2020年9月ディボーション

9月1日(火)

そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたち来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見るけることはないとは、いったい、どこへいくつもりだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか。・・」

ヨハネ7:33~35

 

イエス様がメシアであることをユダヤ人たちは認めません。イエス様のお話しをよく聞けば、そして多くのしるしを信仰をもってみていれば、メシアであることを発見し、喜べたはずです。それができませんでした。考えてみると、病気の人や障害者や何かしらハンディキャップを負っていた人たちがことごとイエス様を信じたのですから、ファリサイ派の人たちのような自分を誇っていた人たちがこっけいに見えてきます。そして、イエス様をメシアとして受け入れないのですから、イエス様を危険人物として排除したくなったのも見えてきます。イエス様のみ前では、自分の弱さを隠さずに、へりくだる心があれば、救いを求めることができます。しかし、自分を強い者、しっかりやっている正しい者としてしまうと、イエス様から遠ざかることになります。今日の箇所は、イエス様が十字架にかかり、三日目に復活した後で、昇天されることを言っているのですが、はからずもユダヤ人たちの言ったことが、使徒言行録の記録の預言のように響きます。つまり、福音はイスラエルを離れて、ギリシャへ宣教され、ユダヤ人ではなく異邦人に教えることになっていたのです。そして、2000年という長い時間を経て、皆様のもとに福音が届いたのです。皆様は、ユダヤ人のようにではなく、パウロによってもたらされた主イエス・キリストの福音を初めて聞いて信じた異邦人のように、イエス様を救い主として信じたのです。この時代のクリスチャンとして役割があるでしょう。それも、自ずとわかるようになります。キリストのために生きることの喜びがそのしるしです。

 

9月2日(水)

人間に頼るのをやめよ

鼻で息をしている者に。

どこに彼の値打ちがあるのか。

イザヤ2:22

 

信仰者が学ぶべきことは、人間に頼ることをやめることです。ここでいう人間とは、「鼻で息をしている者」と表現されている人です。つまり、人の思いはうつろいやすいと言っているのです。あてにならないのです。それなのに、一番重要な場面であてにならない者に頼ろうとするなら、滅びるかもしれません。良い結果は期待できません。「鼻で息をする者」は自分に都合よく生きようとするので、損得勘定をして欲に従う判断をする傾向が強いので、味方と思っていたら突然裏切られるようなことが起こります。損してまで自分の味方になってくれる人は、滅多にいないのです。このように、「鼻で息をする者」の心は頼りないので、何かにすがろうとします。その結果偶像が作られることになります。驚くことに、理性的な人間が自分で作ったものが姿かたちをとると元々が木や石や金属であったとしても、突然違った者に見えてくるのです。不思議なことに、人間はこのように何の意味もない偶像にすがるのです。確かに偶像は人間のようにうつろいやすいことはないでしょう。だって、心もないし、生きてもいないわけですから。空しいですね。さて、クリスチャンは、新しく生まれ、神様を知ることとなりました。そして、次の御言葉に出会います。「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。」(ローマ10 :11)。このように、クリスチャンは心から安心して頼ることのできる主を知ったのです。心をがわりをしないイエス様こそがあなたの主であり、あなたをまごころから愛していてくださるのです。とっても頼りになります。だから、安心して生きてください。

 

9月3日(木)

目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものにまなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。

箴言4:25~27

 

人生をどう生きるか学校のように教えてくれる仕組みはありません。ですから、人生の師と仰げるような人がいれば良いのですが、身近にそのような人物に恵まれないこともよくあることです。私たちには主イエス・キリストがいますから、それだけでも恵まれています。そして、教科書は聖書です。そこから、いかに多くのことを学ぶかが私たちの課題なのです。それは、実際の自分の価値となって現れてきます。この世の基準ではありませんから、世俗的なことで計ってはいけません。社会的な地位でも身分でもありません。神様が見ておられるのは、ここに書かれた聖句のように生きているかどうかです。正直に正しく生きていれば、誰も恐れませんから、目をまっすぐ前に注いでいられます。問題に直面した時には、逃げるのではなく、問題に向き合うことが肝心です。相手をいたずらに恐れるのでもなく、また軽んじるのでもありません。自分と違う人である以上、自分と同じように考えるかどうかはわかりません。立場によってものの見方は変わります。だから、自分の正しさではなく、神様の正しさで考えなければなりません。生き方は、行き当たりばったりではなく、神の子としての歩みを求めるべきです。ですから、そこには平和があります。聖霊の導きに敏感になり、愛に生きることを道しるべにするでしょう。愛は普遍ですから、愛がある限りその道は確かとなるのです。クリスチャンは偏らないので、バランス感覚が優れているものです。それは、ユダヤ人と異邦人の両方が救われると両方に伝道できたパウロのようなものです。自分が正しいとしなければ、うまくいきます。そして、意外と重要なことは悪から自らの意思で離れることです。クリスチャンは悪とは関係ないとたかを括ってはいけません。悪魔は非常に巧みに誘惑してきます。あなたの弱点を知っているからです。あなたの生き方を決めるのはあなた自身です。ですから、悪から遠のくことを強く意識している必要があります。このように神様だけを畏れ敬い、愛に生き、軽率に判断せずに、バランス感覚を持てるほど寛容であり、神のためキリストのために生きると言う生き方を貫き、偏ることなく、悪を避けるなら、あなたはこの地でも幸福に堂々と生きていけるのです。

 

9月4日(金)

わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

詩篇32:8

 

世の中には実にいろいろな人生があるものです。日本人にとっては、皆同じような人生ではないかと思う傾向がありますが、最近流行の同調圧力のせいで皆同じという居心地の良さを得ているのかもしれません。どうしても周りを見てしまうのですが当たり前すぎて意識していないのです。このように義務教育の延長のように社会人になって生きていけば、自分の人生に満足していない人が出てきてしまいます。自分らしく生きなさいと言われてもどうすればいいのかわからないのです。ですから、一生懸命に考えて頑張るのですが、うまくいく保証はありません。このような世の中で「目覚める」とはどのような意味があるでしょうか。どうすればいいのかわからないと思っている人も多いでしょう。就職する時期になって、何かしら道を選び、それが自分にとって一番良い仕事かどうかもわからないまま忙しく過ごしている人もいるでしょう。毎日、仕事を辞めたいと思っている人もいます。逆に人もうらやむ良い仕事にめぐまれている人もいますが、本人にとってはどうかわかりません。パウロは、エリートの道を爆進していましたが、キリストにあってそれまでのすべてをゴミのように価値なしと捨て去りました。つまり、聖書でいうところの「目覚めた」のです。どんな良いものでも捨てて惜しくないというほどの絶対的な価値、命をかけたいと思えるような使命を与えられたのです。それが証拠には、ひどい目に遭うことの多い人生でしたが、いつも喜びなさいと言えたのです。事実、そのように喜んで主のために生きました。主のために生きることに目覚めれば、どのような境遇でも喜べるようになるのです。クリスチャンの証は、自分がキリストと出会った時のこと、そしてその後の人生が変わった、という内容が多いのです。まさしく、「目覚めた」のです。そのような人に主は目を注いで、行くべき道を教えてくださるとおっしゃいます。主の勧めをいただいて生きて行きたいですね。最も価値ある人生をキリストが与えてくださっていることを信じましょう。

