2025年4月ディボーション

4月1日(火)

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。

フィリピ2:14~16a

 

クリスチャンの良いところは、「何事も、不平や理屈を言わない」ことです。この世には不平を言いたくなることはいくらでもあります。また理屈をこねる人も周りを困らせています。今は不確かで気候までおかしく、昔のやり方が通用せずに、新しいことがどんどん世の中を変えています。せっかく習熟した自分の能力も、あっという間に古いものになってしまい、役立たずになる時代です。若者が新しい仕事に就くためのスキルを身につけるために学ぶというのが、今では50代60代の人たちが再研修を受けて技能を身につけるように促されています。若い人には、希望を持たせることがなかなかできない時代でもあります。ですから、誰でも不平や理屈を言いたくなる時代なのです。ところが、神様はそのような時代だからこそ、それを生かして、非のうちどころのない神の子となれるのだというのです。文句を言わないで、理不尽なことにも負けずに、正しく生きることが、自分を清い者へと変えていくのです。そのような人物を世は求めています。誰もが言いたいことを言う時代は、嫌な時代です。目的達成のためなら子供のように嘘も平気でつ気、責められれば、責任転嫁して人を責めるようなものが増えていけば、生きづらい社会になるでしょう。その中で、クリスチャンが黙々と正しい生き方を見せるなら「世にあって星のように輝」くと聖書は教えています。彼らの信仰は「命の言葉をしっかり保つ」のです。

 

4月2日(水)

彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。

申命記7:21

 

クリスチャンが理解したいのは、自分の内に聖霊が宿っておられるということです。自分が何者かを知っているので、私自身に頼れば、すぐに負けてしまうか、逃げ出すことになるでしょう。しかし、人生には決して負けてはならないことがいくつも出てきます。しかも、逃げ出したとなると、一生後悔がついてきます。ですから、仕事でもプライベートでも、私たちは絶えず勝利者になりたいのです。そのために、祈るでしょが、肝心のことを忘れています。それは、今日の御言葉の中で主があなたに語っておられることです。あなたが弱くても、頼りなくても、そんなことは問題ではないのです。あなたの内におられるあなたの神、あなたの主が大いなる恐るべき神であるので、あなたは恐れてはならないのです。それは、「彼らの前でおののいてはならない」との主のご命令です。これほど、心強いことがありましょうか。あなたの神はあなたを負けさせないのです。キリストと共にあなたは勝利者であり続けるのです。

 

4月3日(木)

みことばに心を留める者は幸いを見つける。

主に拠り頼む者は幸いである。

箴言16:20

 

誰でも幸福になりたいと願うものです。しかし、現実には忙しくただ慌ただしく生活に追われているのが現代人です。幸福について考えるゆとりもないのです。北欧の人たちが幸福について考え、それを追い求めると聞くと、うらやましく思います。しかし、クリスチャンであるあなたには、もっと確実に幸福になる秘訣が目の前に置かれています。それは、今日の聖句に書かれていることです。「御言葉」つまり聖書を読んでいる人の中でも、その御言葉に心を留める者が幸福になるというのです。義務のように聖書通読をしていると、読み急ぐばかりでなかなか御言葉に心を留めることができません。ですから、やり方が違っているのです。精読に近いものかもしれませんが、考えながら読むのです。一度読んでも何が書いているのかわかりにくい時には、聖書の訳の違うものを読んでみるのも良い方法です。聖書研究会で人の意見や証を聞くのも有益です。また、自分の意見を言ってみるのもとても良い方法なのです。モヤモヤしていたものが言葉にしてみると、頭の中で整理されて、一人で読んでいた時には気づけなかったことが解けて、わかった、と新しい発見をしたような喜びがあります。このような御言葉の発見には、主の真理があるものです。ですから、忘れることなくその命を自分のものにすることができます。こうして、御言葉の導きを得て、人生を主の恵みに満ちたものに変えることができるのです。こうして、聖書によって正しい考えを身につけていけば、生活も良くなって行きます。さらに、主への信頼がいかに大切かを学ぶことになります。そして、主に拠り頼むことを体得するでしょう。そうなれば、その人に思い煩うことはありませんから、幸福な日々がやってくるのです。

 

4月4日(金)

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

ピリピ3:20、21

 

クリスチャンは「国籍は天にあります」と聖書に書かれた存在です。ですから、本来は地上のことで心を煩わせることはありません。しかし、いきなりクリスチャンになるので、どうしても成長していかなければなりません。そのための訓練が人生を通して行われるのです。そして、自分の国籍は天にあります、と言える日が来るのです。それは、主イエス・キリストの再臨を待望する者となったということでもあります。この地上のことで一喜一憂することの愚かさを知るのです。そして、この地上での栄達を望んでいた人も、その空しさに気がつくのです。この世には始まりがあったように終わりがあるのです。消え去るものに希望を持とうとしても無理があるのです。そして、この世に苦難があっても、それも一時のことで、すぎて消えて行くのです。一方、私たちは国籍は天にあり、とこの世の者ではないことを意識しているのです。聖書の預言はことごとく成就し、今や終末に生きています。主の再臨を待ち望み、新天新地に入るのですが、それはいわゆる天国のことです。そこに入るのに、今のままで入るのではないのです。キリストによって、「私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」とあるように、天国へ入る時には、想像もできないようなキリストの不思議にあずかる事になるでしょう。つまり、信仰を持って何も心配する事なく、主を信頼して生きていけば良いのです。ありがたい事です。

 

 4月5日(土)

私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

ローマ7:4

 

