2022年5月ディボーション

5月1日(日)

大切なのは、新しく創造されることです。

ガラテヤ6:15

 

Ⅱコリント5:17にも同じことが書かれています。「キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。この文脈を見ると、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。・・・その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(14、15)。新しく、と言うのですから、古いものもあることになります。それは、罪人の私です。それは、肉によって生きていたのです。しかし、イエス・キリストを信じた人は、神様の備えてくださった救いを無償でいただいたのです。それは、人をキリストの十字架に結びつけ、キリストと共に死んだことになったのです。それは、罪から贖い、清め、新しい命である神の息を吹きれて、復活のキリストの命にあずからせることが準備されていたのです。まさに、肉につける罪人の古い私はキリストのおかげで十字架に共に死んだのです。そのようにして、罪の根本問題を解決し、さらに新しく生まれさせる創造の業が予定されていたのです。人間的なものは一切役に立たないことは明白で、全てしりぞけられたのです。ただ、神様が御子を通してなされる愛の業が人を新しく創造して救いを実現するわけです。人のできることは、ただイエス・キリストを信じることだけなのですが、それだけで救われる道を主が備えられたのです。ですから、この救いに人間的なことを一切持ち込んではいけないのです。聖霊によって新しく創造されることを信じましょう。信仰のみです。

 

5月2日(月)

命を与えるのは、”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63 

 

イエス・キリストが話した言葉は霊であり、命である、とあるのだから、特別にイエスの言葉を読む必要があります。霊と言われると、何のことかわからなくなるかもしれませんが、Ⅱコリント3:6にもヒントがあります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。文字は、律法のことですね。律法を行なって義となることを目指しても、罪が明らかになるばかりで、結局は律法によって死に定められてしまうことを言っています。一方、聖霊は、人を義とするために働かれるので、そのことを信じる信仰によって義となるから命を得るということです。興味深いのは、神が新しい契約に仕える資格を与えた、と書いてあります。これは、クリスチャンであれば、資格を得ています。それは、聖霊に仕える資格です。クリスチャンには特権として聖霊が遣わされて、その人の内側に宿ります。聖霊は生きて働かれるので、仕えるという言い方になります。この聖霊が人を造り変えて、神の国へ入れるようにします。ただ、聖霊が人の内にあっても、よくわからないと思う人は多いでしょう。そこで、今日の聖句が役に立ちます。少なくとも、聖霊がイエスの話された言葉にあることがわかるからです。つまり、信仰を持った人がイエスの言葉を読んで理解しようとすると、聖霊が働いて悟りを与えるのです。言葉に力があり、信じると、その通りになるような仕組みが聖霊によって実現するわけです。正しい生き方を心がけ、キリストの教えを考え、理解したら、その通りになるように信じるのです。

 

5月3日(火)

身を謹んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

Ⅰペトロ5:8

 

クリスチャンは、悪魔の存在を知っています。この世の中では神様を信じないような人たちがいるので、当然のように悪魔の存在も信じていません。そして、悪いことが起これば、ついていないと運のせいにします。しかし、そのまま、どんどん悪いことが重なればどうでしょう。悪魔の餌食になっても気がつかない人が大勢いるのです。そこで、クリスチャンはどうかと言えば、同じようなものかもしれません。何しろ、悪魔を見たことがないので、何の注意もしていないのです。ところが、今日の聖句を見ると、悪魔は誰かを食い尽くそうと探し回っている、というのです。どのような意味でしょうか。お化けのように人を驚かせて喜んでいるわけではありません。人を不幸にしたいのです。できれば、辛くて神様を呪えばいいとさえ思っているのです。「食い尽く」すというのですから、とことん苦しめようと思っているのです。最終的には、神様を信用せずに背を向けて、惨めに滅んでしまうことを願っているのが悪魔なのです。この悪魔に対抗できるように、イエス様は権能を弟子たちに与えました。ですから、現在でも同じように権能を与えられていることを信じて、悪魔を恐れずに、信仰を持って対処するのです。何しろ私たちには、イエス様がついていてくださいます。人間関係や仕事や生活全般で悪魔の餌食にならないように、油断しないことです。「身を謹んで目を覚ましていなさい」とある通りなのです。テレビでも心霊現象のようなおなしな番組は見ないように気をつけた方が安全です。それと、いつでも安定した信仰生活を保つことです。主を信じる信仰で、心が安定していることが大切です。聖書を読んだり、声を出して朗読することも良いし、讃美歌を歌ったり聴くこともお薦めです。祈りを通して主と交われると良いので、祈りの本を読んだりして学ぶことも助けになります。基本的に、健全な信仰生活を送っていれば、悪魔につけいられる心配はありません。一番良いのは、いつもイエス様に心を向けていることです。

