2021年5月ディボーション

5月1日(土)

ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

ヤコブ1:23

 

パウロの手紙をよく読むと、律法が罪人には守られないことがよく分かります。全ての人が罪人なので、律法によっては自分の罪が暴かれてしまうだけです。ですから、ここで出てくる完全な律法とは何んだろうと疑問が湧いてきます。ところが、そのすぐ後に「すなわち自由の律法」とヒントがあるのでわかるようになっています。律法学者やファリサイ派の人たちがこだわっていた律法ではなく、これはイエス・キリストのことです。イエス・キリストだけが罪を犯さず、律法を成就したのです。そのキリストは、律法学者たちとは律法の捉え方が異なっていました。つまり、罪人を救い、悔い改めに導き、死ぬべき者を清めて生かしたのです。私たちはイエス・キリストを信じていると公言する者です。このイエス・キリストだけが罪人を救えるのです。イエス・キリストは、生きておられます。ですから、「一心に見つめて離れない人」になれるのです。イエス・キリストから学ぼうとする人は、聖書を繰り返し読むことになります。そのことはまた、自分の信仰の成長を量る秤となります。真理を悟れば、その人の行いも正しいものへと変化します。主の御目に正しい行いは祝福となるのです。

 

5月2日(日)

しかし、きょうは野にあって、あすには炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

ルカ12:28

 

安い値段で求めたバラが春を迎えて何度目かの開花を迎えています。白からピンクに色づくものと濃いピンクのばらが競うように咲き始めました。その美しさに思わず見惚れてしまうのですが、神様の創造の御業を讃美したくなります。今日の御言葉も、何度も読んでは納得してきたつもりですが、あらためて読むと心が沸き立ちます。あのバラの花以上によくしてくださるとは驚きです。それなのに、何を思い煩う必要があるのでしょう。行いによって義とされるのではなく、主イエス・キリストを信頼することで義とされると、私たちは聖書から学び信じています。ですから、信仰の薄い人たち、と言われることが一番辛いのです。これは、私たち信仰者の戒めです。どのような状況に陥っても、悲観することなく、主が全てを良くしてくださることでしょう、たといそうでなくても主の御心が成りますように、との信仰を持ちたいものです。主への信頼は決して裏切られません。安心して今日も主を喜びましょう。

 

5月3日(月)

このような時にも、見よ

天にはわたしのために証人があり

高い天には

わたしを弁護してくださる方がある。

わたしのために執り成す方、わたしの友

神を仰いでわたしの目は涙を流す。

ヨブ16:19、20

 

人は自分の思い通りにことを運ぼうとします。しかし、何でも思い通りにとは行きません。邪魔をする人もいれば、反対する者もいるからです。これは、悪人でも善人でも変わりありません。私たちは、クリスチャンですから主イエス・キリストに学ぶ者ですから、へりくだり、争わず、自分がして欲しいことを人にするのです。主の新しい掟は「互いに愛し合いなさい」です。私たちはこのことを考え続けています。このように、クリスチャンは愛に生きていけば良いのですから、楽そうですが、実際にはクリスチャンではない人と変わりなく、世間の苦労があります。時には、正しい歩みを理解されずに自分が損をしても人の益となるような生き方を誤解され、非難されたり、嫌われたりすることもあります。それでも、主に仕えることを良しとして、世の理不尽な扱いにも甘んじているのです。そのようにこの世の賞賛も求めず、主のように愛に生きたいとの信仰によって満足しているのです。今日の御言葉は真実です。イエス様はこの世のことを全てご存知です。そして何より、主を信じる人の信仰に誠実に応えて、天で執り成す、あなたの友なのです。あなたのためにイエス様が弁護してくださるのなら、何の心配も入りません。あなたの良き理解者であり、救い主であるイエス様を心の友と呼べる幸を瞑想してみましょう。

 

5月4日(火)

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26

 

「神の子ども」と聞けば、大抵の人はイエス・キリストのことだと言うでしょう。確かにその通りなのですが、聖書を読むとイエス・キリストを信じる信仰によって、神の子どもなのだと書いてあるので、クリスチャンも神の子どもであることが分かります。さらに、詳しく見ていくと、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)とあり、聖霊の導きを受ける人が神の子どもとなっています。そのようなわけで、聖霊を意識することが肝心です。ヨハネの福音書は、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(1:12)。神の子どもになることは特権だというのです。旧約聖書にも「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである」(申命記14:1)と既に書いてあります。このように、あなたがイエス・キリストを信じて信仰を持って生きるなら、神の子どもなのです。ですから、神の子どもであるイエス様に倣って生きることが大切です。それは、神様に従順な生き方です。それを助けるのは祈りです。あなたは、どれほど大きな恵みを受けているか考えてみましょう。

