4月1日(水)
わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き、
わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。
詩篇116:1、2
クリスチャンは事あるごとに祈っています。うまく祈れないこともあるでしょうが、それでも祈りの中にとどまっている事があるものです。人生の年月が長くなると、いろいろな事が起こり、困った事も、悲しむ事も、喜ぶ事もあります。その都度、私たちは主の名を呼び、祈るのです。気がついてみると、誰よりも頼れるのが主であると言えるようになり、また、誰よりも自分を一番良く理解してくださっているのが主だとわかりました。私たちには問題なところがあって、主の愛に助けられた事が度々あるのにもかかわらず、すぐ主を忘れて、まるで自分一人の力で生きているかのようにふるまい、そのうちどうしようもなく困ってしまうと、ようやく慌てて主に祈るような事が何度もあるのです。しかし、そんな信仰の弱い人が、いつしか毎日、一日の初めから終わりまで主と共に生きるようになるのです。主を愛している事が嬉しくて、それを言葉にしては喜ぶのです。主が私をどう思っていてくださるか知るからです。それはそれは慈愛に富んでいる主なので、私たちが困って子供のように駆け込むと優しくじっと話しを聞いてくださいます。そうすると不思議な事に、それだけで安心して、大丈夫だと思えて来ます。主がなんとかしてくださるとわかるので、恐れが消え、勇気が湧いて来ます。こうやって生涯、私たちは主を呼んで生きて行きます。ありがたい事です。
4月2日(木)
命を与えるのは、”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
ヨハネ6:63
ここを読むと、イエスのお語りになった御言葉が重要である事がわかります。同じヨハネの14章では、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26)とありますから、クリスチャンが聖霊を受けることの意味が明瞭になって来ます。さらに16章では、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13)とあります。そして、「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(17:17)と書かれているのです。つまり、聖霊によって聖書を学びなさい、ということであり、その時、御言葉が霊であることを知るでしょう。それは、知識として知る以上に深く知ることです。結局、イエスを知り、イエスを知ることは父を知ることなのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わ死になったイエス・キリストを知ることです」(17:3)。それがイエス・キリストが二千年前に昇天されているのに、聖書により、聖霊により、信仰によって主を知る事ができるということです。そして、主を知る者が命を得るのです。
4月3日(金)
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
詩篇103:1~5
クリスチャンほど幸せな人はいません。神様が祝福してくださるからです。それも一生です。この世にはいろいろな悪いものが満ちていますが、その中で主の守りがあるという事です。万が一、災いに遭っても救い主がいるのです。病気も避ける事ができないかもしれませんが、イエス様が地上生涯で実際にやってみられたように、すべての病を癒してくださるのです。たとえ敵が悪魔であっても、イエス様が万軍の天使を従えて戦ってくださいますから、勝利が決まっているのです。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな、と聖書に書かれているのは大切なことです。私たちができることは主を賛美することだからです。どんな小さなことでも主に感謝しましょう。歳をとっても嘆くことはありません。「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる」と書かれているのですから、究極のアンチエイジングです。これほど素晴らしい約束に満ちているのに、神様を信じないなんてあり得ません。ただ、これほどの奇跡を信じるには、この御言葉の通りに生きるクリスチャンが必要です。だから、あなたは堂々と一生良いもので満ち足りた生活を送ってください。誰かがうらやましいと言ったら、その時こそ福音を語りましょう。
4月4日(土)
あなたがたは、あなたがたの神、主の子供である。
申命記14:1
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子供です。
ガラテヤ3:26
あなたは自分が神の子供であると思っていますか。もし、心からそう思っていないのなら、今日、悔い改めて、自分の感情ではなく、この御言葉の故に信じてください。聖書の不思議は、御言葉を単純に信じると何か起こってくることです。この世は天国ではありませんが、それでも、信仰によって神の子として生きるなら、それは神の支配の中にとどまることになるので、その人のいる所はどこでも神の国となります。そこでは、神の支配があるので、不思議、しるし、奇跡が起こるはずです。悪魔がこの世は自分が支配していると豪語していても、信仰には勝てません。ですから、神の子と信じる者が信仰を発揮するなら、たちまちそこは神の国となるのです。ですから、くれぐれも普通の人になってボーッと生きていてはいけません。悪魔にもチャンスがあると思わせてはいけないからです。神の子がいるということは、福音書に書かれたイエスがやってみせた通りに、神の子の働きが現代でも起こるということです。イエスが悪魔に勝利したように、現代でも神の子は勝利できるのです。それほどキリスト・イエスが神の子であることに意味があり、神がイエスを信じる信仰であなたも神の子供としてくださるので、あなたは、悪魔の支配から解放されているのです。それどころか、足の下に踏み砕くことになります。
4月5日(日)
主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」
エレミヤ31:3
