10月1日(水)
わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
詩篇32:8
私たちは、自分が何になれば良いのかわからずに、行くべき道を見つけることができない者のようです。時代や環境や国によって職業選択の自由がない人たちも大勢いました。逆に、日本のように憲法で定められていても、そもそも自分が何になればいいのか分からないと思っている人は多いのです。全員、農業とか家業を継ぐとか決められれば考えなくていいかもしれませんが、自分の適性と合わなければ嫌気がさすでしょう。一芸に秀でた天才なら、わかりやすいでしょうが、それでうまく行く保証はありません。中学の友達は公務員になりたいと言っていました。それは定時に帰れるからだという理由でした。高校の友達は、医者になると言い切っていました。別の友達は芸大を目指していました。獣医になると言っていた小学校の同級生は本当に獣医になりました。面白いことにサラリーマンになりたいという人はいなかったのです。大半がサラリーマンになったのにです。若い時には、社会のこともわからずに仕方のないことですが、今のように転職が当たり前の時代になるとも思っていませんでした。江戸時代に生まれたのなら、どの家に生まれて来るかで人生は大違いでした。しかし、どのような境遇に生まれてきたとしても、自分を生きるしかないのです。幸い、クリスチャンは聖書が与えられ、道を求めている時にも、今日の聖句にあるように、「悟りを与え、行くべき道を教えよう」と神の御声を聞くことができます。大勢の人間がいても、あなたは神にとってその他大勢ではないのです。ただ一人の大切な人として、「目を留めて、助言を与えよう」と言っていただけるのです。そのことを知っているだけで、私たちは人生を自信を持って生きていけます。何になればいいのかわからない人も、悟りが与えられというのなら、神に祈って悟りを与えてくださいと率直に言えばいいのです。「『行くべき道』を教えてください」と祈るのです。その答えは自分の願いと違っているかもしれません。しかし、満足する結果が待っているはずです。人生はいつでもチャンスが待っているのです。信仰を発揮して、充実した人生を生きて行きましょう。
10月2日(木)
神、その道は完全。
主のみことばは純粋。
主はすべて彼に身を避ける者の盾。
詩篇18:30
神を信じて生きる道は完全です。この世は、情報化時代になって、情報洪水のようになってたった一つの真理が多くの偽真理の中に埋没してしまうように働いているかのようです。生活が昔よりも遥に安定し、グルメ情報が氾濫しているほど平和なのです。ですから、人間関係の悩みでもストレスの解消法でも、美容でも何でも誰かが答えてくれます。昔の人のように神に頼る必要がなくなってきたのです。しかし、それで良いかと言えば、罪による滅びの道を辿っていることに違いはありません。恐ろしいことなのですが、この世は知らずに昆明に陥っているのですが、気づくことができません。それは、まるで豪華特急列車に乗って、豪華な食事やスイーツを食べ、高価な飲み物も全て飲み放題で、ゲームも映画も観ることができるので、乗客は喜び、笑っていますが、この列車には問題が一つあって、それはブレーキがないということです。つまり、とんでもないスピードを落とすこなく終点の駅に突っ込むのです。誰一人生きていられません。この道は間違っているからです。しかし、神は救いの道を与えてくださり、イエスをキリストを信じる者を救うとお決めになっています。しかも、キリストを信じて進む道は完全なのです。この道を迷わず歩むには、御言葉が必要です。この御言葉は哲学者の言葉とは違い、誰でも理解できるものです。聖書は難しいと言う人がいますが、それは、御言葉が純粋だからです。私たちが複雑に考えるので、捉えきれないのです。純粋であれば、そのまま信じればいいだけです。それができないのは、肉が邪魔をしているからです。肉は欲と同じと考えれば、わかりやすいですね。欲があれば、悪魔は誘惑してきます。それを避けるには盾がいるのです。「主はすべて彼に身を避ける者の盾」とありますから、やはり信仰によって、主のもとへ避難すればいいのです。主が盾となって守ってくださいます。信仰はシンプルです。複雑に考えないように気をつけて、御言葉に学べば救いの道を踏み外すことはありません。
10月3日(金)
主は青銅の扉を破り
鉄のかんぬきを砕いてくださった。
詩篇107
若い時に読んだ本の中に、この聖句が出てきました。それは、アメリカの有名な牧師が日本に招かれて来日することになり、その時に見た夢か幻か、今では詳細を覚えていませんが、とにかく、彼が見たものは空から日本列島を見ているのです。そして、気がつくと日本列島の上空に大きな青銅の扉があって、鉄のかんぬきによって閉じられているのです。そして、さらに近づいて見ると、その青銅の扉の外側、つまり日本列島と反対側に近づくと音が聞こえるのです。それは、鉄のかんぬきを砕いて扉を開けようとしとしている叩いている音だったのです。そして、わかってきたことは、この音が世界中の教会が日本伝道のために祈っている祈りが「かんぬき」を砕こうと叩いている音だったのです。日本伝道は世界一難しいと言われているのは有名で、何か目に見えないもので閉じられているようだ、と思われていたのですが、それが、この青銅の扉だったのです。それを打ち叩いて壊そうとする世界中のクリスチャンの祈りであるということに感銘を覚えました。さらに、その青銅の扉を見ていると、上から下に降りて行き、青銅の扉の下側、つまり日本列島側からのぞいて見ると、なんと、こちら側は音が聞こえないのです。それは、日本の教会が伝道のために祈っていないということです。たまに音が聞こえるのは、思い出したように、祈る人がいるのでしょう。これでは、この青銅の扉は壊れないのです。両側から叩いて打ち壊すしかないのです。このような夢を見たとアメリカ人の牧師は本に書いていました。ショックな話ですが、これは本当だと思ったものです。日本の教会の祈りが足りないということは、多くの人が感じていたことです。伝道の難しさに、あきらめてしまったような感じがあるのでしょう。「ジリ貧」という言葉がありますが、まさに今のキリスト教会はかなりまずいところまで行っています。これでいいとは誰も思っていないでしょうが、今日の聖句には希望があります。主が「鉄のかんぬきを砕いてくださった」とあるからです。ここに希望があります。キリスト教を必要とする人たちは日本にもたくさんいるはずです。そのために、私たちも日本をおおう大きな青銅の扉が破られるように祈り続けましょう。
10月4日(土)
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマ8:38、39
結局、私たちの信仰は、主キリスト・イエスが示された神の愛によっているのです。罪をいくら責めてみても、そこに良いものが芽生えることはないでしょう。しかし、神の愛は人間にとってまったく意外なものでした。現代人にとって愛がわからないという人は稀なことで、何かしらの事情があるのですが、多くの人々は愛を良いものと認識しています。しかし、その愛も裏切ることができるようなものなのです。例えば、愛と言ってすぐに思い浮かべるのは「夫婦の愛」「親子の愛」「恋人の愛」「師弟の愛」あるいは「友情としての愛」など、愛も実は色々種類があるものです。ところが、「夫婦の間でどちらかが裏切る不倫」などが起こるのです。夫婦といっても所詮は他人、と決めつけ離婚することもあります。それに比べ、親子は血が繋がっているから、と言っても子供を虐待する親や子供を捨てる親もいるのです。こうした愛が続かず、壊れやすいのは、罪が原因です。無条件にありのままに愛されたいのに、それをかなえることは簡単ではありません。しかし、クリスチャンになった方々は知っています。無条件にありのままに愛してくださる神がおられることを。その愛はイエス・キリストによって示されました。その愛に触れてしまったのです。主に愛されて、すっかり何もかも変わってしまいました。人間につまずくことはあっても、主イエスにつまずくことはありません。信仰の旅路を辿って歩み続けると、何度もイエス・キリストから引き離そうとする力が働きます。そこで、イエスから離れてしまえば、無条件に愛される事実から自分を切り離すことになるのです。人間は愛されなければ生きていけないのです。しかし、人間はただでは愛してくれません。条件付きなのです。でも、イエスは無条件に愛し続けてくださいます。主の愛情があるので、私たちは満たされ、元気に生きているのです。この神の愛は、永遠に私たちの価値を証明するものなのです。
