2017年2月ディボーション

*お詫び

 2月のディボーションの11日から15日までがコンピューターの不調で消えてしまいました。この間のバックアップがなかったために、欠落していることをお詫びいたします。

2月Ⅰ日(水)
親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。
箴言16:24
今日は誰かに親切な言葉をかけてみよう。口先だけで親切な言葉を言うことは難しい。簡単そうに見えて実はうまく言葉が続かないだろう。まずは心が親切であることが必要となる。それは、親切な行動からでもかまわない。そうすると、いろいろなところで時間がかかるかもしれない。お年寄りや小さな子供を助け、目の不自由な人がいたら勇気を出して声をかけたりすれば、当然時間がかかるのだが、その後は心が清々しいはずだ。そして、キリストは愛を実践したが、その言葉も親切だった。だから、この批判的な世界であえて親切な言葉を発する人になると決めてしまおう。自分の言葉が誰かにとって「魂に甘く、骨を癒す」としたら、素晴らしいことだと思わないだろうか。きっと、親切な言葉があな たの心を変えて、人生は随分楽しいものになるだろう。早速、誰かに試してみよう。(サクマ)
2月2日(木)
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
マルコ11:24
これは信仰者へのチャレンジでもあり、信じるということの意味を教えています。間違ったことのために祈ってもそれはかなえられることはありませんが、自分の心を注ぎ出すような祈りは力があります。そして、イエス様が教えてくださった祈りは、「すでに受けたと信じなさい」と祈りの極意を示されたのです。それでは考えてください。あなたは今どうしても神様にかなえていただきたい願いがありますか。そのことを祈った時に、すでに受けたと信じられますか。たとい時間がかかっても、その信仰を身につけるためにも、実践することに意義があります。信仰とは言葉ではなく、そのとおりになる力なのです。(さくま)
2月3日(金)
なずべきことはただ一つ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
フィリピ3:13、14
クリスチャンになると、人生に目標が定まります。多分、多くのクリスチャンはイエス・キリストのようになりたいと考え、聖なる者になることを願っているでしょう。しかし、それは言葉で言うほどには簡単ではないのです。熱心に立派なクリスチャンになろうと頑張ることもあるでしょうが、それではうまくいきません。色々なキリスト教の本を読んでもみても、便利な方法など書いていないのです。それで、がっかりすることもあるかもしれませんが、少しずつ神様は課題を与えますから、それを結局はこなしていくことになります。とても信仰とは関係ないように見えることでも、実は生活の全てが関係しているのです。神様は、信仰生活を深めるごとに、聖書がより理解できることを示してくださいま す。特に祈りが重要で、信仰と祈りが比例していることも事実で、聖書から学ぶ真理も祈りや信仰と深い関係があるのです。神様が義としてくださるのですから、人間的な努力は役立ちませんが、「義人は信仰によって生きる」と聖書にあるように、信仰は求められます。そこで、私たちは、まるでマラソンランナーにでもなったかのように、勝利の栄冠を目指して走り出しているのです。信仰によるマラソンです。調子の良い時もあれば、苦しくて棄権したくなる時だってあります。それでも、イエス様が励ましてくださるので、まだ走っているのです。パウロもそのことを私たちに告げています。賞を得るような走りを見せろと言っているのです。この挑戦を受けてみようではありませんか。(さくま)
2月4日(土)
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
ヨハネ15:16
このディボーションを読んでいるということは、あなたも主に選ばれているということです。私たちは、自分で信仰を持った気になっていますが、実は主に選ばれたのです。それがどれほどの特権であるかまだ理解していないかもしれません。しかし、み言葉の通りに、私たちは出て行って実を結ぶことができるのです。私の場合ですと牧師ですから、福音を伝え、聖書を教え、洗礼を施し、新しいクリスチャンという実を結ぶことができます。使徒ならば、教会を立ち上げるでしょう。伝道者なら、福音の種まきをし、求道者を見つけるでしょう。それぞれに役割があり、聖霊の賜物をいただきます。それらは、キリストへと導く働きです。そのためには必要なものは何でも願えば与えられるのです。この働き は聖なる権威が伴います。それは、主に任命されたからです。あなたも実を結ぶ時が来ています。(佐久間)
