2021年4月ディボーション

4が4月1日(木)

わたしの愛の中にとどまりなさい。

ヨハネ15:9

 

イエス様はあなたに語っています。「わたしの愛の中にとどまりなさい」と。つまり、もっと立派なクリスチャンになれと言われているわけではありません。律法をもっと努力して守れとも言われていません。あなたは、まだまだ足りない、とも言われていないのです。私たちは、この世で教育されてきたので、ついつい主のお言葉よりも、既に身についている考え方で、勝手に自分が正しいと考えたことをやろうとしているのです。でも、静まって主の御声を聞けば、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と繰り返されるのです。つまり、クリスチャンのすべきことは、キリストの愛の中にとどまることだったのです。この一事に心を向けて、実践することが大切なのです。よく、クリスチャンの方々が私は主に愛されているのだろうか、と悩んでいますが、愚かなことです。聖書に書かれていることをどうして信じないのでしょう。私たちは、主に愛されているので、その愛が身に染み渡るまで愛漬けになる必要があります。主に愛されているとわかれば、自分がどのような者であろうとも、不安になる必要も、悩みを抱える必要も無いのです。自分がどうであるかなどコンプレックスに思うことすら必要がありません。それほど、主の愛の中にとどまることが重要なのです。そこで初めて自分が神の子になったと知ることができるからです。主と関係なく、自分勝手に何かになろうとしても意味がありません。そうではなく、単純に主に愛され、そこから動かないことです。これだけで、自由に生きることができるようになります。しかも、主に愛されているのですから、自信満々に生きることが可能となるのです。

 

4月2日(金)

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

エペソ1:7

 

私たちは、自分の罪のことを知らずに生きていました。そして、時が満ちて主イエス・キリストの福音に接したのです。そこでも、聖霊が働いてくださり、罪を示されて初めて気がついたのです。罪を知るといてもたってもいられない状態になります。そして、その汚れから清められるのは、キリストの十字架によると悟るのです。そこで、悔い改め、洗礼を受け、クリスチャンにならせていただくのですが、そこで終わったわけではありません。そこから新しく始まったと言った方が正しいのです。それは、キリストの十字架が不十分だったという意味ではありません。十字架の贖いは完全なのです。では、信仰が未熟なのかと言えば、キリストの信仰をいただいていますから十分なのです。何が問題かと言えば、いまだに自己義認の影が消えないのです。それは、自分の内に砕かれていない硬いものが残っているからです。つまり、愛のなさ、傲慢、高慢、貪欲、と悲しくなるほどです。それを砕くことのできるのは、聖霊のみです。そこで、聖霊はクリスチャンに働かれます。それは、一時では耐えられないので、長い時間をかけて行います。砕かれた分だけ、自己義認も消えて行きます。自分が正しい、という思いが消えて行けば、嘘のように楽になるのです。キリストが自分を捨てて、自分の十字架を負って従え、と言われたことは真理です。自分の道を行けば、自分を捨てることもないのです。でも、キリストに従うと決めたのですから、まず自分を捨てというところから始めることになります。聖書に出てくるお弟子さんたちも、それが苦しいとか辛いと言っていません。それどころか、地下牢に入れられても、喜んでいられたのです。自分へのこだわりは、苦しみしか生みません。ですから、キリストを信じて心の楽な生き方を身につけましょう。

 

4月3日(土)

あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペテロ5:6、7

 

勧善懲悪と言われるような小説やドラマでは、強くて心優しいヒーローが出てきて、悪党の悪事を明らかにし、最後にやっつけるというストーリーになっています。人のことを思いやり、悪い者から守り、困っているとわかるとわざわざ骨をおって助け、人からはお人好しと言われたりするが、強くていざとなればなんとも心強い人、これが小説などのヒーロー像です。しかし、このようなヒーローが好まれるのは、現実の世界ではそのような人が見当たらないからです。ところが、クリスチャンにはヒーローが実際にいるのです。それがあなたの主なるイエス様です。イエス様はあなたを助けることができます。あなたと一緒にいることが好きです。あなたが心がけることは「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」ということです。そうでないと、神様の恵みがなかなかわからないのです。思い煩いほどばかばかしいものはありません。クリスチャンは、すぐにいっさいを神様に委ねることができます。それは、最善の道です。あなたが心配しても仕方がありませんが、その心配を神様が引き受けてくださるのです。当然、一番良い方法で問題は解決します。そこのことを覚えておきましょう。