私たちは、人間の救いがどのような仕組みか、実はよく理解していません。それは、人間が人間を救ったり、自力で自分を救うことができないので、神の憐れみによって恵みとして救われるのです。つまり、神の方法で神ご自身が私たちを救ってくださるのです。ですから、人間には理解できなくても当たり前なのです。ただ、信仰によって義とされるのですから、何を信じているかが大切です。私たちは福音を聴き、信じました。それは、イエス・キリストを信じるということです。私たちの罪は、パウロによれば律法によって罪とされているというのです。キリストは、私たちの罪を贖いました。どうやってか?十字架によってです。そして、十字架でキリストのからだは死にました。それが、私たちのためであることは明白です。そこには深い意味があって、「キリストのカラダによって」私たちも「律法に対して死んでいるのです」。それだけではありません。あなたは復活した主と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためなのだ、というのです。そうであれば、私たちは、このことを信じている必要があります。クリスチャンとしてただ生きているということはありません。「神のために実を結ぶようになるため」なのだと説明されています。このようにキリストによって、私たちは人間的な知識では捉えられないような、神秘的でもある神の働きを経験するように導かれています。それらは、すべて主への従順と信仰によって実現するので、そのことも忘れてはなりません。

 

4月6日(日)

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

Ⅱコリント1:3、4

 

一輪車に乗ったことのない先生が、生徒に一輪車の乗り方を教えることはできないように、その人にとって最大の危機に慰めることのできる神様がおられたら、その人はいち早く立ち直り、危機を脱出できます。ですから、クリスチャンは、神様の慰めを経験しているはずです。この世にはとても強い人もいますが、その人でも倒されるような危機が訪れることがあります。誰も慰めることもできない状況でも、主はその人を気遣って慰めたいのです。私たちなら、慰めを受けて喜ぶだけではなく、他の人の慰めとなろうとします。それでも、あまりの悲しさの中では、声をかけることもできずに途方に暮れることもあるのです。上手に慰めの言葉が出てくればいいのですが、なんと言って慰めればいいのかわからなくなって、気持ちばかりが空回りして、何一つ良い慰めの言葉が出ないで終わることだってあるのです。しかし、主がそうであるように、悲しみの中にある人の傍らにただ一緒にいるだけで、十分力になり、慰めとなることがあるのです。一人で孤独なまま、悲しみを乗り越えることは誰にとっても辛すぎるのです。ですから、イエス様はいつでも、そんな時には、私たちの傍らにそっといてくださいます。たとえ、御声が聞こえなくても、一緒にいてくれてありがたいと思えることがあるのです。そのことを知っているので、私たちも隣人の傍で共にいてあげたいのです。

 

4月7日(月)

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取りられます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

詩篇139:1~3

 

誰かに見守られているというのは、大人になるとないものですが、クリスチャンの皆さんは、イエス様に見守られています。それだけで、大変嬉しいことです。この世の悲しさは、人間関係が希薄になり、隣人への関心が無くなるというものです。マンションが好まれる理由に、鍵一つで他人の干渉を受けないというものです。つまり、隣に誰が住んでいるのか無関心でいられるということです。こうして、大都会に住んでいても孤独になる人が増えているのです。その点、私たちは主の見守りの中、安心して生きていることができます。これから、私たちがどうなるかも、主はご存じです。しかし、私たちの自由を尊重しておられるので、いっさい口出しをしません。ただ、優しい眼差しで見守っているのです。人への無関心が当たり前の世界では、人の親切とか温かさを知ることができません。そこで、主の愛され、信頼されて、自由にさせていただいている私たちは、主の愛を伝える器として、隣人に親切にし、真心を持って人に接するのです。人間にとって一番大切なのは、お金をいくら稼いでいるかといったことでも、世間的に体裁の良い職業についているかでもありません。見栄を張るような生き方は、つまらないことです。それよりも、自分と関わりのある人たちと仲が良かったり、互いに気遣って、笑い合えるような関係でいられることにこそ、価値があるのです。とはいえ、昔のようにズカズカと他人の家に入り込むような遠慮の無い関係も現代人は嫌がるものです。お互い節度ある関係であり、親しさの中にも気遣いできる関係が良いとされているのです。クリスチャンは、まさにそういった人たちだと思います。

 

4月8日(火)

だれに対しても、何の借りもあってはなりません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

ローマ13:8-10

 

クリスチャンは、新しく生まれた人、新生した人のことです。それは、自力で達成できることではありません。悔い改めに導かれ、イエス・キリストを主と信じた人に罪の赦しと清めがあって、そこに聖霊が入ってくださるのです。それは、アダムを生きた者に創造する時と同じで、神の息(聖霊)を吹き入れられたということです。しかし、厳しい修行して新しい境地へ入ったとか、そのような人間的な努力で新しい人に生まれ変わったという経験では無いために、生まれたままの古い罪人の私と境がぼやけているのです。そのために、長く生きてきた古い自分がしばしば頭をもたげてくるために、古い人間特有の罪を犯して嫌な思いをするといった、弊害が出てきます。悪魔もそれをよく知っているので、そこを突いてクリスチャンにダメージを負わせようとします。ですから、油断していると、やられてしまうのです。しかし、目に見えているのは、悪魔ではなく、大抵は人間なので、自分を苦しめている敵を勘違いしています。悪魔であるという証拠は、いつまでも引きずることです。悪魔は、相手にダメージを与えることができるのなら、何度も思い出させて苦しめるのです。うんざりしたら、「イエス・キリストの御名でサタンよしりぞけ!すぐに出ていけ!」と命じてみるといいです。我々の敵は人間ではなくサタンだからです。クリスチャンでない人に互いに愛し合いなさいといっても、それは難しいことです。なにしろ赦すことの意味すら知らないのですから。しかし、クリスチャンはキリストの身の丈まで成長するという目的のために生かされています。ですから、どんなことでも全てが成長のチャンスになっています。この掟は、キリストが与えた新しい掟なので、クリスチャンは全力で守ろうとします。そこに、自分の運命を決する真実の道があるのです。これは、律法に調和し、完成させる道でもあります。愛の道は、とても良いもので、楽しい、喜び多い人生となります。聖霊はそのようになれと導いておられます。

