
10月27日(月)
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
エレミヤ29:12、13
クリスチャンになってから祈ることが、いかに大切か教えられるはずです。それは、人間は放っておくと神に祈らない者だからです。わざわざ時間を割いて祈る時を設ける人は、幸いです。この世は悪魔の支配する罪の世界なので、祈ることを悪魔に妨害されると思っていてください。祈る人の悩みは、祈っているうちに他の事を考え始めて、祈りを忘れてしまう事です。私たちは、それほどこの世のことで心を煩わせているのです。ですから、神への集中が課題となります。語りだけの祈りでよければ、主の祈りを唱えればいいのですが、それでは祈ったと思えないのです。また、自分は祈りが下手です、と言う人がいて驚くことがあります。人前で祈る時には、恥をかきたくないので、立派な祈りができるかどうかが気になる人もいます。初めは、確かに礼拝などで祈りを頼まれれば、緊張するし、うまく祈れないと尻込みするでしょう。しかし、慣れすぎた祈りというのもどうでしょう。人を気にして祈るのか、神へ心を注ぎ出して祈るのか、こうした違いがあるのです。エレミヤ書の通り、神は神を求めて祈る者なのですね。クリスチャンの目標が神に近づくことであり、神を探し求めることなのですが、そうすれば神を見つけることができるのです。これが究極的な祈りなのです。よく祈っている人の祈りは、神へ近づく祈りなのです。あなたを愛し、完全に救ってくださる神は、あなたに優しく、いつでも慈しみ深いのです。あなたが初めて安心できるのが神を見つけた時です。その時、自分が何者なのかもわかるからです。偶然にキリストを信じるようになったわけではありません。あなたは主に選ばれているのです。そして、あなたが考える以上に神はあなたと会いたいのです。キリストのおかげで、天に帰る前にこの地上であなたは神を見つけるでしょう。

10月26日(日)
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
第二テサロニケ5:9、10
このような神が他にいるでしょうか。私たちを救うのは、無可能と言えるほどに困難なことでした。神にしかできないことでした。しかし、神は全宇宙の正義なのです。誰が見ても聞いても、神は正しくなければならないのです。それだけではなく、神は愛なのです。それも、自己犠牲の愛で愛する神なのです。神がアダムを創造された時、神は愛なのでアダムは初めから愛されていました。アダムが正しいから愛したのではなく、神はアダムをありのままに愛されたのです。アダムはそれでも罪を犯しました。神の信頼を裏切ったのです。その子孫が私たちなのです。ですから、望みがなさそうです。ところが、神は罪人を救うことを決意し、御子イエスを救い主としてこの世界へ送られました。しかも、人間としてです。私たちが律法によって罪人であることが明白になるので、人間には守れない律法を神は授けたのではないかと思うほどです。ところが、御子イエスは、律法を完全に守られたのです。それは、罪の無い人間だけが罪人の身代わりに罪の罰を受けることができたからです。このように、イエスは神の意を受けて遣わされたキリストだったのです。それなのに、祭司や律法学者は、イエスがキリストであるとは認めずに、イエスが律法違反者であると罪に定めてしまいました。それは、彼らが偽善者でイエスこそが律法そのものであったのに、その真の律法であるイエスを自分たちの考えた律法の違反者だと裁いたのです。とんだ茶番劇ですが、ユダヤ人はローマ人を頼ってイエス・キリストを十字架にかけて殺したのです。しかし、十字架上のイエスを見ると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19:30)とあるのです。つまり、救いを実現するために来られたキリストの働きがこの十字架で完成したと言っているのです。では、キリストは、何を成し遂げたのでしょう。その答えが今日の聖句です。私たちが「主と共に生きるようになるためです」。この真理があるので、私たちは、何も恐れず、一人ぼっちになっても、どんな困ったことが起こっても、決して孤独ではなく、いつでも主の慰めを受ける者なのです。ですから、今日も上を向いて明るく生きて行きましょう。