 

4月4日(日)

しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

ローマ4:5

 

どうしてクリスチャンは神様を信じることができるのか、と問われても、うまく答えることは難しいでしょう。なぜなら、理屈で信じたわけでもなく、何でもいいと闇雲に信じたわけでもないからです。同じバプテスマ・クラスを受けている人たちが、その課程を終える時に牧師の招きに応えてバプテスマを受ける人と受けない人に分かれることがあるのですが、これも不思議に思います。牧師の経験から言えることは、バプテスマを受ける方は、初めから決まっているようにさえ感じるのです。何年も聖書研究をしてバプテスマを受ける人もいるでしょうが、聖書研究を始める前からバプテスマを受けたいと思っている人もいるのです。これらの人たちは、素直にイエス様を信じることができるのです。このように言うと変に聞こえるでしょうが、 疑うことなく自然に信じているのです。そして、聖書の教えでは、今日の聖句のように、信仰が一番重要で、信じることで義とされるのです。それも、不信心な者とあるように、もともとはキリスト教とは縁もゆかりもなく、罪深く生きてきたのに、ある日、神様の招きを受けた時、すぐにその招きに応えたのです。ですから、聖書の御言葉から諭されると、とても素直な気持ちになって認め、受け入れることができるのです。その人の神様を信じる信仰が義と認められたのは明らかです。ですから、バプテスマを受けた方々は、もっと自信を持って生きていただきたいと思います。

 

4月5日(月)

成功する人は忍耐する人。

背きを赦すことは人に輝きをそえる。

箴言19:11

 

すぐに怒りを表す人がいますが、それは損なことです。どのような仕事でも、それが家庭の主婦であっても、忍耐がとても大切です。すぐに怒っても何も解決しないばかりか、人間関係まで壊してしまいます。それを完全い終複することは大変難しいのです。自分を裏切る人が出ることがないと良いのですが、結果として裏切られることがあります。その時に、裏切られたと怒ったり、嘆いたりしたくなるでしょうが、そんなことをしても何の益もありません。それよりも、人は弱いのですから赦しましょう。裏切ることがどんなに情けないことか、本人しかわかりません。だから、自分は正しいと言い聞かせるしかないのです。それでも、心が波立っているのを止めることはできません。そんな人を責めても怒ってもどんな益があるでしょう。何もありません。大人は、自分の器の大きさにこだわるべきです。器の小さな人は情けない生き方しかできないからです。そこで、自分の器を大きくするにはどうしたら良いでしょう。確実な方法は、聖書に書いてある通りに、忍耐することです。忍耐ができているかどうかは、背く人を赦せるかどうかでわかります。これは、誤魔化すことができません。人間はどこまでも情けない存在です。だから主は憐んでくださるのです。その憐れみに、どう応えるかが私たちの課題なのです。忍耐は、イエス様がお手本です。主に倣って生きたいですね。

 

4月6日(火)

わたしは主に求め

主は答えてくださった。

脅かすものから常に救い出してくださった。

主を仰ぎ見る人は光と輝き

恥ずかしめに顔を伏せることはない。

この貧しい人が呼び求める声を主は聞き

苦難から常に救ってくださった。

主の使いはその周りに陣を敷き

主を畏れる人を守り助けてくださった。

詩篇34:5~8

 