 

9月5日(土)

ヨセフは声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。

創世記45:2、3

 

ヨセフがまだ故郷で少年であった頃に、母親の違う兄弟たちに妬まれて殺されそうになった。それからエジプトに奴隷として売られ、数奇な人生を歩むことになった。しかし、ヨセフには神様がついていた。彼はいたずらに悲しむことなく、どのような境遇にあっても誠実に一生懸命に生きたのだ。その結果、昔の甘ったれから鍛えられて、見違えるほどの成長をみた。そして、主の試みは続き、罪を犯さなかったことから逆に犯罪者にされて王の牢に入れられるのだが、そこでもめげずに誠実に働くので、看守長が目を留め、ヨセフに囚人たちをゆだねることになる。聖書は、それらが「主がヨセフと共におられた」と説明している。その後、ヨセフは恐ろしい飢饉からエジプトを救うことになり、王の次の位にのぼりつめた。ヨセフは実によくやったと思う。神様の求めている人材は、このように試練に負けない人だ。どのような暗い時にも、主を信じてその置かれた所で誠実に頑張ればいい。主に仕えるように働けば道は開ける。欲で出世を望むなら、それは空しい。大変なこと困ったことが次々と起こる時、誰が助けてくれるだろう。私たちは、いつでも主に仕える。だから、境遇に負けない。そして、それを主はご覧になっている。だから、必要な時には必ず助けてくださる。そして、道を開いてくださるのだ。ヨセフが試練を信仰で乗り切った時に、兄弟との再会が用意されていた。子供頃に夢で見た通りにヨセフに兄弟たちがひざまづいていた。ヨセフはもはや兄弟たちをうらんではいなかった。神様のヨセフになされたことはことごとく、このようにヨセフを良く変え、人間として成長させ。そして、ヤコブの一族が長い飢饉の中で滅んでしまうことのないように、ヨセフによって救済の準備していたことになる。主のなさることは時にかなって美しい。

 

9月6日(日)

モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。

出エジプト16:33、34

 

聖書を読み始めると、やがて荒野でマナが降ったことを知ります。四十年間、それはイエスラエルの民の命を繋ぐ食物となりました。専門家によれば、300万人もの民がいたと言うのですから、毎日、四十年間もの長きにわたり、神様が食事の面倒をみた事になります。このマナはヘブル語で「これは何だろう」という意味です。荒野に達した時、イエスラエルの民は、本当に奴隷から解放されたことを実感しましたが、次にはお腹が空いて、不平を言い出したと聖書にあります。そこで、主が与えた食べ物がまなだったのです。そのマナは、天から降ってきたはずですが、どのようにできたのか誰もわかりませんでした。ちょうど、朝早くに葉の上に結ぶつゆがどのようにできるのかできる瞬間を見た人はいないのですが、同じようにマナができるところを見たものはいませんでした。マナは小さなまあるいものだったようです。それは、謙遜に低い者として生きたキリストを象徴しています。王であられるキリストが馬小屋に生まれ、飼い葉桶がベビーベッドでした。キリストがメシアであったのに、十字架にかけられ恥辱を加えられました。彼の墓は借り物でした。すべて私たちの救いのためでした。まるい形は、他のどのような形とも違って、周りのどこからも中心点に同じ距離なのです。つまり、キリストは誰とでも差別なしに近い存在であるということです。福音書を読めば、いろいろな人が個人的にキリストにいともたやすく近づくことができたことを知ります。それらが誰もがわかる罪人であってもです。マナは毎日集まる必要があった。それは、私たちにキリストが毎日必要であることを示しています。それも、朝にマナを集めなければなりませんでしたから、朝にキリストに祈り交わり、霊的な糧を得る必要があるということです。マナは、コエンドロの種に似て白く、とあるのはキリストの聖さ、愛に冨まれたお方であることを象徴しています。蜜の入ったウエファースのような味、というのは、キリストが私たちの喜びであり、大好きなお方であり、慰めであり、活力の源なのです。このように重要な意味のある、マナを金の壺に入れて、神が荒野でイスラエルの民を養われたことを記念するものとされたのです。ですから、キリストを信じるあなたも、たとえ荒野を行く時も困ることがない保証があるのです。

 

9月7日(月)

イエスは言われた。「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる。」

マルコ9:23

 

私たちの主は、何でもできます。もちろん、正しいことをです。私たちは、イエス様は救い主なので、イエス様に必要なことを願います。それが、私たちのためになることなら主は、願いをかなえることもできます。ただし、条件があります。それが主の御目に正しいことならば、ということです。どうしてそうなるかといえば、自分の中で、こんなことを願うのは間違っている、とか、どこかで正しくないと思っていれば、無意識のうちにストップをかけているのです。それは、信じきれないという形で現れます。ですから、これは主の御目にかなわないと自分が心の深い所で判断しているのです。その判断が間違っていることもあります。例えば、こんな重い病気は治るはずがないとか、自分の罪のせいでこのような不幸になっている、と因果応報のように考えてしまう場合。自分の価値を正当に評価できずに、不当に低く評価している場合。イエス様に祈っても、結局は無理だろうと諦めている場合。自分の信仰では無理だと決めてしまっている場合。まだまだ、考えることができるのですが、最後に今日の聖句です。イエス様がどのようなお方か理解していないことから、「できれば」と言ってしまう場合があります。奇跡を願うようなことは、誰にとっても信じることが難しいのです。しかし、「信じる者には何でもできる」と、主は言われました。信仰を励ましている感じがしますね。もし、イエス様に願わなければならないことがあれば、信じる者になるべきです。私たちはイエス様を知っています。だから、何を願うべきかを知ることができます。そして、主はあなたを愛しているので、あなたの益となることを実現してあげたいのです。聖書の実例からよく考えてみましょう。

 

9月8日(火)

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。

詩篇73:23

 