クリスチャンの皆さんは、神様が愛してくださることを理解していると思います。しかし、実際にはどうでしょうか。神様に本当に愛されているのかわからなくなる事があるかもしれません。自分よりもちゃんとしている人、信心深い人を神様は愛しているだろうが、自分なんかはあまり愛されていないのではないか、そんな気持ちになる事がないでしょうか。しかし、それは神様が愛してくださるという時に、人間のように愛するのではありません。今日の聖句でもわかるように、「永遠の愛」で愛してくださるのです。つまり、どんな事があっても絶対愛してくださるという事です。何か大失敗して、神様を幻滅させるような事になってもです。そんなすごい愛で愛される事は、人間の間ではないでしょうが、神様はやはり人間とはわけが違うのです。その永遠の愛で愛してくださる神様の愛は私たちにもわかるものなのでしょうか。もちろん、わかります。今日の聖句で言えば、神様はあなたを愛すると決めたから、永遠の愛で愛します。それは、神様があなたに誠実を尽くし続けてくださる事でわかるのです。どうでしょう。あなたは、この事を信じる事ができます。その信仰によって、この聖書の御言葉が真実である事を知る事ができます。神様に愛されている事実で、免疫力もきっと上がると思います。
4月6日(月)
彼は私を慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。
詩篇91:14、15
聖書は約束に満ちています。それも主を信じる者への祝福に満ちているのです。今回のような感染症で世界中が苦しみ、不安に覆われるような時でも、「主を慕う者だから、災いから逃れさせよう」との約束があります。最も、「主を慕う者」との条件が付きます。つまり、信仰をもっている人を、もっと情緒的に捉え、「主を慕う人」という言い方をしているのです。機械的に信じているということではないのです。無条件に自分を愛してくれ、必要な時には必ず助けてくれる力あるお方、全ての災いから守る事ができて、苦難の襲う時には、共にいてくださり、決して一人ぼっちにはしない、いつくしみ深い主イエス・キリスト。この方こそがあなたの主です。だから、世の中が悪くなって来ても、恐れる必要はありません。私たちは、主の名を知っているのです。だから、信頼を込めて主の名を呼ぶのです。主はすみやかに答えてくださるのです。あなたは恵まれた人です。主をほめたたえてましょう。今日も主に守られた一日が始まります。
4月7日(火)
わたしの救いと栄えは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。
詩篇62:8、9
神様を信じる事ができる人は幸いです。誰でも、信仰の初めがあります。それが一日一日と日を過ごして行くと、信仰が恵みに変わり、試練も忍耐を学びキリストに似た者へと変えられる益となり、キリストが岩である事を理解できるようになります。その岩こそ、私たちの避けどころなのです。揺るぐ事のない、絶対的にあなたをまもる砦なのです。そして、信仰はさらに、私たちがどんな時にも神様を信頼する事を体得だせてくれるのです。私が私がといつも力が入っていたのに神様に砕かれ、キリストの愛に癒され、自分の心を素直に主に注ぎ出す事ができるようになります。それが私たちの祈りです。疫病で不安になるような時でも、「神はわたしたちの避けどころ」なのです。主は私たちを見ています。主は、あなたの事が大好きなのです。主のあなたへの想いはとても強いのです。だから、主はあなたを完全に守る事ができます。不思議な事に災いも死もあなたを避けて通って行くのです。ありがたい事ですね。主を讃美しましょう。
4月8日(水)
私はあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。
イザヤ41:9、10
人間の世界では、必ずしも自分のことを正しく理解してもらえない事がしばしばあります。「上司に恵まれなければ、〇〇」とコマーシャルがテレビから流れると、笑えない人がたくさんいるのです。頑張っているのに、評価してもらえない。いちいち批判されるけどほめられた事がない、など、理不尽だと思わされる事で悩んでいる人も少なくありません。クリスチャンでも例外ではありません。ですから、今日の聖句は、とてもありがたいのです。人生で大切な事は、自分を信じてどこまでも信頼してくれる人がいるとどんな困難も乗り切れるという事です。神様は、あなたを血の果て、極東の日本から呼び出されました。神様があなたを選んで召し出したのですから、決して見捨てる事はありません。恐れる事はない、とはっきり言ってくださるので、勇気が湧いて来ます。「わたしはあなたと共にいる神」、そんなふうに言われたら、どうですか。舞い上がってしまいますね。神様があなたを助け、勢いを与え、救いの右の手であなたを支えるのです。だから、何も怖いものなどないのです。私たちは、雄々しく生きて行けます。一時、調子を崩しても、すぐに元気になります。自分の力で解決できない事も、神様が共にいれば、解決できます。何しろ神様には不可能がないのですから。だから、今日も、主に助けていただきましょう。
4月9日(木)
いかに幸いなことでしょう。弱いものに思いやりのある人は。災のふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。 主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。
詩篇41:2、4
クリスチャンは美徳と呼んでよい特徴があります。それは、弱者に思いやりがあることです。ところが、それが主に喜ばれることで、特典がついてくるのです。その一つは、災が襲ってくるとき、主が逃れさせてくださるということです。もう一つは、病気になって寝込んでいるときに支え、たとえ衰弱して力を失っても、立ち直らせてくださるというのです。今のように、新型コロナウイルスの感染が心配される時でも、手洗い、消毒、マスクも必要ですが、信仰面では、弱い者に思いやりのある人が主に守られることがわかります。日頃から、イエス様にならって、この世の弱いものに心を向けることが大切なのですね。今年、お花見ができなかった人のために写真でちょっと桜を楽しんでください。
4月10日(金)
主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。
歴代誌下16:9