2月5日(日)
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。ヤコブ1:22
あなたは引っ込み思案だろうか。消極的で自分から行動を起こさない方だろうか。それならば、何か良いことを期待しても待ちくたびれるだけに終わるかもしれない。聖書には驚くほどの知恵が書かれてあり、何よりも真理がある。だから、読んで忘れているようではその宝を生かすことができないはずだ。聖書を読んで何かわかったと思ったなら、行動を起こすべきだ。主は、互いに愛し合いなさいと教えた。しかも、掟にしたのだ。愛し合うためには相手が必要だ。そこで、出かけて行って、誰かに親切にすることになる。まずは愛を示す必要がある。待っていても相手の人はイエスの教えを知らないのだ。だから、知っている自分から行動すればいい。これはビジネスでも、結婚相手を見つけることでも、 奉仕でも、就職でも、高価な買い物でも、多くの場合に効果があるのだ。勇気がなければ祈れば与えられる。消極的になればストレスが増す。楽観的になれば、楽しくなる。さて、今、あなたは何を望んでるだろう。まずは、楽しいことを考えてワクワクしよう。そして、祈ってから、出かけよう。小さくても良いので無償で良いことを誰かに与えてみよう。良いことはすぐにでも始まるものだ。(サクマ)
2月6日(月)
わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。
詩篇25:15~17
人生が上手く行かない人がいます。何が原因かもよくわからずに悩みが増していくのです。願わくば、平和な日々を送りたいだけなのに、悩みが勝手に湧いてくるように思えるほど心が痛み、辛いのですがどうすればいいのかがわからないのです。人に相談しても、誰も助けることができないなら、これは神様の領域です。人生が上手く行っている時には思わないのですが、このように足が網に絡まってしまったように、もがいてももがいても悩みから解放されないという事態になったなら、神様に必死になって嘆願するのです。思いつく限り悔い改めて、十字架に主の元に告白するのです。そして、主の憐れみにすがることです。あなたの信じている主だけが救うことができます。あなたの悩む心を解き放つこ とができるのはイエス・キリストだけです。信仰を発揮することです。祈りに時間を費やすことです。聖書に答えを求めることも必要でしょう。あなたの罪を赦すことも主が完全にやり遂げてくださいます。この時によく考えることです。主はあなたの絶対的な助けです。(さくま)
2月7日(火)
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
詩篇139:1~4
自分のことをいつでもちゃんと理解して欲しいと思うのは誰にとっても切実なことです。それを人間に求めると失望することが多いでしょう。ところが、聖書を読んでみると、今日の御言葉がそのことを語っています。つまり、神様はあなたのことを全部知っていてくださるというのです。それどころか、何か話そうと口を開く前にすでに主はその内容を知っておられるというのです。私たちは人を恐れて時々罠にかかるのです。それで、聖書では恐れてはいけないと繰り返し警告が書かれています。人を恐れない方法は、ただ一つ、人間以上の存在を畏れることです。つまり、神様が自分の全てを理解していてくださり、言葉で失敗することのある者であってもそれでも愛していてくださるということです。自 分の中では言いたいことがあっても、人前では言えないことの方が多いかもしれません。しかし、神様はその口を出ていない言葉を理解できるのです。それで、あなたを認めていてくださいます。神様以上の存在などありませんから、人にどう思われようが気にすることはありません。それがわかると、気が楽になって、逆に人前でも堂々としていることができます。人が色々言っても、余裕で聞き流せるのです。あなたのことを見ていてくださる方がおられるのですから、その方にこそ心を向けて生きていきたいですね。(さくま)
2月8日(水)
また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
ピリピ4:19