 

5月4日(水)

なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。

伝道の書2:26

 

今日の聖句を読めば、神様に従順に従って、みこころにかなう人になりたいと思えますね。神様を信じる人は、知恵と知識と喜びが与えられるのです。人間の歴史を見ると、例えば、国家とはどのようなものであるべきか、と大昔から考えられています。日本にいると、世界中が日本のような国家であると無意識に思ってしまっているかもしれませんが、独裁国家のようなものも結構あるわけです。それは、人間が未だ、理想的な目標とすべき国家のあり方がわかっていないということでもありそうです。例えば、国民の幸福を実現することが国家の役割と言っただけでは、独裁者もその通りと言うでしょう。それでも、人間は考え続けて、議論してきたのです。その驚くべき努力の結果を私たちは知識や知恵として知ることができます。もっとも知ろうとして、勉強しなければ手に入れられないのですが。そのような勉強をしたいと思う人以外は関心がないのです。自分の幸福がかかっているのに、いや、子供や孫の世代にも影響するのに、何もしないでテレビでも観て、時間潰しをしているのなら、将来の幸福も人任せで良いということになってしまいます。では、この世界のさまざまなことが正しく理解されるには、どうすれば良いのでしょうか。聖書は、明らかに知恵が第一で知識もそれに等しいと教えているのです。そして、それらは、求めた人に主が与えるものなのです。若者の悩みは大人の人から見ると、悩みとは言えないかもしれません。そのように、知恵や知識があれば、無い人よりもはるかに良い生活が実現できるのです。いにしえの賢者たちが欲しがった知恵と知識をクリスチャンは恵みで主からいただけるのです。それは、みこころにかなう人であることの特権なのです。特権は、これだけではなく、罪人が集め、蓄えたものをみこころにかなった人に与えるために、働いているようになっていると聖書は教えています。皆さんは、この世の知恵ではなく、神様が与える知恵を求めて約束のようにいただけるのです。そこには、喜びがついてくるのです。喜び多い一生を生きることができます。

 

5月5日(木)

主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

詩篇28:7

 

神様を信じているのには理由があります。誰でも、ただ何となく信じているということでは無いのです。多くの場合、神様の召があります。本人はそれと気づかずにいることもあるでしょうが、時間の問題です。キッカケが必要なら、困難に遭遇したり、病気になったり、人間関係で悩んだり、試練に遭遇して、「神様、助けてください」と祈ることで、自分から神様に近づくのです。このようにして、神様と出会う人が結構いるはずです。しかし、クリスチャンになるキッカケは、家族や友人・知人によって導かれることが一番多いのです。そのようにして、クリスチャンになったとしても、今日の聖句にあるようなことが起こるものです。神様が救ってくださったとわかった時には、誰でも小躍りして喜ぶものです。ですから、その喜びを表すような讃美歌を歌うと、神様の救いと喜びが蘇ってくるのです。神様を賛美することは、クリスチャンがいつでも喜びや救いの感動を味わうことのできる霊的な業なのです。いつも主を賛美して喜び小躍りして生きたいですね。

 

 5月6日(金)