 

4月9日(水)

神は、私たちが御怒りに遭うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Ⅰテサロニケ5:9~11

 

私たちは幸いな者です。それは、私たちの神が憐れみ深く、慈愛に富んでいるからです。人智を遥かに超えて、神は私たちを救う方法を探されました。それは、神の愛を誰もが知ることになりました。私たちは、主イエス・キリストにあって救いを得たから、その証人なのです。主の定めは、私たちのためです。すでに、救いにあずかった者は主と共に生きる者へと変えられたのです。ですから、罪人の時の記憶も捨て去り、新しい命に生きる者として、信仰によって生きるのです。それは、神の愛に応えることです。私たちは、キリストの恵みによって生きるのです。ですから、私たちは、互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことができます。それが新しい人が形をとり、聖霊との交わりを楽しみ道なのです。あなたは幸いな者なのです。

 

4月10日 (木)

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

ローマ6:14

 

律法は人を義とすることができません。逆に、人を罪に定めてしまいます。人を生かすことができないのです。それなのに、旧約聖書を読めなば、シナイ契約のように、「守り、行う」と約束しています。そのために、しばしば罪を犯し、人が罪を犯さざるを得ない存在であることが明らかになって行きます。ところが、時満ちて、主イエス・キリストが現れて、罪の贖いとなるために十字架にかかられました。人間の側に、神様が救わなければならないほどの功績はありません。ただ、神様の憐れみでしかないのです。そして、そのキリストの十字架は、あなたがたを信じるだけで救い、その後も、天国への道を歩ませてくれるのです。こうして見ると、私たちが恵みの下にあると聖書に書いてある意味がわかります。この不思議な神様の救いの御業を、皆様も味わってきたのです。恵みの下にあることを感謝いたしましょう。

 

4月11日(金)

どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

ローマ15:5

 

時々、私たちは忍耐の必要を聖書から学び、忍耐心の足りないことを嘆くことがありますが、実際に忍耐しておられるのは、神様の方なのです。だから、私たちは神様にかたどって造られた者なので、元々忍耐を備えているはずなのです。神様は私たちに忍耐し、それだけではなく励ましをお与えになる神様です。それで、私たちは救いの希望を持つことができます。私たちに必要なことは、「キリスト・イエスにふさわしく」ということです。興味深いのは、私たちは人間として生まれ育ち、この世の価値観の中で成長してきたのです。そのために、この世の人として考え、思考することを長くやってきました。しかし、クリスチャンになれば、それはすべて十字架にかけて捨て去るものなのです。なぜなら、私たちは天国へ入ることになっているからです。それで、肉体はこの地上に残して行くので問題はないのですが、肝心の思考や思いはこの地上にいる間に変えなければなりません。どのように変えるかといえば、それは「キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つように」なることです。つまり、キリストのように考え、思うようになるのです。それは、私たちの努力ではどうしようもありませんから、神様の御力で変えていただくのです。そのために、聖書を祈りを持って読むように導かれているわけです。ただ、悪魔がそれを妨害してくるので、信仰がいるのです。それは、御言葉の力で戦かうというこことです。それは、聖書の御言葉を信じることで、解放・勝利を得ることができるということです。

 

4月12日(土)

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

コロサイ3:13

 

クリスチャン生活が長くなればなるほど、今日もような聖句をいくつも見ることになります。その度に、心に何かしらの覚えがあれば、すぐに実行に移すことが大切です。それは、人の問題ではなく、神様の命令なので従わないと後悔することになります。悪魔も聖徒たちを滅ぼそうと真剣に取り組んでいますから、目に見えないからとたかをくくっていれば酷い目に遭います。今は、霊的戦争中です。油断した教会は、次々に教精を失い、消滅の聞きを迎えます。ですから、霊的敵である悪霊があなたを攻撃してくることは無いなどと思わないでください。心に平安が無くなったら、要注意です。悪魔はあなたに嘘を語りかけてきます。あなたには信仰があるので、理性的な対応を取ることができます。それなのに、感情を乱すようなことになれば、すぐに悪霊を疑ってください。2月の修養会の時には、「サタンに立ち向かえ」という絶版になっている本が参加者の間で読まされました。そのために、目立ったサタンの攻撃から守られました。神様のために良いことをするなら、悪魔は黙っていません。下手をすれば、完膚なきまでも打ちのめされることになりかねないのです。それに対抗する手段が聖書には書かれていて、まず悪霊に隙を作らないことです。それは、今日の聖句に書かれているように、赦し合うことでサタンの攻撃するすきをなくすことです。意地を張っている場合では無いのです。聖書に書いてある通りにする人は、主への従順な人ですから、必ずサタンに勝利します。主は、悪霊たちがどのように攻撃してくるか知っておられて、あらかじめ、その対策を教えているのです。主が赦してくださったのに、なぜ私たちが赦さないと頑張っていることができましょうか。それこそ、今度は主から叱られるでしょう。今日は、心の点検をして、赦す必要があれば、赦しましょう、そして、心を軽くし主の平安にあずかることにしましょう。

 