生活に不安を覚えたり、不足を心配したり、と人間が生きていく時に感じる必要を満たせるのか、という感情は自然なものです。今のような時代は、いくらお金をもっていたら安心できるのかと雑誌が特集を組むほど誰もが不安を抱えています。そのような時に、クリスチャンはどうだろうか。この世の信仰を持たない人と同じだったらちょっと残念です。クリスチャンは聖書に書かれたことを神の言葉として信じています。ですから、祝福されていることを単純に信じることができるはずです。聖書は、お金を追い求めることの危険を警告してはいますが、貧しいことが良いことだとは言っていません。それどころか、今日の御言葉のように、私たちの必要をすべて満たしてくださると約束しているのです。で すから、必要なものがなくて困るということにはならないと信じていることが大切です。自分のできることは誠実に果たし、他の人へ分け与えることも必要なのです。欲によって生きるのではなく信仰によって生きるのです。イエス・キリストへの信仰はいつでも報われるからです。(佐久間)
2月9日(木)
苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。主よ、あなたのような神は神々のうちになく、あなたの御業に並ぶものはありません。・・・あなたは偉大な神、驚くべき御業を成し遂げられる方、ただあなたひとり、神。
詩篇86:7、8、10
人生にはいつ何が起こるかわかりません。だからと言って不安におののいて生きることは愚かです。クリスチャンは、聖書に生きる人たちです。そこに、全てが書かれているから生涯手元から離すことなく繰り返し読んでいくことになります。そして、今日のような箇所を見つけます。このみ言葉を読むと、自分がどのような恵まれた特権の中に生きているかがよくわかります。人間などに頼っている人は失望するだけです。でも、真の神に頼る者にとって、これほど確実な安心と保証が他にあるでしょうか。あなたが窮地に陥った時に、真っ先に主を呼び求めるのです。すると、主は必ず答えて、あなたを助けてくださいます。それも完全にです。この世には色々な宗教があり、色々な神々を拝む人たちがいま すが、彼らの望みは、偶像として刻まれた枯れた木や石や金属で話すこともできません。命がないからです。これも空しいことですね。また、悪魔が偽りの神を装っても、神の御業に及ぶわけもなく、問題にもなりません。私たちの神は偉大です。讃美を受けるにふさわしいお方です。ただ唯一の神なのです。私たちはこの偉大な神を信じ、日々讃美する者として召されているのです。ハレルヤ。(佐久間)
2月10日(金)
あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになっかたからです。
2テサロニケ1:13
私たちはすぐに忘れてしまうのですが、聖なる者となるのは聖霊の力によるのであって、自力で努力してもそうなれるわけではありません。人間的には聖なる者を装うことができると思っている人もいるようですが、それは聖書に出てくるファリサイ派の人たちのようなものです。どこかに偽善が入り込んでしまうのです。逆に、聖霊が働きやすい人になることを目指しましょう。それは、自分の考えに固執しないことです。大抵、人間は小さな子供の頃にどんな親に育てられたかが大きく影響します。完全でなければいけないとついつい思ってしまうのは、親など子供の時に厳しく完全を求められて育った人に現れる傾向です。実際には、もう子供ではなく、大人になっているのですから、キリストに贖われて 過去に対して解放されているのです。主が自由にしてくださったのです。その自由を聖霊の導きに従う信仰を持って生きるのです。真理の御霊は、聖書の活字を生きた真理としてあなたに示してくださいます。あなたは理解できるので、信じてその通りに生きようとするでしょう。あなたは、このように救われる者として選ばれているのです。(佐久間)
2月16日(木)
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
1ペトロ1:23
あなたが信じたのはイエス・キリストの福音です。あなたはいい加減に信じたのではありません。聖書に書かれていることを信じたのです。信じると心が開かれて、御言葉の種が蒔かれます。あなたの心は畑であるとイエスは譬えで話されました。そして、聖霊の雨を降らせてくださいました。聖書に書かれたことは信仰の無い人にとってはただの活字にすぎないかもしれませんが、あなたは信仰で受け止めようとしています。だから、わからなければ祈り求め、聖霊は真理の御霊として解き明かします。あなたは、そうやって新しく生まれ変わったのです。書かれたことの意味が分かるたびに、あなたは生まれ変わってきたのです。実感がないのなら、それはまだ信仰で生きることがうまくできていないからです。主にもっとへりくだる必要があります。自分の力で生まれ変わっているわけではありません。主の偉大な御力で、生きた言葉によって新たに生まれたのです。ですから、過去に苦しめられて生きる必要はありません。新しく生まれた者として生きましょう。(佐久間)
