2025年5月ディボーション

5月1日(木)

知恵ある者と共に歩けば知恵を得

愚か者と交われば災いに遭う。

箴言13:19

 

箴言には「愚か者」がよく出てきます。普通に考えれば、愚か者の反対は「賢い者」となるはずなのに、ここでは「知恵ある者」となっています。わかりやすい「愚か者」から考えてみると、そのような人と友達になったり、付き合えば、結果として「災いに遭う」というのです。これは、経験上そのようなことがあると思う人もいるでしょう。そして、理解しておきたいのは、「愚か者」は広い意味があるということです。神に逆らう者、自己中心に物事を考えている人、罪を犯して反省しない人、目先の小さな利益を求めて肝心の大きな利益を逃す人、平気で嘘を言う人、友を裏切る人、何が正しいか見分けられない人、人の価値を見分けられない人、欲に目が眩んでいる人、不誠実な人、誰に対しても親切にしない人、悪い道へ隣人を誘う人、書き出せばキリがありません。それでは、「知恵ある者」とはどのような人でしょうか。神の霊を受けている人です。聖霊の導きに従順な人です。聖書を読んで心に蓄えている人です。何が義であるかを知っている人です。神を信じて神の武具を着ている人です。聖霊の賜物を御心に従って使える人です。聖霊の実を結んでいる人です。他にも説明する言葉があるでしょうが、神様から来る知恵を持っている人のことを意味しています。それは、誰でも信仰によっていただけるものです。ですから、知恵ある者としていただけるように祈り求めましょう。

 

5月2日(金)

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます・・•わたしは彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

ヨハネ10:27、28

 

私たちは羊でイエス様を羊飼いと認めています。そして、信仰の生活を通してイエス様をよりよく知ってきたのです。ですから、イエス様の声を聞き分けます。聖書の御言葉を学んできたので、イエス様を装って偽りを話す者が現れても、容易には騙されません。イエス様のお約束は、私たちに永遠の命を与えられることです。イエス様を信仰している人は決して滅びることなく、悪魔でも人間でもだれもイエス様の御手から主を信じる羊たちを奪い去るようなことはありません。これだけ、力強い励ましを受けているのですから、勇気を出して信仰の道を邁進しましょう。イエス様の御言葉を信じると力が出てきます。主に感謝するなら、さらに喜びとなって心を満たします。イタズラに恐れることはしないで、主の愛の中にとどまるのです。自分の本当の価値はイエス様に愛されて知ることができます。今日も元気に1日を始めましょう。

 

5月3日(土)

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

Ⅱコリント9:8

 

クリスチャンになるということは、人間の常識を遥かに超えた素晴らしいことなのです。人間がこの地上で生きていく上で必要なものは常にすべて満ち足りるようにしてくださいます。そればかりか、すべての良い業にあふれる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかり与えることができると神は言われます。驚くことに、ちょうどよくではなく、あふれるばかりにと制限なくあらゆる恵みで満たしてくださるのです。ただ、それを実現するためには、積極的で肯定的な考え方が身についていなければなりません。もしあなたが否定的な考えばかりしているようなら、信仰者でも恵まれることは期待できません。聖書に、これだけはっきり書かれているのに、信じていないからです。あなたが救われたのは、神の恵みによります。なぜなら、救われるに足る功績が何もなかったのにも関わらず、救われたのは、ただ神の恵みによるからです。これで、私たちは悟るべきでした。この神の世界は信じることが実現して行く世界であることを。ですから、口先だけで心から信じていないことは実現しません。しかし、単純に御言葉を信じる人は、その通りに恵まれます。何も持っていないところから始めても、有り余るほどの恵みを得ることができます。ですから、心配したり、恐れることがなくなります。経済的に恵まれるだけではなく、生きがいややりがいのある素晴らしい働きができるようになります。主にできないことはありませんから、それを信じる人も同じように何でもできるようになります。主を信頼し、誠実に、信仰を持って、お仕えすれば、幸福な人生を歩めます。だれも、これを妨害することはできません。神に勝てる者はいないからです。あなたの本当の素晴らしい姿を表すことを神は待っています。主を信じましょう。

 

5月4日(日)

小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

ルカ12:32

 

私が牧師になりたての頃、世界のキリスト教会では、メガ・チャーチと呼ばれる数千人から数万人の信者が集まる大きな教会が誕生していました。牧師インターンの時に、牧師会で説教する機会を与えられたので、私も日本に一万に教会を作ることを目指します、と語りました。先輩牧師たちは、嘲笑を浮かべ、まだ何もわかっていないから、と笑われましたが、それでも日本伝道に必要だとの思いは変わりませんでした。それから何十年も経ちましたが、そのようなメガ・チャーチは日本には与えられませんでした。きっと、日本人には向かないのだと思います。個人が大切にされ、手厚くケアーされる方が良いのでしょう。そのために、教会は小さな群れとなることになります。日本では、少数で礼拝をしている教会が多いのです。しかし、聖書の中には、「小さな群れよ。恐れることはありません」との御言葉があり、天の父が、「喜んであなたがたに御国をお与えになる」と書かれています。イエス様は牧者であり、私たちは羊の群れなのです。このイエス・キリストに導かれていけば、何も問題はありません。私たちは恵まれているのです。この小さな群れが天にたどり着くことができますように。

 

5月5日(月)

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ9:16

 

