2024年5月ディボーション

5月1日(水)

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

Ⅰテサロニケ5:14

 

私たちは、自分の自覚として神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者、と感じているか考える必要があります。多くの場合、自分は足りていないと思っているようです。肝心なのは、クリスチャンであるという事実が、あなたが神に選ばれた者であると証明しています。そして、聖書に書かれた通り、あなたは聖なる者とされたのです。あなたが何か聖なる者になろうとして鍛錬したり、修行のようなことをしたからではありません。あなたは自分はでは何もしていません。それでも、あなたの信仰が奇跡を起こしているのです。あなたは、キリストのゆえに聖なる者となりました。それを信仰で認めることです。そして、さらに天の父に愛され、主イエス・キリストに愛され、聖霊に愛されているのも事実なのです。あなたは本当に恵まれた人なのです。そして、さらに重要なことは、クリスチャンの生き方として、注意点があるということです。これは、自分で努力無しに恵まれた存在であることを理解したあなたに、実際に神の子となっていることを知っていただくためにも大切です。つまり、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ける必要があります。これは意識しなければ達成できません。ですから、多少の努力が入ります。しかし、心に覚えて心掛けていれば、日々の生活の中で身に着いてくるのです。その時に、あなたは、初めにあった、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者であると自覚することができます。今日から挑戦してみましょう。

 

5月2日(木)

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5、6

 

信仰の秘訣は聖書に書かれています。私たちは難しいことは嫌いで、どうしても安易な方へ流れやすいのですが、それで、間違ってしまうのは困ります。だからと言って、ファリサイ派の人たちのように自己義認に陥りたくもありません。信仰はそもそも難しいものではないはずです。子供でも信仰を持てるのですから。主も幼子のような信仰を認めています。それよりも問題なのは、「自分の悟りに頼る」ことです。キリスト教の歴史でも、ここからカルトが生まれ、誤謬が教会に入り込んだのです。やはり、「心を尽くして主に拠り頼め」とある通りです。留学している時に、カナダから来ていた教授は、昔牧会していた教会に来ていたある家族が、のちにアメリカでカルト教会を作ってFBIと銃撃戦を行ったと話してくれました。日本でも新聞に載った事件です。再臨信仰を説く教団やダニエル、黙示録を強調する宗教から、カルトが生まれる傾向があります。もし、彼らが今日の聖句を真剣に受け止めていたなら、どうであったかと考えてしまいます。先に出てきたカナダ人の教授は、彼らは普通の家族だった、と嘆きます。決しておかしな人たちではなかったと言っていたのが印象深いです。つまり、誰でも正しい信仰から外れる可能性があるということです。それを防ぐ方法が、知恵として今日の御言葉に書かれていたということです。

 

5月3日(金)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

ガラテヤ3:26、27

 

パウロを好きな人は多くいます。クリスチャンとは何かを教えてくれるのもパウロです。私たちが、信仰を持って生きることがいかに素晴らしいことであるかを教えてくれたのもパウロでした。その「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と言われると、初めは戸惑うかもしれませんが、やがてその通りと思うようになります。それは良いことです。さらに、洗礼の意味を教えしえています。教会で「キリストを着ている」という発言は、多々あります。それは、洗礼によってキリストと結ばれるという表現の通りで、実は、一つになれるのです。それは、キリストに愛され、その愛に愛を持って応える関係なのです。そして、霊的な神秘は、「キリストを着る」という独特の表現です。そのものずばりで、キリストを着ることがキリストのように生きることにつながるのです。

 

5月4日(土)

ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

ヘブライ9:26b~28

 

キリスト教の真理は、決して難しくありません。誰にとっても理解できる分かりやすものです。今日の聖句を読んでみても、しっかり読めば意味がわかります。イエス様が十字架にかかられたことは、やはり、私たちを罪から救うために、いけにえとしてご自身をささげられた姿なのです。これ以外に罪から救う方法がなかったので、イエス様が天を降って人の姿になり、現れてくださったのです。私たち人間は必ず死にます。それはただ一度です。そして、その後に裁きを受けることが定まっています。キリストは多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられました。復活された主は、多くの証人を残して昇天されました。そして、二度目に私たち人間のもとへ来られるのは、十字架にかかるためではなく、主を信じて再臨を待っている信仰者のために、救いをもたらすために現れてくださるのです。これは、難しいことではありません。誰でも、理解できることです。つまり、主イエス・キリストは再臨されるのです。それも、万軍の天使を従えて、信じて眠りについた者も目覚めさせて、生きて再臨を迎えた人たちと共に天へ連れ帰るのです。救われる者は自分の目で主を見ます。その喜びは筆舌に尽くし難いものです。長い年月を信仰を持って主に忠実に生きてきたクリスチャンにとっての最大の勝利の日となります。そのことが聖書に書かれているのですから、信じて主を待望しましょう。

 

5月5日(日)

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26

 

クリスチャンが神の子であるというのは、聖書の主張です。ただ、ここでは、「キリスト・イエスに対する信仰によって」神の子であると言っていますが、ヨハネの福音書も同じような言い方です(ヨハネ1:12)。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)とも書いてありますから、信仰だけでなく、「聖霊に導かれる人」という特別な条件もつけられています。それは、「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラテヤ4:6)とありますから、この聖霊によって「アバ、父」と私たちも天の父を呼ぶことができます。これほどの素晴らしさは、他にありません。神の子であることが確信できれば、人生は自ずと良くなります。そして、御子から多くを学ぼうとする意欲も湧いてきます。神の子であることがその人の信仰を強め、父なる神様への愛を深めることになります。しかし、このことの真の意味は、天国へたどり着いた時にはっきりします。今は、自分が誰であるかを心に刻み、それに相応しい信仰生活を送りたいものです。