罪人のことを説明する時に、神様に背を向けて逃げている人のことだ、と言うことがあります。ピカートという人は「神からの逃走」という本を書きました。これらでわかるように、私たちは、放っておけば神様に背を向けて逃げ出すような者なのです。例えば、一日のうち神様を忘れている時間はどれほどあるかと考えると居心地が悪くなるかもしれません。青年の頃、教会にいる大先輩のおばあちゃんたちに信仰に入ってどれぐらいか聞くと、40年とか45年とか答えました。想像もできない年月を信仰を守って生きてきた人たちなんだと感激しましたが、同時に自分がバプテスマを受けてまだ数年であるということが恥ずかしく感じました。一体、何十年もの間、信仰を持って生きるなら、どんなに聖なる者になれるのだろう、聖書のことも何でも知っているのだろう、と勝手に想像していると、向かいに座ったおばあちゃんは、年数だけ経ったけれど何もわかっていないの、と笑いました。そばにいたお年寄りたちも皆、そうだそうだと言って笑っていました。これは一体どういうことでしょう。信仰年数が増せば、それだけ成長して聖なる者になれるのではないのでしょうか。聖書の真理も深く理解できるようになるのではないでしょうか。ところが実際には、時は瞬く間に過ぎ去り、歳をとるのに、信仰に関しては成長した気がしないかもしれません。それは、救いに秘密があります。つまり、私たちは自分の力で救われたわけではないからです。ただ、神様の恵みによって救われました。私たちができないことを全部イエス様がやってくださったのです。そうしなければ救われなかったのです。それですから、何年経っても立派な聖人になった気がしないのです。それでも、信仰が保てたのは、今日の御言葉に書いてある通りだからです。この神様の憐れみがなければ、また勝手に逃げ出していたかもしれません。「わたしの右の手を取ってくださる」と言うのは、ただ引き留めておくという意味だけでなく、神様があなたを義としてくださるという意味もあるのです。それに、勝利させてくださるという意味もあります。そして、神様があなたを愛しておられるので、手を取って離さないでいてくださるのです。あなたはそのことがだんだんわかってくるので、主を愛し慕うようになっているのです。ですから、終わりまで主の御もとに留まり続けるでしょう。

 

9月9日(水)

あなたは御計らいに従ってわたしを導き、後には栄光の内にわたしを取られるであろう。

詩篇73:24

 

クリスチャンの生涯は、大変恵まれている。人間の欲で考えれば違った答えがあるかもしれませんが、人の幸せは主に依頼むことで生まれるものです。小さな事に感謝できるようになり、多少のことではへこたれないのです。もちろん、クリスチャンの初めからそうなるわけではありませんが、主の御計らいによって確実にその人が良くなっていくのです。私たちには個性があり、性格も違っていますから、単純に同じ道を歩むということではありません。主は間違えることがないので、その導きは完全です。ですから私たちは安心して主の導きのままに生きていけばいいのです。しかし、時には失敗することがあるのも人間ですから、失望落胆する日もあるかもしれません。それも、年月を重ねるにつれて減っていくでしょう。それ以上に、主の恵みの大きさに驚き、感動して、感謝することが多くなるでしょう。以前なら、気にも留めなかった些細なことの中にすら、主の配慮があるのです。主が十字架にかかって勝ち取ってくださった自由の意味も、パウロの言っていた通りに、わかってくるのです。その時々にきっと祈りの課題があり、主との交わりを楽しむようになるでしょう。聖書も自分にとって意味ある言葉となって、理解できる喜びも増えていくでしょう。アメリカにいた時に、教会で野生のポピーの咲く時期にお花見に行きました。広大な土地にポピーが咲き乱れているのは感動するのですが、自然保護のためにどこでも勝手に歩いてはいけなくて、レンジャーが道案内をしてくれました。アメリカなので拳銃を持ったレンジャーは頼もしい存在です。万が一危険な事態になれば、すぐに守って助けてくれるでしょう。それに、今はどこが花の見所か、写真を撮るなら、ここから取ればいいとか、親切に教えてくれます。私たちの人生のガイドはイエス様です、このレンジャーのようにイエス様が最善の道を導いてくださり、守っていてくださるので安全です。この長い道のりも終わりはあります。私たちがクリスチャン人生を終わらせる時には、満ち足りて、「栄光の内にわたしたちを取られるであろう」と聖書に書いてありますから、死は恐ろしいものではありません。競技者がみごとに走り切り、勝利の栄冠を得るように、クリスチャンは栄光の内に眠りにつくのです。こんな恵まれた人生は他にありません。だから、希望を持って日々元気に歩んで行きましょう。

 

9月10日(木)

地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。

詩篇73:25

 

この箇所は、訳が変わったのですが、元々は「私はあなたのほか、だれを天に持ち得よう。また、あなたを持った今、地上でほかに何も慕い求めることをしない。」(NEB)となります。これは、地上での信仰者の神様との交わりが生きたものであれば、それ以上、地上で何も求めなくなる。神様によって満ち足りることを知ると苦難すら超越することができるという意味です。有名なルターの訳も群を抜いていて「わたしはあなたを所有するなら、天地に何もたずねない」とあります。クリスチャンは、霊的に満たされることを望みますが、意外なことにそれは簡単には得られないのです。クリスチャンを家作りに例えると、家は土台によって決まるのです。いい加減な土台では家は傾くし、長持ちしません。あっという間に強度を失って倒れてしまうのです。そこで同様に、クリスチャンは土台作りが肝心なのです。それは、地味で忍耐がいる作業です。これを怠っていると、何年経っても成長できないクリスチャン になりかねないのです。そこで、福音のことをちゃんと理解しているか検討してみてください。アダムが罪を犯して神様との愛の関係を壊してしまい、楽園から追放されました。福音はその回復なのです。ですから、目的は神様との愛の関係の回復です。そこで、神様と愛の関係を回復すると、それは一体となるようなものだというのです。そうであるなら、この地上のいかなる物も、宝も、地位も名誉も、一切のものが価値を失うのです。それどころか、苦難ももはや超えてしまうほどの状態になるのです。それで、聖霊がクリスチャン の内に来て住うこと、そのことがわかることができるのですが、聖霊のバプテスマのような霊的覚醒が必要になります。そのことによって、霊的に解放されている状態を信仰で継続するならば、この世のものへの執着は何も起こらなくなるということです。新共同訳の訳は、日本語として意味をわかりやすくしようとして解釈を変えたのですが、ルター訳のように解釈した方が良いと思います。罪深かった私たちをイエス様が憐れみ、十字架の贖罪によって救ってくださっただけでなく、信仰を与え、聖霊を与えてくださったのです。これが神様の愛です。主がここまでへりくだって愛を貫いてくださったのに、私たちがそれに応えないでいいでしょうか。愛には愛で報いるべきです。もし、神様の愛がまだわからないという人は、神様を熱心に求めてください。それで、神様を得たとしたら、この聖句を体験できるはずです。今日も、神様を愛して最高の喜びを感じることができますように。

 

9月11日(金)

わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。

詩篇73:26

 