 

5月5日(水)

ついに、我々の上に

霊が高い天から注がれる。

荒れ野は園となり

園は森と見なされる。

その時、荒れ野に公平が宿り

園に正義が住まう。

正義が造り出すものは平和であり

正義が生み出すものは

とこしえに安らかな信頼である。

イザヤ32:15、16

 

旧約聖書の預言者は聖霊の働きを記していました。それは、私たちが希求するもの、この世であるようでないものです。それは、公平であり、正義です。その力は圧倒的です。神から来る正義がこの世界を平和に変えるからです。平和はいつもそこにあるものと錯覚している人々がいます。神の怒りを受けないことが平和の条件です。神は不義を怒っているのです。その不義の反対は正義です。この正義はキリストによってもたらされました。そして、キリストは天に帰り、父なる神に願って聖霊を私たち信じる者へ送られたのです。その結果は驚くべきものでした。私たちの心のありさまを荒れ野に例えるなら、荒れ野は園と成り、さらに園は森と見なされるのです。信仰者に内住する聖霊は、その人の信仰に応じて力ある業を行います。信仰者には上から力が与えられたと感じるでしょう。その人の恐れも不安も消え、喜びが爆発します。自己中心に考えていた心に公平が宿ります。さらに、聖霊によって内面から作り替えられるようになると、その人の心に正義が支配するのです。正義は神との間に平和を実現し、その人の心に永久に安らかな信頼を生み出すのです。これが正常なクリスチャンの救いです。この世に惑わされることのないように、単純に御言葉の約束を信じてください。聖霊によってもたらされた正義が作り出すのであって、決して自分の力でこのようになろうとしてもうまくいきません。ですから、聖霊が助けてくださることを信じて、前向きな気持ちでいましょう。クリスチャンの人生は楽しいものなのです。

 

5月6日(木)

わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。

エゼキエル11:19

 

イスラエルの歴史は、私たちに多くの教訓を与えます。今日の箇所も、バビロン捕囚で連れて行かれた民とエルサレムに残った民との問題です。エルサレムに残された民は、信仰に固く立ってエルサレム神殿の復興を考えるべき立場にあったのですが、彼らは高慢にもバビロンに主だった人たちが皆連れ去られたので、今や自分たちの天下になったと野心を持ったのです。本来は、宗教改革の絶好の機会であったはずなのに、彼らは自分たちの野心を優先させてしまい、最高のチャンスを逃してしまいました。彼らが主に忠実であれば、イスラエルの歴史は変わっていたのです。そこで、本来はバビロン捕囚にあって望みが絶たれた捕囚民にチャンスが巡ってきたのです。神様は、彼らの中から悔い改め、本心に立ち帰り、神殿復興のためにイスラエルへ帰還する者を求められたのです。その者に主は、今日の御言葉の通りに一つの心を与え、新しい霊を授けることにされたのです。それは、彼らの身から石の心を除き、肉の心を与えることでした。バビロンに補修になった民は、簡単には悔い改めて今までの生活や考え方を変えようとはしませんでした。そこで、彼らの強情で物分かりの悪い心を石の心と呼び、除けると言われたのです。彼らの心が変えられることで、もう一度彼らが神の民になることを主は意図されました。今日のところには、私たちにとって教訓がありますので、皆さん考えてみてください。神様のことを第一に考えずに、自分の思いや欲を優先させてはならないということ。あるいは、古い自分の考えや生き方に従っていたら、クリスチャンになっても問題が残るので、主は古い心を除き、聖霊を注いで霊的に生きた心を与えるのです。

 

5月7日(金)

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、全ての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、主は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

マタイ25:31~36

 