10月5日(日)
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
コロサイ3:15
教会の素晴らしさは、キリストを頭として教会員たちはその体として一体となることです。一人では弱く大きなことを成し遂げることが無理でも、教会員が一つになれば話は違ってきます。可能性が出てくるのです。そこで、教会員は導かれた教会でキリストの体の一部になったと理解するのです。そのためには、互いに愛し合う必要があります。他を生かすために自分を犠牲にすることすら起こるのです。このような教会は、個々人がキリストと結び合っていますから、やがてそれぞれがキリストのようになることも理解できます。個性を失うことなく、召されてクリスチャンになった人たちの教会と自分も一つになり、それゆえにキリストとも一つになれるのです。このことを実現するには、「キリストの平和が、あなたのがたの心を支配するようにしなさい」。「そのためにこそ」と続いていますから、一体となることの意味が繋がっているのです。そこで、クリスチャンは、キリストの平和が心を支配するようにします。これは、キリストの十字架の贖いによる罪の完全な赦しと清め、神との和解、肉に対する死、罪によって死んでいた私がキリストの復活にあずかり、共に復活すること、自分を捨て自分の十字架を負って主に従う主への従順、そして、神の子としていただきキリストと共に天の王座についたことにより、神との平和を得ているのです。その平和があなたがたの心を支配すること、それは悪魔の誘惑にもよろめかず、神の御言葉を信じ、キリストを信頼することです。それは、神の子とされたことを信じ、神の子への天からの恵みを受け取ることです。また、この世にありながら、すでに神の国に生かされていることを信じることです。それを教会員同士で励まし合いながら実現するのです。さらに、この信仰からそれないように「感謝の心を持つ人になりなさい」。このことを実践するのは、すべての教会員です。各自の役割があるはずです。
10月6日(月)
神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。
詩篇68:6
あなたは人から「頑固」と言われたことがあるだろうか。昔から職人のように技能を問われる仕事では、一切の妥協を許さない仕事ぶりが高く評価されてきた。そのような腕のある職人は大抵「頑固」と言われていた。それは、良い仕事は自分との戦いであって、自分が妥協した時点で、その作品の質は並になってしまうのだ。だから、一切の妥協を許さず、最高のものを作り上げるのは決して悪いことではない。しかし、「頑迷」というのはそのようなものとは違い、悪い意味しかない。信仰においても、自説にこだわり、教会が守ってきた伝統的なものを軽視して尊ばず、聖書も勝手な解釈で自分流を貫く人は人の意見を聞かない。自分の説が正しいというのなら、それを証明しなかればならない。そのために、多くの賢者の教えや教会が守ってきた教えを謙虚に聞く姿勢が必要になる。また、原語の聖書を研究する必要だって生じるはずだ。頑迷な人にはそうした謙虚さがない。それは、教会を危険に追い込むので、やめなければならない。私たちは、教会を大切にして兄弟姉妹の声を軽視しない。私たちは一人では弱いが、兄弟姉妹の愛情ある意見は心強く助けになる。この世では、実の兄弟でも疎遠になっている場合があるが、教会の兄弟姉妹は本当の兄弟姉妹のように親身に心配してくれるし、心強い支えにさえなってくれる。だから、頑迷になって兄弟姉妹を遠ざけてしまう人は「焦げつく地に住む」と言われてしまうのだ。どのような人の意見にも耳を傾け、謙虚な心で聞けば、自分を助ける力になるものだ。しかし、頑迷だと真実も見えずに、誤った判断をください、人を傷つけ遠ざけるし、人からの賞賛を得たいのに、反対に冷ややかな目で見られるようになる。そこあるのは、焦燥感だけだ。だから、自分は歳と共に謙遜な人間になっているのか反省してみる必要があるだろう。角が取れてまるくなったと言われるようになればいいセン行っているということだ。
10月7日(火)
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇37:5
クリスチャンの信仰の道も、今日の御言葉の通りです。罪人の時には、自分の思い通りに生きようとしていました。しかし、この世では、そうそう自分の思い通りにはなりません。それでも、他に賢い方法を考えることもせずに、自分の思い通りになると「ついている」と言い、自分の思い通りにならないと「ついていない」と言うような者だったのです。さらに、成長すれば、もう少しマシなことを言いますが、本質が変わらないので、結局、空しいものです。しかし、クリスチャンになったので、「私が、私が」と我を張っていた生き方は流石にできなくなりました。ただ、その残骸が残っているので、時々失敗するのです。クリスチャンであれば、誰でも主の助けと導きを受けられます。そこで、自分の人生は主にゆだねようと決めることです。一度決めたら揺るがないようにします。それは、試みられるかもしれませんが、肝心なことは「主に信頼せよ」です。例えば、何かの資格を取ろうとか、職業のことで思い煩うことがあります。そのような肝心な時に、どうしてか「主に信頼せよ」を忘れてしまうのです。そうなると、自分の力で頑張らねばなりません。力が足りなければ、目的を達成することはできなくなるでしょう。しかし、主に信頼しておけば、うまく行ったかもしれないのです。ここで、信仰問題が出てきます。自分は本当に主を信じて、信頼していたのだろうか?できれば、こんなことを考えずに済めばいいのですが、私たちは人間的過ぎてしまうことがあるのです。それらは、不信仰を表す言葉「恐れ」「心配」となって出てくると、主への信頼は揺らいでしまいますから、問題です。一方、この御言葉の通りになれば、あなたの力ではなく「主が成し遂げてくださる」のです。クリスチャンが勘違いしやすいのは、「自分が成し遂げなければならない」と無意識に思っていることです。それは、日頃、自分で何でもやり遂げていることからわかります。有能なのです。しかし、これは、「主が成し遂げてくださる」の反対になってしまうので、注意しなければなりません。主が成し遂げておられるのなら、その時、私はどうしているか、と考えてみるのです。もちろん、最善を尽くして誠実に生きることはクリスチャンの美徳です。しかし、それで何かを成し遂げたときに、「主が成し遂げてくださった」と思うかどうか。自分がよく頑張ったと思っているかもしれません。そもそも、どこで間違って行くのか? それは、始めだと思います。「あなたの道を主にゆだねよ」です。そこがしっかりできていれば、問題の発生自体無いでしょう。「主に信頼せよ」は信仰者の課題です。このように信仰が整ってくれば、主はあなたのために働くことができるので、「主が成し遂げてくださる」という結果になります。
10月8日(水)
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
ヘブル13:5