クリスチャンは、摂理信仰を持つといわれています。単なる偶然でことが起こると思っている人は運命と言うでしょうが、クリスチャンは神の摂理であるといいます。つまり、神は全能すべてをすべおさめておられる高きお方なので、偶然という事はない、と考えるのです。そうなると今日の聖句の意味もわかってきます。人間は、願いや努力で事を起こそうとはかりますが、そう上手く行くわけでもありません。むしろ、予期せぬトラブルで難渋することの方が多いのです。ですから、クリスチャンは祈ります。事が重要な事であればあるほど、祈るのです。それは、神に届き、神はあわれんでくださり、最善を成してくださるのです。このように神の憐れみによって生きるクリスチャンは、自ずと希望が与えられているのです。ですから、困っても悲観する事なく、主に頼り、必ず道は開けると確信しているのです。事実、その通り、主のお助けが目に見える形をとって現れるのです。懸命な主は、クリスチャンが成長し、御心にかなうように道を光で照らしてくださります。ですから、肯定的に考えるようにして、主の定めに従うのです。

 

5月6日(火)

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い。我がやぐら。私は決して、ゆるがされない。

詩篇103:13

 

信仰を持ってから、この御言葉は心の支えとなりました。実に色々なことが起こり神様が助けてくださらなければ、ここまで来る事はできませんでした。自分では思いもしない人生で、外国にまで住むようになるとは思ってもみませんでした。また、転勤族でしたから、東日本各地を移動しましたが、それもまた楽しい事でした。新しい土地に行けば、そこには待っている人が必ずいます。不思議な神様のお導きによって救われた人を何十人もみてきました。それは特権であって、喜びです。霊的であれば悪魔も攻撃してくるので、信仰は強められ、聖書の学びも深くなります。試練があれば、信仰に成長し、祈ることを覚えるようになります。神様に無駄はなく、どんなことも後に感謝になります。具体的な救いや助けは数えきれないほど与えられてきました。イエス様の広いお心に触れて、癒されてきました。人間的な失敗は数知れず、悲しくなるほどありますが、それでも主は見離さずに今日に至りました。特別なことも何度も経験しました。その分、霊的な戦いも多かったのですが、神様の完全な守りの中で助けていただきました。ですから、後から続くクリスチャンの方々には、今日の御言葉を忘れずにいれば、どんな試練も乗り越えられるし、人生の危機も不思議な神様の方法で乗り切ることができるのです、と言いたいのです。肩肘を張らずに自然体でいいので、皆様が聖徒の道を歩み続けることができるようにと願っています。

 

5月7日(水)

人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。

詩篇92:23、24

 

ゴールデンウィークも終わって、仕事に戻ると辛く感じるかも知れません。しかし、実際には仕事に行けることは良いことで、それが恵みであると考える方が満足感があります。確かに、時には仕事が辛く感じることもあるでしょう。昇進しても仕事が楽になる事はありません。ですから、やることが多くて大変だと思っていると思います。しかし、クリスチャンは、「主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう」と、自分ではなく創造主へと思いを馳せます。天地創造が神様の傑作であったことは疑いようもありません。たとえ、人間が罪を犯して失敗してしまったとしても、この地球の美しさは私たちの疲れを癒し、心を感動させることができます。それは、主が「知恵をもって造っておられます」と書かれている通りだからです。主が働かれることは、良いことだったのです。ですから、人間も創造的に働くことが楽しいのです。どんなに単純な仕事でも、楽しく働くことができます。家庭の中にも仕事はたくさんあります。もし罪がなければ働くことが楽しくて仕方なかったでしょう。罪の世界ですら、掃除をして綺麗になると嬉しくなります。面倒がらずに、手をかけて働くと仕上がりが良いのです。仕事が趣味のように楽しければ、良いのですが責任が伴うと、ストレスになりやすいですね。人間関係でもストレスを感じるのですから、人間関係そのものを嫌う人もいます。しかし、人間は人を通りして最高の喜びを得るのですから、難しいことです。消極的になり過ぎないように気をつけて、時には積極的に人と交わることも益です。水と油ぐらい違っている者同士でも、どちらかが師となり、もう一人は教えを受ける者となれば、意外なほど上手く行くのです。ですから、人見知りをして、人間として成長する機会を失わないように、へりくだって良い関係を築くなら、人生の楽しみは増え、苦労は減るのです。主に倣って、私たちも働き者となりたいですね。

 

5月8日(木)

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

エレミヤ29:12、13

 

祈りには極意があると思います。それは、信仰者であれば、気がつくでしょう。神様のことはともかく、自分自身のことはわかるからです。自分がどのように神様に祈っているのか、どのような態度で神様に向かっているのか、その時、心はどうであったのか。このようなことは、祈りが聞かれることを知ってから、色々な場面で考えさせられたので祈りを学んだのです。試練の時の祈りはどうだったか、何気ない一日の始まりの祈りはどうだったか、誰かのために執り成して祈る時はどうであったか、こんなことを考え、より良い祈りを求めて行くのです。また、祈りの本を読むことも良いことです。その本の中で紹介されている本にも興味が湧けば、なんとか探して読んでみるのも益となります。聖霊に満たされたいと願う人は祈るのですが、どう祈るか、そこが問題なのです。祈りの達人がいる一方で、祈らないクリスチャンも多くいます。悪魔が祈らないように働いているからです。忙しさは理由になりません。信仰の道を歩むなら中途半端は良くありません。祈りは誰でもできるので、心を尽くして祈ることを実践し、また学んでいくことは大きな益となり、神様を見つける結果になります。教会ら、祈ることの達人を目指してみませんか。

 

5月9日(金)

神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。

詩篇71:5、6

 

