2021年6月ディボーション

6月1日(火)

喜びを抱く心はからだを養うが

霊が沈み込んでいると骨まで枯れる。

箴言17:22

 

コロナ禍によって多くの損害が生じました。そして、気がつかないうちにコロナうつになってしまうことが他人事ではなくなり、気をつけなければなりません。普通の生活ができないことで家に閉じこもると危険とテレビでコメンテーターが語っています。日本は、村社会と言われている通り、群れていて安心を得ています。欧米のような個人主義は馴染みがありません。ですから、自粛生活はそれだけで落ち込む原因になるのです。では、どうしたらいいのだろうと考えて何かしら実行している人はまだ良いのですが、気力が衰えると考えることも行動することも難しくなります。そこで、聖書的に良い方法を探してみると、今日の聖句に行き当たりました。つまり、喜びが大切なのです。ただ、いきなり喜びなさいと言われても困ります。景気が悪い時代にはお笑いが人気となります。つまり、笑うことの効用を人々は理解しているのです。現代もお笑い芸人が人気です。人々は、無意識に霊が沈み込まないように、なんとか笑って喜ぼうとしているのですね。真面目な人は、コロナが長引くような厳しい時に落ち込みやすいので注意が必要です。楽しみを見出すことが大切ですが、本当の楽しみは神様から来ます。信仰は力があって、いつでも喜ぶことができます。試しに、信仰で喜びます、と神様に言ってみるのです。そうすると不思議なことに、喜びが湧いてきます。これは私たちの内にいる聖霊の働きですね。ですから、信仰者は有利です。心の健康を保つためにも、信仰で喜びますと言うことを忘れないことです。

 

6月2日(水)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。

コロサイ2:6

 

「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)とあるように、私たちはその通りに実行しました。そして、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。ところが、その後、クリスチャンとしてどれほど聖書を学び、理解したか、そして悟ったかと問われれば、まったく情けないことだったと反省するのです。もし、主の召命によって牧師になっていなければ、未だ中途半端なクリスチャンでいたかもしれないのです。幸い、聖書を学ぶ機会にも恵まれ、牧師としていろいろな経験を積んでみて、結局、クリスチャンは今日の聖句の通りに生きることが目標であると言えます。もちろん、聖霊の助けが必要ですが、これとても信仰によるのです。新約聖書の中でイエス様と出会った人たちが信仰を現す時、それが何であるか、ちゃんと考えてみるのです。私たちがイエス様に向かって信仰をどのように現しているだろうかと考えてみるのです。この時、哲学的に難しく考えては行けません。できれば、幼児のように考えるのです。そして、自問するので、自分は、はたしてキリストに結ばれて歩んでいるのだろうか、と。さらには、キリストに結ばれて歩めますようにと心から主に願うことです。

 

6月3日(木)

キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:7

 

植物を育てたことのある人は、根がいかに大切か知っているでしょう。根がしっかりしていないと植物は育たないし、花も咲きません。それどころか枯れてしまうかもしれません。私たちクリスチャンは、植物に例えるなら、キリストに根を下ろしたものなのです。つまり、キリストから自分を育てる栄養分を吸収するわけです。キリストから養分をいただいて造り上げられるという表現は、クリスチャンの成長を表現するにはピッタリなのです。キリストに結びついているために成長できる自動性がこれです。つまり、自分の力や努力無しに、たとえ寝ている時も新しく作り替える聖霊の働きがあるということです。そして、自分の責任は、教えられた通りの信仰をしっかり守ることです。これは、それぞれが知る信仰のことです。その上で、あふれるばかりに感謝しなさい、と命じています。興味深いのは、ただ感謝するのではないことです。「あふれるばかりに」とありますから、ぜひ実践してください。それでどうなるかを味わってください。これが、大変効果があると体験して欲しいのです。不思議な聖霊の恵みを味わってみてください。

 

6月4日(金)

人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

コロサイ2:8

 

