2022年1月ディボーション

2022年1月1日(土)

主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。

申命記31:8

 

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。今年もコロナは収束したとは言えませんが、スクエアー・ジャパン・チャーチがこのような事態に備えて立てられた教会であると思えてきました。礼拝もZOOM礼拝になり、聖書研究も、バプテスマクラスも、カウンセリングも、インターネットで実現できています。世界中のどこにいても、信仰のガイドが必要な人、求めている人に対応できるのです。今日の聖句を読むと、主は、先立って行き、共におられるお方だと分かります。まさに主は羊飼いのように羊たちのお世話をして、私たちの行く道を照らす光のようなお方です。今のように、多様性が叫ばれるような社会では、多様な教会のあり方が求められます。ですから、既存教会に所属していないクリスチャンにとっても、インターネット教会は重要です。これから先、主がどのように私たちを導かれるか具体的にはわかりませんが、私たちにとって益となり、喜びとなることは間違いありません。預言されていた通りに、再臨前に、聖徒たちを選別し、ふるいにかけている時なのかもしれません。何があっても、恐れず、おののかない者となって、主のお導きに従いたいですね。皆様の信仰が豊かに祝福されますように。

 

1月2日(日)

わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。

なぜ、あなたは恐れるのか

死ぬべき人、草にも等しい人の子を。

なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ

天を広げ、地の基を据えられた主を忘れ

滅びに向かう者のように

苦痛を与える者の怒りを

常に恐れてやまないのか

苦痛を与える者の怒りはどこにあるのか。

かがみ込んでいる者は速やかに解き放たれ

もはや死ぬことも滅びることもなく

パンの欠けることもない。

イザヤ51:12~14

 

人間は罪の世界に産まれてきたので、人に傷つけられ、恐れることを覚える。恐れは、自己防衛のためであり、これ以上傷つきたくない心の表れである。しかし、恐れがある限り、過剰に反応していまい、かえって周りの人を自分が傷つけてしまう危険が絶えず付きまとう。悪魔は、そのような者のあたかも主人であるかの如くに振る舞う。これでは、たまらない。自分を助けてくれる方はいないのか。驚くべきことに、その救い主はいた。その名はイエス・キリスト。私たちが生まれる前から、いや、初めからおられた。このキリストは、驚くべき愛で私たちを救ってくださったのだ。救われた者は、リハビリが必要だ。主の愛情をたっぷり受けて、完全に守られていることを確かめることができる。それでも、癖のように、また恐れることが戻ってくる。恐れは、不信仰だと教わった。主を愛する気持ちに偽りはない。だから、不信仰と呼ばれたくないのだ。それなのに、いつまでも恐れを克服できないでいると、今日のイザヤの御言葉が聞こえてくる。神様は本気なのだ。本気で恐れから解放し、完全に救ってくださる。自分の弱さを責めることなく、主は励ましてくださる。そして、本当の敵を退けてくださる。だから、「もはや死ぬことも滅びることもなく、パンの欠けることもない」。これは、本当のことです。主を信じて、完全に恐れから解放していただきましょう。

 

1月3日(月)

バビロンの流れのほとりに座り

シオンを思って、わたしたちは泣いた。

竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。

わたしたちを捕囚にした民が

歌をうたえと言うから

わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして

「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

どうして歌うことができようか

主のための歌を、異教の地で。

詩篇137:1~4

 

