9月13日(土)
主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り
聖なる山に住むことができるのでしょうか。
それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
心には真実の言葉があり
舌には中傷を持たない人。
友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
主の目に敵わないものは退け
主を畏れる人を尊び
悪事をしないとの誓いを守る人。
金を貸しても利息を取らず
賄賂を受けても無実の人を陥れたりしない人。
これらのことを守る人は
とこしえに揺らぐことがないでしょう。
詩篇15:1~5
あなたはこの詩篇を読んでどのように思ったでしょうか。この通りに生きてみようと思ったでしょうか。あるいは、この通りに生きていると胸をそらしたでしょか。それとも、このように生きたいのにうまくいかないと俯いてしまうでしょうか。もちろん、私たちの理想とするクリスチャンの姿がここには描かれています。意志の強い人や頑張ることができる人は、この通りに生きていると言うかもしれませんね。しかし、よく考えてみてください。キリストは、この後に登場するのです。しかも、十字架にかかりました。パウロは、「正しいものはいない。一人もいない」(ロマ3:10)と断定します。そこが問題なのです。私たちは、意識して今日の御言葉の通りに生きようとするでしょう。しかし、この社会はなかなかそれを許してくれません。そこで、クリスチャンには鍛錬が長い期間必要となるのです。ですから、この世で辛い思いをしても神様のせいにしないでください。自分で自分がダメだと思っているのに、責任転嫁して神様のせいにするのも人間なのです。それでは、希望が無くなってしまいます。イエス様がなぜ来てくださったか、その理由がわかりますね。私たちは、いくら頑張ってみてもしれているのです。肉に罪が宿っている者だから、外見を綺麗に装うことができますが、内面は汚れているのです。だから、イエス様が探しに来てくださって、優しく諭してくださったのです。十字架を見上げなさい、と。自分を正しい人と思い込んで、この詩篇の通りに実行しても空しいのです。できたと自分を誇ってみても、偽善に過ぎないことが示されるからです。しかし、私たちは、イエス様に出会い、自分が罪人にすぎないと分かったのです。それだけでなく、救いの道も示されました。ですから、十字架に辿り着き血を流して苦しむイエス様を見せられたのです。そして、イエス様を信じました。ですから、今は神様との平和を味わい、信仰で生きることを学んでいるのです。あるがままに救われたので、自分をよく見せようと思わなくて済みます。聖霊の導きと助けを受けて生きていけば大丈夫です。元気に生きて行きましょう。
9月12日(金)
わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
詩篇32:8
人生は、決まったレールの上をただ進むだけのものではありません。どこに、挫折が待ち伏せているか、どこにチャンスが待っているのか、私たちはには見えないから、明日も今日と同じだと漠然と思って電車のように走っているのです。しかし、あなたの人生を振り返ってみて、何かやり残したことや、もっとああすればよかった、などと後悔がないでしょうか。人生を一からやり直すことは難しいですが、こんな人生で良かったのかと心が騒ぐなら、今日の御言葉を読んで考えてみましょう。また、今の人生が結局良いと思えるなら、そのまま進めば良いのです。ただ、ある日、進むべき人生に迷いが生じたら、今日の御言葉を思い出し、神に頼ってみましょう。私たちは、クリスチャンなので、聖書の御言葉をそのまま信じて受けることができます。ですから、思い煩わずに主を信頼していましょう。私の人生を振り返ると、この御言葉の通りだと思うのです。初めから牧師ではなく、途中から牧師になりました。青年の時に牧師になりたかったのですが、すぐにはなれませんでした。また、神学や聖書学などキリスト教の勉強は許され、気がつけが博士課程まで学ばせていただきました。それから、大学院の教授にもなりました。しかし、他の法律とか神様と関係のないものを学ぼうとしても、一切道が閉ざされてしまうので、聖書だけ牧師だけが主の御心で、「行くべき道を教えよう」と御言葉の通りになりました。ですから、「行くべき道」なので外国に行ってもどこに行っても、困ることはなかったのです。主は、「あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」とお語りになりました。ですから、心が迷うような時には、静まって主の御前に出てみましょう。きっと、「わたしはあなたを目覚めさせ」とあるように、道が見えてくるはずです。主のお導きを信じましょう。