クリスチャンになってから、順調に日を重ねることはありがたいことです。しかし、本人にとって試練と言いたいことが無いとは言えないのが普通です。ただ、この世の人に起こる試練とクリスチャンに起こる試練が同じようなものであったとしても、それに対して、どう対応するかは大きく違っています。これは、クリスチャンでない人でも、その試練を通して成長したり、自分の弱さを克服したり、自分の欠点を直したりとプラスに変える人もいるのです。そういう点ではクリスチャンも同じです。もちろん、両者共に試練に負けてしまう人もいます。マイナスに取ってしまったのですね。試練の良いところはいつまでも続かないということです。いつか終わりがあります。ですから、試されていたと言えるのです。では、クリスチャンの場合、良いところは何でしょう。それは、今日の聖句にある通りです。クリスチャンには主が共におられることです。しかも、心の友のように、あなたが一人で心細く震えていることが無いように、あなたのそばを離れないのです。あなたが弱音を吐こうが、もがいた挙句に主に文句を言おうが、信仰が弱って逃げ出そうとしようが、主はあなたを見捨てません。これは、主ご自身が言われたと聖書に書いてあるのですから、絶対です。それほどまでに、あなたには究極の味方がいるのです。ですから、大変な時、すっかり弱ってしまった時、自分はダメだと思った時ですら、希望があるのです。ですから、あなたは何が起こっても大丈夫なのです。歳をとって弱ってくれば、試練すらないでしょう。何か困ったことがあっても、あなたの信仰でちゃんと乗り越えていけるように、主はあなたを整えてくださったはずです。ただ、主を信じているだけで、幸福に暮らしていけるのです。ありがたいですね。
10月9日(木)
あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。
詩篇55:22
人生の重荷は知らず知らずのうちに背負っているものです。いろいろな事情がありますから、どうして重荷を負うことになったのかはここでは考えません。ただ、人生が苦しくなるような重荷を負っているのなら、自分一人で背負い込まずに、今日の御言葉を信じて、主にゆだねることです。それができるまで、何度でも「あなたの重荷を主にゆだねよ」と言い続けることです。真面目な人ほど、ためらうからです。「自分のせいだから」「自分が悪いから」「これは自分の責任なのだ」と思い詰めているかもしれませんが、それは良い考え方ではありません。「自分の分」というものがあるのです。一生懸命に生きてきたはずですから、それはよく頑張ったと認めてあげた方がいいのです。大切なことは、あなたは一人で生きているわけではありません。「主は、あなたのことを心配してくださる」とある通りなのです。あなたがクリスチャンであることは、素晴らしいことです。なぜなら、今日の聖句の最後に「正しい者」と出てくるのは、クリスチャンのことなのです。人間はすべて罪人なので、救いが必要です。その救いは、イエス・キリストを信じることで得られます。ですから、あなたはその救いをすでに得ているので、「正しい者」と呼ばれているのです。その「正しい者が揺るがされるようにはなさならない」と書かれたことを自分に当てはめるのです。そして、信じるのです。御言葉の通りになると信じるのです。そうすれば、もう悩まなくなります。困るようなことが起こっても、何もしなくても解決して行くので、結局困ることはなくなります。主が約束を守られているとわかるととても嬉しくなります。その時、感謝を忘れないことです。主の御名をほめたたましょう。
10月10日(金)
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
ルカ6:46~49
イエスの譬え話です。クリスチャンなら知っている有名なお話です。説教でも何度も取り上げられている箇所です。しかし、この話を読むか聴く者には、大きな決断が迫られているのです。「さて、あなたはどちらか?」と。結果がわかっているのに、しかもイエスが直接話されたのに、聞き従わない人がいると言うことです。近頃、地球温暖化のニュースをよく聞くようになりましたが、映像でも世界の各地で洪水被害が甚大であると悲惨な状況を見せられています。その時に、この譬え話を思い出す人もいるでしょう。ニュース映像を見て、途方に暮れている被災者を見て気の毒に思うでしょうが、自分の霊的問題を考える人がどれぐらいいるでしょうか。主の言葉を聞き、それを行う人は、岩の上に家を建てた人に似ていると言うのです。「洪水」に例えられる人生のいかなる困難も自分を打ち倒すようなことにはならないと言うのです。「家」はその人の人生そのものを意味します。「岩」はキリストのことです。イエスの言葉を聞いても行わない人は、人生の試練が襲ってきた時に、倒れてしまい、人生そのもが酷いことになってしまうと言うのです。クリスチャンは、イエスの言われたことを守っているでしょうか。それとも守っていないでしょうか。各自が自分を吟味しなければならなのです。
10月11日(土)
主は言われた
彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
そして主は彼らの救い主となられた。
彼れの苦難を常にご自分の苦難とし
御前に仕える御使いによって彼らを救い
愛と憐れみをもって彼らを贖い
昔から常に
枯れらを負い、彼らを担ってくださった。
イザヤ63:8、9
私たちが信じる主は、今日の聖句を読めば明らかなように、私たちの救い主となってくださった。主は、神であられるのに、私たちを遠くから眺めているだけのお方ではなく、なんと、私たちの苦難をご自身の苦難とされるような情の深い肉親以上の神なのです。また、力がある神なので、御使いを送り私たちを最も良い方法で救ってくださるのです。それは、愛と憐れみであって、驚くことに主が私たちを贖ってくださるのです。聖書の昔から今日に至るまで、誠実な神は、聖徒を子のように背負い、彼らを担ってくださるのです。さて、神を信じる者たちは、これほどよくしてくださったのに、次の節で「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた」とあるのです。これは古代のイスラエルの民だけでしょうか。現代に信仰を持って生きる私たちは大丈夫でしょうか。聖書を読んで、このことを覚え気をつけなければなりません。なぜなら「主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」とあるからです。このようなことにならないように、教訓を活かしたいと思います。主に忠実でありたいですね。
10月12日(日)
主は、私の光、私の救い。
だれを私は恐れよう。
主は、私のいのちのとりで。
だれを私はこわがろう。
詩篇27:1
人間が生きていけば、喜びや楽しみもある一方、時には悩み、悲しみ、涙を流す日もあります。できれば、そうした悩みの日が来なければ良いのですが、そうも行きません。そこで、クリスチャンは信仰で乗り切ることを考えます。まずは、自分と神との関係を振り返るわけです。強い信仰は神との関係が良いことから来るからです。一番はイエス・キリストを信じて救われたこと。それは洗礼を受けたことが証明しています。また、日々の信仰の歩みに神が関わっていてくださり、心の支えとなり、助けとなり、希望となってくださるのです。信仰には暗さがないのです。それは、いつでも主があなたの光だからです。私たちは、自分の信仰を誇れるぐらいに立派であれば良いのですが、そうも行きません。ところが、たとえ失敗しても主に赦され、自分の弱さの故に窮地に陥る時に、主は助けてくださるのです。悪魔がどんなに私たちの罪を責め立てても、キリストの十字架が私たちを救うのです。このような素晴らしい主が共におられるのに、「だれを私は恐れよう」。私たちは信じて救われたのです。その救いは、ちょっとやそっとでは無効になりません。たとえ、人生の嵐の日が来ても、「主は、私のいのちのとりで」なのです。どんな強い人が私たちを倒そうとしてもできません。主の守りがあるからです。そうであれば「だれを私はこわがろう」。このキリストの道を歩む、兄弟姉妹がいます。私たちはどんな時にも、一人ではないのです。困ったらなんでも相談できる兄弟姉妹がいるのです。自分が祈れなくなれば、誰かがあなたのために祈っています。それすら妨害されても、主があなたのために祈ってくださるのです。だから、この世で誰か人間を恐れてはいけません。その必要がないからです。ありがたいことですね。主に感謝しましょう。
10月13日(月)
彼らは、主の家に植えられ
私たちの神の大庭で栄えます。
彼らは年老いてもなお、実を実らせ
みずみずしく、おい茂っていましょう。
詩篇92:13、14