バビロン捕囚を知っています。私たちは、イスラエルの民が罪を犯し続け、その結果が神の罰となってバビロン捕囚となったと思っています。しかし、イスラエルの民はバビロンに捕囚となり、どのような思い出生きていたのだろうか。その答えが、今日の詩篇に見ることができます。心が激しく動かされる詩です。彼らの悲しみはいかばかりであっただろうか。この詩に感情を動かされるのは、私たちもまた聖徒と呼ばれながら、罪を犯すことがあるからです。その結果が、神の罰であるのなら、イスラエルの民が経験した悲しみは人ごとではなくなるのです。「望郷」という言葉がありますが、「シオン」を思って泣いた、と書かれた言葉は、望郷そのものです。しかも、神の住まいこそが彼らの故郷であったことを忘れることはできません。彼らは、主を賛美する民です。ところが、異教徒たちは、面白がって慰みに歌ってみろと嘲るのです。「シオンの歌を」と。だから、若者たちは、竪琴を柳の木にかけ、歌わなかったのです。これは、彼らだけのことではなく、神の栄光に関わることであったから。だから、聖なる憤りに震えたのです。イスラエルの神がバビロンの神より弱かったから戦争に負けたのではありません。聖徒たちの罪が大きすぎて、バビロン捕囚にあったのです。だから、イスラエルの神を卑しめるようなことをバビロン人に許すわけにはいかないのです。だから、彼らは讃美歌の意味もあらためて理解させられました。彼らの心に自分達の神への畏敬の思い、信仰がリバイバルし始めるのです。詩篇を一度読んですぐに理解すると言うのは難しいことです。天才的な詩人が神の霊感を受けて作った詩です。だからこそ、信仰が必要だし、詩を鑑賞する聖霊の助けが必要です。今日の詩は、分かりやすい方だと思います。私たちも、主への思いは大変深いものがあるはずです。主への忠実も、いざという時に主のために信仰に固く立つことも、あなたの内に秘められているのです。だから、今日の詩篇を共感できるのです。

 

1月4日(火)

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

エレミヤ29:12、13

 

聖書の中にこのような約束があります。そうであれば、この約束は実行するべきです。「わたしを呼び求めて歩き」とは、神様を積極的に探すような生き方のことです。いつでも大切なのは祈りですが、祈りの本は多分キリスト教の歴史の中で一番書かれてきたもので、それほど信仰者にとって重要なことなのです。初めの文章の結びが「聞こう」ですから、「神様に聞かれる祈り」の極意を語っているのです。ありがたいことに、特別な人へのメッセージではなく、あなたがたと書かれているのですから私たちも含まれると考えてよいのです。この文章をもう一度読んでみると、特に難しいことはありません。もともとバビロン捕囚にあったイスラエル人に、もう一度、主への忠実と信頼を新たにするようにとの勧告があって、その中で「神様を呼び求めて歩き」と言う表現が出てくるのです。罪は、神様に背を向けて逃げていく人の姿です。ですから、私たちは神様に向かっているのか、それとも背を向けて逃げ出しているのか、と問われるのですが、礼拝を続ける人たちも、安心することなく、自分は神様を呼び求めているだろうか、と自己吟味することが必要です。そして、神様を呼び求めるような生き方が身につくと、やがて神様を見つけるのです。「心を尽くして」とあるので、自分の思いも意思も感情も思考もこれらすべてが神様を求める時、神様を見つけることができるのです。信仰者にとっては重要なことです。今年は、こうしたキリスト教の奥義を体験したいですね。

 

1月5日(水)

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸に至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」

エレミヤ6:16

 

若者の間で昭和レトロブームが起こっています。平成、令和と時は進み、携帯やスマートフォンが生まれた時からあった世代の人たちは、もっと未来思考なのかと思うのですが、意外と古いものが良いと、昭和に共感しているのです。高齢者にとっては、昭和のどこがいいのかわからないと思う人も少なくないかもしれませんが、ゆったりしている、人間らしく手作り感がある、デジタルでなくアナログがいい、古い物に逆に新しさを感じる、何か安心できる、といった具合に、現代のスピードについて行けない人たちや、人間的にゆっくりと生きて行きたいと思う人が若い人ほど多いのかもしれません。聖書を見ると、今日の聖句が目に入ります。「さまざまな道」とは、歴史と置き換えてたらどうでしょう。歴史を見渡して、人間にとって理想的な幸福の生き方はどこにあるのか尋ね、それをあなたの生き方として、あなたがたのいこいを見いだせ、と言い換えるとわかる気がしてきます。色々と価値観が変わり、また多様化し、SNSの普及によって情報があふれ、日本人が守ってきた礼節が崩れてきたのです。家制度が崩壊し、核家族が一般化すると、日本人の高い精神や礼儀作法が子供たちに受け継がれなくなってきました。外国人が自己主張ばかりして、自由を声高に主張するがそれが放縦にしか見えないと感じる日本人は多いと思います。マスク着用でも日本人のように自主的に守る人を外国に見ることはないと思いますが、これからの日本人の子供はどうなるか分かりません。礼節を知る日本人は、本当は幸せに一番近いのではないでしょうか。それが、戦争に向かった時は踏みにじられてしまいました。私たちクリスチャンは、平和を願い、伝統を全否定したり、逆に伝統を闇雲に守ればいいと言うような極端に走るのではなく、「幸の道」はどこにあるかを尋ね、それを歩んでいける知恵が必要です。新年を迎え、皆様に幸福な道を歩んでいただきたいと願いました。「どれが、幸いに至る道か」と聖書を調べ、神様に聞き、歴史に学びたいですね。