世界の片隅に住む者がいます。名もなく平凡に暮らしているその姿は誰も目を留めようとはしないでしょう。しかし、あなたがクリスチャンであるのなら、主はあなたを探しているのです。この世のどこにいようとも、主はあなたを必ず見つけます。そして、あなたを見つけて喜ぶでしょう。御自分と心を一つにする者を見つけたからです。だから、当然のようにあなたを力づけようとします。あなたは主人の同士なのです。あなたが時々、孤独に感じていても主はここに私がいると伝えようとするでしょう。決してあなたを離れない。もう少しすれば、あなたを天に迎えるから、と励ましてくれるのです。もし、キリストを信じていなかったなら、決して主と心を一つにすることなどできなかったでしょう。聖霊が宿り、私たちの命となって、心を変えてくださるのです。あなたが聖霊を知ろうとすればするほど、聖霊を理解できるようになります。今でも、頑なな心を砕き、自分をまるでくさりで縛っていたような状態をキリストが解放してくださることを信仰で実現できるのです。自分の変えられないと思っていた苦しみをキリストは変えるために十字架にかかられたのです。そして、勝利の証が復活でした。ですから、キリストを信じ続けるのです。あなたの存在はすでに神様の知るところとなっています。だから、放って置かれることなどありません。あなたが心配するまでもなく、イエス様が解放の働きを続けています。あなたがする事は、イエス様を信じることだけです。感情に振り回される必要はもうないのです。イエス様の御力を過小評価してはいけません。全能なのですから、あなたの問題をイエス様が解決するのです。すでにキリストにあって勝利したと信じましょう。
4月11日(土)
人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ6:8
主は、私たちに三つの事を求めておられます。それらが書かれている箇所がこの成句です。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと。この三つを忘れなければ、あなたはクリスチャンとして主の御目にかないます。ですから、幸福に生きていけます。例えば、ある青年が万引きをした時、店員に見つかってしまいました。店員が捕まえようとしたので、青年は思わず逃げようと店員を突き飛ばしました。ところが床が濡れていて、店員は滑って転び棚に頭を打って怪我をしました。もし万引きだけでしたら、窃盗の罪で1ヶ月から10年の懲役でした。しかし、暴力を奮ってしまったので、事後強盗となってしまったので5年から20年の懲役になります。さらに相手に怪我を負わせたので、6年から無期懲役になります。つい出来心でパン一つ万引きしただけでしたら一ヶ月に執行猶予が付いたかもしれませんが、相手を突き飛ばして、さらに相手が怪我をしてしまえば、大変な事になってしまうのです。すぐに頭に来やすい人は要注意です。万が一、捕まるような事になれば、無駄な抵抗をしないでじっとしていることなのですね。法律のある国では、感情にまかせていたら非常に危険なのです。いつ塀の向こうへ入れられてしまうか分かりません。ですから、クリスチャンになったのなら、主の求められる三つのことを忠実に守るように心がけましょう。自分だけではなく、周りの人も幸福になります。
4月12日(日)
口の言葉が結ぶ実によって、人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。
箴言12:14
今日の聖句が教えているのは、よい言葉とよい行いの両方から報いを受ける、という事です。考えたことがあるでしょうか、自分の言葉が良いか悪いかを。悪い言葉はよほど気をつけいなければ簡単に口をついて出てくるものです。それが毎日続けると麻痺してきます。もはや悪い言葉とは気がつかなくなります。そして、周りの人もその人をその言葉で判断し、その人のイメージが決まります。すると、そのイメージは自分を縛って悪いイメージが定着してきます。結果、悪いものが良いものを生む事はないので、悪い報いばかりが現れてくるようになります。それを断ち切るのには、自分の言葉をまずは気をつけてみる事です。人を励ましたり、喜ばせているだろうか。人を褒めているだろうか。人を幸せにしているだろうか。肯定的な言葉を心がけているだろうか。独り言でも、否定的な言葉は声にしないようにしようと決める事です。聖書が教えている事は、「口の言葉が結ぶ実」です。こんな不思議な事はありませんが、誰でも良い実を結ぶことが言葉によってできるというのです。この秘密を知っている人はすでに実行して良い報いを得ています。あなたの人生は簡単に良くすることができるのです。さらに、「手の働き」も同じです。あなたがすることがどんなことであるか、そのまま報いになるというのです。私には悪いことばかり起こるという人は、自分で何を言い、何をしているか反省してみると良いのです。誰でもが幸福になることができるのですが、自分次第ということです。
4月13日(月)
私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
Ⅰコリント9:19
牧師になって、実に多くの地方に行きました。それぞれの場所に文化や歴史があり、伝統があるのです。生活も同じようでありながら、微妙に違っています。価値観まで違っているのではと思うこともあります。もし自由に住む場所を選んでよければ、どこにするかと言えば、自分が子供の頃から住んでいた場所が一番かもしれません。それでも、自分がパウロのような伝道者になったような気概を持って任地へと向かいます。そこには、初めて会う人たちがいるのですが、神様が導かれた人たちのもとへと行くわけです。とても不思議ですが、家族のような親しい関係になる人たちです。どの地方にもたくさんの人がいて、伝道する相手はすべての人が好意的というわけにはいきません。でも、その中から天国まで一緒に行く人を探しているのです。パウロはユダヤ人の中の宗教エリートで律法の権威であり完全な遵守者でした。だから、異邦人の世界では、大変難儀したはずです。それでも、彼が福音を世界に広めたのです。伝道地では、ユダヤ人のライフスタイルを修正しなければならなかったと思いますが、同時に自分の好むこともあえて相手に合わせて放棄したことがあったのです。自分の信じることを誰かに変えられる事はありませんでしたが、一人の人を救いへと導くためには、自分のこだわりを簡単にあきらめたのです。それだけ、人の魂には価値があるのです。