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。

Ⅰペトロ1:5

 

クリスチャンの皆さんは、信仰があります。その信仰には、神の御力によって守られる、という特権があります。信仰の旅路は長いので、いろいろな困難や誘惑、そして試みがあるのです。それらがなんなく乗り越えられる力が信仰です。その信仰は使うたびに強められ、大きくなります。ですから、義人は信仰によって生きる、という御言葉は本当なのです。最後まで行けば、そこには目に見える救いが待っています。キリストが自ら迎えにきてくださるのです。ですから、この世の試練も信仰によって守られるのですから、信仰に生きると決めることです。時々、私の信仰が弱いので、ダメだったと言う声を聞くことがありますが、これは言わない方が良いのです。信仰をそもそも持っていたのかと聞かれると急に自信がなくなるでしょう。そこで、主はご自身の信仰を分け与えてくださったのです。ですから、主の信仰を使えば良いだけです。この信仰は成長し、使えば使うほど大きくなり、力も増す性質があります。それゆえ、大胆な信仰を表すことができれば奇跡を見ることもあるのです。皆様は主イエス・キリストを信じる信仰の故に救われることを覚えていれば、今日の身言葉の通りに、守られ、再臨の時にいただく救いにあずかれるのです。ですから、喜んで信仰によって生きましょう。

 

5月7日(土)

あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、”霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

Ⅰペトロ1:2

 

クリスチャンの秘密は、今日の御言葉の中によく現れています。父なる神は天で御計画を立てられたのです。それは、もちろん、人の救済計画です。驚くことに、天地創造以前にすでに選びは神の予定によってキリストにおいて行われていました。エフェソ書によれば、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(1:4)とあります。さらに、私たちは、何の功績も無しに救われたことが不思議でしたが、クリスチャンとして立派に生きようと、頑張って聖なる生活を実行するとと必ず失敗するのです。これは、人間の努力によって救われたり、聖なる者となることは無いということです。それを無視すると律法主義者のようになってしまうのです。そうではなく、神の御計画は秘儀として聖化の働きまで含まれているのです。それは、聖霊によって聖なる者とされるのです。そのように神のご計画通りになるためには、神への従順が不可欠です。信仰の中身は、イエス・キリストへの服従です。私たちは、クリスチャンになった後でも残念なことに罪を犯すことがあるのです。その罪は放っておけば致命的なものとなります。ですから、キリストの血は、クリスチャンになった後も、有効に働いて清められます。出エジプトで契約を結んだ時にモーセは律法を読み聞かせ、民はそれを守り行うと約束しました。そして、民に血を振りかけたのです。しかし、彼らは律法を守り行うことができませんでした。そこで、新しい契約を結ぶことになり、それは「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ31:33)というものでした。つまり、人間の心に聖霊を吹き込み、聖霊が律法となって、その人を律法に調和した人とするのです。ただ、強制的にするのではありません。あくまでも自由意志が保障されているのです。ですから、信仰によって義となるという仕組みの中で実現するわけです。そうなると、信仰が問題になりますが、助け主がいます。それは、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1:5)。イエス・キリストを信じなさいと言われるわけがわかりますね。

 

5月8日(日)

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保障であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

エフェソ1:13

 

宣教という言葉を聞かれたことがあると思います。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Ⅰコリント1:21)。つまり、クリスチャン一人一人のキリストによって救われた証言によって、信じる者を救おうとされているのです。そのようなことが可能かと言えば、私たちが生き証人です。福音を聞いて信じたのです。その結果、約束の聖霊が注ぎ込まれ、神の目に明らかな証印を押されたのです。つまり、神の印を受けているのです。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保障」であるというのです。確かに、自力で聖化できないのですから、助けが入ります。それが聖霊の役目です。ですから、聖霊によらなければ、神の子となれないということです。その聖霊がすでにみなさんの内側におられるのです。聖霊が働くときに自己愛があると妨げになります。自分がすでに主のものであることを信じてください。私たちが生きるのは主のためと気がつけばいいのです。みなさんは、ご自分で思っている以上に神様に近い存在です。そして、特別に信仰が与えられているので、その信仰を使うことです。毎日が恵みに満ち、平和であると信じれば、そうなるのです。良いことを信じることにしましょう。