 

1月6日(木)

憐れんでください

神よ、わたしを憐れんでください。

わたしの魂はあなたを避けどころとし

災いの過ぎ去るまで

あなたの翼の陰を避けどころとします。

いと高き神を呼びます

わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。

天から遣わしてください

神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。

わたしを踏み躙る者の嘲りから

わたしを救ってください。

詩篇57:2~4

 

クリスチャンになって、最も良いことの一つが神様に祈れることです。ダビデは詩人であったので、これほどの見事な詩を作ることができたのですが、1節を見ると、サウル王に追われ、逃亡中に作った詩であり祈りであることがわかります。そこで、私たちは祈りの模範を知ることができるのです。命が狙われている逃避行ですから、敵をやっつけてくださいとか、自分を救い、敵をすぐに倒してくださいと、いった祈りをしても当然だと思うのですが、詩篇記者は「憐れんでください」と祈りだすのです。「あなたの翼の陰を避けどころとし」とあるのは、神様がケルビム(六翼の天使)の翼の上に座すと言われているからです。神様に隠していただくということですが、神様は聖なるお方なので、直接ではなく間接的に守っていただくわけです。詩篇記者は神様と私たち人間の関係をよく知っているのです。そして、神様に信頼を寄せます。神様は自分に良いことを何でも成し遂げてくださる。それゆえ、神様が恵とまことを使者として送ってくだされば良いと祈っています。神顕現は、恵みとまことの先触れから起こると知っているのです。神様が顕現されれば、敵がいかに強力でも無力になります。ですから、私たちも災いが襲ってくる時に、神様に救いを求めるのですが、どう祈るかが分からずに、やみくもに救ってくださいの連発になるかもしれません。でも、救いの祈りは神様への信頼が先行するのです。今度、災いが起こったら、この詩篇をそのまま使って祈ることもおすすめです。それにしても、信仰のままに祈っているのですね。それは、美しさを伴っていますね。このような祈りを自由に祈れればどれほどいいでしょう。主が祈りを教えてくださいますように。

 

1月7日(金)

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

ローマ15:4

 

聖書を読む習慣は、より良い人生を生きる最善の方法です。私たちはかつては罪人でしたが、自分が罪人であるという認識はありませんでした。ですから、聖書も意味を持たなかったのです。世界の名著という古典のシリーズがありましたが、そこには有名な哲学者の代表的な著作や仏典もあり、そして聖書も含まれていました。このように、他の宗教書や哲学書の仲間とされ、同じ扱いになっていたのです。このような事は日本ではありふれたことで、聖書の本当の意味を知らない人があまりにも多いのです。しかし、イエス様ご自身がお語りになったように、「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6:63)。つまり、人間が書いた他の本とは違っていて、聖書には命を与える力があるのです。幸いなことに聖書を信仰をもって読む人たちがいるのです。そして、聖書には、忍耐と慰めをも与えることができます。それは、多くの信者さんが体験して証しています。クリスチャンの品性を得る時に忍耐と慰めを通して信仰に成長しているかどうかがまず量られます。ですから、誰にとっても必要なことが忍耐と慰めです。それを聖書から学ぶことができ、自分のものとすることができるのです。そういえば、クリスチャンになってから忍耐を必要とする状況が増えたように思います。そして、慰めがセットになっているので、忍耐ができ、成長することができるのです。ですから、希望がありますね。