信仰者は、この詩篇が本当であると知っています。私たちは、それほど誇れるような者ではないかもしれません。それどころか、「貧しい者」と書いてあるように、何かしら欠けがあったり、負い目のある者であると言えるでしょう。ですから、主がこのように助け守ってくださる理由は、主が憐れみ深く、慈愛に富んでいるからです。そして、私たちが主を畏れ、信仰を持っているからです。この世は、野生の王国のようです。この世界は、弱肉強食で、ただ良い人というだけでは平和に生きていけるかどうかわかりません。いつ敵が現れ、攻撃を始めるかなどわかりません。長く生きていれば、非常事態が突然やって来ることを経験するでしょう。それでも、信仰者は主にすがり、祈ることができるのです。ですから、今日の聖句が本当だと知っているクリスチャンは少なくないのです。そうであれば、私たちはなんと幸いな者でしょう。主に対して誠実に信仰を持って生きていくこと自体が幸福の秘訣なのです。もし、自分が完全で強い者であったなら、こうは行かなかったでしょう。弱くて、情けない者なので、主イエス・キリストに頼ったからこそ、全能の主が今も生きて働き、祈りに耳を傾け、最も小さな者の叫びにも応えてくださることを知ることができたのです。

 

4月7日(水)

あなたがたは、以前はくらやみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。ー光の結ぶ実は、あらゆる善意と真実なのですー

エペソ5:8、9

 

今日の聖句は、クリスチャンが何者であるかを教えています。暗闇と光はついの言葉なのでわかりやすいコントラストが感じられるでしょう。もちろん、暗闇は悪い状態ですね。他方、光の方は霊的に良い状態を言い表しています。暗闇は、この世の支配者に服しているような不自由な状態です。そこでは、肉の欲が暗闇で見えないことから不品行に走り、人を汚してしまいます。一時の快楽を求めても結局空しさに圧倒されます。ですから、放っておけば、暗闇に光が来ても気がつかなくなります。幸い、クリスチャンの方々は、光を見つけたのです。その光こそが主イエス・キリストでした。キリストは、私たちを救いに来られたのです。天の父なる神様があなたを選んで召し出してくださったのです。イエス様は御父に忠実ですから、召された者の元に来て福音を聞いて悔い改め、イエス様を信じるようにと促してくださいました。あなたは、そのチャンスをとらえてイエス様を信じたのです。その結果、あなたはキリストによって光となったのです。そうであるなら、あなたは光の子どもらしく歩みなさい。もう暗闇の子どもではありませんから、自分のことで負い目を感じないで、堂々とキリストを着ている者として歩むのです。あなたの歩んだ後には、善意と真実が残るでしょう。罪によって自分が無価値であると認めたので、新しく生まれさせてくださったのもイエス様です。そこで、あなたは主の目に値高く、価値あるかけがえのない存在となりました。ですから、光の子と呼ばれるのです。この真理をしっかり信じて「私は光の子である」と認めましょう。

 

4月8日(木)

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ5:8

 

クリスチャンは、神様の愛を知っている人たちです。神様は今も生きて働かれ、私たちを愛されるので、私たちは恵みの中を歩んでいけるのです。ただ、この歩みは、三つの道が用意されています。一つ目は信仰の従順に至る道、二つ目は聖霊に満たされる道、三つ目は聖霊に砕かれる道です。全ては、確かな新生体験と聖霊のバプテスマから出発します。ただ、どちらも曖昧な感じを持たれている方の方が多いでしょう。これが良くないのは、信仰も中途半端になりやすいことです。なぜ、中途半端がいけないかと言うと、恵みをちゃんと受け取らないからです。例えば、信仰の従順の道は、聖霊に満たされるので、あふれる恵みを流し出すわけです。それは、与えたり、仕えたりすることに現れます。クリスチャンの中には、絶えず恵まれている人がいますが、彼らは主の教えの通りにしているのです。「求めよ」と言われれば求め、「与えよ」と言われれば与えるのです。わざわざ与えることの幸いを本に書く牧師も現れます。神様に対しては、讃美することが顕著になります。人に対しては、兄弟愛の実践が特徴になります。未信者が相手であれば愛の業は伝道になります。これらは、道と言うだけあって、順番に段階を上って行くことになります。二つ目と三つ目は他の機会に書きます。その前に、一つ目も次の段階をいつか御心ならば書こうと思います。ヒントは、信仰充満です。もっとも、そのためには二つ目と三つ目が先行しなければなりません。これらは、聖書に全部書いてありますが、気づかない人が多いのです。御言葉を信じて奇跡を体験しましょう。神様の愛は既に明らかにされているのですから。

 

4月9日(金)

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

箴言29:25

 