 

 5月9日(月)

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

エフェソ1:19

 

神様は、ただ、あなたを見ているだけではありません。あなたが信仰をどのように使うのかをご覧になっているのです。人に対しての神様の働きはあまり理解されていないかもしれません。例えば、出エジプトを果たしたイスラエル人たちは、エジプトの軍隊が戦車に乗って追っかけてきた時に、紅海に行手を阻まれました。その時「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた」(出エジプト14:21)とあります。このように、神様は信ずる者のために絶大な働きをなさるのです。あなたのためにも、主は必ず大きな力で不可能と思われるようなことでも、成し遂げてくださいます。常識に縛られることなく、信仰を表しましょう。あなたは主の力をまだ見ていないかもしれませんが、主はあなたのためにどんなことでもしてくださるのです。その力が現れるのは、あなたが信じる時です。難しく考えることなく、単純に信じて主の誠実を知ることができますように。

 

5月10日(火)

さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を使者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。

使徒言行録17:30、31

 

私たちは、伝道をどのようにすればよいのかわからずに戸惑うことがあります。例えば、誰かにキリスト教の神様を教えようとします。でも、どうやって話し始めればよいのかわかりません。伝道の賜物でも与えられていれば、臨機応変に相手が喜んで聞くような話しができるのでしょうが、そのような賜物もなく、一体どうすればいいのでしょう。今日の聖句は、そうした、私たちのお手本としてパウロの実例が書かれています。興味のある方は、17:22から注意深く読んでみてください。そして、今日の聖句の箇所に至ります。ここまで、実に簡潔にキリストのことを上手に説明したのですが、最後の復活が出てきた途端に、「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」のです(32)。パウロはその場を立ち去りますが、「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」(34)のです。私は、不思議に思うのですが、どんな時でも伝道すると、去って行く者と信仰に入る者に分かれるのです。そして、大したことをしていなくても、救われる人がいるということです。伝道講演会が効果がないとほとんどやめてしまうか一日だけ形だけの講演会を行なっているのが現状でしょうが、街を歩いていて、一枚の講演会の案内チラシを手渡されて、何気なく入った講演会で救われたお医者さんがいました。後には長老になって貢献しました。このように、神様は誰を救うか決めていて、その人を招くのです。私たちは、そのお手伝いをすることができるのです。ただ、どの人を神様が招いているのかはわかりません。そこで、祈って、主と共に働かせていただくのです。カバンやバッグにいつもトラクトを入れていて、渡せる人がいれば渡したり、待合室や電車・バスなどに置いてくるという人もいます。最も、コロナ時代は、手に取ってもらうのも難しいのでしょうが、それでも、どういうわけか、郵便ポストに〇〇教会の伝道トラクトが入っていて、教会に行ってみた、という人がいました。その人は、クリーニング屋さんでしたが、教会で信者になり、誰が自分の家のポストにトラクトを入れたか調べたのですが、ついに誰も入れた人がいないことだけわかりました。不思議なこともあるのですね。パウロも、復活で皆に笑われ、去られた時にはがっかりしたと思いますが、それでも救われた人たちがいたのです。ですから、救われることになっている人に、自分が召命の声になれば、まるで勝手に救われるように見えるのです。ワクワクしてきますね。

 

 5月11日(水)

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

ヨハネ11:25、26

 

