも、見捨てられることのない」とお語りになったのですから、安心して目の前の困難や問題を解決できると信じていいのです。主と共に勝利しましょう。自分は主のおかげで大丈夫だと言い聞かせてあげましょう。

 

11月16日(月)

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

フィリピ4:4

 

私たちは毎日幸福に生きたいと思ってもいいのです。不思議なことにそれではいけないと思っている人も世の中にはいます。専門家は、ポジティブな人の方が良いと異口同音に言います。それで、日本人である私たちは、おくゆかしさもかなぐり捨てて、なんとか積極的に生き、肯定的に考えることが良いことだと自分に言い聞かせるのです。しかし、伝統的な日本の社会はそのような、にわかに現れたヘンテコな考え方をすぐに一蹴しようとします。こうなると、ポジティブな思考を身につけるのも簡単には行きません。ところが、信仰の世界は、まさにポジティブ思考が合っています。そこで、聖書に何か方法があるのではないかと見てみると、今日の聖句が出てきました。これは、有名な聖句ですから、ご存知の方も少なくないでしょう。しかし、実践している人は意外なほど少ないのです。喜ぶことが起これば別ですが、何もないのに喜ぶなどできないのです。しかし、聖書は喜ぶようなことがあれば喜びなさいとは書いてありません。常に喜びなさい、とあるのです。そして、それができる秘訣が「主において」と書いてありました。つまり、自力ではできなくても、主にあってならできるということです。まさに信仰の世界です。そこで、今日は「主において常に喜びなさい」という命令を実行してみましょう。主との関係が重要ですかから、祈りから初めてみましょう。そして、一日の終わりに成果を検討してみましょう。うまくいけば、大きな信仰の飛躍と恵みを手にしたことになります。始めから難しいと思ってはダメです。主が望まれていることなので、主によってならできるはずだと考えてください。うまくできれば、人生が大きく変わります。楽しみにやってみてください。

 

11月17日(火)

あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。

出エジプト23:25

 

人間にとって大事なことは生きて行くためのパンと水です。つまり、生きて行くための糧を主は祝福してくださるとおっしゃるのです。それは、主にお仕えするからです。人が信仰を持つということは、この神様を主として仕えることです。人は命がかかると真剣に神様に向かうものですが、気休めの神々が多くあるのでまるで遊びのように寺社にお参りするのです。戦国武将は命のやり取りをするので、戦に出る時には神々に必勝祈願をしました。時には占いもしていたのです。しかし、彼らは神様にお仕えするという意識はなかったのです。今でも、人間の力では如何ともし難い事を神頼みでなんとかして欲しいと拝むのです。よく考えればわかりますが、神様にお仕えするのではなく、逆に神様に仕えて欲しいと願っているわけです。イエス様は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言われました。私たちが主に仕えるとは、私たちの身近にいて助けを必要とする小さな人へのささやかな援助のことなのです。人だと思うと腹も立つところを、これは主であると思えば、心もこもるだろうということです。もっとも、無理に良いことをしようと思えば、必ず挫折するので、どこまでも自然体でなければなりません。誰に対しても親切でありたいですね。主を信仰して、学んだ通りに生きていけば、主の教えられた通りにできるようになりますから、生活が祝福され、病気も除き去ってくださるのです。ありがたいですね。

 

11月18日(水)

もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

ヘブル3:14

 