 

 5月6日(月)

主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

申命記31:8

 

クリスチャンの人生は、出エジプトのようなものです。この世で罪の奴隷であったところから始め、キリストがエジプトのファラオのようなサタンと戦い、救い出されたのです。カナン(天国)への旅路は、紆余曲折の末にヨルダン川を渡りましたが、それまでになんと40年もの年月を費やしていました。その全てを荒野で過ごしたのです。彼らがもっと素直で主に従順であったら、この長い試みの時間は短縮されたように思います。一方、私たちは、どうでしょうか。主に従順であれば、荒野の試みは必要ないのですから。しかし、私たちの人生は、試みに満ちています。そして、今日の聖句のように、主は私たちを苦しめるために荒野の試みを行っているのではなく、不従順な私たちをなんとしても天国へ導き入れようとされているのです。「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と書かれている通りです。私たちの希望は、自分にあるのではなく、主にのみあるのです。ですから、「恐れてはならない、おののいてはならない」のです。それは主への不信仰になるので、私たちはどんな時にも、主への信頼を表す必要があるのです。

 

 5月7日(火)

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

しかし、わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

ヨハネ4:13、14

 

人は水を飲まなければ死にます。生きるために水を飲んでいるのです。人は不思議に思っていないのですが、水を飲んでもまた必ず渇くことを疑問に思いません。そのような仕組みだと思っているのです。イエス様の与えある水は何か秘密があって、一度飲めば渇かないのかといえば、そうであり、そうでないのです。そもそもイエス様の言っている水は何かと考えることが大切です。この水は、聖霊なのですが、イエス様の説明だと、「わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言っていますが、我々が考える水のことではありません。生きるの必要なものとしての水に例えて、聖霊の必要を説明しているのです。ここで、理解するために、水を聖霊に言い換えて説明すると、聖霊はその人のうちで泉となり、永遠の命への聖霊が湧き出ます。となります。これは、驚くべきことなのです。普通、聖霊のバプテスマを受けて覚醒すると、素晴らしい聖霊体験ができますが、日を追うごとに消えていくのです。ところが、イエス様の説明通りだとすると、聖霊の泉ができているので、聖霊がいつでも湧き出てくるので、霊的に渇くことがないと言っていることになります。これが信じられるのは、覚醒するまでは聖霊の存在自体がわからなかったのが、聖霊のバプテスマで人生最大の喜びを体験して、その喜びが消えていくのを聖霊が消えていくと勝手に思い込んでいたのです。しかし、聖霊に覚醒している人は、信仰によって聖霊の恵みにあずかることができるのです。信仰がいかに大切かわかると思います。そして、聖霊の目的が、賜物に目が行きやすいのですが、実際には実を結ぶことであり、一番は霊的に渇かないということなのです。

 

 5月8日(水)

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛と憐れみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

イザヤ63:9

 

イスラエルの歴史は、人と主の歩みの記録です。ただ、イスラエルは偶像を拝むようになったり、主を大切にしないことがしばしばあった。そのために、墓穴を掘るようなことがあって、国難を引き起こし、苦しみの中に投げ込まれてしまうようなことをしてきたことが聖書を読むだけでもわかります。本来なら、唯一の神を拝んでいるのですから、他の偶像を拝むことは考えられないのですが、実際にはそうなってしまいました。ですから、イスラエルには、偶像が無いはずなのに多数の偶像を祀っていたことがなん度もありました。そのために、国を失い、捕囚に遭うという悲しい経験もしてきたのです。それも、北王国のイスラエルと南王国のユダの両方が、別々にアッシリヤとバビロンにそれぞれ、破れて連れ去られたのです。バビロンに連れて行かれた者の一部はペルシャの時代に帰還しますが、アッシリアに連行されたイスラエルの民は戻ってきませんでした。これほどの経験をしても、イスラエルの国は、再建してエルサレム神殿も再建し、キリストを迎えました。しかし、キリストを十字架につけ、キリスト教を迫害し、紀元70年にローマ帝国に滅ぼされてしまったのです。しかし、失われた10部族(北王国の民)とダビデ王朝の人たちはバビロンから帰還せず、アジアの何処へと消えて行ったのです。そして、昨今では、こうしたユダヤ人たちが日本に渡って来たと言われるようになり、その痕跡を探るようになって来ました。そのうち、あっと驚くようなことがわかるようになるかもしれませんが、私たちは今はクリスチャンとして、今日の御言葉の通りに守ってくださる主を信じて、安んじて信仰生活を送りたいと思います。

 

5月9日(木)

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

ヤコブ3:13

 