原始教会は、ユダヤ教の分派のようにユダヤ人もキリスト教徒も考えていたようです。今のキリスト教の形になるには、かなりの時間が必要でした。初期に問題となったのは、やはりイエスのことでした。イエスに会ったことのある信者がいるうちは良いのですが、世代交代が進むと、短期間に世界中に福音が伝えられ、いろいろな文化や民族など、考え方も多様でした。ですから、イエスが復活したことはイエス信仰にとっては重大なことでしたが、つまずきの原因にもなったのです。人間は誰でも死ぬので、復活信仰は意味があります。誰かが福音を聞いてキリストを信じ、悔い改めて洗礼を受けた時、この人に「あなたは信仰によって救われました」と言うことができる。しかし、その人が死んでしまったらどうだろう。信じても結局は死んでしまうじゃないか、と言われるかもしれません。問題なのは、死は罪と因果関係があります。「罪の支払う報酬は死です」と聖書にも書かれているのです。その罪をキリストに贖っていただき、救われたのに死んで仕舞えば、罪の赦しはあったのかなかったのか分からなくなってしまうでしょう。ですから、キリストが墓から復活されたことは、死にも勝利して、罪と死の呪いから解放してくださったのだと分かるのです。さらに、イエスのお言葉は意味が深いです。この御言葉があるので、皆さんはよく分からなくても、死んでも生きるのです。確かに、パウロもペトロも眠りについています。ルターもカルヴァンもウエスレーもエレン・ホワイトも皆、眠りについています。でも、再臨の日におびただしい群衆が天に挙げられます。たとえ、墓に入れられていたとしても、天使が来て墓から呼び出すのです。本当に夜の間、寝ていたように目覚めるのです。私たちも、生きていてイエスを「信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と信じているのです。

 

5月12日(木)

見よ、あなたたちの神

見よ、主なる神。

彼は力を帯びて来られ

御腕を持って統治される。

見よ、主のかち得られたものは御もとに従い

主の働きの実りは進む。

主は羊飼いとして群を養い、御腕をもって集め

小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

イザヤ40:9~11

 

私たちは、日常生活に忙しく気がつくと霊性も低下し、神様を忘れていることがあるかもしれません。そのような日々を続けると、いろいろと問題が出てくるのです。そのうち、気分も落ち込み、自分の人生がいかに辛いものであったかと過去のことばかりに思い巡らすことになてしまうのです。調子の良い時には、決して思いもしないことが自分をとらえているのです。そのまま、放置してはいけません。クリスチャンは、どんな時でもイエス様を見ることができるのです。神様がそう言っているのが、今日の聖句です。「見よ」と繰り返します。あなたの救い主は、力ある神様なのです。何でもできるということです。私たちの信仰は、イエス様を信じて、全てをゆだねて、従順に従うことにあります。しかし、時には生活に疲れて希望を失うこともあるものです。そんな時には、思い出していただきたいのですが、自分一人で生きているわけではないのです。主があなたの人生を支配することを良しとしたはずです。それなのに、神の支配から外れ、この世に戻ってしまえば、途端にうまく行かないのです。私たちは、信仰によって生きる者なのです。ですから、信仰を取り戻して、主が十字架の代価を払って買い取られたことを認めることが肝心です。主は、命を犠牲にしてまで私たちを愛してくださり、十字架で勝利されたのです。ですから、私たちは主のものです。主は羊飼いとなって、私たちを養い、主が働かれて私たちを集めて、力の弱い者はふところに抱き、信仰に成熟した者を導いて行かれるのです。ですから、私たちは時に迷い、弱り、悲しみに落ち込むことがあっても、すぐにイエス様が助けてくださることを覚えましょう。私たちは決して見捨てられません。主を信じましょう。イエス様が心の重荷をおろしてくださいます。だから大丈夫です。

 

5月13日(金)

父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。

ヨハネ16:27

 