2月17日(金)
わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取り憑かれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。・・・パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て言った。
使徒言行録16:16、18
見えないものは信じない、神や霊など非科学的で迷信だ、と豪語する人たちでも信じていないと言いながら占いを気にしている。朝の民放テレビはどこでも占いを平気で流している。あまりにも占いが手軽に身近にあるので、誰もが当たり前のように占いを見るのが現代社会だ。それでは、聖書には占いをどう書いてあるのかといえば、占いを禁じている。それどころか「占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(申命記18:10、11)と徹底的に禁じているのだ。その理由は、今日の聖句を読めばよくわかると思う。「占いの霊」が働いているからだ。これも悪霊で恐ろしい災いの元である。だから、占いをした人はすぐに悔い改めの 祈りをするべきだ。キリストによって清めていただくことも忘れてはいけない。信仰は、主が良くしてくださると信じて疑わないので、たとい災いが来たとしてもそれすらも益に変えてくださると信じているものだ。そのような主への信頼はうらぎられることはない。遊び半分でも占いは避けるようにしよう。(サクマ)
2月18日(土)
それでハヌンはダビデの家臣を捕らえ、ひげを半分そり落とし、衣服も半分、腰から下を切り落として追い返した。この人たちが甚だしい辱めを受けたという知らせがダビデに届くと、ダビデは人を遣わして彼らを迎えさせ、王の伝言として、「ひげが生えそろうまでエリコにとどまり、それから帰るように」と言わせた。
サムエル記10:4-5
 
これは、アンモン人の王が死んで、ダビデは王の子と今までと同じように友好関係を続けるために弔問の使節を送った時の事件です。外交の難しさが良くわかります。若い王に側近はダビデに悪意があって探るために使節を送ってきたに違いない、と言ったために、若い王は、ダビデの使節団に屈辱を与えてしまったのです。イスラエス人はセム族なのでひげを剃ってはいけないのです。そのひげを半分剃り落とすのは屈辱です、それだけでなく衣服の腰から下を切り落として、下半身を露出させるというこれ以上ない辱めを行なったのです。日本の戦国時代に外交使節が使命を果たせずに、甚だしい屈辱を受けたとなれば、これはもう切腹ものです。生き恥を晒して帰ることなどできません。主君の顔に泥を 塗ることになるからです。ところが、ダビデはエルサレムの手前のエリコに滞在して、ひげが生え揃ってから帰るように命じたのです。面子を重んじるイスラエル人の男にとって、これはどれほどありがたかったことでしょう。ダビデの魅力であり、強さはこのようなところにもはっきり現れてきます。人の心をおもんばかることができるのです。このような場面で激怒して、良くも私に恥をかかせた、と部下を怒り、罰しても意味がないのです。それよりも、部下の屈辱と悲しさ、主君のために使命を果たせなかった悔しさ、面目を失った男の惨めさをそっと受け止めて、恥をこれ以上かかせない思いやりが大切なのです。あなたは人の面子を考慮しているでしょうか。自分のことに心を奪われていると近くにいる の人のことを何も気づかないで過ごしているかもしれません。ちょっと相手の気持ちを考えてみましょう。(さくま)
2月19日(日)
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
マルコ6:12、13
イエスは弟子たちを二人一組みで遣わしました。その時に、「汚れた霊に対する権能を授け」ました。今日も、人間の状況は変わっていません。人間を悩ませるものは、罪と死、そして悪霊です。目に見えないものを信じなくなった現代人は、それでも悪霊の脅威にさらされて一人恐怖していることがよくあります。全く気がついていないために人間関係に異常なことが起こっていたり、災いがよく起こったり、心がおかしいと苦しむことが起こっても、それが悪霊の仕業だとは夢にも思っていないのです。もちろん、全てを悪霊のせいにするのも危険で、霊的な見分けが必要となります。神学校のある教授が自分は牧師ができないとおっしゃって、驚いたことがありました。