人間は生まれながらの性質も人それぞれですが、成長するに従い勝ち取っていく生きる力があります。そして、人生は同じことの繰り返しのように見えながら、次々と変化するもので、予測のつかないことが発生するのです。そのとき、どう対処するかでその後まで影響が出る場合もあります。ですから、人生を生きるのは大変なことです。それでも、幸せそうに見える人と不幸せに見える人がいるのです。その実情は本にしかわかりませんが、多分に、その人がどのような価値観で生きているか、また自分をどのように考えているかでも人生の明暗が分かれています。そして、信仰が有る無しで、全く人生は異なってしまいます。たとえ、避けることのできない試練があっても、信仰があれば、それは災いではなく益となるのです。そして、日々の生活でも、信仰は役に立ちます。特に、「人を恐れるとわなにかかる」という御言葉は忘れてはいけません。不調に陥ったら、自分は誰かを恐れていないか考えてみましょう。もし、すぐに思い至ったら、危険から脱出するために、主に信頼しなかったことを悔い改めて祈り、主への信頼を表します。そして、わなにかかると自力ではなかなか抜け出せなくなるので、イエス様に助けを求めましょう。聖霊に内面から解放を願い、十字架の御力によって、わなそのものを砕いていただきます。それから、主を畏れ従順であることは、自分の過去からの解放であり、自分の負い目からの解放でもあるのです。これらは、もっぱらイエス様の御力によります。このようなことは、誰にでも起こりやすいので、注意が必要です。相手は、人間ではなく悪霊です。わなにかかるというのは、恐れの霊、不安の霊、怒りの霊、不信の霊、自己憐憫の霊、恨みの霊、イライラの霊、落ち込みの霊のように、連鎖的に次々と悪霊を引き込んでしまう危険があるのです。ですから、人を恐れることに気がついたら、すぐに祈って解決してください。主をいつも信頼していれば守られるという約束がありますから、これも忘れないようにしましょう。

 

4月10日(土)

あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。

使徒2:28

 

いのちの道は心にまっすぐな道を通すことです。穏やかに、人と比べることもなく、愛に生きようとする思いが自然と湧いてきます。寛容に人と接し、平凡でも満足し、全てのことに感謝できるのです。主がそうであったように、慈悲の心を忘れず、貧しい者を憐れみ助け、報いを求めずに奉仕できるのです。偉くなることよりも自由を尊び、兄弟愛を心がけ、人のために労を惜しまないのです。人の笑顔に満足し、人への思いやりに心を温め、悪く言われても黙っていて、どの人にも公平であろうとするのです。キリストならこんなとき、どうされるだろうかと考え、聖書を読み、考え、祈ります。このいのちの道は、平和に生きる道です。主は、御顔を向けられ、祝福されるでしょう。そして、主を信じるあなたを喜びで満たしてくださるのです。

 

4月11日(日)

主われを愛す 主は強ければ

われ弱くとも おそれはあらじ

わが主イエス わが主イエス

わが主イエス われを愛す

 

わが罪のため 栄をすてて

あめよりくだり 十字架につけり

わが主イエス わが主イエス

わが主イエス われを愛す

希望の讃美歌251番1、2節

 

子供から大人まで、親しまれた讃美歌のうちでもこの讃美歌が一番有名でしょう。誰でもがすぐに覚えられるメロディーにキリスト教信仰がそのまま歌詞となっているのが良いのです。私たちは、人や社会に左右される生き方を捨てて、ただイエス様の愛に応えて生きようと心に決めたのです。残念ながら、この世に在る限り、傷ついたり、辛さに涙することだってあるのです。自分の不甲斐なさに腹を立てたり、社会の矛盾に憤ることだってあるでしょう。自分のことばかりを考えて、隣人を愛せないことも当たり前だと思い、自分が愛では無いことをしてきたことも気づけなかったのです。何より罪を知らなかった。そんな者をイエス様は探し出して、救ってくださいました。そこには、必ずキリストの愛の物語が潜んでいます。だから、私たちは変われたのです。今日の讃美歌には、そうしたクリスチャンのキリストへの愛の思いが素直に表現されています。ですから、私たちはイエス様への信仰をこの讃美歌に託して歌うのです。勇気百倍の不思議な讃美歌です。