4月13日(日)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

この聖句は不思議なことを言っています。「何の働きもない者」を、そして「不敬虔な者を義と認めてくださる」。当人にとっては、これ以上良い話しはありませんが、実際には人間の常識に反します。何の働きもない者も不敬虔な者も、両方ともダメだしが出ます。ましてや、救いの話であれば、救われないと断言する人はいくらでもいるでしょう。つまり、人間はこの聖句を理解できないのです。しかし、「良いことをした人は天国に入ります」と言えば、「その通り」と皆が思うのです。しかし、だれがそれを実現できるのでしょうか。そもそも、私たちは罪人だったのですから、良い行いとは無縁の人間なのです。それが、イエス様を信じる人は、たとえ働きが無くても、不敬虔であっても、主が義と認めているのです。それは、イエス様が十字架で罪の贖いとなっておられるからです。私たちは、そのことを理解しています。ただ、悔い改めて、主イエス・キリストを信じる人がその信仰が義とみなされるのです。それゆえ、私たちが救われたのは恵みによるのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エフェソ2:8)と聖書に書かれていることは、覚えていましょう。

 

4月14日(月)

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

この世で生きている限り、思い煩わないで生きることはなかなか難しいものです。特に、大勢の人の中にいれば、なおさらです。人の思い煩いの中身もピンからキリまで色々あります。お金で悩む人、人間関係で悩む人、仕事で悩む人、自分自身のことで悩む人、本当にキリがありません。この世の人たちは、周りに愚痴を言ったり、悪口を言ったり、話すことでストレスを解消しようとします。あるいは、そのことばかり思い煩ってノイローゼになることも選択肢です。馬鹿なことをするのも、こんな時です。人間は時に予測不能になってしまうのです。しかし、クリスチャンは神様を信じて、イエス・キリストを信じています。ですから、クリスチャンでない人たちとは違っています。たとえば、今日の御言葉を知っているからです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」とあります。私たちは、何でもかんでも自分の力で行いますから、神様の恵みを知らないのです。ところが、一旦、何かが起これば、自分が神様の子供になっていることがものをいいます。何が起こっているのか、何が問題なのか、どうして欲しいのか、あなたはその悩みの全てを主に委ねることができるのです。主こそが、あなたを最後まで心配してくださるお方です。それが、あなたの神様なのです。ですから、内容がなんであれ、主にゆだねることが大切です。思い煩っているなと思ったら、すぐにあなたの神様にゆだねると決めておいてください。最高の結果が待っています。

 

4月15日(火)

しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

ルカ8:15

 

これは、キリストが語られた「種まきのたとえ」に出てくる一節です。種は御言葉のことです。そして、それを聞いた人の心の畑が良いかどうかで、実りが違うのです。ここでは、理想的な心の場合が語られています。つまり、私たちが目指すものです。私は、とても不思議に思っている事があるのですが、それは、聖書を読む人はたくさんいるのですが、それで、実を結ぶようなことは滅多にありません。どうしてだろうと思うのですが、確かに、初めて聖書を読む人と何十年もクリスチャンとして聖書を読む人では、大きな違いがあるでしょう。しかし、それでも、人によって初心者でもベテランでも実を結ぶという点では関係がないようです。初めから、聖書の読み方が違っているように思います。日本でも、新約聖書を無料で配っていたりすることから、クリスチャンが少ないのに、聖書を読んだことのある人は意外と多いのです。本棚を探せば、聖書があるかもしれません。しかし、その人の人生に何か良いことが起こるようなことは、あまり聞きません。それは、読み方によるものだと思います。といっても、難しいことではありません。考えながら読むということです。本を読んで楽しいと思うのは、好奇心を満たしてくれるからです。聖書も、好奇心を持って読むのですが、何しろ大昔に外国で書かれたものですから、難しくて当たり前なのです。それでも、何か得ようと頑張ってみるのですが、分からないと読みたくなくなります。現代人はせっかちなので、すぐにわかることが求められています。音楽でもイントロ無しで、サビから、という時代なので、すぐに面白いところから始まり、内容もズバリなるほどとわかるように書いて欲しいのです。しかし、聖書はそうではないのです。しかし、今日の聖句をよく読んでください。読み方ではなく、読み手の心しだいと言っているのです。しかも、心にタネを撒くというのです。ですから、分からなくてもいいかわけです。聖書の御言葉をそのまま心に撒くということです。そして、良いことを期待しているのなら、良い心が必要だと教えています。つまり、聖書は人の内側に入り、心が良ければ、とてつもない実を結ぶということです。それが、人間にとって神の国に入るために必要なのです。あなたも挑戦してみてください。

 

4月16日(水)

神は孤独な人に身を寄せる家を与え

捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。

背く者は焼けつく地に住まねばならない。

詩篇68:7

 

この詩は、出エジプトと関係があるらしい。少なくとも、不従順な者たちが荒野から約束の地へ入ることを許されずに、荒野で亡くなったことと関係のある詩として読めば、意味がわかってきます。カナン侵入の時も、カナン人たちはイスラエルの神を恐れました。彼らにとっては世界一の強力な軍隊を滅ぼした力の神なのです。そのような恐ろしい神が、よるべなき者には、慈しみ深く憐れみ、身を寄せる所を与える神なのです。人間の孤独を知って理解できる父なる神なのです。また、神は「捕われ人」で表されるような、何か圧迫を受けている人々を解放し、栄えさせてくださるのです。ちょうど、荒野をさまよっていたイスラエルの民がカナンを与えられ、ようやく平穏な生活を送ることができるように神が助け手となったようにです。ただし、神の導きを自分勝手に考えて逆ら者、「背く者は焼けつく地に住まねばならない」。このように、私たちは神に従順であり続ける必要があります。しかし、モーセに逆らい、神に不従順になった人たちは神の怒りにあって、約束の地には入ることが許されませんでした。信仰の道の厳しさであり、誰もがよく考え神に従順であることを理解しておく必要があります。