人間はこの世で苦しみ、やがて死ぬ。それは、クリスチャンも例外ではない。それが人間の定めだが、もし、それだけであればなんと空しいことだろう。しかし、詩篇記者は、神が共にいてくださることを知った。同じように、クリスチャンはイエス様が共にいてくださることを知った。救い主であるイエス様は、決して心変わりするような方ではない。私たちを愛すると言えば、それは永遠になり、不動となる。それは永遠の岩となる。それが信仰を持った者の心にすでにある。だから、主の私たちに与えてくださった救いの約束は不変なのだ。この世で悪人たちが富を集め苦労してそれを残そうとしても、それはむなしく消えていくだけだ。報いはない。それにくらべ、クリスチャンたちに与えられたものは神様そのものといえる。キリストの十字架がそのしるしだ。やがて肉も心も朽ちたとしても、恐れることはない。福音を信じて信仰に入った時に約束の聖霊が信仰者に送られ、その聖霊は、私たちの霊と一つになり、私たちを生き返らせたのだ。その新しい命は、私に与えられた分なのだ。だから、私たちは古い肉の命にこだわるよりも、新しい命に生きることに焦点を当てた方が良い。古い肉をいくら修正しても、朽ちていくだけだから。それは、なかなか成長できない、とか、霊的に変われない、と言った言葉で現れると思うが、肉の命のことを話しているだけだ。私たちが目指しているのは、パウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:30)ということだ。それは、難しいことではない。信じることでそのようになる仕組みだから。自分の置かれた状況や自分の状態でなかなか難しいと感じるのももっともなことだから、神様はもっとあなたの事情を理解しておられる。それだから、心の岩を与えたのだ。

 

9月12日(土)

知れ、主がその驚くべき愛を私に示し、私が呼ばわる時にお聞きくださることを。あなたがたの心は怒っても、悪を行うな。憤りをもって床に伏しても、沈黙を破るな。

詩篇4:3、4

 

主を信じる者と主の関係は、愛の関係です。それも、人間が驚いてしまうほどの愛です。それほどの愛を主は信じる者に示すのです。それだから、主を信頼できるはずです。主への信頼は、私たちが祈る祈りを主がちゃんと聞き届けてくださるという確信となります。この世で生きているので、時に怒りたくなることがあるのです。特に怒りやすい人は、悪を行う危険性をいつでも持っているのです。悪を行えば、主は助けることができなくなります。そして、怒った以上に、落ち込むことになります。もしかすると、取り返しのつかないことになるかも知れないのです。ですから、感情がおさまらずに床に入っても、寝付くことができません。もし、怒っても悪を行わなかったとして、その日が終わろうとしている夜に床の中で、つぶやき始めたなら悪は一気に吹き出してくるでしょう。だから、沈黙を破るわけに行かないのです。怒りは、長く人を蝕みます。何度も繰り返し思い出しては痛みを感じ、事故を正当化しようとするからです。大切なことは、あなたがいくら自分は正しい、悪いのは相手の方だと叫んでも、癒えることはありません。いつまでもエンドレスで苦しみは続くでしょう。ですから、クリスチャンは、そんな時に、主を呼び求め、自分の苦しさを訴えればいいのです。それができると、自分を酷い目に合わせた人を赦すことができるでしょう。もっと楽になります。主は、失敗して、自業自得となっている惨めな私を決して責めないのです。自分でも自分が嫌になっているし、自分が赦せなくなっているのに、主は私を責めるのではなく、愛してくださるのです。だから、癒されるのですが、それがどんなにありがたいことか知っている人が、この詩篇記者なのです。それで、あとに続く信仰者たちに教えているのがこの詩篇です。

 

9月13日(日)

あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きなった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

 

石の板は、モーセの律法を意味しています。その律法を守り行うと民が約束したのが旧約です。しかし、結果は散々なものでした。守るどころか、律法によって人間お内に隠れていた罪が吹き出してきたのです。律法が明ければ、自分が罪人であることを知らなかったかもしれません。それで、バビロン捕囚にあったユダヤ人たちは、律法をさらに徹底的に遵守できるように仕組みを整え、専門家も養成して、神殿が無くなったこともあって、 会堂まで作り、律法を人間が厳格に守ることができるように努力をしましたが、やはり律法を守る人の罪が明確になるだけでした。これでは、人は誰も救われないことが分かったのですが、そうしなければ人間は自分以外の誰かに救われることを望まずに拒むことが明らかだったのです。つまり、救い主としてイエス様が来臨されても、その救いを受け入れるかどうか怪しかったのです。それが証拠に、イエス様が来られて神の国の福音を宣教しても、それを拒み、否定して、律法を遵守することにこだわりました。それで、神様は新しい契約を実現させるために、イエス・キリストを信じる者に救いを与えたのですが、それは、罪の赦しと新しい命を与えることでした。つまり、古い罪を犯さざるを得ない肉の命をキリストの十字架の死に結び合わせて滅ぼし、神様が与えた聖霊が心に律法を書いたのです。つまり、心が律法と一つになるようにされたのです。ただ、それらがうまくいくためには、どこまでもイエス・キリストを仰ぎ続け、信仰を現すことが必要となりました。その信仰だけが望みなのですが、逆に信仰だけなので誰でも救われる道が開かれているのです。そして、聖霊が人の内に生きているので、神の息によって生きる人になればいいのです。それは、律法の精神でもある、愛がその人を通して現れてくるようになるということです。その愛のあふれてくる人をキリストの手紙と言っているのです。だから愛を実践しなければ、と考えるのは間違っています。できれば良いのですが、きっと問題が発生します。御言葉をよく読めば、明らかですが、キリストがあなたの心に書いたのです。だから、あなたの良い愛の行為をしなさいと言っていません。あくまでもキリストがなさる働きなのです。あなたは、キリストの故に自分を捨てているので、自己をさらけ出すことができます。そうすれば、手紙を他の人たちが読むことができます。聖霊が自由に働くことができるように従順になることだけ意識していれば、きっとうまくいくでしょう。聖霊があなたの心に何を書いたのか、知りたいですね。楽しみにしていましょう。

 

9月14日(月)

それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊な恵みをくださる。」

ヤコブ4:5

 