私もフィリピンに行って、生活して、どこにでも行けるように訓練されたように思います。そして、辛いものを食べる文化、甘いものを食べる文化、あまり美味しくないものを食べる文化、日本のような恵まれた食生活ができる文化、と結局、食いしん坊なので食文化で考えているのか、と呆れますが、主は、大抵のところへは行けるようにしてくださったのです。それで、異文化の中で自分の小さなこだわりの価値観が見事に砕かれて行ったように思います。パウロは、奴隷という強い言葉を使いますが、伝道者の心得なのですね。相手を自分に合わさせようとするのではなく、相手の気持ちに寄り添うような気持ちとでも言えば良いのでしょうか。それは、やはり難しい事なので、奴隷とパウロが言った事を思い出してしまいます。それでも、一人でも多くの魂をキリストのもとへ導けたら嬉しいと思います。神様はきっと、あなたのそばに救いへと召された人を置かれると思います。だから、パウロのようにはならないかもしれませんが、無理なく、ちょうどよく伝道することになります。あなたを見てクリスチャンになる人がきっといます。そのために今の場所に置かれているはずです。
4月14日(火)
神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
Ⅱコリント2:14、15
クリスチャン夫婦に女の子が生まれると、名前を「香」にしようと考える人がどれほどいるかは分かりませんが、一度は考えるのではないでしょうか。それは、この聖句から来る良い意味があるからです。良い香りは、誰もが好きです。癒し効果も、健康増進効果もあります。またリラックス効果や、安眠効果も期待できます。もっとも臭いには悪い臭いもありますが、それは腐っている臭いとか、不衛生を知らせる臭いであるかもしれません。だから、悪い臭いには近づかず、逆に良い臭いには引き寄せる力があります。もっとも、お腹が空いている時には、美味しそうな臭いは最大の誘惑になりますね。さて、皆様が「キリストによって神に献げられる良い香りで」ある事を理解しているでしょうか。そして、「良い香り」とは「キリストを知るという知識の香り」のことです。クリスチャンと話していると心が浄化されてきて、花園にでもいるようなリラックスした気持ちになるのです。そうならないと思っている方は、「キリストの勝利の行進に連な」っていないのかもしれません。勝手に休んでいるのかもしれません。これは、キリストを先頭にして行進している人の流れです。その勝利者の列にキリストを信じる人を見つけては加えていく行進の列です。そこには、パウロのような命がけの伝道者もいますが、そのような人はまれで多くの人たちは普通の人たちです。何かしらハンディキャップを持っていて、キリストによらなければ、勝利者には決してなれなかった人たちです。ですから、喜びが大きな人たちです。神様が良くしてくださる事を知っているので、非常に楽観的です。主を賛美することが好きです。それぞれ、聖書の中に好きな人がいます。その中でもイエス様は特別で、信仰の霊的世界で近い存在になっています。ですから、イエス様には特別な親しみを覚えています。事実、イエス様が恵みを惜しまないので、それが嬉しくてならないものですから、すきあらば相手かまわずイエス様のことを話したくてなりません。話が苦手な人でも、何かイエス様のことを伝えたいと思っているのです。それは、愛だと思います。イエス様から愛されている愛です。それに応答したい自分の愛でもあります。その愛が発散される事を「良い香り」と言っているのです。つまりあなたからは愛の香りがするのです。バラの香りが良かったですって!キリストを愛している人から出てくる愛の香りは奇跡を起こして誰かの魂を救う事ができます。バラの香りはステキですが、人の命を救う事はできません。その違いです。
4月15日(水)
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神の言葉によるのです。
Ⅰペトロ1:23
聖書が古代から続く特別な本である事を私たちは知っています。しかし、聖書は私たちが救われたのは、つまり、新しく生まれたのは、神の御言葉によると教えています。ここでは、種に喩えられているのですが、種は普通は土に埋められて発芽し自らは朽ちてしまいます。神の御言葉はそのような朽ちてしまうようなものではないと言います。だから、新しい命は、朽ちて死んで行く古い人とは異なり、永遠に生きる命の事を示しています。真理が変わらないように、神の御言葉は真理なのです。私たちは真理を見失って生きていましたが、今や主イエス・キリストを通して真理が明らかに示されました。このキリストの上に人が救われる全てがありました。しかし、キリストは私たちの罪の贖いとなって十字架で死ななければなりませんでした。しかし、三日目に墓より復活し、私たちが新しく生まれる事を可能にしたのです。聖書はキリストのことを証ししていますが、そのキリストこそが真理であり、また聖書の神の言葉も真理なのです。この変わることのないもので、私たちの救いは保証されています。ですから、自分の感覚や感情に左右されずに、自分が新しく生まれることを実現した、神の言葉に信仰を置きましょう。今日も聖書を読んでみましょう。聖霊がきっと導いて、御言葉を解き明かしてくださいます。その分かった真理こそが、あなたを新しく生まれさせたのです。
4月16日(木)
命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
Ⅰペトロ3:10~12
若い頃は、こんな事は当たり前のことだと生意気に思っていました。それから、ずいぶん長く生かされ、今はこの御言葉の重さを感じます。クリスチャンとして生きる事は、この御言葉をそのままに生きる事なのでしょう。それは、宮澤賢治ほどストイックに生きようとするのではなく、普通の人間の感覚を持って生きる事で良いのですが、違いは、主の目が見ていてくださる事と主が耳を傾けて祈りを聞いてくださる事です。その事を当たり前に生きる事です。幸せに生きる秘訣はここに書かれている通りです。だから、誰にでも出来る事です。つまり、誰でも知っている正しい生き方です。それが、どうしてかできないでいる人が多いのです。それは、世間を見ると良くわかります。批判する人が多いのです。舌を制することができないでいます。デマも問題になっていますが、偽りを語らないことができないのです。善を行う事は、正しいと誰でも思うでしょうが、そのためには悪から遠ざかる必要があるのです。それが意外なぐらいにできないでいる人が多くいます。私たちが心に意志を持って追い求めるのは平和です。この平和は一人ではできません。複数の人間がいて、平和である事です。不安があると誰かのせいにしたくなり、悪が働きます。そうならないために、私たちは主イエス・キリストを信じているのです。それは、イエス様が助け主であり、憐れみ深いからです。そして、私たちに正しい者になれるように見ていてくださるのです。娘がまだ小さな時に、よく「見て、見て」と見ているように言われました。私たちも天の父に、そしてイエス様に見ていて欲しいのです。きっと、うまくやれるからと。そんな日々を繰り返して、気負う事なく普通でいいのだと気がつくようになります。あなたは、「命を愛し、幸せな日々を」過ごしていいのです。そうなるようにと導かれているのです。