 

4月17日(木)

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2:10

 

今日、ある聖書研究会で原罪について話しました。原罪はアダムの罪が遺伝してすべての人が罪を持っているというような話しです。しかし、これは現在では多くの方が信じていません。それよりも、人間が胎児であった時や生まれてすぐには無罪であったのではないかと、考えられています。それは、その人が罪を犯した時には、その人の責任で罪を犯していると考えるからです。それで、今日の聖句を考えてみると、どう見ても「私たちは神の作品」で、「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と書いていますから、生まれた時からの罪人ではないのではないでしょうか。その上、「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」と書かれてあれば、罪を犯したのは完全に自分のせいであることがわかります。正しく生きていけたのに、罪を犯してきたのです。ですから、罪の責任があるのです。これを罪責と呼びます。悪いのはアダムのせいだと、すべての罪の責任をアダムに負わせることはできません。特に、イエス・キリストの福音を信じて救われたクリスチャンは、主の祈りのように「試み(誘惑)にあわせず、悪より救い出したまえ」と願うことが必要です。聖霊があなたを助けてくださいます。ですから、悲観することなく、聖霊によって解放されたと喜んでいることが大切です。そうやって良い人生を歩んでください。

 

4月18日(金)

わたしは常に待ち望み

繰り返し、あなたを賛美します。

わたしの口は恵みの御業を

御救いを絶えることなく語り

なお、決して語り尽くすことはできません。

しかし主よ、わたしの主よ

わたしは力を奮い起こして進みいで

ひたすら恵みの御業を唱えましょう。

神よ、わたしの若いときから

あなた御自身が常に教えてくださるので

今に至るまでわたしは

驚くべき御業を語り伝えて来ました。

詩篇71:14~17

 

この詩篇は、信仰者が気がつくと白髪になり、歳を取ってしまい、若い時のように活躍できなくなった時の詩です。人間は、気付かぬ間に老いてしまうのです。若い時には、その一日一日の価値や意味がわかりませんでした。そして、自分がやろうと思うことは何でもできるので、生涯このようであろうと無意識のうちに思っているのです。しかし、神を信じる信仰者が、老いた時にまだするべきは、驚くべき神の御業を語り伝えることでした。しかし、彼は「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」(9節)と祈っています。それは、「敵がわたしのことを話し合い、わたしの命をうかがう者が共に謀り、言っています、『神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕らえよう。彼を助ける者はもういない』と」(10、11節)。歳を取っても霊の戦いは終わりません。楽をしようと思っても、それは許されません。なぜなら、サタン(敵)がいるからです。神は、年老いても見捨てることはありません。それは、神の子と認めているからです。必ず助けが来ます。ですから、歳を取って弱くなっても心配することはありません。神はすべてをご存知です。主を信頼して自分の分を尽くせばいいのです。主は、あなたの助け主です。敵よりも圧倒的に強いので、あなたを助けることができます。心配することなく主に頼りましょう。

 

4月19日(土)

自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。地上のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、人の権利を、いと高き方の前で曲げ、人がそのさばきをゆがめることを、主は見ておられないだろうか。主が命じたのでなければ、誰がこのようなことを語り、このようなことを起こしえようか。わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。

哀歌3:30~39

 

クリスチャンになっても、人生に喜怒哀楽はあり、時には試練が襲ってくるものです。それが、主の許されたことであれば、信仰によって受け入れるべきです。なぜなら、主はあなたを愛しているので、意味なく苦しめることはありません。過ぎてみれば、あなたに必要な試練であったと納得できるでしょう。私たちは、主の憐れみによって生かされているものです。人より優れているからとか、人より清いからといった理由でクリスチャンに召されたわけではありません。人間的には、説明できないので、神の恩寵によって、とか神が愛であるから、としか言いようがありません。そのような恵みの中に私たちは生かされているのです。それでも、悪魔という敵がいるために酷い目に遭うことがあります。大抵は油断をしている時にやられます。それが、あまりにも酷いことであると、クリスチャンは信仰に打撃を受けることもあります。なぜ、神は助けてくれなかったのか、なぜ、敵を撃たないのか、と疑いを口にするかもしれないのです。それは、もちろん不信仰なので、ますます、悪いことになります。ですから、主が許されているのなら、そこには意味があるので、あえて「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ」と、絶えるわけです。こんなことを長い人生を通してやってきたのです。「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか」とならないようにしましょう。

 

4月20日(日)

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、哀れみに満ちておられる方だということです。

ヤコブ5:11

 