クリスチャンは本当に恵まれているのです。自分の感情や思いに関係なく、自分の外からも内からも、恵みが豊かに与えられているのです。それなのに、そのことを信じられないでいることを自覚もしていません。なんともったいないことでしょう。信仰によって義とされる、というのは信仰によって正しいことが神様によって行われることです。神様があなたを愛しているのですから、あなたに恵みを与えようとされるのは当たり前です。そなれなら、安心していただけば良いわけです。ただ、何が恵みか分かっていないともらいそこなうかもしれません。ですから、聖書を読んで神様からのメッセージを理解できるように日頃から習慣にすると良いのです。それから、神様を知ることが何より重要です。イエス様を知ると天の父なる神様も知ることになります。そうすると、世の中の見た方や感じ方が変わります。確かに、神様が自分の内側にいて、優しく働いてくださることを理解できるようになります。自由意志は私たちに与えられていますが、それは自由だからです。律法は「愛さなければならない」と聖なる義務になりますが、本来、愛はそのようなものではありません。神様を知ると自分がとても深く神様から愛されていることがわかります。わかると、愛は自発ですから、自然と神様へ愛が自分から出てくるものです。そのために自由を保障しているわけです。それは律法によって与えられたのではなく、イエス様を信じる信仰によって与えられたのです。人は誰かを愛するようになると、相手のすべてを知りたくなります。そして、自分のすべてを相手に与えたくなるのです。このことがイエス様との間で起こっているかを気をつけていれば、信仰はうまくいっているということです。

 

9月15日(火)

親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。

箴言16:24

 

私たちは、自分が決めた通りに生きています。それは、子供時代に理由があるかもしれませんし、思春期に何か動機づけるものがあったかもしれません。大人になってから私はこうやって生きると決めた人もいるでしょう。いずれにしろ、人間は自分の個性をどのように現していくか決めているのです。それで、境遇が激変するとその人も大きく変わることがあります。では、どのように生きるのが良いか知るべきです。聖書を読む人は、聖書から学びます。そして、今まで自分が良かれと思って自己主張してきた生き方が、必ずしも良い選択であったといえないことに気がつきます。人生は、作用反作用のように、原因があって結果があるものですから、勇気を持って親切な言葉を選んで語ることに決めると良いのです。誰でも、親切な言葉を待っています。誰も自分には親切な言葉を語ってくれないと嘆いているのなら、初めに自分から親切な言葉を語ればいいのです。親切な言葉を恥ずかしいと思う人は愚かです。人に対する思いやりがなければ、誰が自分のことを愛してくれるでしょうか。そして、その真心は言葉でわかるのが人間なのです。以心伝心はそれほど簡単なことではありません。身近な人がいつでも親切な言葉をかけてくれたら、どんなに人生は幸せになるでしょう。そのことが想像できるのなら、まず、自分から親切な言葉をかけてみるのです。その言葉で、癒される人が出てきます。そうやって、親切な言葉を撒き散らしていると、それが何倍にもなって必ず自分に戻ってきます。受けるより、与える方が幸いである、と聖書は教えていますが、その通りです。だから、親切な言葉が普通に出てくるまで、祈って努力しましょう。幸福が目に見えるようになります。人の喜ぶ顔を見て生きて行きたいですね。

 

9月16日(水)

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も、魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストに来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずその通りにしてくださいます。

Ⅰテサロニケ5:23、24

 

主イエス・キリストは必ず戻ってこられます。あなたを迎えに来られるのです。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降ってこられます」(同4:16)。その光景をあなたは見ることになります。私たちの信じていることは、今日の聖句です。神様があなたを聖なる者としてくださること。さらに、あなたの霊も、魂も体も何一つかけたことろのないものとして守り、再臨の時に間に合うように、非のうちどころのない完全な者にしてくださいます。その保証が、最後に書いてあるのです。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずその通りにしてくださいます。」と、約束されているのです。だから、あなたの人生のゴールは主の再臨なのです。そのことがわかると、生き方が変わります。この世の損得勘定はもうどうでもよいものとなります。真実に神様に心を向けて生きていこうと思えるでしょう。信仰によって生きるということが普通のこととして受け入れられます。そして、どのようにして自分が非のうちどころのない者となるのか、ワクワクしませんか。これからの人生がとても楽しみになるのです。

 

9月17日(木)

愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。

Ⅲヨハネ2

 

私たちには三重の祝福があります。その聖書箇所が今日の聖句です。魂が祝福され、すべての面で(物質的にも経済的にも)祝福され、健康が祝福されていることが、人間にとって大切なことなのです。それが聖書に祈られているので、安心できます。ですから、あなたは、このような箇所で信仰を表してください。私は、三重の祝福を受けているから大丈夫だと言い聞かせてください。そして、その恵まれた生活を通して主を証ししてください。この世の中には、悪魔に苦しめられている人たちがたくさんいます。悪魔に騙されている人たちは不幸です。希望が見えないと辛いですよね。ですから、イエス様を信じる喜びを伝えたいのです。クリスチャンになっても、悪魔のウソに騙されている人もいます。クリスチャンは人の良い方が多いので、相手がどのように攻撃してくるか知らないと、ひどい目に遭うことがあります。ですが、悪魔の勉強をするよりも、クリスチャンの真実の姿を学び、いかに恵まれ、祝福されているかを理解して信じるようになれば、悪魔は逃げ出すことになります。きっと、嘘のように晴れやかになって、祝福された人生を歩み出すでしょう。ですから、今日の箇所は絶対に覚えておくべきです。そして、この三重の祝福を毎朝、読んでみましょう。うまく読めなければ、声を出して読むのです。そうやって、信じることをたやすくしてください。神様の良いことがあなたを待っています。

 

9月18日(金)

わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごとに諭してくださいます。

詩篇16:7

 

神様は私たちのために一日という単位で生きることができるようにされました。朝目覚めて、一日のするべきことをして、夜には眠ることができます。このようにされたので、私たちは、一日ごとに精算しながら生きていけます。つまり、夜には、その日の反省をして、困ったことや失敗したこと、また罪を悔い改めて祈ることができます。さらには、一日の感謝を主にささげて安心して眠りにつくことができます。一日は、これ以上長くても短くても良くありません。それは、頑張りすぎるる必要がないことを教え、何もしなければそのまま時間が過ぎて行くことを教えているのです。人間には寿命があるので、時間を浪費するわけには行きません。ただ、ボーッとする時間も必要です。聖書によると、すべてに時があると教えていますから、どんな一日でも意味があるのです。辛いことがあっても、その一日は終わって行きます。有頂天になるような全てがうまく行く日も必ず夜になるのです。そうでなければ、私たちは高慢になり、神様にすら感謝を忘れ、自分の力を誇り、神のように振舞う愚か者になってしまいます。悩みの日が来れば、主は私たちの思いを励ましてくださいます。だから、大丈夫です。大変な日もあれば、喜びの日もあるのです。そうやってやがて年寄りになります。仕事に追われることもなく、自分がどんな人生を過ごしてきたか振り返る時間です。そして、結構良い人生だと笑えるのです。そのようなぐらいでちょうど良いと思います。そのための秘訣を聞かれたら、今日の聖句を教えるでしょう。

 

9月19日(土)

イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、・・・

ルカ9:1、2

 