4月17日(金)
いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。
詩篇84:6~8
クリスチャンとして生きてきて、分かったのは、大切な事は勇気を出す事だ、という事です。人の人生は、順境の日が長く続くといいのですが、やはり逆境の日が来るのです。それは、とても具体的で、悩みが忍び込んできます。そんな時に今まで見えなかった自分の弱さが見えてくるのです。困った事に不安は信仰を弱らせ、祈ってもすぐにまた不安に襲われ、信仰がますます弱まっていくのです。ところが今日の聖句をご覧ください。この詩人は、このような時にどうすれば良いのか知っています。主によって勇気を出すことです。そして、心に広い道を見ている、というのはこの世のことであれこれ悩まないで、ただキリストにすがって、助けていただく事だけ考えるのです。すると心はイエス・キリストだけになってきます。この主イエス・キリストだけになる事が心に広い道を見ている事なのです。主の道は単純で一本道です。しかも、この世の事を手放すと残るのは主のことだけになります。その状態が広い道です。もう迷いません。このように主が自分の心の全てになるようにする事を覚えると、どのような試練が襲ってこようと、嘆きの谷を泉に変えるような劇的な変化を起こすことができるのです。つまり、災いが喜びに変わる奇跡を経験できます。本来神様を信じているのですから、奇跡が起こって守られることなど当たり前のことなのです。心が渇いた荒野のような状態になっても、キリストを呼ぶと、驚くことにカラカラに渇いていたのに、雨が振り出して潤され、主の御手が伸ばされて癒され、キリストの祝福に覆われて行くのです。このようにして、クリスチャンは主にあって勝利する事を身につけます。それは、キリストに似た者に変えられて行く過程の事です。このようなクリスチャンは力に満ち溢れて、キリストの道を力強く行進します。そして、ついにゴールであったシオンにたどり着くのです。それは、とうとう新エルサレム、つまり天国で神にまみえるという事です。これがあなたのたどる道です。
4月18日(土)
悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
詩篇22:26
家に閉じ込められる日々は、ストレスが溜まってきます。テレビを観れば不安をかき立てられるかもしれません。そんな時、聖書には面白い解決法が書いてありました。「悩む者は、食べて、満ち足り」と。なるほど!と喜ぶのは食いしん坊な人ですよね。それにしても、悩みを食べて解消するのは不思議なことではありません。現に、「コロナ太り」と言う言葉ができるほど、実際に聖書も知らない人たちが実践しているのです? ただ、残念なのは「満ち足り」ではおさまらず、「太ってしまう」ことです。さて、新共同訳聖書では、27節になりますが、「貧しい人は食べて満ち足り」とありますので、これは神様の恵みの事を言っているのですね。ただ、コロナ騒動で、食べる物にもことかくような人が出てこないように祈るばかりです。クリスチャンの人たちは、主を尋ね求める時ですね。主を賛美する事が書かれています。時間を取って主を賛美しましょう。この節の新共同訳の最後の言葉は、「いつまでも健やかな命が与えられますように」となっています。皆様が、この通りになりますようにお祈りいたします。
4月19日(日)
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
ルカ22:31、32
これは、十字架にかかる前の緊迫した状況で、弟子たちのことを心配しているイエス様のお言葉です。この記事からわかる事は、サタンはとんでもないことを神様に願っています。しかも、驚く事にこの場面ではサタンの願いが聞き入れられている事です。どうしてと驚く人もいるでしょうが、全てに神様の深い配慮があります。イエス様が十字架に架かった後、福音を伝える役割がこの弟子たちに任せられるからです。それがどんなに大変な事であるかは想像を超えるものがあります。その大役を担った者にしかわからないでしょう。しかし、キリスト教が誕生して、世界に福音が伝播するかどうかは弟子たちの頑張りにかかっていたのです。だから、その使命者としてふさわしいかどうか、ふるわれる必要がありました。自分の力に頼っているようでは務まらない使命なのです。一方、今日の聖句からわかる事は、イエス様の限りない優しさです。福音伝道の世界的大事業を誰かがやらなければならない時、それは命がけで、この世の報いは少なく、絶えず危険で迫害され、逃げ出したくなっても不思議ではない使命なのです。しかし、神様の人類救済の目的を果たすためには欠くことのできない働きだったのです。そこで、ふるいにかけられ挫折し、深く傷つき、自分に失望する事になるペトロに、イエス様は、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と語りました。このように、イエス様は、私たちのためにも執り成して祈っていてくださるのです。ペトロよりももっと頼りなく、伝道もしたくない、できない、と平気で言うような情けないクリスチャンでも、主は見捨てたり、あきらめたりはしないのです。絶対に救うと決めているし、何度でも赦してくださるし、その愛情は大きくて変わる事がありません。なぜ、自分が信仰を投げ出して、クリスチャンをやめなかったか、考えてみた事がありますか。それは、イエス様があなたのために祈り続けたからです。情けない自分の姿を思い出したくはないでしょうが、イエス様は決してあなたを嫌いにはならなずに、愛し抜いてくださったのです。これからもその愛は変わる事はありません。イエス様の祈りに助けられて、なんとかこれからも信仰の道を歩み続けるでしょう。そして、気がつくと天国の門の前に立っているでしょう。決して、自分の力でそうなるのではありません。ただただ、イエス様のおかげなのです。イエス様が私たちを信頼してくださったから、私たちは天国へ入る事ができるのです。だから、イエス様のために生きたいと心から思えるのです。