クリスチャンの生き方は、特別です。それは、キリストが受肉して私たち人間と同じになったので、完全な模範になられたのです。神様は見えずにわからない存在でしたが、イエス様は私たちと同じ人間になり、見えるので分かります。それが、イエスが受肉した意味でもあるのです。私たちがイエス様を通して神様の真理がわかるからです。それ以上に、私たちの模範であれば、真似ればいいことになります。そして、イエスに倣う人たちがキリスト教会史の中で、数多く出現したのです。現代に生きる私たちにとっても、イエス様が模範となっています。到達すべき目標であり、イエス様と一つになりたいのです。さて、今日のところで大切なのは、「知恵があり分別がある」者です。そして、「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」とあります。知恵と柔和が密接に結びついています。柔和は行いと結びついています。「立派な生き方によって示しなさい」とあります。今日、知恵と分別のあるのは、あなたです。それはあなたの信仰と自覚により、明確に現れてきます。あなたは、普通の人ではありません。聖霊によって生きることができるからです。喜びなさい。信仰を働かせて、喜びを味わうことができます。自分の生き方を少し考えてみてください。「知恵にふさわしい柔和な行い」になっているかを点検しましょう。これが大切なので、聖霊の実である柔和を求めましょう。すぐに感情的になる人には無視し得ない重要な課題です。これも恵みで得られるので、求めましょう。立派な生き方によって示しましょう。

 

5月10日(金)

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。

しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず

わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと

あなたを憐れむ主は言われる。

イザヤ54:10

 

私たちが信仰を持っていることは、何よりも心強いことなのです。人間は自分の力に頼って生きるように訓練されて来ました。しかし、実際の人生には自分の力では役に立たないこともあるのです。だれか力のある者に頼ることもできますが、そのような助けは高くつくものです。それに、実際には当てにならないのです。その助けると言った人自身が助けられないとわかると、すぐに逃げ出すからです。このように人間は当てにならないところがあるのです。しかし、私たちはイエス・キリストによって救われているので、必ず助けていただけます。私たちに問題があって、自業自得の結果になっても、それでもまだ、悔い改めれば、主の赦しが期待できます。できれば、神様の期待に応えられるような立派な者になりたいのですが、そう簡単ではありません。しかし、そもそも立派な者だから救われたわけではありません。それは、不思議なことに主が探し出し、救ってくださったのです。それだけです。ですから、私たちは喜ぶのですが、自分がどれほどの者であるかよく知っているので、これではダメだと思ってしまいます。もちろん、カッコよく義人ですと見せびらかして、人々や主から称賛を得たいのですが、それとはかけ離れた者でしかないのです。そこで、何か魔法のように義人になれる方法があるのではと聖書を調べるのですが、聖書はイエス・キリストのことばかり書いてあるのです。つまり、救いの本質は、主イエス・キリストによることなのです。私たちはそのイエスを信じることだけなのです。不思議なことに、それでは満足しない人がいるのです。今日の聖句を読めば、主があなたを救うのは、あなたを愛しているからです。それだけなのです。あなたに期待しているのは、主を愛し、天の父なる神を愛することだけです。そのことをよく考えてみてください。

 

5月11日(土)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

ローマ8:1

 

クリスチャンにとってキリストとの関係はとても重要です。今日の聖句では「キリスト・イエスにある」とあるように「ある」書いてあります。新共同訳では、「結ばれて」となっています。いずれも抽象的でピンときません。しかし、私たちが罪人であるのに、イエス・キリストを信じて救われた時に、確かに罪からの解放、赦しを得たのです。それは、キリストが十字架で血を流し命を持って私たちの罪の罰を支払ってくださったのです。ですから、私たちはキリストのものであるのです。重要な点は、そこで、その救われた人はどのようにこれから生きていくのかということです。以前と同じであればまた罪の中に戻ってしまいます。それでは、どうすればいいのでしょう。ここで、「ある」者という言葉が教えているのです。目指すところはイエス・キリストと一つになることです。ヨハネの福音書の中では「私は命のパン」と教え、私の肉を食べ、私の血を飲めと教えました。これも、実は同じことを言っているのです。食べた物はその人になっていくからです。ですから、キリストに倣うのです。キリストの言動を学び、教えに心を向けます。キリストの真似をしてるようです。こうして、生活が変わり、言動が変わり、思考が変わります。さらに、命である血を飲めと言われたのですから、自分の命ではなく、キリストの命で生きるのです。これらは、信仰によって実現します。このように、キリストにある者としての自覚を持って生きるのです。自分で考えてまだ正しく生きようなどと頑張る人は、何もわかっていませんが、霊の力で自動的に変わろうとする人も何も得ることがないでしょう。聖書に出てくる人物をよく見れば、分かります。私たちのように普通に生きているからです。その中で、神様が第一になっているのです。私たちは、キリストにある者であろうと信仰を働かせています。ですから、今日の御言葉はあなたにとって真実となるのです。

 

5月12日(日)

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

ガラテヤ5:13、14

 

クリスチャンの救いというのは、「自由を得るために召し出された」と書いてありますから、第一に自由となったことを挙げるなければなりません。この自由は、罪に対する自由です。そして、クリスチャンになったら、どうすればいいのかと問われたら、今日の聖句をまず示すことです。自由になるということがどれほど価値があるかということです。以前は、罪の奴隷だったのですから、喜ぶべきことなのです。ただ、自由になったので、自己責任が生じます。それは、「肉に罪を犯させる機会せずに」とある通り、未だ罪を犯すことができるのです。それは、自由だからです。ですから注意が必要なのです。自由を放っておけば、肉に罪を犯す危険があるのです。そこで、クリスチャンは「愛によって互いに仕えなさい」と命じられているのです。しかし、そのことをあまり、重要な教えとは捉えていないのか、時にはこの世以上に対立することも見られます。クリスチャン同士の関係がこのように定められているのですから、いつでも覚えて実行しなければなりません。「仕える」というのは、へりくだりを表していますから、謙虚でなければなりません。クリスチャンが目指すべきは、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めです。これが、世の人がクリスチャンを愛し認める理由です。今日は、このことを心に覚えて一日を過ごしましょう。