クリスチャンは、聖書から何かを学ぼうと考えます。聖書の中に何か宝が隠されていて、それを見つけようとしているのです。真面目な人は、書かれたことを学び、それを守って行うとします。それは、良いことですが無理をするようになると破綻します。ですから、完全になるまでは、ほどほどで良いのです。しかし、神様が私たちを見ていてくださり、それぞれの個性に応じて、導き、指導しておられるのです。神様は、私たちが罪人であったものを恵みで救い、クリスチャンにしてくださったのですが、神様の救いなので完全でした。しかし、罪人がだんだん指導を受けて、良い行いを続けて、聖なる者になって行くという救いではありません。そもそも、どうやって救われたかといえば、イエス・キリストを信じて救われました。それだけです。ですから、信仰によって救われたという言い方もできます。しかし、今まで罪人であった人を信じただけで救われたというのなら、この人は、聖人になった気がしません。今日クリスチャンになっても、昨日までの罪人が忘れられるはずもありません。確かに、クリスチャンになって数日は感動の中で自分が変えられたと思うかもしれませんが、やがて、元に戻って罪人の時の自分のままだと感じるかもしれません。ですから、なんとかしなければと思い、聖書の教えを実行しようと頑張るのですが、上手くいかないことにがっかりします。それどころか、聖徒になったはずなのに罪を犯すことに驚きます。慌てて悔い改めて、今度こそはと思ってもまた罪を犯すのです。これは一体どういうことでしょうか。どうも自分の思いと現実は一致していません。これがクリスチャンの一番目の気づきです。不思議なことに、自分はちゃんと信仰生活を送れているという人が、罪を犯しているとも言うのです。神様の救いはこれほど中途半端なものなのでしょうか。そんなことはありません。キリスト教も二千年を超えて、すっかり世俗化してしまいました。ですから、クリスチャンの標準がわからなくなってきたのです。これでは、クリスチャンの魅力が見えてきません。そして、世俗化が進むにつれて、教会から人が減ってきたのです。今では、高齢者ばかりのさみしい教会が増えています。おそらくリバイバルが起こったとしても、肝心のクリスチャンの標準がわからなくなったままでは、教会に人が戻ってくることはないでしょう。今日のヨブの経験に、ヒントがあると思います。これは、自分で考えてみる必要があります。きっと、何かわかってくるはずです。

 

4月21日(月)

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

詩篇55:22

 

私たちは、信仰を持っていてもこの世で生きていれば、自然と重荷を負って生きているものです。倒れないように一所懸命に支えていても、そのままでは疲れ果てて倒れてしまいます。クリスチャンはこんな時に、今日の詩篇を思い出してほしいのです。主は、個人のことをちゃんと心配してくださいます。主にとってあなたはかけがえのない存在なのです。ですから、主に重荷を委ねてほしいのです。「主は、あなたのことを心配してくださる」お方です。それだけでもありがたいですね。ただ、私たちが心がけなければならないことは、「正しい者」であることです。これは、意外と難しいので注意が必要です。というのも、悪魔も自分を正しいと思っているのですから、私たちも自己中心になって自分を見ていないか確かめる必要があります。自分が正しいと思っていても、相手がそう思わないことだって生じてきます。そうなると、主が裁かれるので厳しいことになります。できれば、私たちはその前に、重荷を主に委ねることで難を逃れるようにすべきです。悩みを抱えたら、人に相談したり、主に祈ったりすると思いますが、主はそれにお応えになります。私たちのことを大事にしてくださるからです。ですから、悪魔につけ込まれる前に、主に重荷を任せることです。そうすれば、何よりも安全でいられます。

 

4月22日(火)

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところ来、後の雨のように、地を潤される。

ホセア6:3

 

クリスチャンの皆さんは、この御言葉を知っていますか。聖書に、「主を知ることを切に追い求めよう」と書いてあるのです。「切に」ですから、おざなりな言い方では正しい意味を言い表せません。「どうしても」以上です。まさに「生きるか死ぬか」ぐらいと言っても言い過ぎではありません。毎朝、起きたら「主を知ることを切に追い求めています」と言葉にしてみましょう。そのように、主を知ることを第一にしていると主に告げ、自分にも言い聞かせるのです。その結果は、期待以上のことが起こります。なんとなく、主がそばに来られたような気がする、と言ったような曖昧なことではありません。主の御声が聞こえたと思った、でも、自分の声なのかもしれない、と言うような不確かなことではありません。大変なことが起こるのです。朝日が昇れば誰でもわかります。大雨が降れば、それも誰でも気がつきます。それぐらいに確かに現れてくださるという約束です。そして、重要なことは「後の雨のように」と書いてあることです。それは、終末のリバイバルを表しています。聖霊が大雨が降ってきたように大量に降ってくると言うことです。それは、初めはペンテコステの時に起こりました。それと同じようなことが起こると言うことです。つまり、終末のリバイバルは、主を知ることを切に追い求めることにより、起こると言うことです。素晴らしいことが起こると期待が膨らみます。また、個人的なリバイバルのためにも、この御言葉を信じて、実践することにしましょう。

 

4月23日(水)

主はこう仰られる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」

エレミヤ6:16

 

大きな変化の時には、人は不安定になり、普通に生活をしていればいいのに、それができなくなって大混乱に向かってしまうということが歴史にはあるのに、今の世界情勢は緊迫しています。それも、たった一人の人がその騒動の原因を作っています。こんな時に、聖書はなんと教えているかと問えば、今日の聖句が与えられました。「四つ辻に立って見渡し」。私には、アメリカの広大な平原にある四つ辻が思い浮かびます。広いアメリカでは、聞く人もいない何もない平原に広い道路がどこまでも続いています。時折、交差する道路があると、車を止めて、地図を広げ自分がどこに向かって走っているのかを確かめるのです。主は、このような四つ辻に立って、「昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね」るように促しています。つまり、人間が幸福だと思える道は昔から変わらないのです。何が幸福だと思えるのかも変わりません。時代がどんどんスピードを増して変化に追いつけないような社会は、人間にとっては幸福感が薄いでしょう。確かに、便利になり、新しい発明の恩恵に預かることもできます。しかし、若い人たちは昭和レトロブームが面白いといい、ゆっくりとした時間の流れを安堵しているのです。東京のような都会に多くの人が集中し、彼らは休みになれば、田舎や自然を目指して安息を求めます。レコードやカセットが若い人には面白いものと感じられるようで、その歌詞にも共感しているようです。しかし、親が反対したので、結婚を誓った二人が泣く泣く別れる、といったような歌詞が意外と多いのです。今では結婚前に同棲して、結婚の失敗を未然に防いでいます。それほど、離婚が多くて、再婚が難しいのです。果たして、幸福の道とはどんな者なのでしょうか。神様は四つ辻に立って見渡しなさいと言っています。今一度、人生で立ち止まり、今のままで良いのか、幸福の道を考えるべきで、昔の先人たちの例から本当の幸福の道を探すことも大切なんだと考えてみるのも良いのではないでしょうか。