確かに普通の人が考えれば牧師の仕 事は24時間気が抜けないし、誰でも受け入れるのでおかなしな人も危険な人もやってきますし、問題を抱えた人が訪ねてくるわけですから、そんな仕事はしたくないと思うのはもっともなことです。ところが、実際にはイエスが弟子に権能を授けてくださったように、牧師にも、信徒伝道者にも権能を授けてくださるのです。牧師は祈りで問題解決をはかります。つまり、自分力ではなく神の御力に頼っているわけです。それで、驚くような解決を何遍も見ているので、神を信じることが大きくなるのです。現代でも、悔い改めのための宣教をし、多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒すキリストの弟子が必要なのです。あなたもそのために召されたのではありませんか。祈ってみましょう。(佐久間)
2月20日(月)
だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の許しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
使徒言行録13:38
パウロの説教の一部が今日の聖句です。場所は、アンティオキアです。安息日に会堂で促されてパウロが話し出します。それはユダヤ人へ向けた福音でした。パウロが伝えていたことはイエス・キリストのことでした。このイエスを信じれば、イエスの故に義としていただけるというのです。そして、ユダヤ人にとってはショックであったと思いますが、モーセの律法では義とされ得なかったということです。ユダヤ人たちはそれですぐにイエスを信じるというわけにはいかなかったのです。律法を守れればそれに越したことはありませんが、実際には誰も完全に守れなかったのです。唯一の例外はイエスです。だから、もし、あなたが自分の力で律法を守ろうとしているなら、それはがっかりする結果に終わる でしょう。新約聖書をよく読めば、イエスの復活の命と同じ命を信仰者がいただいて、その新しい命に生まれることが教えられています。そして、それは聖霊が神の息として吹き込まれたことによります。つまり聖霊が内住されることによって、律法と調和するようになるのです。それは、愛することで確かめることができます。まず、神を愛することから始まるのです。そして、神に愛されている経験をすることが人生を変えることになります。そのように導かれるのはイエスで、神と愛し愛されるようになることが義となることなのです。(佐久間)
2月21日(火)
わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。
詩篇55:17、18
自分でうまく生きていける時には決して思わないのですが、一旦不調に陥ると自分の力ではどうすることもできなくなます。人間に頼ってもうまくいかないので、神様にすがるしかないと、最後の頼みの綱のように頼ります。ヨブほどには強い信仰を持っているわけでもなく、困った時の神頼みだ、と言われても仕方ない事なのですが、それでも神様にすがりついて助けていただきたいのです。一体、そのような時に、どうやって祈ればいいのでしょう。どう祈れば願いを聞いていただけるのでしょうか。何が問題なのでしょう。自分に執着しているからでしょうか。何か隠れた罪があるからでしょうか。悪霊にでもやられてしまったのでしょうか。それとも、信仰がないのでしょうか・・・。このような事態に 陥ったなら、神様はあなたを呼んでいると思ってください。人間的な事にかまけていてはいけません。すぐに「神様!わたしは何も言いません。ただ聖書に書かれた通りにしてください」と祈りましょう。神様はあなたの声を聞いてくださるはずです。ただ、イエス様だけに頼りましょう。イエス様はあなたを必ず救います。それは見事にです。(さくま)
2月22日(水)
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔をあげられるはずではないか。正しくないのなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
創世記4:6、7