聖書を読むことは誰でもできますが、理解したり、悟ることは別です。クリスチャンが恵まれているのは、真理の御霊が解き明かすという約束があるからです。そこで、私たちは聖書が読めるわけです。ところが、霊的なことが書かれた箇所に来ると、途端に書かれたことを無視して、人間の考えで説明する人たちが現れます。これは、大昔から変わりません。その人が無学だからという理由ではありません。それは聖書学者でも神学者でも同じようなことをするからです。また、キリスト教では、リベラル派と保守的な福音派の対立のようなことがありました。不幸なことに、保守的なグループは、リベラル派の学者を批判し、神の言葉を軽んじていると言うのですが、その保守派の学者が聖書に書かれていることは全て神の言葉だと言いながら、都合の悪いことは無視したり、都合の良い解釈をしているのです。このように、聖書の専門家である人たちでも、意見の対立が全く相容れないことがあるのです。ですから、それぞれ棲み分けてグループを形成しているようなことになります。これは一体どう言うことだろうと不思議になりますが、霊的に解釈する者と人間の理性で解釈する者との対立が一番の問題だと思います。後者は、ヒューマニズムなので、人間愛として聖書を読みたいのだろうと思います。一方、霊的に解釈する方は、聖書に書かれている通りに信じるので、癒しや奇跡が現代でも起こると信じています。そのことは、人間の救いは、キリストの出来事(受肉、十字架、復活、昇天など)によるのですが、そこで終わらずに、ペンテコステの出来事があり、聖霊が救われた者に降るという出来事が続くのです。つまり、聖書では聖霊のバプテスマと書かれていることです。ですから、聖霊のバプテスマが重要なのに、そのことが形骸化して、水のバプテスマの時に自動的に聖霊も受けているという話にすり替えられてしまっているのです。実際に多くのクリスチャンが聖霊のバプテスマを受けているのですが、そのことを狂信のように危険視し、反理性と片付けられているのです。では、聖書に明確に書かれていることを誰がこのように無効にして、完全な救いを妨げているのでしょうか。パウロは、「世を支配する霊に従って」いる者の仕業と思っていたのです。その説明がもっとも事実にあっていると思います。ですから、聖書に書かれていることを結果的に否定するような読み方は危険なのです。どんなに賢く聞こえても、聖書に書かれていることを変えるような言葉は、警戒しなければなりません。ここにも霊の戦いがあるのです。

 

 6月5日(土)

キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。

コロサイ2:9、10

 

キリストが人間になった時、それはいかなるものであったのか、昔から議論がありました。神であったのか人であったのか。そこで、神人両性論のような、まことに神であり、まことに人であった、という考え方が語られてきたのです。人となられた時(受肉)に、神性を隠して人性のみで生きられたのだ、と言う人もいます。イエスご自身は、私を見た者は父を見たのだ、と語っています。それと、今日の聖句は矛盾がありません。つまり、キリストの内に満ち溢れる神性があり、それは見える形をとって人の内に宿っていた、ということです。ですから、キリストを見て、キリストの内の神性に気づかないはずがないのです。見える形をとって宿っていたのですから、見えるようになっていたのです。それがユダヤ人たちは見えなかったのです。「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今はあなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ9:41)と書かれてある通りです。さらに、驚くことは、「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」とあることです。それは、信仰者の内に神性が満ち溢れることです。よく考えてみると、実際に聖霊を人の内に宿らせたのですから真実です。キリストがそうであったように、私たち救われた者も同じように聖霊を宿して、生きているのです。そうであれば、見える形で神性が現れてきても不思議ではありません。これほどの恵みをキリストを信じて救われた者に与えたのです。そうでなければ、罪人に過ぎなかった者を天国に入れることなどできなかったでしょう。これほどの奇跡を信じる信仰が私たちに要求されているのです。自分を見ると自信を無くすかもしれませんが、すべての恵みの根拠がキリストであることを覚え、キリストを見上げ、信じることです。自分がキリストのように変えられると聞いたことがあるでしょうが、このように本当に変えられて行くのです。キリストを信じましょう。

 

6月6日(日)

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときにあらわされるように用意されている救いをいただくのです。

Ⅰペテロ1:5

 