私たちは不思議な神様の召命を受けています。神様を信じて洗礼を受けました。それが驚くほど重要なことだったのです。洗礼を受けた人たちは人生最高の感動を味わうことになります。その時に、緊張と興奮の中で見落としがちなのですが、最初の確信を得ています。つまり、過去の人生の一切を悔い改めて罪を赦され、清めを受けたのです。さらに、重要なことは主イエス・キリストを信じたので罪の贖いをしていただいたのです。そして、あなたはキリストと共に十字架にかけられて罪人に死んだのです。キリストの血潮はあなたを洗い清め、約束の聖霊が天から降ってきたのです。それは、神の息です。新しく生きるための神の息です。それで、霊的に新生しました。それが、わかったのです。これは、洗礼を受けた人にしかわかりません。理屈は分かっても、最初の確信がどんなものであるか体験していなければわからないのです。だから、恵みによって救われたと喜べないのです。一方、クリスチャンになって信仰の歩みを始めて知識の無いことにすら気が付かいていなかったと思います。クリスチャンになって祈りと聖書を読むように教わります。ただ、聖書を読んで何かを知ることはそう簡単では無いのです。しかし、聖書を学び始めると目には見えない不思議な力が働いて悟ったという言葉がぴったりのことが起こるでしょう。もちろん、そうなる人とそうならない人に分かれるのもここなのです。片方は聖書を学び続けるでしょうが、もう一方は聖書をほとんど読まなくなります。教会以外で聖書を開くことがほとんどなくなるのです。だから、この人は、クリスチャン以前の古い人がしばしば顔を出してくるのです。そのままでいいはずはありません。どちらにしろ注目すべきは、キリストが教えられたように、御言葉は霊であり命だということです。そこで、聖霊が重要な働きをなさいます。ですから、ファリサイ派の人たちのように、自力で何か良いことを達成する必要はありません。重要なことは、最初の確信を終わりまでしっかり保つことなのです。初めのイエス様を信じて救われた感動を忘れないことです。そして、イエス様を信じていれば必ず救われるという確信です。時々、信仰がぐらつき、やめたくなることもあるかもしれません。しかし、やめてはいけません。肝心なことは全てイエス様がやり遂げ、備えてくださったのです。あとは、信仰で生きて行くことだけです。だから、誰でもやり遂げることができます。難しく考えないことです。イエス様の救いの御手につかまっていればいいのです。ちょっとワクワクして、喜んでいましょう。

 

11月19日(木)

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるものもろの悪霊に対するものです。

エペソ6:12

 

クリスチャンはキリストの陣営に入れられたので、悪魔は敵となりました。その前といえば、悪魔の奴隷ですから大きな変化です。悪魔の働きは、エペソ書によれば、主権、力、この暗闇の支配者として働いています。さらに、霊的には天にいるもろもろの悪霊と表現されています。つまり、悪魔は教会あるいはキリスト者一人一人を神の側の敵とみなしているのです。ですから当然のようにクリスチャンの隙をみては攻撃してきます。その方法が、霊的ないわゆる悪魔的な攻撃だけだと思い込んでいると大変なことになります。実際には、人間も関わってきますし、時にはクリスチャンや聖職者ですら利用して攻撃をしてくることがあるのです。神様も守ってくださるので、大事に至ることは無いとたかをくくっていれば確実に酷い目に遭います。エペソ書では、6章に神の武具を身につけるように勧められていますが、クリスチャンとしての基本を忠実に守っていれば良いということです。それでも多くのクリスチャンが悪霊の攻撃に遭っていても気が付かないことがあります。自分の霊的状況が全く分かっていないのです。悪魔は別におばけのように現れる必要などありません。主権、力、でイメージできることは圧力をかけてくることです。信仰のゆえに圧力をかけてこられると、ぐらつくこともありえます。聖書は人間を恐れるなと警告しています。恐れると一気にやられてしまい、大変なことになるかもしれないのです。ですから、主を信じる信仰が試されます。そして、このように人間が関わってきて酷い目に遭ったとしても、実際の敵は人間ではありません。人間は悪魔に支配されたり、利用されているだけです。悪例を追い払えば、悪意を向けていた人間が急に穏やかに変わるのです。ですから、人間に腹を立てないように気をつけましょう。そして、できれば、すぐに赦しの祈りをすることです。そして、日頃から教会員同士で互いに祈り合っているのも助けになるでしょう。それができなくても、神様が助けます。聖霊が指導されますので、祈ってその指導が明確になるように願いましょう。クリスチャンの皆様は、役割は個々人で異なりますが、霊の戦いにはすでに足を踏み入れていますから、くれぐれも油断をしないことです。ただ、覚えていていただきたいのは、この敵達との戦いは勝利が約束されていますから、安心していてください。霊を見分ける賜物のある者はクリスチャンが悪魔の攻撃を受けていないか見張っていますから、それぞれ自分の役目を果たして貢献したいですね。この勝敗の結果は実はもう決まっています。そうです、神様の大勝利で終わるのです。その時も近づいています。悪魔に苦しめられている人も、完全な解放が主によって実現します。主をほめたたえ、主の良くしてくださったことを認め讃美しましょう。

 

11月20日(金)

見よ、神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ハヤ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

イザヤ12:2

 