イエス・キリストを信じて生きている人がこの地球に大勢います。日本では、キリスト教徒は人口の1%と言われていますから100万人いるかどうかです。東京のような大都市には、クリスチャンが多くいるので電車の中で出会うかもしれません。ある時、電車の中で向かいに座っている人がカバンから黒い本のようなものを取り出したのです。よく見るとそれは聖書でした。つまり、これはクリスチャンの可能性が高いと思うと嬉しくなります。東京の神学校に通っている時に、友達たち数人と一緒に電車に乗り込むと、一両の電車の中にいるクリスチャンが20%ぐらいになりました。ジェリコ・ジャパンというイベントが有明であった時に、終わって駅に行けば大勢の人がホームにいて、そこではほぼ100%がクリスチャンでした。東京にベニー・ヒンが初めて殿堂講演会のために来た時、国技館が会場でした。両国駅から国技館に近づくと、道路に長い人の列が国技館まで続いていました。このような時に、ゾクゾクします。日本がクリスチャンでいっぱいになったらどうだろうと考えるだけで嬉しくなります。クリスチャンは主に愛されています。ですから、今日の御言葉の通りなのです。私たちは主の家に植えられているのです。この地上にあっても、神の大庭で栄えるのです。クリスチャンは、歳をとっても実を実らせる者なのです。神の命の水を与えられ、いつまでも若々しく救いの完成へと進むのです。日本人同胞の救いを祈りましょう。クリスチャンだらけの社会は、犯罪が無くなり、笑いが絶えず、互いに助け合う社会です。神様を賛美することが楽しくて、街ですれ違う人が「主を賛美せよ」と言い、それを受けて「ハレルヤ!主を褒め称えます」と応えるようになります。見たこともない大勢の人たちが主を礼拝します。賛美は大滝の轟のようです。このような幻を持って、日本を福音が覆い尽くすことを願いましょう。
10月14日(火)
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純すいで非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。・・・
マルコ14:3、4
この物語は有名なので、知っているかもしれません。この文章は9節まで続いていますから、今日の聖句としては初めの2節分だけです。ですから、一つのことに注目しているのです。教会で長く過ごしていると、クリスチャンでもお金の考え方が違っていることに気が付きます。今日の問題は、イエス様に非常に高価な香油を注ぎかけた女に対して、それを憤慨して「無駄遣い」と言った人たちが出て来たことです。確かに、このナルドの香油は壺に入っていて、おそらく500万円以上します。その家の財産として持っているものだからです。それをこの女はイエス様の頭に注ぎたいと思って、全部使ってしまったのです。当然、そんな「無駄遣いをして」と怒る人が出てきても不思議ではありません。しかし、クリスチャンの皆さんでも、イエス様のために使ったのなら、決して高くはないと思わないでしょうか。むしろ、イエス様なのだから当然だ、と考える人もいるでしょう。でも、やはり無駄遣いしたと思う人も中にいるのです。その人は、それだけ高価なものなら、売ってお金に変えれば貧しい人たちを助けることができたのに、と聖書の中で憤慨した人たちと同じように考えるのです。ここで、この二つの考え方から信仰の問題を考えてみましょう。香油を注ぐ女を支持する人たちは、イエス様の価値がとても高いのです。それに比べ、憤慨した人を支持する人たちは、イエス様の価値が貧しい人よりも低いのです。もちろん、彼らにも言い分があります。イエス様だって貧しい人たちを同情して助けていたのだから、喜ばれるはずだ、とか言うでしょうね。ここには、相容れないイエス様理解の差があるのです。聖書では、この女の行為はイエス様によって支持されています。そして、貧しい人たちにそれだけ関心があるのなら、貧しい人たちはあなたたちのそばにいるのだから、いつでもお世話できる、とイエス様は諭しています。イエス様を信じているという人の中にも、このように二つに分かれるのです。教会でも、高価な説教壇用のマイクや放送設備を良くしようとした時に、文句を言って来た人がいました。そのような事が時々ありますが、この聖句が思い出されます。神の神殿を作る時にも純金が多用されましたが、はたして文句を言って来た人たちがいたでしょうか。中にはいたかもしれませんが、よくわかっていないのでしょうね。荒野で造られた幕屋も今再現して造ろうとすれば数百億円かかるでしょう。神様には最高のものを献げたいと思うのは信仰者の心です。このように、イエス様は人々を二つに分けてしまうのです。その人たちの本心が明らかになります。人間のようにごまかしはききません。私たちは、神を第一にしているでしょうか。イエス様への愛が本物であり続けたいですね。
10月15日(水)
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
コロサイ3:1~3
この聖書箇所は、難しい箇所です。それ故にクリスチャンは、正しく認識できていないかもしれません。一つは、「キリストと共に復活させられた」と言い、それなので「上にあるものを求めなさい」と言われていることです。つまり、クリスチャンは復活した命に生きているということと、それなので、地上のものではなく天上のものを求めなさい、と言われています。心は天にあるものに留め、地上のものに心を引かれないように、となっています。二つ目は、「あなたがたは死んだのであって」とあります。ここだけだと、最初に復活したと言っているのに、死んだと言われる矛盾が起こります。しかし、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」と奥義としか言いようのない言い方をしています。これらは、どういう意味があるのでしょうか。まず大切なことは、クリスチャンは復活の命にあずかっているということです。古い罪人の命にキリストの十字架上で死んだことで罪からの解放を得ているのです。死んだのなら、復活しなければそれでおしまいになりますが、復活したとありますから、別の言い方をすれば、皆さんは古い人に死に、新しい人として復活した、ということになります。この新しい人は、この地上に心惹かれてはいけないのです。そうではなく、キリストが神の右の座に着いたというのですから、天に心を置かなければなりません。クリスチャンはここまでの説明で納得がいくかと言えば、地上で生きる過程でキリストのようになかなかなれないというジレンマがあります。誘惑に負け、また罪を犯すと、どうなっているのかと混乱します。自分を叱咤して聖なる生活を目指すのに、なかなかうまくいきません。そうなると大抵の人は、クリスチャンとしてどう生きればいいのかわからなくなります。しかし、「あなたがたは死んだのであって」とまた書いてあることに気が付きます。そればかりか、「あなたがたの命は」とあるので、罪人の古い私がキリストの十字架に共にかけられ死んだが、キリストは罪の贖いを成し遂げてくださったので、罪からの解放があるのです。「罪の支払う報酬は死である」と聖書にある通り、キリストが自らの死で支払ってくださったので、私たちの命は滅びなくても良くなりました。その命は、どうなったかといえば、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」とあります。つまり、再臨の日まで隠されているのです。ですから、今の命はこの地上生涯のものであって、「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(同3:4)。このような仕組みなのですね。では、今のこの地上で生きている自分の命の日々は、どうでもいいわけではありません。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(同3:10)。クリスチャンはこの地上に心を惹かれていれば、この御言葉の通りにはいかないでしょう。聖書をさらに調べて、天のゴールを目指しましょう。
10月16日(木)
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
ガラテヤ4:6、7