思春期になると人間は自分が生まれてきた意味を知ろうとするものです。置かれた環境等で、それを何も考えずに過ぎてしまう人もいます。しかし、自問自答しても自分が生まれてきた意味の答えを見つける人はいません。哲学者もそのことを認めています。ところが、クリスチャンは自分が生まれてきた意味を別の方法で知ることになります。それどころか、自分が神の子にしていただけたと驚くことになります。こうしたクリスチャンは、今日の詩篇を読むと、これが自分の言葉のように感じるものです。この不思議な言葉は真実です。あなたは生まれる時から神様の愛の中にいるのです。あなたがこの世にいるのは奇跡なのですが、あなたは信仰が与えられて、真実を知ったのです。あなたにとって、主なる神は、望みであり、信頼そのものなのです。あなたは「生まれたときから、あなたにいだかれています」と書かれている通りなのです。だから、あなたはより良い人生を生きることがあります。天からの助けがあるので、何も恐れずに堂々と生きられます。あなたは人生を成功へ導く神様と共にいるのです。今は、イエス様と繋がっています。ですから、主の御心を実現するのです。主を賛美しましょう。それが、あなたが元気に成る方法です。主を賛美していつも喜んでいましょう。

 

 5月10日(土)

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びを持ってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばせる。

ゼパニヤ3:17

 

キリスト教は十字架が前面に出てくるので、なんとなく暗いイメージや恐ろしいイメージを持つ人たちがいます。現代人が宗教を敬遠するのも、そのような暗いイメージが関係しているかもしれません。ところが、私が知ったキリスト教はとても明るいイメージで、喜びとか楽しみという言葉が出てきます。それは、神様が愛であって、その愛が心に届くとたちまち、平安に満たされ、落ち込んでなんかいられないほどのあたたかい愛情に包まれるのです。聖書を読んでわかったことは、私たちは主に恵みで救われたこと、なんの功績がなくても、大丈夫。ありのままに救われたのです。そして、この世界は神様と悪魔の大戦争中で、その中で私たちはキリストと結び合い、霊的戦いに参戦しているのです。この戦いは、人間の戦争とは違っていて、神様を疑うか、神様を信頼するか、という戦いです。敵の攻撃は、いつでも神様を疑わせようとするものです。私たちは信仰と言っていますが、「誰がなんと言おうと、私は神様を信頼する」という断固とした決意を示すことが敵への攻撃になるのです。私の神様は、私たちのただ中におられる神様です。私たちが、顔を真っ赤にして「絶対、神様を信頼します」と頑張っているのを神様が見ると、楽しそうに笑い、喜びを持って取り囲んでくださいます。私たちは、神様に愛されているのだとわかるので、安らぎます。クリスチャンは讃美歌を覚え、よく歌いますが、実は主も歌われるのです。主はあなたを喜ばせたいのです。あなたは主に愛された人です。良い安息日をお過ごしください。

 

5月11日(日)

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています。

ローマ6:6、7

 

生まれたままの自然な人は、キリスト教では罪と呼んでいる古い性質を持っている人のことです。その人は、罪を犯すという性質を持っているのです。だから、聖書では罪人と呼ばれています。パウロが使う「古い人」とは、あなたの古い自我のことを言っています。では、あなたがクリスチャンになって救われた時に何があなたに起こったのでしょうか。それは、あなたは生きていますから肉体が死んだのではありません。堕落したアダムから受け継いできた古い性質によって形作られてきた「内なる人」が死んだのです。さらに、「古い人」が問題だったのですから、古い人を消す方法こそ、ちゃんと理解している必要があります。それは、キリストと共に十字架につけることです。あなたを苦しめてきた罪や悪魔は、消えたわけではありません。いまだに猛威を振るっているのです。ですから、あなたにも力づくで攻撃してきます。しかし、彼らが勝てるのは「古い人」になのです。その「古い人」を十字架につけてしまったので、罪も悪魔もどうすることもできないのです。あなたが、救われた時にあなたはキリストの内に置かれていました。あなたを愛するキリストは、あなたの罪のために十字架で死にました。この時に、あなたの「古い人」はイエスと共に死んだのです。今日の聖句の「罪に支配された体」が「古い人」です。これが死ぬ必要があったのです。あなたは、幸いなことに「肉にあって」生きているのではなく、「キリストにあって」生きているのです。このことを覚えましょう。

 

5月12日(月)

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。

詩篇34:18、19

 

クリスチャンは聖徒と呼ばれる者へと変えられた人です。聖徒は文字通りの意味で信仰によってそのことは明らかになります。しかし、彼らには罪人で生きてきたという記憶があり、古い人が死んだことを理解する必要があります。そのために、彼らは主から訓練を受け、心の打ち砕からる経験をします。まさに魂の砕かれた者になります。それは、古い人に死んだことを信じることができたということです。正しい者として生きるようになると、悩みは尽きません。罪人と生徒の間には、大きな隔たりがあります。ですから、どんなに頭の良い人でも聖徒の考えがわかりません。罪人は自己中心なのでどうしても自分に都合よくしか考えることができません。それで、聖徒を理解できません。そこで、自分に都合よく判断して、裁くことになります。イエス・キリストの例を見れば明らかです。ですから、クリスチャンは賢く生きる必要があります。そして、愛を持って誰にでも接する信仰が必要なのです。キリストに倣う者になると決めたのですから、キリストの道を歩んで行こうではありませんか。

 

5月13日(火)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

私たちは時々、これから先どうしたらいいのか、と悩むことがあります。もちろん、忙しい日々を過ごしているのですから、他にも悩むことは多いかもしれません。憂さ晴らしができる人はいいですが、そうした気分転がうまくできない人もいます。小さなことはいちいちクヨクヨするな、と言われても気になる人は夜も眠れないでしょう。では、クリスチャンはどうしているのでしょう。人間としては同じでしょうが、信仰が差を生みます。例えば、今日の聖句です。あなたがクリスチャンであれば、自分のことと信じますか。私たちは主を信じていますから、聖書に書かれたことが心に残れば、信じるのです。主は、あなたに益になることを教えてくださるというのですから、期待しましょう。そして、自分の人生の変化を認めるのです。また、人生は自分の思い通りにはいかないかもしれませんが、クリスチャンはもっと確実な方法を選ぶのです。それは、主は「あなたの歩むべき道にあなたを導く」と信じます。と主に信仰告白するのです。どうしよう、どうしよう、と悩むより、主に期待してワクワクする方が楽しいです。主は間違わないので、気づくと良い道を歩んでいることに気がつくでしょう。神様を信じて本当に良かったと思います。あなたが信仰を正しく持っているのなら、このように良いことが続くのです。