人間にとって最も厄介なことは、罪のことだ。なぜ罪を犯すのか、悩む者は多い。罪の前兆は、怒る、顔を伏せる、こんなことでわかる。怒りは、脳が整理できなくなった時に起こる。自己を正当化したいのに相手が認めてくれないと、どうして自分が正しいか説明したいのだがそれがうまくできないと怒りとなるのだ。神は唯一正しい存在で、決して嘘を突き通せる相手ではない。そこで、正しくないと人間は神の御前に立たされることが一番の苦痛となる。しかし、素直に自分が正しくないとは認めたくない。そこで、顔を伏せることになる。神はそれを見て、罪は戸口に待ち伏せていて非常に危険な状態にあることを示す。だから、「それを支配せねばならない」と語られるのだ。なぜカインはこのような ことになったのだろう。全ては神との関係で彼は間違いを犯している。神に受け入れられるものを献げるべきなのに、彼は神を侮ったのだろう。一方、弟は正しい献げものを神に献げた。当然神は弟の献げものだけ目を留められた。私たちはどうだろう。神へ何を献げているのだろう。それは良しとされているだろうか。実は、私たちの献げものはイエス・キリストである時に正しい。イエス・キリストを信じる、ということの意味はこのようなことを含んでいるのだ。そうでなければ主が十字架にお架かりになることはなかった。その主に、従うことが信仰だ。従う条件は自分を捨て、自分の十字架を負って従うことだ。神は「支配せねばならない」と言われたので、そのことを考えてみよう。きっと良い気づきが あるはずだ。(サクマ)
2月23日(木)
怠け者は冬になっても耕さず、刈り入れ時に求めるものが何もない。
箴言20:4
パスレチナでは秋に耕すのですが、冬になっても耕さない怠け者が、刈り入れの時になって期待するということの愚かさを指摘しています。これは、怠け者は、しなければならないことをしないでいて、結果だけは期待する、ということを戒めている箴言です。もちろん、農業に限ったことではありません。日本も冬ですが、農家の人は田の手入れをちゃんとしています。トラクターで耕していました。あぜ道も枯れ草を借り、火をつけて焼いていました。害虫駆除でしょうか。人生にも冬のような厳しい時があります。この時に、何もしないで嘆いていることもできますが、実は、この時こそ耕す必要があるのです。それは自分の心を耕すことかもしれません。その時々にすることがあるのです。全ては刈り入 れの喜びの日を最高にするためです。物事には暗い面もありますが同時に明るい面もあるものです。暗い面だけを見ていると動けなくなります。急いで、明るい面を探して見えるようにしましょう。そうすれば、動くことができ、ちゃんと耕すこともできるのです。何もしないで良いことだけを期待しても、がっかりするだけでしょう。教訓を学べば、道は開かれるものです。(佐久間)
2月24日(金)
たかぶる者は偽りをもって私に汚名を着せます、しかし私は心を尽くしてあなたの教訓に従います。彼らの心は太って鈍くなっています。しかし私は絶えずあなたの律法を喜びます。
詩篇119:69、70
人間には色々なタイプがいるようで、実は二種類だけです。神様を本当に信じて崇めている人と、そうでない人です。神様を畏れない人は悪意に躊躇がありません。平気で人に汚名を着せるように偽りを使うのです。そうした人の心は脂肪に閉ざされて鈍くなっています。他方、神様を第一にする人たちは、律法と調和する生き方になって行くのです。律法主義者のように自分を義としようとして神様の目をごまかせるかのように振る舞う者とは全く別のものです。神様の善、律法の善の一部に罰があることもこの詩篇が示しています。「私は罰せられる前には迷いました。しかし今はあなたの約束に心をとめています。」(67節)。神様はあなたを教えて時に教訓を与えます。それを決して忘れてはいけませ ん。この詩篇の記者のように、神様の善(律法)を喜ぶ者になりたいですね。(さくま)

 

2月25日(土)
わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
イザヤ43:10、11
これほどまでに、主はあなたに訴えておられます。あなたの主はこの聖書の神様だけです。そして、神様はあなたを選んでいるのです。それゆえに、あなたは主を知ることができます。そして、主を信じ、理解することができるのです。これほどの特権はありません。他の神々はどうだろうと気にすることはありません。なぜなら、他には神様は存在しないからです。あなたが信じている神様だけが生けるお方なのです。主は、繰り返しあなたにご自身を示し、「わたしのほかに救い主はいない」と啓示されたのです。ですから、あなたはどのような境遇にあろうとも安心して良いのです。あなたを主が救ってくださるからです。そこで、あなたは主の証人であることを自覚しましょう。あなたは主の証人なので す。この意味を祈りながら主に確かめてみましょう。素晴らしいことがあなたの身に起こりますように。(さくま) 
2月26日(日)
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
Ⅰコリント2:14