クリスチャンになって良かったと思うことは実に多いのです。私は日本人として平均的な人間だと思いますが、正月には初詣に出かけ、旅行に行っては神社仏閣を詣で、人には平気で無神論者だと豪語し、その割には困ると神頼みをしていたと思います。世界には色々な神々が存在すると聞いてもそうだろうなと当たり前のように聞いていました。ところが、クリスチャンになってみると、まず驚いたことに神様は生きておられ、私のような者のことまで真剣に考えていてくださることがわかったのです。今日の聖句の最後に「私のために救いとなられた」という意味がわかるのです。それは、神様の独り子が私たちを救うために地上に来られて、しかも人間になられて、十字架にかかられたのです。それ以外に私たちを救う方法が無かったからです。歴史上最も屈辱的で残酷な処刑方法が十字架刑です。イエス様には罪がありませんでした。私たちの身代わりに罰を受ける必要も無かったのです。それなのに、私たちを惜しんで、憐れまれたのです。神様を熱心に信仰していたわけでは無かったのに、それどころか偶像を拝み、また神はいないと豪語していたのです。そんな者を救う神様がいるとは思えないでしょう。しかし、イエス様は十字架にかかられたのです。万軍の天使たちを呼べば、ローマの軍隊もあっという間に蹴散らしてしまったでしょう。それができるのに、黙って十字架につかれたのです。私たちの罪がどれほど重いものであったかは、神様の独り子が身代わりに死ななければならないほど重かったのです。ですから、主によって救われた今、神様は私の救いと言えます。日々の生活で主の助けは具体的で、人間的な愚かな考えがもはやどうでも良いものになりました。そんなつまらないことにこだわって苦労していたことが馬鹿馬鹿しくなります。主を信じていれば、不思議なことに力に満たされます。私たちは主を讃美して主の臨済を味わうこともできるのです。幸福な毎日を過ごせるのは、イエス様が私たちの救いとなられたからなのです。ハレルヤ。

 

11月21日(土)

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

Ⅰヨハネ5:11、12

 

ここに出てくる証しは、神が御子についてなさった証しのことです。この証しは神の御子イエス・キリストを信じる人の内にあります。福音はただ私たちの罪が赦されたことだけを語っているのではありません。御子イエスを信じた人に神が永遠の命を与えたことが肝心なことなのです。ただ、与え方が特殊です。永遠の命をポンと与えたのではなく、御子の内に永遠の命があって、その御子と結ばれているなら、結果として永遠の命が与えられているという意味です。そこで、クリスチャンになる意味が出てきます。しかも、ただ洗礼を受けてクリスチャンになったというだけではなく、御子と結ばれている必要があるのです。これは、信仰によって実現するものです。いつまでも自分にこだわっているなら、信仰とは反対の行為になるので、御子と結ばれることはできなくなります。自分が生きているので邪魔になるのです。つまり、古い自分の嫌な面が邪魔をしてしまうわけです。御子は十字架にかかられたのですから、結ばれるのも十字架に架かるイエス・キリストと一緒になることなので、イエスの死と結び合わされて、古い自分に死ぬことになります。ですから、その人は変わるはずです。それが何年経っても変わらないのなら、結びついていないことを心配しなければなりません。いい加減、自分が自分を支配することをやめなければいけないのです。それは、やはり、キリストと結ばれていることを認めることです。頑張って生き続ける必要などありません。イエス・キリストが十字架に架かられた時にあなたも道連れになったのです。そして、罪の宿る古い肉は死に、キリストと共に新しい命に復活したのです。ですから、古い自分が死んだことを認めることです。気楽になるはずです。こうでなければダメと言い続けてきた古い人が死んでいるのです。ストレスの源が死んでいることを信じて、復活の命に生き喜びに目を向けましょう。神様の救いの御業は実に不思議なのです。

 

11月22日(日)

あなたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。

マタイ21:22

 

さて、あなたは今日の御言葉を与えられました。祈りについてあなたは知る必要があるからです。この御言葉の通りになるのなら、これは大変なことです。誰もがこの通りになればどんなに良いだろうかと思うでしょう。しかし、これは聖書に書かれているのですから、必ずこの通りになるのです。そうであれば、何をあなたは祈り求めるのでしょう。「何でも与えられます」。今までも、あなたはずいぶん色々なことを主に祈り求めてきたはずです。それと何が違っているのでしょうか。考えるべきです。そして、悟りを与えられるように願うことです。神様は、この御言葉をどのように理解し、どうするか見ています。良い結果を導き出すか、それとも間違った理解をして恵みに到達しないか、これは一人一人が信仰によって解決をしなければならない問題であり、決して難しくないものです。しかし、多くの人がただ通り過ぎて行くのも事実です。信仰の醍醐味を味わうチャンスですから、チャレンジしてみましょう。