イエス様は十二使徒を宣教に遣わす時、特別な権能をお授けになられました。それは、「あらゆる悪霊に打ち勝ち」とあるように、悪霊にも種類があり、そのすべての悪霊に打ち勝てる権能を授けてくださったのです。さらに、病気を癒す力をお授けになられています。ここから、近現代でも医療伝道が宣教の先兵となっています。19世紀から20 世紀にかけて、福音を外国に運んだのは医療伝道者たちでした。病気を治してくれる医師たちへの信頼はとても高いものでした。その信頼する医者がキリスト教信仰を勧めるのですから、効果は非常に高かったのです。宣教師である医師たちは、聖書研究を施し、説教も行いました。このような理由で、今も医療伝道者は最強の伝道者なのです。残念なのは、ここに出てくるような悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を持って働く使徒のような働きをする人がなかなか現れてこないことです。それは、霊的な力に対する軽視と偏見が教会に広がっていることがあります。ちょうど、ガラテヤ教会で起こったことが現代でも起こっていると言えばよいでしょう。聖霊の力ではなく、自力で、あるいは自分のプライドで信仰生活をおくりたい人たちが多いのでしょう。そのような人たちには、「信仰で」という言葉が時には、もっと努力して聖人になれとプレッシャーをかけてしまうようです。キリストで生きる、と言えば、自分では何も努力せずに、何でも自由と言って好き勝手してしまうだろうと恐れるのです。それは、聖霊が実際に生きてダイナミックに働くことを知らないからです。人の内に聖霊が宿り、私たちを内側から変えていかれることを知らないのです。それにしても、もう少し癒しや悪霊追い出しをする教会が増えてきてもよいと思うのですが、神様に期待したいと思います。

 

9月20日(日)

わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。

詩篇16:8

 

神様との関係は、とても興味深いものがあります。聖書を初めて手にした人は、創世記を開き、神様がご自身に似せて人間をお造りになられたことを知ります。つまり、人間は本来は、神様に非常に近い存在だったのです。ところが罪を犯してエデンの園を追放されて以来、人間の特徴は罪となりました。罪は、人間を傷つけ汚します。神様は聖なるお方と言われますが、その聖とは、距離のことだという学者がいます。神様と罪人の隔たりのことです。罪人は神様に背を向けて逃げているように見えます。そのために神様との距離がどんどん開くのです。それで、神様は遠い存在となり、あまりにも隔たりがあるので人間は神様を聖と感じるのです。さらに興味深いのは、イエス様が人間を救うと、救われた人は聖となれと言われます。これは、実は、神様に近づくことを意味しています。どれぐらいの距離感であるかと言えば、まるで目の前に神様がいるぐらいの感覚です。詩篇記者は、今日の聖句のように語ります。「わたしは絶えず主に相対しています」と。驚くことに、「絶えず」と言っています。これがクリスチャンの悟るべき秘密です。神様との距離をイエス様のおかげで縮めることができたとしても、一瞬であれば意味がありません。あなたも聖なる者になりなさいと言われるのは、ずーっと聖なる者であれという事です。それは、究極には、神様の御前に相対するように近づき、その近づいた場所を自分のいる所としなさいという事です。つまり、毎日、一日中、神様の正面にいなさいというのです。そして、主は右にいるとは、正しい方、勝利の右にいてくださるのですから、人生の不安の時も、戦いの時も、非常時であっても、主はわたしが揺らがないように必ず右にいてくださるというのです。何があっても軸のぶれない人間はこうして出来上がるのです。クリスチャンの秘密がここにあります。

 

9月21日(月)

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人の目が見えるようになった。

マタイ9:28~30 

 

二人の盲人を癒す話しから考えます。盲人は、イエス様が見えていませんが、この方がメシアで、奇跡を起こすことのできる方だと思っていたのです。ですから、「ダビデの子よ」と呼びかけます。それはメシアのことを意味しています。メシアに呼びかける言葉としては、「憐んでください」と言うのがふさわしいのです。盲人であれば、当時の人は、本人か家族または先祖が大きな罪を犯したからだと因果応報のように考えていましたから、当たり前のように癒して欲しいとは言いにくいのです。因果応報のように考えていれば、現在の状況を甘んじて受け入れるしかないのです。しかし、現実は過酷すぎるのでメシアの憐れみにすがって助けて欲しかったのです。このような人物像は、人ごとではありません。もちろん、因果応報はありませんが、罪人が盲人として描かれていても象徴としてはふさわしいのです。メシアが見えない人です。それでも、メシアのもとへ近づくことができることもこの物語が教えています。自分の意思があれば、そしてイエスがメシアであると認め、憐れみをかけてくださると期待して近づけば、人間が考える以上のことが起こるのです。さて、主はこの二人に「わたしにできると信じるのか」と問われました。信仰によって奇跡は起きるのですが、その信仰が簡単に出て来ません。そこで、主はこの質問をしました。彼らは瞬時に自分の心の中で「イエス様は私の目を癒すことができると信じる」と明確に思えたでしょう。このようなことが大切なのです。そして、主は、さらに彼らの信仰を強めるために、目を触りました。彼らの期待はマックスに達したでしょう。そして、とどめのように「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われたのです。いきなり言われていたら、具体的に目が見えるようになると、まだ信じていなかったかもしれません。段階を追って信仰を引き上げてくださったので、信じて奇跡が起きるまでガイドしてもらったようなものです。これは、私たちにも適用できます。特に、イエス様がよくわからないというような方は、目を開いていただくことができます。このような経験をすると、この二人の盲人のように、黙っていることができずにイエスのことを言い広めることになるでしょう。

 

9月22日(火)

「いいですか。父なる神を礼拝する場所は、この山か、それともエルサレムか、などとこだわる必要のない時が来るのです。大切なのは、どこで礼拝するかではありません。どのように礼拝するかです。霊的な、真心からの礼拝をしているかどうかが問題なのです。神は霊なるお方だから、正しい礼拝をするには、聖霊の助けが必要です。神はそのような礼拝をして欲しいのですよ。・・・」

ヨハネ4:21~24(リビング・バイブル)

 