とても不思議なのは、私たちはイエス・キリストを信じているのです。ガリラヤの漁師たちのように、直接、人となられたイエスに会ったわけではありません。初めは、普通の日本人でしたから、キリスト教国の人たちとは随分環境が違っていましたが、それでもすぐに信じたからクリスチャンになりました。一人一人、事情は違っているでしょうが、それ以上に、私たちはイエスを愛し、父なる神を敬愛しているのです。私たちも、使徒たちのように、イエスを愛していますし、イエスが神の元から出て来たことを信じているのです。ですから、あなたがたは特別な神の召命を受けた人であり、神に愛されている人なのです。しかも、荒れ野の旅を続ける出エジプトをした人たちのように、試みの荒れ野を旅しているのです。モーセが聖徒たちの旅路を導いたように、イエスも信仰の旅路を導いておられます。モーセがそうであったように、イエスは神と私たちの間に立って、執り成しておられます。私たちが弱くて、すぐに不平不満を口にするからです。しかし、あなたは、イエスを愛し、神を愛しているのです。これがどれほどの奇跡か理解できるでしょうか。あなたが目指すのは、ヨシュアやカレブのように、忠実で信仰深い人です。神に愛されていることで、いつでも満足していましょう。報いはとてつもなく偉大で大きいのです。ですから、荒野の旅路を忍耐して信仰で乗り切りましょう。できれば、毎日笑って歩みたいですね。

 

5月14日(土)

「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸を得る。」

エレミヤ7:23

 

遊園地などで迷路を見ることがあります。子供だけで楽しめる簡単なものから、大人が真剣になるほどの大きな迷路まで、いろいろありますが、自分の人生を振り返ると、まるで迷路のようだったと思えてきます。そもそも競争社会となっているので、学生時代から競争をしながら、大きな選択がいくつもありました。迷路で、正しい道はどちらかと迷いながら選択して進んで行きます。人生も同じようなものなので、あの時、違う道を選んでいれば、などとつい考えてしまうのです。それでも、結局は自分が選んだ結果が今なのです。クリスチャンの場合は、少し違います。今日の御言葉のとおりだからです。私たちは、神様の声を求め、御声に従って行こうとしているのです。問題は、神様「が命じる道にのみ歩むなら」の箇所でしょう。この通りにするには、信仰が必要です。信仰で生きるのか、それとも自分の心のままに生きるのか、結果は大きく違っているのです。もし、神様の命じる道にのみ歩めば、あなたは幸福になれるというのです。これが聖書に書かれているので真理です。つまり、必ずその通りになるということです。ですから、クリスチャンが晩年どうなるかを見ればよくわかります。おそらく幸福になっているはずです。それは、この世で成功し、名声も得る、ということではありません。自分が神様に愛されていることが信じられるようになり、恵みが一生尽きないと信じられることです。歳を取れば誰でも、不安になり、悲観しやすくなるのですが、クリスチャンは信仰のおかげでそうならないのです。イエス様があなたの主なので、だから大丈夫と言えるのです。信仰の道を歩んで行けば、幸福になるのですから、嬉しいことです。

 

 5月15日(日)

キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

フィリピ3:9

 

聖書によると、「義」が何より大切なことであるのは間違いありません。問題は、その「義」をどうやって得るかです。今日の聖句によると、「義」には二種類あって、①律法から生じる自分の義、②信仰に基づいて神から与えられる義、の二つです。パウロは、②の方を得たと言っているのです。つまり、正解は②の方だということです。そして、このことは、クリスチャン全員が②の方を実現する必要があるということです。パウロは、キリストの内にいる者と認められるために、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています」と言っています。つまり、肉的なものは捨てたというのです。私たちは、どこまでできるかはわかりませんが、一番重要なことは、キリストを信じることで、その信仰に基づいて神から義を与えられるというのです。この義がどれほど大切か、信仰生活を続けるに従って明白になってきます。そして、信仰のことを正しく理解するには、自分を根拠とした義は意味がないということです。神から与えられる義こそが、私たちが必要とするものなのです。クリスチャンにとって理想的な姿は、キリストの内にいる者となることです。そうでなければ、私たちは肉の問題を解決できないまま、中途半端な信仰生活を送るので、この世の人とあまり変わらないと感じるはずです。キリストを信じることは、決して難しくありません。もし、難しいとすれば、それは、自分勝手にできなくなるのは嫌だという思い込みです。この思いを捨て去ることが必要になります。そうしなければ、神から義を与えられることはないからです。そこで、キリストを信じるためにキリストを知ることを最優先にすることです。否定的なことを信じる世界で、神の御言葉を信じるのです。そのことがたやすくなるために、聖書の自分によって良い聖句を見つけて、書き出し、その恵みの御言葉を信じるのです。これは、即効性があり、楽しいことですから、ぜひ、実行してみましょう。