私たちの信仰は、窮地に立たされる時に真価を発揮します。ですから、たいていの困難は、一見大変そうに見えるのですが、信仰に導かれ、結果神の御力によって守られるのです。このようにして、神との関係を深め、絶対的な神への信頼を身につけるようになるのです。ですから、特別に気づくこともなく信仰は強められ、祈りも整えられ、神との信頼関係が強固となり、終わりの時へと備えられて行くのです。それは、終わりの時に現れる救いによって、信仰の日々が無駄ではなかったと知るのです。ですから、目先のことで一喜一憂すべきではありません。日々、あふるる感謝を主にささげることを心に決め、清々しく生きたいものです。

 

 6月7日(月)

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

イザヤ43:2

人生を旅になぞらえる人がいます。確かに、私たちはどこかへ向かって長い旅に出たようです。昔の人は自分の足でどこまでも歩きました。山も谷も通り、行くてを大川に遮られることもあります。神様は、そのような人生の試練に遭う時に「私はあなたと共にいる」と言われるお方です。自分の力ではどうして良いかわからないような大きな問題が降りかかってきた時にも、神様のお守りは完全で、心配しなくても大丈夫であることが約束されています。確かに、私たちは赤ちゃんから人生を始めて、子供時代を過ぎ、青年になり、やがて社会人になります。やがて人生の伴侶を得て、子をなすかもしれません。平凡な人生であっても、波乱万丈の人生であっても、良い時、悪い時は誰にでも来ます。そのいずれの時代にも超えていかなければいけない火の中、水の中があるのです。それだけではありません。いよいよ大河を渡る時が来ます。もはや自力は何ともしようがありません。絶体絶命の危機です。ところが、主はあなたが「押し流されない」と力強く宣言されます。ですから、絶対大丈夫であるという保証があるのです。それでも、川の中に入り、その強い勢いに流されそうになり、身の危険を感じるかもしれません。その時です。肝心なのは、それでも主を信じるか、ということです。願わくば、平和であれば一番良いのですが「火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」という信仰経験はその後の人生を主の愛と恵みに満ちたものへと変えるのです。

 

6月8日(火)

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

Ⅱコリント12:9

 

不思議な御言葉です。神様の力は、「弱さのうちに完全に現れるから」というのです。私たちは、この世の考えに従って強くなければいけないと思っています。ですから、いつも頑張らなければと力が入るのです。また、何でもうまくやろうとしますが、それは誰にとっても難しいことです。人間には向き不向きがあって、自分の得意なことと不得意なことがあるのです。キリスト教の教会の考え方は、自分の得意なことで奉仕し、不得意なことは、他の兄弟姉妹が補ってくれるというものです。それが互いに愛し合いという戒めにも実際的な意味があることを教えています。弱さを克服しようと努力するのは良いのですが、なかなかうなくはいかないでしょう。それは、弱さに意味があるからです。クリスチャンは主イエス・キリストを信じて生きています。それゆえに恵まれています。そして、聖霊の助けがあるので時には実力以上の働きができることもあるのです。しかし、自分の弱さを持っているのが人間ですから、そこが気になります。その弱さは、その人本人にしかわからないかもしれません。あるいは、逆に周りの人がわかっているのに、本人は気がついていないかもしれません。いずれにしろ、人間は高慢になりやすいので、弱さを残しておくと、自戒し、へりくだるきっかけになります。また、信仰の基本である、主を信頼してゆだねることも自然とできるようになります。それこそが、信仰の成長には欠かせないことなのです。ですから、自分の弱さを喜んで受け入れる時が来るでしょう。それは、楽に生きる秘訣です。誰でもが聖霊によって、このような導きを受けるのです。以前は、そんな弱さはカッコ悪いと思っていても、今はパウロのように、「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言えるようになりたいですね。そうすれば、キリストの力があなたをおおう、という経験を味わえるのです。

 

6月9日(水)

感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。

詩篇50:14、15

 