4月20日(月)
わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
ヨハネ8:31、32
クリスチャンは主イエス・キリストを信じているので、大変幸福な人たちです。さらに、彼らは、聖書をもっと知りたいと願います。真理にも興味があります。ただ、どちらも難しいと感じています。そこで、今日の聖句です。まず、あなたが主イエス・キリストの弟子でありたいと願うのなら、その方法を教えます。それは、イエス様の言葉にとどまる事です。つまり、聖書の全部を理解できるようになるのは、確かに時間もかかるし難しそうです。しかし、イエス様の言葉だけを何度も読む事はできるはずです。わかってもわからなくても、とにかく繰り返しイエス様の語った言葉を読んでみるのです。そうすると、不思議な事にだんだんその言葉が何を意味しているのかわかってくるはずです。そして、その言葉があなたの考えになり、価値観になり、判断する基準になってきます。しかし、続けているとわかってくる事は、これは、主イエス・キリストを知る事だと気がつきます。キリストの言葉を繰り返し読んでいるうちに、文字ではなく、そこでいわんとする事が見えてくるのです。それは、自分の深いところに良い影響を与えます。人間が決めた規則を守るような事とは違っています。イエス様は罪人を救うために来られたのです。だから、聖人や義人を探しに来たのではなかったのです。普通の弱さを持ち、欠点を抱え、自分の能力以上のことはできず、誰もが持っている欲求も人並みにある人を見捨てないのです。何度も失敗して、神様をがっかりさせるような事ばかりしても、イエス様は諦めません。あなたを救う事を熱望しているからです。神様はこんな私を認めて、天国へ入れようとは思わない、と決めつけているのは自分自身です。だから、イエス様の本質がわかるまで、私たちは、義人にならなくては、とどうしても思ってしまい、ユダヤ人なら割礼があるのに、異邦人は無いから清く正しく立派になるしかないと決め付けているのです。そうではなくて、救いのルールは単純ですべての人が救われるように、たった一つにしたのです。それが、「イエス・キリストを信じること」、これだけで救われるのです。罪人を義人にし、神の子へと変えるのは、創造の時に人間を造られたようなものです。父なる神が御子イエスを通して創造しました。その時、神の霊が関わっていました。創造主の言葉は、「光あれ」。すると、聖霊が働き光が現れたのです。同じような原理で、父、子、聖霊がイエス・キリストを信じた人を義とし、神の子に創造するのです。これが真理です。ですから、自分の思い込みから開放されて自由になり、父、子、聖霊に全てを任せればいいのです。それができるのは、キリストの言葉にとどまっている時です。難しく考える必要はありません。シンプルに福音を信じましょう。
4月21日(火)
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
ローマ15 :13
世界中が大変な時に、情報化社会では、情報が洪水のように垂れ流されています。自分で調べて確かなことだけを情報として流すのなら、まだ良いのですが、何の裏付けもない憶測だけで強い意見を流してしまう人もいますし、その人の個性的な考え方が影響して、本来正しい情報を伝える役割が台無しになっていると思わせられるテレビ番組を何度か観ました。結果不安を煽るような事になって、根拠のない不安を増幅された人は少なく無いでしょう。デマは問題外ですが、大勢の人の前でコメントしなければならない仕事の人は重い責任があり大変です。SNSの普及で誰でもが情報を世界に発信できる時代に生きていて、情報伝達について考え込む福音伝道者はどれだけいるでしょう。福音書の聖書研究会で、それぞれの福音書を読んでみると、並行記事でも記述が異なっているのはなぜか、との質問が出ました。勿論、福音も情報です。もし、どの福音書も同じ内容なら一つの福音書を聖書に入れておけば良くなります。しかし、神様は四つの福音書を聖書に入れています。つまり、少なくとも四人の人に福音書を書かせたのです。時代も書くきっかけも、場所もその時の教会の事情も違っていました。共通の資料があったようですし、独自に集めた資料もありました。とにかく、ナザレのイエス物語は、四人の個性を通して伝えられた情報なのです。違いは、事実を再現する時に立体的に膨らませる事が可能となり、より正確に情報を伝える事に役立ちます。しかも、古代の記録なのに、現代にまで伝わり、世界中の言語に訳され、多くの地域で読みたい人が誰でも読めるようになっています。それだけではなく、信仰者には聖霊が働いて、文字ではなく霊が真理という情報を明らかにします。木を隠すなら森の中と言われるように、情報洪水の中に福音が隠れてしまう事のないように、文字ではなく霊が情報となって働くのです。だから、真理が人に届きます。この働きは、今日の聖句のように、信仰者を励まし、今の困難な時代を乗り切る力となるのです。不思議な神様の御力で新型コロナウイルスから守っていただきましょう。
4月22日(水)
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
ヨハネ14:1
今ほど信仰を試されている時はないかもしれません。異常事態がいつ終わるのかもわからずに続いているからです。人間の生活がいかに不確かであるか思い知らされているようです。しかし、聖書を読んでいる人たちは、預言者が神様の警告を幾度も人々に訴えている箇所を読んでいるでしょう。アダムが罪を犯して以来、人間は罪の問題から抜け出す事ができずに、罪の呪いの中で苦しんできたのです。もし、イエス様が救いに来られなかったなら、希望は無く滅びるだけでした。しかし、まだ全てが終わってはいません。黙示録で言えば、前半は警告、そして後半は警告の成就が書かれているように、警告が終われば、いよいよ終末に突入して、災いが次々に起こるのです。ただ、イエス様を信じて救われた人たちは、今日の御言葉を覚えていてください。何が起こっても、主はあなたのことを守ってくださいます。聖書に書かれた事は起こらなければなりませんが、聖徒らは守られるのです。だから、何か災いが起こった時には、神様を信じ、イエス様を信じて、乗り越えるのです。心を騒がせると良い事はありません。ですから、心配になったら、今こそ主を信じる時だと言い聞かせるのです。不思議な力があなたを守ります。へりくだって、主に服従し、信頼を表しましょう。災いは通り過ぎて行くでしょう。