 

4月12日(月)

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

クリスチャンがどのように生きていけば良いか考えることがあります。クリスチャンとして恥じない生き方があるに違いない、と考えるわけです。そこで、思いつくことはいわゆるクリスチャンらしくという漠然とした考えです。宮沢賢治の「雨にもお負けず」のような人物像を思い描く人もいるでしょう。もっと聖なる人を演じようと無謀なことを考える人もいるかもしれません。しかし、こうした人間的な考えではうまくいきません。できないことをしようとすれば、すぐにボロが出ます。では、どうすればよいのかと迷ってしまうのです。今日の聖句は、その一つの答えです。①正義を行うこと、②慈しみを愛すること、③へりくだて神と共に歩むこと、この三つです。この三つを心がければ良いわけです。これを自分のものにするには、時間がかかるかもしれません。それでも、この三つを覚えていれば、何か見えてくるでしょう。これは人に見せるためにすることではありません。主が喜ばれる生き方です。そして、これが幸いな人生の指針になるのです。難しく考えずに、聖霊の助けを求めて忘れないことです。

 

4月13日(火)

このような時にも、見よ

天にはわたしのために証人があり

高い天には

わたしを弁護してくださる方がある。

わたしのために執り成す方、わたしの友

神を仰いでわたしの目は涙を流す。

ヨブ16:19、20

 

この世で生きている限り、いろいろと問題が起こります。その問題を一つ一つ片付けながら生きているのです。正しく生きたいと願っていても、周りがそうさせずに振り回されることだってあります。人間関係では、悩まされることもありますが、逆に癒されたり、励まされるこの方が多いでしょう。脳学者の本を読むと、「嫌い」ということがどうして起こるのか研究しているので興味が湧きます。その目次の一つが家族の問題です。もっとも近い関係ですら難しいのですから、人間が悩むのは当然な気がしてきます。さて、クリスチャンになると、そうした人間関係のトラブルがどうなるのか気になりますね。今日の聖句は私たちに大事なことを気づかせてくれます。天に皆さんの弁護をする方がいるというのです。たとえ、あなたに非があり、あなたがが責められることをしたとしても、天で執り成してくださる方がいるのです。それはイエス様です。イエス様はあなたの友と呼ばれても喜んでくださいます。だから、頑張って生きているあなたにある日起こる災いが、あなたを打ちのめすようなことになっても、あなたはこの世の人たちとは違って、天にあなたを心配して、弁護するために立ち上がる方がいるのです。どんなことをがあっても、あなたを支える真の友です。だから、苦しく辛い時、「神を仰いでわたしの目は涙を流す」と書かれた聖句は、あなたのものとなるのです。イエス様が理解してくださるのなら、それで満足です。

 

4月14日(水)

主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

申命記8:3

 

これは、申命記8章を読まれると出エジプトしたイスラエルの民に語られていることがわかります。荒野の試みでイエス様が引用したことでも有名な御言葉です。荒野の旅は、過酷で人が生きるような場所ではありませんでした。そこでは、主なる神に頼るしか希望がありませんでした。不毛な荒野でイスラエル人は主に依存して、はじめて生きることを可能にしていたのです。ここでの教訓は、神は選んだ民に対して徹底的な配慮を尽くしてくださることです。また、荒野の旅は、訓練そのものでした。私たちの信仰の旅路にも荒野の経験はあるものです。苦しい苦難の時代です。それすらも、神様の配慮があって実はちゃんと助けられているのです。神の恵みを私たちはあまりにも当たり前のこととしているのです。さらに、荒野で神の賜物を日々受けたイスラエル人は、そのことを感謝して、主に従順に従い仕えることができるかどうかを試みられていました。このように、現代の私たちクリスチャンも、信仰の旅路を行く時に同じような経験をしています。イスラエル人がそうであったように、苦難に遭うときに人間は二つに分かれます。一つは、神に怒り逆らって反抗する者です。もう一つは、砕かれて謙遜を学び、憐れみ深い神に出会い、素直な主に対する服従に至る者です。もちろん、後者が良いのであって、私たちが導かれている道です。それは、「パンだけで生きる」道ではなく、「主の口から出る全ての言葉によって生きる」道です。不思議ですが、この聖書に書かれた御言葉や、あなたに神ご自身が直接語る未言葉によって、生きることができるのです。それは、荒野で、生きるためにマナを食べ続けたような生き方です。他には食べ物がなかったので、主に依存した生き方です。イエスはここで「レーマ」(言葉)を使っています。直接、あなただけに語ってくださる御言葉のことです。これは、人の言葉(自分の言葉が大部分を占める)ではなく、主の御言葉を聞き、従うことを意味しています。生き方の大転換です。祈ってレーマを求めてみましょう。