 

4月24日(木)

わたしは主を愛する。

主は嘆き祈る声を聞き

わたしに耳を傾けてくださる。

生涯、わたしは主を呼ぼう。

 

主は憐れみ深く、正義を行なわれる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

私の魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

詩編116:1、2、5~7

 

信仰を持つことがどんなにありがたいことか。人生には思わぬことが待ち受けています。それは、サタンの罠のように不意に訪れます。詩編には、そのようなことを経験した詩人が作った詩が多くあります。ですから、私たちは、自分だけが不運に巻き込まれていると思って孤立して苦しむことはありません。先人たちがどうやって、祈り、主はそれをどうされたかのか知ることができます。祈ることもままならず、どう祈れば良いのかわからない人も、詩編に倣って祈れば良いのです。自分の主への思いをまず祈り、自分の信仰によって祈る時に、主は必ず聞いてくださることを告白し、自分の今までの信仰生活で主を呼んで、幾度も助けてくださったことを思い出し、主への信頼を言葉にするのです。主は、あなたに対しても憐れみ深く、情け深いお方です。あなたのために必ず正義を行ってくださいます。主は、私たちを見ておられるので、「弱り果てたわたしを救ってくださる」のです。主の救いは完全ですから、平安が心に戻ってきます。それは、魂にまで達し、ようやく安心することができます。「主はお前に報いてくださる」と書かれた通りになさいます。ですから、自分で何かをすることもありません。信仰者は特別なのです。

 

4月25日(金)

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

ローマ15:2

 

クリスチャンのいいところは、友人にするには一番の人であることです。なぜなら、クリスチャンは今日の御言葉の通りにしようと意識しているからです。隣人を喜ばせようと考えている友人はありがたい存在です。しかし、クリスチャンでなくてもそのような人はいるかもしれません。では、次の「その徳を高め」ようとする人はどうでしょうか。まず、いません。人間が豊かな人生を送るためには徳がとても大切なのです。お金をどんなに儲けても、徳のない人はつまらない一生を送るのです。なぜなら、徳はその人自身の価値を高め、また多くの人の心を正しくします。とても質の高い幸福を皆が味わいます。さらに、クリスチャンは隣人である「その人の益となるようにすべきです」。利己的な人は嫌われます。しかし、利他的な人は感謝されます。自分のことよりも相手ことを優先して考える人は、得難い友人です。このような人は信頼できます。多くの人は自分ファーストですが、クリスチャンは違います。自分と関わる人の益を考えています。しかも、考えるだけでなく、「益となるようにすべき」と聖書に書かれているので、その分努力します。相手に伝わるかどうかはわかりませんが、いつでも益になるようにと考えているのです。クリスチャンがいつの時代にも尊敬されている理由がわかりますね。

 

4月26日(土)

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

Ⅰヨハネ1:7

 

この世で生きている限り、クリスチャンも大変です。それでも、聖書を学び、教えを実践して、祈りの生活を続けるなら、だんだんわかってくることがあります。例えば、今日の聖句でも、「神が光の中におられるようように、私たちも光の中を歩んでいるなら」とわかりそうでわからない「光」が出てきます。しかし、信仰生活を送って行くとさまざまな恵みを経験して、ごく普通にキリストを信じているだけで聖霊が働き成長させられます。そして、例えば「光」を「イエス様」と置き換えて、正解を経験します。不思議な表現ですが、サタンが介入できない世界です。信じるということが、キリストの内にあるという状態を意味し、それは「互いを愛し合う」という「互いに交わりを保ち」という神の国の新しい世に生きる経験へと繋がります。ですから、御子の血が全ての罪から私たちをきよめることができるのです。これが光の外にいる人には理解できないのです。

 

4月27日(日)

神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。

ヨブ5:19

 

クリスチャンが成長する過程で、苦しみは避けることができないものです。あなたはどうでしょうか。私たちは、元々は罪人でしたが、主イエス・キリストの恵みを受け、悔い改めへと導かれ、罪の赦しと贖いを経験しました。しかし、試練となったその苦しみは、いかに大きなものであろうと神様があなたを救い出してくださいます。信仰が成長すれば、神様を恐れるようになるので、災いからも解放されます。今日の聖句で大変興味深いのは、神様は信仰者が成長する過程で、六つの苦しみを容認しているということです。実際には、そんなにたくさんの試練に遭うことはまずありません。それでも、ヨブほどの立派な信仰者は桁外れの災いに遭いました。この背後には悪魔がいて、ヨブを試みるようにと神様に迫ったのです。このような事例があれば、クリスチャンは信心深く生きて、試練を避ける必要があります。そうは言っても、色々な人間がいるのですから、六つの苦しみを受ける人もいるかもしれません。それでも、七つ目の災いはその人に触れないと約束されています。ですから、どんなに主に試みられたとしても、その数が7回に及ぶことはないのです。これは、ありがたいことですね。人生は長く、信仰はなかなか成長しないとなれば、同じ過ちを繰り返すことが想定されています。それは、列王記などを読めば明らかです。ですから、モーセやヨシュアのように例外となるような立派な信仰者はいるでしょうが、その偉大さを考えると、普通の人は主に従順でなければ、危険が待ち構えていて、避けることができないということになります。ですから、聖霊の助けを求めて、主に従順な者となれるように祈る必要があります。七は完全数でもあるので、完全な災い、つまり人が耐えられないような最終的な滅びを与えるような災いが考えられます。さすがに、クリスチャンにはそれは無いということでしょうか。信仰を持っていない人は、危険であるということになりそうです。まずは、自分が主に従順な者となれるように信心深く生きて行きたいですね。