4月23日(木)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
ルカ6:36
あなたの天の父は憐れみ深いお方です。あなたへの思いは、いつでも憐れみ深く、慈しみに富んでいます。私たちは、そんな天の父の憐れみ深さを気づかずに生きてきたかもしれません。しかし、クリスチャンとして生きる事は、この父の憐れみ深さを知る事であり、その事で生き方を変え、かつての自分の生き方にこだわらずに、憐れみ深い者として生きるのです。今日の聖句の前の部分に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とキリストは教えています。これは有名な言葉ですが、いつも自分の戒めとして覚えている人がどれほどいるのだろうと思います。この教えは、憐れみ深い者となりなさい、との主の教えと深く関係しています。私が小学生の頃、夏休みに家族で旅行に行ったのですが、その時、横浜から来ていた知り合いのお兄さんも家族と一緒に行きました。この人は、いわゆる浜っ子で、とにかくかっこいいのです。考えが大人で、自分がいかに甘ったれのさえない子供かと思い知りました。それで、その時以来、心を入れ替えて、子供を卒業しました。人間としてカッコよく生きたいと強く思わせる影響力があるお兄さんでした。このように、人を良く変える力は模範となる人によるのです。私たちの場合は、この世を超越して、天の父が憐れみ深くされたので、心が変わり、私たちもそのようになりたいと生き方を変えたのです。それが、どれほど大きな人生の違いを生むか、やがて分かる日が来ます。人生の最後に総決算が必ずあります。その時にイエス様の教えに忠実であれば、心配はありません。イエス様の教えは、人生を劇的に変える力があるのです。まずは、憐れみ深い者となりたいですね。
4月24日(金)
あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
Ⅰペトロ5:6、7
この前半の6節の文章と後半の7節の文章は、同じことを言っています。つまり、「神にゆだねなさい」という事は、「神にヘリくださりなさい」という事です。聖書はもう少し親切に「神の力強い御手の下に減りくださりなさい」と説明しています。「御手」は、神様の御業のことです。「力強い」は、死人を蘇らせるような奇跡でも起こす圧倒的な力のことです。その全能の神を認めて服従する事を求められているのです。残念ながら、私たちはすぐに思い煩う癖がついているようです。そうでなければ思い煩いの天才かもしれません。それでは、この御言葉と正反対のことをしているので、人生は好転しないかもしれません。しかし、今日の御言葉を受け入れ、その通りになる事を認めるなら、道は必ず開けます。全てに時あり、でちょうど良い時に、あなたが思っている以上に良い事が用意されているのです。神様は、決してあなたが悩んだり、不調になっている事をどうでもよく思っていません。何しろ神様はあなたを愛しているので、どんな犠牲をも厭わないお方なのです。ですから、愛しているあなたが思い煩う様子をご覧になれば、放っておく事はありません。逆に、あなたの足りなさや本質的な問題をこのような機会に治したり、癒したり、して主への従順を引き起こそうとされているのです。あなたの幸せは、神様に従順になるほど主を愛する時に実現します。いつでも原因と結果はありますが、その先に、主は恵みの時を用意されているのです。ですから、もう少し気楽に生きていても大丈夫です。
4月25日(土)
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。
Ⅱコリント9:8
クリスチャンらしく生きるのは難しいと初めからあきらめている人がいます。そうかと思えば、他の人には恵みが与えられても自分には与えられないと思っている人もいます。伝道など自分には絶対無理と決め付けている人もいます。さて、このような誤った考えは、本人のためになりません。聖書には、「あなたの信じた通りになるように」との御言葉もあるように、自分の信じている事が重要なのです。私たちは、自分の力で努力して救われたわけではありません。すべて神様の恵みによるのです。神様はあなたを召してくださり、罪も呪いもあなたを滅ぼすものから解放し、完全な救いを与えてくださったのです。そればかりか、新しい霊を授けて、新しい人として生きる事ができるようにしてくださいました。ですから、過去に縛られる事がなくなりました。それなのに、なぜ、過去の自分を復活させるのでしょうか。古い人はキリストの十字架の上に釘付けにされて死んでしまったのです。だから、後ろを振り返ってはいけません。今までうまくいかないことでも、今日はうまく行くと信じていいのです。なぜなら、今日の聖句をよく読んでください。どう思いますか。こんなに恵みが約束されているのに、なぜ信じてこの通りになろうとしないのでしょう。この聖句の最後の言葉は、「与えることのできる方です」と書いてあります。つまり、信じる者に与える事ができるが、信じなければ与える事ができないということです。なぜなら、自分の力で自分を義とする事ができない私たちも信じることはできるからです。幼子のような信じ方で良いとまで簡単にしてくださったのです。だから、信じることも難しく考えてはいけません。単純に信じていれば十分です。この御言葉をぜひご自分のものとしてください。
4月26日(日)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
コロサイ1:13、14