 

5月14日(水)

神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

詩篇18:30

 

日本人がキリスト教徒になるというのは、ずいぶん珍しいことなのです。そのために、キリスト教で神学という言葉を初めて聞いた人も多いと思います。また、宗教学との違いは、イエス・キリストへの信仰が前提としてあることです。聖書と教会に重きを置いていることも特徴です。キリスト教の初期には初代教父と言われる指導者がいて、異端を論駁し、いわゆる神学の基礎を築いたのです。そこにはギリシャ哲学の影響がありました。アウグスティヌスによって、キリスト論、三位一体論、教会論などが確立されました。その後には、修道院で神学は発展して行きました。そこで、理性的な知的探究ではなく、信仰を第一とするので秘儀や観想によって宗教的真実に到達しようとしたのです。これが7、8世紀頃のことです。中世になり12世紀頃にスコラ学が誕生します。その特徴は、聖書の文献学的研究だけでなく、キリスト教の教義を理性的に論証・分析することにありました。古代ギリシャのアリストテレスの哲学を採用しました。神学は、全ての学問を統合する機能を果たしたのです。トマス・アクィナスの「神学大全」が有名です。18世紀になると近代的学問が教会の支配的文化から自立するようにり、神学が他の学問を統合する時代は終わりました。19世紀になると思弁を排除して宗教体験を重視する一派と、それに反対する弁証法神学の運動が起こりました。自由主義神学が台頭し、「史的イエス」の研究が盛んに行われました。つまり、イエスは実在の人物か否かと議論され、研究が進み、イエスが実在の人物であったことは疑いがなくなりました。さらに、アメリカから教会成長学、宣教学、牧会神学など、新しい学問が次々に生まれ、いろいろな方面にキリスト教のあり方を実践的に考える傾向へと発展しました。多様性と世界で言われるような時代には、伝統一辺倒では役に立たなくなってしまう危機が生じ、女性の地位向上に伴い、教会も女性長老を認めなければならなくなり、女性牧師も登場するようになったのです。このように、キリスト教も神学も時代の変遷に伴って変わってきたのです。世界が世俗化して行く中で教会も例外ではありません。古い教会に縛られる時代は終わったといえそうです。それだけに、本物が求められる時代でもあるのです。新約聖書にはキリスト教の文字はありません。「この道」とあるだけです。「神、その道は完全」。私たちは神を信じ、その道を歩む者となろうとしています。「主の御言葉は純粋」なので、聖書のみに信頼を置き、学び続けます。また、主は私たちの盾となってくださるので、迫害が起こったとしても、守られるでしょう。現代ほどクリスチャンの価値が高い時代はないでしょう。本物のクリスチャンを目指してまいりましょう。

 

5月15日(木)

父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。

詩篇103:13、14

 

神様は、私たちのことをよくご存知です。それもそのはず、人間を創造されたのは神様ご自身です。ですから、私たちが何であるかよくご存知です。そして、地のちりから人間が造られたことをご存知です。それがどれほどのものか理解できるのです。では、人間は獣並みかと言えば、そうではないと答えることになります。他の被造物とは明らかに違っています。人間は実に面白いのです。まず、考えることができます。人は何者か?なぜ生きているのか?なぜ、好き嫌いがあるのだろう?だれ一人、この世で同じ人はいない。誘惑するとすぐに罪を犯すような者なのに、正義を知っていて、時には勇気を出して正義のために死ぬことすらあります。神様を信じる人もいれば、信じないと言う人もいるのです。隣人と一緒にいることを好むのに、すぐ喧嘩をします。人殺しはいけないと法律を作るのに、大量の人が死ぬことになる戦争を始める。創意工夫をして、より良いものを作ることができます。しかし、人の安全よりも利益を追い求めてしまいます。そして、どんなに尊いことをしようが、最悪の悪事を働こうが、皆死んでしまう。若いと侮られないように早く歳を取りたいと思い、実際に歳を取ると切実に若返りたいと願う。何かを勉強すれば、そのことにこだわり、新しいことについて行こうとして勉強することに疲れる。いかにして楽をしようかと考える者がいれば、いかに努力して役立とうと考える者がいる。普段は仏教のことを何も関心が無く、自身を仏教徒と思っていないのに、身内が死ねば我が家の宗派は何かと騒ぎ立て、信心もないのに、お金をかけて仏教で葬儀を行う。それでいて、無神論者だと言ったりする。これがちりに過ぎないという意味なのでしょう。そんな者であることを神様は御心に留めておられるのです。そうでなければ、神様の怒りに触れてとうに死んでいるはずです。こんなに何も分からずに生きていても、福音を聞いて信じる人がいるのです。それは、「主は、ご自分を恐れる者をあわれむ」とある通りに、神の憐れみにすがる者がいるということです。その人は、初めから主を恐れることを知っている人です。

 

5月16日(金)

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。

Ⅰペテロ2:24

 