 

4月15日(木)

主に信頼し、善を行え。

この地に住み着き、信仰を糧とせよ。

主に自らをゆだねよ。

主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:3、4

 

これは、私が理想とするクリスチャンの生き方です。信仰の始まりは主に信頼することです。それも徹底的な信頼です。その上で善を行うのです。善を行うのは実は難しくありません。覚悟を決めていれば善を行う勇気も出てきます。あなたの与えられた場所に腰を落ち着かせ、日々信仰を糧として生活するのです。この世では理不尽なこともあるでしょうし、悪いことも起こるでしょう。それに対して、私たちは主に自分自身をゆだねることを決心しているのです。たとえどうなても主の御心がなりますように、と祈るので、必ず助けがあります。ゆだねることは、自分を主のものとすることですから、忠実な僕、はしためであれば良いのです。そのような主にへりくだった生き方は、信仰を強め、しるしのように、日々主の奇跡を見られるようになります。それは、心から溢れる主への感謝となって喜ぶことができます。何よりも、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」との約束があります。主の恵みは尽きないのです。このような主の支配を知ったことが何よりもの奇跡です。あなたは、クリスチャンです。ですから主にとって特別な存在なのです。そのことを決して忘れずにいてください。

 

4月16日(金)

主に信頼する者は慈しみに囲まれる。

神に従う人よ、主によって喜び踊れ。

すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

詩篇32:10、11

 

詩篇を読んでいると、敵が出てきたり、苦しめる者がいたり、と主に助けを求める詩が多くあります。しかし、そればかりに目がいくともっとはるかに大切なことを見逃してしまいます。それは、今日の聖句のような箇所です。主の慈しみに囲まれている自分を想像してみてください。きっと幸せでしょうね。これは、神に従う人の特権なのです。信仰にご利益がありますかと聞かれれば、ありますよと答えたいです。それは、キリストのおかげで、主に信頼する者、神に従う者、そして心の正しい人に生まれ変わらせていただいたからです。決して自分の力で頑張ったからではありません。イエス様を信じて、慈悲にすがって、恵みで与えられた新しい姿なのです。その結果、原因と結果と言うように、慈しみに囲まれているのです。そればかりではありません。クリスチャンがするべきことが書いてあります。主によって喜び踊れ、とありますから、実践してください。私たちは主への感謝が少ない者なのです。主によって喜び踊れと書かれているのですから、それほどの踊り出すほどの幸いが来るということなのです。ぜひ体験したいと思いませんか。そのためには、神に従う人になれば良いのですから、難しくありません。同じようなことが、喜びの声をあげよ、と書かれています。喜びがなければ難しいですが、そうではなくてそうなるほどの喜びが起こるということです。そのうなりたいと思うのでしたら、心の正しい人になれば良いのです。これも、クリスチャンにとっては楽勝です。イエス様の御言葉に素直に従えば良いだけです。思い煩うなと言えば、そうすれば良いのです。それが難しいという人は、聖霊が助けてくださること、そして、「できない、難しい」と言う古い自分はキリストと共に十字架に釘付けにされていることを信じることです。今生きているのは新しく生まれた神の子です。ですから、心配入りません。イエス様を信じているのですから、なんとかなります。試みに、「私は慈しみに囲まれている」と宣言してみましょう。そして、主によって喜び踊る李、喜びの声をあげてみるのです。人前ではちょっとおかしな人と思われてしまうかもしれませんが、一人の時に試してみてください。不思議なことに本当に喜びが湧き起こってくるはずです。それは、あなたの内の聖霊が目覚めるからです。