 

4月28日(月)

主を愛する人は悪を憎む。

主の慈しみに生きる人の魂を主は守り

神に逆らう者の手から助け出してくださる。

神に従う人のためには光を

心のまっすぐな人のためには喜びを

種蒔いてくださる。

神に従う人よ、主によって喜び祝え。

聖なる御名に感謝をささげよ。

詩編97:10~12

 

クリスチャンは、洗礼を受けた時に神の子にしていただいていますが、信仰がそれに追いつかずに、この世の常である否定的感情に飲み込まれてしまう傾向があります。随分と損

な考え方だと思いますが、聖書を調べなければ、理解が難しいのです、そのことを良いことに悪魔はクリスチャン攻撃を仕掛けるのです。この世で生きていると理不尽な目に遭うこともありますが、「神に逆らう者の手から助け出してくださる」と書かれている通りです。私たちは、主によって魂レベルの守りを受けています。クリスチャン人生は恵みに満ちています。なぜなら、主に従順なので光の中を歩ませてくださいます。また、邪悪なことを考えずに、心のまっすぐな人には喜びを種蒔いてくださる、というのですから、絶えず喜んで生きることができるのです。このように生きているので、神様に感謝をささげるようになります。主を愛することはクリスチャンの特徴です。それは、同時に悪を憎むことになりますから、正直で正しい道を歩む人になります。クリスチャンが幸せな理由がわかりますね。

 

4月29日(火)

私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。

詩編119:59

 

信仰を持って生きると決めた人は、時々は立ち止まって自分の道を顧みる必要があります。この世で生きている以上、世俗の影響は避けることができません。また、独りよがりの信仰に陥ってしまうことだってあり得ることです。また、何のための信仰か見失っていることもあり得ます。そのために、礼拝を守ったり、聖書を読んで学ぶことも必要です。祈りは、日々必要なものでしょうが、祈りを呼吸ように考えた達人も過去にはいました。自分では正しいと思っていても、それでも間違えることがあるのが人間です。自分を基準に考えれば危ういのです。そこで、主のさとしを求めるわけです。これは、あなたと主のやりとりです。ですから、あなたが納得の行く方法で主は応えてくださいます。しかし、あなたが聞く気がなければ、主は応えることはないでしょう。ですから、へりくだって、主を畏れ、さとしを求めます。そして、さとしを得たなら、それを受け入れます。つまり、生き方を変えるということです。もし、つまらない意地を張っているのなら、それは滅びにも通じかねないのですから、肉の思いを捨てて、聖霊の助けを求めて自分の生きる方向を変えるのです。クリスチャンには、このような大きな経験があるものです。全てが良い方向へと導かれますように。

 

4月30日(日)

主、わが力。私は、あなたを慕います。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主

身を避けるわが岩、わが神。

わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると

私は、敵から救われる。

詩編18:1~3

 

初めて詩編を読んでいた時には、このような表現がよくわかりませんでした。ただ、日本語でも、詩としては響きがよく、そのように主を比喩的に表現するのだと理解しました。それから、月日が流れ、主を理解するようになってくると、これらの表現がふさわしいと気がつきました。たとえば、私たちクリスチャンにとっても、「主、わが力」と読めば、力が湧いてきます。自分の力で張りません。主が私の力になるのです。ですから自分が弱っていても、落ち込んでいても、この御言葉が私にもう一度、力を満たしてくれるのです。私のような者を主が大切にしてくださり、力付けてくださるのですから、ありがたいですよね。それで「私は、あなたを慕います」と心の声が出てくるのです。敵が圧倒的に優勢で攻めてきても、「主はわが巌、わがとりで」と唱えれば、浮き足立っていた足をしっかり立たせる不動の巌が敵の攻撃を完全に防いでくれます。そして、私を守るための砦となって、安全を主が保証してくださるのです。主のもとにいれば、何も恐れることはないと安堵できます。このように主は「わが救い」なのです。誹謗中傷、恐れや不安と立て続けに矢を敵がいかけてきても、「身を避けるわが岩」となって、それらから被害を何一つ受けなくてもよいように主の守りは堅いのです。主は目には見ることができませんから、敵は主を侮って私たちの弱さを見て、カサにかかって攻撃してきます。しかし、「わが救いの角」とあるように、力の象徴である角をつかんで、私たちは力を受けることができます。敵が怯むぐらいの力です。主は「わがやぐら」です。櫓に登れば、敵がどれほどであるか、どこに弱点があるか、陣形はどうなっているのか、何もかも見渡せるのです。ですから、もう恐れることはありません。敵がどうなっているのかわからないので恐怖から敵に負けてしまっているのですが、それが主を頼れば、決して恐れることはない敵の姿を見ることができるようになります。このようにして、私たちを守ってくださり、勝利を与えてくださる主をほめたたえずにはいられません。では、これらかのことを理解したなら、あなたは「この主を呼び求めると、私は、敵から救われる」と確信できるのです。ハレルヤ!