救われたということは、決して自分ではできないことをイエス様が成し遂げてくださったということです。それは、まさに暗闇の力からの救いなのです。力なので、簡単ではなかったのです。イエス様によらなければ無理でした。父なる神様は、暗闇の力から救い出しただけではなく、イエス様の支配下に私たちを移してくださったのです。そうでなければ安全ではないからです。だから、今もあなたはイエス様の支配下にいるので、何も心配しなくていいのです。イエス様の贖いは、あなたの罪を赦しました。だから、あなたは新しい生き方ができるようになりました。それは、主の愛によって生かされているようなものです。自分のことをこれほど思って愛してくださったのは、イエス様だけでした。だから、イエス様を愛して生きることが自分の喜びなのです。そうなると、イエス様に何かを献げたいのですが、自分が献げられる最高のものはと考えれば、結局自分しかいないのです。だから、イエス様のために生きようと決めると、人生はイエス様に近い所に置かれます。これがどれほどの祝福であるかわかりますか。日々のささいなことの一つ一つに感謝したくなるのです。イエス様の恵みが分かるからです。これが私たちが既に得ている喜びなのです。
4月27日(月)
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハネ7:12
この世の中には色々な人が存在します。しかし、よく見ると、一方に暗闇の中を歩いている人がいて、他方では光の中を歩いている人がいるのです。罪は人を暗闇へと誘い、知らない間に暗闇の住民になってしまいます。そうなると、不幸な人生を選んでしまい、そこから抜け出せないでいる人たちがいます。人間的な尺度で暗闇かどうか確かめることはできません。ただ、自分の人生に影がさしていたことは感じとる事ができるのです。あなたの知り合いの中にも、どうしてあの人ばかりが不幸な道を歩んでいるのだろうと思える人が一人や二人いるのではないでしょうか。うらやましいばかりに幸福そうに見えていた人が実は、暗闇の中にいた、というような事も珍しい事ではありません。それが罪人の現実なのです。ところがイエス様が世の光として来てくださったのです。イエス様があなたの暗闇を命の光で消し去ってくださるのです。そうなりたい人は、イエス様を信じて、従順に従う事です。それだけできれば、もう暗闇の中を歩く事はないのです。永遠の命を得させるための光ですから、光の中を歩いて行けば、やがて天国へとたどり着くのです。暗いと気持ちも沈みますが、明るいと気持ちは元気を取り戻し、はつらつとします。ですから、光の中を歩くと決めるのです。これからは主に従うと決めるという事です。良い人生を歩んでください。信仰は、それを実現できます。主がそう望んでいるからです。
4月28日(火)
神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように、あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。
詩篇67:2、3
私たちがあまりにも弱いので、主は憐れみを覚えるだろう。実際、クリスチャンとしての歩みは、頼りなく、誘惑に弱いかもしれない。それでも、信仰をいまだ保っている。それは、イエス様が羊飼いとしての役割を果たしていてくださるからだ。私たちは、羊飼いのお世話がなければ、生きていけない者なので、主の御声を聞き分ける。主はいつでも御顔を向け、明るく励ましてくださる。私たちは、願う、世界中の人々が主イエス・キリストを神と認めることを。そのために、私たちは主の憐れみを受け、祝福され、御顔の輝きを向けていただけるのだ。だから、あなたはいつでも神の特権の中に置かれている。決してこの世の人に倣ってはいけない。御言葉を調べて、主の教えに耳を傾けていよう。そすれば、自ずと何をすべきか、何をすべきでないか知ることになる。そして、周りに見えることに惑わされずに、主の約束を信じて生きよう。それは、祝福がいつもあるということ。そして、自分の弱さにすら主の御力が働くことを信じよう。今日も元気に生きよう。
4月29日(水)
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
使徒言行録1:3
主イエス・キリストのご計画は、神のタイムスケジュール通りに進んで行きました。十字架の出来事は、人類を罪から贖い出し、呪いから解放し、悪魔に勝利することでした。その次に、預言通りに三日目に死を打ち破り墓から復活しました。これで、死にも勝利をおさめたのです。人間を救うために重要な問題をこのようにことごとく主イエスは勝利して解決してくださったのです。最も重要なことは、復活です。死人がよみがえることを誰も信じないからです。ところが主イエスは、四十日間にわたって復活した姿を現して見せたのです。これこそ神の子の証拠なのです。そして、パウロは、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(Ⅰコリンと15:4~8)。主イエスは、こうして多くの証人を立てました。彼らには神の国について話しています。それは、やがて行く天国というよりも、この地上で主イエスを信じて救われる人たちが経験する神の支配のことでした。それは、彼らがしるし、不思議、奇跡を経験することからもわかります。この主が残された弟子たちによってできた教会が現代にまで続き、そして私たちの教会となったのです。
4月30日(木)
知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
詩篇4:2
クリスチャンは聖書では聖徒と呼ばれています。神様が救い出し、清めてくださったからです。それは、信仰という言葉が現しているように、神様を信じる事で、神様に近づく人のことです。聖書の御言葉も彼らには特別で、霊的な命の糧になっています。聖徒だからといって、清い事をしようと頑張ったりするのは一見良さそうですが、うまくいかないことが多いのです。そうではなく、神様との関係を密にする事が望ましいのです。神様を知ろうとする者はその願いがかないます。そして、神様に近づこうとすれば、神様も近づいてこられます。このように、関係が深まるようにと主は働いておられ、関係が深まるので、自ずと神様が特別に扱うことになります。何より良い事は、あなたが主を呼ぶと、主は聞いてくださる、という事です。これだけでも、すごい事なのですが、意外とこのような関係にある事を本人は気がついていなかったりします。あなたが思っているより、もっと主が聞いていてくださる事を知って欲しいと思います。必要な時には、主を呼んでください。