聖書は、ゆっくり読むと気がつくことが増えます。例えば、再臨の時に、世界中の全ての人が裁きを受けることが分かります。それは、羊飼いが羊と山羊をやめるようなもので、救いを受けて天国に入る人と、地獄に入れられる人とに分けられるのです。それは、それらの人々が生前どのように生きたかによることが示されています。さらに興味深いのは、天地創造の時から用意されている国と書かれていることです。創造の時に、再臨つまり最終の裁きの後に義と認められた人たちが入る国が、天地創造の時にすでに作られていたということです。それがどのようなことなのか瞑想してみるのも良いでしょう。今日の聖書箇所は有名な箇所で何度となく耳にするのですが、いつも考えさせられる問題があります。それは、イエスが「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とお語りになっている内容をどのように理解すればいいのかということです。例えば、マザー・テレサがしたのは、このイエス様の語られたことを実践したのだ、と聞けば皆その通りと思うでしょう。でも、クリスチャンが全員マザーテレサにはなれないし、なる必要もないのです。でも、いつも心のどこかにイエスのお言葉をとどめておくことが大切です。きっと、最も小さき者が目の前に現れれば、あなたは自然に助けているでしょう。助けたなら、あなたのした良いことを忘れてしまうことです。そのことを自慢して高慢にならないように。それにしても、私たちは、この世で助けを必要とする人を助けることができるように恵まれた者なのです。キリストのようにへりくだり、隣人への愛を忘れなければ、あなたができることをすればいいのです。

 

5月8日(土)

盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。

Ⅰテサロニケ5:2、3

 

コロナがこれほどまで世界を震撼させる事態になるとは初め思いませんでした。このように、人間の力ではどうすることもできないようなことが突然起こり得ることを知らされたのです。再臨は、救われる者には希望の日です。しかし、クリスチャンも普通の人たちと同じような生活を送っているので、同じような日がいつまでも続くような気になっているかもしれません。再臨が昔見た紙芝居の絵のようなものになっているのかもしれません。しかし、聖書の記事の信憑性は、他に比べるものがありません。100%確実なのです。そこで、私たちは再臨が突然来るものだと時々確認する必要があります。そして、再臨が来たら、それはこの世の終わりを意味しています。圧倒的なことが本当に起こるのです。その時は、知らされていませんが妊婦と同じだというのですから、お腹が膨らんで時が満ちて、と何かしらわかるしるしがあるのです。それも、イエス様が教えてくださいましたから福音書から調べることができます。それに、ダニエル書、黙示録からもわかることは、今が妊婦の臨月でいつ陣痛が起こるか待っている時期だということです。それなのに、信仰者が眠っていると言われたらまずい訳です。目を覚まして見張っていましょう。

 

5月9日(日)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

人生は選択に満ちています。いつ起きるか、何を食べるか食べないか、何を着ようか、とにかく朝起きてから寝るまでの間、ことごとく選択の連続なのです。それも深くも考えずに、何となく選ぶことも多いのです。そのうち無意識に選択し、良いことが起こった、悪いことが起こったと結果ばかりを気にするのです。そのような中に人生を大きく分けるような選択も巡ってきます。できれば、誰しも選択を誤りたくありませんから悩みが生じます。そこで、相談をしたり、人によっては占いに頼ったりもします。信仰者は、そのような時に主に祈って聞きます。聖書を開き、間違えないように御言葉から答えを知ろうとするのです。この結果は言うまでもなく良い選択となります。その裏付けは、今日の聖句にもみられます。しかし、私たちは行くべき道とは主イエス・キリストであると承知しているのです。ですから、この道からそれないように、日々戒めていかなければなりません。何しろ、御言葉に約束が記されているのですから、悟りが与えられ、行くべき道が示されると確信しています。そのような信仰者に、主は目を留めて、助言を与えてくださるのです。ですから、不確実なこの世界でクリスチャンは恐れることなく正しい道を進むことが可能なのです。万が一、迷うことがあっても主の助言を求めて待てば良いのです。人間的な考えでは道を謝ることがあるでしょうが、主の助言に従えば恵みが待つ最善の道を確実に進むことができるのです。あなたが立っている道は、いつでも主イエス・キリストであることを覚えてください。

 

5月10日(月)

さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。

Ⅱコリント10:1

 

パウロほどキリスト教会に影響を及ぼした人はいないでしょう。私たちもパウロから多くを学び、信仰を励まされています。ところが今日の箇所を読むと、偉大なパウロの意外な一面を窺い知ることができます。「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」と自分のことを言い表したパウロに共感する人は少なくないはずです。何ともパウロが小さな小心者に見えてきます。ですから、私たちも小さな小心者であっても心配いりません。このパウロがキリスト教会を世界に広めたのですから。このようなパウロが、私たちに教えている大事なことは、「キリストの優しさと心の広さとをもって」ということです。長らく牧師をしてつくづく思うのは、人に必要なことはキリストの優しさと心の広さなのです。人に良かれと思って語っても、それが人を傷つけたり、怒りをかったりすれば、何の益もありません。人に対しては、キリストの優しさと心の広さ、と戒めておきたいですね。今日は、誰かに優しい言葉をかけてみましょう。小さなことでイライラすることも馬鹿馬鹿しいことです。キリストの心の広さに助けていただきましょう。クヨクヨするよりは笑い飛ばしてしまう方が楽になります。キリストのように、人を大事に思うなら、きっと優しい言葉が出て来るでしょう。そして、その優しさを待っている人が近くにいないでしょうか。