クリスチャンになって、一番思うことは、やはりキリストが十字架にかかってくださったことです。それも、私たちの罪を贖うためにその身に私たちの罪を負われたということです。何度も聞き、考え、黙想しました。罪がわからない時には、何のことか理解することもなかったでしょうが、罪を神様から示され、自分が罪人だと分かった時に、キリストの十字架の本当の意味もわかってきたのです。あなたも、クリスチャンなら主の十字架について色々考えたでしょう。そして、そのことがクリスチャン人生を決めたはずです。つまり、ペテロに言わせると、十字架を知ったなら、私たちは「罪を離れ、義のために生きる」と。キリストの十字架には、その力があるのです。さらに、罪人であったために私たちは罪に傷つき、汚れ、罪の病にかかっていたのです。ですから、主は十字架にかかられた時に受けた打ち傷のゆえに、「あなたがたはいやされたのです」と明確に言い切っているのです。それがなければ、クリスチャンとして生きていけなかったからです。私たちは、こうして何の心配もなく新生した者として、「罪を離れ、義のために生きる」ことができるのです。主に感謝します。

 

5月17日(土)

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植った木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

エレミヤ17:7、8

 

クリスチャンを聖書の別の言葉で言えば、「主に信頼し、主を頼みとする者」となります。つまり、あなたのことです。あなたは、聖書の中で「祝福がありように」と言われています。近年の異常気象で特に夏の暑さは危険なほどで、無事に乗り切ることが大変です。そうした、気象は大昔も実はあったのですね。そこで、聖書記者は、この世の厳しさを「暑さ」に置き換え、「日照り」という言葉で試練を表現して、誰の人生にも襲ってくる試練をも、クリスチャンは心配なく乗り越えていけると預言しています。霊的に満たされることも生ける水であるキリストに繋がっているなら、何の心配もなく満たされ続け、霊の実を結ぶことになると保証されています。ですから、クリスチャンは、主を信頼し、主を頼みとして生きていけば良いということなのです。ありがたいことですね。安心して信仰に励んでまいりましょう。

 

5月18日(日)

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。

彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは彼に答えよう。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

詩篇91:14、15

 

これだけの保証があるのに、一体私たちは何を心配しているのでしょう。誰を恐れて、不安になるのでしょう。将来のことが見えないから、心を波立たせるのですか。もし、そうならすぐに悔い改めて、主のもとへ急ぎましょう。あなたへの主の愛は絶対です。あなたのことを主が誰よりも考えていてくださいます。あなたは恵まれているのです。あなたのような人生の保証をいただいている人はいません。あなたは主を知っているはずです。なぜなら主を愛しているからです。悪魔の声に惑わされてはいけません。あなたは主を愛しているのでクリスチャンになっているのです。あなたは、この世にあっても、主を信じてどんな時にも信頼していればいいのです。困れば、あなたは自然と主を呼ぶでしょう。そうすれば、主が答えてくださると知っているからです。あなたがこの世で苦しむことがあっても、そのあなたに寄り添って主が共にいてくださいます。それだけで、耐えることができるし、苦しみに打ち勝つことだってできるのです。あなたは、本当に恵まれて人なのです。主の救いは真実で、あなたは主から誉れを受けることになっているのです。それなのに、何を恐れているのですか。主を褒めたたましょう。主があなたを支えていてくださるのですから。

 

5月19日(月)

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下せ」と言っても、言うことを聞くであろう。

ルカ17:5、6

 

さて、信仰の話です。使徒たちが願ったことは、私たちも同じように祈ったりしています。ですから、「信仰を増してください」と主に願うことに問題があるようには感じないでしょう。ところが、主はその使徒たちの願いをかなえることはありませんでした。そして、後半の「からし種一粒ほどの信仰があれば」とお話になりました。これはどのような意味でしょうか。どうしても、からし種の大きさに気が取られて、弟子たちの信仰のなさを叱っていたと取る人たちが結構いるのです。よく考えてみるとわかります。私たちは「信仰」を誤って理解しているのです。それは、信仰経験を積んだり、修養の生活を通してだんだん信仰が増し加えられていくようなもの、信仰は成長し、初めは小さな信仰でも、だんだん大きく成長していくものだ、と勘違いしているのです。それは、筋トレのように、初めは1kgのダンベルから初めて、やがて10kg、20kgとだんだん重いダンベルを使えるようになって、筋力を増すのと同じように信仰を考えているのです。これが使徒たちの理解でしたが、私たちも同様です。ところがイエス様の説明を聞いてみると、信仰は大きさには一切関係ないと言うことです。信仰の力はありえないほどの奇跡を起こすことができます。それは、信仰があるか無いかということでしかありません。Aさんの信仰はBさんの信仰より大きい、というような種類のものではありません。あれば、どんな奇跡をも生み出せるが、なければ何も起こらない、と言うことだけです。だから、からし種一粒というこの世で最も小さなものの比喩を使ったのです。自分の信仰は本当に小さいのです、と言っても、誰よりも大きな信仰を持っています、と言っても、同じ奇跡を起こし、同じ結果を残せるのです。つまり、信仰というものはそういうものだからです。だから、私たちが信仰を増し加えてください、というのは信仰のコンディションをもっと良くしてください、とか、もっと信心深くしてください、という情緒的な意味なのです。信仰というものは、ダイナマイトのようなものなのです。大きくても小さくても爆発するということです。ですから、信仰があるかないかが問題なのです。あなたがクリスチャンであれば、信仰はあります。そうであれば、爆発させたことがあるか無いかということだけです。

 

 5月20日(火)

なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。

Ⅰテサロニケ1:5

 