聖書では、クリスチャンは神の子と呼ばれます。ところが、実際の生活の中でクリスチャンは神の子として生きていないように見えます。自覚していない人が多くいるのでしょう。一方、教会では説教者が「あなたがたは神の子である」と説いているのです。どうして、聖書に書いてあることが実現していないように見えるのでしょう。本文を注意深く読んでみてください。聖書には、神の救いは洗礼を受けてクリスチャンになったところで終わったわけではないのです。少なくともこの世はキリストの再臨まで続くのです。その後に、天国に入るのですが、昨日のディボーションの通りに、再臨の時にあなたがたも栄光に包まれて現れる、とある通り、天国仕様の私たちはその時に現れることになっているのです。たぶん、パウロの言うように霊の体を着て永遠の命を持っている姿のことです。このように、神の救いでは、私たちは神の子にしていただいているのです。それで、今はこの地上では寿命が尽きたら死ぬ体をまとって生きているのですが、それでも神の子になったので、神は御子の御霊を私たちの心に遣わされたというのです。この御霊自体が「アバ、父」と呼ぶので、私たちは神の力で神の子になっていることがわかるのです。そうであれば、未だ不完全であるかもしれませんが、御子の御霊によって正しく生きていけるのです。自力ではおぼつかないでしょうが、この御子の御霊、つまり聖霊があなたの心にあるので、正しいことを好み、主の御目にかなうことができるのです。ただ、肉がまだ生きているので、欲が悪い働きをしてくるのです。私たちは、これに打ち勝つことを課題にしています。聖霊の助けを得ることができるので、神の子であることを信じて、打ち勝ちます。そのために信仰を使うのです。あなたには神の子の恵みが日毎に与えられています。その恵みを受け取って、主と共に歩むのです。聖書には、自由になったので、もう罪の奴隷ではないとあり、肉に従うのではなく、聖霊に従うようにとの指示があります。このことを心に留めて正しい選択をすることが勝利の秘訣です。
10月17日(金)
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
ヨハネ5:24
イエスが「はっきり言っておく」と言われたなら、心して聞かなければならない。決して読み飛ばしてはいけない。これこそ、あなたを救うことのできる真理だからだ。あなたが信じるべき御言葉が語られているのに、立ち止まって考えることもなく忘れてしまうようなものではない。そこで、ご一緒に真理を見てみよう。まず、「わたしの言葉を聞いて」とある。もちろん、イエスの語られた御言葉のことだ。これは、聖書の中でも特別で、何度も読むもので、そのように注意深く読めば不思議なことがその人に現れてくる。残念ながら、イエスの御声を直接、当時のイスラエル人のように聞けないが、聖書を読むことでも同じ効果が期待できる。特に、ヨハネの福音書では、イエスの言葉を聞いて、イエスの父なる神を信じる者は、永遠の命を得る、と書かれている。それだけではなく、「裁かれることなく、死から命へと移っている」と書かれている。ここでも、律法学者たちと違って、「信じる者は」とあるので、信仰によって義とされることがわかる。それは、イエスがキリストをであることを信じ、そのキリストは神の独り子であって、父なる神がお遣わしになったということを信じるなら、救われる、つまり「永遠の命を得」ることになる。罪は裁かれることになっているが、キリストが十字架で罪を贖ってくださったので、「裁かれることなく、死から命へと移っている」のだ。それから、22節に「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」とあるので、イエス・キリストを信じる者が救われることは確かなことなのだ。キリスト自らが最高の犠牲となって、信じる者の罪を贖っておられるので、それ自体が裁きになっている。そこで、信じない者たちと同じように裁きを受けることはなく、死から命へと移っている。このように、イエス・キリストを信じる者の救いは確かなものなのだから、それに相応しく生きていきたい。
10月18日(土)
わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を表す。」
ヨハネ14:21
クリスチャンの特徴は、主を愛していることです。愛は何よりも素晴らしいものです。聖書の中でお弟子さんたちがイエス様を愛している姿は、私たちの心に共感を呼びます。弟子と言っても男だけではありません。女弟子たちもイエス様に従ったのです。今日の聖句を読んでみましょう。まず、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は」とあります。「掟」とは、13章34節にある「新しい掟」のことです。その掟は、「互いに愛し合いなさい」というものでした。実際にはイエス様が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。あなたはどのようにイエス様に愛されましたか。罪赦された経験の中でですか?あなたのことを憐れまれた時に愛を感じましたか。イエス様を信じる人には共通することがあるのですが、それはイエス様に愛されているという経験です。私たちには掟があります。「それを守る人」は、イエス様を「愛する者」と聖書に書かれているのです。ですから、私たちは「掟」を守りたいのです。つまり、主を愛することは、弟子たちが互いに愛し合うことなのです。天の父はその人を愛します。もちろん、イエス様にも愛されます。さらに、驚くことに、「その人にわたし自身を表す」と主が明言されていることです。このように、クリスチャンは「互いに愛し合う」という掟を守るので、天の父とイエス様に愛されて、イエス様ご自身を表してくださるのです。さらには、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(23節)と書かれています。ここに、本物のクリスチャンになる秘訣が書かれているのです。私たちも聖書を開き、イエス様の御言葉を探して読み、あなたは「わたしの言葉を守る」と主に認められるような者になりたいですね。
10月19日(日)
こういうわけですから、兄弟たち、主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
ヤコブ5:7、8
再臨を文字通りに信じているクリスチャンは貴重です。聖書にはっきり書いてあるのですから、信じるに足る話です。しかも、何ヶ所にも書かれていて、比喩や象徴などでなく、正確な預言なのです。信仰を正しく持ちつづけることは、大切なことで、主に忠実な者だけが天に入れられるのです。教会は初代教会の時代から攻撃を受けていましたから、現代の教会も気をつけなければなりません。明らかにみんながおかしいと思うような異端ではなく、巧妙に教会に入り込み、気がつくと分裂が起こるような異端が怖いのです。日々の生活で、聖書を読むこともなく、祈ることもおろそかになると、私たちの信仰は弱って行きます。霊的な日用の糧も必要なのです。聖霊が働かなければ、だれも正しく歩めません。聖霊の助け無しには成熟したクリスチャンになることも、再臨の備えもできないのです。それに加えて、だれもが自分勝手に聖書を解釈して、自分の考えの通りに生きようとするように悪魔は誘惑してきます。正しいことをしても、正しいことを言っても、クリスチャンから否定されたり、排斥されることすら起こります。また、迫害も起こることが予想されているのです。「主が来られる時まで耐え忍びなさい」とある通りです。今日の聖句は農夫に例えて説明しています。皆さんが貴重な実を結ぶのは、再臨直前に聖霊が雨のように大規模に注がれるリバイバルによってです。自分自身を見て、あまりパッとしていないと、クリスチャンとして成長していないと、心配することはありません。本当に心配する必要のある人は、この世に心がある人です。信仰の心配をしているぐらいの人は、信仰があるので心配いりません。聖霊でなければできないことがあるのです。その聖霊が雨のようにまだ降っていません。最も聖霊が降れば、すぐにも再臨があります。農業をしている人は知っていますが、収穫前に雨が降らなければ良い実りを期待できないのです。同じように、クリスチャンの皆さんの待ち望んでいる聖霊の雨はもうすぐ降ってきます。世の終わりが近いからです。すでに、聖霊が働いて、聖徒たちを後の雨に備えさせています。ですから、皆さんも悔い改めへと導かれていると思います。キリストが初臨の時、バプテスマのヨハネが悔い改めをさせたように、清めが始まれば、それに従うことです。いつ再臨が来ても良いように備えていたいですね。