 

5月11日(火)

この空しい人生の日々に

わたしはすべてを見極めた。

善人がその善のゆえに滅びることもあり

悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

善人すぎるな、賢すぎるな

どうして滅びてよかろう。

悪事をすごすな、愚かすぎるな

どうして時も来ないのに死んでよかろう。

コヘレト7:15-17

 

これは知恵文学なので、ゆっくり考える必要があります。答えを焦ってすぐに出そうとしてはいけません。性急に答えを導き出すと、それは何も残らないで自分の知恵とはならないのです。例えば、クリスチャンは善を行うのはあたりまであると多くの人は考えます。では、その当たり前のことをクリスチャンはできるのでしょうか。コヘレトは、「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」(20節)と、はっきり断言しています。それなら、常識の範疇で生きることが肝心なのです。できもしない善人にこだわると、裏表が生じて罪が出てきます。また、善を行わなければと建前にこだわり過ぎると、滅びることだってあり得るのです。何事も自分に正直に生きることが大切なのです。できないものはできない、でかまいません。人間の良いところは成長できること、変わることができることです。信仰があるのですから、主を信頼しましょう。力まずに、楽しむことを忘れずに、主の恵みを味わえる者となりたいですね。

 

5月12日(水)

あなたの御言葉が見いだされたとき

わたしはそれをむさぼり食べました。

あなたの御言葉は、わたしのものとなり

わたしの心は喜び踊りました。

万軍の神、主よ。

わたしはあなたの御名をもって

呼ばれている者です。

エレミヤ15:16

 

エレミヤは預言者でした。彼がどのように神様の御言葉を聞いたのか、興味がありますね。この記録から、内側で声を聞いたのではなく、外側からの御声を聞いたのだ、とする学者もいます。預言者が聖霊に霊感して神様のメッセージを預かり、伝えることは知っていると思いますが、新約時代になり、ペンテコステ以降は一般信徒が預言をするようになりました。中には預言者の賜物を得た人もいました。「ある人を預言者・・・とされたのです」(エフェソ4:11)。また、「預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し」(ローマ12:6)とあり、預言者とならなくても、預言の賜物を与えられれば、信仰に応じて預言をすることもありました。さらに、聖霊のバプテスマを受けた時に異言だけではなく預言も出たことが聖書に記録されています(使徒19:6参照)。皆様が、聖書の御言葉を誰かに語る時も聖霊の導きがあれば、預言となっていることもあります。また、聖書を読んでいて、意味がわかる時にエレミヤと同じことを感じるかもしれません。聖徒たちは、霊的飢え渇きを覚えるときに、御言葉を与えられることがあります。この時も今日の聖句に書かれたような経験をすることがあります。このように、聖書は不思議です。一般の本のように読むこともできれば、信仰者が真理の御霊を求めて、解き明かしを願えば、神様の御言葉を見出すことがあるのです。この経験は大きな喜びを伴い、自分のものとなります。このような特別の恩寵は、あなたが救われていて、イエス・キリストを主をし、従順にキリストに仕えることを選んでいるからです。あなたは、今やキリストの御名をもって呼ばれている者です。あなたが主イエス・キリストを代表しているのです。クリスチャンという何とも麗しい名で呼ばれているのです。

 

5月13日(木)

わたしは愚かで知識がなく

あなたに対して獣のようにふるまっていた。

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので

常にわたしは御もとにとどまることができる。

あなたは御計らいにしたがってわたしを導き

後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。

詩篇73:22~24

 