キリスト教の使命は、全世界に福音を述べ伝えることです。日本では、いまだに福音を聞いたことのない人が大半です。日本のように極端にキリスト教が広がらない国は珍しいのですが、その厚い壁を突破しなければなりません。そのために、誰でもができることは、祈ることです。祈りが足りないのは事実です。しかし、それよりも問題なのは、新約聖書時代の教会のように発展していかないことです。これらの時代に特徴的だったのは、パウロのような伝道者も奇跡をおこなったり、力の業をこなっていたのです。つまり、癒しや預言を語り、死人をよみがえらせたりしました。まるで、キリストのように重要な場面で奇跡が行われていたのです。日本人は、簡単には人の話を信じません。宗教は人口の数より多く、カルト教団も次々に現れます。新興宗教でも成功して有名になったところが少なくありません。よく考えれば、日本人のように優秀な人たちがなぜ、あのようなカルトに従ってしまうのだろうと不思議に思うほどです。それに比べ、キリスト教会は伝道が進んでいません。一番の問題は、聖霊の賜物が現れないことかもしれません。聖霊のバプテスマが軽視され、聖霊の力によって伝道を進展させることができません。私たちが反省するべきは、初心に戻り、初代教会に習っていまだ伝道地である日本を「力と聖霊と強い確信とに」よって福音を伝えることが肝心なことではないでしょうか。そのために、祈りが必要なのです。

 

5月21日(水)

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福を持って私たちを祝福してくださいました。

エペソ1:3

 

霊は目には見えません。そこで、霊的祝福というものは目には見えない祝福ということになります。しかし、それがとてつもなく大きな祝福であることはわかると思います。目には見えなくても、何も無いということではなくて、実態があります。元々は天にあるものですから、この世の朽ちていくような物とは訳が違います。さらに、クリスチャンになって霊的命を回復していただいた皆さんは、聖霊の恵みにあずかっているのですから、わかるはずです。肉にはわかりませんが、皆さんはすでに肉の内にはいません。肉が影響を及ぼさないということではありませんが、霊的祝福を受けると、聖霊の内にいることがわかるようになるのです。それこそが、肉と罪に勝つ秘訣です。ですから、クリスチャンの皆さんは、祝福されているという意味を正しく理解していることが肝心なのです。それにしても、「天にあるすべての霊的祝福を持って私たちを祝福してくださいました」と書かれていることを忘れてはいけません。これは、破格なことです。神の御子イエス・キリストと同じように、神の子になったという意味でもあるのです。そこで、あなたは天の霊的祝福を受けた神の子というわけです。そのことを瞑想してみましょう。

 

 5月22日(木)

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ローマ8:28

 

キリスト教の素晴らしい点は、神を愛し、神に愛され、と愛が中心に置かれている宗教なのです。さらには、クリスチャンになる人は、神のご計画に従って召された人々なのです。これは、人間の考えを遥かに超えた神の範疇であって、人間にはその超越したものは理解が及びません。しかし、確かなことは、あなたは偶然にクリスチャンになったのではないということです。神があなたを愛し、救うとキリストにあって決められたのです。ですから、あなたは素晴らしい特権にあずかっています。その最たるものは、「神がすべてのことを働かせて益としてくださること」なのです。ですから、あなたの人生に偶然はありません。あなたの人生は素晴らしいゴールに向かい整えられています。あなた自身も生まれたままの状態ではなく、キリストのようになるまでに成長し、変わるのです。そのためには、あなたに関わるすべてのことを働かせて益としてくださるのです。そのことを知ったなら、あなたはいい加減に生きることはできなくなります。あなたは神の領域で成長できるのです。自分で頑張って生きることもできますが、神を信頼して信仰で生きる道もあるのです。そこでは、常識は役に立ちません。あなたが神を信じているなら、何も心配いりません。人間の常識はあなたには役に立たないのです。全てが神との関わりで恵みに変わるのです。困っている人を助けることもできるし、親切な人として生きることもできます。働き者でも構わないし、詩人にすらなることができます。とにかく、何をしようとも、全てが合い働き益となるのです。これがクリスチャンなのです。神に感謝しましょう。

 

5月23日(金)

風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。

ヨハネ3:8

 

聖霊によってあ新しく生まれるということが聖書に書かれています。しかも、それはイエスご自身が教えられていることなのです。水と霊とから生まれなければ、と二つの洗礼を通して起こる神の偉大な御業があって、人は新しく生まれることになっているのです。それは、アダムが罪を犯して人間にあった霊の命が死に、肉の命だけになってしまったのです。ですから、神にかたどって創造された人間は、不良品のように正常ではなくなってしまいました。そこには罪が存在して、そそのかす悪魔によって罪を量産する者となってしまったのです。ですから、キリストを通して人間を救う計画では霊の命の回復がなければなりませんでした。それによって完全になれるからです。実際には、肉の中に生きていた私が、キリストに贖われて解放されます。つまり、肉の外に出られたのです。そればかりか、聖霊が送られてきて、その聖霊と繋がり、聖霊の内に生きることができるようになりました。肉の中にあった時のことはわかりますが、聖霊の中にいるとどうなるのか知りません。初めての経験です。そして、クリスチャンは聖霊の働きによって完全になるので、聖霊に導かれて生きて行くのですが、聖霊のことを知らないのです。そのために、なんとかしようとしても、それは風のようなものなのです。風をとらえることができないように、聖霊も私たちがコントロールすることはできません。ただ、風に吹かれて飛んでいくようなものなのです。そうなると、大切なことは、主への従順、神への信頼、イエスへの信仰、そして自分の命となってくださった聖霊に服従することが大切なのです。そうやって、神の子の完全に至るのです。

 

5月24日(土)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

Ⅰペテロ1:23

 