 

5月13日(月)

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ41:10

 

私たちは、神様を信じています。それでも、大変なことに直面すると、すぐに不安になって恐れてしまう傾向があります。その困難との戦いの中で今日の御言葉を必要としているのです。クリスチャンでも試練に遭うこともわかっているし、時には自分を脅かす人に悩まされることもあるでしょう。その時にも、今日の御言葉は助けになります。信仰を鼓舞して、どう祈ればいいのかわかるでしょう。クリスチャンが日々、神様に感謝して生きていくことが一番ですが、それでも、この世の中に出て行けば、恐れてしまうような事態に陥ることも予想されます。そんな時に、この御言葉を思い出して欲しいのです。そして、この御言葉が真実であることを体験してください。神様のお守りがあることを知って欲しいのです。このような特別な神様のお守りに感謝し、信仰を持って良かったと思うはずです。

 

5月14日(火)

正義を洪水のように

恵みの業を大河のように

尽きることなく流れさせよ。

アモス5:2

 

どんな世界なら人々は幸せなのだろう? そのようなことを考える人は決して多くはありません。しかし、人間が普通に当たり前に生きるには、正義が必要です。正しいことを正しいと言えない社会は昔からありました。歴史を学べば、正義とは何かを問い続けているように見えます。社会が複雑になればなるほど、正義が危なっかしく感じられてきます。法治国家は、法律が大切な正義であるはずなのですが、その法を上回る力があります。なんとか正義を実現しようとしても、それを妨げる人が出てくるのも昔から変わりません。人間の罪深さです。しかし、それ以上に人間が必要としているのに、なかなかもらえないものが「恵み」です。クリスチャンになると、恵みを知ることになります。神様の恵み、イエス様の恵みです。確かに人間の世界で、正義は大切であると言います。しかし、その正義が踏み躙られることがあるし、人間の不正によって正義が信じられなくなることもあります。一方で、テレビで「水戸黄門」を観て喜ぶのは正義が勝つからです。それが良いことであると知っているのです。それなら、聖書に書かれたように、正義を洪水のように尽きることなく流れさせればいいのです。正義が一人歩きせ売ればギスギスするかもしれないので、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせることが大切です。つまり、正義と恵みはセットで大事ということです。もし、罪人の罪を正義で裁けば、私たちは死刑です。しかし、キリストが十字架で死を持って償ってくださいました。それで、私たちは死刑にならないで住むのです。これを恵みと言っています。ですから。正義と恵みが必要です。今日の御言葉が守られ実行されたなら、世界は一変して貧しい人もいなくなり、刑務所はガラガラになって、いらなくなり壊されて、スポーツの競技場になったりするでしょう。このようになれば、生活しやすいし、人生は良いものと誰もが思うでしょう。

 

5月15日(水)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

エレミヤ15:16

 

エレミヤは酷い迫害を受けていたようです。その悲惨な状況の中で、この聖句が出てきます。御言葉を見つけて食べるとは、もちろん比喩ですが、クリスチャンはこのような表現を奇妙には思わないでしょう。神様の御言葉を必要とする時に、祈って聖書を探り、探すのです。そして、求めていた御言葉を見つけると、不思議と読んだ文字ではなく、語られた神の答えのように感じます。そして、その御言葉の意味が深く理解される時に、自分のうちに食べ物を食べた時のように入ってくるのです。その御言葉の意味が理解できるので、楽しみとなり、心の喜びとなります。クリスチャンの特権とはこのことです。主との生きた交わりがあるということです。たとえ、苦境に陥っていても、神様を信じている人には、神様からの御言葉が与えられ、それは探していたからこそ見つけたものですが、その人に回復を与えます。不安と恐れは人を無力にし、奈落の底へと落としてしまうのですが、それを一気に無効にするのが神様から来る御言葉なのです。これほどの助けがあるのは、その人がキリストの名で呼ばれているからです。クリスチャンと。あなたをいつでも助けることのできる万軍の神は、あなたを決して忘れないのです。ですから、勇気を出してください。

 

5月16日(木)

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。

箴言16:3

 

道を求めている人は、今日の聖句をよく考えてみることです。同じように、詩篇には「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる」(37:23)と書かれています。人間的に考えてうまくいくと思っても、実際にはすぐに行き詰まったというようなことは普通にあります。ですから、クリスチャンは、まず、今日の聖句を読み、祈り考えて、自分のしようとすることを主にゆだねるのです。私たちは、夢を見る傾向があるので、自分の望む結果だけを期待して始めてしまうのです。自分が一旦こうやりたいと思うと人の意見を聞かなくなります。専門家ですら失敗してしまうことがあるのですから、失敗するという危険性はあるのです。そこで、絶対失敗しない方、主にゆだねるという方法を私たちは選択します。これは、主に任せて何もしないという意味ではありません。主が見られたら、この計画は大丈夫だろうか、と必ず考えるのです。できることは誠実に全てやります。誰かがアドバイスしてくれるなら、耳を傾けます。信頼できる人に相談してみます。もちろん、牧師に祈ってもらったり、クリスチャン仲間にも祈ってもらうのも良いことです。成功したイメージを具体化して、視覚化できればします。計画の成功を言葉にして神様に感謝します。神様とミーティングします。こうして、だんだん無駄なことをしないで、成功体験を増やして行きます。あなたの成功にふさわしくない地域を見つけたら、足のチリを払って、その地域には決し行かないようにします。成功の秘訣は神様が教えてくれます。ですから聞きなさい。あなたが神様の御声を聞けないのなら、神様は誰からあなたが話を聞く人を通して話してくださいます。ですから、注意深く人の話を聞くことが大切です。否定的な言葉には、影響されないようにします。肯定的な言葉をすぐに言って、自分がポジティブになっていることを確かめます。あとは、神様が成功させてくださると信じましょう。