今ならDVと訴えることもできますが、少し前まで妻は夫の暴力に耐えていました。子供を抱え苦労したのです。現代でも夫婦間のDVの問題は無くなりません。ある時、年配の信者さんが夫の暴力に苦しんできたことを話してくださったことがありました。その方が信仰の人で皆から尊敬されていたので驚きました。その方は、夫が暴れたりすると神様に助けを求める時間が無いので、この詩篇50:15を警察を呼ぶ時の110番のように、5015と覚えて、叫ぶのだそうです。神様の緊急呼び出し番号です。そうやって、試練を乗り切ってこられ、最後にはご主人も神様を認めるようになられたのです。私たちは、ごく普通に平凡に生きていたいのに、時には嵐に巻き込まれて途方に暮れることすらあるのです。しかし、クリスチャンは、そのような中で信仰を鍛え、何があろうと右にも左にも逸れない強い信仰を身につけて行くのです。何しろ、神様は圧倒的にあなたを愛し、あなたの信仰に対してはどんなことでもするのです。イエス様は山をも動かすと教えました。ですから、私たちはイエス様にすがって生きて行くし、主を信じて不可能を可能にして行くのです。皆さんも、非常事態に備えて、詩篇5015と覚えておきましょう。

 

6月10日(木)

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ9:16

 

子供頃から努力することは大切で、何事も努力することが当たり前だと思っていました。ただ、人間は怠け者で、いつでも努力できるわけではなく、小さなことでもつまずけばすぐに努力を放棄するものです。このように、真面目に努力するから事が成ると教えるような社会では、真の神を知らないのです。なぜなら、どんなに努力してもうまくいかない事は珍しくないからです。今日の聖句を読めば、真の神は人を憐んで下さるのです。もっとも、憐れまれたくないという自負心があると、これも素直には受け入れ難いでしょうが、実際には、神によらなければ事は成就しないのです。人を不幸にするのは、人間のつまらないプライドです。それは、神に対抗して自分の力で何かをやり遂げたいという人間の傲慢です。そんなことでは、力が入って辛く成るばかりです。神に憐れまれてはいけないのでしょうか。聖書を読んでいけばわかると思うのですが、人間は神の憐れみを乞い、頼っていいのです。自分の力に頼った生き方は、挫折しやすいのです。自分の力に限界があるからです。その限界を超えた時に、挫折するしかなくなります。だから、そうならないように、妥協したり、逃げたり、怠けたり、誤魔化したりする人が出てきます。他にもっと良い方法を知らないからです。それは、神を知らないということです。神を知ると、人生をよくすることができます。神を知るとは知識ではなく、体験的に人格的に知ることです。つまり、挫折した自分を憐れんでいたわる神がいるということです。キリストと出会って始めて自分が愛される存在なのだと知るのです。それは、自分を認めさせようとする我を消してしまうのです。そして、自分の願いではなく、主の御心が成ることを願うようになります。そうなると、思いも掛けない良い結果になるのです。ですから、「あわれんでくれる神による」と確信し、喜べるように成るのです。

 

 6月11日(金)

たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。

イザヤ54:10

 

人間は変わらないものを求めてきた。だが、簡単に裏切られるので、そのようなものは無いのでは無いかと不信に思っているのだ。そのために「真の」という言葉をつけて、真の愛、真の友情、真の正義、真の言葉、などと言わずにはおれなかった。これは、何があっても変わらないのですと言いたいからだ。それほど、この世の信頼は揺らいでいる。クリスチャンは、それを罪のせいだと言う。確かにそうなのだが、「罪のせい」と言った途端に考えることをやめてしまい、納得させられてしまう。このように、この世のものは変わってはならないものまで、簡単に変わるので、空しさの中に置かれてしまうのだ。このような社会は居心地が悪い。人間の幸福だって、あったらいいな、という程度で、信頼したくても確かさが無い。ところが、聖書を開くと、神の声が聞こえてくる。それが、今日の聖句だ。どうだろう、神の変わらぬ愛を信じて、味わってみては。この世をニヒルに批判するよりも、主を信じて平和の契約が動かないことを自分の目で見るべきではないか。主に愛されていることを素朴に喜んでみよう。現状がどうあろうと、主は約束を守られるので、安心して主がどうなさるか待っていてはどうだろう。主の愛はそこいらじゅうに満ちている。あなたのために主の愛が注がれているからだ。主の愛はあなたから決して移ることはない。

 

6月12日(土)

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ローマ5:3ー5

 