 

1月8日(土)

良いしるしをわたしに現してください。

それを見て

わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。

主よ。あなたは必ずわたしを助け

力づけてくださいます。

詩篇86:17

 

詩篇では敵に苦しめられる状況からの主の救いがテーマになっている詩篇がいくつもあります。それだけ、この世では人間関係からの悩みや争いが多くあることを示しています。ただ、クリスチャンは主の助けを求めることができます。それも、奇跡的な救いが与えられるのです。聖書に特徴的なのが「しるし」です。神様が良いしるしを表してくださるのです。ですから、本人も苦しめている者も、神様の御力を感じ、また見ることがあるのです。それは、たいてい具体的なことで相手の悪意を打ち砕くことになります。ですから、この世を恐れる事はありません。クリスチャンのあなたを傷つけたり、中傷したり、悪意をぶつけてきたなら、神様は黙っていません。その敵は恥に落とされるのです。ですから、人を恐れてはいけません。主の助けは必ずあります。そして、主に力づけていただけるのです。ですから、神様に感謝しましょう。

 

1月9日(日)

ギレアド人バルジライはヨルダン川で王を見送るためにロゲリムから下り、王と共にヨルダン川まで来ていた。バルジライは高齢で八十歳になっていた。彼は大層裕福で、マハナイム滞在中の王の生活を支えていた。

サムエル下19:32、33

 

人間は何歳になれば立派な人間になれるのだろう。こんな問いかけに誰が答えられるのでしょう。普通は、ただ時間ばかりが過ぎて徳を積むわけでもなく、長く生きれば聖人に達するというわけでもないと知ることになります。若い時には考えもしないことですが、いつか自分が歳を取ったときにどのような者になろうとしているのか、志もなく生活に追われて生きているだけでは、立派な人間になれません。今日の聖句には、バルジライという武士が出てきます。わたしの憧れの人です。齢は八十歳です。彼の功績は、ダビデ王が落ち目になった時に、自分の財産を使って彼を助けたことです。そして、ダビデ軍がクーデターを起こした息子アブサロムに勝利を収めると、イスラエルの国境までダビデ王を見送るのです。ダビデ王は敵に追われて都落ちし、最も惨めな時に手厚く保護し、助けてくれたバルジライに最大限に報いたいと思いました。ところが、バルジライは王の申し出を断り、褒美を受け取ろうとしません。つまり、ダビデ王を助けたのは、何の打算もなく、困っている友を窮地から救おうとする無償の善意からでした。ダビデは王様だから、ダビデに恩を売れば、後で大きな報いを期待できると打算的に考える人はいるものですが、今回は、ダビデ王もその彼を支える勇士たちも歳を取り、かつては戦場の英雄たちにも老いが見え始めていたので、都落ちする時には憐れんだり、石を投げる者もいた始末です。そんな惨めなダビデ一行を迎えて助けてくれたのは、外国人だったのです。下手をすれば、隣国の強力な王様を亡き者にしようとチャンスとばかりに攻撃をすることだってあり得たのです。でも、ダビデ王の魅力は、近隣諸国への対応の巧みさです。そして、友を作ったことです。バルジライはその友でした。城を明け渡し、逃げ出し、もはや王ではなくなっていた時に、いち早く、援助の手を伸ばし、支え続けました。結果、ダビデは勝利し、王に返り咲くのですが、その時には、バルジライは、ただダビデを気遣い見送るために国境まで来るのです。クリスチャンも、何も返すことのできない人を助け、援助するのです。見返りをあてにしての行為は、クリスチャンのものではありません。キリストに仕えるように人に仕える者となりたいですね。

 

1月10日(月)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

ローマ8:28

 