 

 5月17日(金)

人はその口の実によって良いものに満ち足りる。

人の手の働きはその人に報いを与える。

箴言12:14

 

物事には両面があって、肯定的な面と否定的な面があります。どちらの見方をするかは、不思議なことに、その人の心が決めるのです。せっかく信仰を持っていても、否定的な思いに縛られている人もいます。信仰は聖書の御言葉からくるものですから、本来は肯定的になるはずなのですが、聖書にも罪人がたくさん出てきますので、否定的に見えるかもしれません。さて、あなたは、今日の御言葉をどのようにとらえるでしょうか。今日の聖句は明らかに肯定的なものです。まず聖句を読んでみると、何を語るかで良いものに満ち足りるかどうかが決まるのだ、と理解したとします。そうであれば、不用意に口を開かずに、何を言うかよく考えてみる必要があると考えます。その時に、結果が良くなるような言葉を選び、心のこもった言葉を語ることが大切だと悟ります。物事には、原因と結果があるのだから、良い結果を得たいのなら、良い原因を作ることが肝心だと心に言い聞かせます。そして、ただ言葉だけ立派でも、何もしないのなら、良い結果を期待することはできないのだから、誠実に努力することが良い報いを得ることに通じている。これは、肯定的に考えていますから、この人はやがて良い報いを得て、御言葉は本当だったと笑うでしょう。しかし、否定的に考えることに慣れていると、聖句の初めから「どうせ、私は口下手で気の利いた言葉などそう簡単には出てこないはずだ。だから、良いものに満ち足りことはないだろう」とあきらめてしまうかもしれません。下の句も同じで、「どうせ、不器用な私は、いつも失敗ばかりで、怒られてばかりだから、この聖句の通りにはできない」と決めつけてあきらめてしまうことになります。誰でも、成功体験が必要です。そこで、今までは確かにうまくいっていなかったかもしれないが、聖書の御言葉を信じることは正しいことだから、そのまま信じよう。ここに書かれたことは真実なのだから、神様に期待して、この通りにやってみよう。私は、聖書を信じて、その通りになった人たちを見てきました。悪魔のささやきに耳を貸さずに、神様に期待して、始めてみましょう。

 

5月18日(土)

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2:10

 

あなたは自分を神の作品と考えたことがありますか。今はクリスチャンですから自分を神の作品と考え、喜んで欲しいと思います。なぜなら、造られた目的が「良い行いをすために」と書かれているからです。しかも、「その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」とありますから、何をすればいいかと心配しなくても大丈夫です。現在、あなたが置かれたところで良い行いをすればいいからです。それでも、良い行いがわからないと言うのなら、神に祈りましょう。直接聞いてください。神を愛することも、人に親切にすることも、良い考え方をすることも、すべて良い行いとなります。神を賛美することだって良い行いです。困っている人のために祈ることも大切です。聖書を学んで実践することも良い行いです。あなたにとって良い行いとは何でしょう。考えてみましょう。

 

5月19日(日)

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

マタイ7:7、8

 

クリスチャンは経済的にも全ての面で困りません。もし困るとしたら、何か主のお考えがある時で、主の目的が完了すれば終わるので長くは続かないでしょう。基本的に、クリスチャンが主から教えられたことは、驚くべき奇跡の業です。なぜなら、求めれば与えられるというのですから、これ以上の恵みはありません。この求めることも、主が「求めなさい」とおしゃってくださったので、心配せずに求めることができます。「そうすれば与えられます」とあるので、与えられるためには、求めなければならいのです。私たちは、貪欲であってはいけないし、自分の欲を満足せることはいけないと学んでいます。これらは罪と直結しているからです。ですから、「求めなさい」と言われても、世俗的な物欲を満足させるようなことではないと直感的に思い込んでいます。確かに、ルカの並行記事を読めば、この一連の文章の結論は「聖霊を求めれば、与えられる」というものです。ですから、主の御心に適うものを求めることなのだと分かります。ただ、この原則を聖霊を求めて与えられる、と言うことだけに限定しなくても良いのです。マタイは、聖霊とは書いていないからです。皆さんの人生で、クリスチャンは特権を受けていることを知って、ここに書かれたことをやってみてください。宗教だけに限定しないで、生活のすべてで必要なら、ここに書かれた通りにやってみてください。良い結果が待っています。

 

 5月20日(月)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

ヘブル12:3

 