聖書が読みづらいと感じている方は、リビング・バイブルを読んでみるのも良い方法です。読んでみて、おかしいと感じれば、ご自分の聖書で確かめてみればいいのです。さて、今日の箇所は、コロナでZOOM礼拝をしている私たちには、興味深いですね。「大切なのは、どこで礼拝するかではありません」とあるからです。肝心なのは、どのように礼拝するかだと教えています。つまり、「霊的な、真心からの礼拝をしているかどうかが問題なのだ」と言うわけです。私たちはたいてい礼拝堂で礼拝することが多かったかもしれません。それでも、野外礼拝では、戸外や自然の場所で礼拝することもあれば、公会堂や貸し会場、結婚披露宴会場もあるし、個人の家で礼拝します。イエス様のおっしゃるとおり、エルサレムでなければ礼拝できないわけではありません。礼拝は、場所や設備や様式とか順序や聖職者の服装が問題でもありません。礼拝が成立するのは、「霊的な、真心からの礼拝をしているかどうか」なのです。「正しい礼拝をするには、聖霊の助けが必要です」。聖霊が働かれる礼拝、礼拝しようとする者に聖霊が働き、その聖霊に導かれるままに聖なる神様を礼拝するのです。ですから、同じ礼拝の場所にいるだけでは安心してはいけないのです。神様に対して、自分が今どのような思いでいるのか、聖霊によって礼拝しようとしているのか、神様に対して真であるかどうか、こうしたことが大切であることは間違いありません。神様が望まれるような礼拝ができるようにお祈りして、礼拝にのぞみたいですね。

 

9月23日(水)

わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んでだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活していくださった方のために生きることなのです。

Ⅱコリント5:14、15

 

イエス様は人類救済のためにこの地上に来られて、人となり、すべての人を救うために十字架で死んでくださいました。そのために、誰でも、何の功績もなくてもイエス様を信じれば救われるわけです。肝心な点は、洗礼を受けて全てが終わったわけではないことです。その意味は、洗礼を受ける前のように自分のために生きていたことを放棄して、私たちに復活の命を与えてくださったキリストのために生きるのです。それができた人だけが正常にクリスチャンとして成長して行くことができます。それが、以前のように自分自身のために生きるようになると、喜びがありません。肉の問題が発生し、罪が消えずに増えて行くので、様々な疑問が生じるようになるでしょう。いつも悩みが付き纏います。自分がクリスチャンとしてうまくいっているとは思えなくなります。そのうちに、麻痺してくるので、肉の人として生きるのが当たり前になるのです。それでも、聖霊のうながしがあり、キリストへ向かうようにとの働きかけがあります。それを活かすことができれば、道はキリストへと向かうことができますが、不安定でしょう。その理由は一つで、キリストのために生きることを選んでない、ということです。ですから、救いは聖書に書かれたとおりにすることしかないのです。キリストのために生きる人は、主の不思議があり、霊の賜物が人のために使われ、神様の愛が迫り、困ることがあっても行き詰まらず、生活も困ることなく、主の御用に用いられます。精神的に安定し、自分にちょうどよく生きることができます。すべての面で祝福されています。自分自身のために生きようとすると、それを止められたり、道が閉ざされたり、聖霊の注意が示されたりします。今日の聖句にあるように、私たちは生まれたままの人としては、死んでいるので、信仰によってその事実を認めるべきです。そうすれば、肉の人として生きる必要はないのです。キリストのために生きることが喜びとなるようになっていますから、自分から目を転じてキリストを見上げてキリストのために生きていると自分に言い聞かせましょう。とても楽になるはずです。

 

9月24日(木)

主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。

詩篇4:4

クリスチャンには特典がたくさんありますが、その中でも特筆すべきことが今日の聖句に書いてあります。クリスチャンとは「主の慈しみに生きる人」のことです。ところが残念なことにその特典を理解していない人がいます。クリスチャンは基本的に主の慈しみに生きているのです。例えば、罪や咎を赦され清められているのは、あなたの頑張りではなく、イエス様の十字架の贖いによることを知っています。しかし、なぜ、自分に対してイエス様がそのような恵みを与えてくださるのかわかっていないかもしれません。イエス様のなさったことは、すべてあなたの救いに関係しています。私たちは、なぜイエス様が犠牲を払ってまで私たち罪人を助けてくださるのか不思議に思います。そこで、クリスチャンはイエス様が何をなさったのか聖書から学ぶ必要があるのです。もちろん、学問として学ぶのではなくて、神様の啓示を知ることです。その資格は、信仰があれば足ります。謙虚に学ぶ姿勢を示して祈ると聖霊が働いて解き明かしがあります。「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」(Ⅱペトロ2:20 )とありますから、時々見られる自分勝手な解釈は危険です。正しく聖書から学ぶと、主の慈しみを体験することができます。主を信じる者には、誰にでも与えられる恵みです。本人が一番理解するので、その人は、主の恵みから離れることをしません。どのような境遇にあっても主の慈しみを知ることはできます。創世記の奴隷として売られ、牢屋に入れられたヨセフも知りました。エサウを恐れて逃げ出したヤコブも義父に不当に扱われても、それでも主の慈しみに生きることを知りました。ダビデもサウル王に追われ命の危機にあって、それでも主の慈しみに生きたのです。あなたも同じです。あなたがどのような境遇に置かれていても、主の慈しみに生きる人なのです。主は、その人の呼び求める声を聞いてくださるのです。そのことを心に覚えておきましょう。

 

9月25日(金)

復讐をしてはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

レビ記19:18

 

この聖句は有名な聖句ですが、キリストが新しい掟として「互いに愛し合いなさい」と定めたことと関わってきます。また、律法学者が第一の掟は何かを聞いた時に、キリストは「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」と申命記6章から引用され、さらに第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい。」と、今日の聖句から引用されました。そして、キリストは「この二つにまさる掟はほかにない」とおっしゃったのです。それで、私たちは神様を愛して、隣人を愛することが最も重要なことだと知りました。世の中には宗教的な催しには非常に熱心なのに、人間を愛することには熱心になれない人が多くいるのです。ユダヤ人は、仲間の人間を愛することの方が宗教的な行事に参加することより重要だと考えるのだそうです。確かに、神様第一と言って、教会の働きに熱心なのに、教会員を愛することは全く考えていない人も出てくるわけです。隣人を愛することもクリスチャンの悩みになることもあります。特に教会員以外のノンクリスチャンに対して、困ることがあるからです。新約聖書になると、「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(Ⅰヨハネ4:21)と出てくるので、ガッカリする人も出てきます。つまり、自分の努力の範疇を超えてしまうからです。どんなに良い人でも限界はあるもので、それを偽ることはできません。ただ、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされている・・・・」(同4:16b、17a )という私たちがやがて到達する霊的な状態になれば、肉的な思いが無いため聖霊が一緒になって働くので、隣人を自分のように愛することも可能となるのです。ただ、「復讐をしてはならない」とか「恨みを抱かない」ということができれば、隣人を愛することもできると覚えておけばいいのです。これは、嫌なことをする、敵のような人のことが想定されていますから、ハードルが非常に高いのです。それは、肉の人にはできないことですから、肉の部分が死んでいなければ達成できないことなのです。それをあくまでも肉でやり遂げようとするなら、教会の働きは熱心だが教会の人を愛することができない、という問題が明確になるだけです。教会の人を悪く言ったことがないか反省してみれば、自分の状態はすぐにわかります。イエス様の新しい掟は「互いに愛し合いなさい」というものですから、がんばるようなものではありません。霊の人になった人同士が自然に愛し合うことなのです。その部分で一生懸命になるのは良いことです。