2025年10月21日(火)
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
イザヤ40:28~31
人生は長いので、良いことも悪いこともあります。興味深いのは、人間は生まれた国や地域で大きな違いがあります。その上、個性や能力も個々で違っています。全てに恵まれていても、不幸な人もいます。金持ちの人もいれば、貧しい人もいます。高い身分の者もいれば低い身分の者もいます。今のように世界が狭くなり、外国へ誰でも行き来できるようになると、そうした多様な人々が世界にいることを知るようになります。キリスト教でも世界大会などに出席すると、参加者の国のそれぞれの民族衣装を着て、ねり歩くような機会が用意されています。同じアジアでも、日本人は着物を着て、韓国人はチマチョゴリを着ます。中国人とモンゴル人は私たちが中国服と思うようなものを着ています。フィリピン人はバナナの葉の繊維で作ったバロン(シースルーの正装)など、見ていて飽きない面白さがあります。そして、このように多様な文化の中で、キリストは働かれているのです。どこにでもクリスチャンはいます。社会主義の国にも、イスラム教の国にもいます。聖書翻訳においては、聖書全巻が724言語に、新約聖書だけなら1617言語に翻訳され、一部だけなら3589言語に翻訳されています。聖書翻訳をしようと計画されている言語数は1680言語です。これらの言語の話者数は1億2880万人です。そのなかでアジアが一番多く、668言語(約1億1200万人)なのです。私たちアジアの一員としては、気になるチャレンジです。イエスの大宣教命令があるので、伝道は止まることなく今日まで続いています。日本の現状は厳しいですが、私たちは今日の御言葉を与えられています。「疲れた者に力を与え」と約束があります。「主に望みをおく人は新たな力を得」とあります。この主の御言葉を信じて、最後まで諦めることなく福音を伝えていきたいですね。
10月22日(水)
あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」
イザヤ48:17
私たちの神は、イエス・キリストによって完全な救いを与えてくださいました。その完全さを知るのは再臨後になると思いますが、それでも私たちは救われています。その救われ方は、私たちを贖うという方法です。そこに何を見ているのかは、個々の責任です。それでも、聖書を神の言葉として信じ、聖書から神の御声を聞こうとする者は確かに聞くことになり、今日の御言葉のように、はっきり「こう仰られる」と書かれている所は、神の預言であることがわかる。「わたしは、あなたの神、主である」とあなたが信じる主があなたに確信を与えています。あなたが信じているお方は、間違いなく真の神であり、あなたの主なのだ、と。この主は、あなたに二つのことを約束している。「あなたに益になることを教え」る事と、「あなたの歩むべき道にあなたを導く」という事です。どちらも、特別な恵みです。神が益となる、とおっしゃっているのですから特別な事です。あなたは人生に恵まれ、成功することができます。もう一つは、あなたの人生を導くと言われています。多くの人は、自分はどう生きていけばいいのか迷っています。何になればいいのか、どこへいけばいいのか、誰を信じればいいのか、どちらを選択するばいいのか、と悩みは尽きません。しかし、クリスチャンは、人間なので悩むことはあるかもしれませんが、それでも正しい道へ導かれます。決して迷子にならないのです。ですから、人生を後悔することがありません。それは、完全な救いに含まれているからです。このように、クリスチャンの人生は恵まれているのです。そのことを覚えて、最高の人生を歩んでください。
10月23日(木)
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはりません。倒されますが、滅びません。
第二コリント4:7~9
私たちはクリスチャンです。クリスチャンでない人との違いは何でしょう。色々あると思います。今日の御言葉は、まず、「土の器」これは人間を指しています。ですから、これが普通の人間の状態です。しかし、クリスチャンは古い人には死んで、新しく生まれたと言っていますが、それは宝が人間の中に入っていることを意味します。クリスチャンには奇跡が伴います。霊の賜物も与えられています。キリストのように自分に合った奉仕をするためです。それはもともと人間にはない測り知れない力なので、神のものなのです。クリスチャンの良いところは、四方八方から苦しめられても、窮することがない、と書いてあります。ですから、波風が立たないと言っているわけではないので、この世では当たり前にあるような厄介ごとがあっても、それでどうすることもできないようなことにはなりません。途方にくれることがあっても、「行き詰まることはありません」とあります。これは大きなことですよね。クリスチャンは何が起ころうが行き詰まることがない、と覚えていましょう。今は、信教の自由が憲法で保障されているので、昔のような迫害はそうそうは起こりません。それでも、終末に生きていることには変わりませんから、いつ何が起こるかわかりません。それでも、迫害が起こったら、孤立して見捨てられたと落ち込む必要はありません。神は、あなたのことを覚えていますから、「見捨てられることはありません」。クリスチャンは無抵抗なので、時には倒されますが、滅びません。これは、すごいことなのです。皆さんに神の保証がついています。信仰がなければこのようにはいかないでしょうが、弱いと思っている私たちにも、信仰が与えられているのですから、いざとなれば、クリスチャンは神の保護の中でキリストに倣う者として、立派に振る舞うことができます。そのことを覚えて、安心していましょう。
10月24日(金)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
第二コリント1:3、4
人生に慰めが欲しい時は誰にでもあります。しかし、この世の中で必要な時に慰めがあるとは限りません。また、安易な形ばかりの慰めでは意味がありません。親しい人でも果たして慰めてくれるかどうかわかりません。普段は強がって生きていても、思いもかけない暗い日が来るものです。その時に、誰が自分を慰めてくれるでしょうか。クリスチャンであれば、神が慰めてくださいます。しかし、本当に暗い日には、誰かを遣わして慰めて欲しいのです。神にはなんでもできますから、本当の慰めは神からくるのです。それが時には、思いもかけない方法で慰められることもあります。両親の救いは神の配慮があって実現しました。父は末期癌で入院していた病院で病床洗礼を受けて救われました。母は、神から洗礼を授けるように啓示があって、急いで仙台から実家に行って洗礼を授けました。それぞれ、その後すぐに亡くなりましたが、救われたという思いが慰めになって、いたずらに悲しむことはありませんでした。また、最も長く苦しい苦しみの中で聖霊のバプテスマを受けたので、聖霊に慰められました。牧師の働きを振り返ると、慰めが仕事であったような気がします。それができたのは、神の慰めがいつでもあったからです。今でも、どうしたらいいかわからないような苦しみの中にある人の声に、なんと慰めればいいのか、心が重くなる時があります。それでも、神に祈り、話すことができるので、慰められているのです。神の慰めがなければ、この仕事はこんなに長く続けることはできませんでした。ですから、今日の御言葉は本当のことなのです。皆さんも、きっと神から慰めをいただき、誰かを慰めていくことでしょう。それも、無理せずに自然とできるでしょう。私たちは、このように導かれているのです。
10月25日(土)
あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ。
詩篇35:24
この御言葉は、ドキッとさせる怖さを持っています。私たちを苦しめる者がいれば、私たちは神に頼ります。もし私たちが正しければ、相手は悪人になります。しかし、人間関係では、全く自分だけが正しいことはそうそうありません。それぞれの見方があって、相手側から自分を見れば、やはり何かしら落ち度があったりします。しかし、私たちは自分が責められたりすれば、そんな余裕は無くなり、相手から自分を守ることばかり考えてしまいます。ですから、相手は自分を苦しめる悪い人ということになります。相手もきっと同じように自分の側からばかり見ていて、自分の正しさに固執してしまうものです。これは、つまり主観の問題です。ところが、詩篇記者は、ここに第三者を引き入れます。それも神です。恐ろしいことに、その神の義を持って、自分を弁護して欲しいと言い出したのです。自分が正しいと思い込んでいるのでしょうか。神は両者を公平に見ることを知らないのでしょうか。この疑問に答えるのは、聖書です。そもそも、「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ4:5)と、ある通り、良い事をして正しいから義と認めるというのではないのです。肝心なのは、信仰です。こんなありのままの自分を義としてくださる神を信じるのです。それで、義と認められるのです。ですから、いい加減に生きて良いというのではなく、神に義と認められたなら、信仰によって生きようと決めた人である必要があります。そうであれば、神を信じる人がこの世の人に酷い目に遭った時に、神に全てを任せて、神の義によって弁護していただきたいというのは、信仰者にとって当たり前のことなのです。自分にも落ち度があれば、悔い改めれば赦されます。相手も神の義によって見ることができるようになって、愚かな争いから一刻も早く退き、自分の間違った考えを変えることが求められます。そうでなければ、神の罰を受けるかもしれません。いずれにしろ、聖徒たちは、「神の義にしたがって、私を弁護してください」と願うことができるのです。
10月26日(日)
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
第二テサロニケ5:9、10
このような神が他にいるでしょうか。私たちを救うのは、無可能と言えるほどに困難なことでした。神にしかできないことでした。しかし、神は全宇宙の正義なのです。誰が見ても聞いても、神は正しくなければならないのです。それだけではなく、神は愛なのです。それも、自己犠牲の愛で愛する神なのです。神がアダムを創造された時、神は愛なのでアダムは初めから愛されていました。アダムが正しいから愛したのではなく、神はアダムをありのままに愛されたのです。アダムはそれでも罪を犯しました。神の信頼を裏切ったのです。その子孫が私たちなのです。ですから、望みがなさそうです。ところが、神は罪人を救うことを決意し、御子イエスを救い主としてこの世界へ送られました。しかも、人間としてです。私たちが律法によって罪人であることが明白になるので、人間には守れない律法を神は授けたのではないかと思うほどです。ところが、御子イエスは、律法を完全に守られたのです。それは、罪の無い人間だけが罪人の身代わりに罪の罰を受けることができたからです。このように、イエスは神の意を受けて遣わされたキリストだったのです。それなのに、祭司や律法学者は、イエスがキリストであるとは認めずに、イエスが律法違反者であると罪に定めてしまいました。それは、彼らが偽善者でイエスこそが律法そのものであったのに、その真の律法であるイエスを自分たちの考えた律法の違反者だと裁いたのです。とんだ茶番劇ですが、ユダヤ人はローマ人を頼ってイエス・キリストを十字架にかけて殺したのです。しかし、十字架上のイエスを見ると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19:30)とあるのです。つまり、救いを実現するために来られたキリストの働きがこの十字架で完成したと言っているのです。では、キリストは、何を成し遂げたのでしょう。その答えが今日の聖句です。私たちが「主と共に生きるようになるためです」。この真理があるので、私たちは、何も恐れず、一人ぼっちになっても、どんな困ったことが起こっても、決して孤独ではなく、いつでも主の慰めを受ける者なのです。ですから、今日も上を向いて明るく生きて行きましょう。
10月27日(月)
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
エレミヤ29:12、13
クリスチャンになってから祈ることが、いかに大切か教えられるはずです。それは、人間は放っておくと神に祈らない者だからです。わざわざ時間を割いて祈る時を設ける人は、幸いです。この世は悪魔の支配する罪の世界なので、祈ることを悪魔に妨害されると思っていてください。祈る人の悩みは、祈っているうちに他の事を考え始めて、祈りを忘れてしまう事です。私たちは、それほどこの世のことで心を煩わせているのです。ですから、神への集中が課題となります。語りだけの祈りでよければ、主の祈りを唱えればいいのですが、それでは祈ったと思えないのです。また、自分は祈りが下手です、と言う人がいて驚くことがあります。人前で祈る時には、恥をかきたくないので、立派な祈りができるかどうかが気になる人もいます。初めは、確かに礼拝などで祈りを頼まれれば、緊張するし、うまく祈れないと尻込みするでしょう。しかし、慣れすぎた祈りというのもどうでしょう。人を気にして祈るのか、神へ心を注ぎ出して祈るのか、こうした違いがあるのです。エレミヤ書の通り、神は神を求めて祈る者なのですね。クリスチャンの目標が神に近づくことであり、神を探し求めることなのですが、そうすれば神を見つけることができるのです。これが究極的な祈りなのです。よく祈っている人の祈りは、神へ近づく祈りなのです。あなたを愛し、完全に救ってくださる神は、あなたに優しく、いつでも慈しみ深いのです。あなたが初めて安心できるのが神を見つけた時です。その時、自分が何者なのかもわかるからです。偶然にキリストを信じるようになったわけではありません。あなたは主に選ばれているのです。そして、あなたが考える以上に神はあなたと会いたいのです。キリストのおかげで、天に帰る前にこの地上であなたは神を見つけるでしょう。
10月28日(火)
その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
マルコ13:32、33
この世の中で生きることは、誰にとっても大変なことです。人々の中で人間は良いことも悪いことも経験します。罪人といっても友情は尊いし、また愛し合うことは素晴らしいことです。実際には、不幸なこともあり、お金のために大変でも働かなければならないでしょう。やりがいある仕事を見出す人は幸いです。でも、そうでないことも世の常です。その中で、人が救われるということは奇跡に思えます。人間の目には誰が救われるかなどわかりません。しかし、神の目は確かなのです。私たちは、幸いなことにイエス・キリストに出会いました。そして、信じて救われました。そして、聖書を読むようになりました。全てがわかるわけではありませんが、教会に長くいれば、だんだん分かってきます。礼拝で御言葉が語られ、主イエス・キリストが説教のテーマだからです。自分の聖書を持つことができる人は、説教で出てきた御言葉や読んで感動した聖句に赤線を引いてみるでしょう。そうやって、理解した聖句がだんだん増えて行きます。自分が証する番が回ってくれば、聖書を調べ、証に相応しい聖句を見つけるでしょう。人から聞いて覚え、人に話して覚えるのです。そして、初めから聞いていた主の再臨がだんだん自分に意味を持ってくるのです。自分の目で一度も見たことのない主イエス・キリストを信じているのですが、その主イエス・キリストを再臨の時に見るのです。万軍の天使と言われた天使たちが空中を飛び交い、死んだクリスチャンがよみがえり、空中へと引き上げられて行きます。聖書に書かれた通りに主イエス・キリストは一目で王の王であるとわかります。この世でのクリスチャンの苦労が全て報われる瞬間です。信じてきたことは、正しかったと喜びが湧き起こるのです。ですから、クリスチャンは再臨を待望しているはずです。もし、そうではないという人がいれば、その人はまだ準備が整っていないと思っている人です。また、まだまだ再臨は遠い先だとたかを括っている人は、今日の御言葉を読まれるとそうは言っておられないと悟るでしょう。私たちは、再臨を待っています。苦労していればなおさら、すぐに再臨が来ればいいのにと思っているでしょう。しかし、再臨の日は聖書には書いていません。御子イエスも知らず、天使たちも知りません。ただ、神のみがご存じです。再臨がいつ来ても良いように心しておきましょう。