クリスチャンにとって信仰は大事なことでありますから、信仰に成長したいと願うことは良いことです。では、どうすれば信仰に成長できるのでしょうか。そもそも信仰は厳しく、大変なことだと思ってはいないでしょうか。修練とか鍛錬という言葉も聞かれます。しかし、他の宗教にも信仰はあるわけで、同じかと聞かれれば、いや違うと答えることになります。なぜなら、私たちクリスチャンの信仰は、イエス・キリストが「創始者であり、完成車である」と聖書が教えているからです。つまり、人間が考えついた信仰とは違っているということです。それは、「はずかしめをもものとはせずに十字架を忍び」と書いてあるように、十字架を耐えて勝利する方法が信仰だったのです。その信仰を聖書は「ご自分の前に置かれた喜び」と表現しているのです。つまり、信仰は十字架ほどの恐ろしい出来事ですら、耐えさせるほどの喜びだというわけです。ですから、他の宗教のように、修業して信仰を強めるというものではなくて、信仰=喜びであると理解することが肝心で、しかも、模範として信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストがいるので、そこから目を離さないようにと教えているのです。生徒が先生を見て学ぶように、私たちはイエス・キリストを見て学ぶわけです。結論として、信仰は喜びそのものであるということを覚えておきましょう。

 

5月21日(火)

キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

ピリピ3:9

 

イエス・キリストを信じている皆様は、とても幸せです。これは、今感じている喜びや幸せとは次元が違います。なぜなら、世の終わりにその結果がわかるからです。キリストの再臨が世の終わりの時です。それは、裁きを携えてこられるので、信仰のない者には過酷な死が待っています。さらに恐ろしいのは、それでは終わらないということです。つまり、よみがえり、悪魔と悪人と一緒になって、神の側にある者たちを攻め滅ぼそうとします。ところが、すでに彼らの破滅は定まっているので、何もできないまま、火の池に投げ込まれて死にます。これが第二の死です。一方、イエス・キリストを信じた人たちは、いのちの書に名が記されます。この人たちは、信仰を失わないようにしなければなりません。聖書も一度読めばいいというものではありません。ましてや、キリストの御言葉は霊であり命であると書かれていますから、信仰を持っていなければ本当の意味がわからないし、その命にあずかることができません。ただ、ありがたいことに、「律法による自分の義ではなく」とありますから、ファリサイ派の人のようにやたら自力で律法を守ることにこだわる必要はありません。むしろ、信仰による義とあるのですから、キリストを信じることをもう少し考え、意識しましょう。その結果として、「キリストの中にある者と認められ」るようになりたいのです。これらは、誰でもキリストを信じる人には望みがあります。

 

 5月22日(水)

あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。

詩篇21:6

わたしたちの神様は、気前の良い神様です。恵みで救い、救われた後も聖霊が私たちを助け導き、さらにキリストの品性を身につけるように実を結ばせてくださいます。私たちも時には、頑張らなければならない時もありますがそれで失敗しても、責められることもありませんし、逆に励まされます。もう一度勇気を出して挑戦するように促してくださいます。それでも、頑張れなくなると、ゆっくり休むように配慮してくださいます。私たちは、自分で努力しなければならないと思いがちですから、少し休むだけでも罪責感を感じて、本当はもっと安心して休みたいのに、また無理をして働こうとします。ですから、思うようには働けないのです。そんな自分を責めてしまうかもしれません。どこまでも真面目なのです。このような私たちは、今日の聖句をよく考えてみる必要があります。皆さんがイエス様を信じて救われたのは事実です。そして、神様はあなたに、「とこしえにあなたを祝福します」と約束されます。この世には、重荷があり、油断しているとどんどんこの重荷を負わされてしまいます。気づくと自分で重荷を負っているかもしれません。最悪なことに、この重荷は自分ではおろせないのです。ただ、イエス様だけがおろしてくださいます。つまり、どこまでもイエス様はあなたに優しい神様なのです。そのイエス様があなたをご自身の御前で楽しませてくださるというのです。何の心配もしないで、心を開いて、安心して、楽しめるのです。これは、神様の約束ですから、あなたのものなのです。イエス様を信じるというのは、いかに楽しいことか、喜び味わってください。

 

5月23日(木)

私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。

エズラ8:22

 

クリスチャンも、神様を信じると幸せになる、仕事もうまく行くし、喜びがあり、いつでも守られていて、経済も祝福されると信じて、人々にそのように話すことがあります。エズラ記では、異国の王様に聖句にある通りに話していたので、イスラエルに帰還することが許された時に、長い旅路を王様の兵隊に守ってくれとは言えなかったのです。しかし、敵が大勢いて、危険に満ちていたのです。自分の信仰を自分で否定することになることは避けたいし、だいたい恥ずかしいことです。そうなると、自分が言った神様への信頼をテストされるようなことが起こるのです。まさに信仰による義ですね。そのような大きなテストを経験すると、あまり大きなことを言わなくなります。もっと謙遜に、自分は何者でもありません、と腰を低くするようになります。クリスチャンが好かれる理由の一つです。でしゃばらずに、謙遜に振る舞うからです。ただ、自分の信じていることを告白することは良いことです。ただ、間違っていたら、主に訂正されます。信じていることが本当に、その人の人生に現れることは、証になります。ですから、信仰の結果、自分が生まれ変わり、幸福になったと言えるように信仰を表すことが良い結果をもたらします。

 

5月24日(金)

神は、わたしたちを怒りに定めたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

Ⅰテサロニケ5:9~11

 

世の終わりは突然やってきます。しかし、それを恐れることはありません。なぜなら、聖徒たちは守られるからです。最後の裁きは大変恐ろしいものになりますが、信仰を持って救われた皆様は、もともと、「主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」と、はっきり聖書に書かれているのです。それだけではありません。クリスチャンの幸せと安全は、「主と共に生きるようになる」ことです。そのために主は十字架で死なれました。ありがたいことです。そこで、皆様は励まし合い、お互いの向上に努めなければなりません。教会は霊的には皆様のことですから、どこか目に見えないもので繋がりができています。それは、キリストを頭にいただいていますから、皆様は主の御心のままに生きることになります。ですから、クリスチャン同士の間では、「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。