神様を愛するという事は、クリスチャンにとっては当たり前のことでしょうが、これも奇跡なのです。生まれたままの人たちにとって、神を愛するということは考えられないことだからです。それだけに、神様に召された方々には、特典があります。それは、「万事が益となるように共に働くということ」です。つまり、神様を愛している人の生活で起こるいかなることもその人の益となるように万事が共に働くのです。そうであるなら、一見災いのように思えったことも、後になれば益であったと気がつくでしょう。試練ですら益となるのです。そうすると、日々の出来事の一つ一つに一喜一憂してもしょうがないのです。どのようなことが起こっても、それが自分のためになるのです。これは、聖霊の支配の中にあるからこそ導かれてそうなるのです。この原理がわかると、心配が消えます。何かを恐れることからも解放されます。そして、一見大変そうに見えることにも積極的に関わり、良い結果を残すことができるのです。子供を育てるときに親は、躾を大切なこととして取り組まなければ、粗野な人を作ってしまうかもしれません。懸命な親は、子供に善悪を教え、人に親切にすることや労を惜しまない勤勉さを教えようとするでしょう。甘やかせることがその子の価値を下げ、叱らないことがその子の将来をつまらないものにしてしまうのです。同じように、天の父も神様の子供である皆様をより良く訓練して、天国にふさわしい者に成長させようとされます。その過程で、万事が益となるように共に働くようにされているのが主の御業なのです。

 

1月11日(火)

あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。

申命記14:1

 

人間の価値とは何であろう。家柄が良いことだろうか、学歴が価値を決めるのか、あるいは地位や名声だろうか。この世の考えではこうしたものは皆価値が有ることになるのだろうが、クリスチャンも世俗の考えに従うのだろうか。聖書を読んで行くと、奴隷が救われてもそのままの地位に留まるように言われている。教会に身分の高い人が来た時には特別席に座らせるような事はしてはいけないとも言う。身分で差別することがあってはならないと言うのだ。私たちは資本主義の世界に生きていて、資本主義の宿命である貧富の差が大きくなっていることを知っている。こうしたことがクリスチャンの心に何かしら波風を立たせるのだろう。世界はグローバル化されて近くなった。いや一つになってきた。多様な文化や社会の仕組みが存在していて、多様性を受け入れるように促される。単純な価値観では対応できない時代になった。情報化社会は牙を剥いたように急速に社会を変えている。その中で混乱も起こっている。これが、終末の世界なのだと自分を言い聞かせる。このような時、「静まって聞け」と言う御声が聞こえてくる。そして、主の御声は、「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである」と語りかけてくる。驚くことに、私たちが忘れていることだ。それは、神の子供なら、そのような生き方をしているはずだからだ。そうすれば、世俗のことで思い煩うこともなく、もっと多くの恵みを享受していたはずだ。中途半端な生き方は一見楽そうだが、実は苦しいものだ。信仰は決断なので、神の子どもとして生きると決めるといい。神の子どもらしく生きるのではなく、神の子どもとして生きるのだ。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ3:26)。信仰があるのだから、それで十分だ。世界がどうなろうとも、あなたの周りの人たちが成功者になり、偉くなろうが、あなたの心は平和と恵みで満ちていられる。なにしろ、あなたは来るべき新しい世(神の国)にすでに生きているのだから。

 

1月12日(水)

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ9:16

 

クリスチャンになって、ありがたいと思うことが増えました。多くの人は、何かを成し遂げようとするときに、うまくいかないとつい自分を責めてしまいます。しかし、クリスチャンはそのような事はしません。事が成るのは人間の願いや努力によるのはないと知っているからです。それでは、クリスチャンは何事も成らないのだろうか、それこそ運まかせなのだろうか。否、そうではありません。神様によって最善なことが成されるのです。本人が頑張っているからでもなく、たゆまずに努力したからではないのです。憐れんでくださる神様がいるからなのです。例えば、受験勉強をしている人は、ここに合格したいと願うだろうし、勉強も努力するでしょう。しかし、合格できるかどうかは、わかりません。どんなに願っても、どんなに努力しても、合格できない事だってあるのです。しかし、クリスチャンは、憐れんでくださる神様が大事な事は成し遂げてくださるのです。だから、クリスチャンは努力しないでもいいと言っているのではありません。努力したら、努力しただけの方法を考えてくださり、努力しなかったら、それなりの道を見つけて開いてくださるのです。ありがたいですね。ですから、クリスチャンはいつでも感謝することができるのです。とても楽な生き方ですね。

 