10月29日(水)
その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
マタイ25:21
クリスチャンになって一番初めに学んだことは、働く者の忠実でした。神学校は聖書の学びだけかと思っていましたが、その神学校では労作教育を行なっていました。自分で選ぶことができたのですが、園芸部という名に惹かれて選んでみたのですが、基本的に肉体労働でした。しかし、この指導者が三大聖人の一人と呼ばれていた素晴らしい先生でした。この先生から信仰を学びました。労作教育に時間が始まると古い大きな聖書を開いて先生が読まれて、それからお話を聞きます。そのお話が面白く、使徒言行録の続きのようなお話でした。この先生は優しさの反面仕事には厳しく、色々指導されました。昔の牧師の大半がこの先生の指導で本物になっていったのです。神様のやり方は、教室の座学だけでは身につけることのできない実践的な伝道者や牧師のための訓練を、こうした労作教育から学ばせたのです。この時のことを今考えてみると、今日の聖句のようなことであったのではないかと思います。つまり、「良い忠実なしもべ」となるように訓練されたように思うのです。では、良い忠実なしもべとは何かと言えば、「わずかな物に忠実」である人のことだと言えます。皆さんは、どうでしょう。ご自分ではわずかな物に忠実にしてきたと思えますか。私たちは、神様を信じているので、誰が見ていなくても手を抜くことがありません。より良い仕事をしようと思っているのです。たとえ、不器用であっても、頑張ってどうでもいいような仕事でもちゃんとやるのです。そして、神様が聖句に出てくる「主人」なので、「よくやった、良い忠実なしもべだ」と言っていただきたいのです。これは、仕事でも勉強でも、家事であっても、教会の奉仕と同じように、神様のためにやることが大切なのです。それぞれが才能を与えられ、また信仰者には聖霊の賜物が贈られています。そうしたものを使うことで増やすのです。音楽の賜物を与えられた人が好きな楽器や声楽を学んで練習して、神様を讃美するようなことです。単純作業を真面目にやり続ける才能だってあります。何か労働をしてみると、その人のことがよくわかります。その人の特徴がはっきり現れるのです。信仰の世界では、主にお仕えしているという意識があれば、すべてのことを主のためと考えて、ちゃんとやろうとします。こうしたことを主はご覧になっていて、小事に忠実な者には大事を任せるという原則が働くのです。それが何であるかは、人によって違うので、自分に与えられていることから始めることです。たまたま、何か仕事をしているということは信仰の世界ではありません。神様を信じているのですから、導かれて仕事をしているのです。そこで、まずは頑張ってみてください。キーワードは「忠実」です。きっと、主の御言葉の通りに、良い結果が待っています。
10月30日(木)
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。
エレミヤ15:16
エレミヤは聖書の中でも特筆すべき預言者です。苦難を通っていかなければならない預言者です。涙の預言者とも言われました。その預言者の御言葉です。不思議なことに喜んでいるようです。その秘訣は、「あなたのみことばを見つけ出し、それを食べました」とあります。御言葉は見つけ出すものなのです。つまり、探さなければなりません。今は、大変便利になって、聖書を手にすることは難しくありません。古本屋でも買えます。誰かがくれるかもしれません。しかも、いろいろな翻訳があるので、簡単に読めます。でも、読書の得意な人もいればそうでない人もいます。しかし、エレミヤの言葉を借りれば、これは宝探しなのです。しかも、それを見つけたら「食べました」と言っているのですから、食べなければなりません。これはどのような意味なのでしょう。黙示録には、「天使はわたしに言った。『受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。』(黙示録10:9)とあります。エゼキエルにも同じように「食べる」と書いてあります。エレミヤは、預言者でしたから見つけた「みことば」は預言する言葉のことですね。その内容は、エレミヤにとっては喜びとなったのです。しかし、黙示録は、預言者のヨハネにとっては甘いものでしたが、預言を聞かされる人々にとっては苦いものとなったのです。面白いですよね。私たちは、聖書を普通に読んでわかったことを生活に実践して生きようとしています。しかし、さらに御言葉を研究して、預言を聞く人が出てきます。それだけ霊性が高められているので、すでにこの世に未練はない人です。神に忠実に生きることがこの人の特徴です。聖霊はこの人の中で働き、生きています。この人は、これから神様が何をなさろうとしているのかを少し知ることになります。それはとても嬉しいことで、御言葉のゆえに喜びが満ちてきます。それは、この世の人々に告げ知らせるべき預言です。しかし、それを実行すれば、聞いた人たちは喜ばずに悲しんだり、怒ったり、攻撃してくるかもしれません。これが、エレミヤが体験したことです。そして、現代でもキリストのようだとクリスチャンと呼ばれている人たちがいるのです。彼らはエレミヤと同じなのです。ですから、そのように、聖書を読んでみたいですね。
10月31日(金)
心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
ヨハネ14:1~3
イエス・キリストを信じた人は、イエス・キリストと共に生きることになります。それは、家族以上の関係になることです。そして、人間が選べる最高の生き方となります。キリスト教の救いは面白く、キリストを信じると口で告白して救われるのです。洗礼によってその救いは確かなものになります。それで天国に入ればゴールしたといえるので完成します。しかし、洗礼を受けてクリスチャンになってからが長いのです。まるで、お坊さんが山寺で修行しているようなものでしょうか。修道院に入ることがそれに近いかもしれません。しかし、それは一部の人であって、大多数の人は普通に今まで通りに生きて行きます。イエス・キリストは、今日の箇所でお弟子さんたちに天国に帰ることを伝えています。それは、お弟子さんたちにとって先生がいなくなることなので、淋しく悲しいことでした。しかし、イエスが天に帰るのは、私たちのために住む場所を用意しに行くことであって、帰りぱなしではなく、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と約束されたのです。このもどって来る日を再臨というのです。私たちは、イエス・キリストのいる所に、いるようになるのです。イエスと共にいることが私たちのあるべき姿だからです。この地上で、様々な誘惑や大変な仕事をしなければならなかったのは罪の呪いです。そのような世界では、クリスチャンといえども、本来の自分の姿が分からなくなりがちです。それどころか、自分が天国にふさわしくないのではないかと不安になったりします。しかし、クリスチャンはイエスと共にあることで本来の神の子の姿になるようになっているのです。ですから、イエスが天国に帰っても、弟子たちが失望したり、信仰を失わないように、キリストはこの話をしなければならなかったのです。逆にこの話を聞いて、信仰を持って生きることができるようになりました。私たちも、天国にイエスが備えれくださる場所を楽しみに見に行きましょう。