 

5月25日(土)

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩篇138:8

 

クリスチャンのあなたは大変恵まれています。キリスト教国ではないのに、人口のわずか1%の中に入っているのですから、特別です。しかも、実際にはもっとクリスチャンの数は少ないのですから、本当に選ばれた恵まれた人なのです。ところが、クリスチャンになっても、今までと同じ考え方で生きている人が意外と多いのです。それでは、この世の常識に縛られて、信仰を発揮することがなかなかできません。損な生き方をしているのではないでしょうか。聖書には、今日の御言葉が教えているように、主はあなたに関わる全てのことを成し遂げてくださるのです。これほど心強いことはなく、成功することが決まっているのです。ところが、そうなっていないので愚痴が出たり、文句が出たりすることになります。私たちが信じるべきは、主の恵みは永久にあるということです。少しぐらい恵みをいただいたから、そろそろ終わりだろうなどと消極的に考える必要はありません。クリスチャンは悪いことをしないので、主の御心にかなう生き方をしたいと願うはずです。古い人のように肉欲で生きていれば、ろくなことなりません。でも、私たちは、信仰によって生きると決めているので、キリストの品性が身につくように願い、愛の業ができるように祈り、クリスチャンとして主に仕えることを選びます。そのような人は、主の訓練で試練の中にいる時以外は、生涯主の助けと恵みの中にいます。これらは主の憐れみによります。ですから、私たちの謙虚さが大切です。今日も、あなたは自信を持って楽しく生きてください。成功は主が成し遂げてくださるのですから、あなたの恵みを心から感謝しましょう。

 

5月26日(日)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

神様はあなたに語っています。あなたに覚えていて欲しい大事なことです。それは、まず、あなたの神は、あなたを贖う主であること。あなたには主なる神がいること。この主があなたに益になることを教えてくださること。あなたの歩むべき道にあなたを導かれることです。これは、大きな恵みです。あなたは罪を主に贖っていただきました。あなたはそれを信じました。これからも信じ続けるのです。そして、天の父なる神様、御子イエス様、聖霊様を信じ続けるのです。あなたは大変恵まれていて、あなたに益になることを主が教えてくださいます。それだけでも人生は幸せになるのですが、さらにあなたの歩むべき道に主が導かれると言われました。ならば、何も心配することはありません。人間的な考えで、詮索しても意味がありません。主に従順であるかどうかを測られます。そうでないと、あなたの道をそれて、せっかく良い人生を歩むはずなのに、とんでもない道へと自分の考えでそれて行くからです。そうならないためにも、主は訓練され、人間は従順を学ぶことになっています。この世の人はどこへ向かって行くのかも知りません。しかし、あなたは違います。たとえ、人生がうまくいっていないとしても、あなたは、悔い改めて、今日の聖句を読み上げ、主に祈れば良いのです。この御言葉の通りにしてください、と。あなたの人生は良くなります。あなたの歩むべき道を全うするでしょう。

 

5月27日(月)

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ41:10

 

人生の経験を積むに従い、恐れることが減ってくる傾向があります。それでも、年老いて先行きを不安に思ったり、病気を恐れたりと、恐れが無いわけではありません。若い頃も、勢いがあるので若さで恐れないことがありますが、恐れが無いわけではありません。老人と若者の間のいわゆる働き盛りの人が一番恐れる機会が多いかもしれません。しかし、信仰生活を送る人にとっては、今日の御言葉がとても大きな励ましとなります。実際、クリスチャンでも恐れが無いとは言い切れません。しかも、年齢も関係ありません。キリスト教書籍を見ても、「恐れ」をテーマにした本は少なくありません。教会では恐れは不信仰だ、と言われることがあります。しかし、そうはっきり不信仰と言われるのは厳し過ぎます。恐れはコントロールできないので、勝手に本人を苦しめます。では、恐れには意味がないのでしょうか。実は、恐れないというのは、わたしの力で何とかなると思っている時で、恐れるという時には、自分の力ではどうしようもない、無力だ、という場合なのです。そうであれば、キリスト教の教えでは、自分の力に頼らずに、主に頼ることが正しいと教えているはずです。それが簡単にできませんが、恐れている時には、自分の力ではどうしようもないので恐れているという状態です。この時にこそ、主を信頼し、信仰を持って頼ればいいのです。主にゆだねるという言い方をしますが、これがなかなか難しいのです。でも、恐れがある時には、主の御足にすがりついて祈ることができます。このように、恐れが来る時には、信仰の飛躍の時と思えばいいのです。そして、今日の御言葉を信じることです。どのように主が助けてくださるか、貴重な経験をすることができます。

 

5月28日(火)

彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

フィリピ3:3

 