神様の愛は既に私たちの内に宿っています。それは、聖霊によって実際に愛されているからです。そこで、この世にある限り患難も避けることができません。そのようなひどいことがなぜ自分に起こるのかと悩むこともあるかもしれませんが、その前に私たちは信仰で解決しようとするでしょう。まず、神様に助けを求め祈ります。そうすると、祈ることもよくわかっていないことに気がつきます。どう祈ればいいのかわからないのです。そこで、聖霊は祈ることを教えようとされます。そればかりか、祈れない本人に代わって執り成しの祈りを天に運んでくださいます。そこで、患難から逃れることばかり考えていたのが、主の救いを忍耐して待つようになります。忍耐は信仰によって心をねじ曲げることなく、逆に寝られた品性を生み出します。これも聖霊の実なのです。人間の価値は品性にありますから、それは高い人間性を作り上げるのです。その人の内には希望が生み出されます。希望は成就してこそ意味があるのですが、希望にはエネルギーがあるので患難すら乗り越え、主を信頼する信仰の素晴らしさを見ることになります。このような奇跡は、クリスチャンに等しくチャンスが与えられています。どんなに小さな者でも、弱い者でも、神の愛がその人の内側から聖霊によって注がれますから、驚くほどの力を発揮できるのです。人間は愛されると本来の姿を取り戻すのです。アダムが失った、神の似姿、神の像を父なる神様は御子イエスによって人が回復できるようにしてくださったのです。そして、人間の力では決してできないことを聖霊を遣わしてくださり、その聖霊が神の愛をおしまず注ぎ出して心を満たしてくださるのです。それに気がつくのは、残念なことですが平和な時ではなく、患難に遭った時なのです。できれば、信仰により、平和な時に気がつきたいですね。

 

6月13日(日)

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

信仰を与えられて、つくづくありがたいと思います。この宗教は、主を自分の喜びとしなさい、といういかにも嬉しい信仰の道なのです。厳しい戒めに生きよ、とか言われれば誰でも自信がありません。しかし、いかにも正しい宗教の考えに思えます。そこで、放っておけば人間は、このような考えに簡単に傾斜してしまい、本当の救いから外れて神様を誤解してしまうのです。しかし、私たちはそうならずに、聖書の御言葉を確かめるように主に生かされているのです。それは、このような御言葉に出会うと、心から本当だな、と思わず納得してしまうのです。大切なことは、何を己の喜びとするかで、心の願いが変わってしまうことです。ここでは、主を己の喜びとせよ、とありますから、自分自身に問いかければいいのです。主を喜びとしているなら、その願いも御心にかなっているので聞かれます。主を喜びとするという意味を理解しているからです。それは主のために生きることが喜びと知ることです。それは、キリストに出会って召された者が、主に従い、十字架を見たのです。そこに、神の愛を見たのです。ご自分を与え尽くされた主の愛に打たれて、もはや自分のために生きることができなくなったのです。この主の愛に己を献げ尽くす愛で応えたいのです。それは、たとえ死の影の谷を通る時も変わらず、恐れはありません。私たちの願いは、ただ主イエス・キリストをこの目で見ることです。その願いはかなうのです。

 

6月14日(月)

主は太陽、盾。

神は恵み、栄光。

完全な道を歩く人に主は与え

良いものを拒もうとはなさいません。

万軍の主よ、あなたに依り頼む人は

いかに幸いなことでしょう。

詩篇84:12、13

 

「完全な道」とはどのような意味があるでしょう。ヒントは、前の言葉の中にあります。「主は太陽」とは、私たちを照らす光であり、暗闇を消し去る力です。自分の目の前に暗雲が垂れ込めてくるような時に、太陽は遮られるかもしれません。ですから、次の「盾」が必要となります。主が盾となって敵の攻撃から守って下さいます。敵の放つ火の矢も盾に防がれてしまうのです。また、「神は恵み」という言葉は、その恵みを知る人にとっては神を知ることと同じなのです。自分が信じる神はいつでも恵みを持って満たそうとされています。恵みとは、本当はいただくことができないのにいただく神の好意です。ですから、主の十字架を恵みと表現することがあります。「栄光」は、神を知った人が第一に感じることです。讃美を受けるにふさわしい方に栄光が永遠にあるように。私たちが神から恵みをいただいた時に、私たちの心から「主に栄光があるように」との賛美が溢れます。このような経験が完全な道なのです。神の光に照らされた人生。主が盾となって守られる人生。神が私たちの恵みとなってくだっさる人生。神に良くしていただいていると気がつく喜びは、神の栄光を仰ぎ見る喜びとなります。ですから、私たちは、こんなに良い神はいないと喜び合うのです。そして、長い人生を万軍の主に依り頼んで生きることが許されているのです。それがどんなに幸いな人生か私たちが味わうのです。