 

 

9月26日(土)

父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。

ヨハネ16:27

 

クリスチャンにとって大切なことは、主イエス・キリストをよく理解することです。それは、多くのメリットがあります。罪からの救いや呪いからの解放などは、救われる時に知ったと思いますが、洗礼を受けたのは、自分の意思ですから何か特別なことがあったはずです。それは、弟子たちの場合、イエス様を愛したことにあります。では、私たちはどうでしょうか。愛しています。もう一つ、イエス様は人として現れたのですが、イエス様が天から来られたことを弟子たちは信じました。では、私たちはどうでしょうか。信じています。この二つのことは、だれでもが信じるとは言えないことです。私たちは、言葉ではうまく説明できないかもしれませんが、心の深い所でイエス様を愛しています。愛は、愛によって生まれるのですから、はじめにイエス様が私たちを愛してくださったので、それによってあなたの心に愛が生まれたのです。でも、主は人間のように見たり会ったりできるわけではありませんから、霊的に理解しているのです。そのために、意識としてはあまりピンときていないかもしれません。しかし、信仰が進んで行くと、愛が心に起こり、その愛の力としか言いようのない理由で、私たちは信仰的に生きているのです。それも、老人になるぐらい長く続くと実に恵まれていたと分かり、しまいには父御自身があなたがたを愛しておられると言われなくても、すでに知っているのです。私たちは、愛されて初めて自分の存在に意味を持ち始めます。ですから、愛されることがなかったり、愛されることが少なかったりすると、たちまちうまく生きていけなくなるのです。ですから、霊的な父である天の神様が自分を愛してくださることは、私たちを美しく変えるのです。たとえ、私たちが弱さに負けて罪深い失敗をしても、また不調に陥っても、贖い主であるイエス様が私たちのために助けを与えてくださり、愛を無条件に与えてくださるのです。ですから、素直に悔い改め、立ち直って、イエス様の愛に報いて生きようと思えるのです。自分がどんな状態になっても、イエス様の愛は変わらず、そして父なる神様の愛も変わりません。その愛に捉えられているので、あなたは見事に聖なる者となって天国に帰るのです。 

 

9月27日(日)

イエスは、・・・言われた。「財産がある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ 易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。

ルカ18:24~27

 

当時の人々は、律法を守ることで義となり、神の国に入ろうとしていたのですが、人間には律法を守りたくても守れずに罪を犯してしまう問題がありました。それで、律法によって罪の清算をする方法が、犠牲を献げて罪の赦しを得る方法としてありました。しかし、牛や羊を犠牲として献げるにはお金がかかるのです。そうなると、お金持ちが断然優位になります。それだけでなく、時間も必要になりますから、貧しい人たちは時間にもゆとりがなかったので、金持ちのようには行かなかったのです。ですから、当時の人々は、お金持ちでなければ神の国に入れないと思っていたのです。それに対してのイエス様のお答えは、意外でした。金持ちでも難しいのなら、貧乏人では到底無理だと思ったわけです。ところが、イエス様は貧富の差なく、だれでもが希望を持てることを語られました。「人間にはできないことも、神にはできる」と。そして、それは、イエス様の十字架の犠牲が捧げられたことで、実現したのです。つまり、神様がイエス様を信じる人を義とするということでした。そこで、もっと神様を信頼して、人間である自分ではできないけれど、私を神の国へ入れることが神様にはできるという信仰を持つことが肝心なのです。

 

 

9月28日(月)

人に良いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがも憐れみ深い者となりなさい。

ルカ6:35、36

 

私たちは何になろうとしているのでしょう。クリスチャンになって、どんな人になろうとしているのでしょう。この点を明らかにしておかなければ、ただ生きているだけになってしまいます。目指すものが明確であれば、目標にたどり着けるのです。行き先を知らないで旅に出れば、それはどんなに虚しいことでしょう。目的地にたどり着くことがないからです。私たちは、イエス様の教えに耳を傾けます。クリスチャンになるまで知らなかった神の子の姿にたどり着くためにです。そこで、今日、覚えようとしているのは、一つは、人に良いことをすることです。しかも見返りを当てにしないのです。何かを貸すというのは、この世では、相手に貸しを作ることです。ですから、初めから見返りを期待しています。クリスチャンは、まずそれをやめるのです。何も当てにしないで貸すことで、たくさんの報いがあると主は教えます。それは「いと高き方の子になる」というのです。これこそが私たちの目標です。これには、意味があるのでご自分で考えて欲しいのですが、当てにしないで貸すためには、自分の心の中ではどんな変化が必要でしょう。そもそも、人に良いことをするのですが、それは、具体的にどんなことでしょう。自分の場合に当てはめて考えてみてください。聖句から考えると、相手から見返りを期待しないで良いことをすることです。しかも、相手が感謝もしないような悪人であるかもしれません。恩知らずなら、相手の態度に怒りがわくかもしれません。それでも、どうして、できるかと言えば、天の父なる神様が情け深いからだとの説明です。そして二つ目は、私たちが毎日、心がける自分の姿は、天の父のように憐み深い者である自分です。ハードルが高いですね。これは、詐欺師にまんまと騙されないさいという意味ではありません。罪には厳しくなければならないからです。そうではなく、実は、恩知らずな悪人って罪人のことなのです。それは、かつての自分です。その自分が罪を赦されたのは、天の父が情け深いからです。それで、そのことに気がつくならば、あなたは人に対しての見方が変わり、困っている人に天の父が憐れみ深く接するように、あなたも同じように人に心を動かすようになるのです。この通りにする方が人生は楽になります。

 

9月29日(火)

浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。

箴言8:5

 

私たちは、時々失敗します。それは、すぐに忘れることのできるものもあれば、なかなか忘れることができずに引きずることがある場合もあります。そして、好調の時は良いのですが、不調の時にはどうしてもネガティブになってしまい、自分を否定してしまうことがるものです。さて、聖書によると、対処法があることに気がつきます。例えば、あ~また失敗した、自分はなんて浅はかだったのだろう、と嘆くような時には、対処法が「熟慮する」ことだったのです。そうだ、今度からよく考えてから行動しよう、と戒めるわけです。また、いつも馬鹿なことをしてしまったとクヨクヨする人は、反省をすることを知らないのです。それで、反省を意識的にしてみるのです。すると、愚かしいことをした原因を知ることができるので、次に生かすことができます。これらは、習慣ですから初めは努力して熟慮し、反省する、と頑張って意識的にやってみるといいのです。成功する人たちは、必ずやっています。このちょっとした努力が人生を変える力となるのです。今日の聖句を目につくところに貼っておけば、一ヶ月後が楽しみになります。