世の中には、正しいことを言っているようで、実際はそうではないということが、しばしばあります。さらに、ユダヤ人たちのように割礼を受けていることを誇り、異邦人を蔑むようにな人もいました。かつてはその筆頭であった、パウロ自身がその割礼を「切り傷に過ぎない」とユダヤ教の人が聞けば卒倒しそうなことを断言しています。パウロ自身も8日目に割礼を受けていますが、それがイエス・キリストとの出会いによって、意味のないことになりました。そして、パウロが理解した真の割礼は、クリスチャンの皆さんが受けているというのです。その意味は、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と言っています。もともとアブラハムに命じた割礼は神との契約のしるしでした(創世記17:10、11)。しかし、割礼を受けた人たちが偶像を拝むようになったことが聖書に書かれています。ですから、彼らはイスラエルの神を裏切ったわけです。割礼を受けているから救われるということではなかったのです。そこで、キリストが登場し、クリスチャンが生まれます。彼らにはユダヤ人のような割礼は要求されませんでした。しかし、彼らは「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(ガラテヤ5:25)、とあるように、聖霊を受けて、霊の導きに従っている人なのです。ですから、「神の霊によって礼拝し」と書いているのです。「肉に頼らない」というのも、聖霊の導きに従っているからです。このことがいつも継続してできているのは、「キリスト・イエスを誇りとし」ているからです。アイドルのファンのように、四六時中キリスト・イエスのことを考え、喜び、楽しんでいるからです。イエス様グッズがあれば、買い揃えたいぐらいです。さて、真の割礼は、キリストへの忠実な信仰と聖霊への自己を明け渡した服従を意味しているのです。

 

 5月29日(水)

あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。

詩篇32:7

 

アメリカに住んでいる時に、テレビを観ている時に突然アラートが鳴って、真っ赤な画面になり、これは試験放送です、とテッロプが出て、テロなどの危険が迫った時に知らせる緊急放送のテスト放送だと言うのです。日本ではないことですが、アメリカではそのような心配が実際にあると言うことです。実際に、ロサンジェルスでは暴動が起こって、大変な騒動になったことがあると教会の人たちが言っていました。こうした、非常事態が起こった時に、本当に頼るべきは日本の領事館です。日本人には、緊急メールが届くことになっていて、指示が出るとこれもテストメールが来ました。幸い、本物のアラートもメールも来ませんでしたから良かったですが、外国にいるといざという時に不安なものです。ただ、クリスチャンには奥の手があって、困った時のイエス様頼みで、「私の隠れ場」なのです。これほど安心な場所は他にありません。それは、人生に起こるようないかなる苦しみからも私たちを主が守ってくださるのです。どんな危機的状況に置かれても、あなたはイエス様を頼り叫べば、あなたを守る主があなたを隠します。そして、あなたを苦しめるものから救い出し、安全に保護してくださいます。たとえ、巨大な敵がいたとしても、あなたは主に救われ、大きな歓声で取り囲まれます。ありえないと人々が言っていても、これは本物の天からの救いです。ですから、どんな時にも、勇気を出して、主に信頼を置いてください。あなたには、絶対安全な最高の隠れ場があることを覚えていてください。

 

5月30日(木)

サムエルは言った。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。」

サムエル上15:22、23

 

預言者サムエルの言葉はもっともだと思います。主の御声に聞き従うことこそ、真の礼拝だからです。焼き尽くす献げ物やいけにえは、羊や牛など高価な物でしたが、それを献げるから信心深いと言うわけでもなく、ましてや神を喜ばせることになったか、と言えば、神はその献げた人を見るでしょう。その人の心を見て、主を信じているかどうか、それは主の御声に聞き従う従順さを見ているのです。形だけ立派でも、心が伴わなければ意味がないのです。神への「反逆は占いの罪に」等しい、占いは悪魔に聞くことと等しいので、神を裏切る行為なのです。「高慢は偶像崇拝に等しい」とは、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とある通り、罪の定義として昔から「高慢と貪欲」が出てきます。高慢は、自分を絶対化し己を神のようにする罪です。貪欲は、本来神のものであるこの世界を自分の物としようとし、神をないがしろにする罪です。サウロ王は、自分の考えを優先して、神の御声を無視したのです。その上、神にとがめられると言い訳ばかりを口にして、反省する気はなかったのです。自分の考えや思いを絶対化してしまった罪でした。彼は神をも利用しようとしたのです。私たちは、自己反省し、神への従順を求めて行きたいですね。

 

5月31日(金)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ8:37

 

クリスチャンがクリスチャンとして生きて行くことができるのは、イエス・キリストに愛されているからです。この世に生きる人にとって、人から愛されることは簡単ではありません。無償の愛などと言っても罪人は自己中心なので、自分にとってどうかが優先されてしまいます。だから、愛が簡単に壊されたり、無視されたりしやすいのです。しかし、イエス・キリストに愛されているのは、間違いありません。そのことがクリスチャンの原動力になります。そればかりか、皆様がこの世でも成功者になれますし、どのような中にあっても、圧倒的な勝利者になる、と聖書は教えています。ですから、皆様はこの世に迎合するのではなく、信仰によって聖なる者として生きるのです。自分の力で勝手に努力して聖なる者として振る舞おうとすれば、すぐに失敗するでしょうが、信仰は裏切ることがありません。そして、その信仰は、主に愛されているからこそ出てくるものなのです。あなたが祈って決めたしようとすることを始める時に、今日の聖句を唱えなさい。毎日、仕事や勉強や家事・育児を始める前に、この聖句を読んで、「圧倒的勝利者」になっている自分を想像してみましょう。大変な仕事だと言えば、どうしてか仕事がどんどん大変になって行きます。しかし、今日の聖句を信じていれば、不思議なことが起こるでしょう。このように、御言葉を信じて、勝利者になればいいのです。