 

6月15日(火)

見よ、神はわたしを助けてくださる。

主はわたしの魂を支えてくださる。

主は苦難から常に救い出してくださいます。

詩篇54:6、9

 

興味深いことに、神様は神の民に苦難はないとはおっしゃっていないのです。ですから、私たちが苦難にあっても驚くことはありません。むしろ、神様が助けてくださることにこそ注目すべきです。それは、敵がいる場合もあるでしょうし、傷つけたり、困らせる人が苦難の原因になることもありますが、それだけではなく、魂が深く落ち込むような事が怒れば、私たちは危機に直面しているのですが、そのような時にも主は私たちの魂を支えてくださるのです。神様を知らない人には、想像することもできないでしょうが、人間の非常事態に、神様を信じる者には驚くべき助けが来るのです。初めは自力でなんとかなると思っていても、なんともならないどころか最悪の事態に突っ走っていること気づかされ、恐怖に陥る時にも、神様は常に救い出して下さいます。このような神様は他にはいません。ですから、どんな時にも悲観したり、絶望してはいけません。それは、神様を信じているからです。この神様があなたの主です。だから、心配せずに主の助けを期待しましょう。

 

6月16日(水)

あなたは上等の小麦粉を用意し、それぞれ十分の二エファの分量の輪形のパンを十二個焼く。それを一列に六個ずつ二列に並べ、純金の机の上に置いて主の御前に供える。各列に純粋の香料を添える。

レビ記24:5、6、7

 

聖所には霊的な意味が隠されています。例えば、今日の聖句には初めに小麦粉が出てきます。小麦粉はイエス・キリストの罪のない聖い生涯を示しています。この小麦粉をこねて焼くのですが、これはキリストが死ぬことによってご自分の民の食物となることができるということを示しています。よく聞く、十分の一という数字は、神の御前に責任が十分果たされたことを意味しています。そして、十分の二という数字は、それに対する十分な証しがなされたことを示しています。十二個のパンは、イスラエルの十二部族を表しています。十二個のパンには、その上に乳香がのせられました。それは、神に対するキリストの香りの香ばしさを象徴していました。このように、聖所にはキリストの意味が象徴として隠されているのです。それらに気がつくと、キリストを通して神の愛が人の心に流れてくるようになっています。小麦粉を触ることがあれば、そのスベスベの手触りを楽しむことができますが、これが罪のない聖さを象徴としているのです。私たちは、ザラザラの粉であったり、何かゴツゴツと手触りの悪いものが混じっているのです。それは罪です。ですから、キリストの受肉、ユダヤ人に憎まれ、そして十字架の死は私たちの罪の贖いのためであり、それは小麦粉をこねて、焼くことで表したのです。この十字架の死により、キリストは私たち信じる者たちの食物となったのです。ありがたいですね。

 

6月17日(木)

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒やし

命を墓から贖い出してくださる。

慈しみと憐れみの冠を授け

長らえる限り良いものに満ちたらせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

詩篇103:3、4、5

 