神様を知らないという人は少なくない。残念なことに誰かに教えてもらわなければ知識が無い。その上、神様を知っていれば決してしないであろうことも多々行なってしまう。それは、神様の御前では行うことのできないことばかりやっていたので、獣のようにふるまっていたとなる。それなのに、クリスチャンになれたのはどうしてだろうと不思議に思うだろう。それは、神様がその人の右の手を取っていてくださったからなのだ。それは今も変わらない。そのために、常に私たちは主の御もとにとどまることができる。どうしてそのような恵みが与えられているのか分からない。しかし、主は私たちのために計らい、確かに導いておられる。今、信仰の道を辿って分かることは、私たちの死の向こうが主の居られるところであるということだ。私たちは、死で滅びるのではない。信仰は決して空しいものではない。死そのものが栄光のうちに主によって取られることだからだ。このような救いを私たちは恵みと呼ぶ。自己の功績を誇るようなことが一切ないからだ。それどころか、生涯この自分の手を取って主は決して離さないだろう。だから、主に従順になれるはずだ。たとえ、あなたが困難や悩みの中にいるとしても、主の御手があなたの手を取って決して離さないことを覚えよう。

 

5月14日(金)

慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。

それらを首に結び

心の中の板に書き記すがよい。

そうすれば、神と人の目に

好意を得、成功するであろう。

箴言3:3、4

 

人間が罪人であるとは聖書を学んで初めて知りました。当然のことながら、どうしても自分が罪人であるとは思えずに、自分は犯罪を犯したことはないから罪人ではないと考えていたのです。ところが、犯罪者の罪人ではなく、神様に対しての罪人であるというのです。罪とは神様に対する不従順、不服従のことだからです。その罪の定義は、高慢と貪欲であると教えられました。人間が自己を絶対化し、神のようであろうとすることを高慢と言い、神に属すべき世界をすべて私のものとしようとし、神様を忘れることを貪欲と言うのです。自己絶対化とか自己中心とか言うこともあります。いずれにしろ、自分の思い通りにしたいのです。特に厄介なことは、自分と関わりのある人に対してもコントロールしようとすることです。方法は実にいろいろあります。批判もそうだし、叱る、泣く、賄賂を与える、無視、褒める、と何でもするのです。その方法が人間関係を壊してしまいます。自己を絶対化していると、相手が思い通りにならない時に最悪の選択をして失敗するのですが、それも自分ではなく相手が悪いと判断します。このようなことから、権力とか資金力とか相手をねじ伏せられる力を得ようとする人も現れます。では、クリスチャンはどうすればいいのでしょう。それは、知恵にも関わりがあるのですが、今日の聖句を覚え、実践することです。人々があなたを見たときに、あなたを言い表す言葉が「慈しみとまこと」であると言われるようにするのです。それは、自己を絶対化していては無理です。私の自己絶対化はキリストの十字架に磔にされているとすればどうでしょう。自分の思い通りにならなくても甘んじて受け入れるのです。それは、神様が見ていてくださるからそれで良いという心境です。心がけるのは自分のためではなく、他人のために奉仕することなのですが、それは慈しみから来ます。当然、強い精神力は必要です。それは信仰から生まれるものです。信仰は人の精神力を強めるのです。そうでなければ、肉の弱さをどうすることもできないでしょう。まことを離れないようにせよ、と言っても人間的な弱さを露呈する人は多いのです。正しく生きることを律法主義者のように考えてはいけません。彼らには慈しみはありませんでした。だから、正しくは慈しみとまことが一セットなのです。これほど、すぐに忘れてしまうものはありません。だから、首に結び、心の中の板に書き記すがよいと聖書は悟りを与えているのです。早速、実践してみましょう。

 

5月15日(土)

主よ、わたしの祈りを聞き

助けを求める叫びに耳を傾けてください。

わたしの涙に沈黙していないでください。

わたしは御もとに身を寄せる者

詩篇39:13

 

詩篇記者は、「ご覧ください、与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいものです。ああ、人は確かに立っているようでも、すべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」(詩篇39:6、7)と詠嘆するのです。うまくいっている日はいいのですが、一旦悩みの日がくれば、これほどまで悲観的になってしまうのが人間なのです。さて、これがクリスチャンならどうなるでしょう。「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」(同8)。これが答えです。人間は神様ではありませんから、困難が押し寄せてくれば、できる限り抵抗して、結局自分の力ではどうしようもないと悟ると、怒ったり、落ち込んだりするのです。クリスチャンは、このような時に祈ることができます。その祈りは、叫びの祈りです。魂が叫んでいます。それでも、主は何もしないで沈黙を守っているのでしょうか。あふれる涙は主のお心を動かせないのでしょうか。そんなことはありません。主は、初めから慈愛の眼差しを向けています。その人にはこの世の罪や呪いがまとわりついているかもしれません。だからこそ、イエス様は十字架にかかってまで犠牲を払い救ってくださったのです。死を打ち破り、新しい復活の命に生きるように道を開かれたのです。イエス様の意味がわかれば、それこそが真理なのです。そうすれば、この世の全てのしがらみから、そして罪や呪いから解放され、自由になるのです。ですから、イエス様のことがわかるようにと私たちは導かれているのです。試練を通らなければならない理由があるので試練にも遭うのです。でも、神様は逃れ道をも備えてくださるのです。主の愛があなたに届きますように。あなたは、御もとに身を寄せる者なのです。主イエス・キリスト以外に頼る方は誰もいないと悟ったからです。だから、主を信じないさい。主にもっと近づきなさい。主が全て良くなるように計らってくださいます。