真理に堅く立つとどうゆうわけか四方八方から苦しめられることがあります。人間的に理解できることならば、放っておいてくれるのですが、神から来た真理は、肉では理解できないのです。パウロは生まれながらの人間は聖霊のことがわからないと言いますがその通りなのです。どんなに頭が良くても、人間の能力以上のことは理解できません。しかし、生まれながらの人間が清められ、聖霊を注ぎ込まれたなら、どうなるでしょう。霊的なことや神的なことを理解することができるようになるのです。聖書にも出てくる聖霊のバプテスマを受けた弟子たちのように異言を語ったり、預言をしたり、病気を癒したり、悪霊を追い出したりと様々な霊の賜物を現して、主イエス・キリストの働きを続けることもし ます。しかし、水のバプテスマを受けただけでは霊のことを理解できないのです。聖霊が内にいて働かれることが必要なのです。そして、これは求める者全ての信仰者に与えられるものなのです。ただ世俗化した現代では、教会の中でも霊的な事柄は理解されなくなってきました。知識であれば問題ないのですが、実際に聖霊によって何かが起これば、疑いと拒絶が起こります。実際に聖霊の御力で癒しなどが起これば、その人に批判が集中することも、中傷が始まり傷つけることも起こるのです。残念ですが、これが悪魔が長い時間をかけて教会にもたらした恐ろしい結果なのです。しかし、このことも「神のふるい」となっていて、後にその結果も知ることになります。なぜなら、この時代でも聖書を調べて書か れたことを信じ、聖霊のバプテスマを受ける人たちがいるからです。真理を知りたいのなら、聖書に書かれた通りに聖霊を求めることです。聖霊に満たされることを祈り求めましょう。そして、真理を知ることです。(佐久間)

 

2月27日(月)
主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
詩篇18:29
わたしの霊の賜物の一つはビジョンを見ることです。それで、誰かのために祈ることが多いのですが、その時に、今日のみ言葉の通りに、闇を照らしてくださる主の働きを見ることがあるのです。信仰者が霊的に調子の良い時には光が満ちています。神様が愛を注いでいる時には、光は金色に見えます。どのクリスチャンも神様に深く愛されていることを知っています。ご本人がどう感じているかはわかりませんが、人の灯を輝かせるお方は主のみです。そして、主はいつでもあなたの味方であなたを恵みで満たしたいのです。何か具体的な思い煩いが心を暗くすることもあるでしょうが、それでも主に信頼を置いて、今日のみ言葉のように祈りさえすれば、悪魔の悪巧みも消え去り、すっかり心を明るくするこ とができます。あなたに与えられている神様の祝福は大きいのです。ですから、信仰を現して、いつでもすこやかに信仰生活を送ることができるのです。今日も、恵みの日となりますように。(さくま)
2月28日(火)
あなたのような神が他にあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。・・・主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
ミカ書7:18、19
いったい神様はどれほど罪を赦されるのでしょう。神様は人間と違って徹底して完全に罪を赦すことができるのです。人生で難しいことは、自分との関係かもしれません。自分が誰からも賞賛されるような素晴らしい生き方をしていればどんなにいいでしょうか。しかし、怠けるのも自分だし、罪を犯すのも自分なのです。良いこともできるのに、罪も犯してしまうのです。もっと違って生まれてきたらよかったのに、とか、いっそ生まれてこない方が良かった、と言ったり考えたりするのも人間なのです。誰かを好きになったり愛したりするのは素晴らしいことです。しかし、それが上手くできなかったり、相手に受け入れてもらえないとひどく落ち込むことになります。そうなると罪深くなります。神様を呪 うかもしれません。自己中心性はなかなか抜けないのです。イエス様のような犠牲的な愛など理解できないかもしれません。しかし、主の救いはそのような人間を変えることができるのです。それは、罪を完全に赦すことです。すべての罪を海の深みに投げ込まれる主の完全な赦しは私たちを変える力なのです。罪を初めから犯さなかった者のようにしてくださるから、新しく始めることができるのです。そのように完全に赦されたのに、未だ赦されていない者のように生きてはいけません。もう罪に支配されないために、神様が罪を赦されたのです。だから古い自分にこだわる必要もないのです。過去からも解放されたのです。過去の苦痛を伴う記憶もすでに海の底に沈んで消え失せているのです。あなたが悔い改 めたのも主が導いてくださったからです。赦された者として生き生きと生きるのです。主に感謝します。(さくま)