人は言葉で考え、言葉で思い、その言葉の通りになって行くのです。しかし、言葉には二種類あるのです。一つは、この世界の人々が普通に使っている言葉です。もう一つは、「神のことば」です。前者は朽ちる種に例えている通りに、人を新しく生まれさせるような力はありません。しかし、神のことばは人を新しく生まれさせるのです。事実、あなたは新しく生まれました。あなたがしたことは、神のことばを信じて自分の心に蒔いたことです。そこから、全てが始まりました。人間が罪人であること、この罪を人間は誰一人打ち負かし、解放されることができません。罪の結果は死です。ですから、助け主によって救ってもらう必要がありました。その方はイエス・キリストといって、十字架にかかり私たちの罪の贖いとなるという驚くべき救いを実現し、信じる者を救うことができるのです。死は恐怖でしたが、キリストは復活し、死をも打ち破り、私たちを死から解放しました。さらに、私たちに罪を犯すようにそそのかす敵であるサタンをも打ち破り、サタンの支配からも解放してくださったのです。これらは、聖書から学びました。つまり、神のことばによって、私たちは救いへと導かれ、実際に信仰を得て、キリストを信じて救われました。それは、罪人としては死に、新しい人、義人へと生まれたのです。私たちを聖書は聖徒と呼び、さらに神の子と明確に呼んでいます。ですから、聖書を私たちは読みます。調べているのです。そこに私たちの救いに必要なことが全て書かれているからです。その神のことばを信じて、新しく生まれたように、さらに完全になろうとしているのです。

 

 5月25日(日)

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことどとく知っておられます。

詩篇139:1~3

 

私たちと神との関係とはどのようなものなのか気になりませんか。私たちは、神に愛されていると聖書から知りました。また、信仰生活が長くなれば、個人的な体験として神に愛されていると知るようになります。それでも、地球上の三人に一人がクリスチャンなので神は多忙であろうと考え、私のような者のことなど、いちいち気にかけていることなどできないだろうと勝手に想像しているかもしれません。幸いなことに、神はもっと大きな存在で、地球上の全ての人を一人の人を見ているように見ることができるのです。ですから、あなたのこともご自分の子供として愛し、その日々の生活全般を見ていてくださるのです。それは、間違った方向へ向かわないように、日々の暮らしが安全で楽しいものとなるように、恵みで周りを囲っておられるような具合に、あなたのこともしっかり見守っていてくださいます。これは、裁くためではなく、あなたと神との関係が父と子の関係になっているからです。 ですから心配せずに、正しい信仰の道を雄々しく歩んで行きましょう。

 

5月26日(月)

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

ホセア6:3

 

私がまだ若かった頃に、教会でリバイバルという言葉を聞きました。それはとてもワクワクするようなすごいことが起こるという意味で聞かされたのです。そして、本の中にもリバイバルという文字が際立っていて、説教者がリバイバルと言えば、それを求めることが良いことだと理解していました。しかし、実際、リバイバルが具体的には何か知らなかったのです。そのうち、覚醒という言葉を聞いて、信仰が覚醒することがリバイバルということなのだと、理解しましたが、それがどんなことであるかは知りませんでした。そして、自分が所属していたアメリカの教会がリバイバルから生まれた教会であることを知りました。その記録を読んでみると、聖霊が大量に広範囲に降ってくることであることがわかりました。確かに、聖霊に満たされることが素晴らしいことであるとキリスト教書籍から学び、それを求めて祈るようになり、とうとう、聖霊の満たしを経験しましたが、ほんの二、三日で聖霊に満たされた感覚は消えていきました。それから時が経って、またキリスト教書籍を調べて、聖霊による信仰覚醒を求めて祈りが始まりました。その時も聖霊に満たされましたが今度は一週間ほどで消えていきました。どうしたら、継続的に聖霊に満たされるかを研究しましたが、その答えを得たのは、数年後でした。そこで、神様は聖霊のバプテスマを教えてくださり、事実、聖霊のバプテスマを受けたのです。異言も出てきて、聖霊が降る経験も二度あり、異言が変わりました。新しい言葉になったのです。そして、信仰が覚醒して、信じることが全く変わりました。そのことは、さまざまな奇跡や霊的体験に繋がりました。これはクリスチャンにとって是非経験されるべき霊的体験です。しかし、そう簡単ではありません。そこで、わかったのはリバイバルは広範囲に大雨が降るようなことなので、特に聖霊を求めていない人にも降ります。さらには、未信者にも聖霊が降るのです。このようなことが起これば、犯罪者すらいなくなると報告されています。聖霊に満たされるのは、主を知ることなのです。今日の聖句は、リバイバルを預言しています。このような聖句を読み上げ、信じて祈ることが大切です。日本にリババルが起こるように、祈りましょう。

 

 5月27日(火)

あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

ヨハネ16:24

 

あなたは、イエス様に何かをくださいと求めたことがあるだろうか。ちょっと想像してみよう。昔にタイムスリップして、あの使徒たちと呼ばれた弟子たちの中に入って、イエス様と旅をしている自分がいると想像してみるのだ。毎日が刺激的で、奇跡を始めて見た時は震えが止まらないくらい驚くだろう。生まれつきの盲人がイエス様に願って目が見えるようになった時、その人の表情が驚きに変わるのだ。人生で始めて光を見て驚き、その中に初めは木のように見える人の姿が映ってくる、その感激が共感できるだろう。そうした日々の中で、突然イエス様が今日の御言葉のようにお語りになるのだ。「求めなさい」。さあ、ここでよく考えよう。一体何を求めればいいのだろう。お金とか贅沢品を求めれば、下品だし、まだ肉欲に支配されているのかと叱られそうだ。そもそも、物を求めてもいいのだろうか。どんな物も天に持って行くことができなのというのに・・・。どんなに良い物でも、盗まれる心配や時間と共に色褪せて朽ちて行くような物を求めてはいけない気がする。では、良い品性を求めたらどうだろう。それは、ガラテヤ書に書かれている通りに、聖霊の実として与えられるものだ。それでは、目が開けてもっと賢くなるようにしてくださいと求めるのはどうだろう。いやいや、それこそがエバがヘビに騙されて罪が人間に入ってきた原因だった。では、偉くなるようにというのも違う気がする。長生きできるようにという願いも、そもそも100歳が珍しくなくなった今では、意味がない。それどころか、大変なことだ。では、愛を求めたらどうだろう。それは、すでに神様がイエス様を通して与えてくださったではないか。・・・そもそも、御言葉は何と言っているだろう。「それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」と書いているではないか。自分が喜び、その喜びが満ち満ちたものとなるために何を求めたらいいのだろう。この答えを今日は考えてみてください。それが答えです。