1月13日(木)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

エレミヤ15:16

 

人には誰にでも何かしらの才能が与えられています。それを生かしているかどうはわかりませんが、自分の得意なことを選んでやろうとする傾向があります。ただ、才能に優劣をつけるようなことをすれば、上には上があることを思い知らされます。ですから、人と比べるような才能の捉え方は益とはなりません。そうではなく、才能は自分の人生を彩るために神様が与えてくださったものです。ですから、楽しみに使っても良いし、神様のために使っても良いのです。エレミヤは預言者であったこともあって、神様の御言葉に対する才能が与えられていたのです。彼にとって御言葉は食べ物です。札幌にいた時に、山菜狩りが道民の楽しみだと知りました。そして、それが得意な人が何人もいました。一緒に車で移動していた時に、突然車をとめてご夫妻で道端の土手を登り始めて、驚いてついていくと、野いちごを見つけて食べていました。エレミヤにとっては、この野いちごが御言葉なのです。御言葉を人は読みますが、エレミヤは食べたのです。その結果は、楽しみとなり、心の喜びとなったのです。エレミヤは、「私にはあなたの名がつけられている」と言っていますが、私たちもクリスチャンと言う名がつけられいます。ですから、私たちも本を読むように聖書を読むだけではなく、御言葉を見つけ出し、食べるのです。それは、聖書を読んでいると、突然に意味がわかったり、目に大きく飛び込んできたり、悟りが与えられたり、と普通ではない事が起こります。その御言葉は心に残り、それが力となり、楽しみとなって、喜びとなります。これがクリスチャンの特権なのです。イエス様は、これを心の土地に御言葉の種をまくことに譬えました。種なのでやがて実を結ぶわけです。この力がその人を神の子にふさわしく変えていくことになります。

 

1月14日(金)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

Ⅱテモテ1:7

 

私たちが失敗する時は、たいてい「おくびょう」が顔を出す時です。普段は堂々と生きているはずなのに、この「おくびょう」が顔を出すと、気持ちが一気に否定的に染まっていくのです。自信も消え、悪いことばかりが心に浮かびます。そもそもが、おくびょうのせいで、怒ったり、醜い反応が起こっていくのです。言わなくても良いひどい言葉など、後で後悔するに決まっているのに、感情のままに言ってしまう自分を責めないではいられなくなるのです。心の不安定さは、この「おくびょう」が原因です。そこで、キリストの救いは、悔い改めによる罪の赦しだけではなく、血による清めと、聖霊を人の内側に住ませることによるのです。この聖霊が約束通りに人の内に住んでくださっているのに、救われる以前と同じように「おくびょう」が働いて、悪い結果が出てくるとしたら、この聖霊はおくびょうの霊ではないのか、となってしまいます。実際には、そんな事はあり得ません。聖霊は三位一体の神様だからです。では、あなたの内にいる聖霊は、どのようなお方でしょうか。答えは、今日の聖句にある通りです。「力と愛と慎みとの霊です」。そこで、クリスチャンは信仰を働かせる時に、いつも三つのことを注意していればいいことがわかります。それが、「力と愛と慎み」です。「力」は行動力のことです。善行とか奉仕とか施し、伝道など、実際に主の御心にかなう事を行動する力のことです。「愛」はクリスチャンが一番良く知っている事です。しかし、信仰によって実践しなければ意味がない事です。さて、最後の「慎み」ですが、これが一番クリスチャンらしさを表していると言えるでしょう。人間の価値を決めるのは品性です。キリストがその模範です。でも、品性は一朝一夕で身につくものではありません。それだけに、目につきます。自分が話す話の内容は、品性を表しています。人と接する時に美しく見えるものです。また、人を見る目が品性によって左右されます。キリストのように人を見ることができればいいのですが、最悪なのが、「おくびょう」の目で見る時です。キリストを表すものは何も無くなります。どうでしょう。あなたは、キリストの品性を表しているでしょうか。確かに、ガラテヤ書には、聖霊の実として身につけるべき品性のリストがあります。これは、聖霊の導きに従ったなら得られるものだと、聖書は教えています。私たちは、今日の聖句を覚えて、「力と愛と慎み」の霊が内に宿っているので、それを妨げないように、意識的に生きるといいでしょう。くれぐれも肉に従わないようにしたいですね。