 

11月23日(月)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。

Ⅱコリント5:17

 

何のためにキリストを信じたのかわからない人がいます。自分の思い込みや、古いことに縛られているのです。悪魔は扱いやすいはずです。ちょっとささやけば、すぐに感情を昂らせて自滅するからです。悪魔は実によくことの仕組みを知っています。ですから、何度でも同じ方法で人を苦しめることができるのです。キリストはそんな人を救うために十字架にかからなければならなかったのです。これを信じれば天国に行けるからと十戒を与えてみても、たった十個すら守れないのです。キリストが教えてくれたのでわかったのですが、一生懸命に守っていると豪語していたファリサイ派の人や律法の専門家でも、一つすら十戒を守れていなかったのです。私たちも悟らなければいけませんが、心の中で思うことでも罪となったのです。そうすると誰も律法を守ることができないのです。それでは誰も救われないことになります。ですから、律法を与えるだけでは人は救われません。罪の自覚が生じるだけです。そこで、キリストの救いを正しく理解する必要があります。律法と完全に調和しているキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。過去にどんな酷いことや罪に汚れていても、自分や先祖のせいで呪われていても、また悪魔のとりこになっていたとしても、それらの全てから救われる方法があるのです。それが、キリストの内にあることです。何しろ新しく造られるからです。自分を悩ませていた過去があったなら、それは古いものとして過ぎ去り、全てが新しくなるのです。キリストを信じる事とキリストの内にある事が等しいのならどうでしょう。今日は、実験です。「私はキリストの内にあるので、新しく造られた者です」と唱えて、イメージするのです。今日の聖句を何度も唱えてみましょう。納得するまで続けます。効果はあります。

 

11月24日(火)

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩篇138:

 

どのような人でも長所短所があります。面白いのは、短所ばかり気にする人とまったく気にしない人がいることです。長所は放っていても自然と出てくるものなので、早く気がつき、それを伸ばすことに集中した方がいいのです。短所は、履歴書などを書くときに初めて気がつく人もいます。しかし、短所をそのままにしておくのは賢明ではありません。なぜなら、良い方向へ変えることができるからです。短所は自分人生の足を引っ張ります。それも肝心な時にマイナスの働きをするものです。クリスチャンになると、高慢が罪であることを教えられます。そこで、へりくだることが美徳だと勧められるのです。実は、今日の聖句のように理解することが肝心なのです。自分のことはもどかしいぐらいによくわかっていません。歳をとっても立派な人に成長していないのは、自分のことが見えなくて悪いところを直すことができなかったからです。つまり、短所克服については何もしてこなかったのです。それは、自分に問題があるのは分かっていても、本質的なところでは自分は悪くないと思っているからです。悪いのはいつでも他人だと決めつけてきたら人間は成長したり、成熟することができないのです。それどころか、老人になった時に一生かけて作り上げてきた自分が惨めな者であると気付かされるかもしれません。信仰はありがたいものです。なぜなら、今日の聖句のように神様を信じて安心できるからです。短所の克服も自分に任せないで、主に委ねます。だから、確実に勝利できます。自分で立派な人格者になりたいと思ってもなれるものではありませんが、クリスチャンに働く聖霊はその人にとって何が大切かを知っているので、確実に最善を尽くしてくださいます。それが恵みなのです。主が私たちに与えてくださり、私たちはそれを信仰でいただくわけです。ですから、どんな人も主を信じて「主は私にかかわるすべてのことを成し遂げてくださいます」と告白しましょう。

 

11月25日(水)

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ9:16

 

信仰は役にたちます。今日も昔路傍伝道で知り合った方から電話がありました。二、三日前からその人のことを思い出してどうしているかと思っていたのです。そうしたら、やっぱり電話がかかってきました。このようなことが時々起こります。神様が知らせておられるのです。この人は、春頃から病気になられてお仕事もできない状態になっていたのです。それで、私のことを思い出して電話してきました。薬害で病気になったので、癒しをする人を知らないかと言うのです。それで、癒しの祈りをしました。このような時に、いつも感じることが今日の聖句です。神様が憐れみ深いので、人間を助けようとされるのです。その人が理解できる範囲で構わないのです。立派な信仰があればいいのでしょうが、たとえそうでなくても神様の愛はかわりません。主は、その人の救いをいつでも願っていてくださるからです。ただ、私たちが人間なので自分の考え方を変えられなかったり、いじけたり、コンプレックスをもったり、酷い目にあって傷ついたままだったりするので、主はありのままで受け入れ、癒し、愛し、再生してくださるのです。そのことが真実であることを今まで何度も見てきたのです。憐んでくださる神様に感謝いたします。