 

 5月28日(水)

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合うようになさい。

Ⅰペトロ1:22

 

あなたはイエス・キリストに従っていると思っているはずです。ところが、ここでは「真理に従う」とあって、戸惑うかもしれません。それとも、特に引っかかることもなく読んでいたかもしれません。さて、この聖句が重要であることは間違いありません。そこで、続きを読んで初めの問題を解決しておきたいと思います。「たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」とありますから、これらが自分にとっていつ起こったか考えてみればいいのです。やはり、イエス・キリストを信じて従うようになってからのことだと思えば、従うことを意識してみましょう。確かに、イエスは私は真理であると言っています。イエスがお語りになったことも御業も真理です。また、もっと広くは聖書の御言葉も真理と言われています。結局、イエスを信じているからこそ、イエスの教えに従いたいと思うし、聖書そのものが私たちの心に直接に影響し、従う信仰があれば、心に蒔かれた御言葉の種は育つはずです。その成長は従うかどうかにかかっているのです。そして、その成果は、「互いに心から熱く愛し合うように」なっているかどうかで判断すれば良いわけです。ただ、すぐにこのようにうまく行くわけでもありません。そこで、互いに愛し合うことの意味の中に互いに赦し合うことも含まれているのです。こうして、教会員がキリストの体として結合し、一体となって天国へ行くのです。

 

5月29日(木)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ3:15

 

平和のありがたさは、平和の時にはわからないものです。しかし、神の御心は平和を作ることですから、平和を作り出す人は大いに主に祝福されるのです。神は、弱い人間が救われるために最善を尽くされました。ですから、私たちが考えているほどのことを神がしてくださったのではなく、それを遥かに超えるほどの、人智が及ばないほどの救済策を考え実行されたのです。その中で、クリスチャンになれた人たちが、未完成であることから、完成へと導かれて行くことは明らかです。その中に、実は今日の聖句のことも含まれているのです。教会はクリスチャンがキリストを頭として一体となっている姿のことです。この教会が未完成の人たちが信仰を成長させ、砕かれていないものを砕く場となっているとすると、争いが起こりやすいことが想像されます。そこで、個々の心にキリストの平和が支配するように命じたのです。キリストの平和が心を支配していれば、一体は完成へと近づくでしょう。決して、バラバラになったり、不和が生じることはありません。そこで、私たちはキリストの平和が心を支配するように意識する必要があります。これは、一人では難しくても、教会員同士が一つの体であることを理解して、互いにキリストの平和を実現すると決めて、支え合い、励まし合うわけです。弱い人を思いやり、支えます。「感謝の心を持つ人になりなさい」と命じられていることも忘れてはいけません。よく考えればわかりますが、感謝の心が多種多様な人々を一体にするのです。このようにして一人の人のようになった教会は、御国への道を進むことができ、必ずやたどり着くでしょう。その教会の一員であることを感謝したいと思います。 

 

5月30日(金)

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16:33

 

私たちは、イエス・キリストの物語を知っています。ですから、今日の御言葉の意味もわかります。「わたしはすでに世に勝った」と主は言われました。主が世に勝ったと言われたのですから、勝敗は決まったのです。敵が未だ往生際が悪くて、負けに抗っていても、主が語れたことで、すでに決着がついてしまったのです。ですから、この世で生きている私たちは、敵の攻撃に遭ったり、失望するようなことが起こっても、がっかりしてはいけません。昔、グアムに行った時に、旧日本軍の横井さんが終戦を知らずに何年間も隠れていた穴を見に行きました。こんな所に隠れていたのかと愕然としましたが、横井さんが気の毒になりました。勝敗がついたことを分からなかったから、辛い人生を送ることになったのですね。私たちクリスチャンが同じように主が勝利されたのに、知らなかった人のように悲観して生きていてはいけないのです。患難があっても、辛いことがあっても、信仰が弱ってしまわないように、主の勝利を宣言しましょう。そして、主の側にいるのですから、大いに主をほめたたえましょう。主は、私たちに「勇敢でありなさい」とおっしゃいました。ですから、信仰に硬く立ち、勇敢でありたいと思います。その報いは、主から来ます。

 

 5月31日(土)

悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。

詩篇32:10

 

聖書を学ぶまでは、この聖句のようには考えていなかったと思います。悪者は決して心が痛むことがないと思っていたのです。そうでなければ、悪いことなどできるはずがないと考えていたのです。しかし、人生をクリスチャンとして長く生きてみると、人間には心の痛みが避けられないものなのだと悟りました。そして、悪いことをする人には、多くの心の痛みがあることも真実なのです。普通の人でも、過去を公開して心が痛むことが多々あるのですから、悪者はどれほど大変でしょう。私たちは、心で何でも考えるのですから、クリスチャンのように愛すること、善を行うこと、弱い人を助けること、誰に対しても親切であること、正直で誠実であること、何度でも赦すことができると、心で考えることも悪いことではなく、良いことを考えることができるのです。クリスチャンも戦いがあるのですが、それは肉を十字架につけることですが、実際にはすぐに肉的要求を満たしては後悔することになります。肉的な人は、劣等感、不安、不満足、罪悪感、心配、猜疑心といった感情に負けずに信仰で勝利して行くことです。そうすれば、心の痛みは無くなります。そして、信仰者であることの意味は、「恵みが、その人を取り囲む」ことなのです。主は、喜んでそうしてくださいます。ですから、肉の要求を払いのけ、主を信頼する者でいてください。主の恵みに満足することがとても大切なことなのです。