 

1月15日(土)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。

Ⅱコリント5:17

 

パウロの言い方で「主のために生きる」ことを「キリストのうちにある」存在と呼んでいます。それは、キリストの死によって全ての人が死んだのです。しかし、その死から新しい生命が始まりました。それは、クリスチャンがよく口にする「主のために生きる」という生命です。この主のために生きることで、その人が主のものである事が明らからになります。「だれでもキリストのうちにあるなら」と言われた人は新しい被造物です。どんな仕組みかといえば、パウロは二つのアイオーン(古い世と新しい世)で説明しています。キリストの勝利により、古い世(アイオーン)が過ぎ去って、破滅に定められたのです。その一方でキリストと共に新し世がやって来て勝利を収めました。そのことで新しい創造が始ります。全てが新しくなるのです。ですから、この世界で悩みがある人も、キリストを信じて救われたなら、悩みの中にあった古い人は死んでしまい、それに代わって新しい命をいただき、古い世ではなく、新しい世に生きることになると言っているのです。しかし、私たちの実感は、実際には天国に入っていないし、この世でまだ肉と戦っている始末です。これはキリストによって終末的に生きる新しい人間の創造が起こった事を意味しています。本来の救われた完全で聖なる私、新しく生まれた神の子の私は、未だ神の中にあり、天国に行くまではそのままなのです。それでも、奇跡はすでに信仰者に起こっています。ですから、その人が信じて祈れば、やはり神的な事が起こるのです。ただ、肉を着たままなので、悪魔も誘惑をすることがあるし、古い人と同じような悩みを感じることもあるでしょうが、信仰で勝利できるので、その方法を理解しましょう。それは、今日の聖句を信じることなのです。そして、キリストのうちにあることを覚え、それがキリストのために生きることであると悟ることなのです。それが実現する時に、私たちは一番幸せを感じるはずです。それは喜びが溢れるような感じです。「いつも喜んでいなさい」とパウロがいう時、それは「キリストのために生きなさい」と同義語と思えばいいのです。

 

1月16日(日)

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

ローマ15:2

 

クリスチャンは、罪人の自分に死んだ者です。もちろん、キリストが十字架で死んでくださったので、キリストを信じる私たちも一緒に死んでいるのです。キリストは三日目に墓から復活しました。ですから、私たちもキリストの復活の命をいただいて、新しく創造された者となったのです。ですから、古い自分とは違っています。古い自分は、この世に生きていたので、人の目を気にして、その目を恐れて生きていたのです。ですから、世間体を気にし、見栄を張り、人よりも得していきたいと思っていたのです。そのような考えの人間ですから、人間の器が小さく、何が一番大切か知らないような者でした。結局、古い自分では、生きるのも大変で、自分に自信を持てないために、去勢を張ったり、罪の誘惑にも勝てないような者でした。ですから、本物の救いは、こうした古い自分から、新しい自分に生まれ変わることがなければ、少しぐらい良くなっても意味がありません。ところが、神様が救いに定めてくださって、キリストの愛によって救っていただきました。そして、その救いは、新しい人間に創造することであったのです。その恩恵にあずかるには、今までの生き方とは真逆に、自分のためではなく、キリストのために生きることでした。キリストのために生きることが結局は自分のためになるのです。ところが、古い人が着ていた肉を未だ着続けているので、この肉の問題があります。クリスチャンなのに、肉が出てくると、罪を平気で犯すし、自己中心に生き始めるのです。しかし、聖霊がその人の内に留まっているので、信仰的な時と、そうでない時があります。真逆の自分が出てきてしまうと、正常に聖化もできないし、神様に近づくこともできなくなります。では、どうすればいいのでしょう。その答えは、今日の聖句の中にあります。このように聖書の勧めに従うことです。そして、その時に得られる喜びを忘れないことです。ただ、自分には力がないので、聖霊に助けを求めることが肝心です。新しい自分が現れてくるように信仰によって生きたいですね。

 