牧師は病院にお見舞いに行き、病人を慰め、励まし、祈るのが仕事の一部なのです。そこで、新米牧師になった時も、指導牧師について病院にお見舞いに行きました。励まし、聖書を開き、主に癒しを求めて祈るのです。病院は好きだと言う人はあまりいないでしょうが、お見舞いに行くことが多くなると、慣れてきます。日本の場合だと入院した日にすぐに行くことはあまりないと思いますが、アメリカの場合は、すぐに行かないとすぐに退院してしまうので注意が必要です。医療費が驚くほど高いので、のんびり入院などしていられないのです。アメリカの病院も何度行きましたが、受付で牧師だと言えば、一般の面会ができない患者さんでもすぐに病室に入れます。手術となれば、朝早くにおこないます。そこで、早起きして患者さんを励まし祈るのですが、手術前に執刀医たちが患者さんに会いに来て、最善を尽くすから心配しないでいいと励まし、時には一緒に祈ったりします。きっと、あの中にイエス様も手術着を着て一緒にいたのではないかと思わせる雰囲気があるのです。聖書でイエス様の記事を読むと癒しのエピソードがとても多いのです。そして、どんな病気も癒したと書いてあるのです。ですから、私たちも癒していただけるし、死に至る病である罪もことごとく赦していただけるのです。「命を墓から贖い出してくださる」とあるので、死にそうになっても救い出してくださるでしょう。救われると言うことは特別なことで、この世に長らえる限り良いものに満ちたらせてくださいます。そればかりか、若さすら与えてくださるのです。ボケたらどうしようなどと心配することもないのです。すばらしい主の「慈しみと憐れみの冠を授け」とは、どんな時もそのことを忘れてはいけないということです。良い人生が主によって約束されていることを信じて讃美しましょう。

 

6月18日(金)

主の慈しみは決して絶えない。

主の憐れみは決して尽きない。

それは朝ごとに新たになる。

「あなたの真実はそれほど深い。

主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い

わたしは主を待ち望む。

哀歌3:22、23、24

 

あなたの人生で苦しい時はあったはずだ。試練と言っても良い。誰も助けてくれない、いや助けられないで、あなたは途方にくれたはずだ。神を知っている者は、必死で祈り、神の助けを求めただろう。あなたは自分を振り返って考える。自分の何が悪かったのだろう、と。明らかに敵がいて、自分を破滅に追い込もうとしている。神を知る者は、それを悪魔と呼ぶ。決して自分が誇れるような生き方をしていなかったとしても、苦しみの中で神を呼ぶと、神は立ち上がる。自分では何もできなかったのに、主が働いて問題が解決している。何度も何度も主は憐れみをかけてくださり、私たちは信仰で神を頼りに生きるようになって行く。神は疲れを知らず、朝には新たに私たちの祈りの声を聞かれる。主の慈しみがそうさせるのだ。だから、危機に直面しても、病の時も、貧しさの中にいる時も、どんな時も、主はあなたに心を向け、慈しむ方であることを忘れてはならない。あなたには、力強い神がいてくださる。人間の常識を超えて、不可能を可能して、あなたの主を待ち望む信仰に、必ず応えてくださる。主を頼りなさい。主を待ち望みなさい。

 

6月19日(土)

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

ユダ24、25

 

クリスチャンは、どうすれば神様の御前に立てるような者になれるのだろうかと考えるでしょう。しかし、今のままではダメだという思いが、何かしなければと考えてしまうのです。何か、聖なる者になれるように頑張りたい、という願いはかなうことはないのです。では、どうすれば良いのか、その答えが今日の聖句です。「つまずかないように守ることができ」とあるのですから、自分の力ではありません。「傷のない者として」くださるのであって、自分で頑張るのではありません。「御前に立たせることのできる方」とあるのですから、やっぱり自力で達成するようなことではありません。そして、答えは「私たちの救い主である唯一の神」です。つまり、神様が全部人間ができないことをやってくださるのです。だから、私たちはそのことを信じることです。神様の働きを邪魔しないで、聖霊の導きに従うことです。困難がやってきても、キリストを信じるのです。仕事も学びも生活もすべて自分が生きて働くのですが、それは普通のことです。その普通の生活をキリストを中心にして信仰でやって行くのです。祈りが多くなるのはそれだけ全てにキリストを中心に考えるようになった証しです。とにかく、思い煩うことなく、毎日をできるだけ楽しく、神様に感謝して過ごすことです。大変な時には、思いっきりイエス様に頼って下さい。どんな大変なことも必ず過ぎ去ります。どう祈っていいか分からない時はイエス様、イエス様、と御名を呼びましょう。私たちの特権です。