 

11月26日(木)

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

詩篇18:3

 

どんな人も霊的戦いの巻き添えとなっていることを覚えてる必要があります。聖書を読めば、悪魔はこの世の支配者であると豪語しているので、この世界がよくなることはないとわかります。もちろん、神様が黙って見ているだけということはありません。ですから、霊的な戦争状態が続いているのです。罪人は悪魔にそそのかされて罪を犯すので、防ぐためには欲を捨てる必要があります。しかし、欲は肉の一部なので簡単ではありません。クリスチャンは、罪の贖いをキリストによって受けて救われました。しかし、肉の問題は続きます。そこで、肉の働きを聖霊によって殺すようにとローマ書8章に書かれています。つまり、キリストの救いは完全なので、聖書に書かれたようにすればいいわけです。問題は、信仰によって生きることが不可欠なのですが、信じられないようなことでも主が語られたのなら信じる信仰が必要です。例えば、聖霊のバプテスマが人を覚醒するので、使徒言行録にはペンテコステの出来事に続いて、8、10、19章と聖霊のバプテスマを実際に信者が受けている場面が書いてあります。これは、特別な人だけが受けるのではなく、誰でもイエス・キリストを信じた人が受けていました。それは現代でも同じです。ただ、現代人の悩みは聖書時代のようには簡単に信じられないという問題です。信じることが困難な社会に生きているからです。それで信じることで苦労するわけです。それは、神様を信じることを何度も繰り返して養う方法が穏やかで良いと思います。試練のようなピンチに遭って必死になるので聖霊のバプテスマが受けやすくなることはありますが、大変な思いをするので、できれば祈りを通して神様との交わりを深める方法が良いと思います。このようにして、霊的覚醒を体験すると、主を褒めたたえることの意味がはっきりわかります。そして、自分の内から讃美は激しい流れのようにとめどなく溢れてくるのです。このようなになると神様の臨済を感じることも起こります。そして、とても主を近くに感じるでしょう。このような人が今日の聖句をアーメン、その通りと認めるのです。ただ、この御言葉が与えられているので、誰でもイエス・キリストを信じて受け入れている人は、主を呼び求めて、敵から救われるのです。敵は悪魔・悪霊のことです。ただ、自分を支配するような力や権力で現れることが多いでしょう。主を呼ぶことを忘れないでください。

 

11月27日(金)

ダビデは、イエスについてこう言っています。・・・「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」

使徒2:25、28

 

イエス様はあなたにも命に至る道を示してくださいます。それは、イエス様を信じているからです。信じるというのは、ダビデに言わせれば「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」(使徒2:25)となります。つまり、目の前に主を見るように信じるのです。この不安定な世の中では将来の不安は尽きないでしょう。しかし、ダビデのように主をいつも意識して生きている人は、将来の不安が無いのです。イエス様が一緒にいてくださるのに、どうして不安になるのでしょう。そのイエス様がなぜ、私たちと一緒にいてくださるかといえば、それは「命に至る道を」示すためなのです。ですから、クリスチャンは恵まれているのです。今に至るまで人間の歴史で永遠の命に至る道を探し求めてきた哲人は数多いたでしょうが、一人として「永遠の命に至る道」を示た人はいないのです。ところが、イエス様を信じて救われてクリスチャンになった人たちは、日々の生活の中でイエス様を知ることを深めています。それは、ダビデのようになるためです。そすれば、命に至る道を主が示してくださっていることがわかるようになるのです。そもそも天国というのは、主と共にいることが可能な場所です。それがどれほど大きな喜びであるか想像できるでしょうか。主が一緒にいることが明確なので、安心して心から喜びが溢れてくるのです。それが、この地上で先取りして味わうことができるのです。それがクリスチャンの秘密です。命に至る道は、聖霊が助けてくださることでわかることです。聖霊が共にいてくださるからイエス様も共にいると言えるのです。ですから、聖霊のことを軽く考えてはいけません。三位一体の神様としてとらえる必要があるのです。聖霊が正しく理解させてくださいますように。