1月17日(月)

イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。

ルカ18:27

 

私たちは、この御言葉を知っています。そもそも、罪人の自分が主の恵みと憐れみで救われたことを考えれば、御言葉の通りだと納得できるからです。そして、罪人を救うことがいかに難しいことか、考えることも必要なのです。人間の努力や頑張りでは救われることは不可能なのです。ですから、律法を守って義となろうとしていたユダヤ人たちが失敗したのです。さて、誰でも自分の力では無理だと思うことが何かしらあると思いますが、あなたはどうでしょうか。もし、心当たりがあるならば、今日はチャンスです。「人間にはできないことも、神にはできる」と聖書に書いてあるので、この通りに神様の力で不可能を可能にしていただくのです。もちろん、悪いことはダメですが、御心に敵うと思えるなら、信じて祈ってみましょう。今は、思い付かない人も、いつかこの御言葉に助けられる日が来ると思います。ですから、いつでも「できない」と言ってすぐに諦めないことです。また、自分はできないからダメだと決めつけることもよくありません。神様を信頼して、楽観的に希望を持ち続けましょう。奇跡は意外と身近にあり、それも普通に現れるものです。ですから、今日の御言葉を覚えていましょう。困った時には、思い出して、困難を突破する力にしましょう。

 

1月18日(火)

主よ、あなたの道をわたしに示し

あなたに従う道を教えてください。

あなたのまことにわたしを導いてください。

教えてください

あなたはわたしを救ってくださる神。

絶えることなくあなたに望みをおいています。

詩篇25:4、5

 

二行目を「あなたの小道をわたしに教えて下さい。」と訳しているものがあります。アメリカに住んでいた時の住所が、「隠れ小道」という住所だったので、とても気に入っていました。ちょっと隠れ家に住んでいる感じですね。もっとも「イチゴ小道」という可愛い住所もあって、日本にもこのような楽しい住所があれば良いのにと思ったものです。さて、この詩篇に出てくる「道」は「生き方」ぐらいに思っていればいいですね。神様の道を辿りたいと思うのは、クリスチャンとして当然です。ですから、その道を示して欲しいのです。私たちもこの世の人たちと同じように生活していますから、似ているのですが、実際には大きく違っています。この世の価値観に左右されていないからです。神様との関係が重要なのは、罪人は自己中心に考え行動する特徴があるため、神様に背を向けて自分勝手に生きかねないのです。そこで、神様に服従する道に置いていただく必要があります。神様と愛し愛され、という関係に生きるためです。これが創造の時の初めの姿だからです。そして、この愛の関係に入っていくためには、神様の真実の内に導いていただき、教えていただく必要があるのです。毎日、食事を必要とするように、霊的な食事も必要です。それは、もっぱら神様からいただく以外に得る方法がありません。それが、主の恵みによって日毎に与えられるのです。救いはいつでも主から来ます。一時も神様から離れないようにしましょう。神様に望みを置くことも信仰です。詩篇に書かれたように、クリスチャンも器用に生きなくてもいいので、誠実に神様を中心に生きて、喜びと恵みに満たされて感謝する幸を得ましょう。

 

1月19日(水)

どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。

Ⅱテサロニケ3:16

 

私たちが受ける祝福は、この世界で最も信頼をおくことができます。主が与えてくださる祝福は完全です。それは、わかりやすい言葉では、「平和」です。どんな時でも、平和でいられるというのは奇跡です。私たちは、毎日のニュースを聞くたびに、驚くようなことが起こっています。日本では、太平洋戦争が起こり、キリスト教に対する弾圧もありました。その時でも「平和でした」と言えたら、すごいと思いませんか。何があっても、その人にとって平和であるというのは、主が与える平和がある場合だけです。個人の人生でも長く生きれば、何かしら波瀾万丈があるものです。その時にも、主が平和を与えてくだされば、平和なのです。困難な時には、主は共にいて下さいます。たとえ死のかげの谷を歩もうと、主が共にいてくだされば、喜ぶことができるのです。主は、あなたにとっての奇跡です。あなたが、どんな時でも心から喜ぶことができるようにしてくださるからです。