 

5月16日(月)

わたしは福音を恥とはしない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで進行を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

ローマ1:16、17

 

高尚な哲学や高度な倫理など、人の救いに関してギリシャ人には、福音は物足りないものであったのです。簡単だからです。つまり、イエス・キリストを信じたら救われる、ということだけだからです。人間の側が救いにふさわしく善などの功績を立てることは、最低限要求されているはずだ、と考えるのは理解できるのですが、問題があって、誰一人そんなことはできない、不可能だということです。全ての人が罪人なので、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:19、20)と、書かれている通りなのです。この罪の問題さえなえなければ、まだ人間の善への努力は報われるのかもしれませんが、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)と聖書は明言します。「福音には、神の義が啓示されている」とは、当然で、私たちが知っている通りに、キリストの十字架の死、復活、昇天、といったイエスの出来事が、神の義を啓示しています。神は、人ができる方法で救おうとされたのです。罪と死と悪魔に勝利して、神の子となって天国に入ることを可能にする唯一の方法として、御子の犠牲を許されたのです。奥義は「信仰」です。神の御言葉を信じることです。罪人なので悟りが必要ですが、それは聖霊によるのです。しかし、聖霊が働くためにも信仰が必要です。また、聖霊のバプテスマを受けるのも信仰です。こうした救いの方法は、信じて可能になるのです。どんな人でも信じることはできるのです。難しく考えてはいけません。祈りも言葉にした信仰です。神が人間を救うために決めたことは、聖書に書かれています。ですから、御言葉を信じるというのです。神様が決めたことが正しいことです。その正しいことを信じ、実現させる人が正しい者なのです。正しい者は信仰によって生きるのです。

 

5月17日(火)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神の言葉によるのです。

Ⅰペトロ1:23

 

クリスチャンになるということは、聖書的には新しく生まれることです。その仕組みは、もっぱら神によるのですから、理解できなくてもかまいませんが、書かれた神の御言葉は信じなければなりません。面白いことに、国籍も人種も民族も関係ない、性格や能力にも関係なく、信じることができる人がいるわけです。イエスは、心を土地に譬えて良い土地だけが良い実りがあることを説明しています(マルコ4:1~9、13~20)。イエスは他にも「成長する種の譬え」(マルコ4:26~29)を語りました。ペトロは、神の言葉を朽ちない種と言い表しました。こうした譬えは、聖書の言葉がただ印刷された活字で、生きていないと思ったら、大間違いだ、そうではなく、生きているのだ。それは、種が死んでいるように見えるのに、いったん土に蒔かれると途端に命が活動しはじめて、想像を遥かに超えた実を結ぶのだ、御言葉には種のような不思議があると言いたのです。そこで、私たちは、信仰によって良い心を耕すことが必要ですし、御言葉を読んで種を蒔く必要があります。そして、信じるのです。信仰と祈りによって、聖霊の雨が降ってきて、種は発芽し、瞬く間に成長して花を咲かせ、実を結ぶのです。これは、あなたがクリスチャンとして成長することを教えています。あなたは、見事に実りある者に変わっていくのです。あなたは、きっと好きな聖句があると思います。その聖句があなたの成長に関わっているはずです。暗記して種を蒔きましょう。イエス・キリストを信じて心を耕しましょう。祈って聖霊の雨を降らせていただきましょう。キリストに似た者に変わっていくのです。