 

5月16日(日)

わたしはあなたの神、主である。

出エジプト20:2

 

ただわたしのみ主である。わたしのほか救う者はいない。

イザヤ43:11

 

あなたは、今日の御言葉を聞きました。唯一まことの神様があなたに呼びかけ、ご自身をあなたの主であると言われたのです。これは、特別な恩寵です。世に神々があまたいるのに、その実態は石や木、あるいは金属で人が作った偶像です。もっと原始的なものでは自然の大木や大石であったりします。それらは何一つ人間を助けることができません。危険なのは、悪霊を神と思って拝んでいることです。悪魔は、さらに神はいないと人々を惑わします。人間が自分を創造された創造主を認めて礼拝しないように、ありとあらゆる手を尽くしているのです。悪魔の行き先は地獄です。火と硫黄の池に投げ込まれるのです(黙示録20:10参照)。悪魔は人間をその道連れにしようとしているのです。このように危険な状況の中で、主も大いに働き、人間を救うために最善を尽くされています。その証拠に、あなたも救いへと導かれたのです。主は、あなたにはっきりと語ります。それが、今日の御言葉です。あなたの個人的な神様こそが主なのです。あなたが恵みのみで救われたのは、「ただわたしのみ主である」とお語りになられる生ける神様があなたへの愛を隠さないからです。この神様のお言葉に、あなたはどうお応えするでしょう。私たちは、いい加減に神様を信じているわけではありません。主のお言葉に感じ入って、終生お仕えしようと決めているからです。この神様を信じていれば、問題が起こっても心配することはありません。「わたしのほか救う者はいない」と言われるのですから、心を強くして救いを待っていましょう。

 

 

 5月17日(月)

このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心に中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。

ガラテヤ4:6

 

天の父は、愛の神です。人間の父には色々あって、人間の限界があります。しかし、天の神は主と呼ばれるように、この世界の創造者であり、真の支配者であり、全能の神なのですが、それだけではありません、愛の神であるのです。全ての人間が罪人であることは明らかなのですが、神は罪は憎みますが、その人間を愛しているのです。そこで、その罪人である人間を救うために御子イエスを派遣されたのです。主イエスは十字架にて死にましたが、それはイエスを信じる者の罪を贖うためで、神の自己犠牲だったのです。この自己犠牲こそが神の愛なのです。天の父は、人間の罪の問題をこれで解決されただけでなく、完全な救いを完成させるために、信仰で義とせられた人たちに聖霊を送られたのです。この聖霊は人の内に宿り、新しい命となり、その人を神の子とするのです。その証拠に、聖霊は「アバ、父よ」と呼ぶます。これこそ、私たちが本当に神の子としていただいた確証なのです。すぐにはピンとこないかもしれませんが、間違いなく、あなたは神の子となって、天の父の愛の中に生きるのです。主から与えられている信仰を使ってください。神があなたの天の父なのですから、何を思い煩う必要がありますしょうか。喜んで、天の父に愛されて生きてください。

 

5月18日(火)

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に叶うことが行われますように。」

マルコ14:36

 

高名な神学者のティリッヒは、「見ゆるところにかかわらず」と摂理信仰を語りました。見ゆるところでは、暗い力が支配している。にもかかわらず、神は愛を持ってこの世界を支配していることを信ずるのです。摂理信仰と言われるのは神の愛の支配は見えるものではなく、信仰の対象であるからです。十字架への道は普通なら運命として受け取られるところです。しかし、イエスはむしろ摂理として受け取ります。彼は「できないこと」のない全能な神の支配、しかも愛の支配を信じていたのです。だから、「この杯を取りのけてください」と祈ります。しかし、それゆえにまた、十字架への道が避け得ない道であることを知ったとしても、イエスはやはりそこに神の支配、神の摂理を見るのです。そこから「御心のままになさって下さい」という祈りが出てくるのです。